昭和の電車 改訂版(243)ー京阪1000系ー 投稿日時: 2022年1月5日 投稿者: 米手作市 無印不良品さんが、元社員の経験からレポートされています。 「京阪1000型」に便乗 西村雅幸さんのレポートです。 お世話になった京阪1000系 関連記事: 昭和の電車 改訂版(208)ー京阪電鉄京津線80型ー 昭和の電車 改訂版(157)ー京王電軌23型ー 昭和の電車 改訂版(98)ー大阪市電3001型ー 昭和の電車 改訂版(84)ー阪神1001型ー 昭和の電車 改訂版(41)ー京阪スーパーカー2000系ー 昭和の電車 改訂版(29)ー京成電鉄1600型ー 昭和の電車 改訂版(18)ー奈良電クハボ600型ー 昭和の電車 改訂版(14)ー阪急電鉄202号ー
Gordon Davis氏のモノクロ写真から1枚。昭和31年頃、地平時代の京橋附近(?)を走る3連です。小生は大阪の地理に不案内ですが、遠くに大阪市電が見えることから、市電と京阪の平面交叉があったと云う、片町駅(後に廃止)の大阪寄りではないかと思うのだが、如何でしょう。 返信 ↓
米手作市さま 皆さま 新年おめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。暫く休眠していて失礼しました。 さて初夢で1000号を見たような見なかったような、寝覚めの悪さを感じていたところ、まさか本稿のお告げだったのかもしれません。 「何かコメントを~」とのお告げが微かに耳に残ったようですので、久しぶりにお邪魔させていただきます。 とはいえすぐ思いついた「先頭は1010」などのエピソードは既に前回2018年にご披露していますので、今回は片町駅についてちょっとばかり触れさせていただきます。 宮崎様投稿のお写真はご指摘のように片町駅の西方だと思われます。電車の左にちょっと特徴のある建物がありますが、これは市長公邸の建物だと思われ、今でも現存していて高架の現在線からも見えるはずです。 さて何を隠そう小生もリアルタイムで体験していた一人でした。4回生の夏休みに縁あって都島本通り(梅田、天満橋、守口の各方面路線の結節点でした)へ京都・金閣寺近くの自宅からアルバイトに通っていました。通勤?ルートは当然ながら京阪特急を利用して京橋で各停接続のうえ片町で大阪市電守口行に乗り換えていました。 どうでもいいことですが、帰宅時は夕方のラッシュ時とぶつかるため、片町から一旦淀屋橋行に乗車、特急で三条へ戻っておりました。 ところで米手さま、大阪市内に市電との平面交差があるとは知らなんだ、とは聞き捨てなりませんぞ。一応京阪連に属されていた方のお言葉とはとても思えません。いやそれだけでなく由緒正しきDRFCの元会長のお言葉とも。それでは京阪を知らなかったと同然やないですか。なんとも情けなく恥ずかしい! ま、とにかく大阪でも伏見稲荷同様、徐行でゴトゴトゴトと渡っておりましたことを証明致します。 返信 ↓
突然に春眠から目覚めた1900生さんからの罵声に飛び上がり、襟を正しました。が、歳のせいか物忘れが激しく、今日も友人に年賀状を送ったのかが分からず、電話で確かめたほどです。幸い出していたことが分かり、安心しています。 というわけで、「京阪連に属していた」とか「会長であった」とか、昔のことは覚えておりません。いわんや京橋が地上駅であったことや、終点が天満橋だった、などは思い出せません。写真でも見れば思い出すかも知れませんが・・・ とにかく、私は大阪へは省線こと『国鉄』を使って行き来しておりました。 それにしても1900生さんは無印不良品さんや大阪通信員さんと同年代とは知りませんでした! 返信 ↓
新年草々、1900生さまには、小生の推測を裏付けて頂いたばかりか、色々と御説明頂き、有難う存じました。あれこれ推理する書斎の鉄道ファンも楽しいですが、実際に現場を見た方のお話を伺うのが一番です! そこでスレッドの本筋から、横道に入りますが、話題の京阪と大阪市電の平面交叉をDavisさんが撮っているので、お目に掛けます。前出の1100系と同日の撮影でしょう。大阪市電は写っていないのが残念ですが、線路や架線で状況は判ります。左端に踏切番の叔父さんや、警手小屋も見えますが、昔とは云え、遮断機のない踏切で、自動車との衝突など、起きなかったのだろうかと、心配になります。 返信 ↓
写真の右側片町駅の斜め後方100mぐらいに国鉄片町線の片町駅がありました。路線名になるほどの駅でしたが立地が悪く大阪の秘境駅でした。 京阪には片町・伏見稲荷・七条・四条と市電との平面交差があったのも良き思い出。 返信 ↓
河 昭一郎より 1900生様と米手作市様のヤリトリに思わず噴き出した「冗談好き」の私です。 結局、米手氏がトドメを指した「大阪へは省線こと『国鉄』を使って行き来しておりました。」に、「省線電車⇒国電」派の小生は拍手喝采でした。(笑)(1900様ゴメンなさい。) 返信 ↓
大阪空襲で焼け出され小二まで数年間宇治に住んでいたので中書島駅はよく乗降しました。急カーブの駅で停車した電車の床は傾き、床とホームの間はひどく開いていて子供心には乗り降りが怖かったのを覚えています。同じように三条駅が川の上で乗り降りのときに下に川が流れてたのも怖かったですね。 大阪~宇治・京都で1000系にもたくさん乗りました。 当時オレンジとクリームの車体色でした。流線形で、前照灯の左右にある通風口が好きでした。両運転台で製造した理由はなぜなんでしょう。 返信 ↓
昭和35年4月から41年3月まで6年間通学でお世話になりました。
昭和39年11月4日、滝井駅を通過する1007先頭の三条行急行です。
Gordon Davis氏のモノクロ写真から1枚。昭和31年頃、地平時代の京橋附近(?)を走る3連です。小生は大阪の地理に不案内ですが、遠くに大阪市電が見えることから、市電と京阪の平面交叉があったと云う、片町駅(後に廃止)の大阪寄りではないかと思うのだが、如何でしょう。
大阪にも市電と京阪の平面交差があったとは!
これをリアルタイムで見た可能性があるのは、大阪通信員さんぐらいではないでしょうか?
米手作市さま 皆さま
新年おめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。暫く休眠していて失礼しました。
さて初夢で1000号を見たような見なかったような、寝覚めの悪さを感じていたところ、まさか本稿のお告げだったのかもしれません。
「何かコメントを~」とのお告げが微かに耳に残ったようですので、久しぶりにお邪魔させていただきます。
とはいえすぐ思いついた「先頭は1010」などのエピソードは既に前回2018年にご披露していますので、今回は片町駅についてちょっとばかり触れさせていただきます。
宮崎様投稿のお写真はご指摘のように片町駅の西方だと思われます。電車の左にちょっと特徴のある建物がありますが、これは市長公邸の建物だと思われ、今でも現存していて高架の現在線からも見えるはずです。
さて何を隠そう小生もリアルタイムで体験していた一人でした。4回生の夏休みに縁あって都島本通り(梅田、天満橋、守口の各方面路線の結節点でした)へ京都・金閣寺近くの自宅からアルバイトに通っていました。通勤?ルートは当然ながら京阪特急を利用して京橋で各停接続のうえ片町で大阪市電守口行に乗り換えていました。
どうでもいいことですが、帰宅時は夕方のラッシュ時とぶつかるため、片町から一旦淀屋橋行に乗車、特急で三条へ戻っておりました。
ところで米手さま、大阪市内に市電との平面交差があるとは知らなんだ、とは聞き捨てなりませんぞ。一応京阪連に属されていた方のお言葉とはとても思えません。いやそれだけでなく由緒正しきDRFCの元会長のお言葉とも。それでは京阪を知らなかったと同然やないですか。なんとも情けなく恥ずかしい!
ま、とにかく大阪でも伏見稲荷同様、徐行でゴトゴトゴトと渡っておりましたことを証明致します。
突然に春眠から目覚めた1900生さんからの罵声に飛び上がり、襟を正しました。が、歳のせいか物忘れが激しく、今日も友人に年賀状を送ったのかが分からず、電話で確かめたほどです。幸い出していたことが分かり、安心しています。
というわけで、「京阪連に属していた」とか「会長であった」とか、昔のことは覚えておりません。いわんや京橋が地上駅であったことや、終点が天満橋だった、などは思い出せません。写真でも見れば思い出すかも知れませんが・・・
とにかく、私は大阪へは省線こと『国鉄』を使って行き来しておりました。
それにしても1900生さんは無印不良品さんや大阪通信員さんと同年代とは知りませんでした!
新年草々、1900生さまには、小生の推測を裏付けて頂いたばかりか、色々と御説明頂き、有難う存じました。あれこれ推理する書斎の鉄道ファンも楽しいですが、実際に現場を見た方のお話を伺うのが一番です! そこでスレッドの本筋から、横道に入りますが、話題の京阪と大阪市電の平面交叉をDavisさんが撮っているので、お目に掛けます。前出の1100系と同日の撮影でしょう。大阪市電は写っていないのが残念ですが、線路や架線で状況は判ります。左端に踏切番の叔父さんや、警手小屋も見えますが、昔とは云え、遮断機のない踏切で、自動車との衝突など、起きなかったのだろうかと、心配になります。
写真の右側片町駅の斜め後方100mぐらいに国鉄片町線の片町駅がありました。路線名になるほどの駅でしたが立地が悪く大阪の秘境駅でした。
京阪には片町・伏見稲荷・七条・四条と市電との平面交差があったのも良き思い出。
河 昭一郎より
1900生様と米手作市様のヤリトリに思わず噴き出した「冗談好き」の私です。
結局、米手氏がトドメを指した「大阪へは省線こと『国鉄』を使って行き来しておりました。」に、「省線電車⇒国電」派の小生は拍手喝采でした。(笑)(1900様ゴメンなさい。)
関 三平さんのイラストの1104です。
昭和42年5月5日、中書島駅、三条発宇治行です。
大阪空襲で焼け出され小二まで数年間宇治に住んでいたので中書島駅はよく乗降しました。急カーブの駅で停車した電車の床は傾き、床とホームの間はひどく開いていて子供心には乗り降りが怖かったのを覚えています。同じように三条駅が川の上で乗り降りのときに下に川が流れてたのも怖かったですね。
大阪~宇治・京都で1000系にもたくさん乗りました。
当時オレンジとクリームの車体色でした。流線形で、前照灯の左右にある通風口が好きでした。両運転台で製造した理由はなぜなんでしょう。