カラー版◆大阪通信員さんが撮った 昭和の鉄道 (6)

加太を行く

少し間が開きました。大阪通信員さんが撮られた“昭和の鉄道”を続けます。前回は関西本線の電化区間でしたが、今回は、関西本線の撮影名所地として名高い加太付近です。大阪通信員さんの現役時代には、「小海線を愛する会」と「加太会」と、2つの派閥?があり、ある時は競って、ある時は友好的に活動されたと聞きます。DRFC指定旅館の村田屋とともに、その伝統は引き継がれ、われわれの時代も、加太詣ではまだ続くのです。特急「あすか」(名古屋~東和歌山)もしっかり撮っておられた。昭和40年10月改正で走り始めたが、わずか2年で廃止されている。私も辛うじて加太で走行中を撮ったし、最終日は奈良駅で撮っているが、なにせ高校生の頃、とても人目に晒すような写真ではない。「あすか」は、空気を運んでいた「くろしお」回送を、無理やり客扱いに仕立てたもので、下りは名古屋19:00→東和歌山22:40、上りは東和歌山7:10→名古屋10:50と、わざわざ旅客の有効時間帯を避けて設定したような特急だった(以下、昭和41年撮影)。

朝の加太、シルエットの鈴鹿の峰をバックに蒸機が上って来た。C57のようにも見えるが。この時期、「大和」はDF50に替わっていたはずだから、朝の京都行725レだろうか。▲▲われわれが“舞台”と名付けた直線区間、たしかに舞台の上に立ったように、勾配を上って来る列車の動きが手に取るように分かる。蒸機もいいが、模型を見るようなキハ35の2連も絵になる。大築堤を行くD51の牽く貨物列車、やや低い位置から狙って、迫力が感じられる。大築堤のお立ち台の反対側から、下って来るのは急行「かすが」だろうか。準急色の26・55系も混じるが、28・58系とは、赤帯が同じ幅になっていて、たいへん整った編成だ。中在家信号場、右の着発線で、下り貨物が待避するなか、左の通過線を、D51の補機を連結した上り貨物がゴロゴロ通過して行く。上下とも蒸機の牽く列車が交換する華やかな時代。▲▲右の貨物が、上り貨物通過後、奥の引上げ線に後進したあと、ふたたびドラフトも高らかに、眼前を通過して、柘植に向かう。

 

 

 

 

 

加太を通過するDC急行、先頭は、名鉄局の独自塗装の26・55系、ダブレットキャッチャーにまさに通票が投げ入れられる。下降窓を開けた冷房なしのキロと言い、琺瑯性の方面札と言い、まさに昭和の駅ホームだ。

 

夕方が迫って来た。京都行の727レだろうか、列車の動きに合わせて煙もカーブする。

 

 

 

 

 

同じ場所で同じ列車をとらえても、季節が違うと、全く別の写真になる。これも鉄道写真の醍醐味だ。

カラー版◆大阪通信員さんが撮った 昭和の鉄道 (6)」への26件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員 さま
    特派員として鉄活動にご多忙の中、古いさくらカラー画像を掲示いただき有難う御座います。加太は愛着のあった所で少し追記してみます。
    三枚目 キハ35画像の奥には名阪国道が写っています。1966年当時は建設中で工事関係者で村田屋は特需に沸いていました。加太通いを始めると早朝の蒸機牽引急行大和と725レを撮りたく探し当てたのが村田屋。お世話になりました。後に越後鹿渡の鹿渡館とともにDRFC指定旅館になり宿泊された会員も多いでしょう。
    五枚目 急行色の気動車でもまだキハ28・58は冷房化されていない頃。グリーン車が入っていないのは寂しいですね。その頃は八枚目に写るキロ28でも非冷房だったんです。加太駅での気動車急行の交換風景、駅員さんも多く元気な国鉄が表現され好きな画像の一枚です。
    最後の画像 夜の727列車は春日八郎のデビュー曲「赤いランプの終列車」を思わせるものです。遠い汽笛に薄れる影に一人たたずむプラットホーム・・・の歌詞が思い浮かびます。村田屋の二階客間から撮ったものです。室内灯の蛍光灯化が客車にも始まったのがわかります。余談ですが、YouTubeで東京大衆歌謡楽団の戦前戦後の歌謡曲にはまっています。哀愁列車・高原列車・ああ上野駅など多くの歌謡曲に列車汽車が歌われ国民生活に深く根差していた鉄道を思い浮かべて見ています。

    • 大阪通信員さま
      本家本元の通信員さんから、補足していただき、情報の厚みが加わりました。ありがとうございます。私の認識違いもあると思います。後ろ2点は、同列車としましたが、光線から考えて、朝の列車と、夕方の列車ですね。間違いがありましたら、ビジビシ指摘してください。“赤いランプの終列車”、いいですね。私は古典メロを聴く習慣はないのですが、この曲は大好きです。歌詞だけでなく、間奏がいかにも蒸機の牽く列車を思わせて、大好きです。

    • 大阪通信員さん、青信号特派員さんに異議あり!
      と、いっても本題に関してではありません。
      最下段の写真を評して「春日八郎の“赤いランプの終列車”思い出す、とありますが私は反対です。
      これはどう見ても三橋美智也の“哀愁列車”でしょう。
      “赤いランプの・・”は、プラットフォームから発車した列車の尾灯を見ながら歌っています。“ベルが鳴るベルが鳴る さらばと告げて 手を振る君は 赤いランプの終列車”(大蔵芳郎・作詞)とありますからには、煙をたなびかせて出発していく列車を追いかけて、プラットフォームの先端で尾灯を見つめながら手を振っている女性を彷彿とさせます。やがて静寂が戻り、信号機がガシャンと音を立てて赤に切り替わるのです。←妄想
      このイメージにふさわしい写真を探したのですがありません。特派員さんが九州で撮った写真にあった様に思いますので見て下さい。
      さて、上記の写真は駅間を走っています。これにぴったりな歌詞は“・・こらえきれずに見返れば すがる切ない瞳(め)のような 星が飛ぶ飛ぶ哀愁列車”(横井弘・作詞)でしょう。いかがかな?
      私はこの「星が飛ぶ飛ぶ哀愁列車」のフレーズが特に好きです。

    • 米手作市さん 総本家青信号特派員さん
      春日八郎三橋美智也、お互い齢を重ねましたね。赤いランプの終列車はプラットフォームという歌詞を始め鉄道駅の情景と男女の別れのつらさが良く表わされ哀愁列車とともに好きな歌です。あの写真は加太会で泊まった村田屋の二階客間から撮ったものです。窓を開ければ線路が見える・・・という部屋でレイルビューホテルの元祖みたいな宿です。風呂の窓から手拭い降れば・・・機関士、石炭投げるというほどの線路脇の宿でしたね。汽車の窓からハンケチ振れば牧場の乙女は花束投げる・・・岡本敦郎の唄う高原列車は行くは今夏に永眠された同窓の吉田耕司さんなら小海線を想うでしょうが、磐梯山麓を走ってた日本硫黄沼尻鉄道がモデルなんですね。沼尻鉄道は夏季狂化合宿で訪れました。吉田君と無蓋貨車に乗ってましたね。線路脇で露営していると地元の人から熊が出るからと言われ鎮守の森へ撤退したことを想い出します。

      • さすが清水三重子さんの名付け親だけあってすばらしい!
        オロナイン軟膏三つあげたいぐらいです。
        川桁駅前に「高原列車は行く」の歌碑があるそうですね。私もあの歌の風景は小海線だろうと思っていましたが、まさか沼尻鉄道とは知りませんでした。沼尻なら「花束投げ」なくても手渡せるでしょうにね。

      • 厳密には、ダイハツミゼットではなく、マツダのK360です。ミゼットのライバル車ですね!

        • そうですね、あたまのとんがっているところが微妙に違いますね。テレビで宣伝が流れていたのでミゼットの印象が強かったのです。ダイハツの宣伝効果はすごいですね。

    • 本体のDCもいいです。奈良区のキハユニ16ですね。朝に加太に降り立ち、最初に来る上りDC列車の先頭に連結されていました。朝日がギラリと湘南顔に当たって、いい感じでしたよ。

  2. 大阪通信員様、総本家青信号様 他皆様
    加太会を代表する大阪通信員さんは私がDRFCに入会した時に4回生でした。同じく4回生には先ごろ迄湖畔の暇人とか無印不良品の名称で活躍されていた方が小海線を愛する会の派閥を率いていました。1回生の私は恐れ多くて両派閥には近づけませんでした。因みに私が4回生の時に総本家さんが入ってこられました。さて、小海線へは沖中さん達長老の皆さんと行ったことがありますが、湯口さんの作品を多く拝見していますので創設者は湯口さんだったのかもしれません。以前活躍されていたTsuruさんは加太会だったと思います。その加太ですが関西圏に中在家(信)、柘植とともに好撮影地であったのに無視していたのはD51、C58が多かったからだと思います。加太は大阪、京都から日帰り圏ですが、絶対に高級(?)旅館村田屋に宿泊すべきでした。写真にありますように夜の投炭風景や早朝の旅客列車は見応えがありました。もう一度あの時代に戻ってみたいですね。

    • 「加太会」の存在については、大阪通信員さんの会報用の原稿にも記されていて、この時期のDRFCの代表的な公認団体だったようです。もう一方、少し前に設立された「小海線を愛する会」もありました。やはり蒸機全盛の時代らしい公認団体ですね。いわば、われわれの時代、京阪vs阪急と同じでしょうか。でも、準特急さんに看破されて、誰かが泣きながらBOXから逃げ帰ったような対立はなく、「小海線」と「加太」は、友好的な付き合いをされていたと聞きます。

      • 前田憲三君が設立しようと暗躍したが、失敗に終わったまぼろしの「スハ43を愛する会」もお忘れなく!

        • そんな愛する会が出来ようとしていたんですね。すぐ入会させて貰ったのに。TR47台車を履いたスハ43の重厚な乗り心地は客車急行列車の醍醐味でしたね。

          • 「京都駅実習講座」時に前田君は急行「つるぎ」の編成の美しさに感激して「なんて美しいんだ!」と叫んでこの会を作ろうと決心したようです。
            でも残念ながら、当時は急行といえばスハ43全盛時で、だれも興味を持たなかったのが潰れた原因だと思われます。
            でも、今なら・・・
            早すぎた男・前田憲三でした。

  3. 総本家青信号特派員様、
    揚げ足取りのようで気が引けますが、「あすか」の運転開始は昭和40年3月1日(同日に竜華~杉本町間が開業)で、2年7か月の運転でした。阪和貨物線は、もっと古くからあったものと勝手に思っていましたが、意外と新しい線路だったのですね。現在だと不思議ではないですが、4月ではなく、何故に3月だったのでしょう?
    5枚目の8連のDC急行も圧巻です。前から<キハ58キハ58>のようで、2エンジン車:1エンジン車=7:1と恐ろしい強力な編成です。キハ55がキハ26でも2エンジン車:1エンジン車=4:4=1:1でC5のスジで走れるのでキハ26と思っていたのですが、足回りを見るとどう見てもキハ55のようです。キハ55とキハ26の見分け方をご存知の方がいらっしゃいましたら、是非ともご教示賜りたいものです。
    参考までに、キハ26 17号の写真を貼付しておきます。
    (1983年3月10日、阿波池田駅4番、745D)

    • DC急行の編成が化けてしまったようですので、
      キハ58+キハ28+キハ58+キハ55+キハ55+キハ55+キハ58+キハ58
      ですね。(<、>を付けたのが悪かったのかな?)

      失礼いたしました。

    • 四方様
      “揚げ足取り”などと遠慮せずに、ビジビシ指摘してください。「改正」と聞いてとっさに10月と早とちりしました。調べますと、昭和40年3月は、1日、20日、25日と3回も改正が行われています。いずれも地域限定の改正ですが、昭和39年10月の第二次改正に当たり、本来の改正に間に合わなかった車両増備などが整い次第、順次改正を行ったようです。キハ26・55の見分け方、よく知りません。28・58なら、屋根上の水タンクの有無で分かりますが、26・55はどちらも吊り下げなのですね、

    • 四方誠様
      昭和30年代の後半、龍華操車場近くの学校に通っていましたので、その頃すでに(阪和貨物線)が存在し、阪和線から貨物列車を牽いた電気機関車が操車場に乗り入れしていた記憶があります。調べてみると(阪和貨物線)は、1952年9月1日に開通し、1965年3月1日に旅客営業が開始されたようです。この線が開通するまでは大阪と和歌山を結ぶ貨物列車は、連絡運輸制度を利用して南海電気鉄道の「天王寺-和歌山市」間を「天下茶屋」経由で通過するか、和歌山線を迂回するしか方法がなくこれを解消するために建設されました。東京、千葉間の貨物列車が東武鉄道を利用して「北千住-亀戸」間を「曳舟」経由で通過連絡していたのを解消した(新金貨物線)と生い立ちが似ています。このようなことがあったので東武鉄道と南海電気鉄道は貨物輸送が発達していたのですね。
      この線について苦い思い出があります。1965.8.21の信州旅行の帰りに「名古屋」から下り「あすか」に乗車して(阪和貨物線)を通る行程で計画していたのですが、台風17号に遭遇し静岡からの「こだま117」が遅延し、接続が取れなくなりました。事前に購入した乗車券の経由欄には『関西・短絡・阪和』と記載されていましたが、やむなく「かすが3号」に乗車変更をしました。列車の運行期間が短かったので、その後「あすか」に乗車する機会はありませんでした。

      • 快速つくばね様、
        阪和貨物線の開業日をご教示いただき、ありがとうございます。「あすか」の運転開始日を確認しようとして、誤って「鉄道百年略史」(鉄道図書刊行会)を見てしまったもので、あの路線が昭和40年開業?と少し訝りながらも書いてしまいました。旅客営業の開始日だったのですね。参考までに「鉄道百年略史」の当該頁を貼付しておきます。
        「あすか」にご乗車なれなかったのは残念でしたが、切符裏面の「関西短絡阪和」の記載は貴重ですね。こうような形での記録の残し方もあるものかと、感心いたしました。また、本市場が現在の柚木駅であることも勉強させていただきました。

  4. 米手作市様
    いつも楽しい、また、丁寧なコメントを有難うございます。前田憲三さんは私と同級生ですが「スハ43を愛する会」を立ち上げられ存続していたと思いますが早期に潰れたのは失礼ですが客車の鬼と言われた米手作市さんの支援が少なかったのではないでしょうか。前田さんとは卒業後音信不通の状態で確認のしようがありませんが、スハ43系の編成美に感動されたのは「つるぎ」でなく「立山」と思います。「つるぎ」は1961(昭和36)年10月に大阪-富山間の夜行準急列車でスタートし1963(昭和38)年4月には急行化され寝台車にスハネ30も多く見られた時代もありました。座席車のスハ43やスハフ42とは編成美になるとは思われません。その後、「つるぎ」はブルトレ化されたりしましたが平成8(1996)年に廃止されています。一方、「立山」は1956(昭和31)年に登場した北陸を代表する急行列車です。大阪-富山間の昼行急行列車でスハ43系の編成美を誇る列車でした。中間にスロ54と思われる1等車を2両組み入れていました。1964(昭和39)年3月19日に撮影した大阪発の「立山」です。当時の交直接続駅田村駅に進入する奇異なスタイルの電機ED301[米原]牽引の503列車富山行きです。14時30分田村駅からはED70かEF70に牽引されて富山に向いました。福井は16時8分、終着富山は19時6分です。

  5. もう一つ。同じ日の同じ場所です。D50300[米原]牽引の大阪行き504列車「立山」です。上下の「立山」は田村駅でどちらも14時30分の発車です。当時の米原機関区の交直接続用には1両のED30以外はD50が使われていました。どちらかの「立山」は当然D50になり僅か8分の蒸機牽引急行列車が実現していました。マルーンさんもここは何度か通られたことと思います。

    • 準特急様
       今や貴重な写真を有り難うございます。特にED301牽引やD50牽引の急行「立山」。
      一等車を2両挟んだ長大の客車列車には美しさと郷愁を感じます。
       雪の伊吹山、綺麗ですね!

      • マルーン様
        有難うございます。新幹線が敦賀まで開通して試運転が始まり、どなたか福井県も関西圏から東京の勢力圏に入るのではないかと寂しくなるようなことを書いておられました。この写真のあたりも風景は大きく変わっていないような気がしますが、気が付けばしらさぎしか飛んでいない状況です。私は関ケ原や伊吹山を見るのが好きで新幹線を名古屋で降りて東海道本線の新快速をよく使って関西入りしています。先日は彦根に泊まって石田三成の佐和山城址に登りましたがあまりにも急坂でもう二度と行けないことを実感しました。

  6. 準特急さん
    ご指摘ありがとうございます。
    書きながら、なにか靴の中に小石が入ったような違和感がありましたがこれでしたか。でも「立山」も「つるぎ」も立山連峰に変わりはありませんので気にするほどのことではありません。
    当時京都駅へ行くと1番線(現在の0番線)にきれいに統一された客車列車が入って来ました。スハ43系の客車急行は当時でも珍しかったように思います。
    準特急さんへお詫びとお礼にED301+D50300の写真を差し上げます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください