⑥ 見られなくなった車輌
7年半の間には車輌更新やダイヤ変更などがあり、いまでは見られなくなった車輌がある。一番はEF66だろう。引っ越した当初の2017年はレアながらも比較的良く見かけた。朝、貨物のスジの多い時間帯には確率が高まった。
人気のニーナ通過とあって調子踏切には平日の午前中なのにファンが並んでいた。在宅勤務の仕事を止めて1枚。
JR移行後の貨物列車増発に対応するため、1989~1991年にかけて33両製作されたEF66 100番台。最近はEF210の増備により、牽引貨物もめっきり減っている。100番台はモーター音がほかの機関車と違い、姿が見えなくてもすぐに分かった。
ひだ号は長年キハ85系を使用してきたが2023年3月のダイヤ改正からハイブリッド車のHC85系に変わって、エンジン音が奇妙で面白くなくなった。撮影:2023年3月11日
上りのワイドビューひだ25号は8時20分ごろ通過。土日は自由席を1両増結していた。
1980年頃から1992年頃まで「新快速」としてお馴染みだった117系。最後の活躍は関西地区では湖西線・草津線だった。京都から回送されて向日町で休憩していた。一方向日町以南では運転の機会が少なく、土日を中心とした臨時電車の回送を見るくらいだった。(続く)
勘秀峰様
EF66は東海道・山陽路の機関車とばかり思っていましたが例のハスヒガ(蓮田-東大宮間はあまりにも有名な撮影地で皆こう呼んでいたと思います)でカシオペアや北斗星を撮っていた時間帯に吹田のEF66の上りが3本も来ました。現地10時50分に通過した吹田のEF6623です。北限は黒磯だったと思います。貨物の運用のことはよくわかりませんがもういなくなったと思います。勘秀峰さんが関東におられた頃に撮られましたかな。
すみません。撮影は2010年11月2日です。
準特急様
「ハスヒガ」の66の写真、ありがとうございます。私が長く東京で勤めていた会社の工場が久喜・加須にあり、一時は久喜に事務所があったので、大宮~久喜間の東北本線は良く乗りました。東大宮~蓮田間の撮影地は背後が雑木林になって、常にカメラマンの姿がありました。
仕事でカメラ持参の帰りがけ、久喜で「パック」が単機で停まっていたので、これ幸いとシャッターを切りました。平成3年、1991年6月でした。
準特急さま
東北本線のEF66運用は仰る通り黒磯まででした。東北線から運用が消えた今春改正までは宇都宮貨物Tまでで、夕方に下りが1本だけ(撮影可能時間帯では)でしたが、2009年5月頃はまだ数本ありました。蒲須坂で北斗星、EF64・65・66等を撮りましたが、当時は数時間居ても色んな列車が来るので飽きることはありませんでした。一度ハスヒガも行くには行きましたが、途中で道に迷って遅くなり、かろうじて65の原色を手持ちで撮っただけでした。地図を片手にそれを読みながら行くのは自信がありましたが、時に地球の磁方位が狂うのか体調によるのか、勘が働かないことがありました。
1900生様
EF66が黒磯までの運用があった情報、ありがとうございます。
ハスヒガは蓮田駅からは直線距離1.5キロほどで、電車に乗っておればすぐですが1990年代、周辺は宅地化されておらず、農道が無秩序に入り組んでいましたから、お迷いになられたのも無理はなかったでしょう。私が東北本線を仕事で使っていたのは2008年11月までですから、その後変わっているかも知れませんね。
写真は蓮田駅で待避している時に通過したつばさ号。1991年です。
勘秀峰様
1900生様
ハスヒガは大宮から近い場所ですが、割合無難な走行写真が撮れました。しかし、いつ行っても皆同じように三脚、望遠レンズを使って同じ角度で同じ様な列車を撮っていました。関西ではこういうのを「アホの一つ覚え」とか言ってませんでしたか。中には邪魔にならない位置で各種車両の横からの流し撮りをする人もいました。私もその一人でした。ここが有名になる前は蓮田の反対側白岡寄りの大カーブのあたりが有名でしたが住宅の密集で今は撮りに行く人もいません。1966年12月30日にその場所で撮影した宇都宮区の上りEF12のトップナンバーです。カーブでなく直線区間に入ったつまらん写真ですが貼り付けました。同区にはこの時期には旅客用のEF56、EF57、EF58、貨物用のEF12、EF15等興味ある機関車が数多く見られました。D51も見かけました。勿論、東北本線の交直両用の特急、急行列車群、各停用の115系等の全盛期で飽きることはありませんでした。
準特急さま
EF12ですか。小生には正直馴染みがなくて申し訳ありません。EF10・11は飯田線南部で8㎜に収めましたし、EF13は小海線へC56詣でをしていた際に中央東線でよく見かけました。EF15は梅小路南側の線路傍で新製のピカピカを間近で見ていました。また晩年に紀勢西線の転属機をかろうじてビデオ(VHSですが)で撮っています。また東北線の直流機は、実機は知りませんが雑誌等で見たEF56・57・58のイメージが強いですね。
ところで「アホの一つ覚え」、よく聞きました。関西人にはこのニュアンスがわかる特有の言い回しではなかったでしょうか。想い出すのは大先輩のY谷さんが雑誌に投稿された記事中で、この種表現で議論が巻き起こったことです。このニュアンスをご存じなかったのか、真正面から捉えられた方から顰蹙をかったものでした。TV(よしもと東上を含む)や新幹線による人的交流などで、当時よりははるかに東西の距離感が縮まった現在ではそういう誤解も少なくなったでしょうが、表現には気を付けたいものと自戒しています。
1900生様
大先輩のY谷さん、文章が面白くてひきつけられました。どこかで食いつかれたのは覚えています。あの時代にインバウンドが多く居たら英語のうまい市電運転士あるいは地下鉄の案内係で有名になっていたことでしょう。ところで「アホ」なんて日常茶飯事普通に使ってました。「ドアホ」とか「アホンダラ」等は当時不人気だったプロ野球のパ・リーグ外野席ではよく聞きました。贔屓にしていました「かしまし三人娘」の正司照枝さんも先月亡くなられ寂しいかぎりです。関西の漫才は終わる時には「そんなアホな!」で終わることが多かったようです。閉めの軽い言葉だったのでしょう。本題のEF12はEF10の後継機として関東地区に多かったようです。関西では国産初期のEF52が阪和線で有名でしたが、9両製造の最後の2両が歯車比を変更してEF54に、そして後にEF14となり中央東線にもいましたが最後は大阪駅構内で地味な入れ換え作業に従事していました。見た人もおられると思います。1962年10月2日通りすがりの大阪駅で撮ったパンタを降ろした休憩中のEF142[吹田第二]です。
準特急様
1900生様
種々のコメント、ありがとうございます。私が現役時代の、大先輩のY谷さんはDRFC主催のコンパに足繁く顔をお出しになられて、大西先生や現役生と話をするのが好きでした。「酒を飲んで好きな電車の話をするのは最高や」が口ぐせでした。私は雑誌や新聞などでお名前を知っているY谷さんに声をかけられると舞い上がっておりました。1~2回生で昭和49年~50年ごろです。
Y谷さんは、青にもよく寄稿されていました。「イージーゴーイング」シリーズや、場合によっては補機にもお出しになられたと思います。鉄道・紀行雑誌の原稿は「青か補機の内容がベースになってるんや」と昔、聞いたことがあります。
準特急さま 勘秀峰さま
EF10クラス機関車の形式説明を有難うございました。EF14をよく知らなかったのですが、そういえば朧気ながら見聞きしたような気がします。大阪駅でしっかり記録されているのはさすがですね。
関西漫才の締めはいまでも「そんなアホな」が多いですね。「もうええわ」もあります。関西で言う「アホ」は本来の相手を罵る意味ではないようですが、言葉の機微がわからないとややこしいことになりますね。
小生が在学していた頃のY谷さんも勘秀峰さまの頃と同じでした。コンパで初めてお目にかかった時の印象は「ケッタイなおっさん」でしたが、何度か顔を合わせるうちにそのフランクなお人柄に惹かれていきました。SL撮影記の「スカタン列車」シリーズなどは、私にはSL撮影の教本になりました。