ここらで ボンネットバス  近畿編 〈12〉

江若交通⑦ 和邇途中線(2)

江若交通のボンネット路線のひとつ、和邇途中線をもう一回、載せます。

県道311号(途中志賀線)を走って来た途中行きのバスは、「出口」付近から旧道に入って、集落のある「下龍華」へ向かう。まさに“ボンネットバスの里”と呼ぶにふさわしい風景が続いていた(昭和55、56年撮影)。

旧道に入った直後は、しばらく田園風景が続く、なだらかな道を上がって行く。背後は蓬莱山、まだカーレーターの白い筋が山頂まで続いている。

集落のなかに入って来た。左手に「下龍華」のバス停標識が見える。付近の人たちにとっては、一日3往復のバスが唯一の足だった。和邇川に沿って、曲がりくねった狭い道を上がって行く。小高い丘から、ボンネットを眺める。向こうに県道311号が見える。通過車両は、すべて311号を行くから、バスは悠々と走る。先日、紫の1863さんのクルマに乗せてもらい、懐かしい道を走ったが、沿線の風景はボンネット時代と変わっていなかった。「途中」を出た和邇行きは、「還来神社前」で左に折れて、朱塗りの橋を渡り、下龍華方面に向かう。すぐ還来神社があって、桜の頃は絶好の撮影ポイントだった。

和邇栗原線

もうひとつ、「栗原口」から分岐して、「栗原」へ向かう系統もボンネットバスで3往復が運転されていました。栗原の先に宗教団体、妙道会教団の聖地があり、ここまでの系統は、一般のワンマン車で運転され、毎月11日の祭礼時は、和邇駅、堅田駅から臨時の直行バスが増発されました。和邇途中線の「栗原口」で右手に折れて、すぐに“栗原の大築堤”を行く。高台に上ると、冠雪した比良の山並みが見えた。この付近、現在の湖西道路の和邇インターのすぐ近くで、道の駅ができたりして、すっかり様相が変わっている。栗原の集落に入り、終点に近づく。和邇を出て、わずか10分の乗車時間だった。

「栗原」に到着、ここでも三叉路で巧みにハンドルを操って折り返す。▲▲「臨 堅田駅」を表示した、妙道会教団の祭礼時の臨時バス。「栗原」で発車を待つ和邇駅行き。左は復活ボンネットで訪れた、その後の「栗原」、商店も無くなり、すっかり静かな集落になっていた。和邇小学校前から乗車した小学生も重要な乗客、と言うか、和邇発が8:14、12:58、15:45の3本の運用は、完全に小学生の通学に合わせたダイヤだった。

 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈12〉」への13件のフィードバック

  1. 情感があふれる写真を拝見し、猛烈に感動しております。ボンネットバスが走るのどかな山里は、失われてしまった日本の原風景を見るようです。また、巧みに配された人物が素晴らしい! 下龍華のバス停に写るお母さんの手には、子供用らしき傘が見えます。お子さんを迎えに来たのでしょうか? 桜が咲く還来神社そばの橋を渡るボンネットバスの写真には、ランドセルを背負った小学生の女の子が二人写っています。いやあ、実に素晴らしい!
    総本家様の写真に感動し、性懲りもなく行ってきました。下龍華のバス停は311号が拡幅されたのか、面影もありませんでした。ところが先日Tさんに案内していただいたスグ近くに、「上龍華」のバス停を発見。バスの転向所もあって、伊香立小学校行きのバスが運行されているようです。時刻表には8:02・15:25・16:05の3本が書いてありましたが、運行日は伊香立小学校の登校日のみで、通学バスに特化しているようです。地方では一家に一台のクルマは当たり前で、一人一台プラス作業用の軽トラを持つ家も少なくないとか。クルマなしでは生活が困難なようです。
    添付の画像は今日の「上龍華」バス停付近です。

    • 紫の1863様
      はい、紫の1863さんには、クルマに乗せてもらったうえ、猛烈に感動までさせてしまいました。でも、写真を細部までよく見ていただき、私も感動しています。下龍華のバス停前のご婦人の傘は、当日の雪のため、自分用かとも思いますが、子どもの迎えかと考えると、さらにドラマが広がります。還来神社前の女児2人は、たしかに出来すぎです。車中で話していた、ボンネットバスの写真を撮っていたプロの写真家のクルマに乗せてもらって撮ったものですが、別にヤラセでもなんでもないのですが、どうして、集落も学校も何もないところに、白昼に二人がランドセル姿でいたのか、謎です。この付近は、ボンネット時代と較べて、バス路線も変わってしまいました。和邇途中線は無くなり、堅田葛川線の一部が、上龍華、下龍華に立ち寄る経路になりました。上龍華は、クルマ同乗の時も見ましたが、なるほど、小学校の登校に特化したダイヤだったのですね。

  2. Tさんが話されていた、もう一本の江若鉄道の枕木とレールを再利用した橋が現存していました。橋台の上にレールを渡し、その上に枕木を並べた構造は同じです。ただ、こちらは老朽化が進んでいて、枕木が痛んでいるのか合板がかぶせてありました。歩くと足元が沈み、あまり気持ちの良いものではありませんでした。特筆すべきは橋の上に古レールそのものがあることで、見慣れたレールと比べて細いように感じました。

    • またまたの江若レールと枕木の橋の発見 ! もう一度、行かれたのですか。紫の1863さんの熱意には参りました。周りの風景を見比べると、前回の近くのようです。こちらは枕木が見えない代わりに、レールが橋の上に露出している訳ですね。トークショーでも触れた江若の和邇京都線もこの付近を通ることになっていて、鉄道には全く縁のなかった伊香立の龍華地区が、急に鉄道との結びつきができました。

  3. 総本家青信号特派員さま
    「栗原」の地名だけでも懐かしいと思っていたら、「妙道会」まで出て来てコメントせざるを得なくなりました。別に信者でもなんでもないのですが、比良山ウオーキングで何度か比良3大急坂の一つである権現坂を栗原へ下山して、ボンネットバスの後輩(つまり普通の)バスのお世話になっていたからです。妙道会は中腹にあるため麓からも良く見え、いささか気になる存在でした。地元の方に聞いて妙道会だと教えてもらいました。
    紫の1863さまが仰るようにどれも素晴らしい写真ばかりです。人物や建物、看板などの配置もよく考えられた構図だと思います。ボンネットバスも勿論貴重な被写体ですが、素朴な里山風景を見ているうちに、私の好きなキハ07やC56が走って来てもおかしくない、不思議な世界に引き込まれてしまいました。ことほど左様に鉄道写真と相通ずる写真だなという想いを更に強くしました。総本家さまの感性のなせる技だと思います。

    • 1900生様
      お褒めの言葉、ありがとうございます。「里山」の写真家として名高い今森光彦氏がいますが、氏の活動拠点は、湖西道路の和邇を過ぎたあたり、ちょうど、この付近なんです(私は湖西でももっと北部と思っていたのですが、氏をよく知る人から教えてもらいました)。里山とは、人と自然が共存する場所であり、まさに栗原付近は、人がいて、自然があり、そしてボンネットバスも見られた、“里山”だったと思います。1900生様も書かれていますように、キハ07やC56にも似合う風景でした。

      • 実はその今森光彦氏とは、現在のように同氏と里山が広く知られる前にニアミスをしていました。比良の地元の方のご紹介でお目にかかる予定があったのですが、別件で時間が取れず、その後もチャンスに恵まれずに終わりました。あの時に同氏と里山を知っておればと残念に思っています。

  4. 1980年3月23日、栗原バス停です。写っているお子さんは、55歳前後になられていますが、このバスのことを覚えておられるでしょうか?いつの日か、写真をご本人に手渡したいと思っています。

    • 藤本哲男様
      いつも撮影の時は同行していただきましたが、この撮影日には私は参加していませんでした。写真の小学生は、今ごろなら50歳の半ばでしょう。実は、懇意にしていただいている、元江若鉄道のMさんは、この栗原にずっとお住まいの方です。いまやっている滋賀銀行志賀町支店の写真展もMさんのお世話によるものです。ちょうどMさんのご子息の世代に相当しますから、聞いたら分かると思います。一度、探りを入れてみます。

  5. 上と同じ日、栗原道~出口間です。
    何回か通っているうちに運転手さんと顔見知りになり、撮影していると、「乗るか」と声かけていただき、乗せてもらいました。

  6. 新学期の始まる目前の1980年4月6日
    和邇浜で合宿の後、本堅田車庫に行き撮影しました。
    1082号です。

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