天然色写真で巡る40年前の九州(11)

仕上げは呉線

少し間が開いてしまったが、今回でひとまず最終章としたい。

20日余りの九州滞在を終えて(大阪発の九州均一は通用16日のはず、と訝る向きもあろうが、これにはちょっとした仕掛けがあった…)、夜行の臨時急行「桜島」に乗り早暁の広島駅に到着した。

広島駅で発車を待つ呉線C6241牽引622列車(昭和44年3月27日)

呉線ホームへ行くと、もうすでに呉線の始発622列車がホームに入線している。牽引機を見に行くとC6241である。ボイラーの熱気と石炭の匂いが全身を包み込む。私は山陽本線の蒸機全盛時代は知る由もなく、電化直前の姿を辛うじて垣間見ることができた世代だが、広島駅のゆったりしたホームで発車を待つ呉線の列車は、山陽本線時代を髣髴とさせる雄姿を醸し出していた。

その始発列車に乗り、広~安芸阿賀間の鉄橋で、朝のラッシュ時に陸続として広島へ向かうC59・62列車を捕らえたのち、ラッシュの一段落した小屋浦に降り立った。呉線では広~広島間でC59・62列車を多く稼げる。小屋浦はその区間の代表的な撮影地として知られていた。ただ、ずっと国道と並行し、店舗や家屋も多く、代表的な“クサイ”撮影地としても名を馳せていた。しかし今から思えば、国道の車両の通行もわずかで、家屋も今のようなド派手なものではなく、“クサイ”など揶揄したらバチがあたりそうである。

瀬戸内に沿って走るC59161牽引622列車(昭和44年3月27日)

ここで、C59161の牽く上り列車を写した。糸崎機関区のC59は、161、162、164の3両。C59全製造数の173両のなかで生き延びたのはこの3両だけと、他の大型機、C60、61、62がまだまだ健在なのに比べると、残ったのは極めて少ない。急行旅客機らしいスマートで、蒸機のなかでは最もバランスのとれた最高の形態美だとの評価が高い。「かもめ」牽引を始めとして、C59は山陽本線を代表するカマでもあった。

この日は、夕方まで小屋浦で粘り、その日は広島ユース泊、翌日から二日間は、鉄道同好会恒例の春の大狂化合宿が、呉の国民宿舎「音戸ロッジ」で華々しく挙行され、久しぶりにクラブの面々と和やかに一夜を送ったのであった。

ところが、九州の最終日、筑豊本線で撮影中、泥沼に下半身がはまってしまい、それ以来少し風邪気味のところへ、夜遅くまでハシャギすぎたのがたたって、翌日は熱も出てかなりの重症で、動けるような状態ではない。旅行中に病気になったのは後にも先にも、この時だけである。それでも気力を振り絞ってみんなともに安登まで行き、ヘッドマーク付きの最後のC62「安芸」を捉えた。しかし、もう体力・気力も限界、雨も降ってきて寒さが余計こたえる。まだ撮り続けるみんなと別れ、這うようにして呉線を去って行った。(終)

安登付近の勾配を上る下り急行「音戸」(昭和44年3月29日)

 

天然色写真で巡る40年前の九州(11)」への6件のフィードバック

  1. 1枚めの写真が一番好みです。
    広島駅にはまだ宇品線もあるのですが電化の時に随分綺麗になり
    このホームの印象は2009年の今でもあまり変わっていません。
    そこにC62が着番していたのが嘘のようです。

    模型を作っていた頃、シルヘッダーのある車両は随分水平ラインの
    線が多い物で、それが鉄道シーンに多い平行線の魅力だと気づきました。

    町も鉄道も、ずいぶん整頓美から遠くかけ離れましたが、ホントに最初の
    写真は広島駅7番線に立ち、朝の6時に目をつむれば見える
    フィールド・オブ・ドリームではないでしょうか。
    わずか40年、あまりに長い40年。

  2. K.H.生さま、さっそくのコメントありがとうございます。
    広島駅、私にもたくさんの思い出があります。
    広島駅(南口)は昭和40年に完成しています。その後、駅ビル「ASSE」が出来たりして改装はされていますが、基本的な駅構造は、40年以上変わっていませんね。駅舎完成当時、山陽本線の電化は完成していることになっていますが、その実、EL不足から、まだC62の牽く列車が健在で、一枚目の写真のような光景が日常的に繰り返されていました。やっぱりC62は、広島のような大きな駅に出入りしてこそ似合うカマだと思ったものでした。そうそう、山陽本線のことを「本線」と言い習わす駅・車内アナウンスに、関西人は妙に印象深く残ったものでした。
    1番ホームの東端には、切り欠きホームの0番線ホームがあり、宇品線のキハ04が機械式独特のサウンドを奏でながら発着していました。当時は宇品まで旅客営業をしていましたが、日本一の赤字線と喧伝され、ついには区間が短縮され定期旅客のみ扱う時刻表に載らない線となります。
    ほかにも、広島駅での見ものは多くありましたが、私の印象に残ったのは、早朝のブルトレの発着でした。東京発の下りブルトレが朝方にそれこそ10分おきぐらいに、続々と1番ホームに到着します。すべて20系、牽引はEF65P、ブルトレの最も充実した華やかな時代なのでしょう。それがトラウマ?となって、いま騒がれている「富士ぶさ」だけを撮りに行くことがどうしてもできません。
    時代は2年ほど下って、呉線へよく行っていた時代は、撮影効率を考え、よく広島駅の待合室を利用させてもらいました。今はもうありませんが、改札を出て左手に暖房の完備した24時間開いている待合室がありました。広島という場所柄、その筋の人間も多く、おびえながらも、何時しか寝入っている自分でした。
    その広島駅のすぐ横に、かつて広島第一機関区、第二機関区があった地に新広島市民球場が出来るそうですね。変わっていくものと変わらないもの、歴史の変転を感じます。

  3. C59、C62と言うと黙っておれない。人間国宝級の方々が山科をホームグラウンドにして貴重な作品を生み出されたその時期、小学生であった小生は夏休み、冬休みには名古屋の親戚の家で過ごすため、大阪からC59牽引の普通列車を4~5時間かけて乗車していた。C62はこの時期は特急、急行列車に使われることが多かったのではないかと高橋弘さんの作品を含めそう推察します。鉄を始めた頃は高校生で昭和36年夏、岡山で総本家さんの前回の作品と同じ164号機を撮影したのがC59の撮り始め。本格的に九州に撮影に行った昭和38年3月、乗車した急行「平戸」のEF58はまだ空けやらぬ広島のホーム先端でハンサムボーイC59163[下関]にバトンタッチ。C57を貴婦人と言うが、あれはそこらのおばはん。そこへ行くとC59の方が貴婦人と思うが、それはまあ人それぞれ。しかし、特に戦後製の船底テンダーのC59は国鉄蒸機最長であり、ちょっと太り過ぎたC62よりはかっこがええ。C59はEF58とは出発する時の迫力と荘厳さが違う。発車すると直ぐに客車の窓下には黒い粉塵が侵入してくるがこれが汽車旅の味であり匂いである。その広島も昨年9月7日最後の広島市民球場の見納めに行ってきた。新球場は広島駅の東側。東京に向かって右手で国鉄時代は扇形庫にはD52やC59がたむろしていた広島第一機関区、後の広島機関区あたりで、一方、C62は左手の広島第二機関区、後の広島運転所に所属しており、こちらには扇形庫はなかったように思うが、記憶は定かではない。C59,C62は複線未電化区間を走る姿が本来の姿。そういう意味でC59,C62は大きな駅である広島も大阪も京都にも似合う機関車。尚、蛇に睨まれ続けたタイガースはこの日も負けた。

  4. 準特急さま
    C59・C62の権威を差し置いて、抜け抜けと発表してしまい、失礼しました。やはり同機の活躍と言えば、非電化の本線筋が本来の姿であって、いくらC62重連「ていね」、C59「安芸」と叫んでも、所詮は最後の線香花火に過ぎませんね。末期しか知らないアラカン世代は、先輩の発表された作品で全盛時代を偲ぶのみです。
    私が九州の蒸機に魅了されたのも、実は準特急さまが発表された写真が引き金になっているのです。上記のコメントにもある、昭和38年3月に行かれた、「鉄道ファン」26号の「九州国鉄のSL」の記事で、絶滅に近かったC51を吉松で捉えられた写真(しかも化粧煙突)、特急を牽くC59の活躍など、煙だらけの写真に大いに惹かれました。私の中学校2年の時でした。そのお方が、それから5年後の鉄道同好会の例会で、後の席で野次っておられたのが、そもそもの邂逅の始まりとなりました。

  5. 特派員氏の生い立ち話は面白かった!
    そうですか、準特急氏の写真に魅了されて入ったDRFCの例会で野次り倒していた眼鏡のお兄さんが“憧れの人”だったときの現実に特派員氏の落胆を想像するともらい泣きしそうになりました。人生とはこんなものです。

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