近鉄と合併前後の内部・八王子線

モニ214 40-5-25 内部進入
         内部駅に進入するモ二214他3連

   12月30日【27966】で、どですかでんさんより近鉄内部・八王子線の近況報告があった。年間3億円弱の赤字、車両の代替時期にきているが762㎜の特殊な車両故に多額の資金が必要等の理由から、BRT(バス高速輸送システム)への転換を地元に提案している。一方利用者数は年間360万人1日当り1万人と少ない数字ではない。ちなみに三岐鉄道に移管された北勢線は約1万3千~1万5千人で、1㎞あたりの輸送人員は内部・八王子線の方が多い。にも拘わらず収支が悪いのは、乗客の約半数が割引率の高い通学定期客であることが原因の一つと考えられる。(内部・八王子線の乗客割合は通学定期47%、通勤定期31%、定期外22%、近鉄全体では通学定期22%、通勤定期39%、定期外31%)

地元では、最も影響を受ける沿線の高校が反対しているが、近鉄はBRTに転換することにより、運営費用の半減、車両の冷房化(電車は非冷房)、停留所の増加による利便性の向上、運行本数の増加、バリアフリー化が可能となる等優位性を挙げ、心配されている通学時間帯の輸送力に対しては、連接バスで対応するとしている。現在の3両編成の電車と連接バスを比較すると、電車の方が多少有利であるがバスの増発により解決は可能である。所要時間は現在の並行路線バスは道路混雑のため電車の倍かかっているが、専用道路を走行するため、多少伸びる程度としている。

BRTに転換後の事業主体が近鉄直営になるのか、三重交通になるのか、また運賃は現在の水準が維持されるのか(並行する三重交通バスは電車より高い)、不透明な点が多いが、仮に事業主体は近鉄のままで、運賃は名古屋線、湯の山線の乗り継ぎを含めて現行と同額となれば、あえて反対する理由がなくなり、廃止されてしまう可能性が高い。あくまで鉄道の存続にこだわるならば、四日市市が近鉄から施設を買い取り、民間に委託する「公設民託」になると思われるが、そこまでの熱意は感じられない。また、762mmゲージを逆手に取り、下津井で眠っている「メリーベル号」を譲り受けて観光路線化することも考えられなくはないが、沿線に目玉となる観光施設がなく実現には困難な状況である。
近鉄は四日市市に対し8月までに回答を求めており、今後の市の対応に注目したい。

内部・八王子線は、三重電鉄時代の昭和39年12月20日、近鉄と合併後の40年5月25日、43年4月29日と3回訪れており以降は行っていない。尚、三重電鉄と近鉄の合併は40年4月1日である。(三重電鉄は39年2月1日三重交通の鉄道部門が分社して設立され、翌年4月1日に近鉄に合併されたので1年2カ月しか存在しなかった)
39年と40年は京阪沿線の高校時代で、京都からは決して交通の便の良くない四日市までわざわざ行ったのは余程物好きであったのだろう。当時の状況を写真で振り返ってみた。

近鉄との合併時に引継がれた車両は下記の通りである。(合併後の形式、車号で表示)
モニ210形4両(モニ211~214)、モニ220形2両(モニ228・229)、モ230形1両(モ231)、モ240形1両(モ241)、サニ110形3両(サニ111~113)、サ120形1両(サ121)、サ150形5両(サ158~162)、サ130形2両(サ131・132)の以上M車8両、T車11両である。

モニ210形(モニ221~224)
前身の四日市鉄道時代に昭和3年田中車輌でデ50形(デ51~54)として新製。昭和19年2月11日、神都交通を母体に三重県下の交通企業戦時統合で三重交通となった時の改番でモニ211形となり、近鉄との合併でモニ210形となった。
モニ211 39-12-20 内部
日永を発車したモ二211/最後尾のためパンタが下りている。(39-12-20)

モニ211 43-4-29 内部
内部駅で機回し中/(43-4-29)

モニ211-2 43-4-29 内部
機回し後先頭になったモ二211/(43-4-29)

モニ212-2 39-12-20
内部駅で発車待ちのモ二212/(39-12-20)

モニ213 40-5-25 日永発車
日永駅を発車したモ二213/(40-5-25)

モニ214 43-4-29内部
モニ214/(43-4-29)  内部

モニ220形(モニ228・229)
モニ228・229は、三重交通時代の昭和24年日本車両製であるが、モニ220形のモニ221~226は北勢線の前身北勢鉄道時代の昭和6年日本車輌で新製されている。戦後の新車増備時に新規設計をする時間の余裕がなく、戦前製と同一仕様でモニ227~229の3両が作られた。227が北勢線、228・229が三重線(湯の山、内部、八王子線の総称)に配置されたが、52年にモニ227も北勢線から転入した。現在は電装解除されサ121~123となり、モ260形とク160形の中間に挟まれたが健在である。モニ228 39-12-20
日永駅停車中の内部行/(39-12-20)

モニ228-2 40-5-25
モニ228/(40-5-25) 日永

モ230形(モ231)
この車両の経歴は複雑である。昭和39年12月14日付で廃止された三重電鉄松阪線の前身松阪鉄道のフ21形(フ22)として昭和3年日本車輌で新製。戦時統合で三重交通になった時サ442に改番。26年三重線に転属、その時電動車化されてモ261に改番。更に近鉄合併時のモ231に改番された。電動車に改造時、扉を窓一つ分内側に移設した。
モ261 39-12-20 内部
車号がモ261であった三重電鉄時代/(39-12-20) 内部

モ231 40-5-25 日永
近鉄合併後モ231に改番/(40-5-25) 日永駅進入

モ240形(モ241)
前身の四日市鉄道時代に昭和3年田中車輌で50形(51)として新製。戦時統合で三重交通となった時サ371と改番。26年に電動車化されモ240に改番。更に近鉄合併時のモ241に改番された。
モ240 39-12-20 四日市
車号がモ240であった三重電鉄時代/(39-12-20) 四日市

モ241 40-5-25 日永
近鉄合併後モ241に改番/(40-5-25) 日永駅進入

サニ110形(サニ111~113)
松阪鉄道のデ31形(デ31~33)として昭和3年日本車輌で新製。戦時統合で三重交通になった時モニ201形(モニ201~203)に改番され、引き続き松阪線で使用されていた。
39年12月14日付で松阪線廃止により内部・八王子線に転属した。松阪線の架線電圧が600Ⅴで、750Ⅴの内部・八王子線では電動車としての使用は不能のため電装解除され、サニ110形(サニ111~113)に改番された。
サニ111 40-5-25 内部
旧塗装時代のサニ111/(40-5-25) 日永駅

サニ111 43-4-29 内部
近鉄色になったサニ111 /(43-4-29)  内部

サ120形(サ121)
松阪鉄道のフ21形(フ21)として昭和3年日本車輌で新製。戦時統合で三重交通になった時サ441形(サ441)に改番され、引き続き松阪線で使用され、24年に電装され、モ250形(モ250)となった。39年12月14日付で松阪線廃止により内部・八王子線に転属した。サニ110形と同じ理由で電装解除され、サ120形(サ121)に改番された。
サ121 40-5-25 内部
サ121/(40-5-25) 内部

サ150形(サ158~162)
三重交通時代の昭和25年11月近畿車輌でサ161~164として新製した。同時期に近畿車両で北勢線のサ151~154、帝国車両でサ155・156が、翌年1月には帝国車両で三重線のサ165・166が新製された。使用線区により番号区分して北勢線は150番代、三重線は160番代とした。37年4月サ166が北勢線に転属してサ157に改番された。近鉄合併時にサ161~165を北勢線サ151~157の追番サ158~162に改番された。
サ163 39-12-20
サ160 43-4-29
サ163は合併時にサ160に改番/上 (39-12-20)  下(43-4-29) 内部

サ165 39-12-20
サ165は合併時にサ162に改番/ (39-12-20)   内部

サ159 40-5-25
三重電鉄サ163→サ159/ (40-5-25) 内部

サ160 43-4-29
三重電鉄サ164→サ160/ (43-4-29) 内部

サ161 40-5-25
サ161 43-4-29
三重電鉄サ164→サ161/ 上 (40-5-25) 下(43-4-29) 内部

サ130形(サ131・132)
三重交通サ360形として昭和29年4月サ361・362がナニワ工機、サ363・364が帝国車両、10月サ365・366がナニワ工機、11月サ367・368が帝国車両で新製された。当初は全車三重線に配置されていたが、35年1月サ368、同年10月サ366・367、36年11月サ364・365、40年3月サ363が北勢線に転属した。四日市寄りに常務員扉が設置され、運転台を取付けTc化が予定されていた。近鉄合併時にサ130形(サ131~138)に改番された。52年にサ133が再度内部・八王子線に転属した。57年にサ131・133に運転台が取付けられク114・115となった。
サ131 43-4-29
三重電鉄サ361→サ131/ (43-4-29) 内部

サ132 40-5-25
三重電鉄サ362→サ132/ (40-5-25) 内部

近鉄と合併直前まで在籍した車両

サ100形(サ101~103)
三重交通時代の昭和25年日ノ出車輌製の木製車で、同時に作られたサ104~106は太平車両製で北勢線に配置されている。合併直前の40年3月30日付で廃車になったが、39年12月時点で既に休車になっていた。
サ102 39-12-20
サ103 39-12-20
上:サ102 下:サ103/ (39-12-20) 内部
日ノ出車輌とは聞いたことのないメーカーで新製されているが、台車は中古品のようである。

サ2000形(サ2001~2007)→サ140形(サ141~147)
三重交通サ2000形として昭和35年6月から37年10月にかけて日本車両で新製された。当初は三重線に配置されたが、39年4月にサ2003~2007、40年3月サ2001・2002が北勢線に転属した。合併後の改番でサ140形(サ141~147)となり、52年北勢線近代化時にサ141~145に運転台を取付け、ク141~145に改番、三岐鉄道に移管後ク142・144は再度運転台が撤去されて旧車号に戻された。
サ2001 39-12-20
三重電鉄サ2001→北勢線サ141/(39-12-20) 日永

当時の運行状況
現在の昼間の運行状況は、内部線、八王子線共に30分間隔で、内部線は2列車(泊駅で交換)、八王子線1列車の3列車で運行されているが、当時は両線とも20分間隔で、4列車で運行され、内部線は現在と同じ泊駅で交換、八王子線は日永で交換していた。

M車が8両共稼働状態の時は、M+T+Mの3両編成で、M同志の総括制御が不能のため先頭のMが牽引する形であった。検査等で1両でも欠けると、M+T、またはM+T+Tとなり、内部、八王子の各駅で機回しを行い、四日市駅は機回し線がないためM車の複雑な入換え作業を行われていた。

その他
先にも述べた通り、内部・八王子線は危機的な状況で、四日市市の8月頃の回答如何により来年秋頃にも廃止→BRTに転換されそうな気配である。

かつて大阪、名古屋から直通特急、名古屋から直通準急が運転されていた湯の山線も乗客減のため、昨年3月のダイヤ改正で昼間の運転間隔が20分から30分となり利便性が大幅に損なわれた。
四日市市においても富山市のように鉄道網を活かしての街づくりができないものだろうか。

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