波動時の臨時列車
今回までは、夏ならではの海水浴、リゾート行きの臨時列車が中心だったが、シリーズの最後は、夏の波動時の臨時列車を列挙してみよう。昭和末期は、帰省休暇も分散化されておらず、盆を中心にした一極集中の傾向があった時代だから、九州へ向かう臨時夜行列車も多く運転されていた。
▲東海道の老舗急行「銀河」にも、臨時が運転されていた。写真は「銀河83号」、14系座席車をEF65PFが牽いている(平成2年8月)。この時代、首都圏~関西は、夜行バスが台頭し始めていたものの、まだ列車需要が高かった時代で、年によっては、最ピーク時にもう一本運転されて、定期と合わせて3往復体制の時もあった。臨時「銀河」の歴史をたどると昭和45年頃から走り始めているようで、年によっては、品川発着になったり、大阪、京都と行き先が変わったりしながらも、臨時列車としては息長く運転されたが、結局、臨時「銀河」は、定期の廃止より前の平成10年限りで運転を止めている。
▲青森発大阪行き臨時急行「あおもり」、残り少ない20系客車を使った臨時列車として有名だった(平成2年8月)。このスジは昭和63年、波動時に設定された臨時特急「日本海81・82号」がもとで、平成2年に、20系の陳腐化により急行列車となり、愛称も「あおもり」となった。20系はさらに老朽化し、平成6年には583系されている。「あおもり」の愛称のルーツとなると、昭和43年頃から設定された名古屋発青森行きの臨時急行「あおもり」に行き着く。東海道線から東京を通り上越・羽越線経由で、上りのみがごく短期間に設定されていた。一説には、トヨタの自動車工場へ出稼ぎに来ている東北出身者の帰省用と言われるが、今では、とうてい考えられないような経路だった。▲「雲仙」は、戦後まもなくから走っている長崎行きの急行で、最初は東京発、昭和43年からは京都発となったものの、つねに完全セットの急行列車編成だった。最後は14系座席車となり、昭和55年限りで消えた。その後、JRになって、平成2年から臨時急行「雲仙」として復活を見せ、20系客車の最後の働き場所ともなったが、平成6年限りで運転を止めてしまう(平成4年8月)。▲「桜島」は、定期急行ながらも、つねに窓際的な存在だった。夜行でありながらオールハザの時代があったり、不定期急行時代も長かった。昭和50年限りで廃止されたが、昭和61年に、なんと博多~西鹿児島の臨時特急として「桜島」は復活する。東京からのブルトレの間合い利用で、日本一短い夜行寝台特急だった。平成2年に限りで廃止されたが、「桜島」は再び京都・大阪に顔を見せる。「霧島」の廃止により、そのスジを使った多客臨として、平成7年に新大阪~西鹿児島で運転され、回送を山崎でも見ることができた(平成7年8月)。写真のようにEF65PF+20系客車で、ボロボロになった20系最後の最後の働き場所だった。アタマは特製のヘッドマークで体裁を保っているが、後部にはサインはなく蛍光灯むき出しの姿で、その末期を象徴していた。運転期間は、この年の盆、年末年始の10日余りだけ山崎を走った貴重な列車だった。
改めて臨時列車の一端を調べるにつけ痛感したのは、乗客のニーズに合わせ、さらに新たなニーズを創出して増客を目指すため、面倒で煩雑な経路の列車を運転したJR当局の熱意・積極性だ。現在のように、乗客の嗜好は無視して、自分たちの効率化、合理化のもと、どんどん列車が画一化されていくのとは大きな違いだ。
若い頃、よくムーンライトシリーズやシュプールは利用させてもらいました。同年代の仲間同士で夜行に乗る高揚感もついこの前のように思います。自社線内しか走らないJR優等列車が圧倒的に増え、大阪発着のしなのやひだは貴重になりましたが、私も最後の感想に全く同感です。是非、大衆に鉄道ならではの魅力を発信するような列車を走らせて欲しいものです。
ブキウギさま
コメント、ありがとうございます。「ムーンライト」や「シュプール」の走っていた20年余り前、もっと以前を知る人間から見ると、面白味のない時代に映ったのかも知れませんが、現在と比べると、なんとバラエティに富んだ興味深い時代のかと、書いていて再認識しました。今では、お書きの「しなの」や「ひだ」のように、会社間を越えて運転する列車も少なくなりましたね。