客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈2〉

五感で感じる客車
客車に乗ると、電車でも気動車でもない、客車独特の匂い(臭い?)を感じたものです。
優等客車にはなく、ハザ限定のものだったと思います。染み付いたタバコのヤニ臭、捨てられた食べ物や酒類の臭い、床を油引きしたときの薬品臭、はたまた開け放った窓から入ってくる煤や鉄粉、時には黄金水まで…、それらが入り交じって客車独特の匂いをつくっていたのでしょう。現在は、無臭の時代、鉄道車両も同様です。目で見て、耳で聞いて、鼻で嗅ぐ、そして身体全体で感じたのは、客車の時代ならではでした。この客車で上記のような匂いを感じたかどうか記憶にないが、いかにも客車の時代らしい写真だと思っている。羽越本線の三瀬から余目まで乗った普通列車で、妻面には、オハ60 1105と書かれている。デッキを仕切る扉はすべて開け放たれて、ずっと客車が連なっているのも分かる。背ずりは直角の木製、車端はロングシートに改造している。車端を見ると、DISCOVER JAPANのポスターがある。昭和45年の大阪万博後の誘客キャンペーンとして始まった、伝説のキャンペーンだった。このようなイメージポスターが、ローカル線の列車までに貼られた。駅には記念スタンプが置かれ、私もスタンプ押しに熱中した。昭和51年まで続けられ、国鉄が初めて横文字を使った旅行キャンペーンでもあった。右の鉄道地図も懐かしい。まだ情報不足の時代、乗った列車は、どこを走っているのか、時折、地図を見に行ったこともあったが、正尺ではないため、何となく信頼の置けない地図に映った(昭和46年9月)。


上掲の羽越本線で撮った客車もオハ60だった。このオハ60という客車、鋼体化改造客車の60系客車の一員だが、その大多数を占めたオハ61系とは、少し客室の様子が違う。座席2ボックスに対して窓が3組の狭窓で、ネタの木製車やオハ31系と同じだ。窓割りと座席が合わず、ずいぶん居住性が悪い。オハ60は、昭和24年に鋼体化改造客車のトップを切って登場した。新たな広窓オハ61系の登場により390両にとどまった。また車掌室つきのオハフ60は、昭和25年に67両が登場したが、すべて北海道向けで、本州には存在しないのが特徴だ。
これらの写真を撮った、昭和46年ごろにオハ60の配置は、わずか9両で、弘前では、五能線に使われていた。すべて車端ロングシートの1000台車で、もともと日本海縦貫線沿いの客車区に多く、オハ61形より、さらにランクの低い客車にように見られた。戦前製のオハ35などのように1m幅の広窓にしなかったのは、鋼体化名義で、木製車時代の座席配置、窓配置に合わせたのと、鋼体化改造は、連合軍の命令で始まり、連合軍から誤解を生まないためにも、あえて木製車の配置を継承したと、当時の様子を知っておられた星晃さんは述懐されている(弘前、昭和46年9月)。もうひとつ、狭い窓で知られていたのが、スハ32系だ。なにせ、こちらは、ワンボックスに2窓、つまり一人ずつに窓があって、向かいの客に遠慮せずに窓を開閉できる便利な客車だった。私たちは“パーソナル・ウィンドウ”と呼んでいた。スハ32系は、広く全土に配置があったが、北海道にも多かった。先ほどのオハフ60と言い、狭窓車が北海道に配置されたのは、二重窓にしたものの、窓が凍り付くこともあって、操作のしやすい狭窓が好まれたと言う。写真は宗谷本線の普通列車、右のモデルは、現在の鉄鈍爺さんである(昭和43年9月)。

 客車のある風景 ~フィルムの片隅から~ 〈2〉」への4件のフィードバック

  1. 懐かしさに涙を流しながら見ています。
    オハ60は戦後復興の先駆けとして、不十分ながら戦後を代表する客車でしょう。屋根は木製にキャンバスを張り、コールタールで塗り固めた「どですかでん」方式です。当然トユは無く、出入り口の上には「へ」の字型のワイパーのようなものが付いていました。京都駅でも草津線用でよく見たものです。
    “匂い”といえば、夕方に梅小路公園を散歩していると、仕業を終えた蒸機が火床整備をしていて、シンダの匂いが漂ってきます。それを嗅いだとき、瞬間的に昔の機関区の情景が頭に浮かぶのです。その機関区は一定ではありません。暑い今ごろなら「平機関区」や「小樽築港」です。匂いと風景は密接に脳裏の小箱にセットで格納されているからでしょう。
    客車の写真を見たら、特派員氏の解説通りの匂いと東北本線や鹿児島本線の昼下がりを思い出します。
    すばらしいシリーズを楽しみにしております。

    ※写真は更新後のオハ60 京都駅にて昭和40年4月撮影

    • 米手さま
      久方ぶりのコメントをいただき、ありがとうございます。昭和40年に、もう京都でオハ60を撮っておられるのですか。当時の配置表を見ますと、1000台車が京都客車区に配置されていました。草津線用だったのでしょうか。
      蒸機のシンダの匂いは、鉄道を代表する匂いですね。私も鉄博へ行く楽しみのひとつは、この匂いを嗅ぐことでした。ところで、今日、梅小路新駅の駅名が発表されました。またJR流の、各方面に配慮した、接頭・接尾語の多いものになりましたね。

  2. ひとコマひとコマ見入ってしまうすばらしい写真ばかりで、懐かしさがこみあげてきます。今回の大水害の被災地として連日報じられ一躍有名になった呉線小屋浦ですが、小屋浦駅でオハ60をロングシート改造したオハ63を撮っていました。昭和44年8月3日 C62がバックで牽引する926レのオハ41などのロングシート車を連ねた編成の中にオハ6311がいました。C62がロングシートの通勤列車を牽くという電化前の呉線のひとコマです。

  3. 西村様
    写真とともに、ご報告、ありがとうございます。ロングシートのオハ63は、私もよく広島で見ましたが、オハ60からの改造だったのですね。写真を撮られたのも、今回被害のあった小屋浦というのも、何かの因果を感じます。私も小屋浦ではよく写真を撮りましたが、今回の被害の予兆を感じさせる写真も撮っていましたので、近々にご報告いたします。

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