写真整理学 -5-

カラーポジ
カラーポジを撮り始めたのは大学1年生の時に、北海道へ行った時が初めてだった。当時は、現像料込みの値段で売られていた。カラーポジは、透過式で印刷に適したフィルムとされるが、当時は、もちろんそんな認識はなく、スライド上映会でみんなにも見てもらうのが目的だった。実際、あの頃は、鉄道同好会でもよくスライド上映会をやったものだった。すべて国産の銘柄で、フジとサクラを交互に使っていた。
ここからは以前にも書いたことだが、当時はフジのシェアが高く、優秀な製品という評価だった。いっぽうサクラは二流という評価だったが、数十年経ってみると、全く逆の結果となった。フジは、スコーンと色が抜けてしまって見るも無残な姿が多いのに対し、サクラは多少の褪色はあるものの、色抜けはない。製品の評価なんて、アテにならないとつくづく思ったものだ。

社会人になってからは、仕事絡みでポジを使うことも多くなり、とくに、モノクロを余り撮らなくなった2002年ごろから、一眼デジカメ導入までの約5年は、ポジが主流となった。実際、優れた風景の中を順光で適正露出で撮った鉄道写真は、我ながら惚れ惚れする、唯一無二の”作品”と呼んでもいいものだ。しかし、逆に言えば、たとえ半絞りでも露出を間違えば、目も当てられない結果となる。フィルムが現像から上がってきた時は、いつもドキドキだが、感動より落胆のほうが多かったポジではある。撮り貯めたポジは、通算246本、コマ数で約9000駒となる。
初めてのカラーポジは北海道へ行く途中に、都内各地で廃止予定の都電を写した(以前の掲示板で発表済み)。上は渋谷・宮益坂、右は高田馬場駅前。褪色・劣化は激しいが、45年前の都電も、何とかここまで修正できた。

保存方法は、大きく分けて二つ、初期は一点ずつマウントしたものを、専用のポジアルバムに収容、マウントには、適宜データの記入している。本数が増えると、この方式では追いつかず、マウントを止めて、スリーブ状態にして、缶・箱に収納している。スリーブには、自作の撮影ラベルを貼り、データを記入している。
ポジは、保存状態が一時悪かったこともあってカビが発生(湿気の多い押入れに長期間保管)、また前記のようなフィルム特有の経年変化により、褪色・劣化が激しい。デジタル保存は、カラーネガ以上に急務だが、現状はほとんど進んでいない。加えて、スキャンはなかなか難しいと感じている。褪色しても、軽度のものなら修正ソフトの褪色修正のボタンででほぼ一発修正できるが、褪色・変色の激しいものは、どうやってもダメだ。やはり色が残っていないことには、救済できないと痛感した。色調が正しく出ているポジは、逆にコントラストが強くなり過ぎて、黒つぶれ、白飛びが激しい。
過日、会社更生法の適用を受けたコダック社は、コダクロームに続き、最後まで残ったエクタクロームの製造中止を公告している。ほんの数年前まで、国内外からカラーポジが続々と新発売されて、色調や粒状など、選び放題だった時代が夢のように思えるほど、昨今のカラーポジの衰退には、その終幕が見えてきた思いがする。

ポジの整理は、一点ずつマウントしてスライドファイルに保存、スリーブで一本ずつ保存する2種の方式

写真整理学 -4-

前回、モノクロフィルムについての私の整理術については記しましたが、もうひとつ、カラーがありました。モノクロに長い間馴染んだ私も2002年以降は、カラーオンリーになりました。近年はデジカメも加わり、増殖を続けるカラーの整理は、今日的なテーマでもあるのです。
カラーネガ
カラーネガで鉄道を撮り始めたのは比較的古い。初めて一人で九州へ行った高校2年生の時、モノクロとともにカラーも加え、カメラ2台態勢となった。マミヤ製の怪しげなEEカメラだった。ところが、この昭和40年代前半、カラープリントの料金はL判一枚が100円ぐらいだったと記憶している。今の物価に換算すると300~400円程度になり、とても大量には撮れない。結局、15日間、九州へ行って撮ったのは、当時あった16枚撮りフィルムのうち数枚だけで、帰ってからまた別のところで撮る始末で、フィルム一本を一年近くかけて撮った。

45年前に初めて撮ったカラーネガでも劣化は余り見られず、スキャンデータに若干の修正を加えるだけで、この程度、見られるのは、カラーネガのアドバンテージだと思う。佐々機関区で撮ったレールバスの塗色も、一般気動車とは異なる赤2号だと理解できる。

その後も、カラーネガは撮るものの、その性格上、家庭の写真などが中心となるため、鉄道は合い間に散発的に撮る程度で、枚数はほとんど増えず、カラーの鉄道写真は、後述するポジに移っていく。しかし、2002年にモノクロを止めてしまうと、その代替として、カラーネガを再び使うようになり、それ以降はウンと増えることになる。ただ、それもデジカメの出現で、2005年には全く絶えてしまうことになる。
こんな経緯で、現在カラーネガとして保管しているのは、278本、コマ数で約1万枚ぐらいか、ただ、前記のような非鉄な写真も含まれるので、実際、鉄道関係は、その半分程度しかないと思う。
整理方法は、すべて同時プリントしているので、単純明快に撮影順にポケットアルバムに入れた時系列の整理方法を採っている。ネガは、カラーネガ独自の整理番号を振り、時代順にケースに入れている。問題点は、モノクロのベタ焼きと同じで、別にある撮影台帳との関連が弱いことである。カラーはとくに恣意的に撮ることが多く、撮影には連続性がないことも、台帳との関連性を弱くしている。ただ、現実的には、カラーネガの場合、ほかへ提供することは皆無に近いので、自分だけが理解できればよく、とくに不便を感じるケースはない。

カラープリントの整理は、市販のポケットアルバムに入れるだけ。分野別には編集せず、鉄道以外にも、興味の向くバス、近代建築、街並みも含めて撮影順に入れている。データは撮影日のみ記入、これを頼りに撮影台帳と照合する。

将来的なテーマとしては、ネガの劣化の前のデジタル化であるが、これには全く手が回っていない。カラーネガは、オレンジベースのため、劣化が進んでいるのか一見してよく分からないのも、着手を遅らせる理由のひとつである。ただ、楽観できるのは、ネガをスキャンしてデジタル化した場合の写真修整は、ポジに比べると、技術的には容易に行えること。カラーネガのデジタル化は、とくに急を要するものではなく、優先順位は低い。今しばらくは現状維持と言ったところだ。

写真整理学 -3-

今日は台風の接近で一日家に閉じこもったまま。こんな時こそ、写真の整理の絶好機、何事もコツコツとやりたいものです。
 モノクロフィルム(2)
もうひとつ、モノクロフィルムで大きな問題は、経年による劣化だ。
本掲示板でも、tsurukameさんらからも報告のあったビネガーシンドローム現象がその代表例である。フィルムのベースに、経年による加水分解が起こり、酢酸が発生し、あるレベル以上になると急激な劣化を招く現象だ。初期には酢酸臭とともにフィルムベースが湾曲する程度だが、進行すると、フィルムはストロー状に丸まってしまう。こうなると、引き伸ばし機にも掛からず、スキャンさえ不可能になってしまう。当会では”八つ橋”と京都らしい雅びな愛称で呼ばれるが、実態はたいへん深刻な問題である。個人が所蔵するフィルムだけでなく、図書館などで古文書などを保存しているマイクロフィルムにも、その現象が及んでいる。
ただ、幸いなことに、後述する以外には、私のフィルムにその現象はまだ見られない。この現象が顕著なのは、ある時期に製造されたF社のフィルムと言われている。ある時期とは、昭和40年以前を指すようで、その時期、F社のフィルムは、国産フィルムの中では高価で、値の安いSフィルムをもっぱら愛用していた。結果的には、倹約志向が良好な結果を得ているのは皮肉なものだ。
とは言うものの、昭和40年代前半に十数本はFフィルムを使用しており、酢酸臭とともに、若干の湾曲が確認できた。正常なフィルムにも感染すると言われているので、このフィルムだけは現在、隔離中である。
ビネガーシンドロームの初期状態のF社フィルム、強烈な酢酸臭のため、現在隔離中

意外にネガが健在なのは、保存方法にも理由があるようだ。フィルムは、密封せず、ある程度の空気の流入のある容器に保存するように言われている。私も、ファイバー製の紙箱、プラスチック製の整理ケースに保存しているが、いずれも空気の流入するようになっている。年に一度は、天日に干して虫干しし、乾燥剤も欠かさない。そして、ネガカバーの材質も大きいと思う。私のネガカバーは昔ながらの硫酸紙を使った紙製のネガカバー、これだと、湿気を吸収するが、現在のビニール製だと、フィルムが密着して、フィルムの呼吸ができないように思う。
しかし、ビネガーシンドロームの症状がなくても、フィルムをよく観察すると、出し入れするたびに擦り傷が多くなり、経年によって、粒子に”緩み”が生じているのか、プリントしても軟調気味になって、以前のような締まった写真になかなか上がらない。加えて、長く愛用してきた引伸機もついに手放し、銀塩プリントを自家処理することはできなくなった。将来、フィルム劣化がますます進行することも考え合わせると、フィルムのデジタル化も急務の課題だ。
一昨年から、フィルムスキャン機を導入し、現状では、外部へ提供写真については、すべてデジタル化しており、印刷時の効果実証も得ているが、自家保存を目的としたデジタル化までには手が回っていない。長くお付き合いのある方からの報告では、毎日一定量のフィルムをデジタル化することを日課として、数年かかって数万枚のモノクロフィルムのデジタル化をついに完了したそうである。これぐらいの決意がないと達成は難しい。
モノクロフィルムの将来の着地点は、前記の撮影リストのデータベース化、デジタル化したフィルムとのリンク化を計ることとなるだろう。その実現には、膨大な時間と、絶えることのない熱意・根気が絶対に必要だ。

モノクロネガの整理状況、ネガカバーの番号順に並べてケースに収納。ベタ焼きアルバムの番号とは対応しているので、ベタ焼きで目的のコマさえ見つかれば、即座にネガへたどり着ける。

写真整理学 -2-

モノクロフィルム(1)
写真を媒体別にモノクロフィルム、カラー(ネガ・ポジ)、デジタルに分けると、圧倒的に多いのがモノクロフィルムだ。なんせ1961年、小学校6年生から鉄道写真を撮り始め、2002年に幕を下ろすまでの40年余り、モノクロフィルムで撮り続けた。整理番号「1」から始まった35ミリのネガカバーは、カラーポジのメイン化、その後のデジカメの導入により、「1707」でついに途絶えてしまった。これ以外に6×6も数十本あるから、コマ総数は約6万3000となる。フィルムの銘柄は、初期は国産SSフィルム、大学生の頃からコダック社トライXになり、途中で、国産SSS(ISO200)・ISO400、コダック社プラスXなども試験的に使い始めたが、またトライXに戻っている。多少、粒子は粗いものの、カリカリッとしたトライX独特の描写は大好きだった。高校生の時にフィルム現像を覚えたので、大部分は自家現像処理である。初期は、国産の現像液、その後はずっとコダック社の現像液D76の1:1現像を標準とした。
コマ数は、もっと多く撮っておられる方も多いので、自慢することもないが、唯一、我ながらよくやったと思うのは、すべてのコマのコンタクト(ベタ焼き)を取っていることだ。ベタ焼きは6コマずつに切り、ネガカバー番号別に、アルバムに貼り付けている。アルバムも、年代によって様式が異なるが、総数が67冊になった。ネガではなかなか読み取りにくい中身も、ベタ焼きでは、かなり読み取れる。もちろん、すべてプリントできれば最善だが、費用的にも時間的にも困難だ。
問題は、撮影データとの関連付けだ。大学生の前半まで、まだ撮影枚数の少ない時期は、アルバムにひとコマずつの撮影データを書き込んでいた。ところが、枚数が多くなってくると手が回らなくなり、撮影データを書き留めた台帳に分離する形を取った。こうなると、ひと目で閲覧が出来ない。ベタ焼きはネガカバー単位だが、台帳は流れに任せて、記入の基準も思いつき、杜撰な時期もあって、互いにリンクしていないからだ。目的のコマを探し出そうとすると、場合によっては大仕事になる。
今後の方策は、そのために、関連付けをより密接にした撮影データ一覧化が急務になる。エクセルでデータ化できれば、検索も容易だが、自分の技量と照らすと一気には実行困難で、ひとまず、紙ベースでの手書きリスト化を考えている。自作したA4用紙一枚の撮影リストに、フィルム1本36枚分の撮影内容(撮影場所、列車名、車号、年月日など)を記入するようにする。書くという作業は、記憶にも繋がり、ページを繰るという原始的な検索方法も、一番手っ取り早い。

ベタ焼きアルバムと撮影台帳の一体活用が、モノクロフィルム整理の課題。

佐竹さん、三たび“東北を旅して”写真展

我らが人間国宝、佐竹さんが、3回目となる、東北の鉄道の写真展を開催されている。
    佐竹保雄の鉄道写真展 ”東北を旅して”
    6月2日(土)~30日(土)(月曜日休廊)
    集酉楽サカタニ2階喫茶ギャラリー(京阪七条駅東)
昨年来、東北の鉄道の復興を願って、各所で写真展を中心としたイベントを開催されてきた佐竹さん、今回は、前回展示に加えて、未発表の作品も加えた、約30点を展示されている。聞くところによると、昭和29年に初めて東北を訪問以来、昭和49年に撮影を止めるまで、実に46回も東北へ行かれたそうだ。とても凡人には真似のできない、その厚みだ。
本日は、TUYANとともに、飾り付けの手伝いをしたが、佐竹さんはその準備で前日は徹夜されたそうだ。決して無理されないよう、今後のますますのご活動を願いながら、観覧したいものだ。

東北でいちばんのお気に入りは五能線とのこと。手前はりんご畑の中を行くハチロク。海岸では、一夜干しのスルメをかじりながら撮影されたそうだ。

開催中! 坂本ケーブルで江若復元模型を展示

見る者を感動の渦に巻き込んだ江若鉄道の復元模型運転会から半年、製作された西村さんは、新たに浜大津駅周辺の復元に意欲を燃やされていることは掲示板報告にあるとおりですが、昨年の復元模型に新たなオファーがあり、現在、滋賀・坂本側から比叡山に登る坂本ケーブルの山上駅、延暦寺駅2階ホールで展示されています。
写真のような坂本ケーブルの「85年のあゆみ写真パネル展」の一環として、昨年展示の江若鉄道の三井寺下駅・車庫のジオラマが展示されています。
同駅は、登録文化財に指定された由緒ある建物、また、坂本ケーブルは日本最長のケーブルとして有名で、見どころいっぱいのケーブルに、期間限定の新たな見どころが加わりました。
延暦寺駅へのアクセスの切符は、3000円と少々高めですが、「比叡山横断チケット」がお奨め。京阪各駅から坂本・叡山両ケーブルに乗って、京都側へ降りて、叡電・京阪で帰ることができます。
もっと安くに行きたい向きには、私も先日実行したのですが、叡電修学院からの登山道”きらら坂”から比叡山を目指せば、約3時間で踏破することができます。
会期は5月6日(日)まで、連休後半の一日は、ぜひケーブル延暦寺駅へ。

ケーブル建設同時の貴重な写真も展示

最後の113系阪和色

4月に入って桜も咲き出したというのに、雑務に追われて、外出もままならない状態が続いています。ただ唯一は、先日行われた113系阪和色ラストランの撮影に、山科・乙訓の両老人から賜った18きっぷを使って行ったぐらい。そんな折、準特急さんからは、ぜひ発表せよとの拝命を受けました。背中を押されないと、なかなか行動へ移せない身だけに、ありがたい好機ととらえ報告することにします。
日根野電車区の113系は、永らく阪和線・紀勢本線に充当されていましたが、223系、近年は225系の増備で活躍の場が狭まり、昨年12月に定期運用からは離脱しています。他区への転属を機に、日本旅行主催のツアー専用貸切列車「ありがとう113系阪和色」が3月31日、4月1日の両日、天王寺~周参見間に運転されました。昭和47年の阪和線の新快速設定時に制定された阪和色と言われる、ブルーとアイボリーの塗色車両が記念のラストランを飾りました。
   ▲「ありがとう113系阪和色」は、2日間とも朝に天王寺を出て周参見へ行き、晩に天王寺に戻る1往復のスジで運転された。3月31日はドシャ降りの雨、4月1日も寝過ごして朝は行けず、夕方の戻りだけの撮影となった。できるだけ陽の高い時間帯に撮りたいので、117系の紀勢本線列車に乗って南下を続ける。駅間を歩く気力はなく、結局、乗った電車の終点、御坊まで来てしまった。駅員に聞くと、まもなく列車が来ると言う。選択肢もないまま、ホームの先端へ小走りに移動する。幸い、陽が山側から射して”バリ順”だ。わずかに咲いた桜をかすめるように、クハ111-5262を先頭にする阪和色が入線してきた。   ▲今回の改正で、阪和線・紀勢本線に多くの225系が進出してきた。御坊でも225系の精悍なマスクが見られるとは時代も進化したものだ。ちょうど、左の先頭クハ225-5023は、今回の増備車のようで車内はピカピカ、車内の仕切りには、グッドデザインのプレートが掲げられていた。いっぽうの113系の停車時間は1分30秒、反対のホーム先端まで走り、発車をとらえた。ちょうど、紀州鉄道のキテツ-1も並び、3列車の顔が揃った。

   ▲阪和線は、長く電気機関車がいたこともあって、私としては珍しく定期的に訪れている路線だ。前記のように、阪和線に新快速が登場したのは昭和47年3月改正のこと、東海道・山陽本線の新快速は、この改正で153系”ブルーライナー”に代わった。同じブルーライナー塗色となった阪和線113系の新快速も衝撃的だった。なにせ、旧型国電ばかりの阪和線に、唯一の冷房車、セミクロスシート車は、実にまぶしい存在だった。当時、鳳のみ停車、天王寺~和歌山間を最短45分で結び、かつての阪和電鉄の超特急を思わせる俊足だった。
前部には、羽根形のヘッドマークも掲げられ国鉄時代の天鉄局の意気込みを感じたものだったが、京阪神間と違って、和歌山への直通客も少なく、後年停車駅を増やしたもののパッとせず、結局、昭和53年3月改正で、阪和線の新快速は姿を消し、快速に統合されている。

表彰式行われる!

              積極的に地域に溶け込んだ活動が表彰理由となった

先に報告しました現役の鉄道同好会の学内表彰式が、去る3月16日に大学で行われ、めでたく学生支援センター所長から地域貢献賞を受賞しました。当日の様子を、渉外・広報担当の今林佑太さんから報告を受けましたので、写真とともにお伝えします。

今回で5回目となる文化系公認団体表彰式は、文化系公認団体の活動を一般学生へ広くPRする機会として、また表彰団体の今後の活性化を目的に開催されてきました。本年度は、顕著な功績のあった16団体が表彰され、学生支援センター所長から表彰状、表彰盾、副賞がそれぞれ手渡されました。鉄道同好会は5つある賞のうち、地域貢献賞を受賞することになったものです。
表彰式は、寒梅館ハーディーホールで行われ、各団体が壇上に上がり、学生支援センター所長より表彰状と盾を授与され、各団体の代表者がスピーチを行いました。
「大学から公式に認められた賞の価値は非常に高く、受賞が喜ばしいことであると同時に、今後も大学公認サークル団体として責任感ある活動をするべきだということを身に染みて感じた表彰式でした」と今林さんは結ばれています。
来年、2013年は鉄道同好会創立55周年になります。これを記念して、現役の皆さんは、OBも参加できる楽しいイベントも考えられているようです。
今後とも現役の皆さんの活動を大いに期待するものです。

寒梅館で行われた表彰式と、スピーチする現役・鉄道同好会会長の木村さん

連接貨車

現役では唯一の連接貨車、太平洋石炭販売のセキ6000形。昭和41年から製造され、機関車からの遠隔操作で、側扉の開閉・連結解放が可能(春採)

湯口先輩から釧路臨港鉄道(現・太平洋石炭販売)に、貨車の連接車があったはずだから発表を、とのコメントがあった。確かに撮った記憶がある。準特急さんから横取りするようで申し訳ないが、写真と一筆を。
太平洋石炭販売には、2車体連接式の石炭車、セキ6000形が14組28両あり、現在でも使われている。同社はJR線とは連絡のない、自社線完結の路線のため、このような独自の貨車が考案されたようだ。訪れたのは一昨年のことになるが、このような運炭鉄道が細々ながらもまだ現役なのは驚異に値する。
なお、貨車の連接車は、以前国鉄・JRにも2例あったそうな。ひとつは、車運車のク9100で、三軸車であり車体が中央部分で分割された中央の一輪が連接構造という、たいへん珍しい連接三軸貨車だった。もうひとつは、JR後、トレーラー車体を運ぶために試作されたワ100で、3車体4台車をアダプターでつないでトレーラーを載せる、デュアル・モード・トレーラーシステム用の試作車だった。

本日開催 「鉄道展-東北を旅して-その2」

   ▲さっそく熱心な見学者が訪れ、一点一点を仔細に鑑賞していた、本日開場の「鉄道展-東北を旅して-その2」。

一部のクローバー会会員にはすでに案内していますが、佐竹保雄さん・津田雅司さんによる「鉄道展-東北を旅して-その2」が、本日から開催されています。
あの震災から1年、自分にできることに思いを馳せ、東北へのエールを送り続けることを念頭に、この期間に開催されることになりました。

・3月10日(土)~18日(日) 11:00~17:00 (無休、18日は15:00まで)
・ひと・まち交流館 京都 展示ホール
 (京都市下京区河原町五条下ル東側 市バス「河原町正面」下車)

今回の展示のメインは「東北の鉄道」写真展、C51や木造客車などの佐竹さんの貴重な写真のほか、先般開催されたクローバー会写真展「東北の鉄路を巡る」からも抜粋して展示しています。さらに津田さんは、昨年のラインナップに加えて、震災後に運転されたDD51の牽くタンク列車が新たに再現され、見どころ一杯の展示となっています。

▲佐竹さんも来場者一人ひとりにていねいに説明をされていた
また、会ではつぎのようなイベントも用意。
3月11日(日)14:30~15:00 祈念の集い(展示ホール)
3月14日(水)13:30~16:30 一緒に作ろう祈りのお地蔵様、三線で歌おう
3月15日(木)18:30~20:00 講演会「3・11以後の暮らし」槌田劭先生
設営日の昨日は、クローバー会会員が訪れ、設備の搬入、写真の展示などに汗を流し、夕方には準備完了、本日11時から滞りなく開場、早くも多くの人たちが会場を訪れています。ぜひ期間中にご来場いただき、写真・模型を通じて、美しかった東北を偲び、東北の一日も早い復興に思いを馳せていただくよう、お願いいたします。

   ▲DD51の牽くタンク列車が快走する、模型運転会。津田さんはクローバー会写真展に展示されたDD51重連のタンク列車に刺激を受けたという。

朗報! 現役・鉄道同好会が地域貢献賞を受賞

たった今、現役の鉄道同好会から嬉しいニュースが入りました。
大学学生支援課より連絡があって、鉄道同好会が同志社大学2011年度地域貢献賞の表彰を受けることが決まったとのことです。この賞は、サークル活動などで顕著な功績のあったサークルを部門別に表彰する制度で、寒梅館夏まつりでの地域の子どもとの交流、同志社EVEでの展示活動などが評価されたとのことです。何かと内に内に籠る時代、積極的に地域・社会との交流を図ってきた、現役の皆さんの活動に敬意を表するとともに、今後の更なる活動の深耕を期待するものです。
なお、表彰式は下記のように行われます。
2012年3月16日(金)14:00~ 
同志社大学寒梅館ハーディーホールにて

「きたぐに」「日本海」を送る (5)

「日本海」 -1-

いっぽうの「日本海」、その源流は戦前まで遡る。日本海縦貫線が全通したのが大正13年のこと、2年後には早くも神戸~青森間に寝台車、和食堂車を連結した急行列車が運転される。戦局の悪化に伴い、昭和18年に廃止されるが、戦後の昭和22年に、大阪~青森間の急行として復活を果たした。
その後、特急だけでなく、急行列車にも愛称を付けることになり、昭和25年10月ダイヤ改正から、この列車には「日本海」の愛称が与えられた。このダイヤ改正では、東海道・山陽本線を中心とした急行12本に「明星」「彗星」などの愛称が付けられた。当初の「日本海」は座席車のみだったが、のちに特2、2等寝台、食堂車が連結され、長距離急行らしい編成とはなるが、日本海縦貫線はまだ電化には程遠い状況で、青森までは23時間近くを要していた。
転機となったのが昭和36年10月改正で、日本海縦貫線では初の特急となる「白鳥」が誕生、有効時間帯の調整のため、「日本海」は時刻が大幅に変更され、さらに新津・新発田経由を改め、新潟にも立ち寄るようになり、大阪~新潟間のアクセスが向上した。その後も、電化の進展により、到達時間も次第に短縮されるようになるが、なにせ長距離を走り抜く客車列車、”遅くて汚い列車”のイメージが付きまとった。
  ▲新幹線開業直前の山科でとらえた、急行時代の「日本海」(昭和39年)
そして、昭和43年10月改正、日本海縦貫線に待望の寝台特急が新設される。列車名は「日本海」がスライドして使用され、従来の急行「日本海」は「きたぐに」に変更された。
車両は20系オール寝台の9両編成、翌年からは13両に増強される。牽引機は、大阪~米原EF65、米原~田村DE10、田村~金沢EF70、金沢~新津EF81、新津~秋田DD51、秋田~青森DD51だった。
  ▲特急となった初日の「日本海」を、福井国体のお召し撮影の途上、米原で写すことができた。交直接続はDE10が牽引、DE10としては初の特急牽引となった(昭和43年)▲▲田村以降の牽引はEF70だった
  ▲DD51に牽かれて奥羽本線を行く特急「日本海」。新設から1年間は20系の9両編成だった(白沢付近、昭和44年)  ▲雪煙を上げて羽越本線を疾走する(象潟付近、昭和46年)
昭和47年10月改正で、羽越本線の電化が完成、これで米原~田村間を除いてEL牽引になるとともに、大阪~米原間はEF58牽引に変更される。
昭和50年3月改正で米原経由から湖西線経由となり、客車も14系寝台車となった。季節臨の特急「日本海」1往復が14系座席車で増発され、昭和53年10月改正からは定期列車に格上げされた。この結果、「日本海1・4号」「日本海3・2号」の2往復体制となり、客車はそれぞれ24系25形、24系寝台車となっていた。
その後も改正のたびに、客車編成の移管、共通運用の変更、両数の増減などが行われる。JR化後の昭和63年3月、青函トンネルを含む津軽海峡線開業により、「日本海1・4号」は函館まで延長された。
  ▲米原~大阪間の直流区間は、当初EF65牽引だったが、途中で他のブルトレとともにEF58に変更された。(山崎付近、昭和50年)
  ▲「日本海」のEF58牽引は2年半続いた。大阪へ到着後、向日町運転所へ回送されるため、山崎では往復が撮影できた(山崎付近、昭和50年)  ▲京都駅を発車した「日本海」の後部ナハネフ20、20系の活躍は7年間続いた(昭和50年)

「日本海」「きたぐに」を送る (4)

「きたぐに」 -4-
  ▲定期列車としては残りわずかとなった「きたぐに」(保内付近)
2年前、「きたぐに」の乗車ルポを書くようにとの依頼が出版社から入り、大阪から自由席に乗って新潟まで行ったことがある。一年を通じて流動の少ない冬のこと、車内はガラガラだったが、仔細に観察するとさまざまな発見があった。
  ▲大阪駅で発車を待つ。駅改良工事のため10番線からの発車
旅客の流れにも、単に関西と新潟を結ぶ夜行と結論づけられないものがある。定期券でも乗れるため、彦根・米原・長浜などへの最終電車的な役割がひとつ、北陸本線内では一番電車的な役割があり、例えば、直江津で北越急行乗り換えで上越新幹線で首都圏へ向かえば、8時44分に東京着が可能だ。また上りで見ると、「はるか」に乗り換えて早朝の関空便搭乗という手もある。料金においては、夜行列車は夜行バスに勝ち目はないが、大阪~新潟間で見ると、バス9450円(通常期)、きたぐに自由席9675円(往復割引適用)と、唯一拮抗している例であり、バスに比べて格別に車内が広い「きたぐに」に軍配が上がるはずだ。
  ▲金沢では、留置中の485系と顔を合わした

  ▲信濃川が見えてきた
末端区間の新津~新潟間では、下りが昭和63年3月から快速となっている。新潟着が8時29分で、多くの通勤客の乗車がある。その観察も今回の出版社からの要請であった。確かに、自由席車4両を目掛けて、各駅からの乗車がある。ただ、不可解だったのは、夜が明けて、長岡、見附、東三条あたりからも、一見して通勤客と判る乗車がある。しかし、ここはまだ急行区間だ、果たして急行料金の収受が正しく行われているのか疑問に思わざるを得ない。と言うのも、西日本区間では、乗車のある都度、過剰なくらいに車内改札を行っていた専務車掌が、東日本区間に入った途端、ぱったり車内改札を止めてしまった。もともと東日本では、無人駅区間でも、車内改札が全くないどころか、車内巡回すらないのは、前から気になっていた。まるで東日本に遠慮したかのように弱気になってしまったのが今でも気に掛かる。
新潟駅に到着して、続々と降車する客を見ていると、「きたぐに」は当分安泰で、北陸新幹線の開業時までは現状維持かと推測して、そのルポを締めたものの、フタを開けてみると、定期列車の廃止という、意外な終幕が巡ってきた。

 

 

 

 

快速区間の新津以降の自由席車内
  新潟に到着、ホームは下車客で賑わう

「日本海」「きたぐに」を送る (3)

  

583系電車になった「きたぐに」(山崎、平成4年)

「きたぐに」 -3-
14系客車の「きたぐに」は、昭和60年3月改正からは、向日町運転所の583系電車12両編成に置き換えられる。583系は、夜行特急の廃止、他形式への置き換えにより、主な働き場所であった山陽・九州地区からは、昭和59年2月改正で撤退しており、大量の余剰を抱えていた。一方の14系客車は、まだ車齢が若く、ほかへの転用が可能だった。「きたぐに」から捻出された14系客車は、20系の急行「銀河」を置き換えた。
「きたぐに」にはA寝台の固定的な需要があることから、ロネを連結することになり、3段寝台のサハネ581を2段式A寝台に改造したサロネ581が誕生した。特急形電車では、初の”格上げ車”である。また形式はそのままで、寝台機構をロックした座席専用車も誕生した。
ところで「きたぐに」のネーミングだが、昼行急行の愛称は、旧国名、観光地などの地名が原則であることと照らすと、「きたぐに」という抽象的な名詞は、その範疇からは外れるように思われた。ところが、本で由来を見ると、京から新潟へ向かう古道の北国街道が由来で、これを訓読みしたのが「きたぐに」だと言う。どうも眉唾ものだが、これなら固有名詞だから理にかなっているとは言える。しかし、それなら正しく「ほっこく」とすべきだろう。
 

当初は583系12両編成だった(山崎、昭和61年)。昭和61年11月改正から10両に減車された。
 

平成4年度からシュプール&リゾート色へ変更され、翌年には全車の変更が完了した(山崎、平成6年)
 

さらに平成9年度からはJR西日本の特急の標準色である、現在の塗色に改められた(山崎、平成20年)

「日本海」「きたぐに」を送る (2)

「きたぐに」 -2-

12系化された「きたぐに」。ただし後部のハネ・ロネは10系のままだった(山科/昭和55年9月)

米原区のEF58が牽く、14系化された「きたぐに」、よく整備された大窓機だった(神足~山崎/昭和58年11月)
大阪~青森間の客車急行となった「きたぐに」には、一度だけ全区間乗ったことがある。昭和47年2月のことだが、当時は途中下車して撮りたいところがヤマほどあって、全区間を乗り通すようなことはしなかった。その時は、途中下車は帰途にすることにして、一気に北海道まで行ってしまう算段をして、大阪22時13分発の「きたぐに」に乗り込んだ。5号車ナハ102012だった。大阪・京都でほぼ10割となったが、糸魚川、直江津、新潟で大量の下車があって、以降はガラガラだった。後年の新潟以北の廃止も納得できたものだった。同じボックスに座った一人旅の男も北海道行きで、話が弾んだことを覚えている。青森着は17時38分だった。
昭和47年10月、日本海縦貫線の全線の電化が完成し、牽引機はすべてELになった。その直後の11月6日、深夜の「きたぐに」に悲劇が起こる。北陸トンネルでのオシ17の火災だ。焼死者30人が出る惨事となった。会社の同僚で、敦賀出身のものがおり、たまたま当日は帰省していて、事故直後の様子を敦賀駅で目撃していた。会社で会うと、息せき切って生々しい様子を話してくれた。原因となったオシ17はその日から欠車となった。そして、昭和48年10月には、ハザは旧型客車から12系客車になった。
昭和57年11月の改正で、運転区間は大阪~新潟間に短縮された。編成も座席車・寝台車ともオール14系客車化された。
翌昭和58年4月には牽引機関車の運用が変更され、米原~田村間交直接続のDE10に代わってEF81〔富二〕が米原~新潟の牽引に就く。さらに翌昭和59年2月からは、大阪~米原間はEF58〔米〕に代わり、EF65〔宮〕がその任に就くものの、客車の時代は長くは続かなかった。

     安土駅を通過する「きたぐに」。湖西線開業後も「きたぐに」だけは米原経由だった(昭和58年9月)
 

 EF65PFに代わってからは時折ヘッドマークが掲げられた。これは正月の「頌春」(神足~山崎、昭和60年1月) 

 客車最終日となった大阪駅、「北国」のヘッドマークを付けたEF65PF(昭和60年3月10日)

「日本海」「きたぐに」を送る (1)

「きたぐに」 -1-

3月のJRダイヤ改正で消える列車・車両は多いが、なかでも「日本海」「きだぐに」の定期列車からの撤退が話題を集めているようだ。今日も阪急に乗っていると、例の名神クロスは「日本海」狙いの人間が多く見受けられた。先日のクローバー会の写真展打ち上げで、大津の86さんから聞いた話では、「日本海」の寝台券を求めて発売初日に最寄り駅へ行ったところ、午前10時にもう売り切れ、A寝台だけ残っていると言われ、少しの間逡巡していると、もうA寝台も売り切れと言われたそうな。
「日本海」「きたぐに」は、臨時では残るものの、一昨年臨時となった「能登」が、今春には設定がなくなったように、完全廃止は目に見えている。
関西では「日本海」「きたぐに」は馴染みの列車だけに、いくつかの記録を残してきた。「きたぐに」から、その足跡を辿ってみよう。

田村付近を行く初代「きたぐに」(昭和41年)。新潟行きの昼行気動車急行だった。「奥能登」を併結した12両編成
昭和36年10月改正で金沢~新潟間の気動車急行が誕生、「きたぐに」と命名された。今まで同じ日本海縦貫線上にありながら、石川県と新潟県を結ぶ急行はなかった。さらに、福井~金沢間の交流電化が完成した昭和38年4月改正で大阪まで延長され、「きたぐに」は、大阪~新潟間600kmを結ぶ幹線の急行へと成長する。編成も8両編成となり、輪島発の「奥能登」(下りは和倉着)と併結する大阪~金沢間では12両もの長大編成となり、幹線急行にふさわしい列車となった。

雪の米原~坂田間を行く「きたぐに」(昭和42年)。当時はもちろん湖西線は未開通(と言うか、江若がバンバン走っていた時代)、北陸へ向かうすべての列車は米原経由で、運転頻度はすこぶる高かった
 昭和43年10月改正では、日本海縦貫線に寝台特急が新設された。従来、大阪~青森間の客車急行であった「日本海」の愛称を、そのまま新設特急に召し上げた。玉突き式に客車急行を「きたぐに」501レ502レと改め、気動車急行は「越後」と改められた。
大阪~青森間の客車急行に生まれ変わった二代目「きたぐに」の編成は、ロネ、ハネの寝台車は夜行区間の大阪~新潟間に連結され、新潟以北はロザ、ハザ、シの編成となった。ちなみに牽引機は、大阪~米原EF58〔宮〕、米原~田村DD50・DE10〔米〕、田村~糸魚川EF70〔敦二〕、糸魚川~新潟DD51〔東新〕、新潟~秋田DD51〔秋〕、秋田~青森DD51〔秋〕であった。

矢立峠を越える二代目「きたぐに」(陣場~津軽湯の沢、昭和44年)。この区間では、座席車に食堂車の昼行急行の編成だった

唯一補機が付いたのが大館~弘前間で、矢立峠を越すために、上下とも後部にD51〔弘〕が付いた(陣場~津軽湯の沢、昭和44年)

笹川流れを行く「きたぐに」(昭和44年)。ロザ、ハネ、ハザ、シ、ユと、何でもありの典型的な急行列車だった。

写真展アンケートから

▲集まったアンケート、貴重な意見が多く、今後の指針となる
開催して一週間が経過した写真展、先週末には会場近くで打ち上げも行われ、14名の会員が集合して賑やかに楽しく行われたのであった。
時間が経過すると”ボロ”も出てくる。写真の不備やキャプションの間違い、それにガラス張りの中で照明の光源で熱せられた写真は、どうしても変形が生じてしまう。
本日、その補修作業を進めていると、立会いのギャラリー運営者から「ごっつ来てまっせ」と言われて示されたのは、アンケートの束であった。なるほど用意したアンケート用紙はすべてなくなっている。
そこで今回は、回答の中から、今後の参考になりそうな事柄を選んで紹介してみよう。
「来場のきっかけは」
「たまたま通ったから」が約半数で第1位、これが不特定の人を集めることができる通路にあるギャラリーの長所でもある。「駅のポスターを見て」が第2位、今回は地下鉄烏丸線の全駅にA3ポスターを貼ってもらった。さすがは一日十数万人が利用する地下鉄駅だけの効果はある。次いで「知人の紹介で」、各会員から呼びかけをしてもらったお蔭である。意外と少なかったのが「鉄道雑誌の案内を見て」で、雑誌によってはページ左上と最上位の位置に掲出してもらうなど、かなりの期待値があったが、あまり動員には結びつかなかった。
「お気に入りの作品は」
これはさまざまで、個別のタイトルを挙げておられるケースも多かった。印象に残った言葉は、人間国宝の撮られた東北の古い写真に「素晴らしいのひと言」。他の会では、決して真似できない、当会の至宝だと改めて認識した。
「性別・年代は」
アンケートを記入してもらえるのは、どうしても高齢者が多い。今回も、「60歳代以上」が3分の2程度を占めたが、中には「20歳代女性」というケースも見られた。男女別では、3:2の比率であった。
「お気づきの点は」
さまざまな意見があったが、「テーマを絞ったほうがいい」が数件あった。これも悩ましいところで、テーマを絞れば、確かに写真展としての主張は明確になるものの、逆に応募の減少が懸念される。その折衷案として、今回のようなフリーテーマとテーマ展示の2本立てに落ち着かざるを得ないところだろうか。そのほか、キャプションの位置や、プリント用紙の光沢に言及される意見もあり、今後の大きな指針となった。

▲突如会場に現われた高齢者集団! 実は、過日の打ち上げ集合時の様子

▲打ち上げで、乙訓老人の講話をしんみり聞く会員

浜大津駅、ありました。

西村さん
出てきましたよ、京阪浜大津駅。たまたま入線・出発シーンとも、撮っていました。下の写真2枚を見ますと、1番線に三条発の準急が入線し、2番線から三条行き準急が出発しています。つまり、1番線が石山寺行き、2番線が三条行きと考えられます。ただし、撮影年代は、昭和55年11月の浜大津駅再開発工事の最中で、浜大津駅が姿を消すと聞いて出掛けた時でした。江若廃止から10年以上経過していますが、運転ルールは変わっていないと思います。かすかな記憶をたどると、京都へ戻るとき、改札から櫛形ホームの端を通って電車に乗ったような気がします。
ついでに駅舎の入った写真も載せておきました。お役に立てれば幸いです。

▲(上)1番線に三条発が入線し、(下)2番線から三条行きが出発

▲この季節、駅舎の上の看板は、「ひらかた大菊人形」が定番だったようだ

▲ラッチ内から石坂線の電車を見る。1番ホームに接して本屋があった

クローバー会写真展 続報

好奇心が旺盛な子どもは間違いなく興味を示してくれる。この子は、カラーは顧みず、モノクロの東北の鉄道に興味を示す渋い子だった。

女性の観客が多くなったのも、最近の特筆すべき現象だ。しかも一様に仔細に見定めている。この女性、一点一点カメラに収めていた
開場して4日目を迎えたクローバー会写真展、もうご来場いただけただろうか。さきほど山科の人間国宝からも電話が入った。案内を出された方から連絡があって、皆さんから称賛の声があったと喜んでおられた。一昨日は、はるばる関東から準特急さんが、バスと近鉄を乗り継いでご来訪、じっくりと鑑賞された。さすがは慧眼の士、キャプションの間違いを即座に見つけられた。
しばらく会場で定点観察していると、通り過ぎる人の様子がよく分かる。会場は地下鉄駅の通路だが、数年前と比べると、地上にビルが集積してきたせいか、ずいぶん人が増えた。通行のみが99%だろうが、写真展を無視して通り過ぎるのはほとんどいない。みんな一様にチラリと瞥見して行く。そのうち短時間でも足を止めて見入るのは2割程度と言ったところで、年代、性別はさまざまだ。朝5時の始発から晩24時の終電まで開いている会場だから、見学者の総数はかなりに上るのではないか。専門のギャラリーでは、敷居の高さに阻まれて、こうは行かない。このようなことが可能なのも自由通路にあるギャラリーだからこそと納得した。

クローバー会写真展「鉄路輝く」明日から開催!

会員の一致協力で準備が進められてきた当会の写真展「鉄路輝く」、14日の開催を前に、本日いよいよ設営となった。
午前中、写真展の秘密基地となった、京都は壬生屯所近くの某会長宅に集結した精鋭部隊は、最後の仕上げを行った。昼は上にぎり+おまけの豪華昼食で英気を養ったあと、午後1時、地下鉄烏丸御池駅にあるギャラリーへ勇躍乗り込んだのであった。
そこには、最近、会社を放免になった部隊が待ち受け、100点余の写真が通路上に並べられ、壁面への貼り付けが開始された。そうこうするうち、山科の人間国宝がゆっくりとお見えになった。「心配で心配で」とおっしゃりながら、我々の作業を暖かく見守っていただいた。
さらにそこへ、手ぬぐいをマフラー代わりにした乙訓老人までが姿を現した。こちらは、写真の傾きを厳しくチェック。もうこれ以上望むことができないほどの豪華メンバーが揃った。聞くところによると、老人は明日、わざわざ東京都庁の地下まで行って、写真展のPRに務めるとのこと、老人の思慮深い思いやりに、全員いたく平伏したのであった。
途中、取付けピンがなくなり、あわててぶんしゅう号で買出しに出かけるなどの想定外の出来事があったものの、午後5時にはすべての作業が終了した。終始、一糸乱れぬ団結ぶりで作業をやり遂げるのは、やはりクローバー会のよき伝統であると痛感した。山科の人間国宝をして、「すごいですなぁ」と言わしめた今回の写真展、いよいよ明日から開場だ。

設営作業に汗を流す会員、金槌を叩き続ける音が地下鉄の駅に響いていた

きれいに設営されたギャラリー、さっそく足を止める人が多く見られた