阪和貨物線廃止

JR西日本は11月17日付けで近畿運輸局に関西本線八尾と阪和線杉本町を結ぶ通称阪和貨物線(正式には関西本線の一部)の廃止届を提出した。「問題なし」と認められれば、1年後の平成21年11月18日付けで廃止となる。理由は「平成16年7月以降使用を停止しており、今後も使用する予定がないため」としている。

阪和貨物線は関西本線と阪和線の短絡を目的として昭和27年9月1日に開通した。当線を走った定期旅客列車は、名古屋発着の「くろしお」の車両基地への回送を兼ねて、昭和40年3月1日から昭和42年9月30日まで東和歌山~名古屋間を運転された特急「あすか」のみであったが、臨時列車、団体専用列車は時折運転されていた。記憶に新しいところでは、昭和62年に京都から奈良線、関西線、阪和貨物線、阪和線経由で紀勢本線白浜まで381系で運転された「ふれ愛紀州路号」がある。また、昭和48年9月20日、関西本線湊町~奈良間が電化された際、当初線内に電車区がなく、昭和60年3月奈良電車区が開設されるまで同区間に使用される電車は日根野の所属で、当線を経由して送り込みが行われた。(これが原因で奈良電車区の103系は向きが逆になっている)

 杉本町駅から阪和貨物線に入る東和歌山発名古屋行特急「あすか」   (昭和41年5月27日撮影)

途中の停車駅は、堺市、王寺、奈良、伊賀上野、亀山、四日市であった。和歌山、奈良から名古屋へのビジネス客を意識した時間設定であったが、乗り換えが伴っても新幹線や近鉄特急を利用した方が速かったため乗車率は低迷した。また、「あすか」の停車に合わせて「金岡」は「堺市」改称した。

 クハ111-32を先頭とする回送電車で吹田工場からの出場車           (昭和48年11月11日)

 ED608の引く和歌山方面行貨物列車 (昭和48年11月3日)

ED60のラストナンバーで、昭和35年川崎重工兵庫工場製。新製以降昭和61年廃車になるまで、一生を阪和線で過した。

 

 EF527の引く竜華操車場行貨物列車 (昭和48年11月3日)

昭和2年川崎重工兵庫工場製。最初の配置は国府津区で東海道本線東京口で活躍。その後中央東線用として甲府区に転属、昭和32年鳳区に転属した。昭和51年廃車となったが、生れ故郷の川崎重工業兵庫工場で保存されている。 

 EF15120の引く竜華操車場行貨物列車 (昭和48年11月18日)

昭和29年三菱重工三原工場製。最初の配置は新鶴見でその後宇都宮に転属、再度新鶴見に戻り、昭和45年に竜華に転属してきた。昭和58年に廃車となったが、摂津市の新幹線公園に保存されている。

 

 ED604の引く竜華操車場行貨物列車 (昭和48年11月3日)

昭和33年汽車製造大阪工場製。当初作並機関区に配置され、仙山線の直流区間で使用、2年後の昭和35年鳳区に転属、以降昭和60年廃車になるまで阪和線で活躍した。

 

 ED6117 (昭和49年1月4日)

昭和34年東芝府中工場製。当初甲府区に配置され中央東線で使用、昭和47年に竜華区に転属、昭和53年、浜松工場で飯田線用のED6216に改造された。阪和線のED61は、17、18の僅か2両の在籍で、しかもED62に改造のため昭和53年に姿を消したため、あまり目立たなかった。

都電荒川線

【345】で9月27日に都電荒川車庫で開催されたイベントの模様を紹介した。ご存知の方も多いと思うが、荒川線の前身は「王子電気軌道」という私鉄で、戦時中の昭和17年2月1日付で電力統制、交通統制により、当時の東京市に買収されたものである。昭和42年都電撤去計画が策定された時、荒川線も計画に入っており、モノレール化が検討されたこともあったが、元々乗客が多く専用軌道が多いこと、沿線住民の反対等により存続が決定した。但し、併用軌道の王子駅前~赤羽間は昭和47年11月12日に廃止された。買収路線であるため、「買収都電」が存在した。旧国鉄の「買収国電」は「阪和形」以外は、車齢の若い車両も含めて早々に姿を消したが、「買収都電」は昭和43年まで在籍し、その内の1両は現在も宇都宮市郊外の企業で保存されている。

昭和40年台から現在の車両に変わるまでの間、荒川線で活躍した車両は、下記の通りである。

160形、170形

王子電気軌道200形として昭和2年から4年にかけて201~223の23両が作られた。昭和17年東京市買収時にメーカーの相違により下記の通りの形式に別けられた。

201~207 田中車輛製 → 150形(151~157)

208~215 日本車輛製 → 160形(161~168)

216~223 川崎車輛製 → 170形(171~178)

 150形は川崎市電に譲渡した1両を除き、昭和27年3000形の改造種車となり廃車。160形は事故廃車された1両を除き、昭和42年~43年に廃車。170形は川崎市電に譲渡された1両、3000形の種車となった2両を除き、昭和42年~43年に廃車となった。廃車後176が宇都宮市郊外の企業に屋根付で保存されている。

 

昭和41年3月11日    王子駅前

 昭和42年3月25日    大塚駅前

 昭和41年3月11日    王子駅前

1000形

昭和7年から11年にかけて木製車の台車、部品を使用して作られた車両である。昭和40年頃の状況では、160形、170形は主力として終日使用されていたが、昼間は殆ど見かけなかったので、ラッシュ時以外はあまり使われていなかったのかも知れない。

                 昭和41年3月11日    須田町

荒川線で撮影したものがないので20系統を掲載した。20系統は江戸川橋から護国寺、駒込千駄木町、上野公園を通り須田町を結んでいた。

2500形

1067mm軌間の杉並線の廃止に伴い、1372mmに改軌の上、転属してきた車両で、バス車体の工法で造られた。昭和33年に2501、2502が交通局芝浦工場で、昭和34年に2503~2510が富士重工伊勢崎工場で作られた。車体幅が狭く、乗客の多い荒川線には不向きのため、早々に早稲田車庫に転属した。

 

昭和41年3月11日    王子駅前

 昭和43年9月6日 早稲田(早稲田車庫に転属後) 

 昭和41年3月11日    王子駅前

3000形

昭和24年から28年にかけて、主に木製3000形、王子電気軌道からの引継車を種車として作られた車両で、一部純然たる新製車も存在する。290両在籍し、4000形、6000形と共に都電の顔として活躍した。

                 昭和41年3月11日    王子駅前

 

昭和44年9月13日    王子駅前

19系統は王子駅から飛鳥山まで荒川線を走り、駒込駅前、東大赤門前、神田明神前、須田町、日本橋を通り、東京駅八重洲口を望む「通り3丁目」を結んでいた。

 6000形

昭和22年から27年にかけて290両作られた、戦後の都電を代表する形式の一つである。製造年別、製造所別の差異、初期の車両は更新による差異があり、細かく観察すると興味が尽きない。6000形については、江本廣一氏著、ネコ・パブ社RM LIBRARY19「東京都電6000形」に詳しくかつ判りやすく解説されているので、興味のある方はお読みいただきたい。

【345】で紹介した保存車6086は、昭和24年日本鉄道自動車製で、昭和41年大栄車輌で車体の更新修繕を施工している。

 

昭和52年1月24日  荒川車庫前(荒川線で現役の頃)

 

昭和52年1月24日 荒川車庫前(昭和26年 局工場製)

  7000形

6000形に代わって昭和28年から31年にかけて93両作られた。正面2枚窓、前中扉と従来の都電スタイルから大きく脱却し、都民からも大きな関心を持って迎えられ、不満が出ないように各車庫にばらまくように配置された。製造年度によりスタイルに差があり、28年製の7021~7030の10両は旧型車の部品流用車である。現在の7000形は旧7000形の昭和31年製第3次グループ(7055~7089)の内の31両で、昭和52年から53年にかけて施工された新造車体に乗せ替え時に、旧番の若い順に7001~7031に改番したものである。

 

昭和52年1月24日   荒川車庫前

8000形

昭和31年から32年にかけて100両作られた。都電の将来を見越して耐用年数を10~12年程度に抑えたため、シンプルな作りとなっている。上記の7000形同様、各車庫に分散配置された。

 

昭和44年9月13日    王子駅前

 

昭和44年9月13日    王子駅前

7500形

昭和37年、都電が荒川線のみとなる前の最後の新車として20両作られた。ヘッドライトが2個となり台車と連動して可動した。当初は青山車庫の所属で都心で使用されていたが、路線廃止により余剰廃車となった7517、7519以外は、最終的に全車荒川車庫に集結した。昭和59年から62年にかけて、7502、7504、7508の3両以外は新造車体に乗せ替え、7502、7508は直ぐ廃車されたが、7504は朝のラッシュ専用車として平成10年頃まで使用され、現在「都電おもいで広場」に保存されている。現存車両も車体乗せ替え後20年以上経過しており老朽化は否めず、新製車と代替される予定となっている。

 

昭和52年1月24日   荒川車庫前

都電荒川線は我が家から比較的近い所を走っている。5年前までは、早稲田から徒歩15分の所に職場があり、会社の帰り、気が向くと、町屋、大塚、王子まで利用した。王子駅前を境に雰囲気が異なり、三ノ輪橋方面は下町でかつての伏見線の雰囲気とダブってくる。今は休日に町屋駅前から利用することが多いが、一日を通して乗客が多く、昼間は5分間隔で運転されているが満員である。しかも高齢者の利用が多いため座席に座ったことがない。7500形の引退が報じられているが、車齢を考えると引続き7000形も引退するものと思われる。

記憶の中の京阪電車 (2)

京阪電車で、まず頭に浮かぶのは「特急」であろう。我々の世代が現役の頃は1900形の全盛期であった。1900形の特徴は、他社の特急車両に固定編成が多かったのに対し、各車単独車両で、自由に編成が組めた点であろう。それ故、○時の特急は「1新車5ピンク」だったとか「4新車2ピンク」だったとか編成そのものが話題になった。「特急」は京阪の看板電車であり、特急を利用できない乗客にとっては「よそ行き」の電車に見えた。私の場合は通学の6年間、通勤の2年間、自宅、通学通勤先の最寄駅共に特急停車駅でないため、急行以下のいわば「普段着」の電車を利用した。その頃の思い出を断片的ではあるが紹介して、同世代の皆様に「ああ、そんなこともあったなぁ」等と思い出していただければ幸いである。

1000系の珍編成

昭和43年10月10日、昼休みにBOXに行くと、京阪で通学していたA君から「宇治行で1100+1000+1200の3両編成を見た。1100と1000は同じ向きに連結されていた」という話を聞いた。午後から授業があったかどうかは忘れたが、直ぐに自宅に戻り、カメラを持って中書島に行き、暫く待つと、1202+1005+1107の3両編成が来た。こんな編成を見たのは初めてで、この電車で六地蔵まで行き、折返しの三条行きを撮影した。

中書島に進入する 1202+1005+1107の3両編成

1005と1107の連結面

木幡~六地蔵間を走る 1202+1005+1107

1107 

市電800形連結車

この日は次のようなオマケが付いた。自宅に戻るため中書島から市電(839)で伏見線を北上し、勧進橋まで来たところで、動かなくなり、乗客は全員降ろされた。暫くすると稲荷から来た(852)を頭に連結、先ほど降ろされた乗客を全員乗せて発車して行った。

当時の伏見線は昼間オール800形、ラッシュ時に500形が応援に入り、たまに600形が入った。最新の700形はまず入ることは無く、900形は正月、節分、初午の超繁忙期のみであった。

 

故障で立往生している⑱(839)の頭に⑲(852)を連結

⑱(839)を牽引して発車

記憶の中の京阪電車(1)

10月19日、中之島線が華々しく開業し、関西在住のクローバー会の皆様の中には初日に乗りに行かれた方も多いのではなかろうか。私自身、京阪電車とは昭和35年4月から6年間通学で、昭和54年5月から2年間通勤でお世話になった。毎日乗っている電車は、いつでも撮影できると思い込み、結果的に撮影しないというのが通例と言われているが、私も例外ではではない。とは言うものの、肝心なことは忘れても、些細なことは意外と覚えていることがある。そんなことを時折思い出しながら書いてみた。

 天満橋行

中之島線開業の影で、天満橋発着の定期列車がひっそりと姿を消した。天満橋行の行先板が黄色であったことはよく知られているが、それ以前は通常の行先板の他に向かって右側に「天満橋」の円板を付けていた 写真は昭和39年9月19日土曜日、学校帰りに寝屋川車庫を訪問した時に撮影したものである。

当時、本線の昼間のダイヤは20分サイクルで、淀屋橋~三条間の特急、急行、普通各1本、淀屋橋~枚方市間の区間急行が1本、天満橋~萱島間の普通が1本であったと思う。朝のラッシュ時も基本的に20分サイクルで深草(一部八幡町または三条)~淀屋橋間の準急が1本、枚方市から先は、枚方市始発の急行が1~2本加わった。この急行は白地に赤文字の円板で、時刻表には「大急」と表示され、枚方公園と寝屋川市にも停車した。また、淀屋橋開業以前、枚方市始発の区間急行で、枚方公園、光善寺を通過するものが1本あり、枚方市を発車する時は「臨」の円板を表示し、香里園で正規の区間急行の行先板に差し替えた。 

 

 

 

1300形と1600形の整った4両編成、

 1301は昭和36年3月8日、樟葉駅大阪寄りの渡り線付近で発生した脱線事故復旧時に、雨樋の位置が若干高くなりスタイルが変化した。この事故は23時40分頃現場を通過した三条発天満橋行急行(1306+1657+1658+1301)が脱線、最後尾の1301が築堤から転落したもので、隣の1658との連結器が切れなかったため、宙ぶらりん状態となった。翌日の3月9日、いつも通り中書島7時9分発の急行(1203+1505+1204+512+511)に乗車すると、八幡町で事故による枚方市まで単線運転のため暫く停車、同駅の大阪寄りの渡り線をバックして上り線へ、そのまま枚方市に向けて出発した。樟葉の渡り線は事故のため使用できず、枚方市までの単線運転となったのであるが、列車本数が少なかったのでこのようなことができたのであろう。(車号は当時のメモによるが文字が消えかかっているため誤りがあるかも知れない)帰りは未だ復旧しておらず、枚方市~八幡町間はバス代行であった。ちなみにその3カ月程前にも橋本駅の八幡町寄りで脱線事故があり、この時は八幡町~樟葉間が単線運転であった。

その後、大きな事故に遭遇したのは、昭和55年2月20日の枚方市~御殿山間で発生した置石による脱線事故で、勤務先からの帰宅時であった。萱島から普通に乗り香里園で乗換えた急行がこの列車で、枚方市で座れて一息ついたところで急ブレーキがかかり、大きく2回揺れ、車内灯が消えて停車した。前を見ると電柱が曲がっているではないか。最後部に乗っていたので事なきを得たが、先頭車両に乗っていたらと思うと今でもゾッとする。電車から飛び降りて線路から道路に出て駅に戻ったが、バスターミナルは乗客で溢れており、高槻、茨木方面のバス、運転を始めた代行バスともに超満員でとても乗れそうになく、諦めて樟葉まで歩こうと思い、牧野まで来たところで代行バスが停まり、降りた人がいたので乗ることができた。樟葉からの三条方面の電車はオール各駅停車で、行先札は付けずに「臨」の円板を付けていた。

寝屋川車庫 

事故の話題になってしまったが、当日寝屋川車庫で撮影した画像を紹介する。

1807

 

 

1852

 

1307

601 

651

632 

1659 

309

310 

601の台車

651の台車

【参考】昭和36年頃、朝の中書島発下り電車の編成

 6時48分急行 1000(1100)+1500+500+1500+1000(1100)

7時 9分急行 1200+1500+1200+500+500  (後2両は700+700のこともあり)

7時28分急行 1650+1300+1300+1300+1650

普通は2分、22分、42分発、八幡町で急行退避

3両編成で1000(1100)+1500+1000(1100) が多かった。

準急は16分、36分、56分発、枚方市で急行退避

4両編成で 600+500+1500(160016)+600が多かった。 

何分にも半世紀前の話で思い違いがあるかも知れない。

EF551 営業運転終了か

10月17日、JR東日本から冬の増発列車の発表があり、その中で、12月13日と14日に高崎~水上間に「さよならEF55みなかみ」、1月17日に上野~横川間に「さよならEF55碓氷」が運転されることが判明し、EF551はこの列車で営業運転を終了する見通しとなった。思えば昭和61年、長期休車から奇跡の復活を遂げ、以降イベント列車を中心に運転されていたが、ここ数年は運転回数が減少していた。また、平成16年3月25日から4月3日までの間、交通博物館の閉館記念イベントの一環として神田川沿いに展示され注目を浴びたことは記憶に新しい。

復活当初の画像から当時を振返ってみたい。

(1)   復活営業の一番列車

復活営業の一番列車は昭和61年7月25日に高崎~水上間で運転された「EF55復活記念列車・GOGOTRAIN」であったと記憶している。この列車を水上駅で撮影したが、EF55もさることながら、もっと感激したのは最後尾の戦災復旧3軸ボギー車「スエ7815」で、この車を見た瞬間思わず絶句した。当日の編成は次の通りであった。

EF551+スハフ422173+オハ472261+オハ472266+オハ472246+オハ472239+スハフ422071+スエ7815

 

 水上駅に進入する復活営業一番列車 昭和61年7月25日

折返しの上り列車 渋川~敷島間の利根川鉄橋

スハフ422173

オハ472261

思わず絶句した スエ7815

絶句したのは私だけ? 他の人はEF55に夢中

(2)   8月2日の列車

この日は最後尾の客車に「GOGOTRAIN」のテールマークが付けられていた。また、高崎機関区の一般公開が行われており、高崎到着後機関区で展示された。EF58172、EF15165、EF621、EF631、ED7539、EF8063等が展示されていた。

上牧~水上間を走る下り列車

上の列車の後部より(上牧は「かんまき」ではなく「かみもく」)

 

折返しの上り列車  上牧~後閑

高崎機関区にて

ターンテーブルで方向転換

(3)   8月6日沼津機関区

「東海道本線全通100年」の記念行事として行われた、沼津機関区の一般公開で展示された。他には、EF15184、EF538、EF6095、EF653、EF3017、DD161等と10月のダイヤ改正から運転される「するがシャトル」用の119系が展示されていた

沼津に出張  沼津はEF55の所縁の地である。

西武トレインフェステバル2008in横瀬

10月5日(日曜日)西武秩父線横瀬車両基地で「西武トレインフェステバル2008in横瀬」が開催された。このイベントは例年10月14日の「鉄道記念日」に近い土曜日か日曜日に行われており、昨年まではスケジュールが合わず、今年初めて見学した。内容は横瀬基地に保存されている車両の一般公開と鉄道部品の販売がメインである。当日はイベント参加者のために池袋~横瀬間に最新の30000系8連による臨時快速急行が運転された。

 この電車に乗車する予定で8時頃西武池袋駅に到着した。ホームに上がると1本前の8時4分発の秩父鉄道直通の長瀞、三峰口行の快速急行がクロスシートの4000系8連で停まっており、空席があったので乗車した。車内は登山、ハイキング客でほぼ満席であった。飯能で方向が変わり、東飯能を過ぎると山岳地帯となり、駅毎に登山客が降りて行った。長い正丸トンネルを抜けると秩父盆地で程なく横瀬に到着した。車両基地の公開は10時からで30分近くあるのに長蛇の列ができていた。正直なところ、都心から遠く離れた秩父までわざわざ古い電気機関車を見に来る人は、そう多くはいないだろうと思っていたが大間違いであった。続いて到着した特急からも多くの人が下車、その後に到着した30000系臨時電車は立ち客がいるほどであった。

 場内は大賑わいで、特に家族連れが多く、子供を電気機関車のデッキに乗せて撮影する親が多く、中々写真が撮れなかったが、正午前後に各車両毎に撮影タイムが設定された。ファンよりもピクニック気分で来ている人が多く、年中行事として沿線の人に定着しているのであろう。パンタグラフは最初は下りていたが10時半頃上げられた。隣で撮影していた人によると、年によっては下がったままのことや、車体横に説明板が吊り下げられていることもあり、今年はラッキーだったそうである。この辺りは当日の責任者の判断に任せているのかもしれない。大正時代東海道線の電化時に輸入された電気機関車が現役時代のままの美しい姿で大切保存されていることは誠に意義深く、近江鉄道のED31、ED14も各1両はこちらで保存してもらえないものかと思った。

 (1)E52(元国鉄ED122)

現役時代の画像と経歴については【1415】で紹介してあるので、そちらを参照いただきたい。

 

(2)E61(元国鉄ED111)

大正12年ゼネラル・エレクトリック社製で、昭和35年5月国鉄で廃車、昭和37年6月西武に譲渡されている。廃車は昭和59年で、現役時代近江鉄道に貸し出されたことがある。(昭和40年1月9日彦根駅で撮影)同形のED112は国鉄に残り「佐久間レールパーク」に保存されている。(【1082】を参照)

 

(3)E71(元国鉄ED102)

大正12年ウェスチングハウス社製 昭和35年5月国鉄で廃車、昭和37年6月譲渡、昭和61年廃車、近年国鉄時代の塗装になり、元のナンバーのプレートが付けられた。

 

(4)E43(元国鉄ED361←青梅鉄道デキ3)

昭和2年イングリッシュ・エレクトリック社製で、元青梅鉄道が輸入し、昭和19年国鉄に買収で1013、昭和27年の改番でED361となった。昭和35年国鉄で廃車後西武に譲渡、昭和62年廃車となった。

 

(5)E33(E31形)

保存車両ではなく現役の機関車である。E31形は昭和61年から62年にかけて輸入機の代替として西武所沢工場で4両作られた。台車は元国鉄モハ80300番台、主電動機は同社の元351系のものを使用した。工事列車や新造車両、譲渡車両の牽引等に使用されているが廃車が噂されている。

 

その他、E854が展示されていたが、停車位置が悪く来年に期待したい。

 

(6)D16

昭和44年日車製でブリジストン小川工場の入換に使用されていたが同工場廃止後、西武に移籍、東横瀬(貨物駅)の入換に使用されていた。平成8年3月貨物廃止により廃車となったが、機器扱いで現在も横瀬基地の入換に使用されている。

 

(7)4号機

1886年(明治19年)イギリス、ナスミス・ウィルソン社製の蒸機である。官設鉄道75号を振出しに日本鉄道、房総鉄道、川越鉄道等を経て昭和32年まで西武鉄道で活躍した。廃車後はユネスコ村に展示されていたが、閉鎖後横瀬基地で保存されている。ブルーシートを被せた状態で保存されているらしく状態は芳しくないのが残念である。

 

(8)クハ5503

昭和44年西武秩父線開業時に特急車として作られた車両で、平成5年から後継の10000系に置換えられ廃車となった。クハ5503が保存、庫内にクハ5507の前頭部のカットモデルが保存されている。

 

その他、電車ではクモハ355が登場時の塗装に戻されて保存されているが、停車位置が悪く来年に期待したい。(【1313】で上毛電鉄に譲渡された同形車を紹介しているので参照いただきたい)

 (9)スム201

少し前までは当たり前に見られた貨車であるが、今となっては貴重な存在となってしまった。保存しているのかどうかはわからないが野晒しのため状態はよくないようである。

 

(10)ワフ105

浅い屋根とユニット窓が特徴のいかにも私鉄のワフといういでたちであった。こちらも保存の対象となっているのかは不明であるが、スム201と同様状態はよくない。

 

(11)クハ38103

臨時快速急行に使用された、今年デビューしたばかりの新車である。

「都電荒川線の日」記念イベント

9月27日土曜日、「荒川線の日」の記念イベントとして、荒川車庫の一般公開が行われたので、都心に出掛ける途中一寸覗いてみた。ポスターやHPに「保存車6000形撮影会の実施」と書かれており、確かに以前「6152」が保存されていたが、平成15年に「荒川遊園地」に移されている。しかも「昭和24年日本鉄道自動車製」と記されており、一般に知られている保存車の中には同社製のものがなく是非確かめたいと思った。

 当日9時40分に自宅を出た。金町・町屋間は僅か15分、町屋で都電に乗換え荒川車庫には10時40分に到着した。車庫の前には山吹色も鮮やかな6086がビューゲルを上げて停まっていた。

6086の経歴は、ネコ・パブ社「RM LIBRARY19 都電6000形」によると、昭和24年3月8日付で入籍し、青山車庫に配属。その後、南千住→青山→三田→巣鴨→神明町→大久保→三ノ輪→駒込と転属し、昭和45年12月24日付で荒川車庫の配属となり、昭和53年4月27日付で廃車となっている。廃車後の足跡については公表されていないが、恐らく個人に譲渡され、大切に保管されていたものと思われる。所有者に手放さなければならない事情が生じ、解体寸前の処を、岩手・宮城内陸地震で亡くなられた岸 由一郎氏のご尽力により保存されることになったそうである。

その他、7515と7027が展示され、7515は車内も見学できた。また、6086については、離れての型式写真と、近くでの記念写真の時間がそれぞれ決められており、見学、撮影者も現場案内担当の方の指示に従い、マナーはよかったと思う。

 6000形については6152が平成12年12月まで動態保存的に営業運転されていたが、京福福井支社の事故により不可能になったため、荒川遊園地での静態保存になってしまった経緯があり、6086については6152の二の舞とならないように願う次第である。

 

昨年登場したレトロ調の新製車9001との並び

 

6086が荒川車庫に運ばれるまでの行程を紹介したパネル

 平成19年5月16日、荒川車庫に隣接して「都電おもいで広場」が設置され、本物のPCC5501と7500形で車体未更新のまま残った7504が展示されている。5501の車内は座席が撤去されギャラリーとして使用されており、運転台は道路に面した片方だけが復元されている。7504の車内は現役時代のままであるが、家庭用のエアコンが取り付けられている。オープンしているのは土・日・祝日の10時~16時までであるが、それ以外の日でも外からの撮影は可能である。

5501の運転台

当初は画像の通り、足踏式であったが、扱いにくいということで後日通常のマスコンに取替えられている。

 

ナニワ工機の銘板

 

7504

群馬県の私鉄を訪ねて

9月9日、前日来の高崎での仕事が午前中に片付いたため、駆け足で群馬県下の私鉄を覘いてみた。

前橋駅から徒歩で上毛電鉄の中央前橋駅へ、この区間は上毛電鉄の発着に合わせてレトロ調のシャトルバスが結んでいるが、歩いても15分位である。ガ ラス張 りの駅舎は掃除が行き届き、非常に明るく清潔な感じがした。到着電車を1本撮影後、改札口で一日乗車券を購入したが、女性の駅員の対応が非常に感じが良 かった。元京王井の頭線のデハ714+クハ724に乗車すると乗客は10人程でちょっと寂しい。次の城東で早くもおばさん1人が下車、各駅の駐輪場には相 当数の自転車が止められていたのでラッシュ時にはそれなりの利用があるものと思われる。車内は内装がマリンブルーで魚のシールが貼られており楽しい雰囲気 である。途中駅で交換待ちの時、乗客のおばさんが初老の運転士に「綺麗な電車ですね」と声を掛けると「組合員がお金を出して水族館をイメージして作った。 内装は専門業者に頼んだが、魚のシールは社員が貼った」と答えていた。20分で車庫のある大胡に到着、降りたのは私一人であった。西桐生寄りの鉄橋で上り 電車を撮影し、次の電車で赤城まで乗車した。

わたらせ渓谷鉄道大間々駅には徒歩15分程で到着。12時16分発間藤行で足尾まで行き、日光市営バスで日光に出て東武で帰ろうと思ったが、足尾で 待ち時 間が2時間もあり中止、結局12時52分発の桐生行に乗車した。この列車は11月末までは間藤始発であるが、12月からの平日は大間々始発となり、間藤〜 上神梅間の列車間隔は約3時間も空くことになる。到着した桐生行の乗客は8名で、大間々で乗車したのは私1人であった。次の運動公園で2名、相老で東武の りょうもう号から乗り換えのビジネスマン風の客が4名増えて桐生に到着した。昼食後、上毛電鉄のフリー切符で前橋に戻ろうと思ったが、上信電鉄に行きたい のでJRに乗った。107系の4連で、こちらも単行で間に合う位の乗車率であったが、伊勢崎で座席の3分の1位が埋まり、前橋で7割位塞がった。

高崎で上信電鉄のホームに行くと、デハ252+クハ1301が停車中であった。未撮影の車両であるが、終点の下仁田まで行かないと撮影できないので 今回は 諦めた。座席は3分の1以上埋まっており、今日乗った電車の中では最も車内が華やいでいた。以前から目を付けていた南高崎〜根小屋間の鉄橋で撮影するため 根小屋で下車。おばさん駅員が乗客に「おかえりなさい」と声を掛けながら切符を受け取っていた。鉄橋に行く途中で上り電車(クモハ6001+クモハ 6002)が通過、現地に到着すると順光側は電柱と電線がうるさいため手前で撮ることにした。程なく下り電車(先程の上りの折返し)が通過、上下あと一本 ずつ撮影しようと思っていたが、疲れたので今回は下見と云うことにして駅に戻った。切符を買うと今時珍しい硬券であった。

今回は、駆け足で平日の昼間という最も乗客が少ない時間帯に乗車したが、3社に共通することは、状況が非常に厳しいということであった。この中でも 各社そ れぞれに一人でも乗客を増やす努力をしていることが判った。特に上毛電鉄は社員がお金を出し合ってでも鉄道を守ろうとする姿勢には感動するものがあった。 しかし、状況は厳しく、来年3月には大胡にある県立高校が少子化による統廃合で廃校となり、通学客の減少が予想されている。開業時に作られたモハ101を 生かしたイベント、沿線の中高年を対象としたハイキング会の開催等を通して是非頑張っていただきたいと思った。

1.デハ711              中央前橋
元京王井の頭線の3000系で、平成11年から12年にかけて入線し、8編成在籍する。昼間の30分間隔は40年前と同じであるが、40年前は朝夕の20 分間隔の時間帯が長かった。中央前橋駅は確かに前橋市の中心部にあるが、生活基盤が郊外に移ってしまったため周囲は閑散としている。JR前橋駅からここま で歩いたがシャッターが下りている店が目立った。JR前橋駅前の大型スーパーも撤退を検討しているとか。

2.デハ714の車内           中央前橋
従業員がお金を出して水族館をイメージした車内に改装した。


3.わ89−201            大間々
大間々駅を発車した間藤行であるが、乗客は10人程。休日は神戸(ごうど)にある冨弘美術館に行く人が結構乗るということである。
わ89−201は平成元年開業時に富士重工で作られた車両で3両在籍する。



4.クモハ6001+クモハ6002    根小屋〜南高崎
昭和56年新潟鐵工所で作られた車両で当初から冷房付きであった。


5.中央前橋駅〜前橋駅間のシャトルバス  JR前橋駅前
上毛電鉄の電車の発着に合わせてJR前橋駅間にシャトルバスが運行されている。運行会社は日本中央バスで運賃は100円である。写真のレトロ調のバスは、平成11年式日野KK−RJ1JJAAという型式で車体は東京特殊車体製である。