秩父鉄道「2009年わくわく鉄道フェスタ」Ⅰ

5月16日(土曜日)秩父鉄道広瀬川原車両基地で「2009年わくわく鉄道フェスタ」が開催された。今年で5回目を迎え、沿線の恒例行事として定着した感があり、入場者数は5739名(主催者発表)と過去最高であった。また、開催日の2週間程前から旧国鉄色のデハ1000形4編成に開催案内のヘッドマークが取り付けられていた。昨年の主役は、元国鉄カラーに塗り替えられたデハ1000形(元国鉄101系)であったが、今年は3月26日より運転を開始した元東急8500形のデハ7000形であった。一般の乗客にとっては、旧国鉄色に塗り替えられていても陳腐化した101系よりも、見た目新しいステンレス車の方が好評に違いない。会場となる広瀬川原車両基地は「ひろせ野鳥の森駅」から徒歩15分程であるが、来場者のために会場まで直通する臨時電車が熊谷から2本(帰りは羽生まで)、寄居から1本(帰りは影森まで)運転され、熊谷発の1本と寄居発にデハ7000形が充当され、もう1本の熊谷発(実際は羽生発熊谷止を車両基地まで途中ノンストップで延長運転)には、関西線色のデハ1009の編成が使用された。

 

会場には、機関庫の前に末尾3のデキ103、303、503の3両が並べられ、今年は下り側のパンタが上げられ、各種のヘッドマークが適時取り替えられながら展示されていた。少し離れたところにC58363が展示され、こちらも適時ヘッドマークが取り替えられ、親子連れ、孫連れの人が盛んに記念撮影をしていた。デキ101と201は架線のないところに停められ、101は車掌体験、201は運転台見学に使用、元松尾鉱業鉄道のデキ107はターンテーブル上に停められ、回転実演に使用されていた。以下、展示車両について簡単に解説する。

 デキ101

デキ100形は101、102~106、107・108の3グループに分類され、EF15を小型化したようなスタイルである。101は昭和26年11月、日立製作所で戦前製の電機からの追番でデキ8として誕生、昭和28年101に改番した。102以降の機関車より出力が小さいため、一般貨物、構内入換、C58の後補記機等に使用されたが、平成8年頃から休車状態になり、平成18年3月31日付で廃車となった。その後も広瀬川原車両基地に保管され「わくわくフェスタ」には毎年展示されている。

 

デキ103

デキ102・103は昭和29年、104~106は昭和31年に日立製作所で作られた。101に比べ、車長が少し延びて12.6mとなり、主電動機の出力強化により1000tの牽引が可能となった。デキ106は昨年2月、影森駅構内での脱線転覆事故により廃車された。

 

デキ107

デキ107・108は昭和26年、日立製作所で元松尾鉱業鉄道のデキ501・502として誕生、昭和47年10月11日、同鉄道廃止に伴い秩父鉄道に譲渡されたもので、主電動機を始め各部の仕様が102~106と同じであったため、追番の107・108に付番された。外観上は窓上の庇により区別ができる。

 

デキ201

昭和38年、日立製作所で201~203の3両作られ、台車はL型軸梁式の特異な形をしたものを履いている。202と203は平成12年6月30日付で廃車となり、三岐鉄道に譲渡された。残った201は、C58363の引くパレオエクスプレスの熊谷駅~広瀬川原車両基地間の回送列車牽引が主な仕事となった。5月23日(土曜日)C58が不調時に、単機でパレオエクスプレスを牽引して三峰口まで往復したが、自由席500円、指定席700円のSL料金を全額乗客に払い戻した。余談であるが急行電車にロングシート車が充当されても急行料金(200円)の払い戻しはない。

 

デキ303

昭和42年、日立製作所で301~303の3両が作られ、台車は標準的なものになった。車体はデキ200形とほぼ同形であるが庇がなくなった。

 

デキ503

デキ500形は昭和48年から55年にかけて日立製作所で4回に分けて7両作られた。501・502が昭和48年に、503、504が昭和54年に、505が昭和55年3月、506、507が同年9月に作られた。ラストの507のみ太平洋セメントの私有機となっている。

 

C58363

C58と言えば我々の世代が現役の頃は、北海道から九州、四国まで全国各地に配置され、やや規模が大きいローカル線を中心に活躍していた。それ故、当時人気は今一つで「なんやC58か」等と今から思うと「バチ当たり」なことを言っていた御仁も多く、関西地区では奈良線、草津線、関西線、信楽線、宮津線、小浜線、姫新線等各地で見ることができた。今振り返ると人気が無かった理由は、あまりにも存在が身近過ぎたためではなかろうか。DE10の出現によりアッと言う間に置き換えられてしまい、北見機関区からはるばる梅小路に輿入れし、動態保存されていた筈のトップナンバーも何時の間にか「飾り物」になってしまった。そういう意味でも、秩父鉄道で冬期を除きほぼ通年運行されていることは誠に意義深いことである。

C58363は、戦時中の昭和19年2月川崎車輛で作られ、最初の配置は釜石機関区で山田線で使用、その後昭和22年9月には仙台機関区で仙山線、以降石巻線、陸羽東線、磐越西線、陸羽西線と一貫して東北地方で使用され、昭和47年10月新庄機関区で廃車後、昭和48年5月から埼玉県吹上小学校で保存されていた。平成元年3月、熊谷市で開催された「さいたま博」の時に協賛事業として、秩父鉄道で蒸気機関車を運転することになり当機が復活した。復活当初の所有者は「埼玉県北部観光振興財団」であったが、財団解散により秩父市に、現在は秩父鉄道の所有となっている。

 

 

 

 21.5.6  三峰口

 

 21.5.6  波久礼~樋口

秩父鉄道「2009年わくわく鉄道フェスタ」Ⅱ

引続き電車について解説する。

基本編成は3両で、元国鉄101系のデハ1000系10編成、元都営地下鉄三田線6000系のデハ5000系4編成、急行用の元西武101系のデハ6000系3編成、今年3月に入線した元東急8500系のデハ7000系2編成が在籍し、車両総数は19編成57両である。

デハ1000系

昭和61年から平成元年にかけて旧国鉄101系3両編成を12本購入し、デハ1000+デハ1100+クハ1200とした。平成6年から9年にかけて冷房改造が実施されたが、中間車のデハ1100には取り付けられなかった。この時に過電流対策と容量増加に対応するためデハ1000にパンタを増設して2丁パンタとなったため、多少イメージが変わった。昨年8月、熊谷が最高気温40℃を記録した日に羽生~熊谷間を乗車した時、ものは試しと非冷房車に乗ったが、あまりの暑さに早々に冷房車に退散した。引続きワンマン改造が実施され平成11年度までに完了した。今年3月、元東急8500系のデハ7000系が2編成入線したため代替で2編成廃車となった。残りの10編成は現在も主力として活躍しているが、車体及び機器の老朽化は否めず、平成24年度までに廃車予定となっている。平成19年10月、さいたま市に鉄道博物館が開館するのに合わせて、4編成を旧国鉄時代の塗装に変更した。今年創立110周年を記念してデハ1002の編成を旧塗装に変更、11月頃までにもう1編成旧塗装に変更される予定である。国鉄時代の旧番と現状をまとめると次の通りである。

  【現 車 号】                  【国鉄時代の車号】      【塗装】

1. デハ1001+デハ1101+クハ1201(クモハ100-117+モハ101-100+クハ101-58)   スカイブルー   

2. デハ1002+デハ1102+クハ1202(クモハ100-140+モハ101-179+クハ101-61)  秩父旧塗装

3. デハ1003+デハ1103+クハ1203(クモハ100-133+モハ101-118+クハ101-62)  標準色

4. デハ1004+デハ1104+クハ1204(クモハ100-183+モハ101-252+クハ101-75)  H21.3 廃車

5. デハ1005+デハ1105+クハ1205(クモハ100-166+モハ101-222+クハ101-64)  標準色

6. デハ1006+デハ1106+クハ1206(クモハ100-1013+モハ101-1013+クハ101-65) H21.3 廃車

7. デハ1007+デハ1107+クハ1207(クモハ100-130+モハ101-112+クハ101-66)  標準色

8. デハ1008+デハ1108+クハ1208(クモハ100-154+モハ101-212+クハ101-79)  標準色

9. デハ1009+デハ1109+クハ1209(クモハ100-174+モハ101-236+クハ101-80)  関西線色

10.デハ1010+デハ1110+クハ1210(クモハ100-160+モハ101-208+クハ101-73)  標準色

11.デハ1011+デハ1111+クハ1211(クモハ100-175+モハ101-237+クハ101-81)    オレンジ

12.デハ1012+デハ1112+クハ1212(クモハ100-192+モハ101-263+クハ101-82)  カナリア

★クモハ100-1013+モハ101-1013は武蔵野線用のAA基準改造車で旧番は次の通り

クモハ100-1013 クモハ100-53(新製時モハ90616)

モハ101-1013 モハ100-50(新製時モハ90109)

 

デハ1001+デハ1101+クハ1201 2156 三峰口

 

デハ1009+デハ1109+クハ1209 21516 羽生/この電車が熊谷到着後、そのまま臨時広瀬川原行となった。

 

デハ1011+デハ1111+クハ1211 2156 波久礼

 

クハ1211   21516 羽生

 

デハ1012+デハ1112+クハ1212 21516 広瀬川原

 

デハ1008+デハ1108+クハ1208 2156 三峰口 

デハ5000系

元都営地下鉄三田線の6000系で平成11年に入線した。都営6000系は昭和47年アルナ工機製で6両編成(1~8号車・8両編成の予定であったため3、4号車は欠)で当初非冷房であったが、平成2年頃冷房改造されている。秩父鉄道に入線したのは、1、6、8号車で、6号車にパンタ設置、8号車のTc化が実施された。車内の「アルナ工機」の銘板で何となく関西の香りを感じるのは私だけだろうか。旧車号との対照は下記の通りである。

【現 車 号】                       【都営三田線時代の車号】        

1. デハ5001+デハ5101+クハ5201  (6191+6196+6198)     

2. デハ5002+デハ5102+クハ5202  (6241+6426+6428)  

3. デハ5003+デハ5103+クハ5203  (6251+6256+6258)  

4. デハ5004+デハ5104+クハ5204  (6261+6266+6268)

 

デハ5001    2156 熊谷

 

クハ5201+デハ5101+デハ5001        2156 熊谷

デハ3000系

急行列車に使用されていた、旧JR東日本165系改造の3000系を置き換えるため、平成17年、西武鉄道の新101系を購入し、上り向きTcのMc化、中扉閉鎖2扉化、ロマンスシート化等が実施された。旧車号との対照は下記の通りである。

【現 車 号】                     【西武鉄道時代の車号】        

1. デハ6001+デハ6101+クハ6201(クハ1230・モハ230+モハ229+クハ1229)     

2. デハ6002+デハ6102+クハ6202(クハ1232・モハ232+モハ231+クハ1231) 

3. デハ6003+デハ6103+クハ6203(クハ1234・モハ234+モハ233+クハ1233)

★先頭のデハは中間モハにクハの運転台を接合して先頭車化

 

 ハ6101     2156 羽生

 

クハ6203   21516 羽生

 

クハ6203の前身クハ1233 18. 5.14 広瀬川原 

デハ7000系

デハ1000系の置換えのため、今年3月東急8500系を2編成購入した。編成は従来と異なり、両端電動車(Mc++Mc)となった。秩父鉄道初の界磁チョッパ制御車で、

扉横に開閉ボタンが設置された他、ドアチャイム、LED式車内案内表示器、車椅子スペースの新設等バリアフリー対応が実施されている。旧車号との対照は下記の通りである。

【現 車 号】                         【東急時代の車号】        

1. デハ7001+サハ6101+デハ7201  (デハ8509+サハ8950+デハ8609)

2. デハ7002+サハ6102+デハ7203  (デハ8709+サハ8926+デハ8809)

デハ7002とデハ7203は元中間車であったが、入線に際し運転台を取り付けている。

 

デハ7001+サハ6101+デハ7201    2156 熊谷

 

デハ7002+サハ6102+デハ7202(寄居発の臨時電車)21516 広瀬川原

 

デハ7202、クハ1209、デハ7201の並び  21516 広瀬川原

過去の車両については、機関車と併せて後日紹介する。

少し前の流鉄(旧流山電鉄)

引続き、現役時代の昭和43年4月8日、初めて訪問した時に撮影した画像をお目にかける。当時の在籍車両はモハ5両、クハ2両の計7両で、当時途中交換可能駅がなく、運転間隔を30分以下につめることができず乗客数に応じて、単行、2連、4連で運行されていた。

モハ100形(101~103、105)

南武線の前身、南武鉄道のモハ100形で、大正15年に101~106、昭和3年に107~111、昭和6年に112~115の15両が汽車会社で作られた。昭和19年4月1日付で青梅線の前身、青梅電気鉄道と共に買収されたが、車両の形式車号はそのままであった。流山には昭和24年12月26日の電化時に101~103の3両が入線、昭和30年にモハ105が入線した。各車両の経歴は画像のキャプションの通りである。

モハ101/前身は昭和3年製モハ107である。

 

モハ102/前身は昭和6年製モハ115である。

 

 

モハ103/前身は大正15年製モハ106である。

モハ105/前身は昭和6年製モハ113である。昭和24年12月電装解除されサハ代用となったが、昭和28年6月の改番で、片運のクハ6002となり可部線で使用されていた。入線時に手持ち部品で再電装と両運への復元が行われた。

クハ51/飯田線、豊橋~大海間の前身、豊川鉄道のクハ62が前身で、昭和2年川崎造船製である。昭和28年6月の改番で、クハ5601となり可部線で使用されていたが、後に福塩線に転属、昭和34年3月に廃車となり、翌年3月に入線した。

モハ1001+クハ52/西武池袋線の前身、武蔵野鉄道のデハ1321とデハ1323が前身で、共に昭和2年日本車両製である。昭和38年3月にまずクハ52が入線し、12月にモハ1001が入線した。常時2両ペアで使用されていたが、完全な固定編成ではなく、クハ52は元京浜急行クハ480形の車体を利用して作られたモハ1101と組むこともあった。また、クハ52は車体更新時に窓の2段化とアルミサッシ化が行われた。

 

サハ31(廃車)/昭和8年汽車会社で作られたガソリンカー・キハ31が前身。昭和24年頃にエンジンを降ろしサハとして使用されていた。昭和38年5月に廃車されたが、訪問時には休憩室として使用されていた。その後も解体を免れ、現在は流山運動公園で保存されている。エンジン他機器が全く付いてないが、戦前製の単車ガソリンカーの生残りとして貴重な存在である。尚、流山運動公園は流山駅から歩くと30分程かかるが、つくばエクスプレスの流山セントラルパーク駅からは10分位である。園内に入ってから場所がわからず探し回ったが、テニスコートの直ぐ後ろの森の中にある。以前は車内にも入れたようであるが、現在は、隣に展示されているD5114のアスベストが飛散する恐れがあるとかで、柵の中に入れない。

流鉄「明星」さよなら運転

流鉄(元総武流山電鉄で昨年8月1日社名変更)の「明星」編成(クモハ2003+モハ2101+クハ21)が4月29日「さよなら運転」を最後に引退した。同編成は平成7年12月、西武鉄道701系を購入したもので、入線に当りクハ1745+モハ745+モハ746+クハ1746の4両編成を、クハ1745の運転台部分をモハ745に接合して3両編成に改造する工事を実施している。今回の廃車による代替車はなく、同社の保有車両は3両編成×2本(流星/クモハ3001+モハ3101+クハ31・若葉/クモハ3002+モハ3102+クハ32)2両編成×2本(青空/クモハ2001+クモハ2002・なの花/クモハ2005+クモハ2006)の計10両となった。今年の11月頃に西武から元101系の2両編成が入線する予定となっているが、これが増備なのか代替廃車となる車両が出るのかは不明である。

当日は流山発8時56分から11往復し、馬橋発14時40分の列車がラストランとなり、流山到着後撮影会が実施された。今まで朝のラッシュ時は3両編成が3編成使用されていたが、4月30日から1編成2両編成が混在することになった。

平成17年8月24日「つくばエクスプレス」が開業し、鰭ケ崎駅から0.7キロ離れた地点に「南流山駅」、流山駅から1.5キロ離れた地点に「流山セントラルパーク駅」が開業した結果、都心に向かう通勤、通学客がそちらに流れてしまったため、乗客が大幅に減少し、ラッシュのピーク時でも2両で間に合うようになった。昭和48年4月1日武蔵野線府中本町~新松戸間が開業し、南流山駅が設置された時も乗客の逸走が心配されたが、都心に直結していないことと、貨物主体のため列車本数が少なく使い勝手が悪かったことにより等により、それほど影響はなかった。ウソのような話であるが、昭和60年頃まで帰宅ラッシュ時とも云える夜8時台に新松戸駅を発車する府中本町方面行の電車は1本しかなかった。

2両編成の「青空」と「なの花」はワンマン対応に改造されているが、現状は車掌が乗務している。会社の規模が小さく、従業員数も少なく、兼業といっても貸室業位しか行っておらず、人員削減は簡単にはいかないようである。

 

さよなら運転のヘッドマーク(流山向き)

 

最終1本前の馬橋行(小金城址~鰭ヶ崎間)

 

最終1本前の流山行(鰭ヶ崎~平和台間)

 

馬橋行最終(鰭ヶ崎~平和台間)

 

流山駅に到着した最終電車

 

到着後行われた撮影会

 

車内吊りのポスター

 

4月30日からの時刻表(一部列車が2両編成になっただけでダイヤ改正はない)

江若バスの色

西村雅幸様

高島町駅の模型、細かい所までよく表現されており、感心して拝見しております。江若鉄道OBの方がご覧になれば泣いて喜ばれるのではないかと思います。

江若バスの写真は、鉄道廃止後も東京に引越しするまで、関係者の方とお付き合いさせていただいた関係で、ボンネット車、リヤエンジン車を含めていっぱいあり、ボンネット廃車時のイベント時のお手伝いをさせていただいたりしておりました。ボンネット車の最後の1両がいよいよ廃車になる時、会社の方に半分冗談のつもりで「以前走っていた栗原線と和邇~途中線に走らせたら」と提案したところ、その方から「運用を変更したから」と電話がありました。最終日に栗原バス停で、集落の人達がバスと一緒に記念撮影されているのを見て「よかった」と思いました。

 

滋2い1074(昭和41年式BXD30) 昭和56年2月12日付廃車/廃車後、堅田の名鉄マリーナホテルで送迎用として使用されていたが、現在は近江鉄道の所有となり、彦根市内で「ご城下巡回バス」として使用中。

 

滋2い1082(昭和42年式BXD30) 昭和56年2月12日付廃車/廃車後、濃飛自動車に譲渡され、観光路線で使用中。ボンネット部分が古いものと取り替えられたり、扉の移設が行われためスタイルは変化している。

 

 滋2い1081(昭和42年式BXD30) 昭和57年2月16日付廃車/最後まで残ったボンネットバスであるが、廃車後の動向は不明。多分どこかに残っていると思われるが営業用ではないのは事実である。

 

和邇・途中線の栗原道~下竜華間を走行する滋2い1074

 

栗原線の栗原道~栗原間を走行する滋2い1074

 

白髭神社前(右側は江若鉄道の線路跡) 昭和57年1月17日、お別れイベント走行時

 

朽木学校前の車庫 昭和57年1月17日、お別れイベント走行時

町居付近 昭和57年1月17日、お別れイベント走行時/走行している道路は、京都と小浜を結ぶ通称「鯖街道」国道367号線であるが、今もこんなに狭いのだろうか。

 

坊村  昭和57年1月17日、お別れイベント走行時

 

都電荒川線 8800形 営業運転開始

4月26日(日曜日)都電荒川線待望の新車、8800形(8801、8802)が営業運転を開始した。当日は荒川車庫で9時30分から出発式が行われ、交通局長、荒川区長、荒川区議会議員等の長い挨拶が延々と続いた後、9時59分発早稲田行(8801)、10時発三ノ輪橋行(8802)から営業運転を開始した。ロギング太郎さんと出発式の様子と、営業一番電車の撮影のため荒川車庫に赴いたが、ざっと500人位の人出でごった返していた。営業1番電車は、早稲田行を諦め、三ノ輪橋行を先回りして町屋駅前で撮影したが、ここでの撮影者は我々2人だけであった。

同日から6月7日まで限定1000枚(売り切れ次第終了)で「8800形デビュー記念・都営まるごときっぷ」が発売されたが、絵葉書、レジャーシート、クリヤーホルダー、マグネット、お菓子のオマケがついていた。

昨日、出勤途中に町屋で途中下車して、大塚駅前行の8802に荒川車庫前まで乗車したが、内装や座席間に取り付けられた黄色のスタンションポール等は、JR東日本のE233系に通じるものがあり、車内の蛍光灯は8500形がケース付き連続構成に対し、剥き出しの1本おきと簡素化されていた。

8800形は本年度5両と来年度5両、計10両作られ、代替に7500形が廃車される予定である。昨日、本日とフレックスタイムを使用して、朝のラッシュ時間帯を2日間連続で観察したが、7500形は、大塚駅前、町屋駅前、王子駅前、荒川車庫前で折返しの区間運用が多かった。意識的なものか、「たまたま」なのかは不明である。

都電荒川線は、これから沿線のバラが咲き始め、撮影には最適の季節となる。8800形、レトロの9000形、間もなく姿を消す7500形の乗車と撮影を兼ねて是非訪れていただきたい。

 

出発式準備  荒川車庫  2009. 4.26

三ノ輪橋行営業運転の1番電車

 

記念都営まるごときっぷ

 

レジャーシート

 

マグネット

 

お菓子の包装紙

 

町屋駅前で折り返し大塚駅前行となる8801  2009. 4.30

 880   荒川車庫前  2009. 5. 1

 

8802   荒川車庫前  2009. 5. 1  (向きが逆になっている)

思い出のブルートレイン

3月14日のダイヤ改正で「富士・はやぶさ」が廃止され、東京~九州間のブルートレインの歴史に幕が閉じた。総本家青信号特派員さん、893-2さんを筆頭に多くの会員の皆様がその雄姿をカメラに収められたことと思われる。廃止間際には、ごく普通の一般人やにわかマニアを含め、多くの人々がその雄姿を撮影すべく、駅のホームや線路端に押し寄せ、東京駅をはじめ場所によっては罵声の嵐となり、SL末期同様の様相を呈した所もあった。私は決してブームに踊らされまいと思っていたのであるが、なくなるのが判っていて何もしない訳にはいかず、年末から年始にかけて外出の際、時間帯が合えば撮影することにしていた。(列車の通過時間に合わせて外出したわけではない)

私自身はブルートレインのごとく「よそ行き」の特急用の車両より、「普段着」の一般用車両の方が好みであるため、撮影した回数は数えるほどしかなく、撮影場所も駅のホームに限られるが、ご笑覧いただければと思う。

 

平成21年3月6日   田町駅 (田町駅は勤務先から徒歩15分)

平成21年1月5日 浜松町駅(普段通勤で乗降している浜松町駅は勤務先から徒歩10分)

 

平成20年12月30日  有楽町駅

 

昭和50年9月15日 湯河原~真鶴

昭和41年9月23日 京都駅「さくら」

昭和41年10月13日 京都駅「はやぶさ」カニ221

昭和41年10月13日 京都駅「さくら」ナハネフ223

東京発着のブルトレの京都駅停車時刻は深夜であるが、台風でダイヤが大幅に乱れたため撮影することができた。1番線には「はやぶさ」が停車中。

 

昭和39年8月18日 博多

少し前の飯田線Ⅲ

(3)- ② 戦前型2扉車 42系

42系は、昭和9年7月20日、吹田~須磨間の電化に伴う電車運転開始の際に新製された電車である。その後、同年9月20日に須磨~明石間、昭和12年10月10日に吹田~京都間と電化区間が延伸され、同時に電車運転区間も延伸された。通称「合いの子」と呼ばれた広窓半流車は、次の流電の項で解説する。

1.クモハ42形

昭和8年電車運転開始に備え13両(001~013)製作された、両運転台付2扉車で、パンタの向きは、002、004、006の3両が偶数向き、その他の車両は奇数向きであった。戦時中の昭和19年に001~010の4扉化、011~013の片運化と3扉化が計画されたが、4扉化が実施されたのは002~004、007、010の5両、片運3扉化は012の1両のみで、実施は戦後の昭和28年であった。42形で残った7両は、昭和25年9月中央線のモハ51形改造のモハ41形と交換で横須賀線に転属したが、昭和31年に008、009、011、013の4両が飯田線用として豊橋区に、001、006、007の3両が宇部、小野田線用として宇部区に転属。豊橋区の4両は主に快速に使用され、快速が準急に格上げの上80系に置き換えられた後も、主として30番台の4連貫通運用に使用された。2扉、貫通幌付の堂々たるスタイルでファンを魅了していたが、昭和53年に80系300番台投入により運用を離脱し廃車となった。

 

42009   昭和43年4月4日  豊橋   (両端クモハ42で長躯辰野に向かう1227M  

 

42011  昭和43年4月4日  豊橋

 

42013  昭和41年3月13日 本長篠  (前日1227Mで辰野まで行き、その日の内に260Mで飯田まで戻り、1泊後飯田発一番電車646M 豊橋行)

 

42008他3連 昭和54年5月1日 飯島~伊那本郷  (クハユニ56を含む3連の40番台の運用)

クモハ43形

昭和8年から9年にかけて37両(001~037)製作された片運の2扉車で、奇数車は奇数向き、偶数車は偶数向きであった。戦時中、全車4扉化が計画されたが実施されたのは13両に留まった。残り24両の内、事故と戦災で5両廃車となり、19両が中央線のモハ51形改造のモハ41形と交換で横須賀線に転属した。昭和26年から性能を70系と合わせるため出力増強工事が実施され、7両が新形式モハ53形となり、残りの12両の内004、007、009、013、015、022、025の7両が飯田線に転属、昭和45年3月、004、022、025の3両が低屋根に改造され身延線に転属した。残り4両は主に伊那松島区の所属し、昭和53年、80系300番台との第1次置換えで007、009、013の3両が廃車、015のみが昭和58年の最終置換えまで生き延びた。飯田線転属後、運転台側の貫通幌が撤去されたため、スタイルは前述のクモハ42形よりは多少劣るものの狭窓、2扉の堂々たるものであった。

 

43007  昭和46年9月25日  辰野 

 

43009  昭和48年7月28日  辰野 

 

43009  昭和48年9月2日  辰野 

 

43013  昭和48年9月1日  伊那本郷  (伊那2号の通過待ちで停車中の257M) 

3.クモハ53形

前述のクモハ43形の出力増強車で、昭和26年から28年にかけて7両改造された。当初は43800番台を名乗ったが昭和28年6月の称号改正で新形式モハ53形000~006となった。旧車号は順に016、017、018、011、020、021、012である。昭和53年2月000、001の2両が伊那松島区に転属し、2両とも昭和58年の最終置換えまで活躍した。クモハ43形同様、運転台側の貫通幌が撤去されていた。

 

53000   昭和52年5月3日  辰野

 

53001   昭和45年11月23日  辰野

 

53001   昭和50年1月2日  豊橋(649M伊那大島行)

 4.クハ47100番台←クハ58形

42系列の制御車として、昭和8年から10年にかけて25両(001~025)製作された片運の2扉車で、全車両偶数(下り)向きであった。昭和10年に唯一両作られたラストの025は半流であった。戦時中全車4扉化が計画されたが実施されたのは13両に留まった。尚半流の025は4扉化された。残り12両の内3両が戦災と事故で廃車となり、残りの9両が昭和25年横須賀線用として東鉄に転属した。比較的早い時期に身延線と伊東線に転属となり昭和28年6月の改番でクハ47形に編入され100番台が付与され、全車車両の向きに合わせて100~116の偶数番号となった。但し、旧番号順ではなく、当時身延線にいた002、003、007、008、018、020、021が100~112に、伊東線にいた014、016が114、116となり、後日、114、116も身延線に転属した。その後、静鉄局の方針で、電動車を偶数向きに、制御車を奇数向きに統一することになり全車両奇数向きに方転された。昭和33年飯田線快速を4連貫通にするため、102、104、108、114、116の5両が豊橋区に転属の上、114、116を偶数向き方転、後に108も方転された。昭和46年3月に伊那松島に転属した104のみが昭和58年の最終置換えまで活躍したが、豊橋に残った4両は昭和53年、80系300番台との第1次置換えで廃車となった。104、116の2両は運転台側の貫通幌が撤去されていた。

 

4710   昭和43年4月4日  豊橋

 

47108   昭和49年8月27日  宮田

 

47104  昭和54年5月1日 伊那市  (茅野発平岡行238Mで、6両で茅野を発車して辰野、伊那松島で夫々2両を切離し、伊那松島~平岡間は2両であった。今は殆どの列車が2両であるが、旧形時代は少なかった)

廃車体いろいろ

【1568】でK..生氏より「客車に住む」を発表されて以降、【1572】で西村雅幸氏より「電車住宅物語」、【1592】で湯口先輩より「客車住宅」、【1608】で「守口の廃車体」と廃車体の話題が続いた。私自身、廃車体は滅多に撮影しないのであるが、少しだけ写真が見つかったので紹介する。

京都市電の廃車体

半鋼製単車の200形、300形は昭和30年台前半に廃車されたが、多数の車体が市内の公園施設や自治体の集会所等に再利用されており、京都外大のグランド、嵯峨釈迦堂近くの公園、西村雅幸氏が触れられている建仁寺の境内等何カ所かは覚えている。現在でも254が奈良線JR藤森駅すぐ近くの西福寺幼稚園で倉庫として使用されているのが公道から確認できる。

 

九条車庫で倉庫として使用されていた300形(車号不詳)/昭和45年4月5日

鉄道友の会が交通局に保存を要請したが実現しなかった。この時点では台車は無かったが、その気になれば復元保存は可能と思われた。

 

奈良線木幡駅前で内職の作業場として使用されていた349/昭和39年6月15日

 京阪電鉄16/昭和48年10月13日

京阪の16と云えば元貴賓車として超有名な車両で、沿線の中学、高校に通学していた頃は、500、600、700の中間車として主に各駅停車、朝の準急等に使用され、よく乗車した。座席が深く独特の座り心地で、大きな窓を開ける時は一人では無理であった。昭和40年、台車を新700系に譲って廃車後、寝屋川検車区の会議室として使用されていたが何時しか解体されてしまった。元貴賓車の面影をよく残しており、是非保存していただきたかった車両だけに解体は残念であった。

 

京福電鉄デナ1形(車号不詳)/昭和43年6月8日

元阪神のデナ500形と交替して廃車となったデナ1形であるが、修学院車庫に1両車体が残されていた。こちらも会議室として使用されていたらしく、綺麗に塗装されていた。

 

大和鉄道のガソリンカー(車号不詳)/昭和43年12月24日

湯口先輩より大和鉄道の単端式ガソリンカーが住宅になっていたことが報告されているが、近鉄南大阪線古市検車区で倉庫として使用されていた。もしかすると終戦後の車両不足時に道明寺線あたりでサハかクハとして使用するつもりで運び込んだのかもしれない。

 

⑤貴生川の元中国鉄道の貨車(車号不詳)/昭和45年9月23日

貴生川駅のすぐ近くに元中国鉄道の貨車が物置として使用されていた。バッファーの跡から明治末期から大正時代に作られたと推定できるが、扉に書かれてあった中国鉄道の社紋がはっきり読み取れた。

 

 

 蘇った廃車体(加悦鉄道ハ4995)

加悦鉄道は高校生の頃から何回となく訪れているが、加悦SL広場に重要文化財に指定された2号機の後ろにコンパートメント式客車ハ4995が連結されている。初めて見学される方は「よくこんな古い客車が残されていた」と思われるに違いない。これについては次のような裏話がある。

昭和11年10月鉄道省よりハ4999を購入してハ20、昭和10年11月ハ4995を購入してハ21とした。いずれも明治26年新橋工場製のコンパートメント式の客車であったが、入線に際し前後扉の新製と乗せ換え、旧車体は倉庫として使用されていた。昭和45年9月23日訪問時、倉庫になっていた旧車体が台枠の上に載り、車体の修復作業が行われていた。更に1ヵ月後の10月25日には2号機に連結され、構内展示運転が行われていた。

SL広場にはハ21も展示されている。本来はハ4995→ハ21→ハ4995となるべき処、ハ20と振替られたが、超貴重なコンパートメント式客車が蘇り、大切に展示されていることは大変意義深いことである。

 

倉庫として使用中のハ4995/昭和39年7月25日

 

ハ20と車体を交換して修復中/昭和45年9月23日

 

美しく蘇ったハ4995/昭和45年10月25日

 

2号機に連結され構内展示運転(実際にはDC351が後押ししている)/同上

 

当日、団体客輸送のためキハ単行からDL牽引に変更/同上

DC351+ハ10+サハ3104+フハ2+キハ51

 

ハ4995と車体交換前のハ20/昭和39年7月25日

 

ハ21/昭和43年12月22日

「汽車住宅物語」に寄せて

西村雅幸さんが書き込みされた1月16日付【1572】「汽車住宅物語」の表紙の車両について、乙訓の長老より東武鉄道日光軌道線のハ57形ではないかというご指摘があり、RP誌135号の写真からほぼこれに間違いないというところまで来た。しかしながら写真は電動車テ17の後部に連結されているもので、サイズも小さく今一つ不安があった。もっと鮮明な写真がないものかと探したところ、一昨年東武博物館で購入した一冊の本のことを思い出した。東武鉄道OB岡 準二氏の遺作写真集「なつかしの鉄道とバス」というタイトルの本である。もしやここに載っているのではないかと思い見た処、テ11に牽かれたハ57の美しい風景写真が掲載されており、扉の形状、窓のサイズ、扉上の水切り等が表紙の写真と一致し、ハ57形と確定できた。

ハ57形について改めて書くと、昭和4年汽車会社製の半鋼製ボギー車で、57~61の5両作られた。牽引する電動車はテ10形で昭和4年日車製の半鋼製2軸単車で、10~19の10両作られた。昭和28年に宇都宮車両で100形(101~110)が一気に10両新製、翌昭和29年には宇都宮車両と汽車会社で200形連接車(201~206)が3編成作られ、従来の電車は事業用として残されたテ12を除き全車廃車となった。RP誌135号にはハ57形の廃車年月は書かれていないが、100形の登場した昭和28年度に廃車されたと思われる。「汽車住宅物語」の表紙の住宅は、その直後と考えられるが、終戦直後の混乱も一先ず落ち着き、住宅不足とは縁がないと思われる日光のような山間の観光地に、電車の廃車体を利用した住宅が作られたことは誠に興味深い。古川電工の増産に伴う就業人口増加による住宅の供給が間に合わなかったためであろうか。いつ頃まで存在したのかは勿論不明であろうが、昭和30年代の終り頃まで存在していれば、或いはファンの目に触れていたかも知れない。

11日、HPを開けたところトップページが岡山電軌に変わっており、最初に出てきたのが日光軌道線時代の塗装に変更された3005号車、次はKUROの3007号車であった。893-2さんが「汽車住宅物語」の話題に合わせて変更されたものと思われるので、日光軌道線から岡山電軌に至るまでの流れを簡単に書いてみたい。

昭和28年に車両を一新した日光軌道線であるが、東照宮のみ見学する場合はともかく、中禅寺湖、立木観音、湯元温泉まで行く場合、軌道線を利用すると終点の馬返しでケーブルカーに、更にケーブルカーの終点、明智平でバスに乗換える必要があった。一方、バスは日光駅から中禅寺湖を通り湯元温泉まで直通で運行され、観光客が乗換え不要のバスに流れるのは自然の成り行きであった。それでも沿線の古川電工の貨物輸送のために運行が続けられていたが、こちらもトラック輸送に切り替えられたため、遂に昭和43年2月24日限りで廃止となった。

廃止後の車両の行方であるが、100形は10両全車揃って当時単車のボギー車化を進めていた岡山電軌に譲渡、連接車の200形は大き過ぎるためか、引取り手がなく東武博物館に保存された203+204以外は解体された。また、電機のED611は栗原電鉄に譲渡され、同電鉄廃止後は栃木県の個人宅に保存されている。

岡山電軌では3000形3001~3010となり、ビューゲルから岡電式パンタに取替え、方向幕の移設、後にワンマン化が行われ、同社の主力として活躍したが、平成2年から冷房車と代替で廃車が始まり、現在残っているのは3005、3007、3010の3両である。(それ以前に3001が昭和48年10月に事故で廃車になっている。また、日光時代の旧車号は順に102、105、106、107、110、104、108、101、103、109である)3005は平成17年4月、日光軌道線時代の塗装に復元、3007は平成16年11月、烏城と呼ばれる岡山城のイメージに合わせて黒を基調とした塗装に変更、3010はデザイン賞受賞作品のチェック模様となっている。3005と3007は夏季以外は定期ダイヤで運行、3010は予備車となっているが、各車両とも夏は運転されない。

日光軌道線は、現役時代の昭和42年3月と翌年1月の2回訪問したが、いずれも神橋の鉄橋と国鉄・東武日光駅前での撮影に終わっている。亡母から「日光に行くのやったら菱屋の羊羹を買うてきて」と頼まれた。加えて昭和43年1月の時は東照宮境内に売っている「お札」の購入を頼まれ、ついでに東照宮を見学したため、肝心の電車撮影の時間が大幅に削減されてしまった。

 

101  昭和42年3月25日   神橋鉄橋 

 

104  昭和42年3月25日    同

 

110  昭和42年3月25日    同

 

110  昭和42年3月25日  国鉄日光駅前

 

110  昭和42年3月25日    同   (バックの山は男体山である)

 

3004(旧107)  昭和44年3月18日/本や資料によっては、全車両入線時にワンマン改造をしたように書かれているものがあるが、それは間違いで写真のように当初はツーマンで入線している。

 

3003(旧110)  昭和44年10月22日/ワンマン改造されているが、出入口の表示からも判るようにツーマンで使用されている。

 

3009(旧103)  昭和44年10月22日/この車は平成14年廃車後、栃木県のファン宅で保存されている。

3006(旧104)  昭和46年7月28日

都電荒川線に新車登場

都電荒川線に昨年度に引き続きレトロ調の新車、9002号車が登場し、1月31日から営業運転を開始した。昨年度登場したレトロ車両9001号車と同形であるが、塗装は濃いブルーを基調としている。車体メーカーは「アルナ車両」で、制御装置はVVVFインバータ制御、駆動装置は平行カルダン、ブレーキシステムは電気指令式電磁直通ブレーキ、応荷重機能と回生、発電制動付と最新の装備である。今回は純増備のため代替廃車はない。

また、乙訓の長老の【1675】(1月27日付)の書込み通り、21年度と22年度に各5両ずつ新車を投入して7500形を代替する計画があるが、スタイルはレトロタイプではなく、8500形をベースにしたものになる模様である。

2月7日(日曜日)午前中、荒川車庫で9001号車と並べて撮影会が実施され、ファン、近所の人、家族連れ等、延べ500名位の来場者で賑わっていたが、ピーカンのため、光線状態はよくなかった。2月11日までは限定ダイヤで運行されていたが、12日より平日は他車と共通運用、土日は当分の間、限定ダイヤで運行される予定である。

2月11日、15時11分の出庫時刻に合わせて15時前に荒川車庫に行ったが、この電車に乗車するために並んでいた人が親子連れを中心に約20名、撮影者が約30名おり人気の高さが伺えた。撮影者は電車発車後、瞬く間に消えてしまったが、私は電車が戻ってくるまで撮影した。自宅最寄りの金町から僅か4駅、所要時間にして12分で荒川線と交差する町屋に到着する。今まで近過ぎていつでも撮れると思ってしまう所為か撮影する機会が非常に少なかったが、この日は久し振りにゆっくり撮影した。

 

2月7日撮影会   先輩格の9001号車との並び

出庫する旧カラーに塗装変更車7022号車との並び

出庫する7001号車との並び

台車は住友金属製FS91-B

アルナ車両の銘板

2月11日の9002号車 早稲田行

早稲田で折り返してきた三ノ輪橋行

先輩格の9001号車

モハ33、34

澤村達也様よりモハ33、34についての質問があったので、今回はこの系列の解説をする。モハ33形は昭和7年山手線用として2両(001、002)モハ34形は、モハ33を両運転台付にしたタイプで、昭和8年、中央線、山手線(赤羽~池袋間)、横浜線の増結用として、26両(001~026)作られた。【1678】でも書いたが、関西地区ではすでに20m車が投入されていたが、東京地区は受入れ準備が整っていなかったため17mとなった。

戦時中モハ34011~026の後部運転台を撤去してモハ33に編入する工事が計画されたが、実施されたのは9両であった。両運で残った3両と片運に改造したモハ33の1両が戦災のため廃車となった。戦後木製荷物電車の廃車補充のため、モハ34、10両、更に片運改造したモハ33の内5両を両運に戻して荷電に改造し、形式を1形式1両のモニ53に編入して002~016となった。

その結果、片運のモハ33はオリジナルの2両と、モハ34の片運改造車9両の内、戦災廃車1両と荷電改造の5両を差引いた残り3両の計5両、モハ34は片運改造車9両、戦災廃車3両、荷電改造の10両を差引いた残りの4両が残った。

昭和28年6月の改番でモハ33はモハ11300番台となり、11300、301~307の奇数、モハ34はモハ12000番台となり、12000~12003となった。また、荷電に改造されたモニ53は、番号はそのままでモニ13となった。

 クモハ11300番台

最終配置は300が中原、301と307は弁天橋、303は北松本、305は陸前原ノ町で、307が昭和48年11月、それ以外は昭和42年8月までに廃車された。305と307の2両は、元50系のクハ16559と共に昭和36年に大井工場でモデル更新車として、内装のビニールクロス張りハードボード化等の近代化改造が実施されていた。

 クモハ12000番台

最終配置は、000が大垣、001は北松本を経て構内入換及び牽引車として沼津、002と003は陸前原ノ町で、001は昭和58年に、他の3両は昭和42年中に廃車された。000は廃車後昭和44年に伊豆箱根鉄道に譲渡され、最後は大雄山線の事業用車であったが、平成9年まで使用された。

 

クモハ12001(長キマ)/昭和8年汽車会社製、旧車号はモハ34005で、新製時の配置は三鷹であった。戦後、中野に転属し、品川、弁天橋を経て昭和26年5月に北松本に転属、昭和48年8月まで大糸線で使用されていた。同年9月1日付で沼津に転属して入換、工場への入出場車の牽引車、控車として使用され、関東地区にも顔を出していたが、昭和58年に廃車された。大糸線時代の昭和41年11月、下り向きに霜取り用パンタを増設して2丁パンタとなり、下りの朝一番電車の先頭車に使用されていた。その後のダイヤ改正で一番電車が新宿発の急行「穂高」に変わった時にクモヤ90803と交替したが、霜取りパンタは沼津に転属するまで残された。

この写真を撮影した時点では大糸線の17m車はこの車両1両のみで、まさか撮影できるとは思っていなかった。この日は物凄く寒い日で信濃大町駅の温度計は零下15℃を指していたが、この車両を見た途端に寒さは吹っ飛んだ。(昭和48年1月14日 信濃大町) 

伊豆箱根鉄道モハ66←クモハ12000(名カキ)/前述の通り元クモハ12000で、昭和44年1月に伊豆箱根鉄道に譲渡され、三島~修善寺間の駿豆本線に配置された。譲渡の対象は車体のみと云われ、台車はDT11を履いている。廃車後、譲渡までの間は浜松工場に保管されていたと思われるが、車体のみを伊豆箱根に運んだとは考えにくく、恐らく売却の対象になったのが車体のみで、実際には足回りも付いていたのではなかろうか。ちなみに同時期に車体新製の新車1000系3次車(モハ1005-モハ1006-クハ2003)が作られている。昭和52年1月大雄山線に転属、平成4年4月27日付で工事車コデ66に改造され、平成9年3月24日付で廃車となった。尚、パンタ側の乗務員室は通常は3両編成の連結面となるため営業運転で使用されることはなかったため扉は撤去され窓に改造されていた。(昭和62年6月23日 大雄山)

③ クモニ13002~016

荷電に改造された15両は、東京地区と大阪地区に配置され、長く新聞輸送等に使用され、大半の車両が昭和50年代後半まで在籍した。特に007は廃車後も東京総合車両センター(旧大井工場)に保管されているが、昨年の一般公開時に見たところでは、痛みが激しくなってきており早急な補修が望まれる。(旧掲示板8月25日付【1550】参照)

クモニ13013(南シナ)/昭和8年日車製、旧車号はモハ34013として作られ、昭和19年3月大井工機部で片運化してモハ33005、昭和26年4月大井工場で両運化の上荷電に改造された。昭和56年1月廃車された。(昭和50年12月31日 大森~蒲田)

クモニ13009(大タツ)/昭和8年日車製、旧車号はモハ34011として作られ、昭和23年10月汽車会社で荷電に改造された。昭和24年4月、品川より宮原に転属、後に高槻に転属し、昭和54年12月に廃車された。003、008も関西入りしたが、配給車に再改造クモル23003、010となった。(昭和42年2月20日 大阪)

クモル23010(大タツ)/クモニ13008からの改造車で、昭和8年日車でモハ34010として作られ、前述の009と同様に昭和23年10月汽車会社で荷電に改造、昭和27年5月に関西入りして、昭和36年12月に配給車に再改造された。廃車は昭和57年1月であった。(昭和46年1月15日 大阪)

【質問に答える】

【1678】澤村達也様からの質問の回答

.1 [前文省略]謎はその車体に1両だけ「クハ」と書かれていることです。Wikipediaのモハ33系電車を見てもクハが存在したとは書かれていません。窓配置はモハ34と同じですので、モハ34として作れば良いようなものですが、気になって安眠できません。

.1 「クハ」と書かれている車体をお持ちとのことですが、モハ33系にクハは存在しません。

.2 制御器サイドの床下がわかる写真はないでしょうか。

.2 探したのですが残念ながらありません。旧形国電関係の知人、友人のHPも見たのですが、皆さん同じ向きで撮影されており制御器サイドはありませんでした。代わりにモハ31系のクモハ12052の写真を貼り付けましたので参考にして下さい。

                                (昭和47年5月1日 大川)

.3  連結器を自連に取り替えたことはありませんか。

.3  昭和26年大糸線に転属時に自連に取り替えられています。前身の信濃鉄道買収車が廃車になった時点で密連化されますが、貨車引いていたクモハユニ64000の予備車を兼ねていましたので、同車が検査入場時等に一時的に自連に取り替えられたことがありました。

少し前の飯田線 Ⅱ

前回は17m車を解説したが、今回から20mに入り、以降80系まで続けたいと思っている。飯田線に在籍した車両から旧形国電の概略を掴んでいただければ幸いである。時期は原則として昭和52年3月末現在の車両配置を基準にした。

(3)戦前形2扉車

戦前形2扉車は、大きく次の3グループに別れる。

  17mモハ32(前回解説したクモハ14000番台)と同一グループのクハ47000番台(事故復旧名義で車体を新製した011も含む)、050番台、サハ48、サハ45(旧サロ45)

元関西国電のクモハ42、43、53、クハ47100番台(元クハ58)

  元関西国電、流電グループのクモハ52、53、クハ47150番台(元サロハ66)、サハ48(034、1両のみ)

今回は①のモハ32と同一グループのクハ47、サハ48、サハ45を紹介する。

このグループの昭和52年3月末時点での配置は次の通りである。

クハ47 009、011、069、070、074、076(全車両伊那松島区配置)

サハ48 021、024(全車両豊橋区配置)

サハ45 昭和52年3月末は配置はないが、昭和43年9月まで012が配置され、富士電車区に転属した。

1.クハ47000番台

横須賀線の付属編成用として昭和6年に10両製造、全車両偶数(下り)向きであった。戦時中4扉化が計画されたが、004と010の2両が実施されたのみで終戦となった。この2両は後に関西に転属して、最後は片町線で終焉を迎えた。残る8両は戦災に遭うことなく終戦を迎えたが、70系の進出により身延線に転属。この時、静岡局の電動車偶数向き、制御車奇数向きの方針により、奇数(上り)向きに方転した。002と009は飯田線に転属したが、002は3扉化の上、クハ68200となり長岡区に転属。009のみが伊那松島区に残り、昭和58年8月に行われた、お別れ運転の先頭に立った。

 

クハ47001/昭和6年日車製、本来47009を掲示すべきであるが、良い写真がないため、トップナンバーの001を掲示した。(昭和48年5月6日 富士電車区)

2.クハ47050番台

横須賀線のサハ48を70系進出に伴い、ローカル線に転用するにあたりクハ化したものである。サハ48は28両作られた内、16両がクハ化されている。一部の車両はサハ時代に戦後代用2等車としてロングシート化されていたが、クハ化の際もシートはそのままであった。000番台との外観上の相違は殆どない。074と076は一時期(昭和36年頃)新前橋区に配置され、湘南色に塗られてクハ86と同様に使用されていた。鉄ピクNo.768(2005/11)のP38に準急「軽井沢号」(上野~横川間・横川~軽井沢間はバス連絡)に使用中の写真が掲載されている。

余談になるが昭和36年7月、安中市の新島 襄先生の所縁の場所を見学する学校行事があった。大阪14時55分発姫路発東京行の普通列車(144レ)で出発、当日中に東京に到着すると思ったら大間違いで、到着は翌朝の4時51分であった。ちなみに現在では15時発の新快速で出発すれば楽々当日中に到着する。上野から快速新前橋行に高崎まで乗車。車両は3枚窓のクハ86で、停車駅は赤羽、大宮、熊谷、深谷、本庄、高崎あった。車窓から畑ばかりの関東平野を見て、関西との違いを実感した。この時、上野駅で湘南色のクハ47とサハ48を見て、「何だ、これは」と思った。

クハ47069/昭和6年汽車会社でサハ48015として製作、昭和31年日車支店でクハに改造。(昭和48年3月26日 伊那松島)

クハ47070/昭和6年に日車でサハ48010として製作、昭和31年東急車両でクハに改造。(昭和52年5月4日 沢)

クハ47071/昭和6年汽車会社でサハ48017として製作、昭和31年汽車会社でクハに改造。昭和43年8月29日、平岡付近を走行中に崩壊した土砂に乗り上げ事故廃車となった。画像は豊橋区で湘南色の時であるが、廃車時の所属は伊那松島区であった。(昭和41年3月23日 中部天竜)

3.クハ47011

昭和27年豊川分工場で、昭和25年8月身延線内船~寄畑間のトンネル内で失火全焼したモハ30173の改造名義で作られた車両で当初クハ47023を名乗り、昭和34年12月の改番で47011となった。改造とは名義だけで、台枠、車体は完全な新製で座席は当時の湘南形と同じものを使用した。台車は廃車となった豊川鉄道の買収車サハ1、サハ2が履いていたTR11を流用したが、後にクハ16011のTR23と振り替えた。

(昭和40年3月20日 豊橋)

 

(昭和45年11月23日 辰野)

4.サハ48

昭和6年と7年に28両製作され、70系が登場するまで終始横須賀線で活躍した。戦後6両が代用2等車としてロングシート化された。戦災と事故で各4両、計8両が廃車、16両がクハ47に改造され、サハ48として残ったのは、18、21、24、27の僅か4両であった。21、24の2両は一時期宇都宮区に配置され、湘南色に塗られてサハ87と同様に使用され、後に豊橋区に転属し、30番台の4連運用に使用された。18と27は昭和39年2月まで横須賀線に残ったが、伊東線の元クロ49改造の48040、41と共に岡山区に転属した。

サハ48021/昭和6年汽車会社製(昭和48年7月28日 豊橋)

 

サハ48024/昭和7年日車製(昭和48年9月1日 豊橋)

5.サハ45

昭和5年と6年に横須賀線専用形式車として13両製作。戦時中の昭和19年4月、2等車廃止により、4扉化してサハ78に編入する改造が行われたが、沿線に海軍基地があり、要人の乗車を考慮して8月に復活、4、5、7、8、12の5両はサロのまま残ることになった。4扉改造車は4両が戦災廃車となったが、未改造の5両は70系登場後もサロとて活躍した。昭和39年から40年にかけてサハに格下げとなり、4、5、7、8は富士区に、12は豊橋区に転属した。

サハ45012/昭和6年日車でサロ45012として製作、昭和39年8月に格下げでサハとなった。豊橋区では湘南色に塗られ、30番台の4連運用に使用されたが、後に富士区に転属した。(昭和43年4月4日 豊橋)

【質問に答える】

【1487】でH.Kさんよりの質問の回答

.1 関西の国電は20m級が基本であったが、関東はおそらく院電からのなごりか鋼製車両や鋼体化車両の時代になっても17m車が作られた理由。

.1 関西地区で国電(当時は省電)が運転されたのは昭和7年12月1日、片町線の片町~四条畷間の電化開業に合わて、省電初の20m電動車としてモハ40、モハ41が作られた。鉄道省が半鋼製車を製作したのは大正15年で、東京地区では昭和8年前期のモハ33、モハ34まで17m車で作られた。これは車両基地の設備の準備が整っていなかったことが原因とされ、この問題が解決した8年後期からは20m車が投入され、以降は17mの新製車はない。鋼体化車は50系のことと思われるが、17m木製車の台枠以下の下回りを始め、使えるものを流用して作られたので、必然的に種車と同じ17m車になる。戦時中の昭和19年度から20m車化することになり、クハ79001~025の25両が計画されたが完成したのは8両であった。当件については、昨年11月に発売されたネコ・パブ社のRM LIBRARY「鋼体化国電モハ50系とその仲間たち」に詳しく解説されているので参照いただきたい。

クモハ11307/昭和8年新潟鐵工製、両運のモハ34036として誕生、昭和19年5月大井工機部で片運改造でモハ33018、昭和28年6月の改番でモハ11307となった。(昭和43年4月7日 弁天橋)

.2 横須賀線の電車化に際し初の2扉大型電車が作られたが、T車、Ts車、Tc車が20m級の設計であったのにMcのモハ32形(後のモハ14)はなぜ17級で作られたのか。

.2 モハ32形が作られたのは昭和5年で、当時20m車体の電動車は昭和3年製の大阪鉄道デニ500形(後の近鉄南大阪線モ6600形)位しか存在せず、車体延長による重量増加に対する従来の主電動機(MT15A)への不安、台枠、床下機器配置の新設計が間に合わなかったこと等が理由とされている。

.3 クハ77とモハ62は身延線用に作られた限定車両と推察されるが買収車や他の17m級国電を配置換えせずにわざわざ異端の新製車を作る理由はあったのか。

.3  身延線の前身、富士身延鉄道は、運賃が日本一高いと言われながらも赤字続きの経営難で、昭和13年10月1日国営に移管、昭和16年5月1日「輸送力増強をはかるため十分な改良を加えたい」という名目で買収された。(赤字の原因は、建設費及び電化工事費の多額の借入金金利の支払いと思われる)富士地区には、大規模な製紙工場や肥料工場があり、これらの工場が軍需産業への転用に伴う通勤者の激増で車両増備の必要性に迫られていたが、時節柄、電車運転線区は全国的に同じような状況のため、他線からの転用もままならず、鋼体化改造車の一部を身延線用に振向け、セミクロス、トイレ付きで製作したものと思われる。その意味ではこの車両も転用車である。

EF55 さよなら運転

1月19日の【同軌講717】でロギング太郎さんよりご報告の通り、1月18日の「さよならEF55横川」号をもって営業運転を終了した。10月18日【738】でEF55の営業運転終了についてお知らせをしたが、最終日には是非見送りたいと思っていた。「さよなら運転」は12月に5回、1月に入って5回、計10回行われ、そのうち3回出かけたので、その時の模様等をお知らせしたい。

12月13日(土曜日)

この日は「さよならEF55みなかみ号」として高崎~水上間を運転された。たまたま高崎で仕事があり、先方とのアポが11時のため、新前橋~井野間で撮影した。赤羽駅7時過ぎの電車で出発したが、車内は一目で「鉄」とわかる乗客でほぼ満席、団塊の世代位の人が多く、中には「親子鉄」とおぼしき人もいた。高崎で107系や115系を少し撮影後、新前橋まで行き、井野寄りの陸橋で撮影した。EF55は単機で「磐越物語」用の12系客車を引いて通過した。時間があればもっと奥まで行きたかったが、今回はここで我慢せざるを得なかった。翌14日は水上まで行く予定をしていたが、朝から悪天気のため断念した。この日の水上は吹雪であったそうである。

 

         「さよならEF55みなかみ号」 新前橋~井野

1月16日(金曜日)

この日は、翌日上野発横川行で運転される「さよならEF55碓氷号」の送り込みが行われた。先頭にはEF641001が立ち、EF55は次位であることは判っていたが、たまたま休みが取れたので出かけた。赤羽駅を7時過ぎの電車に乗ったが、沿線には早くもカメラの列が見られた。取りあえず岡部で降り、通称「岡・本」で撮影しようと思ったが、激込みの様相であったので、深谷方面に戻った陸橋で撮影することにした。通過まで2時間以上もあるのに陸橋上には、すでに20名位の人がいた。電車や貨物列車が結構頻繁に通過するので退屈はしなかったが、電車にカメラを向けていた人は殆どなく、貨物列車にも無関心の人が多かった。人それぞれであるが、大半の人は「送り込み列車」の撮影のみが目的なのだろう。通過時刻が近付くにつれて、ますます人が多くなり最終的には80名位になり、パトカーが巡回する始末であった。

 

   翌日上野発の営業最終列車「さよならEF55碓氷号」の送り込み列車

 

                   赤羽駅通過

1月17日(土曜日)

この日は、上野発のEF55の最終日であった。EF55は戦後長く高崎線で活躍し、いわば「高崎線の機関車」であったので、以前から高崎線内で撮影しようと思っていた。(但し高崎線内は逆光)昨日と同じ電車で出発したが駅のホームの端や沿線には早くもカメラの砲列ができていた。どこで降りるか迷ったが、結局昨日と同じ岡部~深谷間の陸橋の反対側から撮ることにした。この場所は光線状態が今一つのため、人出は20名位であった。多くの人は順光で撮影できる信越線内に行ったのであろう。

その後、帰りの回送を撮影するため、信越線に移動した。群馬八幡で降りて、安中方面に歩き、碓氷川の「お立ち台鉄橋」の手前まで行ったが、今一つパッとしないため、結局引き返し、駅の近く踏切で撮影した。また、この日は、総本家青信号特派員さん、ロギング太郎さん、早川昭文さんが安中~磯部間で撮影され、その後、新島 襄先生の生家を訪ねられたそうである。ちなみに私は京阪沿線の中学校の時に「安中教会」と共に学校行事で訪ねている。撮影後、時間があるので久しぶりに両毛線を回って帰ろうと思い、211系5連の小山行きに乗車した。途中の下新田の車両基地には京浜東北線から引退した209系が4連と6連に組み直されて数本停められていた。トイレを設置して107系と115系の置換えに使用されると言われているが明らかにサービスダウンである。小山到着後、日光線の107系を見て帰ろうと思い宇都宮まで行ったが、発車まで30分以上あったので一旦駅の外に出た。宇都宮駅前には、地元資本の関東自動車、東武系の東野交通、JRバス関東の3社の路線バスが乗り入れているが、本数は関東自動車が圧倒的に多い。その関東自動車につい最近まで大阪市内を走っていた大阪市バスが入っておりビックリ。その他、元都バス、横浜市バス、川崎市バス、中扉両開き引き戸の京浜急行バス等が入り乱れて走っており、バスの博物館の様相を呈していた。話が横に逸れるが、7年位前は、関東自動車に元京阪宇治交通、東野交通に元京阪バスがおり、宇都宮駅前に両車が並び、樟葉の駅前のような光景が見られた。バスに見とれているうちに暗くなり、日光線は諦めて通勤快速で帰途に就いた。

         在りし日の思い出の高崎線を走る  岡部~深谷間

 

             折返しの回送列車   群馬八幡

1月18日(日曜日)

いよいよ営業最終日となり、赤羽をいつも電車で出発した。何処で撮影するか迷ったが、光線状態等を考慮し、安中~群馬八幡間の「お立ち台鉄橋」にした。今日は総本家青信号特派員さんが来られている筈で、高崎駅到着直後に携帯に電話すると「今コンコースにいる。同じ電車に早川さんと山川さんも乗っている筈」とのこと。エスカレーターを上がると特派員さんがおられ、暫くすると早川さんと山川さんとも合流することができた。満員の横川行(107系2連)に乗り、安中で下車。かなりの人が降りたが、行き先は全員「お立ち台鉄橋」である。約15分歩いて到着すると、既に150名位の物凄い人であったが、撮影場所は確保した。10時50分、定刻に営業運転の最終列車が通過した。上りの回送列車は、新島学園の先で撮影しようということになった。ここから現地までは4キロ以上の距離があるが、喋りながら歩いていると時間の経過を忘れてしまう。15人位の先客がいたが、なかなか良い場所であった。エンジン付きのパラグライダーで空から撮影していた人がいたのには驚いた。やがてDD51の引く回送列車の最後尾のEF55が目の前をゆっくりし通り過ぎて行った。

駅に戻り、「碓氷峠鉄道文化村」に行かれる、早川さん、山川さん、総本家青信号特派員さんとお別れして帰途に就いた。

久しぶりに皆さんと一緒に撮影して、楽しい一時を過ごさせていただき、時計の針が40年前に戻ったような日であった。 

             群馬八幡~安中(通称お立ち台鉄橋)

 

          安中~磯部間を行く最終営業列車の回送

かくしてEF55の「さよなら運転」は終了したが、自分でも不思議に思うくらいに拘った。昭和61年7月、営業復活運転の初日に撮影したことが原因かも知れない。

EF55に続く後ろの客車がいただけなかった。茶色の客車が既にないのならば致し方ないが、スハフ32、スハフ42、オハ47、オハニ36が現に在籍しているにも拘らず、12系が使用されたのは残念であった。昨今の諸情勢を考慮すると、安全性の見地から仕方がなかったのかも知れない。

EF55は、今回の復活運転に際し、大宮工場に入場して相当なお金と手間ひまをかけて整備をしており、このまま鉄道博物館に入れてしまうのは実にもったいない。もし、可能ならば、旧形客車を引いた元気な姿を再度見たいものである。

[番外]西北の杜号

平成5年3月7日早稲田大学鉄研の創立40周年記念列車で、上野~水上間を往復した。全区間EF5869が引き、高崎~水上間は先頭にEF551が連結された。編成は次の通りである。

←水上 EF551EF5889 +スハフ322357+オハ472261+オハニ3611+オハ472246+オハフ332555 (EF551は高崎~水上間のみ)

                  新前橋~群馬総社

記憶の中の京阪電車 Ⅲ

京阪電車について過去2回書込みをしたが、よくよく考えると当クローバー会には、乙訓の長老を筆頭に京阪に超詳しい諸先輩方が多数おられるし、また、同社の元役員、社員の方、現役の方も多数おられるため、私如きが出る幕はないが、まあ8年間も乗っていると、たまには、珍しいこと、思いもかけないことに遭遇するものである。そんな思い出等をあと少しだけ書込みしたい。

1900の試運転

1900については、小林純爾氏が「青信号」やJTB Can Books「京阪特急」の中で詳しく解説されておられるので今更という感じであるが、昭和39年3月23日に撮影した「試運転」の写真が出てきた。1950+1913の2連が枚方市を発車したところであるが、周りの景色も何処となくのんびりしている。

 

 

706と並んだ1950

1800の急行

新1900形と交替して1800系はロングシート化され、一般車となったが、塗装は暫くの間そのままであった。1803-1881+1804は最初からロングシートで作られ、主に急行に使用されていた。

 

1809他5連の急行   昭和41年2月19日     丹波橋

 

最初からロングシートの1804  昭和41年2月15日     丹波橋 

スカートの無い2200

2200を初めて見たのは、昭和40年1月8日、3学期の始業式の日のことである。この日は授業がなく午前中に自宅に帰れるので、午後は京都駅で臨時列車の撮影を計画していた。電車が深草を通過した時、東側の留置線に停まっている車両(2205+2255)を見て、昼食もそこそこにカメラを持って深草に引き返した。最初見たときは2000と変わらないと思ったが、初めて営業運転で見たときスカートが付いていたので、逆に吃驚した。

 

 

昭和40年1月8日  深草

宇治線の300形3連

昭和39年頃の宇治線の朝ラッシュ時は殆ど300形3連であった。六地蔵辺りで満員になり、桃山南口、観月橋では超満員、ただでさえ小さな木製車体ははち切れんばかりであった。特に着膨れシーズンともなれば車掌さんは正に命がけの勤務であった。

 昭和39年3月20日  中書島

1000系5連の急行

昭和39年頃、1000系もよく急行運用に入っていた。この編成は中間に1200形を挟んだ綺麗な貫通編成であるが、それ以前は500形がよく入っていた。 

 

昭和39年11月3日   滝井

過渡期の1000形

1000形と1100形は運転室側にジャンパ線がなく、編成の中間には連結できなかったが、運用上不便なため昭和40年頃からジャンパ線の取付け工事が始まった。写真の1005は、準備工事としてジャンパ線の取付座が設置されたところである。

編成の先頭の1204は正面の窓枠がアルミサッシ化され、貫通扉が金属製のものに取り替えられている。

 

昭和41年1月15日  丹波橋

少し前の飯田線Ⅰ

 年末の同軌講ではD51498の空焚き事件の話題で賑わい、大晦日の掲示板は、総本家・青信号特派員さん、湯口先輩の書込みで大盛り上がりであった。D51の修理が1年半も要するとなれば、当面予定されているものは、真岡鐡道からC11を借りてきて急場を凌ぐにしても、以前からよく運転されている高崎~水上間は、復旧工事完了まで運休を余儀なくされる。ならばEF55の引退先延ばしという選択肢もあると思うが、JR東日本としては今更計画を変更することはないであろう。

 昨年12月は、13日に新幹線0系、20日に京阪1900のさよなら運転が行われ、最後の花道を撮影に行かれた会員の方も多かったのではなかろうか。また、名鉄パノラマカーは26日をもって通常の営業運転は終了したが、あと暫くはイベント等で運転される予定で、タイミングよく犬山総会当日の運転は叶わぬ夢であろうか。

 12月23日、大阪出張時、午前中時間があり、パノラマカーの走行中撮影を計画したが、濃霧のためダイヤが乱れており、万一のアクシデントを考慮して結局前回と同じコースにした。天気がピーカンのため、下り列車はモロ逆行となってしまった。最終日が近いせいか平日にも拘らず、神宮前駅には30人、堀田駅は10人位の同業者がいた。大部分の人は他形式には見向きもしていなかったが、私はこんな時くらいしか名鉄の撮影ができないため、6000系等にもせっせとカメラを向けた。

 前回、JR東海ニュースリリースの紹介から飯田線の119系について書込みしたが、3月14日のダイヤ改正で「ムーンライトながら」の廃止により、同列車と飯田線の特急「伊那路」、身延線特急「ふじかわ」に使用されている「373系」にも大きな動きがありそうである。373系は3両編成×14本=42両在籍し、前述の列車及びその送り込みの普通列車、間合い運用で平日のみ大垣~米原間の普通列車に2往復使用されている。「ムーンライトながら」が廃止されると「伊那路」用として2本、「ふじかわ」用として3本、予備車2本位あれば充分であり、半数弱が余剰となると思われる。車令が若いので廃車にはならないだろうが、普通列車用としては乗客の多い本線筋では使い勝手が悪く、臨時特急、臨時快速、団臨位しか使い道がないのではなかろうか。セントラルライナーの増発、ワンマン化の上中津川以東のローカルに転用等も考えられなくはないが「ムーンライトながら」の廃止が思わぬところに波及することだけは確かである。

 ここからが本題で、過去「飯田線」については乙訓の長老より「クハユニ56」についての書込みや893-2さんの美しい風景写真による紹介等があったが、今回は17mについて少し触れてみたい。飯田線での17m車の活躍は、M車は昭和45年8月19日付廃車のクモハ14013、T車は昭和47年4月17日付廃車のクハ16446と447が最後で、我々の世代ではギリギリ間に合ったという感じである。当時の飯田線は蒸機全盛時代のためか、数少ない旧形国電ファン以外の人から注目されることは殆ど無かったように思われる。今回は「クモハ」と「クハ」のみの紹介とし、クモニ13、クモエ21、クエ28については項を改めて紹介する。本来ならばもっと数多くの車両について書きたいところであるが、自分で撮影したものの中から代表的なものを選択して紹介する。また、配置区は撮影時のものである。

(1)   3扉ロングシート車

飯田線に在籍した3扉ロングシート車は、クモハ11、クモハ12、クハ16、クハニ19、サハ17の5形式である。距離と乗車時間の長い路線には不向きのため、関西から転入したクモハ51形等と交替して昭和40年代の初めには姿を消したが、一部のクハ16は、スカ色に塗り変えられ、昭和47年4月まで在籍した。クモハ12は昭和62年、クモヤ22112からイベント用として復活した12041である。

クモハ11202(トヨ)  40.3.20    豊橋

昭和4年川崎車輌製でモハ31004として誕生、昭和28年6月の改番でモハ11202となった。昭和42年配給車に改造され、クモル24021となり大阪地区で使用され、昭和56年5月に廃車となった。

クハ16219(トヨ)   40.3.20    豊橋

この車の経歴は少々複雑で、昭和2年日車製でデハ73253として誕生、昭和3年10月の改番でモハ30053、昭和24年に電装解除してクハ38065、昭和28年6月の改番でクハ16111、昭和30年二重屋根から丸屋根に改造してクハ16219となった。豊橋→北松本→伊那松島→北松本→富山港線と短期間に転属を繰返し昭和42年4月に廃車となった。

クハ16446(ママ)   46.9.25    伊那松島

最後まで残ったクハ16で、昭和15年7月大井工場で木製車の鋼体化改造車クハ65110として誕生、昭和28年6月の改番でクハ16446となった。昭和34年にトイレが設置されたが番号は変更されなかった。廃車は昭和47年4月である。

クハ16451(ママ)   45.11.23   伊那松島

昭和14年3月大宮工場で木製車の鋼体化改造車クハ65067として誕生、昭和28年6月の改番でクハ16451となった。昭和32年にトイレが設置され、昭和46年8月廃車となった。

クハ16491(トヨ)   40.3.20    豊橋

昭和15年11月大宮工場で木製車の鋼体化改造車クハ65117として誕生、昭和28年6月の改番でクハ16491となった。昭和38年にトイレが設置され、昭和42年6月廃車となり、伊豆箱根鉄道に譲渡された。

クモハ12041(シス)  61.8.6     沼津

昭和62年3月飯田線のイベント用として、モハ10016改増のクモヤ22112を再度旅客車に復帰したもので、クモハ11100番台改造のクモハ12040の続番とした。新AA基準に達していないため、佐久間~相月間の峰トンネル区間の客扱いできない、老朽化等により平成13年廃車となった。現在伊那松島区に保管されているが、近々建設が予定されているJR東海の鉄道博物館で保存されるかどうかは微妙なところである。経歴はかなり複雑で、昭和2年汽車会社でデハ73331として誕生、昭和3年10月の改番でモハ30131、昭和28年6月の改番でモハ11047、昭和29年豊川分工場での更新修繕Ⅰで運転台を撤去してモハ10016、昭和39年浜松工場で牽引車に改造されクモヤ22112となった。画像はクモヤ22112時代のものである。

(2)   2扉クロスシート車

2扉クロスシート車は、クモハ14、クハ18、サハ15の3形式が在籍した。クモハ14は戦前の横須賀線のエースで、低屋根に改造されなかった車は全車飯田線に集結した。距離と乗車時間の長い飯田線には向いていたが、老朽化のため関西から転入したクモハ51形等と交替して昭和40年代前半には姿を消したが、14007と009は富士急行に譲渡され、昭和57年まで活躍した。

クモハ14000(トヨ)   41.9.3   豊橋

昭和5年川崎車輌製でモハ32001として誕生、戦前の横須賀線のエースであった。昭和28年6月の改番でモハ14001、更に昭和34年12月の改番でモハ14000となり、昭和44年8月に廃車となった。更新修繕Ⅱの実施が昭和29年10月と早かったため、正面の雨樋が直線のままで、原型の面影をよく残していた。

クモハ14001(トヨ)   40.3.20    豊橋

昭和5年川崎車輌製でモハ32005として誕生、昭和28年6月の改番でモハ14002、更に昭和34年12月の改番でモハ14001となり、昭和44年6月に廃車となった。更新修繕Ⅱが昭和33年6月に実施され、正面雨樋が曲線となり、正面窓がHゴム化された。

富士急行モハ7031←クモハ14007(チウ) 50.3.23  東桂

昭和6年汽車支店製でモハ32023として誕生、昭和28年6月の改番でモハ14023、更に昭和34年12月の改番でモハ14007となり、昭和44年6月に廃車となったが、富士急行に譲渡され、同社のモハ7031となった。富士急行では、客窓のアルミサッシ化、シートの張替え、車内の塗り潰し等を実施の上、同時に譲り受けた元クハ16425のクハ7061と編成を組んだ。

富士急行モハ7032←クモハ14009(ママ) 50.3.23  河口湖

昭和6年汽車支店製でモハ32031として誕生、昭和28年6月の改番でモハ14031、更に昭和34年12月の改番でモハ14009となり、昭和44年6月に廃車となったが、富士急行に譲渡され、同社のモハ7032となった。富士急行での改造は、前述のクモハ14007と同じで、同時に譲り受けた元クハ16467のクハ7062と編成を組んだ。2編成ともに昭和57年11月に廃車となった。 

クハ18001(ママ)   41.3.13    三河川合

戦時中の昭和19年3月大井工機部で身延線用に木製車の鋼体化改造車クハ77001として誕生、昭和28年6月の改番でクハ18001となった。本長篠から乗車したのがこの車両で、途中停車時間の長い交換駅で撮影しようと思っていたところ、三河川合で切離されてしまいこのような写真しか撮れなかった。昭和41年9月に廃車となった。

サハ15000(トヨ)   41.3.13    本長篠

昭和4年田中車輌製でサロ37001として誕生、昭和28年6月の改番でサロ15000、昭和38年11月格下げでサハ15000となり、昭和41年7月に廃車となった。戦後長らく横須賀線で活躍していたが、昭和37年10月伊東線に転属、格下げ後の昭和39年2月日光線と東北本線宇都宮~黒磯間のローカル用として小山区に転属、昭和40年7月豊橋区に転属となったが僅か1年で廃車となった。

(3)   373系

3月14日のダイヤ改正で大きな動き予想される373系について少し触れておきたい。平成7年から8年にかけて老朽化した165系の代替として作られ、クモハ373+サハ373+クハ372の3両が1編成となっている。特急からローカル使用までの汎用性を持たせているため、扉は両開きでデッキの仕切りがなく、冬季「ムーンライトながら」に乗車する場合は座席の位置(特に進行方向前方の扉付近)によっては非常に寒く、それなりの防寒対策が必要である。

 

クハ372-5他3連の特急「伊那路」 19.11.3 中部天竜

 

クモハ373-5           19.11.3 中部天竜

JR東海のニュースリリースより

12月15日付のJR東海ニュースリリース「在来線車両の新製について」の項目の中で「国鉄時代に製作し老朽化した電車127両を廃車して、電車120両を新製すると共に、気動車10両を新製することとし、輸送サービスの向上、および、より一層の安全性の向上を図ります。なお、今回の車両取替により、電車についてはほぼ全てがJR発足以降に新製した車両に統一されます」と記されている。

新製される電車は、同社の主力として活躍中の313系で、投入線区は「東海道線(名古屋地区)、中央線、関西線など」となっている。廃車の127両については具体的な形式は記されていないが、117系72両、119系が55両在籍し、合計すると127両になるので、ほぼこれに間違いないであろう。117系は単純に新車と置き換えが可能であるが、119系がどのようになるのか気になるところである。新車の投入線区に「飯田線」が記されていないが、「など」に含まれているのか、新車を中央線、関西線に投入し、そこから捻出される車両と置き換えのいずれかであろう。あくまで私個人の予想であるが、現在関西線等で使用中の213系5000番台が2扉転換クロスのため、ラッシュ時の客扱いに難があり(但し、使用されるのはラッシュ時のみで昼間は殆ど遊んでいるが)これが飯田線に回るのではないだろか。尚、213系5000番台は、Mc-Tcの2両×14編成=28両が在籍している。

 現在、119系はMc+Tcの2両×23編成=46両(このうち2両×7編成=14両はワンマン運転対応)、両運転台付のMcが9両の合計55両が在籍している。

119系について簡単に解説すると、昭和57年12月から58年6月にかけて飯田線の旧形国電の置換え用として作られた車両で、1M方式の新性能車105系をベースに、飯田線の状況に合わせて、座席をセミクロス、主電動機、制御装置は103系と同じMT55系とし、耐寒装備、抑速ブレーキを付加した。クハの台車は101系の廃車発生品、MG、扇風機は、103系等の冷房改造に伴う不用品の再利用等で新製コストを抑え、クモハ119が33両、クハ118が24両の57両作られた。クモハ119が9両多いのはMc+Mc+Tcの3両編成を9本作るためであった。

 昭和61年11月のダイヤ改正で、主に興津~静岡~島田間で運転されていた「するがシャトル」の113系を他地域に転出し、代わりに119系を転用することになり、7月頃から改造が始まった。内容は冷房装置の取付けと塗装の変更、パンタの変更位のもので、クモハ119の内、7、10、11、23、24、26~28、クハ118の内、4、5、7、14、15、18~20の各8両が改造され、一部は冷房工事が間に合わず塗装変更のみで就役した。

 昭和63年、クモハ119で3両編成の中間車となっていた9両を単行運転用に両運改造をすることになり、2、4、5、7、9、13、15、17、19、33が対象となった。旧形時代は両運改造されると形式が変わったが、形式はそのままで100番台に番号区分されることになり、順に101~109となった。

 「するがシャトル」用に転出した8編成は、駅間距離が長く、運転速度の高い東海道線には不向きで、2年余りで飯田線に戻された。また、全車両に対し、冷房改造が行われることになり、省エネ、低コストのインバータ・クーラーが設置され、車番は従来の車番+5000番となった。

 平成11年11月よりワンマン改造が始まり、次の14両、7編成が対象となった。車番は+300番となり、全車インバータ・クーラー車であるため、5300番台となった。

クモハ119-5318、5320、5321、5324、5325、5329、5330

クハ118-5311、5312、5313、5316、5317、5321、5322

実際のワンマン化は平成13年3月3日のダイヤ改正からで、閑散時間帯の天竜峡~辰野間で実施されている。その後、平成16年10月20日、羽場~伊那新町間で台風による大雨のため路盤が流出したところにクハ118-5316+クモハ119-5324が通過、脱線転覆して大破し、復旧されることなく廃車となった。代わりに118-5005+119-5005がワンマン改造の上、改番された。

さて、我が愛すべき旧形国電の代替として飯田線に配置された119系の活躍が見られるのもあと1年少しとなってしまった。今は訪れる人も少ないかつての有名撮影地が再び賑わうことになるのであろうか。私個人的には中央アルプスをバックに走る119系を記録に残しておきたいと思っている。

(1) 登場間もない頃

 クモハ119-32+119-33+クハ118-24の3連 59.3.23 北殿

 クモハ119-11 59.3.23  辰野

クハ118-7+クモハ119-11 59.3.23  辰野

(2)   するがシャトル

 クモハ119-7   61.8.6 沼津

クハ118-5   61.8.6 沼津

クハ118-15+クモハ119-23   61.12.30 島田 (この時点では冷房装置は搭載されていない。)

(3)   最近の画像

 クハ118-19+クモハ119-27  19.11.3  中部天竜

クモハ119-27  19.11.3  中部天竜

クモハ119-5032+クハ118-5024  19.11.3  中部天竜

(4)   313系

313系は平成19年3月18日より115系3連と交替で入線している。飯田線用として発電ブレーキを装備し、扉は押ボタン式半自動、霜取り用としてパンタグラフ2基搭載し、McとMの車号は1700番台で区分されている。現在3編成在籍している。

クモハ313-1703他3連    19.11.3  中部天竜

33年前のニアミス

【1123】で8932さんが「EF52さよなら運転」の時に和歌山駅で撮影された画像を公開されたが、実は私も同じ場所で撮影していた。893-2さんが書込みされている通り昭和50年8月24日のことである。

 当日のことはあまり記憶に残っていないが、「きのくに53号」を紀伊駅の近くで撮影しているので、京都の自宅は朝早く出発したと思われる。唯、列車通過まで時間がなかったためか、良い場所では撮影していない。その後、和歌山駅で撮影し、帰りの「きのくに54号」までの間、有田鉄道と野上電鉄に行った。有田鉄道は富士急行から購入したキハ58はまだ使用されておらず、キハ07が使用されていた。また、野上電鉄は富山地鉄からデハ5031、5034、5035、5037の4両を購入した直後で、5034が車庫内で野上仕様に改造中、他の3両は富山地鉄時代のままの姿で留置されていた。

 和歌山に戻り、再度EF527を撮影後、紀伊駅へ、六十谷寄りで「きのくに54号」を撮影した。あの日から33年も経過しているが、感覚的には20年位前のことのように思える。

 和歌山駅構内で展示中のEF527(50年8月24日)

 

 EF527お別れ列車「きのくに54号」(50年8月24日) 紀伊~六十谷

 EF527「きのくに53号」(47年8月6日) 山中渓~紀伊

 

ED608「きのくに55号」(47年8月6日) 山中渓~紀伊

 ED604 貨物列車(47年8月6日) 山中渓~紀伊

 ED607 貨物列車(47年8月6日) 山中渓~紀伊

 EF526 貨物列車(47年8月6日) 山中渓~紀伊

 EF52 単機回送 (47年8月6日) 山中渓駅

 

ED6117+EF58 貨物列車 (50年8月24日) 紀伊駅

EF58の次はマニ60で関西線の荷物専用列車から竜華操車場で切り離され、貨物列車に併結され和歌山まで行っていた。

 EF525+ED60 貨物列車 (46年10月31日) 和歌山

 EF525 新宮発天王寺行115レ (42年5月28日) 長居駅

 

 EF525他重連回送 (49年1月4日) 杉本町駅

名鉄パノラマカー・EVE見学記

名鉄パノラマカーが12月26日をもって定期運用を離脱することが確定した。京阪1900形は10月18日をもって定期運用を離脱、新幹線0系は11月30日で定期運用を離脱し、昭和30年代の名優が揃って引退することになった。最終日に新大阪6時12分発こだま629号に乗った友人の話では、ホームの警備の物々しさに比べ、早朝のためか乗客は少なく、自由席で40%、指定席も空席が目立っていたそうである。

 11月27日、午後から大阪で仕事があり、午前中時間が空いていたので、パノラマカーの撮影を計画した。同社のHPにダイヤが公開されており、撮影には大いに参考になった。東京を朝出発して、午前中撮影可能な列車は、神宮前駅を基準にすると、上りは8時54分発急行内海・常滑行(後4両常滑行がパノラマカー)と11時16分発普通東岡崎行、下りは9時24分発、普通金山行と9時35分発普通岩倉行の4本で、11時16分発の東岡崎行は、9時35分発の岩倉行の折返しのため、撮影できるのは実質3本である。

 当日、東京駅6時発の「のぞみ1号」に乗車、名古屋着7時36分で、パノラマカーは早すぎるため、8時30分頃まで中央線の電車を中心に撮影、211系と313系の併結10連が次々と発着する光景は中々のものであった。また、2扉転換クロスの213系5000番台はラッシュ以外殆ど姿を見せないのでこの時間帯がチャンスである。

 名鉄名古屋駅から豊川稲荷行急行に乗り神宮前へ、ここで撮影するのは30年振りである。まず、内海・常滑行を撮影するが上り電車と被ってしまい、辛うじて後追いで撮影した。続いて上りの金山行を撮影するが、どこからともなく同業者が2人現れた。白帯車であったが、下り電車と被ってしまい、発車直前に辛うじて撮影することができた。この電車は恐らく金山で折返し、回送で戻ってくるが、岩倉行を撮影するため、快速急行吉良吉田行で次の堀田へ、ところが岩倉行はパノラマカーではなく、6000系の4連でガックリ。折返しの東岡崎行も期待できないため、地下鉄で大曾根に行き、瀬戸線の吊掛車を撮影しようと思い駅を出たが、もしかすると岩倉で車両交換するかも知れないと思い、再びホームへ。昭和40年代前半は、7000系の他、5000系高性能車、流線形の3400、830、戦前形のAL車、3700系HL車等バラエティーに富んでいたが、今は6000系と3500系が主力で変化に乏しい。撮影中に携帯の着信音が度々鳴るが勤務時間中のため、これは仕方がない。1編成のみの1380系が撮れたのはラッキーであった。やがてパノラマカーの到着予定時刻になり、ホームの端で待っていると、4コのヘッドライトが見え、7041の編成が来た。やはり岩倉で車両交換したのであった。

 新名古屋の戻り、在来線ホームを覘くと多治見行のラスト2両に213系が連結されていたので大急ぎで撮影後、発車間際の「のぞみ19号」に乗車、午後1時前には楽々新大阪に到着した。

 1. 神宮前を発車した急行新鵜沼発内海・常滑行の8連、後4両のパノラマカーが、太田川で分割し普通常滑行となる。(後追い) (7043-7754-7753-7044)

 2. 神宮前駅に到着した普通知多半田発金山行  (7011-7162-7061-7012)

 3. 本来はパノラマカー運用の普通東岡崎発岩倉行であるが、本日は6000系。(後追い)

4. 先頭のモ6912

 5. 岩倉で車両交換して本来の運用に戻った普通東岡崎行。午前中の運用はこれで終わり。

(7041-7082-7081-7042)

 6.1000系6連の快速特急豊橋行

 7.ク3303他6連の快速急行豊橋行

 

8.モ1384他4連、普通東岡崎行

一部特別車の特急編成 (113411841384133415841534)が平成4年9月、踏切事故で特別車両の1134と1184が大破して廃車となったが、一般車の4両は被害の少なかったため、1384に運転台を取付け一般車とした。車内は特急時代の転換クロスのままであるが、専ら普通列車に使用されている。

 9.ク3521他4連、準急東岡崎行

平成5年から7年にかけて作られた通勤形車で、GTO素子を用いたVVVFインバータ制御車である。

 

10.ク6247+モ6047 普通豊明行

昭和51年から59年にかけて作られた通勤形車で、写真の車は昭和58年製の9次車である。正面のデザインから「鉄仮面」と呼ばれている。

 

11.蒲郡線と広見線の末端区間ワンマン化に伴うポスター

地元では「廃止を前提とした合理化」と相当反発を招いているようである。

 仕事は順調に進み、17時30分に終わった。朝が早かったので(4時起床)、このまま真っ直ぐ帰ろうと思ったが、今日は「EVE」。ここまで来て展示を見て帰らない訳には行かないと思い、新快速で京都へ。会場には18時30分頃到着した。今年の展示のメインは「加悦鉄道」で、DB201の引く客車列車、修復工事中のハ10、キハユニ51の写真等、貴重なものが多く見応えがあった。また、伊賀鉄道のイベントに使用したヘッドマークの実物の展示もあり中々充実していた。個人の好みにもよるが、ここ5年位毎年展示を拝見しているが、今年が最高ではないかと思った。会長の田中君としばし懇談し、青信号66号を購入し会場を後にした。「のぞみ96号」に乗車し、本日3食目の駅弁を食べた後「青信号」を読んだが、読み終えたのは掛川駅通過後で、総本家青信号特派員さんや中国特派員さんの記事もあり、こちらも充実した内容であった。

 おなじみの9mmの大レイアウト

 

伊賀鉄道の行先板(本物)

 加悦鉄道の現役時代を知るものにとっては非常に懐かしく、今尚大切にメンテナンスを行いつつ保存されている状況を知り、安心すると共に、活動が何時までも続けられることを切に願うばかりである。

貴志川線

乙訓の長老より9月30日【360】「竹藪の傍」の中で1958年和歌山電気軌道時代に撮影された、モハ205、モハ206、クハ801の画像を公開されたが、この時代の画像は極めて少なく非常に貴重な記録である。

私が訪問したのは南海合併後の昭和40年1月17日と翌41年2月27日で、長老が撮影された当時の車両が、パンタ化されて活躍していた。

.歴史

貴志川線の歴史について簡単に述べると、大正3年6月3日に創立された山東軽便鉄道が前身で、大正5年2月大橋~山東(現伊太祁曽)間蒸気列車で営業開始。大正6年大橋~中之島間延長するも、大正11年7月国鉄紀勢西線開通に伴い、中之島~田中口間を廃止し、田中口~東和歌山間を新設。昭和4年11月、社名を山東軽便鉄道から山東鉄道に改称しガソリン車を導入。昭和6年4月、社名を山東鉄道から和歌山鉄道に改称。昭和8年8月、山東を伊太祁曽に改称し、伊太祁曽~貴志間を開業した。

戦時中、燃料入手難から電化を計画し、昭和16年12月東和歌山~伊太祁曽間、昭和17年12月伊太祁曽~大池間、昭和18年2月に全線の電化が完成した。当時、ガソリン動力の鉄道は、燃料入手難から蒸気動力に逆戻りしたケースが多かった中で、電化を選択したのは先見の明があったと言えよう。

 戦後は経営難のため昭和32年11月、和歌山電気軌道に吸収合併。昭和36年11月和歌山電気軌道が南海電鉄と合併したため、南海電鉄貴志川線となった。昭和39年5月、集電装置をポールからパンタに変更。昭和43年3月1日、国鉄が東和歌山駅を「和歌山」に改称したため当線も同時に改称。昭和43年6月、高野線の平坦区間で使用されていたモハ1051形8両とクハ1801形4両が転入し在来車を置換え。昭和46年8月、モハ1201形10両転入により、モハ1051形とクハ1801形を置換え。平成7年2月、高野線22000系を貴志川線用に改造した2270系6編成が転入し、モハ1201形を置換え。同年4月1日ワンマン化。平成16年9月30日、南海電鉄が貴志川線の廃止を申請。平成17年2月28日、後継事業者を両備グループの岡山電気軌道に決定。平成18年4月1日、和歌山電鐡として再発足した。

.車両

昭和40年1月の時点での在籍車両は電動車8両(モハ201、203、205、206、601~603、605)、制御車3両(クハ802~804)の計11両で、翌昭和41年2月の時点では、輸送力増強のため本線から付随車が2両(サハ1821、1827)転入して13両となった。湯口先輩もふれておられたが、気動車からの改造車が電動車4両、制御車2両の計6両が在籍し約半数を占めていた。以下、画像と共に簡単に紹介したい。

 モハ201

元和歌山鉄道キハニ201、昭和6年小島工業製のガソリンカー。昭和17年8月電動車に改造した。和歌山寄りに荷物室と荷物扉が設置されていたが客室化されていた。

 

(昭和41年2月27日)

モハ202

元和歌山鉄道キハニ202、昭和8年日車製のガソリンカー。昭和17年5月モハ201と同時期に電動車に改造した。正面は変則3枚窓で、以前は和歌山側に荷物台が付いていた。

 

(昭和41年2月27日)

モハ205、206

元江若鉄道のキニ1、2を終戦後の昭和22年10月に譲受け、翌年電動車に改造した。江若鉄道では燃料不足もさることながら、小型のため持て余していたものと思われる。製造は昭和6年川崎車輛である。

 (昭和41年2月27日)

モハ601、602

昭和30年、元阪急の車体に南海より譲り受けた台車、終戦直後63形投入の見返りとして入線した元東急(京浜急行)の木製車モハ501、502用の電動機の予備品を組み合わせて誕生した。モハ601は阪急63形の70(大正10年梅鉢鉄工所製)モハ602は51形の60(大正9年梅鉢鉄工所製)である。製造時は木製車であったが、昭和25年に台枠、屋根、主要機器を流用して鋼体化が実施された。

(昭和41年2月27日)

(昭和40年1月17日) 

モハ603

東急から譲り受けた木製車モハ501の車体の老朽化が激しいため、昭和31年、元阪急81形84(大正12年川崎造船所製)の車体と振り替えた。

 

(昭和40年1月17日)

モハ605

長老が紹介された片ボギーのクハ801の代替として昭和34年に登場した車両で、車体は元阪神の701形702に南海から購入した台車、電動機の組み合わせである。(台車はその後603と振替)車体は昭和7年大阪鉄工所製。尚、阪神701形は野上電鉄にも704、707、710の3両が入線し、廃止まで使われた。

 

(昭和40年1月17日)

クハ802

元片上鉄道のガソリンカー、旧車号はキハニ102、昭和6年日車製である。昭和30年ナニワ工機で制御車に改造の上入線した。片上鉄道では戦時中燃料不足により客車化(フハ102)されており、戦後は岡山臨港鉄道に貸与されていた。

(昭和40年1月17日)

 クハ803

クハ802と同じく、元片上鉄道のガソリンカーで、旧車号はキハニ120、昭和10年加藤車輛製。昭和30年ナニワ工機で制御車に改造の上入線した。この車も戦時中燃料不足により客車化(フハ120)されていた。

 (昭和40年1月17日)

クハ804

東急から譲り受けた木製車モハ502の車体の老朽化が激しいため、昭和30年、元阪急1形8(明治43年川崎造船所製)の車体と振替の上クハ化した。元阪急1形は、戦後京阪石坂線で長く活躍していたので、高齢者予備軍以上の方には馴染み深いと思われるが、8と7は1形中最後までMとして甲陽線で働いていた。昭和30年、夙川駅で7がホームに乗り上げ破損した時、8も一緒に廃車となった。但し、書類上は610形に改造されたことになっている。

 

(昭和40年1月17日)

サハ1827

昭和40年、輸送力増強のため、1821と共に本線から転属した。昭和14年、木製車の台枠他、使用可能な部品を使って鋼体化した「簡易半鋼車」と呼ばれたグループ。本線では17m車のため中形車の部類に属していたが、貴志川線では超大形車に見えた。

 

(昭和41年2月27日)

貴志行の混合列車

貴志川線は昭和43年まで貨物営業を行っており、混合列車が運行されていた。

 

(昭和40年1月17日)

クハ801(廃車

長老が【360】で紹介された、クハ801の廃車後の姿であるが、ご覧のように集電装置はボウが付いている。集電装置は、当初大阪軌道線のパンタ化で不要になったボウを使用する予定であったが、この車でテストをしたところ結果が芳しくなかったため、結局パンタに変更となったと思われる。

(昭和40年1月17日)

 モハ300(廃車体)

昭和18年12月、大池~貴志間の電化により全線電化が完成したが、その時に南海電鉄より軌道線の電2形57(大正10年川崎造船製)を譲受け鉄道線用に改造した。昭和30年7月に廃車となったが、昭和40年まで廃車体が残っていた。

(昭和40年1月17日) 

モハ1058

昭和43年、在来車の置換えのために転入した車で、高野線の平坦区間で使用されていた。モハ1058は、昭和24年川崎重工泉州工場製のクハ1844を貴志川線転属の際、電装したものである。

 

(昭和46年10月31日)

 モハ1214

昭和11年日車製、この車は昭和47年水間鉄道に売却され、同社のモハ508となっている。

 

(昭和46年10月31日)

 モハ1220

昭和12年汽車製造で、前述のモハ1214より窓の上下幅が広くなったため、保護棒が設置されている。この車は昭和47年京福電鉄福井支社に売却され、同社のホデハ2008となった。尚、モハ1201形は車両交換が行われていたことを、本稿を入力して初めて知った。

 (昭和46年10月31日)

モハ1214+モハ1213 (昭和46年10月31日)

モハ1220+モハ1221(昭和46年10月31日)

 以上、過去貴志川線で活躍した車両を簡単に解説したが、モハ2270系と交替するまで働いたモハ1201形、元高野線の急行車クハ21201、モハ2270系及び和歌山電鐡転換後の状況、「いちご電車」「おもちゃ電車」「たま駅長」の話題等について報告いただけると有難く思う。