少し前の飯田線Ⅳ

(3)-3 戦前形2扉車 流電グループ

前回の「(3)-2 戦前形2扉車 42系」から半年以上経過したが、今回は流電グループを解説する。

流電グループについては、過去趣味誌で解説され尽くされている感があるが、全体の流れを把握するために改めて飯田線入線までの動きを簡単に述べてみたい。

昭和9年7月、吹田~須磨間が電化された際、大阪~神戸間を28分で運転する「急行電車」を運転、昭和12年10月、吹田~京都間電化時に運転区間を京都まで延長した。

昭和11年3月に急行用として、第一次流電と呼ばれる1編成、モハ52001+サロハ46018+サハ48029+モハ52002が新製された。昭和12年3月、モハ52003+サロハ66016+サハ48030+モハ52004、モハ52005+サロハ66017+サハ48031+モハ52006の2編成が増備されたが、窓が大きくなり更にスマートになった。昭和12年8月には、モハ43039+サロハ66018+サハ48032+モハ43038、モハ43039+サロハ66019+サハ48033+モハ43040の2編成が増備されたが、流線形は中止となり半流に、検修サイドから不評を買っていたスカートの廃止、塗装は通常の茶色となったが、性能的にはモハ52と同一であったため「合の子」と俗称された。大西顧問から「『合の子』が完成した時は、戦時体制強化のため写真撮影が厳しくなり営業運転中の写真が少ない」というお話を聞いたことがある。そう言えば戦前の営業中の写真はあまり見かけない。

戦時中3扉化(一説にはモハ52とモハ43は4扉化)が計画されたが、資材と人手不足等により実施されず、ロングシート化と座席撤去及びサロハ66020(サロハ46018にトイレを設置して改番)、66016、66017のサハ化(48036、48034、48035)で終戦を迎えた。また52006と43038は戦災のため廃車となった。昭和24年4月には急行電車が復活し整備の上使用されたが、昭和25年10月に80系に置換えられたため阪和線の特急用に転用された。しかし、ここも70系スカ形の進出により昭和32年飯田線に転属した。尚、サハ48は昭和25年東京地区の旧モハ51のモハ41とモハ42、43、クハ58の2扉車と交換時に一緒に東京に転属し、これらの車両と共に横須賀線で使用されたが、最終的には岡山地区で最後を迎えた。岡山地区に転属する前に僅かな期間であるが古巣の大阪地区に戻った車両もあり、これらについては後日報告する。

(1)   クモハ52

阪和線から昭和32年4月に004と005が、9月に001~003が伊那松島区に転属し、ローカル運用を中心に使用されたが、行楽シーズンに運転された名古屋~中部天竜間の臨時快速「天竜号」に使用されたこともあった。同年12月から翌年11月にかけて快速用として全車豊橋区に転属した。昭和36年3月1日、80系による準急「伊那」が誕生(実際には快速の格上げ)するまで快速用として活躍、その後も30番台の4連運用で南部を中心に活躍した。昭和53年11月から翌年3月にかけて80系300番台と交替で廃車となったが、トップナンバーの52001は極力登場時のスタイルに復元された状態で吹田工場に保存、52004は日本車両の構内を経て佐久間レールパークでされていたが、11月1日閉鎖により「JR東海博物館」に移設される予定である。

クモハ52001・002/昭和11年3月川崎車輛製、阪和線時代に乗務員扉の新設と電動機のMT30への交換が実施された。001は昭和34年4月、池場~三河川合間で崩落した土砂に乗り上げ脱線大破し、廃車やクハ化が検討されたが無事原形に復旧した。001は昭和53年12月廃車後、前述の通り吹田工場で保存されている。002の廃車は昭和54年3月とやや遅い。

 

クモハ52001/上・豊橋(39-3-2030番台4連運用の辰野行はこの1本のみ) 下・豊橋(40-3-20)

 

クモハ52002/豊橋(48--28)

クモハ52003~52005/昭和12年3月川崎車輛製、阪和線時代に乗務員扉を新設したが電動機の交換はされずMT16のままであった。003と004は更新修繕後も張り上げ屋根のままであった。005は飯田線転属後方向転換され偶数向きとなった。昭和53年11月に全車廃車されたが、前述の通り004のみ保存され、平成23年春オープン予定の「JR東海博物館」に移設される予定で、現在の中途半端な復元スタイルがどのように変化するのか楽しみにしている。

 

クモハ52003/上・豊橋(48-7-28) 中・下地~小坂井間 (50-1-2) 下・豊橋 (48-3-36)

 

モハ52004/上・豊橋(40-3-20) 中・下・佐久間レールパーク(H19-11-3)

 

クモハ52005/上・豊橋(40-3-20偶数向きに方転されている) 下・豊橋(49-9-23)

2)モハ43039→43810・43040→53008・43041→53007

昭和12年8月川崎車輛製、戦後の経過はクモハ52とほぼ同様であるが、040と041は阪和線時代に電動機のMT30への交換が実施され、形式をモハ53に変更した。飯田線への転属はやや遅れて昭和33年2月で伊那松島区に配置された。43039は昭和40年3月浜松工場で身延線用としてパンタ部分を低屋根改造され43810に改番され富士区に転属した。53008・53007は飯田線に転属後、旧形国電終焉まで伊那松島区から移動することなく使用された。

モハ43039→クモハ43810/身延線では主に4連運用の中間車として使用されていたが、72系の車体更新車クハ66、モハ62が登場すると昭和50年3月、北松本区に転属した。当初は上松~聖高原間のローカル運用に使用されていたが、後に大糸線で使用され、昭和57年2月廃車された。

 

クモハ43810/上・柚木(47-5-6) 中・塩尻(52-5-2 上松発松本行) 下・松本(54-4-28大糸線)

モハ43040・041→クモハ53008・53007/008は昭和58年8月21日伊那松島~中部天竜間で実施された「さよなら運転」の先頭車に使用された。(編成は53008+47009+54110+47069)007は更新修繕後も張上げ屋根のままで特に人気が高かった。廃車は008が昭和59年3月、007が昭和58年11月であった。

 

 

クモハ53008/上・豊橋(48-7-28) 中・伊那福岡(48-3-25) 下・豊橋(50-1-2)

 

クモハ53007/上・辰野(54-4-29) 下・辰野(46-9-26)

(3)サロハ66018・66019・66020→クハ47153・47155・47151

流電グループの中間車サロハ66は5両中3両が飯田線に転入して運転室を取付けクハ47に改造、更に横須賀線に行った2両の内1両が転入した。

サロハ66020→クハ47151/昭和11年3月川崎車輛で第一次流電の中間車サロハ46018として新製、昭和12年8月トイレを設置してサロハ66020に改番した。昭和18年8月戦時改造で2等室廃止、トイレを撤去してサハ48036に改番、昭和25年に阪和線に転属。昭和33年11月飯田線に転属時に豊川分工場で運転室を取付けクハ47025となり、昭和34年12月の改番(番号整理)でクハ47151となった。当初はローカルに使用されていたが、クモハ52と共に快速用となった。昭和42年9月身延線に転属したが、昭和47年6月飯田線に復帰。中部天竜区に配置され、昭和53年11月に廃車された。

 

クハ47151/上・豊橋(40-3-24豊橋区で30番台の4連運用) 中・伊那本郷~飯島間(48-3-25) 下・豊橋(49-9-23 中部天竜区の運用は60番台)

サロハ66018・66019→クハ47153・47155/昭和12年8月川崎車輌で「合の子」編成の中間車として新製した。戦時中もサロハのまま残り、戦後2等室は3等室代用となっていた。昭和25年に阪和線に転属後、昭和26年11月豊橋区に転属、昭和27年2月、豊川分工場で運転室を取付けクハ47021、47022となり、昭和34年12月の改番(番号整理)でクハ47153、47155となった。昭和29年6月更新修繕Ⅱで座席のロングシート化が実施され伊東線に転属、昭和32年には身延線に転属し、昭和46年に飯田線に復帰。伊那松島区に配置され、153は昭和54年2月、155は昭和54年3月に廃車された。車内はロングシートのため、長距離利用客の評判は良くなく、特にロングシートのクモハ61と組むと最悪であった。また、広々とした車内は運動会ができる等と言われていたが、模型の運転会は十分できたと思う。

クハ47153/上・辰野(46-9-25)中・車内(46-9-25)下・田切~伊那福岡(48-9-2)

 

クハ47155/上・辰野(48-7-29)下・辰野(52-5-3 運転室窓Hゴム

(4)サロハ66016→サハ48034

昭和12年3月川崎車輛で流電(広窓)第2編成の中間車サロハ66016として新製した。昭和18年8月戦時改造により2等室を廃止してサハ48034に改造した。昭和25年に阪和線に転属後、昭和31年3月田町区に転属して横須賀線で使用、昭和34年12月飯田線快速用として豊橋区に転属した。30番台の4連運用の中間車として使用されていたが昭和53年11月に廃車された。

 

サハ48034上・豊橋(40-3-20)下・豊橋(48-7-28 )

北陸鉄道小松線

引続き昭和40年代の北陸鉄道小松線の状況を書き込みする。

小松線の前身は、大正15年12月、小松~白峰間を結ぶ予定で設立された白山電気鉄道で、昭和4年5月小松~鵜川遊泉寺間5.9kmを開業した。鵜川遊泉寺には鉱山があり、明治40年小松~鵜川遊泉寺~鉱山口間に馬車鉄道(遊泉寺鉱山専用鉄道)が開設されていたが閉山により大正7年廃止されてしまった。終点予定地の白峰は、金名線の終点の白山下よりも更に奥の白山山麓の集落で、ここまで鉄道を敷設しても採算が取れるとは思えない。昭和60年代まで福井県勝山~白峰間を京福バスが1日2往復運行していたので、それなりの交通の要所であったのかも知れない。昭和12年11月、社名を小松電気鉄道に変更、終戦直前の昭和20年7月20日付で北陸鉄道に買収された。マイカーの普及と少子化による乗客の減少により昭和61年6月1日付で廃止となった。

昭和40年代前半に在籍した車両は、モハ1001、モハ1002、モハ1201、モハ1802、モハ1814、サハ1601の6両で、モハは全車直接制御車でラッシュ時の連結運転時には各車両に運転手が乗務して協調運転を行っていた。昭和46年9月1日金石線(中橋~大野港)が廃止されると同線で使用されていたモハ3000形(3001~3005)5両が転属して在来車を置き換えた。

モハ1001、1002昭和24年12月日本鉄道自動車製の全長11.8mの小型車で、近江鉄道のクハ21形と同形車である。当初松金線(野々市~松任)に投入され、昭和30年11月15日同線廃止により小松線に転属した。(上42.3.21 下45.11.10撮影)

 

モハ1201能美線(新寺井~鶴来)の前身、能美電気鉄道のデハ301として昭和12年木南車輌で作られた。台車はブリル27GEの古いものを履いていた。前述のモハ1001と同じ全長11.8mの小型車であるが、バランスのよいスタイルをしていると思う。湯口先輩は金石線で撮影されておられるが、私自身、小松線と言えばこの車を思い出す程印象が強い。他の鉄道にもありそうなスタイルであるが同形車は見当たらず、西武鉄道が昭和25年から31年にかけて多摩湖線用に車体新製した旧モハ101形がほぼ同サイズ、扉間窓8個で何となく似ているように思うのは気の性であろうか。(42.3.21撮影)

 

モハ1802河南線(大聖寺~河南~山中・河南~新動橋他)の前身、温泉電軌のデハ22として昭和17年木南車輌作られた。昭和16年11月、山代車庫の火災で大半の車両を焼失し、被災車の車籍と一部機器を利用して急遽作られたと言われている。片山津線(動橋~片山津)で使用されていたが、昭和40年9月24日同線廃止後小松線に転属した。(42.3.21撮影)

 

モハ1814前述のモハ1802と同じく元温泉電軌の車両で、デハ27として昭和18年木南車輌で作られた。車体は1802と同形であるが4個モーターとなった。特筆すべきはコントローラーでスイスのブラウンベボリー社製の円形のものが付いており出所が気になる処である。戦時中のことで車体は新製ながら機器類はあちこちからかき集めたのだろうか。コントローラーもさることながら4個モーターの直接制御車というのも珍しい。(45.11.10撮影/鵜川遊泉寺、下はスイス・ブラウンベボリー社製のコントローラー)

 

サハ1601浅野川線(北鉄金沢~内灘)の前身、浅野川電気鉄道のデハ2として昭和2年日本車輌で作られた。京福電鉄福井支社のホデハ11形、ホデハ211形、福井鉄道モハ21形等同形車が北陸地方の私鉄に存在する。北陸鉄道合併後モハ1601に改番し、昭和30年まで浅野川線、昭和39年まで金石線で使用、小松線に転属後電装解除されてサハとなった。(45.11.10撮影)

尾小屋鉄道

湯口先輩の新シリーズ「1954年3月北陸から長野、三重」は、訪問された当時の各鉄道の様子と息を飲むような画像で、ローカル私鉄ファンにとっては貴重な資料である。

「シリーズその2」の尾小屋鉄道について、私が訪れた昭和40年代の様子を書込みしたいと思うが、この時期多くの会員の方が訪れられたように記憶している。昭和52年3月20日廃止後も多くの車両が動態保存されているのも興味深い。

尾小屋鉄道は大正8年11月26日に旅客営業を開始し、翌年4月1日より貨物営業を開始した。日本鉱業の系列会社となり、尾小屋鉱業所の専用線的な性格であったが、昭和37年9月、日本鉱業が鉱山及び鉄道の経営から手を引き、名鉄の系列会社となった。鉱山関連の輸送がなくなっても沿線人口がそれなりに多く、小松市への通勤、通学客の需要があったため営業が継続されたが、時代の変化と共に通勤客のマイカーの移転、少子化による通学客の減少、沿線人口そのものの減少等により昭和52年3月20日付で廃止となった。鉄道廃止後は「小松バス」に社名を変更してバス専業会社となったが、沿線の過疎化が進み、現在、小松~尾小屋間のバスは僅か3往復(その他に途中の金平まで1往復)である。ちなみに鉄道時代、昭和43年10月時点は14往復、廃止間近の昭和51年3月時点で8往復であった。

(1)機関車

5号機戦後製の蒸気機関車で昭和26年10月に入線しているが、現車の銘板の製造年は昭和22年11月になっていたので、メーカー立山重工業のストック品であったと思われる。翌年の昭和27年には早くもDLが入線、昭和32年DLが増備されると完全に予備機となり、冬の除雪に使用される程度になったが、鉄道廃止前には数回イベント走行した。廃止後は尾小屋にある「小松市立ポッポ汽車展示館」に保存され、年に数回屋外に展示されている。(42.3.21撮影)

 

DC121/昭和27年11月、協三工業で新製、形式の12は自重12tを意味している。次のDC122と共に朝夕の客車列車を引いていた。廃止後は「石川県立小松児童会館」で動態保存され「なかよし鉄道」として定期的に運転されている。(42.3.21撮影)

 

DC122昭和33年12月、協三工業で新製した12t機で、性能的にはDC121と同一であるがスタイルは大きく変化した。廃止後は旧尾小屋駅構内で保存されているが、野ざらしのため状態は悪い。(46.3.20撮影)

 

(2)気動車

キハ1/昭和12年日本車輌製、当初はウォーケッシャ6-ML型ガソリンエンジンを搭載していたが、戦時中の木炭車を経て昭和27年にKD3型ディーゼルに、昭和32年UD3型に乗せ換えられた。廃止後は「石川県立小松児童会館」で動態保存されている。保存後雪害により屋根を破損し復旧時に切妻となった。変速機はトルコンに換装されている。(42.3.21撮影/上.金野町~金平間、下.新小松)

 

 

キハ2昭和13年日立製作所製で、当初から「日立430RO型」ディーゼルエンジンを換装していた。戦中、戦後の動向はキハ1と同じである。廃止後は赤門鉄道軽便保存会により、旧尾小屋駅構内の車庫内に保存されている。(42.3.21撮影/金野町~金平間、下46.3.20撮影/新小松)

 

キハ3昭和39年12月に入線した戦後製の車両で、前身は昭和29年6月汽車会社製の元遠州鉄道奥山線のキハ1803、昭和39年11月1日、奥山線廃止後直ぐに入線したが、暫く新小松の車庫に留置され、認可は41年1月であった。エンジンはいすゞDA45型を換装していた。遠州鉄道時代の車号「キハ1803」の「キハ180」の部分を塗潰し、「3」の上に「キハ」の文字を書き加えて使用していたのが何とも軽便らしかった。廃止後は尾小屋の「小松市立ポッポ汽車展示館」で動態保存されている。(42.3.21撮影)

 

(3)客車

ハフ1~3大正7年6月、開業に際し名古屋電車製作所で新製された客車で、車体の外側に鉄板が貼られたり、窓が2段に改造されていたがよく原型を保っていた。ハフ3は車軸毀損で昭和42年に廃車、その後ハフ2も廃車された。最後まで残ったハフ1は廃止後キハ3と共に「小松市立ポッポ汽車展示館」で動態保存されている。(上、中45.11.10、下42.3.21撮影)

 

ホハフ1湯口先輩の画像及びキャプションの通り、元三重交通のサ331、明治45年日本車輌製の客車で昭和25年12月に入線した。以降継続的に三重交通から客車を譲り受けている。(46.3.20撮影)

 

ホハフ2大正2年名古屋電車製作所製で昭和31年3月に入線した。前歴は三重交通サ342←三重鉄道ホハ6←四日市鉄道(現近鉄湯の山線の前身)ホハ6である。前述のホハフ1とは製造年が1年しか違わず、シングルルーフの車体は三重交通時代の改造と思われる。(42.3.21撮影)

 

ホハフ3大正10年梅鉢鉄工所製で昭和30年12月に入線した。前歴は三重交通サ321←三重鉄道ホハ12←中勢鉄道(戦前岩田橋~久居~石橋~伊勢川口間を営業していた)ハニ2←中勢鉄道ボコ2である。車体の老朽化により昭和46年頃阪野工業所の出張工事により半鋼製の新製車体と乗せ換えられた。廃止後は「石川県立小松児童会館」で動態保存されている。(42.3.21、下45.11.10撮影)

 

ホハフ5大正10年梅鉢鉄工所製で昭和32年10月に入線した。前歴は三重交通サ322←三重鉄道ホハ13←中勢鉄道ハニ3←中勢鉄道ボコ3である。前述のホハフ3とは扉の形状が異なるだけで同形であった。シングルルーフ、ホハフ3と共に前後非対称の車体は、三重交通時代に大幅に手を加えられたと思われる。(42.3.21撮影)

 

ホハフ6大正2年名古屋電車製作所製で昭和34年11月に入線した。前歴は三重交通サ352←三重鉄道ホハ2←四日市鉄道ホハ2である。大きな窓の軽快な車体は、三重交通時代の改造と思われる。(42.3.21撮影)

 

ホハフ7大正14年日本車輌製で昭和37年7月に入線した。前歴は三重交通サニ403←北勢電気鉄道(現三岐鉄道北勢線の前身)ハフ11←北勢鉄道ハフ11で、車体は2段窓以外はほぼオリジナルのままであった。車体の老朽化により昭和43年阪野工業所の出張工事により半鋼製の新製車体と乗せ換えられた。廃止後は赤門鉄道軽便保存会により、旧尾小屋駅構内の車庫内に保存されている。(42.3.21撮影)

 

ホハフ8大正13年日本車輌製で前述のホハフ7と共に昭和37年7月に入線した。前歴は三重交通サニ401←北勢電気鉄道(現三岐鉄道北勢線の前身)ハフ9←北勢鉄道ハフ9で、車体は2段窓以外はほぼオリジナルのままであった。車体の老朽化により昭和43年阪野工業所の出張工事により半鋼製の新製車体と乗せ換えられた。廃止後は「石川県立小松児童会館」で動態保存されている。(上42.3.21、46.3.20撮影)

 

保存状況を纏めると次の通りである。

 小松市立ポッポ汽車展示館

蒸機No5  キハ3  ハフ1

 石川県立小松児童会館

DC121  キハ1  ホハフ3  ホハフ8 

 旧尾小屋駅構内(赤門鉄道軽便保存会)

キハ2  ホハフ7  DC122(個人が保存)

小松市立ポッポ汽車展示館は尾小屋に、石川県立児童会館は北陸本線粟津駅徒歩10分の所にある。石川県立小松児童会館には全長480mの線路が敷設されており、本館的な運転がされている。是非行きたいと思っているが、東京からは遠くて中々行けないのと、運転されている日に両方を訪れると宿泊する必要があるので現状では難しい。リタイヤ後、京都に戻った暁には真っ先に行きたいと思っている。

 

飛鳥山公園モノレール

7月17日(金曜日)JR京浜東北線王子駅近くの飛鳥山山麓と山頂を結ぶモノレールが運行を開始した。

飛鳥山公園は八代将軍徳川吉宗が享保の改革の一環として桜を1270本植え、江戸の花見の名所とした所である。当時、上野公園等他の桜の名所で禁止されていた「酒宴」が容認されていたこともあり大いに賑わったといわれている。現在も桜の名所として多くの人が訪れ、桜と都電を撮影する人も多い。私も会社帰りに夜桜と都電の撮影を試みたが、露出不足で失敗した。

最寄駅はJR京浜東北線、東京メトロ南北線の王子駅か都電荒川線の飛鳥山停留所であるが、王子駅から歩くと公園が山頂付近にあるため急な階段を登ることになり、高齢者や小さな子供連れの人は大変であった。これらの人も気軽に公園を訪れることができるように東京都北区が国交省の「まちづくり交付金」を活用してモノレールが設置した。ちなみに飛鳥山電停からは階段少し上がるだけであるが、都電は王子駅前を出てJRのガードを潜ると急勾配で飛鳥山に向かう。

モノレールの概要は次の通りである。

(1) 運行者  東京都北区

(2) 形 式  自走式モノレール

(3) 延 長  レール延長48m(傾斜角度24度)

(4) 車両定員 16人乗(座席6人・立席10人)

(5) 走行区間 飛鳥山公園入り口~飛鳥山山頂

(6) 走行速度 30m/分(片道所要時間2分)

(7) 標高差  17.4m

(8) 運行方法 無人運転(押しボタン運転方式)

(9) 運転時間 10時~16時、第1木曜日10時~12時は点検のため運休。

(10)運 賃  無料

(11)メーカー 嘉穂製作所

(12)その他  防犯カメラ車内1基、乗り場2基設置。車いす、ベビーカーも利用可。乗り場にホームドア設置。

メーカーの嘉穂製作所は、7月24日投稿【3734】「1080見学記」で書いた、「1080号機のオーナー企業であった日鉄鉱業」の関連会社で、特殊モノレールのメーカーとして国内外で約150基の納入実績がある。五能線深浦駅近くの「ウエスパ椿山」、北九州市皿倉山展望台、天橋立ビューランド等は比較的有名で、国内のみならず韓国にも相当数が納入されている。

社名の「嘉穂」は本社所在地「福岡県嘉穂郡」から命名されたが、平成18年3月26日飯塚市との合併で消えてしまった。現在の住所は飯塚市大分567番地で、「大分」は「おおいた」ではなく「だいぶ」と読む。場所は篠栗線の筑前大分駅と筑豊本線の上穂波駅のほぼ中間地点である。「上穂波」といえば我々の年代の方にとっては懐かしい駅名ではないだろうか。

飛鳥山公園内には、D51853とかつて荒川線を走っていた6000形6080が保存されており、荒川線の撮影に来られた際には、これらの見学と併せてモノレールにもご乗車いただきたいと思う。

 

飛鳥山公園入り口駅と運転中のモノレール/全長僅か48mのため山頂駅が見えている。

営業案内

 都電を見下ろしながら登ってくるモノレール

間もなく山頂駅に到着

 

山頂駅に到着

 

公園入り口駅に比べるとシンプルな山頂駅

 

標高25.4mの飛鳥山山頂

 

都電6080

 

荒川線で現役時代の6080

 

D51853/角型ドームの戦時形D51であるが、都電共々ここまでの運搬はさぞ大変であったと思われる。

西武トレインフェステバル2009in横瀬・秩父鉄道見学記

10月4日(日曜日)西武鉄道秩父線横瀬車両基地で「西武トレインフェステバル2009in横瀬」が開催され、昨年に続いて見学した。年に1度だけ横瀬車両基地に保存されている機関車を屋外で見学できるチャンスで、1度見れば良いというものではなく、良いものは何度見ても良い。機関車の並びは毎年変わり、昨年停車位置が悪かった車両が撮影できるチャンスでもある。今年は西武秩父線40周年ということで、西武秩父駅を第2会場としてE34+E32+E31を中線に展示し、旧塗装に復元したクモハ271-クモハ272の2連を横瀬~西武秩父間の臨時電車として9往復半運転された。昨年は初めての見学でもあり、見学・撮影に3時間以上費やしたが、今年は1時間半位にして秩父鉄道に行くことにした。

朝から国分寺まで出かける用事があり、会場には予定より少し遅れて10時40分頃到着した。途中武蔵丘信号所で「銀河鉄道999」のラッピング車と交換し、次の飯能発西武秩父行に充当されるので撮影することにした。会場では元特急車クハ5504が10000系、4000系、本日運転された臨時快速急行の241F+243F編成と並べられて展示されていた。構内は大変な賑わいで、子供や孫をデッキに乗せて撮影する人が多く中々撮影できない。E61のデッキで長電話をするおやじまで現れ、さすがにこれには撮影者の一人が降りてもらうよう頼みに行った。但し、12時前後の撮影タイム以外はデッキに上がってもかまわない。途中で先程のラッピング車を撮影のために駅に戻ったりしたが、時間が経つのを忘れてしまい、秩父鉄道の蒸機列車の撮影に間に合う電車に乗り遅れてしまった。臨電で西武秩父に行き、中線に停められていたE34+E32+E31を撮影した。

西武秩父線車両の並び

 かつての特急「レッドアロー号」クハ5505

ED102/昨年は停車位置がやや悪かったが今年は広い場所で撮影できた。国鉄時代の塗装と車号に戻されているが、個人的には西武時代のままでもよかったと思う。他の電機は旧掲示板【617】を参照いただきたい。

 

モハ505/昭和29年西武所沢工場製の17m車である。その後クモハ355に改番され、平成2年多摩湖線を最後に廃車された。旧車号、旧塗装に戻されて保存されている。昨年は停車位置が悪く全姿が撮影できなかった。この場所は架線がないためパンタを上げられないのが残念である。

 

モハ505の台車

「銀河鉄道999」のラッピング車で、上からクハ3011、クハ3012、モハ3211、モハ3212

 

横瀬~西武秩父間の臨時電車/クモハ272+クモハ271

 

クモハ271とE34の並び

 

E32+E31+E34

秩父鉄道お花畑駅に行き、12時30分発の電車を待っていると、入線時の塗装に変更後、昨日から営業運転を開始したばかりの1007編成が来た。途中浦山口と武州日野で上り電車と交換し、三峰口に13時3分に到着した。5月4日に準特急氏、ロギング太郎氏、シグマ太郎氏、デカンショまつり号氏とご一緒した時と同じ時間帯の電車である。三峰口到着後、乗客が降りるとすぐに留置線に引き上げ、蒸機列車と西武の4000系に挟まれた位置に停められてしまった。蒸機列車を白久で撮影後、再度三峰口に戻れば撮影できるので、上り電車に乗り白久で下車。場所探しが面倒なのと曇天のため、5月4日と同様、駅から徒歩30秒の所で撮影したが、線路脇の草は綺麗に刈られていた。三峰口には先程蒸機列車が停車していた3番線に到着したため、またしても撮影は不可能であったが、今回は天候が良くないので蒸機諦め、14時56分発羽生行で出庫する1007編成を撮影することにした。撮影後15時2分発西武4000系の池袋行快速急行で帰途に就いた。横瀬車両基地ではD16が展示車両を庫内に入れる作業をしており、来年も是非見学したいと思った。秩父鉄道は旧塗装に変更した1002編成こそ撮れなかったが、1007編成が撮れたので大満足であった。

 

ターンテーブルを出るC58363/ターンテーブルの周りには柵があり、方向転換を見学することが可能である。

 

白久駅徒歩30秒の踏切/線路際の雑草は綺麗に刈られていた。

 

下り向き先頭デハはダブルパンタになりイメージが変わったが、上り向きクハは原形のイメージに近い。中間車は冷房改造されていないので原形のままである。上からクハ1211+デハ1111+デハ1011 ・ クハ1201+デハ1101+デハ1001 ・ デハ1101

 

 西武クハ4011とデハ1007の並び

 

入換中の1007編成

常磐緩行線新車E233系2000番台営業運転開始

9月9日(水曜日)常磐緩行線の新車E233系2000番台が営業運転を開始した。E233系2000番台は、現在使用中の203系17本と207系900番台1本の置換えを目的として本年度1本、2010年度17本新製される予定である。特徴としては,直通運転を行う東京メトロ千代田線に合わせた「地下鉄仕様」となっており、外観は裾絞りの拡幅車体であった従来のE233系とは異なりストレート車体で、正面には非常用の貫通扉が設置されている。小田急乗り入れについては触れられていないが、金町駅近くの三菱製紙工場跡地の再開発により、大規模マンションの建設、東京理科大学の移転工事が進められており、完成の暁には運転間隔短縮等の輸送力増強の必要性に迫られ、現在綾瀬までとなっている小田急車両のJR乗り入れは不可欠となる。小田急4000系と共に3社乗り入れ準備工事がされているのではないかと思われる。

編成は次の通りである。

←取手 クハE2332001+モハE2332401+モハE2322401+サハE2332201+モハE2332001+モハE2332001+サハE2332001+モハE2332201+モハE2332201+クハE2322001  →代々木上原

現在のところ主として平日は01K(1)、土休日は03K運用に使用されているため、日中お目にかかれる機会は少ないが、日中の目撃情報もあり必ずしも限定ダイヤではないようである。来年度には全車両置き換えられるので、慌てて乗車・撮影の必要はないが、ヘッドマーク付を撮影される方のために一応時間を書いておくが、100%来るとは限らないので、その点はご注意いただきたい。

【平日01K(1)

松戸4:27→我孫子4:46/4:53→代々木上原6:01/6:13→柏 7:16/7:29→代々木上原  8:38/8:45→松戸9:37

【休日03K】

松戸4:28→北千住4:41/4:55→我孫子5:28/5:33→代々木上原6:41/6:51→柏 7:54/8:01→代々木上原909/9:32→松戸10:20 

9月9日営業運転の初日、夏休みを取って「ひたちなか海浜鉄道」(元茨城交通湊線)と日光線に行ったが、自分が休みのため休日と勘違いして、松戸駅4時28分発北千住行から運用を開始するものと思い込み、松戸駅5時8分発の北千住からの折り返し我孫子行の電車を待っていたところ203系がきたのでガッカリした。初めて乗ったのは9月12日(土曜日)で、雨のためよい写真でないがお目にかけたい。

 

取手側の先頭車 クハE233-2001

 

2両目モハE233-2401

 

3両目モハE233-2401

 

ヘッドマーク

 

車内の案内表示

E233系2000番台と代替で廃車になる203系と207系900番台についても若干触れてみたい。

203系は、従来の103系1000番台を置換えのため昭和57年に量産先行車として10両編成1本を新製、引き続き昭和59年に7本新製した。翌60年から205系と同一のボルスタレス台車に変更した100番台を9本新製して103系を置換えた。機器類は201系がベースで、主回路はチョッパ制御である。

 

クハ203-5

クハ202-6(代々木上原寄りの先頭車)

モハ202-13

モハ203-13

松戸駅を発車した代々木上原行

207系はVVVFインバータ制御の試験車として昭和61年に1本のみ新製した。203系と共に使用されてきたが、1編成のみの特殊車両のため予備車的存在で、最近では運用に就くことは少なく、E233系2000番台と交替で営業運転から離脱すると言われていた。

 

クハ206-901

モハ207-901

モハ206-901

サハ207-901

馬橋駅を発車した代々木上原行

参考までに203系以前の103系1000番台、更にそれ以前のクハ79形の画像も貼っておく。

 

203系と交替した103系1000番台の一部(56両)は105系に改造され、関西地区に転属し、奈良線、和歌山線で使用された。奈良線からは撤退したが、和歌山線、可部線等で現在も大部分が健在である。一方松戸区に残り、常磐快速線、成田線に転用された車両は既に姿を消している。

 

クハ79426 昭和43年9月6日 柏駅

柏駅に進入するクハ79を先頭とする取手行。隣に東武野田線の架線柱が見えるが現在の柏駅からは想像できない程長閑である。

京成電鉄 創立100周年記念列車 (Ⅲ)

既報の通り、京成電鉄は創立100周年記念行事の一環として、3300形の「上野 3356-3355-3354-3353」を6月30日より青電塗装に、「上野 3324-3323-3346-3345」を8月25日より赤電塗装に変更して運行しているが、第3弾として9月19日(土曜日)より昭和55年から平成5年まで使用されていた、ファイヤーオレンジ塗装車「上野 3312-3311-3310-3309」が運行を開始した。今回も「赤電」の時と同様イベントはなかった。

運行初日の9月19日(土曜日)は出勤であったが、午前中少し時間が有り、金町駅と柴又駅で見ていたが、金町線には入って来なかったので津田沼まで見に行こうと思ったが時間切れでアウト。翌日20日から22日までは家族で八ケ岳登山。連休最終日の23日、昼前に金町へ買い物に行ったついでに京成金町駅を覗くと、ファイヤーオレンジ編成が71運用(夕方まで金町線折返し)に入っていた。昼食後再度金町に行き、自転車を駐輪場に入れ、撮影しながら徒歩で柴又まで行き、撮影後電車で金町に戻り、金町~柴又~高砂間を自転車で撮影した。

9月29日(火曜日)はフレックス出社でいつもより2時間遅く家を出て金町駅に行くと、常磐緩行線は日比谷駅で電線から煙が出たとかで運転見合わせ。振替乗車票を貰い京成金町駅に行くと、ファイヤーオレンジ編成が71運用に入っていたがカメラは無し。高砂駅で都営5300系の西馬込行に乗り換え、東日本橋駅に到着すると、押上方面行のホームに北総7260系(京成3300形のリース車)が停車していた。この時間帯に運用に就いていたということは、終日運用に入っていたものと思われる。

上から ①3312+3311+3310+3309  ②3311   ③3310     柴又

 

 

金町駅(ホームの直ぐ横が通行人が多い踏切のため4両以上は入線できない)

柴又~金町間(前身の帝釈人車軌道の軌道敷を利用している。人車時代は複線であった)

 

100週年記念のロゴ

車内のポスター

金町線に入った赤電 (3324+3323+3346+3345)      9月12日

JR日光線の旅 (Ⅰ)

東武日光線の「特急スペーシア」、新宿~東武日光間のJR、東武相互乗入れの「特急日光、きぬがわ号」の影に隠れて影が薄いJR日光線であるが、東北新幹線宇都宮経由で日光に行く乗客が、ジャパンレールパスを利用する外国人観光客を中心に意外多く存在する。また「青春18」のシーズンになると日本人の観光客も増加する。また、日光市、鹿沼市と県都宇都宮市を結ぶ都市間連絡路線の役割を持ち、宇都宮市への通勤、通学、買い物等の利用客も多い。日光線を観光路線としての魅力を高めるとともに、沿線の活性化を目指し、日光、下野大沢、文挟の各駅の整備と107系の塗装変更が行われている。そんなJR日光線を8月21日(金曜日)夏休みを取り「青春18」で見学した。

いつもの出勤時と同じ時間に家を出て、午前中は烏山線に乗るか、黒磯で交流電車を見るか迷ったが、烏山線は5年前に行った時と変化がないため黒磯に行くことにした。赤羽から乗車した湘南新宿ラインE231系15連(1610E)から宇都宮で211系5連(1545M)に乗換え、黒磯で暫く待つと郡山発の2123Mがロングシートのクハ700-1251+クモハ701-1251の2連で到着した。黒磯から先の東北本線はED75が10両位の客車を引いていたことを知る世代にとっては誠に寂しい限りであった。折り返しの電車まで駅の外に出ると東野交通「那須ロープウェイ」行が、元大阪市交通局の南港コスモスクエアのシャトルバスとして使用されていたバスで到着した。平成の1桁頃、登山で利用した時には元京阪バスの京都定観で走っていたバスが、塗分けをチョット変えただけで車内の成田山のお札もそのままで走っており、乗物には全く興味のない嫁さんまでがビックリしていた。それも1両や2両ではなく、1形式1両、1形式2両の珍しい車両も含めて12両も在籍していた。

 

上/クハ700-1025+クモハ701-1025 下/クモハ700-1025 天下の東北本線の普通列車が2両編成とは寂しい。

【たまにはバス① 東野交通の元大阪市バスと京阪バス】

 

栃木221167 元大阪市バス南港コスモスクエアシャトルバス(4年式PMP618P

 

栃木2284  元京阪バス定期観光 京22225554年式RC321P

                                             

2285  元京阪バス定期観光 京22253355年式RC321P

 

栃木22460  元京阪バス定期観光 京22324658年式PRC721P)/京阪バスでは1型式1両の車であった。

 

栃木22464  元京阪バス京都定期観光 京22324458年式PRC321P)/京阪バスでは1型式2両であったが車体メーカーが異なっていた。

ここで取り上げた元京阪バスは既に廃車されている。京阪バス時代の登録番号は車台番号から割り出した。

11時55分発の1550Mで宇都宮に戻り、乗車予定の日光線13時33分発845Mまで駅の外に出ると関東自動車の元大阪市バスがきた。845Mは2両編成でクハ107+クモハ106の2連で部活帰りの学生で満員であったが、鹿沼と今市でまとまった降車があり、日光到着時には座席の半分が空いている状態であった。

【たまにはバス② 関東自動車の元大阪市バス】

 

宇都宮2007065年式ULV224K

 

宇都宮2007936年式UHU2MLAA

 

宇都宮2007986年式ULV224K

帰りの852Mまでの1時間、JR、東武双方の日光駅を見学したが、JR駅と東武駅のほぼ中間地点に新宿、東武日光間の直通運転の記念プレートが設置されていた。852Mは4両編成で、外国人観光客、「青春18」の客で座席が半分位埋まった。当初の予定では文挟駅で途中下車して、改築された駅舎を見学する予定であったが、外の蒸し暑さを想像するだけで下車する気がしなくなり、そのまま宇都宮まで乗車して帰った。「青春18」で出かけると、天候と気分次第で「また今度」と思ってしまうのは年の所為であろうか。帰宅後、文挟駅と下野大沢駅の改築状況が気になり、9月9日(水曜日)改めて確認に行く羽目になった。

歴 史

日光線の歴史は古く、明治23年6月1日、日本鉄道日光線として宇都宮~今市間を開業、同年8月1日今市~日光間が開業した。明治39年11月「鉄道国有法」により国有化され、国内各地から日光に行く唯一の手段として活況を呈していたが、昭和4年10月東武鉄道日光線が全通すると競合関係になり、従来より所要時間を1時間も短縮した上野~日光間を2時間27分で結ぶ準急列車が登場した。ちなみに、東武特急の浅草~東武日光間の所要時間は2時間18分であった。

戦時体制の強化により、「準急」「東武特急」ともに消滅したが、戦後、世の中が落着くと再び競争が激化して、昭和25年6月上野~日光間の臨時快速を運転開始、昭和31年には当時開発されたばかりのキハ44800形(後のキハ55)による準急「日光」の運転開始。昭和33年4月には電化が完成。昭和34年9月、151系並の装備を有した157系「日光形」が落成し、準急「日光」を置換えた。昭和44年4月、157系が「日光号」から撤退し急行型の165系に置換え。昭和57年11月のダイヤ改正で急行「日光」が廃止され定期の優等列車は消滅した。以降、国鉄→JR東日本は、東北新幹線宇都宮乗換え日光線ルートをPRしていたが、東武に比べると所要時間では勝るものの、乗り換えの煩わしさと高額な運賃が災いして東京周辺の人は東武の利用が一般的であった。平成18年3月18日のダイヤ改正より栗橋駅の東武、JR間に設置された渡り線を経由してJRと東武の相互乗入れにより、新宿~東武日光・鬼怒川温泉間の直通運転が開始された。これによりJR東日本は日光線の観光客輸送を諦めたかに見えたが、今回日光線を観光路線として再度見直しすることになったことは喜ばしい限りである。

【現 状】

宇都宮~日光間24往復(朝の1本は小金井始発)、宇都宮~鹿沼間4往復運転されている。朝夕は宇都宮~鹿沼間で最少18分まで間隔が縮まるが昼間は1時間間隔である。営業キロ40.5km、中間駅は鶴田、鹿沼、文挟、下野大沢、今市の5駅で、全駅交換可能である。鶴田~鹿沼間は9.5kmと長く、鹿沼市とJRにより中間駅を設置する計画があるが、住民からは「そんなとこに駅作っても誰が乗るねん」という意見があり、かつての栗東新駅と同じ構図である。文挟が無人の他は有人駅で下野大沢は委託駅である。

宇都宮駅の標高が約150mに対し日光駅の標高は533mである。宇都宮~鹿沼間はほぼ平坦線、鹿沼~今市間は10~20‰、今市~日光間は20~25‰の勾配が続き、旧形時代はモーター音高らかに登っていったが、107系は120KWのMT54のモーター音も軽やかに勾配を登っていく。文挟~下野大沢間は牧場の直ぐ横を走る区間があり、中に入れてもらえれば牛を入れての撮影が可能である。

競合路線として、宇都宮駅~日光東照宮間に関東自動車がほぼ1時間に1本運転されているが、途中のルートが日光線とは異なり、運行距離が長いため行楽シーズンは交通渋滞に巻き込まれやすいのと、運賃がJRより高いので通しで利用する人は少ない。以前は30分間隔で運行され、元観光バスの車両を使用していたが、現在は通常の路線車である。宇都宮~鹿沼間はラッシュ時10分、昼間20分間隔で頻繁に運転されており、運賃はJRより高いが、両市の中心部を通りドアtoドアで利用できるため乗客が多い。宇都宮、鹿沼ともに市の中心部は東武の駅付近で、バスはJR宇都宮駅から東武宇都宮駅、JR鹿沼駅の近く通り東武新鹿沼駅の少し先の新鹿沼出張所が終点である。以前は昼間も10分間隔で運転されていた。また、宇都宮~鶴田間は市内線のバスが頻繁に運転されている。

全くの余談であるが、東野交通のバスは東武宇都宮駅が始発でJR宇都宮駅を経由して各方面に運転されており、鉄道では大回りになる宇都宮~真岡、宇都宮~益子間は利用者が多く、本数もそれなりにある。面白いは宇都宮方面行の方向幕で「東武宇都宮」ではなく「宇都宮東武」と表示されている。京都市バスや京阪バスの「三条京阪」と同じ思想であろう。ところが江若鉄道のバスは「京阪三条」となっていた。宇都宮~茂木間もJRバスが運転されており、こちらもそこそこの本数があり、かつては茨城交通茨城線の終点御前山まで、更には水戸駅まで行く便もあった。

 

シックな佇まいのJR日光駅

 

上から正面玄関、待合室、駅名板、4カ国語で書かれた団体出口の案内板

 

ロッジ風の東武日光駅

 

相互乗入れ記念プレート(双方の日光駅の中間地点にある)

 

改築された下野大沢駅

 

改築された文挟駅 

下野大沢、文挟の両駅が改築されたのは、元々駅舎が老朽化しており改築の時期にきていたのと、規模が小さく簡単に改築が可能であったためであろう。鶴田、鹿沼、今市の各駅は規模がそれなりに大きいため当面は現状のままと思われる。

JR日光線の旅 (Ⅱ)

引き続き車両について解説する。

「小山車両センター」に日光線専用車両として、クモハ107+クハ106が8編成(1~8)16両配置されている。レトロ調への塗装変更が進行中で、9月9日時点では1、2、5の3編成が完了している。旧塗装は日光線の「N」をデザインした塗装で決して悪くはないと思っている。編成は2両、4両が主体で、日光行の終電と日光発の初電は6両といわれているが確認はしていない。昼間の1時間ヘッドの時は2両と4両編成が各1本ずつ2本で運用され、朝夕は2両、4両編成が各1本ずつ加わり4本で運用される。この編成は昼間宇都宮駅南側の留置線にパンタが上がった状態で停められている。

107系は、日光線と両毛線等の北関東地区のローカル線用として、昭和63年から平成3年にかけて急行形の165系の台車、主電動機、冷房装置等の主要部品を流用して国鉄工場(当時の大宮、大井、大船、新津、長野の各工場)で製作された電車で、経歴簿上は改造車ではなく新車扱いである。日光線の8編成は、165系の置換え用として昭和63年6月から順次投入された。クモハ107-4~8の5両は新製時より前位に霜取パンタを装備し、1~3も翌年追加された。高崎区の配置車両は霜取パンタがなく耐雪ブレーキを装備しており100番台に区分され101~119の19編成38両が在籍する。101~105は0番台と同じ窓配置であるが、平成元年9月以降製作の106~119は戸袋窓がなくなり扉間大窓3枚となった。日光線用の0番代とは併結可能で、時折小山区に貸出され日光線を走っている。 

座席はセミクロスシート対応の窓配置であるにもかかわらずロングシートで、観光客の多い日光線、吾妻線、上越線を走るのに何故オールロングにしたのか疑問を感じる。現在では不要となったが高崎区の車両は横軽通過対策がされており、方向幕には長野、軽井沢、石打、越後湯沢が入っている。前述の横軽通過対策と併せて、臨時列車等で使用する予定があったのであろう。高崎区で高崎~黒磯間を直通する運用が1往復存在する。

 

クハ106-3+クモハ107-3+クハ106-2+クモハ107-2  日光

 

クモハ107-1+クハ106-1+クモハ107-2+クハ106-2 日光

 

クハ106-7+クモハ107-7+クハ106-3+クモハ107-3  文挟

 

クハ106-5+クモハ107-5  宇都宮

 

クモハ107-5  宇都宮

 

クモハ107-6+クハ106-6  文挟

 

クモハ105-5+クハ106-5  宇都宮

【参考】高崎区の107系

 

クモハ107-101+クハ106-101  横川行(20.12.22高崎駅)

 

クモハ107-109他4連 桐生行(20.12.22高崎駅)

 

クハ106-106+クモハ107-106  高崎行(21.1.8 群馬八幡~安中)

旧形国電末期の日光線

オール旧形時代の昭和42年と43年、東武日光軌道線の撮影に行った時に乗車しているが何故か撮影していない。恐らく乗車したのが撮影可能な時間でなかったかも知れない。末期の47年12月から51年1月にかけて5回宇都宮駅で撮影している。

昭和44年3月末の国鉄車両配置表によると、小山電車区の旧形国電の配置は、クモハ41038、045、096、113、クモハ40054、クハ55400、サハ57049の7両で6両使用1両予備であった。

当時の運用は下記の通りであった。

小金井(回送)宇都宮21:50(845M)日光着22:31()5:18(822M)宇都宮着5:566:05(821M)日光着6:507:00(824M)宇都宮着7:457:56(825M)鹿沼着8:118:16(828M)宇都宮着8:31(回送)小金井

編成記録

←宇都宮

47.12.12 55400+41045+41096+41038+57049+40054

48.5.13   55400+41096+40054+41045+57049+41113

51.1.4    40054+41113+57049+41045+55400+41096

 

昭和47年12月12日の編成

各車両について

 

クモハ41038(昭和12年11月新潟鐵工製、昭和52年1月25日廃車)

                                                                    

クモハ41045(昭和13年10月日本車輌製、昭和51年5月28日廃車) 

 

クモハ41096(昭和10年6月日車支店でモハ40129として新製、11年4月40049に改番、昭和19年7月片運化改造で41096に改番、昭和51年5月28日廃車)

 

クモハ41113(昭和11年2月日本車輌でモハ40066として新製、昭和19年8月片運化改造で41113に改番、昭和52年1月25日廃車)

 

クモハ40054(昭和10年6月田中車輌でモハ40134として新製、11年4月40054に改番、昭和51年3月新性能化後国府津電車区の職員輸送用として使用、JR東日本に引継がれ、平成19年5月から青梅鉄道公園に展示保存)

 

クハ55400(昭和10年6月汽車支店でクハ55110として新製、11年4月55030に改番、42年5月55400に改番、昭和51年5月28日廃車)

 

サハ57049(昭和8年8月日本車輌でサロハ56002として新製、昭和18年3月戦時改造で57049に改番、昭和51年5月28日廃車)

京成電鉄 創立100周年記念列車Ⅱ

京成電鉄は創立100周年記念行事の一環として、3300形4両1編成(←上野 3324-3323-3346-3345)を往年の赤電塗装に変更して8月25日より運用を開始した。今回は前回の青電の時のようなイベントは実施されず、通常の4両編成の運用に入った

9月5日(土曜日)都心に出かける時、たまには京成で行こうと思い、京成金町駅から3501編成に乗車した。あわよくば「赤電編成」が撮れるかもしれないという下心もあり、もう一本の編成を確認するため、一旦次の柴又で下車したが、やはり3500形の3592編成であった。高砂で乗換えのため上りホームで待っていると、「次の各駅停車津田沼行は4両編成で到着します」の下りホームのアナウンス。直ぐにモハ3345を先頭に赤電の4連が到着したので慌てて撮影した。特に急ぎの用事でもなかったので、次の特急に乗れば途中で追い越してもう一度撮れるだろうと思い成田空港行特急に乗車。車内は大きな荷物を持った海外旅行客が結構乗っており満員の盛況であった。最初からエコノミーに行こうとする人やスカイライナーの通らない都営浅草線、京浜急行沿線から青砥で乗換える人が結構いるようである。東中山で「赤電」を追い抜き、津田沼で再度撮影した。津田沼到着後の運用を見ていた処、客扱いを終えると上野寄りの引上げ線に移動し15分後に「回送」で成田方面に行ったので、宗吾検車区に入庫したものと思われる。その間に千葉方面から「青電」編成がちはら台行で到着した。

 

上り電車を待っていると「赤電塗装」の3345-3346-3323-3324が普通津田沼行で来た。

 

津田沼駅に進入する赤電編成

 

津田沼到着後は一旦上野寄りの留置線で引上げ、回送で宗吾検車区に入庫した。

 

塗装変更前

 

青電編成(3356-3355-3354-3353)

3300形の現状

4両編成8本に組まれて金町線、千葉線の津田沼~ちはら台間、本線の上野~津田沼間の各駅停車で使用されている。金町線は昼間20分間隔で1本の列車で折返運転を行っており、走っておればゆっくり撮影できるが、ここ数カ月の土日は3500形のことが多い。千葉線は10分間隔であるが新京成から乗り入れる松戸~千葉中央間と津田沼~ちはら台間が交互に運転されており両方の撮影ができる。但し、新車の3000形も入っている。いづれにしても「赤電」「青電」ともども、休日や昼間の撮影は運次第である。

車齢が40年になるので引退が近いが、来年度の新車は成田空港新線関連の車両のため、もうしばらくは健在と思われる。また、北総鉄道にリースしている車両は、カメラを持っていない時に限って走っており撮影は運次第である。こちらもあと2年位は健在であろう。

編成表

←千葉、成田          上野、押上→

3301-3302-3303-3304

昭和43年11月東急車両)

3309-3310-3311-3312

(昭和43年11月日本車両)

3341-3342-3319-3320

(昭和47年2月汽車)(昭和44年12月日車)

3333-3334-3343-3344

(昭和46年2月東急)(昭和47年2月汽車)

3345-3346-3323-3324(赤電塗装)

(昭和46年10月日車)(昭和45年12月日車)

3337-3338-3347-3348

(昭和46年2月東急)(昭和46年10月日車)

3349-3350-3327-3328

(昭和46年10月日車)(昭和45年12月汽車)

3353-3354-3355-3356(青電塗装)

(昭和46年10月汽車)(昭和46年10月汽車)

北総リース車(下段は北総鉄道での車号)

3305-3306-3307-3308

(昭和43年11月日本車両)

(7261-7262-7263-7264)

3313-3314-3315-3316

(昭和43年11月汽車会社)

(7265-7266-7267-7268)

 

トップナンバーの3301編成は昭和43年製で車齢は41年になる。

上/津田沼 下/柴又

 

金町~柴又間を走行する3309編成(3309~3312)

金町~柴又間は、明治32年帝釈人車軌道として開業し、明治45年4月京成電鉄に譲渡された区間である。

 

柴又駅に停車中の3341編成(3341-3342-3319-3320)

金町~柴又間を走行する3341編成

金町線はこの区間が単線で金町駅が棒線の行き止まりのため、平日ラッシュ時10分間隔、昼間20分間隔で運転されている。

久留里線の旅

8月12日(水曜日)夏休みを取り、「青春18」を利用して久留里線に乗車した。東京都内の千葉県に最も近いところに住みながら久留里線は初乗車であった。他にも小湊鉄道の上総牛久~上総中野間、いすみ鉄道全線が未乗区間として残っているので近々乗車したいと思っている。

今回の目的は、久留里線の乗車のみであるため、いつもより1時間以上遅く、8時に出発。仕事で千葉市や市原市に行く時は、金町から千葉まで京成で行くが、今回は新松戸から武蔵野線、西船橋経由千葉へ。千葉駅で降りると9時32分発木更津行(155M)が湘南色に塗り替えられた113系4連+スカ色の4連で停車しており乗車予定の電車を1本遅らせて撮影。撮影後この電車に乗ったが、間に合うと思っていた木更津駅10時6分発の上総亀山行(929D)にタッチの差で接続しないことが判明し、一旦蘇我で降りて駅撮りをすることにした。京葉線の201系、205系の初期車、電留線のE257系を撮影後、横須賀線から直通のE217系15連で木更津に到着。車両基地(正式名称は幕張車両センター木更津派出所)に、旧国鉄色に塗り替えられたキハ3098が停まっており、駐輪場から撮影した。エンジンが駆動しており、次の運用に入ることは間違いなく、時刻表を確認の上、帰りに久留里駅で撮影することにした。

11時52分発上総亀山行(931D)は、キハ381002+キハ384の2連で座席ほぼ満席であった。次の駅は「祇園」。住宅街の無人駅であるが、由来は京都の「祇園」から来ており、平 影清が京を偲んで住居のあった付近を「祇園村」と呼んだと伝えられている。京都出身者としては、ストレートに「祇園」ではなく「上総祇園」にしてもらいたいところ。上総清川、東清川と棒線の無人駅に停車して、次の横田は交換駅であるが、対向列車はなくタブレットを交換して直ぐ発車。東横田、馬来田、下郡、小櫃、俵田と棒線の駅(馬来田が簡易委託の他は無人)が続き、ほどなく久留里に到着して上りの木更津行(キハ371002+キハ383)と交換。駅の手前に県立高校があり、ここの通学客が久留里線最大のお得意様である。この先の乗客は数える程で、山間部に入り、平山、上総松丘と棒線の無人駅を過ぎ、トンネルを抜けて終点の上総亀山に到着した。降りたのは約10名で、同業者が1人、親子鉄が2人、亀山温泉に行くと思われる観光客が2人、残りが地元客で、おばさん1人が駅前から黄和田車庫行のバスに乗り継いだ。一昨年まではここから安房鴨川行の路線バスがあり、房総半島の横断が可能であったが、千葉駅~安房鴨川間の高速バス「カピーナ号」が途中からローカルバスに変身して役割を引き継いでいる。(バス停は駅前にはなく徒歩5分位のところにある)折り返しの938Dまで1時間以上あり周辺を散策して時間を潰した。

帰りは旧国鉄色のキハ3098を撮るため久留里で一旦降りたが、ここでも待ち時間が約1時間あり、久留里城を見学しようと思ったが、片道30分もかかるので周辺の散策に切り替えた。久留里止まりの937Dは、予想通りキハ3098+キハ381001であった。駅舎側の上総亀山方面行のホームに停まったので、駅長氏に上りホームから撮影してもよいか尋ねたところ「向こうのホームには行かないで」とのこと。同業者が5名程おり、一般客も携帯電話で盛んに撮影していた。そのキハ30であるが今時珍しい非冷房車であった。横田での交換はこちらが先着で、3分停車のため急ぎ下りホームから撮影したがモロ逆光であった。交換した下り列車はキハ372+キハ381であった。

木更津到着後、折り返しの941Dを駅の千葉寄りの踏切で撮影するべく時刻表を確認すると、内房線の198Mと同時発車である。加速は電車の方が良いので先に通過するだろうと思ったが、電車は8両編成のため、タッチの差でキハ30は撮影できなかった。今回の主目的は久留里線の乗り潰しであったが、千葉駅で湘南色の113系を撮影したため乗車が1本遅れてしまい、走行写真は撮影できなかった。次の「18」の時には走行を中心に撮影したいと思っている。横田~東清川間の小櫃川鉄橋あたりが狙い目と思われ、馬来田までは日東交通の路線バスが並行して走っているため利用可能である。久留里以遠の山間区間は、景色は良いが列車本数が少なく時間のロスが大きいのが難点である。

 

湘南色のマリ117編成(Tc111-2152M113-2072M112-2072Tc111-2056)千葉

 

クハ201-110他10連  蘇我/関西ではリニューアルされて新車のような顔をして走っている201系であるが、JR東日本では京葉線に10連×4本、中央線に10連×2本の60両が残るのみ。

 

クハ205-3他10連  蘇我/205系の1次車で窓が上段下降、下段上昇の2段窓が特徴

上総亀山駅で折り返し発車待ちのキハ384+キハ381002

 

上総亀山駅

 

黄和田車庫行の君津市コミニュテイーバス。道路交通法80条適用のため白ナンバー。

久留里駅

 

横田駅で交換したキハ372+キハ381

 

木更津駅を発車したキハ3098+キハ381001であるが、同時発車の電車のためキハ3098は撮れなかった。

歴 史

明治43年6月千葉県の臨時県議会決議で千葉県営久留里軽便鉄道として建設が決まり、大正元年12月28日、木更津~久留里間を762㎜で開業。大正12年9月1日、関東大震災による被害の復旧費の増大と大正11年に制定された改正鉄道敷設法の「木更津より久留里、大多喜を経て大原に至る鉄道」のルート上にあるため無償で国に譲渡され、鉄道省久留里線となった。昭和5年8月20日762㎜から1067㎜に改軌。昭和11年3月25日久留里~上総亀山間が延伸開業したが、昭和19年12月16日不要不急路線として休止され、昭和22年4月1日営業を再開した。

現 状

木更津~上総亀山間13往復、木更津~久留里間4往復、計17往復運転されている。終日ほぼ1時間間隔であるが時間帯により2時間近く空くことがあり、本数が減る久留里~上総亀山間はその傾向が強い。

首都圏では珍しくタブレット閉塞方式を採用しており、交換可能駅は横田と久留里の2ヶ所のため最高3列車しか運行ができない。以前は馬来田、小櫃、上総松丘も交換可能で、駅構内やホームにその痕跡が残っている。乗客は通勤、通学での利用が多く、特に久留里の県立高校の生徒は他に公共交通機関の通学手段がない。列車の編成は平日ラッシュ時3~4連、昼間2連で、学休期は終日2連である。但し、行楽シーズンの休日は昼間でも4連になることがある。昼間は乗客が少ないためワンマン化されても不思議でないが、全便ツーマンで運行されているのは、人員削減に反対している千葉動労との関係であろう。久留里線に限らず千葉支社管轄の各線では、3月中旬に毎年のようにストライキが行われ、間引き運転や運休が行われるが、久留里線は運休となる。

地元の人は久留里線のことを「パー線」と呼んでおり、語源は「久留里線」→「クルクルパー線」→「パー線」から来ている。速度が遅い上、本数が少なく不便であることから、このような表現になったのであろう。

車 両

幕張車両センター木更津派出所にキハ30形3両、キハ37形3両、キハ38形7両、計13両が配置されている。いずれも久留里線のみで見られる形式である。

キハ30形(62、98、100)

昭和36年~41年に非電化通勤路線向けに製作されたキハ35、36の両運転台バージョンである。キハ35(片運トイレ付)が258両、キハ36(片運トイレ無)が49両、キハ30(両運トイレ無)が106両、合計413両作られたが、JRで生き残っているのは上記3両のみである。98は旧国鉄色に塗り替えられ7月4日から運転され、残り2両も塗装変更される予定である。今時珍しい非冷房車である。

 

キハ3896/上 木更津、下 横田

キハ37形(2、1002、1003)

キハ37形は、昭和58年地方交通線用の量産先行車として新製された気動車で、1、1001が新潟鉄工、2、1002、1003が富士重工で新製され、前車が加古川線、後車が久留里線に配置された。1、2はトイレ付で1000番台はトイレ無しである。その後の増備はなく5両の新製で終わってしまった。加古川線の2両は山陰の後藤総合運転所に転属し、山陰本線、境港線で使用されたが今年1月に廃車となった。久留里線の3両は平成10年に冷房改造され引続き使用されているがトイレは閉鎖されている。

 

キハ371002/久留里

キハ38形(1~4、1001~1003)

昭和61年から62年にかけてキハ35の改造名義で台車、主要部品を流用して、トイレ付4両、トイレ無し3両の計7両が国鉄工場で作られた。

当初は高崎区に配置され八高線で使用されていたが、平成8年3月、高麗川~八王子間電化時に、非電化区間の高麗川~高崎間の車両も新系列のキハ110系に置き換えられたため、久留里線に転属してきた。冷房は改造当初から付いている。トイレは閉鎖されている。

 

キハ383/久留里

 

キハ381002/上総亀山

小櫃駅の直ぐ近くの公民館にC12287が保存されているのが見える。ちなみにC12287は昭和22年9月日本車輛製で当初後藤寺区に配置され、その後鹿児島区に転属し、昭和59年6月南延岡区で廃車となった機関車で、今回は時間の関係で見に行けなかったが、次回は是非訪れたいと思っている。久留里線の気動車化以前や貨物列車にC12が使用されていたということで保存されている。

豊橋鉄道田口線

湯口先輩の【3776】「1953年高校生東京へ その9(最終回)」で、豊橋駅で撮影された「田口鉄道モハ36」の画像について、【3825】でK.H生さんよりコメントあった。田口鉄道→豊橋鉄道田口線は、昭和41年3月23日、京阪沿線の高校在学中に一度だけ訪れたことがあり、その時の模様等を書いてみたい。

豊橋鉄道田口線の沿革を簡単に記すと、大正14年5月 豊川鉄道専務倉田藤四郎氏、田口町長関谷守男氏、旧内務省官吏平松雅夫氏ら発起人により田口鉄道敷設免許申請書を鉄道大臣に提出。大正15年11月 豊川鉄道長篠(現大海)~田口間の蒸気鉄道施設が認可。分岐駅を長篠から鳳来寺口(現本長篠)に変更し、経路も変更したところ急勾配となったため、動力を蒸気から電気に変更して再申請して受理された。設立時の資本金300万円の内訳は宮内省125万円(25000株)、豊川鉄道75万円、鳳来寺鉄道20万円、鳳来寺12.5万円とこれだけで約80%を占め、地元やその有力者の出資は僅かであった。宮内省の出資比率が高いのは、段戸御料林の森林鉄道と田口鉄道を接続させて御料林の経営を抜本的に発展させる目論見があったためである。尚、宮内省は戦後解体により同省の所有株式は地元が引き受けた。本社は豊川鉄道、鳳来寺鉄道と同一場所の豊橋市花田町に置かれたが、戦争末期の7月27日、戦災のため鳳来寺駅に移転した。

昭和3年5月、工事に着手し、昭和7年12月全線が開通した。昭和18年8月1日、豊川、鳳来寺鉄道は鉄道省に買収され、田口鉄道は対象外となったが、列車の運行は引き続き鉄道省に委託された。昭和26年4月1日より本長篠で飯田線の電車と併結により、豊橋まで直通運転の開始。昭和27年5月運行委託が終了。昭和31年10月豊橋鉄道と合併し同社の田口線となった。車両管理を委託していた国鉄豊川分工場が閉鎖されたため、昭和38年3月24日をもって豊橋直通運転が廃止された。

昭和39年12月田口線のバス化計画が発表、それに伴い、地元住民、製材業者を中心に廃止反対運動が展開された。昭和40年9月17日、清崎~三河田口間水害のため不通になりバス代行となった。昭和43年7月19日、全線の運輸営業廃止が認可、廃止直前の8月29日に台風10号の大雨による田峯~清崎間の路盤流失のため三河海老~清崎間が不通となり、清崎駅にモ36が取り残された。最終日の8月31日は本長篠~三河海老間で、モ15による「さよなら運転」が実施された。

昭和41年3月23日に訪れた時の状況

前日まで、日立電鉄、茨城交通、関東鉄道の各線の乗り歩きをして東京駅23時30分発大阪行に乗車して4時56分豊橋に到着。飯田線下りの一番電車は5時36分発の新城行であったが、本長篠まで行かないのでパスして、次の5時55分発辰野行の最後部クハユニ56011に乗車した。本長篠到着は6時50分で、駅舎寄りの1番線には6時54分発清崎行(モハ37)が停車しており、早朝のためか乗客は僅かであった。清崎~三河田口間は昨年の9月の水害以降不通となりバス代行になっていた。鳳来寺駅を過ぎ、ほぼ中間の三河海老でモハ15+モハ14の上り列車と交換、駅の本長篠寄りに小さな車庫がありモハ38が顔を出していた。程なく清崎に到着したが何もない山の中の駅であった。写真撮影後再びモハ37に乗り鳳来寺で下車。先程三河海老で交換したモハ15+モハ14が本長篠~鳳来寺間の折り返し運用に入り、隣のホームに停車していた。せっかくここまで来たのだからお寺でも見学しようと思っていたが、ここから更にバスで20分位かかると聞いてあっさりパス。電車撮影後モハ15に乗り本長篠に戻った。この後、クモハ51800+クハ47071+クモハ61003+クハ18003の621M平岡行(後2両三河川合で切離し)で中部天竜に行き、ED17、ED18を撮影後豊橋に戻り、急行「いこま」で京都に戻った。また、クモハ51800の車内の標記は改造前のクモハ51042のままであった。

車両

昭和7年開業時の車両は電気機関車1両(デキ53)、電車2両(モハ101、102→モハ36、37)の僅か3両であったが、豊川、鳳来寺鉄道と共通で使用され、同社の車両は豊橋~三河川合間の豊川、鳳来寺鉄道で使用され、豊川鉄道のモハ10形が使用されていた。昭和27年5月自主運行開始にあたり、国鉄から元豊川鉄道のモハ10形(14、15)を譲受け、更に豊橋鉄道合併後の昭和31年10月、福塩線で使用されていたモハ1610(元豊川鉄道モハ31)を購入、その他、昭和30年に団体輸送用に作られた木製単車(サハ201)が1両在籍したが、昭和37年に廃車された。

デキ53

昭和4年4月、田口鉄道開業時に日本車輛、東洋電機で新製された。デキ53の「53」は、鳳来寺鉄道デキ50、豊川鉄道デキ51、52、54と一連の車号が付番されたためである。前述の4両が鉄道省に買収後も田口鉄道所有機として引き続き飯田線で活躍し、昭和27年5月以降は田口鉄道線内のみの使用となった。豊橋鉄道合併後田口線の貨物減少により昭和40年7月渥美線に転属、昭和43年11月1日の改番でデキ451となり、昭和59年、渥美線貨物営業廃止により廃車された。

 

昭和43年4月4日  高師

 

昭和45年3月9日  高師

モ10形(14、15)

前述の通り、昭和27年5月自主運行開始にあたり、国鉄から元豊川鉄道のモハ10形(14、15)を譲り受けたもの。モハ10形は大正15年豊川鉄道、鳳来寺鉄道電化時に豊川鉄道向けとして5両、鳳来寺鉄道向け1両の6両新製された。当初はモハ1形と称していたが昭和13年の改番でモハ10形に改番され、鳳来寺鉄道所属車はモハ10、豊川鉄道所属車はモハ11~15となった。戦後モハ11、12は部品が調達できず昭和24年に廃車、残り4両も昭和26年4月に廃車となったが、モハ10、13が大井川鉄道に譲渡されモハ201、202として再起した。「モハ」→「モ」への改称は昭和39年7月に実施されている。モ14は当初田峰駅跡に保存されていたが、昭和53年田口町の奥三河資料館に移動し、田口線で使用されていた備品等共に大切に保存されている。私はまだ訪れたことはないがリタイヤ後廃線跡の探訪を兼ねて是非訪れてみたい。

 

昭和41年3月23日   三河海老

 

昭和41年3月23日   鳳来寺

モ30形(36、37、38)

モ36とモ37は昭和4年田口鉄道の開業時にモハ101形101、102として日本車輌で新製された車両で、昭和13年豊川鉄道の同形車と同一形式に改番され、モハ36、モハ37となった。豊川鉄道のモハ30形は31~33の3両で34、35としてもよかったのであるが、あえて36以降に付番したのは会社の違いを意識したものと思われる。昭和27年5月自主運行になるまでは飯田線で使用されていた。田口線と飯田線の直通運転は昭和26年4月1日に開始されているので、それに合わせて国鉄形との機器の統一と密連化が実施されたものと思われる。田口鉄道に返還後も引き続き国鉄形と併結で豊橋直通運用に使用されていたが、乗務員室が狭く国鉄の運転士から嫌われたため常に後部に連結されていた、乗入廃止後、連結器は自連に戻された。田口線廃止後は渥美線に転属し、600Vに降圧、車体更新が実施され、窓がアルミサッシとなった。昭和43年11月の改番でモ1711、1712となり、モ1711は平成3年、モ1712は昭和62年に廃車された。

 

昭和41年3月23日   本長篠

 

昭和41年3月23日   清崎

 

モ36→モ1711に改番後  昭和60年3月24日 高師

 

モ37→モ1712に改番後  昭和60年3月24日 三河田原

モ38は豊橋鉄道と合併後の昭和31年10月、豊橋直通車の増強のため、福塩線で使用されていた、モハ1610を購入したものある。元を正せば元豊川鉄道モハ31で、モ36、37とは生まれも育ちも同じで、国鉄に買収後、昭和28年6月の改番でモハ1610となった。湯口先輩がお書きになった【4015】「1954年高校修学旅行その2」に福山駅で撮影された旧豊川鉄道買収車モハ1600形の画像があるのでご覧いただきたい。購入時に豊川分工場で車体更新を実施し、窓のアルミサッシ化、蛍光灯化等が実施された。昭和41年4月に一足早く渥美線に転属し、昭和43年11月の改番でモ1713となった。

 

昭和41年9月1日   高師

 

昭和43年4月4日   高師

 

昭和45年3月9日   高師

銚子電鉄を訪ねて(Ⅰ)

7月30日(木曜日)夏休みを取って「青春18」利用で銚子電鉄の見学に行ったので近況等を報告する。自宅をいつもより約1時間遅く7時30分部活に行く息子と一緒に出発。我孫子と成田で乗換えて、銚子には10時59分に到着した。11時18分発の電車は元伊予鉄道のデハ801で、近々伊予鉄道から転入車が入線すると廃車にされる予定である。車内はおばさんグループが2組乗車しており満席である。ワンマン運転であるが、係員が乗車して切符を販売しており1日乗車券が飛ぶように売れていた。外川まで乗車して写真を撮りながら歩いて銚子まで戻る予定で、片道運賃を寄付するつもりで1日乗車券を購入した。係員は交換駅の笠上黒生で降りて、上り電車に乗ったので、銚子~笠上黒生間は実質ツーマン運行である。それにしても夏休み期間中とはいえ平日の昼間にこれだけ乗客があれば上々である。笠上黒生で桃太郎電鉄ラッピングのデハ1001と交換、犬吠で多くの乗客が降りて外川に到着した。引上げ線にワム80000改造のオープン客車ユ101が、隣の線には元鶴見臨港鉄道買収国電デハ301が停まっていたが、いずれも休車状態であった。デハ301は屋根に櫓を取付けて架線点検車として使用されていた。

ここからは撮影しながら銚子まで歩いて戻るが、現役の頃のように線路内や犬走りを歩くと警察沙汰になりかねないので平行する道路を歩く。曇りの天気予報が外れてガンガン照りで、とにかく蒸し暑い。犬吠駅の近くの踏切で撮影後、構内の元相模鉄道モ二2022の車体を利用したレストランで食事をしようと思ったが営業日は土日祝日のみである。建物の中の普通のレストランで食事をして家族の土産に濡れ煎餅を購入した。次の君ガ浜と海鹿島の間で灯台を入れて撮影できる場所を探したが、線路と道路が結構離れているため見つからなかった。そのうちに暑さでバテ気味になってきたので、笠上黒生まで戻ったところで、灯台を入れての撮影と後半の笠上黒生~銚子間は次回ということにした。ここには廃車になったデハ101が留置されており、特徴ある台車を撮影しようと思ったが、雑草が生い茂っているため近づくことすらままならない。再度デハ801に乗車して車庫のある仲ノ町で下車。ここは車庫見学用の入場券を購入すれば見学が可能である。およそファンとは思えない中年のご夫婦や親子3世代家族が見学しており、見学者用の休憩所、トイレが設置されていた。AGE製のデキ3は綺麗に整備されていたが、ビューゲルが修理中のため付いてなかった。当日運用に就いていなかったデハ1002、701、702が停車していたが、702の停車位置が悪く次回に期待したい。デハ701、702は元近江鉄道のモハ51、52で、伊予鉄道から転入車と代替で廃車される予定である。またモハ702はワンマン改造されていないため大口団体輸送時の増結用になっている。その後、すぐ近くのヤマサ醤油の工場で保存されているオットー機関車を見学後、113系4連の成田線経由千葉行きで帰途に就いた。

歴 史

銚子電鉄の歴史を簡単に述べると、大正2年12月銚子遊覧鉄道として銚子~犬吠間開業。業績不振と鉄材高騰により僅か4年後の大正6年11年に廃業してレールを売却。廃線跡は地元の旅館の送迎バス専用道路として使用。大正11年9月銚子鉄道創立。大正12年7月銚子~犬吠~外川間を開業。大正14年7月電化(DC600V)。昭和23年8月銚子電気鉄道に社名変更。以降の昭和時代の細かい動きは省略する。

昭和35年11月、京成電鉄系の千葉交通の資本下に入る。昭和38年9月重役会で営業廃止を決定したが、ほぼ同時に廃止反対規成同盟が結成され廃止決定は撤回される。昭和41年12月集電装置をトロリーポールからビューゲルに変更。昭和51年2月観音駅に直営売店を開設し食品製造販売業を開始。たい焼きの販売を行い、マスコミでも大きく取り上げられる。昭和56年12月6日、礼宮様が銚子~外川間をご乗車になる。(下りモハ701、上りモハ702)

平成2年1月、経営権が京成電鉄系の千葉交通から東金市の総合建設業内野屋工務店に移り、同社社長内山健冶郎氏が社長に就任する。銚子電鉄を観光鉄道として再生すべく駅舎をメルヘンチックなものに建替えを推進。銚子駅のJRとの乗換口、観音、君ヶ浜、犬吠が完成、併せて車両の塗装変更を実施。平成10年6月内野屋工務店が自己破産を申請して事実上破産する。その後も内山氏が社長に留まったが、平成15年会社の金を横領したとして解任。平成18年8月、会社の金を約1億1千万円横領容疑で警察に逮捕された。このことにより、県と銚子市が補助金の支給を停止、加えて金融機関が融資を凍結したため、資金不足に陥り電車の法定検査が実施できず、同社のHP上で「濡れ煎餅を買って下さい。電車の修理代を稼がなくちゃいけないんです」の文章で、濡れ煎餅の購入による支援を呼びかけた。マスコミによる報道も手伝って、支援をしようという人々から濡れ煎餅の注文が殺到して一時は製造が追いつかずパニック状態になったが、車両の法定検査費用の目処がついた。しかしながら設備の老朽化は如何ともし難く、平成18年10月に実施された国土交通省の保安監査において、踏切の不具合、枕木約1500本の腐食が指摘され、11月に同省より安全確保に関する改善命令が出された。翌年1月この問題解決を支援するため地元有志を中心に「銚子電鉄サポーターズ」が結成され、枕木交換、踏切設備の改善に限定したサポート基金の募集を行った。こちらも相当な成果があり、枕木交換、踏切設備の改善が実施され、同年4月、国交省に対し改善措置完了報告を提出した。

世の中何が幸いするか判らない。経営危機によるHPでの支援の呼びかけ、濡れ煎餅、サポーターズクラブ等で全国的にすっかり有名になり、観光客の乗車の増加、バスツアーのコースに銚子電鉄の乗車が組み込まれる等、今や銚子市の経済効果増大にも大きく寄与しており、個人的には上下分離方式等の検討がされてもよいのではないかと思っている。

運転・運賃

上下各36本が約30分間隔(等間隔ではない)で運転されており、ほぼ中間の笠上黒生で交換する。(必ず下り優先で到着する)営業キロは6.4㎞、全線の所要時間は約20分である。中間駅が8カ所あり、駅間距離が1キロを超えるのは君ヶ浜~海鹿島間の1.1キロ間のみである。全線、全駅が銚子市に属しており銚子市の市内電車の役割を果たしている。運賃は最低運賃1㎞まで150円、全線310円と地方私鉄の標準的な運賃であるが、途中駅が多く、距離の割に時間がかかるため高いという感じはしない。全線乗降自由、濡れ煎餅1枚、沿線の観光施設割引券付のフリー切符は620円、銚子~犬吠・外川間の往復割引乗車券は540円である。

車 両

電車6両(内1両は事業用として使用)客車1両、電気機関車1両が在籍する。

デハ301

昭和5年新潟鉄工所で鶴見臨港鉄道モハ100形モハ105として新製。昭和15年の改番でモハ110形115となった。昭和18年7月1日戦時買収で鉄道省の所有となったが車号の変更はなかった。引き続き鶴見線で使用されていたが昭和23年5月1日DC600Vから1500Vに昇圧により失職し、昭和24年3月28日付で廃車。昭和26年日本鉄道自動車で銚子電鉄向けに直接制御に改造の上入線した。主力として活躍していたが、元営団地下鉄2000形改造のデハ1000形が入線すると予備車となり、屋根上に作業台を設置して架線点検修理車として使用された。現在は休車状態で外川駅に留置されておりこのまま廃車されると思われるが、昭和一桁作られた電車の生き残りとして貴重な存在である。

 

昭和40年3月26日   仲ノ町

 

昭和58年6月14日   仲ノ町

 

平成21年7月30日   外川

デハ701・702

昭和3年川崎造船所で近江鉄道デユワ101、102として新製。デユワは国鉄流に言えばモユニであるが、形態的には貨車に近く、郵便室付電動貨車と言うほうが適切で、車体は木製であった。近江鉄道発行の記念乗車券の中にデユワが多賀大社から伊勢神宮に向かう団体客を乗せた12両編成の木製客車の両端に付き犬上川の鉄橋を渡る写真があった。

昭和16年5月日本鉄道自動車で鋼体化と旅客車化が行われ、デハ51、52となった。昭和36年3月片運化と正面の2枚窓化が行われた。銚子電鉄には昭和53年1月西武所沢工場で再度両運転台付に改造の上入線した。701は平成6年11月にワンマン改造されたが、702は未改造で団体輸送時の増結用となっている。702の塗装は平成19年11月の全検時に昭和30年代前半頃のスカイブルーと薄いグレーとなった。701と702を連結した場合は総括制御が可能であるが、他形式車と連結した場合は各車両に運転士が乗務して協調運転を行う。今年度伊予鉄道から転入車が入ると廃車になる予定である。

 

昭和58年6月14日   外川

 

平成21年7月30日   仲ノ町

デハ801

昭和25年帝国車両で伊予鉄道クハ406として新製、昭和37年電動車化してモハ106となり昭和60年3月廃車となった。昭和61年2月に入線し同年12月ワンマン化された。この車も今年度伊予鉄道から転入車が入ると廃車になる予定である。

 

平成21年7月30日   犬吠

デハ1001、1002

元営団地下鉄の銀座線、丸の内線の方南町支線で使用されていた2000形で、1435㎜ゲージ、第3軌条集電のため、平成6年京王重機で改造の上入線した。元々片運車のため1001の車体は昭和35年帝国車両製の2046と2033の前面、1002の車体は昭和34年日立製作所製の2040と2039の前面を取り付けて両運化、電装品は営団3000形、台車は富士急行5700形(←元小田急2200形)から流用した。塗装は、1001は「桃太郎電鉄」のラッピング、1002は「鉄子」塗装となっている。

 

平成21年7月30日   犬吠  

 

平成21年7月30日   仲ノ町

ユ101

NHKの朝の連ドラ「澪つくし」で銚子の町が舞台となり注目を浴びたことから、昭和60年に導入された。種車は昭和44年日本車輛と輸送機工業で新製されたワム80000形183983で、昭和60年に大宮工場で改造された。形式の「ユ」は遊覧車を表し、この種の車両としては、四国の予土線の「清流しまんと号」に次いで2番目、民鉄では初めてであった。残念ながら現在は外川駅で休車状態になっているが、是非復活させて有効に活用していただきたい。

 

平成21年7月30日   外川

デキ3

大正12年ドイツのアルゲマイネ社製の小型電機で、重量10t、全長4.47mで、昭和16年に宇部の沖之山炭鉱から入線した。銚子駅から仲ノ町駅に隣接するヤマサ醤油に入る貨車の牽引がメインであったが、電車が不足時にハフを引いて営業運転に使用されたこともあった。貨物列車は昭和59年の国鉄車扱貨物廃止時に廃止されたが、廃車されることなく継続してメンテナンスが行われており、同社のマスコット的存在になっている。

昭和40年3月26日   仲ノ町

 

昭和58年6月14日   仲ノ町

 

平成21年7月30日   仲ノ町

 

仲ノ町車庫見学記念入場券

 

犬吠駅の電車レストラン(営業は土・日・祝日のみのようである)

銚子電鉄を訪ねて(Ⅱ)

引き続き過去の車両とヤマサ醤油の入換機を紹介する。

デハ101

昭和14年日本鉄道自動車で作られた木製ボギー車で、東武鬼怒川線の前身、下野電気鉄道のデハ103が履いていた軌間762㎜の雨宮製作所製の台車を1067㎜に改軌したものを履いている。昭和27年に日本鉄道自動車で鋼体化改造が行われ、半鋼製の新製車体に乗せ換えた。小形のため晩年は多客時の3両編成の中間でトレーラーとして使用されていた。平成11年に廃車となった。解体はされずに笠上黒生駅の側線に留置され倉庫として使用されているが荒廃が激しく、夏場は雑草が生い茂り、特徴ある雨宮製作所製の台車の観察すらままならない。

 

昭和40年3月26日   仲ノ町

 

昭和58年6月14日   仲ノ町

デハ201

昭和24年に入線した車両で、前身は京成電鉄モ二7(大正14年雨宮製作所製)ということになっている。モ二7の経歴がやや複雑で、大正14年雨宮製作所製のモハ43がモハ300形として鋼体化された時に、不要となった木製車体を無蓋電動貨車モ二7に載せて有蓋電動貨車に改造の上行商電車に使用されていた。昭和22年高砂車庫の火災でモハ46と共に焼失して廃車。モ二7の台枠にモハ46の台車を1067㎜に改軌し、これに木製の新製車体を載せてできたのがデハ201である。長らく主力として活躍し、晩年は車体の老朽化によりベニヤ板を、後には鋼板を貼りつけていたが昭和54年に廃車された。

 

昭和40年3月26日   仲ノ町

デハ501

昭和47年に西武鉄道所沢工場で整備の上入線した車両で、前身は上田丸子電鉄丸子線で使用されていたモハ2321が前身であるが、更に前身があり元を正せば近江鉄道のクハ23である。これがまた複雑で大正14年彦根~多賀間電化時に新製された電1形1~5の後身クハ21形(初代)21~25の鋼体化名目で昭和18年日本鉄道自動車に発注した。戦時中のため完成したのは戦後の昭和22年となり、しかも電装品がなく実質付随車であった。全長12mの小型車のため2年後の昭和24年に早くも23と25が上田丸子電鉄に売却され、運転台取付と電装が行われてモハ23、25となった。昭和25年の改番でモハ2321、2322となり、丸子線で元飯山鉄道のガソリンカーをトレーラー化したサハ41を挟みMTMの3連で使用され、2321のパンタ側、2322の非パンタ側が貫通化された。昭和44年4月19日丸子線廃止後は別所線に移り、サハ41は同線で使用されたが、2321と2322は使用されることなく、2321は銚子電鉄に売却、2322は廃車となった。銚子電鉄では初のパンタグラフ、蛍光灯、4個モーター(75Kw×4)車で、多客時にデハ301の間にサハ代用のデハ101を挟んだ3両編成でも活躍したが、4個モーターのため消費電力が大きいことと車体が小さいことが致命傷となり、平成11年に廃車となった。車体は犬吠駅の電車レストランに転用されたが痛みが激しくなっている。

 

昭和58年6月14日   仲ノ町

 

上田丸子電鉄丸子線時代 モハ2311  昭和45年3月25日 上田東駅

ハフ1、2

大正12年、銚子鉄道開業時に新製されたハ二1、2が老朽化したため、車体を新製して乗せ換えたものである。多客時の増結用として使用された他、電車不足時にデキ3に引かれて営業運転に就いたこともあった。デハ701、702の入線後余剰となり、昭和53年に廃車となった。窓構造は、ハフ2が2段上昇式、ハフ1が下降窓となっていたが、ハフ2は後日の改造と思われる。

 

昭和40年3月25日   仲ノ町

ヤマサ醤油の入換機/1号機

仲ノ町駅を出て左手銚子駅方面に向かい、一つ目の踏切を渡ると「ヤマサ醤油」の工場がある。ここには以前使用されていたドイツ製の機関車が大切に保存されているので、銚子電鉄を見学された時は是非こちらも見学していただきたい。

「ヤマサ醤油」は一般人の見学を受付けており「機関車を見学させて欲しい」と伝えると「どうぞ」と言われて中に入る。門を入って直ぐ左手、売店との間のショーケースの中に展示されており、外から見ていたところ「中に入っていいですよ」と言われ、時間の経つのを忘れて見学した。1920年(大正9年)オットー・ドイッツ社(De:Deutz  AG)製で通称「オットー機関車」と呼ばれていた。昭和31年12月に入線し、39年まで銚子駅~工場間の専用線で使用されていた。それ以前は千葉市の「参松工業」という水飴等の製造会社で使用されており、更に前歴が有りそうである。画像でもお判りいただけると思うが、車輪幅より車体幅が狭く、元は762㎜で使用されていたとも思われる。静岡県の堀之内軌道(762㎜で堀之内駅~池新田間を営業、堀之内は現在の菊川)の機関車が同形である。

 

2号機

銚子電鉄を初めて訪れたのは、昭和40年3月京阪沿線の高校の時で、仲ノ町車庫を見学して外川を往復しただけであったが、2号機を撮影している。こちらも「オットー機関車」に負けず劣らず小さい機関車で「日本牽引車」で作られ建設省に納入内の1両という以外は不明である。ちなみに銚子電鉄のデキ3の「3」はヤマサ醤油の機関車の追番を意味している。

今後の予定

デハ701、702、801の3両は、国交省関東運輸局より是正勧告対象車両に指定されたため、早急に代替車両を導入する必要性に迫られた。当初は京王電鉄井の頭線の3000系が検討されていたようであるが諸般の事情で流れてしまい、京王電鉄井の頭線3000系導入により余剰となる伊予鉄道のモハ820形+クハ850形を2編成導入することになった。費用が占めて約1億円かかるとかで、費用捻出のため車両支援オーナー制度を設けた。内容は1人1口10万円(最大10口100万円)を支払うと1口に付き1年間有効の全線優待乗車券を発行するというものである。(銚子~外川間の6か月通勤定期は60270円)

伊予鉄道モハ820形の前身は京王帝都電鉄デハ2060形、クハ850形はサハ2500形・2550形で、生まれ故郷の近くに戻ってくることになり、京王ファンの方にとっては楽しみが1つ増えたのではないだろうか。銚子電鉄での形式はデハ2000形+クハ2500形が予定されている。

「濡れ煎餅」と「たい焼き」

銚子電鉄の濡れ煎餅は経営危機のおかげですっかり有名になり、犬吠駅の売店では電車の乗客の他、観光バスやマイカーで来た観光客も購入するため売切れになることがある。仲ノ町、観音、笠上黒生、外川の各駅でも販売されているので、こちらでの購入をお勧めする。確かにおいしく家族にも好評で「濡れ煎餅」の購入を口実に出かけることができそうである。尚、「濡れ煎餅」には特注品の「ヤマサ醤油」が使用されているそうである。観音駅の「たい焼」は「濡れ煎餅」の影に隠れてしまったが、こちらも中々のもので、1枚90円は関東地区では最安値だそうである。有人駅から乗車する場合、駅員氏に伝えておけば観音駅で受け取ることができる。「ヤマサ醤油」の売店に「醤油ソフトクリーム」が販売されていたので「物は試し」と食べてみたが「醤油味のソフトクリーム」という感じの微妙な味であった。

 

ステンレス製のキハ35905と並んだデハ301

 

準急「犬吠号」新宿行 

「さよなら四季彩号」

【3551】で書き込みした通り、201系「四季彩」は7月18日~20日、立川~奥多摩間を「募集型企画旅行」として運転された「さよなら四季彩号」をもって営業運転を終了した。20日のラストラン(ほんまは3日とも)に撮影に行きたかったが、19日、20日は他の予定が入っていたため18日に出かけた。今までとは異なり、立川~奥多摩間1往復のみであるため、撮影場所を何処にするべきか迷ったが、結局オーソドックスに下り奥多摩行は軍畑鉄橋、上り立川行は二俣尾駅周辺、豊田電車区への入庫回送は立川~日野間の多摩川鉄橋にした。

沿線は俄かマニアを含め撮影者でさぞ混雑しているだろうと思いつつ、青梅駅9時31分発の電車に乗ったが、有名な青梅~宮ノ平間の山根踏切で5名、軍畑の鉄橋は、山の斜面に10名程度と意外に空いていた。通過まで2時間近くあるので、そのうち増えるだろう思ったが、通過直前でも30名程度であった。通過20分前に職員が2名、5分前に保線関係者が1名巡回に来たが、全員山の斜面で、線路際撮影者はゼロのため、拍子抜けしたような顔をして戻って行った。SLやELに比べると電車を撮影する人は少ないが、同じ電車でも583系は人気が高く撮影者は多い。撮影後、次の電車で「四季彩」を追い抜く古里で下車して中線に停車中を撮影した。人出は15名程であったが、ハイドマイクを持った駅員氏が、黄色の線を少しでもはみ出して撮影している人を見つけると大声でどなりまくっていた。はみ出さなくても電車は停まっているので十分に撮影は可能であるし、無理にはみ出して撮影しても結果は殆ど変わらない。次の電車で奥多摩まで行き、ヘッドマークを撮影後、上りの撮影のため折り返し青梅行に乗車。車窓から見た限りでは、古里~川井間、沢井~御嶽間のカーブはいずれも5~6人、先程撮影した軍畑鉄橋は後追いになるためかゼロ、順光になる対岸もゼロであった。二俣尾で降りて奥多摩寄りの踏切に行くと中学生が2人いるのみ、通過直前でも7名であった。次は中央線立川~日野間の多摩川で撮影するため、上り電車に乗り、青梅で東京行の特快に乗換え立川へ。「四季彩」は停車中であったがパス。下り電車の車窓から見たところ多摩川鉄橋でも人出はさほどでもなかった。日野で降りて鉄橋に向かったが、堤防の目前で通過してしまった。やむなく駅に戻り、豊田寄りの電留線で入庫待ちで停車中を撮影した。こちらはやたら人が多く(とは言っても20名程)不思議に思っていたところ、程なく201系の上り快速が通過し、皆さん、201系同志の並びを撮影するためであることが判明した。残念ながら私は情報を持っていなかったため撮影はできなかったが、「四季彩」最後の営業運転を無事に見届けることができて良かったと思った。どこかの私鉄での再起を密かに期待したが、7月23日早くも長野工場に向け自力で回送されてしまった。

かくして201系「四季彩」は姿を消したが、何故か魅力を感じる電車であったのは、休鉄時代から奥多摩登山、ハイキングで時々利用していたからかも知れない。独特の塗装もさることながら、4扉ロングシート車の片側をクロスシートや外側に向けたシートに取り替える等、異色の電車であった。

軍畑鉄橋を渡る奥多摩行

 古里駅の中線で定期電車を退避する奥多摩行/方向幕の「快速 奥多摩」の表示はファンサービスか。

 奥多摩駅停車中

 

二俣尾駅付近を走行する立川行/方向幕は「快速 立川」を表示

 

下り定期電車と交換のため二俣尾駅で停車中

 

二俣尾駅発車/方向幕は「臨時」を表示

 

立川駅から豊田電車区に回送入庫のため日野駅の中線で待機中

 

 

大西顧問とC61を撮影に行った日

関東連絡網でのロギング太郎さん、掲示板【3295】での準特急さんの書込みの通り、伊勢崎市華蔵寺公園遊園地に保存されているC6120が現役に復帰することになった。関西では梅小路蒸気機関車館にC61の2号機が動態保存されており、館内展示運転に使用されている。

今から36年前の昭和49年5月12日、C612の引く臨時列車「白鷺号」が京都~姫路間に運転され、青信号特派員さん、井原 実さん、私の3名で加古川まで撮影に出かけた時、現地で偶然大西顧問にお会いし、その後も同一行動を取られた。撮影場所を加古川にしたのは、下り列車と上り列車の間に別府鉄道に行こうと考えたからである。当日の行程を振り返ると、加古川到着後、駅の姫路寄りで下りの「白鷺号」を撮影。その後加古川機関区を見学して高砂線野口経由で別府港へ。機関区を見学後、DD1351の引く土山線の貨物列車と近くを走る山陽電鉄を撮影。野口に戻り、徒歩で山陽本線の線路際に出て上りの「白鷺号」を撮影した。当時、大西顧問は「鉄道友の会京都支部」の支部長の要職に就かれており、休日は友の会の行事、模型の運転会、ライフワークにされていた京電の研究等でご多忙な中お付き合いいただき楽しく1日を過すことができた。

 

下り「白鷺号」加古川駅西方

 

上り「白鷺号」加古川~東加古川間

 

下り特急「しおじ2号」広島行

 

下り新快速

 

上り貨物列車 

下り「白鷺号」を撮影後、加古川機関区を訪問、さすがにキハ06はいなかったが、当時の配置はキハ20/16両、キハ25/1両、キハ30/12両、キハ35/5両、キハ36/2両、キハユニ15/3両の計39両で、ラッシュ対策で通勤型が約半数を占めていた。

 

キハユニ153/キハユニ15は3、6、9が配置されていた。3は、昭和27年8月汽車会社で新製された電気式気動車の試作車キハ44002が前身で最初の配置は木更津区。昭和32年12月大宮工場で液体式と車体の前半分を郵便、荷物室に改造し、鳥取区に配置。その後岡山に移り、昭和48年に加古川区に配置され、昭和55年7月に廃車になるまで在籍した。正面の窓ガラスが小さいものに取り替えられ、不細工なスタイルになってしまった。

 

キハユニ156/昭和28年3月日車で新製された電気式気動車の量産車でキハ44005が前身で最初の配置は木更津区。上窓がHゴム支持の2段窓となった。昭和33年3月大宮工場で液体式と車体の前半分を郵便、荷物室に改造し、加古川区に配置され、56年2月廃車になるまで在籍した。

 

キハ2038/昭和32年9月東急車両で新製され、和歌山区に配置、その後亀山区を経て加古川区の配置となり昭和55年9月の廃車まで在籍した。

 

スエ3165/書類上は昭和44年高砂工場でマニ3274を救援車に改造したことになっているが、現車は張上げ屋根で明らかに違っており、実際の種車はマニ3211である。

 

加古川から高砂線野口から別府鉄道に乗換え、終点の別府港で機関区を見学した。次の列車で野口に戻っても上りの「白鷺号」まで時間があるため、直ぐ近くを走る山陽電鉄を撮影した。

 

285+271+270/250形として旧100形の機器を流用して誕生した形式で、昭和26年~29年にかけて250~257、34年~26年にかけて270~289が川崎車両で作られた。前者と後者ではスタイルが大きく異なることと、車号が離れているため、便宜上270形と呼ばれていた。

 

318+317+316/300形として旧200形の機器を流用して誕生した形式で、昭和37年~43年にかけて、300~321、330~335の28両が川崎車両で作られた。

 

3016+3017+3556+3608/昭和42年に神戸高速鉄道を介して阪急、阪神電鉄との相互乗入れ対応車として作られた車両で、中間の3556を除き現在も健在である。

 

DD1351牽引の土山線貨物列車/元江若鉄道のDD1351で昭和32年12月汽車会社製。国鉄のDD13に先駆けて作られたことで有名な機関車である。別府鉄道には昭和45年2月に入線した。

 

DC301/元江若鉄道のDC301で昭和29年12月新三菱三原車両製。江若鉄道が昭和39年廃止された熊延鉄道よりDC25を購入したため余剰になり、別府鉄道に売却されたものである。

 

キハ2/元三岐鉄道のキハ5で昭和6年7月日車製。昭和40年6月に入線し、昭和59年1月31日廃止まで在籍した。元野口線円長寺駅付近の公園に保存されているが状態は悪そうである。

 

キハ3/元三岐鉄道のキハ二6が前身。更に前身があり佐久鉄道キホハ二56として誕生、国鉄買収によりキハ40605→キハ二40706となり昭和17年に廃車、昭和19年に三岐鉄道に入線した。製造年はキハ2より1年早く昭和5年11月日車製である。廃止後は佐久市に里帰りし、キホハニ56に復元の上、成知公園(小海線滑津駅徒歩5分)に保存されている。

 

ハフ7/元三岐鉄道のハフ16が前身。更に前身があり、神中鉄道(現在の相模鉄道)の開業に際し、ハ24として大正14年に汽車会社で作られた車両で、昭和24年三岐鉄道に売却、別府鉄道には昭和34年に入線した。入線以来土山線の混合列車に使用され、最終日まで健在であった。廃止後は相模鉄道に里帰りし、かしわ台車両基地で小名浜臨港鉄道から里帰りしたSL3号機(大正15年汽車会社製)と連結されて保存されている。

 

野口駅での記念撮影/折り返し時間待ちのキハ2のデッキで記念撮影をした。左から青信号特派員さん、大西顧問、大西顧問と同行の友の会会員、井原 実さん、私。大西顧問は外出される時は必ずスーツ、帽子着用の正装であった。よく館林まで東武の蒸機の撮影に出かけられていたが、その時も正装で行かれていたのであろう。

「1080」見学記

総本家 青信号特派員さんより、日鉄鉱業㈱葛生鉱業所で保管されている1080号機がJR西日本に譲渡され、梅小路蒸気機関車館で保存されるという嬉しいニュースをお伝えいただいた。17年前の平成4年11月28日、現地を見学に行った時のことを書いてみたい。

場所は東武鉄道佐野線の終点葛生駅から約7キロ離れた山の中で、町営バスが1日数本運行されていたが、主に通学生のためのもので実用的ではなかった。徒歩で行くには遠すぎるため往復タクシーを利用し、撮影が終わるまで待ってもらった。鉱業所と葛生駅の先、上白石貨物駅を結んでいた専用線は、前年の平成3年11月26日に廃止され、既にレールは撤去され、僅かに1080が格納されている車庫と、取り残されたように貨車が留置されている部分のみ残っていた。

車庫の扉を開けて機関車を見せていただいたが、埃が付着していたものの非常に美しく磨かれており、火を入れれば直ぐに走れる状態のように思えた。案内していただいた方の話によると、過去に「わたらせ渓谷鐡道」で走らせる計画があったそうである。

譲渡先は、常識的に考えるとJR東日本にされるところであるが、あえてJR西日本を選択されたのは、大宮鉄博で展示されるよりも、梅小路での「動態保存」を期待されたからであろう。

 

1080の正面/狭い車庫に格納されているため、このような写真しか撮れなかったが、秋に梅小路での再会を楽しみにしている。 

 

1080が格納されている車庫

 

取り残されたように留置されていた貨車

 

葛生駅から徒歩10分の嘉多山公園に保存されている東武30号機/東武鉄道が発注した機関車で1914年(大正3年)英国ベイヤーピーコック社製。

 

佐野線の電車(←館林 モハ3557-クハ3657+モハ3564-クハ3664)

モハ3050系は4両固定編成の3050形と2両固定編成の3550形があり、昭和46年から48年にかけて旧5400系(モハ5400形、クハ450形等)の主要機器、台車を流用して車体を新製した車両で、野田線と伊勢崎線館林以北、佐野線、小泉線、桐生線で使用された。足回りの老朽化と冷房化不能のため平成8年までに廃車された。現在は8000系を3連にしてワンマン改造した800系が運用されている。

201系「四季彩」引退

【3343】「JRおおみや鉄道ふれあいフェア」でも書き込みした通り、6月28日(日曜日)をもって201系「四季彩」が通常の営業運転を終了し、7月に実施される「お別れ運転」を残すのみとなった。【3343】と一部重複する部分があるが概略を簡単に述べると、車号は 青梅←クハ201-134+モハ201-263+モハ200-263+クハ200-134→奥多摩 で、昭和59年10月近畿車輛で中央線用として新製、武蔵小金井区に配置、中央線用としては最終増備車であった。平成13年7月大井工場で青梅線用の展望電車に改造(車号は変化なし)土、休日に青梅線を中心に定期運行、一般公募により「四季彩」と命名された。現在のラッピングに変更されたのは平成17年6月である。

車内は大きく改造され、奥多摩に向かって進行方向左側の座席を撤去し、奥多摩寄りの先頭車クハ200-134は窓側に向いた折畳み座席を、後ろの3両はクロスシートを設置して、窓は開閉不能の1枚窓に改造された。一方、右側の座席は通常のロングシートで、窓はそのままであるが、シートはパケットタイプのものに取り替えられた。

6月20日、27日と2週連続で出かけたが、撮影者が沿線に分散したのと27日は横須賀線に旧形客車が走り、そちらに行った人が多かったためか、青梅~宮ノ平間の踏切、軍畑の鉄橋等一部の有名撮影地を除けば、人出はさほどでもなかった。

このあと7月11日、12日に立川~青梅間、18日~20日に立川~奥多摩間で「さよなら運転」が実施されるが、「募集型企画旅行商品」として運転されるため一般乗車は不可能である。

クハ201-134/立川寄りの先頭車で春の吉野梅郷と梅の花が描かれている。

 

モハ201-263/2両目で夏の御嶽山と「れんげしょうま」の花が描かれている。

 

モハ200-263/3両目で秋の鳩ノ巣渓谷と紅葉が描かれている。

 

 

 

左側は4人掛けクロスシートになっている。元の座席下に設置された扉開閉機と暖房器を生かしたため、側板と座席の間にデットスペースが生じた

クハ200-134/奥多摩寄りの先頭車で、雪の舞う奥多摩湖と冬に黄色の実を付ける柚子が描かれている

 

 

左側の座席は多摩川の渓谷を見学できるように外側に向いている。座席は跳上式で使用しない時はバネで折畳まれる。

 

日向和田~石神前間を走行する奥多摩行

 

日向和田~石神前間を走行する青梅行

 

二俣尾駅に停車中の青梅行(左側はホリデー快速の回送列車)

 

軍畑~二俣尾間を走行する青梅行

 

軍畑~二俣尾間の軍畑鉄橋を渡る青梅行(鉄橋の二俣尾側、駅から徒歩2分のお立ち台は人が多かったのと逆光のため、一旦谷へ下りて登り返した対岸に行った。同業者はゼロであったが場所は今一つ)

 

[参考]軍畑鉄橋を渡るE233系(駅から徒歩2分のお立ち台)

 

[参考]軍畑鉄橋を渡る73系(昭和49年5月1日撮影)

 

軍畑駅に進入する奥多摩行

 

沢井~御嶽間を走行する青梅行

 

鳩ノ巣駅に進入する青梅行

 

奥多摩駅を発車する青梅行

京成電鉄 創立100周年記念列車

京成電鉄は1909年(明治42年)6月30日創立以来、本年で100周年を迎えた。今年は創立100周年を記念して様々なイベントが計画されているが、その一環として3300形4両1編成(←上野、3356+3355+3354+3353)を往年の青電塗装に変更した。

6月30日(火曜日)「創立100周年記念列車」として、この編成を使用した上野~金町間の臨時特急が運転され、停車駅及び時刻は、上野(1419)、日暮里(1423)、青砥(1439)、高砂(1441)、柴又(1444)、金町(1446)であった。金町に住んで20年以上になるが、京成金町線に特急列車が走るのは前代未聞のことで、是非乗車、撮影をしたいと思っていたが、あいにく多忙な平日の月末であったため諦めていたところ、急遽午後から外出する仕事が入り、辛うじて撮影のみ間に合った。外出先での業務終了後、大急ぎで京成金町駅に行き14時40分の高砂行に乗車、柴又駅到着が14時42分、間一髪で臨時特急と折返しの回送列車を撮影することができた。平日にも拘らず金町には15名、柴又には20名位の同業者がおり、臨時特急は立ち客が出る程満員であった。ポスターに記載されている通り、8月下旬には赤電塗装車が、9月中旬にはファイヤーオレンジ塗装車が運行される予定となっている。余談であるが、高砂、町屋経由で会社に戻ったが、町屋で降りると都電の新車「8801」が三ノ輪橋行で到着、撮影後千代田線への階段を降りかけたところで「8802」が次の三ノ輪橋行で到着した。

3300形は、昭和43年から47年にかけて54両新製され、4、6、8両編成で普通から特急まで各種列車に使用され、京成線のみならず、都営浅草線、京浜急行にも乗り入れて活躍したが、新3000形の増備により、平成19年度から本格的に廃車が始まり、現在は4両編成8本の32両が在籍し、本線、金町線、千葉線で普通列車を中心に使用されている。その他に、北総鉄道に8両がリースされ、印旛日本医大~羽田空港間等で使用されている。

 

柴又駅に到着した上野発金町行臨時特急(3353-3354-3355-3356

 

中間車の3354

 

「特急・金町」の方向幕

 

折り返しの回送列車

 

創立100周年のポスター

JRおおみや鉄道ふれあいフェア

5月23日(土曜日)、恒例の「JRおおみや鉄道ふれあいフェア」が開催された。事前予告では、今年の車両の展示は、EF65535、EF5893、107系(日光線新デザイン車両)、251系、183系で、試乗会は201系「四季彩」となっていた。EF65535、EF5893は昨年も展示されているので目新しさはないが、日光線新デザインの107系と、近々引退が噂されている201系「四季彩」は、可能ならば見てみたいと思っていた。ロギング太郎さん、デカンショまつり号さん、曙太郎さん親子他何名かの方が見学に行かれ、関東連絡網にレポートされておられるが、私も短時間であるが覗いてみた。但し、ロギング太郎さんはじめ他の方とは時間帯の相違等によりお会いしていない。

私事であるが、5月の連休明けから6月上旬まで仕事の超繁忙期で、例年土曜日はほぼ出勤、どうかすると日曜日も出勤ということになる。当日も出勤していたが107系と「四季彩」が気になり、11時頃職場を抜け出して会場に向かった。限られた時間内で効率よく見学するため、JR貨物(ED6217、EF651116)→EF65535、EF5893→四季彩→107系の順番で手短に見学し、午後2時には職場に戻った。

ED6217(JR貨物)

昭和34年6月、ED6118として川崎車輛で新製、甲府区に配置され中央本線で使用、昭和47年1月竜華区に転属、昭和53年10月長野工場でED6217に改造され、飯田線、大糸線で貨物列車に使用、平成4年3月、篠ノ井区で廃車後、JR貨物大宮で保管。昨年は、車体の汚れが目立ち、展示の対象になっていたのかどうか判らなかったが、今年は綺麗に塗り直しされ展示されていた。架線のない所での展示のためパンタが上がっていないのが残念であるが、洗練されたスタイルは古さを感じさせない。

EF651116(JR貨物)

昭和53年8月、川崎重工兵庫工場新製、関東支社に配置され、主に関東地区を中心に活躍、分割民営化時にJR東日本の所属となり、平成15年3月廃車後JR貨物が購入し高崎区に配置された。(現在の車籍の有無は不明)

 

DD511805(JR貨物)検査中

DD51のラストナンバーで昭和53年3月三菱重工三原工場製、佐倉機関区に配置され、分割民営化時にJR貨物の所属となった。

 

EF65535

昭和42年3月、東芝府中工場でEF6577として新製、中部支社に配置。昭和43年7月、浜松工場で特急列車牽引用に改造され現車号に改番。分割民営化時にJR貨物の所属となり高崎線で使用、平成20年3月31日付で廃車となったが、解体を免れ昨年に引き続き展示された。下り側に「瀬戸」、上り側に「出雲」のヘッドマークが取り付けられ、とにかく物凄い人気で撮影するのに一苦労した。

EF5893

昭和36年6月、東芝府中工場で新製、東京局に配置、宮原、浜松、東京と転属し、終始東海道筋で活躍後、最後は新鶴見区で昭和60年7月廃車となり、以降大宮工場で保存されている。現役時代「青大将色」に塗られたことはない。昨年は停められていた場所が悪く、パンタは下りていたが、今年はパンタも上がり、綺麗に撮影できたが、EF65に比べると人気は今一つのようであった。理由は来場者が、EF58の現役時代を知らない世代が多くなったためであろうか。

 

201系「四季彩」

クハ201-134+モハ201-263+モハ200-263+クハ200-134

昭和59年10月近畿車輛で中央線用として新製、武蔵小金井区に配置。中央線用としては最終増備車であった。平成13年7月大井工場で青梅線用の展望電車に改造(車号は変化なし)土、休日に青梅線を中心に定期運行、一般公募により「四季彩」と命名された。平成17年6月現在の塗装に変更されたが、同年10月、JR東日本が中央、青梅、五日市線の201系を新造のE233系と置換えを発表、平成21年6月「さよなら運転」の実施が発表され廃車が決定した。「さよなら運転」の概要は下記の通りであるが、6月中の土、日曜日は青梅線の青梅~奥多摩間を定期ダイヤで終日運転される。時刻は大型時刻表に掲載されている。

7月4日、5日        三鷹→笹子(往路) 大月→三鷹(復路)

7月11日、12日      立川~青梅(往復)

7月18日、19日、20日  立川~奥多摩(往復)

「びゅう旅行商品」として運転され、乗車には同商品のクーポン券が必要で、往復はがきで申込みを受け付け抽選で決定となる。

「さよなら運転」は相当な混雑が予想されるため、撮影される方は6月27日、28日の定期運転をお勧めする。当日は横浜~横須賀間に7両編成の旧型客車が走るので、どちらに行くべきか迷うところである。

 

クハ200-134

モハ201-263

モハ200-263

日光線107系(クハ106-1+クモハ107-1)

かつては、キハ55、157系を投入して東武鉄道と熾烈なシェア争いを行った日光線であるが、東武がDRC1720系を投入した時点で、国鉄は勝負を諦めたかに見えた。平成18年3月18日より栗橋駅に新設された渡り線を使用して、JR新宿駅と日光・鬼怒川間を直通する列車がJR東日本と東武鉄道の相互乗入れで運転が開始されると、JR日光線は完全なローカル線化するかに見えた。しかしながら、東北新幹線宇都宮経由で日光に向かう乗客が外国人観光客を中心に少なからず存在することから、日光線の車両、駅の施設を含めて全体をレトロ調にすることになり、同線を走る107系を全車レトロ調に改装することになった。