前回の「(3)-2 戦前形2扉車 42系」から半年以上経過したが、今回は流電グループを解説する。
流電グループについては、過去趣味誌で解説され尽くされている感があるが、全体の流れを把握するために改めて飯田線入線までの動きを簡単に述べてみたい。
昭和9年7月、吹田~須磨間が電化された際、大阪~神戸間を28分で運転する「急行電車」を運転、昭和12年10月、吹田~京都間電化時に運転区間を京都まで延長した。
昭和11年3月に急行用として、第一次流電と呼ばれる1編成、モハ52001+サロハ46018+サハ48029+モハ52002が新製された。昭和12年3月、モハ52003+サロハ66016+サハ48030+モハ52004、モハ52005+サロハ66017+サハ48031+モハ52006の2編成が増備されたが、窓が大きくなり更にスマートになった。昭和12年8月には、モハ43039+サロハ66018+サハ48032+モハ43038、モハ43039+サロハ66019+サハ48033+モハ43040の2編成が増備されたが、流線形は中止となり半流に、検修サイドから不評を買っていたスカートの廃止、塗装は通常の茶色となったが、性能的にはモハ52と同一であったため「合の子」と俗称された。大西顧問から「『合の子』が完成した時は、戦時体制強化のため写真撮影が厳しくなり営業運転中の写真が少ない」というお話を聞いたことがある。そう言えば戦前の営業中の写真はあまり見かけない。
戦時中3扉化(一説にはモハ52とモハ43は4扉化)が計画されたが、資材と人手不足等により実施されず、ロングシート化と座席撤去及びサロハ66020(サロハ46018にトイレを設置して改番)、66016、66017のサハ化(48036、48034、48035)で終戦を迎えた。また52006と43038は戦災のため廃車となった。昭和24年4月には急行電車が復活し整備の上使用されたが、昭和25年10月に80系に置換えられたため阪和線の特急用に転用された。しかし、ここも70系スカ形の進出により昭和32年飯田線に転属した。尚、サハ48は昭和25年東京地区の旧モハ51のモハ41とモハ42、43、クハ58の2扉車と交換時に一緒に東京に転属し、これらの車両と共に横須賀線で使用されたが、最終的には岡山地区で最後を迎えた。岡山地区に転属する前に僅かな期間であるが古巣の大阪地区に戻った車両もあり、これらについては後日報告する。
(1) クモハ52
阪和線から昭和32年4月に004と005が、9月に001~003が伊那松島区に転属し、ローカル運用を中心に使用されたが、行楽シーズンに運転された名古屋~中部天竜間の臨時快速「天竜号」に使用されたこともあった。同年12月から翌年11月にかけて快速用として全車豊橋区に転属した。昭和36年3月1日、80系による準急「伊那」が誕生(実際には快速の格上げ)するまで快速用として活躍、その後も30番台の4連運用で南部を中心に活躍した。昭和53年11月から翌年3月にかけて80系300番台と交替で廃車となったが、トップナンバーの52001は極力登場時のスタイルに復元された状態で吹田工場に保存、52004は日本車両の構内を経て佐久間レールパークでされていたが、11月1日閉鎖により「JR東海博物館」に移設される予定である。
クモハ52001・002/昭和11年3月川崎車輛製、阪和線時代に乗務員扉の新設と電動機のMT30への交換が実施された。001は昭和34年4月、池場~三河川合間で崩落した土砂に乗り上げ脱線大破し、廃車やクハ化が検討されたが無事原形に復旧した。001は昭和53年12月廃車後、前述の通り吹田工場で保存されている。002の廃車は昭和54年3月とやや遅い。
クモハ52001/上・豊橋(39-3-20/30番台4連運用の辰野行はこの1本のみ) 下・豊橋(40-3-20)
クモハ52002/豊橋(48-7-28)
クモハ52003~52005/昭和12年3月川崎車輛製、阪和線時代に乗務員扉を新設したが電動機の交換はされずMT16のままであった。003と004は更新修繕後も張り上げ屋根のままであった。005は飯田線転属後方向転換され偶数向きとなった。昭和53年11月に全車廃車されたが、前述の通り004のみ保存され、平成23年春オープン予定の「JR東海博物館」に移設される予定で、現在の中途半端な復元スタイルがどのように変化するのか楽しみにしている。
クモハ52003/上・豊橋(48-7-28) 中・下地~小坂井間 (50-1-2) 下・豊橋 (48-3-36)
クモハ52004/上・豊橋(40-3-20) 中・下・佐久間レールパーク(H19-11-3)
クモハ52005/上・豊橋(40-3-20偶数向きに方転されている) 下・豊橋(49-9-23)
(2)モハ43039→43810・43040→53008・43041→53007
昭和12年8月川崎車輛製、戦後の経過はクモハ52とほぼ同様であるが、040と041は阪和線時代に電動機のMT30への交換が実施され、形式をモハ53に変更した。飯田線への転属はやや遅れて昭和33年2月で伊那松島区に配置された。43039は昭和40年3月浜松工場で身延線用としてパンタ部分を低屋根改造され43810に改番され富士区に転属した。53008・53007は飯田線に転属後、旧形国電終焉まで伊那松島区から移動することなく使用された。
モハ43039→クモハ43810/身延線では主に4連運用の中間車として使用されていたが、72系の車体更新車クハ66、モハ62が登場すると昭和50年3月、北松本区に転属した。当初は上松~聖高原間のローカル運用に使用されていたが、後に大糸線で使用され、昭和57年2月廃車された。
クモハ43810/上・柚木(47-5-6) 中・塩尻(52-5-2 上松発松本行) 下・松本(54-4-28大糸線)
モハ43040・041→クモハ53008・53007/008は昭和58年8月21日伊那松島~中部天竜間で実施された「さよなら運転」の先頭車に使用された。(編成は53008+47009+54110+47069)007は更新修繕後も張上げ屋根のままで特に人気が高かった。廃車は008が昭和59年3月、007が昭和58年11月であった。
クモハ53008/上・豊橋(48-7-28) 中・伊那福岡(48-3-25) 下・豊橋(50-1-2)
クモハ53007/上・辰野(54-4-29) 下・辰野(46-9-26)
(3)サロハ66018・66019・66020→クハ47153・47155・47151
流電グループの中間車サロハ66は5両中3両が飯田線に転入して運転室を取付けクハ47に改造、更に横須賀線に行った2両の内1両が転入した。
サロハ66020→クハ47151/昭和11年3月川崎車輛で第一次流電の中間車サロハ46018として新製、昭和12年8月トイレを設置してサロハ66020に改番した。昭和18年8月戦時改造で2等室廃止、トイレを撤去してサハ48036に改番、昭和25年に阪和線に転属。昭和33年11月飯田線に転属時に豊川分工場で運転室を取付けクハ47025となり、昭和34年12月の改番(番号整理)でクハ47151となった。当初はローカルに使用されていたが、クモハ52と共に快速用となった。昭和42年9月身延線に転属したが、昭和47年6月飯田線に復帰。中部天竜区に配置され、昭和53年11月に廃車された。
クハ47151/上・豊橋(40-3-24豊橋区で30番台の4連運用) 中・伊那本郷~飯島間(48-3-25) 下・豊橋(49-9-23 中部天竜区の運用は60番台)
サロハ66018・66019→クハ47153・47155/昭和12年8月川崎車輌で「合の子」編成の中間車として新製した。戦時中もサロハのまま残り、戦後2等室は3等室代用となっていた。昭和25年に阪和線に転属後、昭和26年11月豊橋区に転属、昭和27年2月、豊川分工場で運転室を取付けクハ47021、47022となり、昭和34年12月の改番(番号整理)でクハ47153、47155となった。昭和29年6月更新修繕Ⅱで座席のロングシート化が実施され伊東線に転属、昭和32年には身延線に転属し、昭和46年に飯田線に復帰。伊那松島区に配置され、153は昭和54年2月、155は昭和54年3月に廃車された。車内はロングシートのため、長距離利用客の評判は良くなく、特にロングシートのクモハ61と組むと最悪であった。また、広々とした車内は運動会ができる等と言われていたが、模型の運転会は十分できたと思う。
クハ47153/上・辰野(46-9-25)中・車内(46-9-25)下・田切~伊那福岡(48-9-2)
クハ47155/上・辰野(48-7-29)下・辰野(52-5-3 運転室窓Hゴム
(4)サロハ66016→サハ48034
昭和12年3月川崎車輛で流電(広窓)第2編成の中間車サロハ66016として新製した。昭和18年8月戦時改造により2等室を廃止してサハ48034に改造した。昭和25年に阪和線に転属後、昭和31年3月田町区に転属して横須賀線で使用、昭和34年12月飯田線快速用として豊橋区に転属した。30番台の4連運用の中間車として使用されていたが昭和53年11月に廃車された。
サハ48034上・豊橋(40-3-20)下・豊橋(48-7-28 )