西鉄北九州線

湯口先輩より1957年(昭和32年)3月14日に撮影された西鉄北九州線の超貴重な画像を公開していただいたが、この時代に地元の方以外で撮影された方は非常に珍しい。我々団塊世代の現役時代、九州ではまだまだ蒸気機関車が大活躍しており、皆さんの目がどうしてもそちらに向いてしまうため、この方面の撮影者は少数派であった。限られた時間とお金の中で、自分が撮影したいものを最優先に行動するのは当然のことであり、私の場合、魅力を感じていたローカル私鉄と路面電車の撮影を優先し、国鉄の蒸気機関車は「ついで撮影」であったように思う。

西鉄北九州線の印象は非常に速かったことで、北九州の各都市を結ぶインターバンとして建設されたため専用軌道区間の最高速度は60㎞/H、併用軌道区間でも40㎞/Hで目一杯走っていた。路面タイプの電車が60㎞/Hまで出すと体感速度は10㎞/H以上速く感じた。以前ぶんしゅう様が万葉線やポートラムが専用軌道でも40㎞/Hまで出さないことを嘆いておられたが、都電荒川線も含めて、専用軌道区間は是非60㎞/H位で走行してもらいたいものである。

それでは上から順に解説する。参考までに湯口先輩が撮影された12年後、1969年(昭和44年)3月撮影の画像を貼り付けたので、湯口先輩の画像と合わせてご覧いただければ幸いである。

1)79・80(形式/66形)

北九州線の前身、九州電気軌道により、昭和4年66~85の20両が作られた全鋼製車で、昭和25年に車体を軽量化するため、70・76~78・80~85は車内を木製化して半鋼製に、車体の状態が悪かった66~69・71~75・79は当時の新製車600形とほぼ同じ車体を新製して乗せ替えた。

湯口先輩が撮影された1番上の79は車体新製車、2番目と3番目の80は半鋼製改造車、最後の廃車体は、新製車体に乗せ替え時の廃車体である。

その後の経過については、他形式を含め1950年代にビューゲルをパンタに取替えが実施された。半鋼製改造車はダイヤの合理化により余剰となったため、ワンマン化されることなく昭和47年に廃車された。車体新製車は昭和39年から42年にかけて福岡市内線の木製車100形(元北九州線1形・35形)を置き換えるため79を除く9両が同線に転属した。昭和50年福岡市内線一部廃止により余剰となり、福岡で廃車になった75以外の8両は北九州線に復帰したが、路線廃止に伴い66~68が昭和60年、69・71~74が平成4年に廃車された。

 

77(半鋼製改造車) 昭和44年3月26日  魚町

 

75(車体新製車/福岡市内線転出後) 昭和44年3月24日  博多駅前

(2)    104・156(形式100形)

昭和11年から15年にかけて57両(101~157)作られた車両で製作時期により大きく3つのグループに別れる。

    101~117

昭和11年に作られたグループで前述の66形と同系のスタイルである。66形との相違点は窓が大きくなったため扉間の窓枚数が11枚から10枚に減少、扉が窓よりも高くなったこと等があげられる。

    118~137

昭和14年から15年にかけて作られたグループで、スタイルが大きく変わり、正面が当時流行の流線型、窓が上窓固定の2段窓、扉の配置が前・中となった。屋根の形状は汽車会社製の118~124が従来と同じであったが、日本車輌製の125~137は張上げ屋根となった。昭和27年から28年にかけて、前中扉は前後扉に改造され、元中扉部分の窓幅が狭くなっている。

    138~157

昭和15年から16年にかけて作られたグループで扉は前後扉になった。138~147は日本車輌、148~157は汽車会社で作られたが、どちらも張上げ屋根となり差異はなくなった。このグループの内、138~140・142~145・147・148・150の10両はワンマン化されたが、それ以外の車両は昭和47年から53年にかけて廃車された。148が「北九州市交通科学館」に保存されたが平成16年4月に閉館となり、現在は門司港レトロ地区で保存されている。画像で見る限り状態は良く、リタイヤ後是非行きたいと思っている。

同一形式ながらスタイルが大きく異なるため、118~124を118形、125~137を125形、138~157を138形と呼ばれることもある。

 

104  昭和44年3月26日  大門/昭和11年日本車輌製

 

111  昭和49年1月19日  大門/昭和11年日本車輌製

 

119  昭和44年3月26日  大門/昭和13年汽車会社製、元中扉部分の窓が狭くなっている。

 

129  昭和44年3月26日  大門/昭和13年日本車輌製

 

152  昭和44年3月26日  大門/昭和15年汽車会社製、

 

139(ワンマン改造後)昭和49年1月19日  大門/昭和15年日本車輌製

(3)    204(形式/200形)

北九州線の前身、九州電気軌道の開業時から使用してきた1形のうち初期車の9両と余剰の散水車3両の台車と電装を流用して、昭和9年から12年にかけて66形に準じた車体を新製した車両である。前述の100形よりも製造年が古いのは、当時神戸市電から譲り受けた2軸車が100形を名乗っていたためである。(前述の100形は元神戸の100形が廃車後に新製されている)ワンマン化されることなく昭和48年から52年に廃車となった。

 

203  昭和44年3月26日  大門/昭和9年日本車輌製

 

205  昭和44年3月25日  小倉駅前/昭和9年日本車輌製

(4)    618(形式/600形)

昭和25年から28年にかけて50両作られ、平成12年11月26日北九州線全廃時まで主力として活躍した。601~605・636~643が昭和25年新潟鉄工所、606~610が昭和25年川崎車輌、611~635・644~650が昭和27年近畿車両で作られた。メーカーによる車体の差異はないが台車が異なる。昭和45年にワンマン改造、昭和56年から車体強化改造、昭和61年から冷房の取付けが実施されたが、全車には及ばず約半数の23両に止まった。全線廃止時まで残っていた621が「北九州線車輌保存会」により、元北方線324と共に筑豊本線筑前山家駅の近くで保存されている。毎月第4日曜日に一般公開されており、リタイヤ後是非行きたいと思っている。余談になるが、リタイヤ後に行きたい所が山ほどあり、生きている間に全部回れるかどうか甚だ疑問であるが、可能な限り回りたいと思っている。

 

606  昭和44年3月25日  小倉駅前/昭和25年川崎車輌製

 

612  昭和44年3月25日  小倉駅前/昭和27年近畿車両製

 

640  昭和44年3月25日  小倉駅前/昭和25年新潟鉄工所製

 

647  昭和44年3月26日  大門/昭和27年近畿車両製

 

627(ワンマン改造後)昭和49年1月19日  大門/昭和27年近畿車両製 

(5)    1001・1009・1020(形式/1000形)

昭和28年から42年にかけて作られた連接車で1001A+1001B~1064A+1064Bの64編成が在籍した。製造年が15年に亘るため、時期により変化が見られるが、大きなものを取り上げると、昭和28年の1001A+1001Bから30年の1020A+1020Bまでは半鋼製、昭和33年の1021A+1021B以降全金製、翌34年の1031A+1031B以降窓枠のアルミサッシ化、最終増備の1062A+1062B~1064A+1064Bの方向幕大型化が挙げられる。後日1045・1052~1056の6編成は、ラッシュ対策のため扉のない中間車体Cを挿入して3連接車となった。

路線廃止後、筑豊電鉄に譲渡された車両が多いが、現在も原型を保ちつつ残っているのは最終増備の1062と1064の2編成のみで、1063編成改造の中間車体を挿入して3連接車となっている。

・筑豊電鉄2006ABC編成(1062A+1063B+1062B)

・筑豊電鉄2007ABC編成(1064A+1063A+1064B)

また、1043A+1043Bと1044A+1044Bは中間車体に改造され、元福岡市内線1301A+1301B~1304A+1304Bの中間に挿入されている。(筑豊電鉄2001ABC~2004ABC編成)

 

1003A+B 昭和44年3月25日  小倉駅前/昭和28年川崎車両製

 

1021A+B 昭和44年3月26日  大門/昭和33年近畿車両製

 

1026A+B 昭和44年3月26日  大門/昭和33年川崎車両製

 

1038A+B 昭和44年3月26日  大門/昭和34年帝国車両製

 

1045A+C+B 昭和44年3月26日  大門/昭和34年日立製作所製

 

1058A+B 昭和44年3月26日  室町/昭和39年日本車両製

 

1062A+B 昭和44年3月26日  室町/昭和42年九州車両製

(6)    506(形式/500形)

昭和23年に501~510、24年に511・512の2両が汽車会社で作られた。全長13.6m、車体中央に両開き扉を設置した3扉の運輸省規格形電車で、大阪市電1711形、横浜市電1300形とは同形であった。昭和28年頃に急カーブでの接触事故防止のため車体両端を絞る工事と中央扉の廃止工事を行った。ワンマン化されることなく、昭和51年から52年に運用を離脱し、501・502・504が広島電鉄に譲渡され、それ以外は廃車となった。広島電鉄では600形(601~603)となり、後部扉を廃止して片開きの中扉を設置した。現在602のみが残っており西鉄色に塗られている。

 

505  昭和44年3月25日  小倉駅前/昭和23年汽車会社製

湯口先輩の「北九州シリーズ」の続編で、西鉄宮地岳線や福岡市内線の貴重な画像が続々と公開されているが、機会があれば関連の話題を書き込みしたいと思っている。

「電車は1両もええ 続編」補足

前回取り上げた丹波橋駅に停車中の三条行で、積み残し客が出る程満員であることが、お判りいただけると思う。(昭和39年5月10日)

準特急様が旧国鉄、JRの単行電車について書き込みされたが、文中で触れられている小野田線の支線「通称本山支線」と鶴見線の支線「通称大川支線」について補足する。

本山支線のクモハ42

平日、休日ともに運転は朝・夕のみで土曜日のみ学生の下校時間帯に1往復運転されていた。(現在は学校が完全週休2日制になったため運転されていない)私自身乗車したのは1度だけで撮影した前日の夕方1往復したが日没後のため撮影はしていない。翌日宇部新川駅で朝のラッシュ時に撮影後、雀田駅に行ったが午前中の運転は終了しておりパンタを降ろして昼寝をしていた。クモハ42の運行は平成15年3月14日までで、その後はクモハ123が運行されている。

 

雀田駅で昼寝中のクモハ42005(昭和49年1月20日)/本山支線の他、クハを連結して宇部線・小野田線の運用に入ることがあるため、下り向きには貫通幌が付いていた。

大川支線のクモハ12

平成8年3月15日までクモハ12051か052が単行で運行されていたが、3月16日のダイヤ改正で103系3連に置き換えられた。その際に武蔵白石駅の大川支線ホームが急カーブにより20m車が入線できないため撤去され、大川行は一つ鶴見寄りの安善駅との間の渡り線から上り線を逆走し、武蔵白石駅を通過して大川駅に至っている。平成16年8月より205系への置換えが開始され、103系は平成17年12月17日をもって引退した。

 

大川駅に進入するクモハ12052(昭和47年5月1日)

その他の単行

大垣~美濃赤坂間、大垣~垂井~関ヶ原間のローカル運用の昼間の閑散時間帯にクモハ40、クモハ12の単行が使用されていた。

 

美濃赤坂駅に停車中のクモハ40069(昭和39年9月21日)

【参考】

この時の主目的は西濃鉄道の蒸気機関車で、当時「2105」と「2109」が在籍しており、当日は「2105」が稼働していた。廃車後「2109」は大井川鉄道に行き、現在は日本工業大学で動態保存されている。

高槻電車区の職員通勤車

営業運転ではないが、高槻駅から電車区の間に職員通勤用にクモハ32002が運転されていた。車体の内外は営業車と同レベルに整備され、いつでも営業運転に使用できるようになっていた。現役の時、高槻電車区見学会の帰りに便乗させていただいたので参加された方は覚えておられると思う。

 

(昭和41年11月12日)

【参考】クモハ32について

クモハ32は、昭和9年7月20日吹田~須磨間の電化開業による電車運転開始時に、主として増結用に使用するために新製された両運転台付のモハ42を戦時改造で4扉化した電車である。13両中5両改造されたが、戦災と事故で2両廃車となり、生き残った3両が昭和28年の改番でモハ32000~002となった。昭和40年代は32000が岡山区、32001が淀川区に在籍し、通常の営業運転に使用されていた。

 

宇野線の8連の先頭に立つ32000(昭和47年7月30日)

 

片町線で中間に入った32001(昭和49年3月23日/住道駅)

 

牽引車代用として向日町運転所に貸し出された時(昭和41年11月28日)

青梅線・五日市線のクモハ40

五日市線の電化開業時、昼間の閑散時にはクモハ40の単行が見られた。この画像を見る限りでは単行に見えるが、実はラッシュ時の増結車である。当時、ラッシュ時は基本4両にクモハ40が1両増結され、5両で運転されていた。

 

クモハ40039(昭和49年5月1日/青梅駅)

 

クモハ40061他5連(昭和49年5月1日/拝島駅)

クモハ123

準特急様が塩尻~辰野間のクモハ123-1と身延線のクモハ123-602を紹介されておられるが、同形式について少し説明したい。

国鉄末期の昭和61年から分社後の63年にかけて手荷物・郵便輸送廃止により余剰になった荷物電車を旅客用に改造したものである。JR東日本はクモハ123-1が1両のみ、JR東海は123-41~45(改造により5041~5044・5145に改番)・601、602の7両、JR西日本は123-2~6の5両が在籍したが、JR東海は平成19年までに廃車、JR東日本とJR西日本は全車両健在である。JR西日本は宇部・小野田(本山支線を含む)線を主体に山陽本線の宇部~下関間で使用されている。

JR東日本 クモハ123-1(昭和62年1月15日/塩尻駅)

改造当初は白と緑のツートンであったが、走行区間に緑が多く目立たないことから現在の塗装に変更された。

 JR東海 クモハ123-5043+123-601+123-602

JR東海は当初、身延線の富士~西富士宮(一部は芝川)間と甲府~鰍沢口間の区間運転用に投入されたが甲府~鰍沢口で使用する車両の送り込みのため、富士~甲府間の全線を走破する運用も存在した。トイレがないことから乗客からの苦情が殺到したため、甲府~鰍沢口間の区間運転から撤退し、それに伴う富士~甲府間の全線通し運用もなくなった。但し、平成19年3月18日のダイヤ改正まで、沼津~身延間の4229Mに2連で使用されていた。富士~沼津間を3連で回送、沼津で検査後11時30分頃3連で出庫して、11時40分頃先頭の1両が回送で発車、後2両が11時50分発身延行となった。

 

上/クモハ123-5043 中/クモハ123-602 下/クモハ123-601(平成17年6月24日/沼津駅)

新潟交通モハ11(「電車は1両もええ」によせて)

準特急様が「電車は1両もええ」のタイトルで貴重な画像とともに書き込みされておられるが、能勢電、阪神武庫川線は非常に懐かしく思った。昭和40年台前半の能勢電といえば、直接制御2個モーターの路面電車に毛が生えたような電車の単行か、P-4・P-5一族の2連がポールを振りかざして走っており、梅田直通特急が走る今日の姿からは想像もできない世界である。

京王競馬場線の単行の画像を見るのは初めてで、当時関東大手私鉄での単行運転は唯一のものではないだろうか。

私自身の単行の思い出は、京阪沿線の学校に通学していた頃に乗車した近鉄京都線から京阪に乗り入れていたモ430形で、近鉄線内では単行でも充分であったのだろうが、丹波橋から先の京阪線内では、土曜日の午後ともなると通学生や四条方面への買い物客で超満員となり、迷惑乗入れ以外の何者でもないと思った。

「廃止寸前のローカル私鉄」として蒲原鉄道モハ71と新潟交通モハ11を紹介されておられるが、幸いなことに両車とも廃止後も大切に保存されている。蒲原鉄道モハ71は個人の方が元国鉄キハ41120のクハ10と共に村松駅近くの敷地に屋根付きで保存、新潟交通モハ11はモワ51、ラッセル車キ116と共に新潟市(保存当初は月潟村であったが合併により新潟市となった)により旧月潟駅構内に保存されている。屋根は付いていないが、冬季はブルーシートが掛けられ「かぼちゃ電車保存会」の皆様により定期的にメンテナンスが実施されており、良好な状態が保たれている。駅構内には架線が張られており、運転士が来てノッチを入れれば今にも動き出しそうな雰囲気である。車内には資料等が保存されているが、年に1~2回開催される一般公開時以外は立入できない。

今回は保存状況と過去の姿を報告したい。

 

モハ11+モワ51+キ116の3両が連結された状態で保存されており、欲を言えばモハ11とモワ51の間の連結器を切離し、間隔を空けて停めて欲しいところであるが、それは贅沢というもの。定期的にメンテナンスが実施されながら大切に保存されているだけでも感謝しなければならない。

以下、保存車両について簡単に解説する。

モハ11

営業開始に伴い昭和8年3月日本車輛で11~14の4両が新製され、昭和10年に15が増備された。13m級の小型車両であったが、昭和38年から44年にかけて現在の17m級の大型車体に乗せ換えられた。11は昭和41年12月、12は43年12月、13は42年12月(モハ20形21に形式変更)、14は38年12月、15は昭和44年12月(新造名義でモハ24形25に形式変更)に実施されている。

 

モハ11+クハ40 (昭和43年8月30日) 県庁前

【参考】クハ40

気になる後部のクハ40は、元東武のデハ2形9(大正14年日本車輌製)が前身である。昭和23年5月東武鉄道よりモハ63形割当による供出車として転入しモハ18となった。昭和42年に電装解除してクハ40となり、更に昭和45年に元小田急デハ1411の車体と乗せ換えてクハ50となった。

車体乗せ換え前のモハ11の良い写真がないので同形のモハ12で代用する。

 

モハ12+クハ33 (昭和43年8月30日) 燕

【参考】クハ33

後部のクハ33は、元神中鉄道のキハ31(昭和11年日本車輌製)が前身で昭和18年に転入した。昭和39年頃、台車を気動車用アーチバー台車から電車用のTR23類似台車に履き替えた。(当時のRF誌に台車取替えの記事が掲載されていたので、お持ちの方はご確認いただきたい)

 

モワ51

開業時、昭和8年に日本車輌で作られた電動貨車で、昭和57年7月貨物営業を廃止するまでは、冬季のラッセル車の推進の他に機関車代用として貨車を牽引していた。

(昭和43年8月30日) 東関屋

キ116

昭和7年大宮工場製で昭和43年に入線した。運転台にはマスコンが取り付けられ、モワ51と連結した時に制御車として機能するようになっていたので正しくは「クキ」と称するべきであろう。   

本来であれば全部の車両ガイドをするべき処であるが、今回は時間の関係上ここまでにして、続きは後日ということにさせていただきたい。

【参考】当時新潟市内でよく見られたキャブオーバーのバス

(昭和43年8月30日) 県庁前

東野鉄道キハ20の模型によせて

DRFC関東連絡網で犬伏氏が東野鉄道キハ20の模型を披露されたが、実物の資料が少ない中で、よく完成されたと思う。

東野鉄道は大正7年4月17日西那須野~黒羽間13.1キロを開業し、大正13年12月6日黒羽~那須小川間11.3キロを開業、更には水郡線の常陸大子まで延長する計画であったが、この区間は当初から乗客が少なく昭和14年6月1日に早々と廃止された。昭和43年12月6日西那須野~黒羽間を廃止し、社名を「東野交通」に改めた。宇都宮市と周辺地域を結ぶ路線を主体に、黒磯駅・那須塩原駅と那須温泉等を結ぶバス路線を運行しているが、ご多分に洩れずマイカーの増加により廃止された路線も多い。鉄道を利用すると大幅に迂回となる宇都宮~真岡・宇都宮~益子間と観光地を走る黒磯~那須温泉・那須岳ロープウェイ、黒磯~板室温泉等は比較的乗客が多いが、かつて頻繁に運行されていた宇都宮~烏山間、宇都宮~大田原間は廃止されている。鉄道の代替路線とも言うべき西那須野~黒羽間は1日7往復運行されている。また、那須山麓駅と那須頂上駅間を結ぶ全長812mのロープウェイを経営している。那須山麓駅は那須岳(茶臼岳)の7合目で、バスはここまで上がってくる。那須山頂駅は9合目に位置し、標高1915mの頂上までは足場の悪い登山道を1時間弱登らなければならない。山頂付近では今も盛んに蒸気と火山ガスが上がっており、活火山の様子を目の当たりに実感できるので、訪れる機会があれば是非山頂まで足を運んでいただきたい。

東野鉄道は現役時代昭和42年3月25日に1度だけ訪れており、その時撮影した画像をお目にかけたい。犬伏氏が製作されたキハ20はエンジンを降ろしてトレーラー化されハ31となっていた。東京に来てからは5度ばかり廃線跡を訪ねている。かつての黒羽駅舎はバスの事務所として使用され、室内には鉄道時代の写真が何枚か飾られていたが、今は取り壊されてスーパーマーケットが建てられている。

DC202

昭和36年5月津軽鉄道から譲り受けた昭和27年4月新潟鉄工所製の箱型機関車である。割に有名な機関車で模型での製品化もされている。僚機のDC201も昭和39年に東野入りし、2両が交替で貨物列車を牽引していた。

 

キハ501

昭和11年新潟鉄工所製で、ご覧のようにキハ41000形にキハ42000形の顔を取り付けたスタイルをしており、こちらも割合有名な車両である。JR五日市線の前身五日市鉄道キハ500形キハ501として誕生した車両である。五日市鉄道は昭和15年10月3日JR南武線の前身南武鉄道と合併、昭和19年4月1日戦時買収で国有化され、鉄道省五日市線となったが、所有者が代わっても改番されることなく一環してキハ501を名乗った。昭和24年9月に廃車後、東野鉄道に売却され、鉄道廃止まで活躍した。

 

五日市鉄道キハ500形のもう1両のキハ502は、昭和22年1月に廃車されたが、茨城交通に売却され、茨城線(赤塚~御前山間)で使用され、昭和46年2月11日同線の廃止により廃車となった。こちらは茨城交通売却後、称号が「キハ」が「ケハ」(ケは軽油の意味)となったが車号は一環して502を名乗っていた。

【参考】茨城交通茨城線ケハ502 上水戸(昭和45年3月14日)

 

キハ502

元国鉄キハ41008が前身、昭和8年日本車輛製。昭和24年9月国鉄時代に房総東線(現外房線)勝浦での事故による廃車後入線した。廃止後茨城交通に売却され、ケハ46となったが、昭和46年にエンジンを降ろしてハフ46となり、昭和55年に廃車となった。

【参考】茨城交通湊線ケハ46 那珂湊(昭和45年3月14日)

 

キハ503

元国鉄キハ048が前身、昭和8年新潟鐵工所製。キハ41020→キハ41202→キハ41302→キハ048と改番、昭和33年2月10日桐生区で廃車後入線した。

 

ハ30

元常総鉄道キハ13が前身、昭和5年日本車輛製で車体は極めて頑丈に作られていた。小さすぎて使い物にならなかったためか、早くも4年後に廃車となり東野鉄道に入線した。昭和23年にエンジンを下ろして客車化されハ30となった。

 

ハ31

犬伏氏が作られたキハ20の客車化後の姿である。昭和11年日本車輛でキハ20として新製。昭和39年にエンジンを下ろしてハ31となった。

 

ハ32・33

昭和4年日本車輛でキハ10・11として新製。昭和39年にエンジンを下ろしてハ32・ハ33となった。

 

今も残る大田原~中田原間のトンネル(平成3年12月1日)

 

黒羽駅跡に駐車中の鉄道代替バス 元神奈中(平成3年12月1日)

都電8800形増備

8800形の増備車8803~8805の3両が2月上旬に搬入され、3月中旬より営業運転を開始した。メーカーは昨年新製された8801・8802と同様アルナ車両で仕様も同じである。2両の頃は中々見られなかったが、さすがに5両になると日常的に見ることができる。今回の増備により、7500形の7501・7516・7518が廃車された。

 

8803/上22年5月8日飛鳥山  下22年4月3日 荒川2丁目~荒川区役所前

 

8804/上22年5月1日荒川車庫前  下22年4月3日 荒川7丁目~町屋駅前

 

8805/22年5月1日荒川車庫前 

他形式の動向

9000形

9001は平成19年3月、9002は平成20年12月に新製されたレトロ調車両である。貸切運転時に指名がかかることが多い。

 

9001 21年6月10日 荒川7丁目~町屋駅前

 

9002 22年5月8日 新庚申塚

8500形

平成2年にトップナンバーの8501、平成4年に8502・8503、平成5年に8504・8505が新製された。いつまでも新車と思っていたら、既に20年近く経過している。昨年になって8503と8505にラッピング広告が貼られた。スポンサーはご覧のように警視庁で、広告を見てドキッとされた方もおられるのではないだろうか。

 

8501 22年5月1日荒川車庫前

 

8503 上22年3月20日 飛鳥山 中22年4月3日 荒川2丁目~荒川区役所前 下22年5月8日 庚申塚~巣鴨新田 

 

8505 上21年12月30日 荒川車庫前 中22年4月3日 荒川2丁目~荒川区役所前 下22年5月8日 飛鳥山~滝野川1丁目

7500形

昨年新車との代替で7503・7513・7515の3両が廃車になり、更に今年の3月前述の3両が廃車になったため、現役で残っているのは7505・7510・7511・7512・7520の5両となった。この5両も今年8800形が5両増備されると廃車になる予定である。ラッピング広告がないのは7511のみである。

 

7511 22年3月20日 飛鳥山 

 

7512 22年5月8日 西ケ原4丁目~滝野川1丁目

 

7520 22年4月3日 荒川2丁目~荒川区役所前

7000形

7001~7005・7007・7008・7010・7013.7015・7016・7018・7019・7022~7027・7029~7031の22両が健在で主力として活躍している。廃車になった車両の内7009・7028は平成4年、7017・7021は平成12年豊橋鉄道に譲渡された。7022は黄色に青帯のリバイバル塗装車になっている。

 

7002 22年5月1日荒川車庫前

 

7022 22年5月1日荒川車庫

 

7005 22年5月8日 西ケ原4丁目~滝野川1丁目

保存車6086

最近塗替えが行われて綺麗な姿になった。京福電鉄福井支社の事故が原因で廃車になり、荒川遊園地に保存されている6152と共に現役に復帰できないものだろうか。現在荒川車庫の最も公道寄りに留置されており容易に見ることができる。

その他

荒川線と阪堺電車がPRの相互乗入れが行われることになり、7500形1両を阪堺線の旧塗装に塗替え6月6日から運行されることになった。また、阪堺線でもモ501形が1両黄色に赤帯の都電の旧塗装になる予定である。両線の活性化を目指した以降の展開に期待したい。

銚子電鉄デハ1001、1002の連結器

長老よりご質問の連結器の件をもう少し詳しく解説したい。

コメント欄でも書き込みした通り、デハ1001、1002は営団地下鉄時代からトムリンソン式密着連結器を装備しているが、ツアー客の増加等により、自連を装備しているデハ701、702(引退済)、801との連結に対応するため、密着連結器の頭にアダプターとして中間連結器を取り付けている。

 

上/デハ1001の外川向き、中/同車の銚子向き、下/連結器の拡大画像

 

上/デハ1002の外川向き、下/同車の銚子向き

画像でお判りいただけると思うがナックル部分が固定のため、自連とは連結できるが、中間連結器同志の連結はできない。 

実際の連結状態の画像は、銚子電鉄のものがないため、旧国鉄時代のもので代用する。少々古いが、クハ47とワ23814の連結状態である。(昭和41年3月10日、移転前の富士電車区で撮影)

 

銚子電鉄の2連は、昨年8月12日付けの書込み「銚子電鉄を訪ねて(1)」に画像を掲載した「デハ701+702」以外乗車したことがなく、旧形車が引退するまでにデハ1001、1002と701、801の新性能車+吊掛車の協調運転に乗車したいと思っている。諸般の事情で果たしてその機会があるかどうかは極めて疑問あるが、元近江鉄道モハ51のデハ701には是非乗車したいと思っている。

銚子電鉄近況

4月10日(土曜日)銚子電鉄を訪れたので近況等をお知らせする。事前に鉄子色のデハ1002が検査中で旧形が走っているとの情報を得ていたが、銚子駅にはそのデハ1002が停まっていた。運転士氏に尋ねたところ今日から復帰した。客が増えれば、デハ701を増結に使うかもしれないとのことであった。

今回は成田で113系の成田空港行を駅撮りするため成田線回りで行くことにして、最寄り駅6時59分発の電車で出発した。松戸、我孫子とタイミングよく乗換え、成田に8時10分に到着し、113系8連の8時13分発成田空港行の発車を撮影した。この電車も近々京浜東北線から来た209系に置換えられてしまうのであろう。8時18分発銚子行は113系4連であった。下総神崎で「あやめ4号」と交換したが乗客は疎らであった。そもそも鹿島神宮~東京間は10~20分間隔で高速バスが頻発しており勝負にならない。その高速バスでさえ、公共交通機関を無視した「高速道路1000円」の愚策の影響により乗客が減少していると言われている。銚子には9時48分に到着し、すぐ接続の9時50分発の外川行の電車(デハ1002)に乗車した。

 

成田駅を発車する成田空港行1431M

 

成田~銚子間を乗車した2433M/下総神崎駅で特急「あやめ4号」と交換待ち 

外川駅の留置線にはグリーン塗装のデハ2001+クハ2501が停められており、パンタを上げれば直ぐにでも走りそうな雰囲気であった。また、奥の方には1月23日にさよなら運転を行ったデハ702がユ101と連結されて停められていた。デハ702は一時期ネットで売りに出されていたが、買い手はついたのだろうか。これらの車両を撮影後、次の電車で君ガ浜まで戻り、海鹿島との間で約1時間撮影して本銚子に移動した。観光協会のおばさんが乗車しており、沿線のガイドと共に「この電車は東京メトロさんから譲り受けました」と説明していた。「東京メトロとちゃいまっせ。営団地下鉄でっせ」と突っ込みを入れる客がいないか心配したが、そのようなことはなかった。その後、仲ノ町車庫、笠上黒生駅の交換風景を撮影後、211系5連のロングシート車で来た道を戻った。

 

外川に留置されているデハ702+ユ101 

新車について

デハ2001+クハ2501は外川駅に留置されているが、終電後に試運転を行っているようである。デハ2002+クハ2502も整備が完了し、パンタを上げて仲ノ町車庫に留置されていた。塗装はアイボリー一色で、東武熊谷線キハ2000形のような感じである。諸般の事情で営業運転の開始が遅れているが、4月28日に笠上黒生駅のホーム伸延工事が完成すると営業運転に入るのではないかと思われる。

 

外川駅に留置されているデハ2001+クハ2501

 

整備が完了して仲ノ町車庫で待機中のデハ2002+クハ2502

 

ホームの伸延工事が行われている笠上黒生駅、完成は4月28日の予定である。

旧形車について

デハ1001、1002、701、801の4両が稼働しており、通常はデハ1001、1002が使用され、ツアーの団体客等で客が多ければデハ701、801が増結される。1001、1002のいずれかが検査等に入った場合は801が使用されることが多いようである。10日から12日にかけて、20年に1度の「銚子大神幸祭」が開催され、11日の祭りのメイン会場が外川であったため、朝から夕方まで全列車2連(デハ701+デハ1001・デハ801+デハ1002)で運転された。ちなみに訪れた10日のメイン会場は、成田線の下総豊里駅と総武本線と成田線が分岐する松岸駅付近であった。事前に情報をキャッチしていれば、1日ずらして11日に訪れたのに残念であった。

デハ701と801は「ラストラン」のシールが貼られており、ゴールデンウィーク期間中に「ラストラン」が実施されるのではないかと思われる。デハ1001、1002は新車稼働後も引き続き使用されるが、夏季を中心に稼働日は減少すると思われる。しかし、団体客がない時は単行でも十分まかなえるため、冷房が必要でない時期を中心に使用されるものと思われる。

 

ラストランのシールがついたデハ701

 

デハ801のラストランシール

 

キャベツ畑を走るデハ1001/君ヶ浜~海鹿島間

 

犬吠埼灯台をバックに走るデハ1002/君ヶ浜~海鹿島間

 

本銚子~笠上黒生間の切り通しを走るデハ1001

ダイヤ改正について

3月13日のJRのダイヤ改正に合わせて当線でも実施された。それにより早朝、深夜を除き、銚子、外川発が毎時20分、50分に統一され、非常にわかりやすくなった。笠上黒生駅での列車交換は、従来通り外川行が先着する。

 

その他

デハ701は昭和53年に近江鉄道から入線以来32年間、デハ801は昭和61年に伊予鉄道から入線以来24年に亘り活躍を続けたが遂に引退の時期を迎えた。特にデハ701は近江鉄道縁の車両であり、近江鉄道時代に乗車、撮影された方もおられるのではないだろうか。

 

デハ701の近江鉄道時代/上 昭和40年1月6日彦根、 下昭和47年9月9日貴生川(モユニの代わりに郵便車として使用されている)

鉄道の車庫は基本的に部外者立入禁止で、見学は年1回の一般公開時以外は不可能であるが、有難いことに仲ノ町の車庫は入場券を購入すれば見学が可能である。

2月26日から27日にかけて583系が両国~銚子間を団体臨時列車で運転され、撮影に行かれた方もおられると思われるが、銚子電鉄でも記念入場券を発売中である。仲ノ町駅で購入すれば、車庫見学も可能である。

見学、撮影に行かれた時は、記念乗車券、家族へのお土産に濡れ煎餅、観音駅の鯛焼き等を購入して、わずかでも収入に貢献していただきたいと思う。

 

仲ノ町駅の入場券

 

時々デザインが変更されている一日乗車券

黒部上部軌道

                                                                                                                                     山の中に建設された黒部川第4発電所を発車して黒部川本流の鉄橋の手前を通過。休憩中にいきなり列車が顔を出したのでシャッターのタイミングが遅れてしまった。鉄橋の渡った先が有名な高熱隧道である。

2004年11月3日付で旧掲示板【285】に澤村達也氏が小林純爾氏とご一緒に黒部上部軌道を見学された時のレポートを「高熱隧道」のタイトルで発表された。

登山の写真を整理していたところ、昭和56年9月23日、黒部ダムから黒部川に沿って「下ノ廊下」を欅平まで歩いた時に撮影した「上部軌道」の写真が出てきたのでご覧いただきたい。 

旧掲示板【167】と重複する部分もあるが、京都から前夜の「ちくま」で出発し、松本で大糸線に乗換え信濃大町で下車。扇沢まで「北アルプス交通」の路線バス(松本電鉄と川中島バスの共同運行)に乗車した。扇沢から黒部ダムまでのトロリーバスは8両の続行運転であったが満員であった。ダム到着後、乗客の大部分は黒部ダム方面の出口に向かうが、何名かの登山客は「下ノ廊下」方面の出口へ。そこには係員が登山届と各人の行き先と装備のチェック等を行っていた。「阿曽原の小屋で宿泊して欅平に行く」と答えると、「前の2人連れと一緒に行ってくれ」と言われた。途中に危険箇所が何カ所もあり、単独行の場合万一の時のためである。ここで滑洛した場合は絶対助からないし、遺体の収容すら困難である。前の2人連れは、山慣れした20代前半のアベックで、一緒に歩く訳には行かないので少し離れて後ろを歩いた。黒部川の断崖絶壁沿いに危うく取付けられた道は、一歩足を踏み外せば絶対に助からない。何カ所かの難所を無事通過して、十字峡で昼食にした。ここは、黒部川本流と剣沢、棒小屋沢が十字になって合流する所である。更に進むと、山の中に建設された黒部川第4(通称黒四)発電所の送電線の出口が見え、本流を吊橋で渡り少し行くと、仙人谷ダムに到着し、その向こうに上部軌道の線路が見えた。ここで休憩中に3両の客車を引いたバッテリー機関車がいきなりトンネルから顔を出し、欅平方面に結構なスピードで通過し、屋根付きの鉄橋を渡り、高熱隧道に吸い込まれて行った。(タイトルの画像)

ダムの堰堤を渡り、暫く行くと、仙人湯から池の平を経て剣岳方面に向かう雲切新道との分岐で、ここで仙人湯まで行くアベックと別れた。小屋に到着したのは午後2時半頃で一番乗りであった。夕食まですることがないので露天風呂に浸かったり、その辺をブラブラして過ごしたが、今から思うと、仙人谷ダムまで引き返してもう少し撮影すればよかったと思うが、朝から一歩間違えばあの世行きのような所を延々と6時間も歩いたため、とてもそんな気にはならなかったのであろう。

翌日は雨の中、朝6時に出発して、傘をさしながら水平歩道を約5時間歩き、11時頃欅平に到着した。昨日よりは危険度は少ないが、道幅は50㎝位で下まで200mはあろうかという相変わらず断崖絶壁沿いの道で、途中には真っ暗なトンネルが2ヶ所あった。

黒部峡谷鉄道で宇奈月に出て、富山地鉄で富山へ。折角の機会であるので富山地鉄を少しだけ撮影して急行「立山」で帰った。

現在は、鉄橋部分は冒頭の写真の箇所を含めて完全なシェルターで覆われてしまったようで、走行中の写真は無理なようである。それでも走行中を見たいと言われる方は、私までご連絡いただきたい。都合がつけばご案内する。但し、黒部ダム、欅平のいづれから歩いても最低6時間はかかり、それなりの登山経験が必要であるが、欅平からの方が危険は少ない。また、高所恐怖症の人は諦めること。途中の画像も貼りつけたので参考にしていただきたい。

 

下から見た黒部ダム

 

黒部川本流に沿って。右側のくぼみが登山道。

 

黒部川本流と剣沢、棒小屋沢が合流する十字峡。

 

この辺りの山の中に黒部川第4発電所がある。左が登山道。

 

黒部川第4発電所の送電線の出口。

黒部川本流を渡る登山道の吊り橋。

 

仙人谷ダム。昭和11年に着工して15年に完成した。資材運搬用のトンネル建設中に摂氏165度にも達する岩盤を掘削して完成した。

 

黒部川を渡る鉄橋。当時から屋根が付いていたが、現在はシェルターになっている。

 

宿泊した阿曽原小屋。小屋の営業期間は例年7月から10月下旬まで。先の鉄橋の写真共々人物の写っていないものがないので止むを得ずこれを使用した。顔の部分を修正しようと思ったが、今更修正してもしゃーないと思ったので、素顔のままにしておいた。

 

ED24/欅平 昭和55年日立製

 

ED28/欅平 昭和57年日立製

 

ED21/宇奈月 昭和49年日立製

 

ハフ1027/宇奈月

名古屋駅のDC今昔

tsurukame先輩より加太で撮影されたDCの貴重なカラー画像が公開されたが、団塊の世代以前の方は非常に懐かしく思われたであろう。当時「カラー」は贅沢という思いが強く、モノクロでしか撮影しておらず、今から考えると、もう一寸お金をかけてカラーで撮っておけばと後悔することしきりである。まあ、モノクロでも「撮ってないよりマシ」と思って諦めざるを得ない。

画像を拝見すると通勤型のキハ35が幅を利かせていることに気付かれると思う。所謂一般形のDCの流れを見ると、キハ17系に代わり、昭和32年から41年にかけてキハ20系が新製され、キハ17系と比較すると車体の大型化とアコモデーションの向上が図られた。ちなみに今回大糸線から引退したキハ52は115と125が昭和40年製、156が昭和41年製で半世紀近く活躍したことになる。また、現役のひたちなか海浜鉄道のキハ205は元キハ20522で昭和40年製である。

関西線の湊町~奈良間の増発と快速運転開始時に、通勤型のキハ35系が昭和36年から41年にかけて新製され、大都市近郊を中心に投入されたが、関西線の奈良~亀山間のように、不適切と思われるような線区にも投入された。私自身、昭和41年3月、新見~津山間で乗車した時は、小雪の舞う非常に寒い日で、停車駅毎に扉が全開し、停車時間の長い交換駅では、車掌が乗客が来るたびに扉の開閉を行っていた。津山でC11の引く姫路行に乗換えた時には本当に暖かく感じた。キハ30が62・98・100の3両が久留里線に健在で、夏ともなれば窓全開で運用に就いている。関東鉄道常総線には、旧キハ30・35・36が8両健在で、平日の朝ラッシュ時を中心に使用されている。

昭和41年から44年にかけて、キハ20系とキハ35系を折衷した近郊型のキハ45系が新製された。

注目は(3)の上から2番目、キハ17+キハ16の338Dで、時刻表を確認すると湊町10時35分発名古屋行(奈良まで快速)で名古屋まで約5時間かけて走行した。恐らく奈良まではキハ35が2両位増結されていたと思われる。

今回、昭和48年2月11日と昨年末の12月12日に名古屋駅で撮影した画像を比較を試みたのでご笑覧いただければ幸いである。

 

武豊線931Dキハ35118他5連/武豊線の一般型DCは美濃太田区の所属で、名古屋まで太多線・中央西線で営業運転をしながら送り込みがされた。

 

中央西線527D多治見行キハ26135他9連。(隣は643M高蔵寺行72系5連)/キハ26135+キハ25+キハ186+キハ26+キハ35×5

 

キハ186 車体断面が小さいキハ17系の中間車で、昭和29年製の第一次車である。車内はオールクロスシートであったが、背擦りが低く、後ろ座席の人と頭をぶつける可能性があった。また座席の生地はビニール製であった。

 

武豊線快速 キハ75-404他4連/転換クロスシートでワンマン対応車

 

快速「みえ」 キハ75-201+キハ75-301/鳥羽寄の前半分は指定席で別途指定席料金が必要である。

 

特急「くろしお」天王寺行 キハ811/名古屋~天王寺間を紀伊半島の海岸線に沿って7時間半で結んでいた。

 

【参考】特急「はつかり」昭和41年3月22日 仙台

 

特急「南紀」 /キハ85-6+キロハ84-2+キハ84-7+キハ85

 

特急「南紀」 キロハ84-2/.H生さんが「キロハ」についてコメントされているが「南紀」に連結されている。当初「ひだ」用として新製されたが、「南紀」の「キロ」とトレードされた。

 

特急「南紀」 キハ84-7

 

特急「ひだ」 キハ85-2 

キハ91系

昭和41年、従来のDMH17系エンジンに代わる大出力エンジンDMF15HZA(300PS)を搭載したキハ901とDML30HSA(500PS)を搭載したキハ911の2両が新製され、比較検討された結果、500PSのDML30HSAが新系列DC用エンジンとして制式採用された。

翌42年新エンジンを搭載した車両を営業運転に投入して長期的な性能試験を実施することになり、キハ91形7両とキサロ90形3両が新製された。形式からも判る通り、一等車が付随車として誕生したことは特筆される。

当初は房総西線(現在の内房線)でテスト後名古屋機関区に転属。昭和41年11月25日より急行「しなの」に使用。昭和43年10月1日特急に格上げ後は、急行「きそ」に使用。昭和48年7月10日電車化後は、高山線の急行「のりくら」に転用され、昭和51年9月3日まで使用され、昭和53年8月31日付で廃車された。キハ901は昭和46年3月31日付でエンジンをキハ91と同じものに換装して、キハ919に改番された。

キハ91形は僅か10年程度しか使用されなかったが、その技術はその後に新製されたキハ65形、キハ181系に生かされた。特にキハ181系とは混結可能であったようで、クローバー会会員の中に特急「しなの」でキハ181系の中間に連結されている写真を撮影された方がおられる。

 

キハ912他7連

 

キサロ901

 

キハ912

 

キハ919(←キハ901)

 

キハ901 昭和41年7月23日

キヤ97

平成19年12月に新製された定尺レール運搬車で、0番台が上り向き、100番台が下り向きの2両固定編成で4編成在籍する。エンジンはカミンズ製C-DMF14HZC型360PSを搭載しており、最高速度は空車時110㎞/h、レール運搬時95㎞/hである。

 

上 キヤ97-2  下 キヤ97-103

209系 京浜東北線から引退

京浜東北線・根岸線で運用されていた209系が1月24日限りで運用を離脱した。1週間前の1月17日から最後まで残る「ウラ52編成」に「ありがとう 京浜東北 根岸線209系1993-2009」と書かれたヘッドマークが取り付けられた。

私自身、新車で登場時から通勤でお世話になった電車であり、ヘッドマークだけでも記録に留めたいと思い、コンデジ持参で通勤したが、チャンスに恵まれなかった。最終日は予定があったのと混雑が予想されたので、前日の23日午前中時間が空いていたので出かけてみた。当日の運用は「CLUB103」の知人から「19A」に入る可能性が高いと聞いていたので、その時間帯に出掛けると、予想通り「19A」であった。

最初は横浜駅で撮影したが、この時点での同業者は8名位であった。東海道線で新橋まで先回りをして有楽町で撮影、ここは同業者ゼロであった。次の電車で南浦和に行き、折り返しで発車待ちを撮影。撮影者が増えてきたのは運用が判明したからであろう。最後の乗り納めで赤羽まで行き、高崎線の電車で上野に先回りをして撮影したが5名程であった。一旦本屋に立寄り再度有楽町に行くと5名程の人がいたが、殆どの人は500系が目的のようであった。最後は田端でヘッドマークを撮影して終りにした。

23日は比較的平穏であったが、最終日は運用が公開されたため大変な混雑であったとのことである。特に最終運用はフーリガンもどきが乗車し、車内は大変な騒ぎであったとのこと。列車は遅れたものの無事に運用を終了した。27日まで南浦和電車区で予備車として待機していたが、28日に東大宮操車場に疎開回送され、2月17日には長野総合車両センターに向けて廃車回送された

京浜東北線から姿を消した209系であるが、浦和電車区配置の0番台78編成の内68編成は4連×42本、6連×26本に改造の上、総武本線(千葉~銚子間)、成田、内房、外房、東金の各線で運用されている113系250両、211系70両、計320両を置換える予定となっている。既に改造されて運用に入っている編成もあるが、改造待ちで尾久車両センター、両毛線下新田、高崎線深谷駅等に留置されている車両が多数存在する。編成が短縮されるため中間車はすべて解体され、特に6扉車は全滅する。また、クハはセミクロスシートに改造、中間のモハ1両にトイレが設置される。

思えば、上記の各線が電化された時、東京、大阪から4扉の72系が転用された。その中には元モハ63、戦前製のサロハ46の4扉改造車も混じっており、トイレが無いこともあり、大変な不評で早々に113系に置き換えられた。今回の転属は、正に「歴史は繰返す」である。トイレが設置されたため、その方面の問題は解決されているが、車内のアコモデーションは113系の方が格段に上である。209系は元々寿命半分で製作された車両、果たしてどの程度使用されるのか注目したいところである。

また、209系に置き換えられた211系で三鷹区の115系を置換える計画もあり、実施されれば、中央東線のローカルは相当本数がロングシート化されることになる。

 

横浜駅に進入する52編成

←大宮 クハ209-53+サハ209-183+モハ209-105+モハ208-105+サハ208-52+サハ209-2+サハ209-134+モハ209-106+モハ208-106+クハ208-53

 

有楽町駅発車

 

大宮寄り先頭のクハ209-53

 

9号車 サハ209-183

 

6号車は6扉車 サハ208-52

 

5号車 サハ209-2

 

上野駅到着 先頭車はクハ208-53

 

上野駅発車(後追い)

 

有楽町駅通過(後追い)

 

ポスター

 

6扉車乗車位置

Re. ニュースから2題/西日本車体工業8月末日会社解散

..生さんが投稿された【6628】で、堺市が殆ど決まりかけていたLRTの導入を断念したことと、西日本車体工業が8月末日をもって会社解散のニュースを拝読した。

関東地方でも宇都宮市においてJR宇都宮駅東口~清原工業団地間にLRT導入の計画があり、昨年の選挙では知事、市長ともに推進派が勝利したが「税金の無駄使い」「そんなもん作って誰が乗るねん」という意見が根強くあるため、実現の可能性は微妙な情勢である。また、路線バスを運行している関東自動車も乗客を取られる立場から反対しており、中量輸送機関が必要であれば「連接バス」の方が良いという意見もある。確かに需要予測が極めて過大、かつ成人1人当たり1台以上マイカーを保有しているような土地柄、しかも工業団地への通勤者の9割以上がマイカー通勤といった現状では、反対派でなくても、導入に対して疑問を持たざるを得ない部分が多々ある。

堺市の場合は、幹線である南海本線・高野線と阪堺線・上町線の沿線を結ぶネットワークとしての機能を充分に果たせると思う。都電荒川線が好調な理由は、三ノ輪橋、町屋駅前、熊野前、王子駅前、新庚申塚、大塚駅前、東池袋4丁目、鬼子母神前の各停留所で幹線系の鉄道と接続しており、そのフィーダー輸送としての役割を果たしているためと、160円の運賃が適正と認識されているからであると思われる。東急世田谷線も同様のことが言えるであろう。

西日本車体工業(以下西工と略す)の8月末日会社解散のニュースはショックであった。ご承知の通り「西工」は「西鉄」の連結子会社で、平成4年に日産ディーゼル指定のボディー架装メーカーの指定を受けると、今までの西日本中心の販売から全国展開となり、関東地方でも、東京都営、横浜市営、京王バス、東急バス等で日常的に見られるようになった。

我々の世代で「西工」といえば、昭和41年2月にモデルチェンジした、H..生さんも書かれている「正面窓付近の逆『く』の字形のデザイン」(通称「かまぼこ形」)を思い出すが、それ以前の車体も全体的に丸味を帯びており、他社の車体とは一線を隔していた。余談になるが、某ミュージック劇場の宣伝カーに使われていた車体の前後共に丸味を帯びていたマイクロバスも「西工」製であった。

昭和53年10月のモデルチェンジは、基本構造は「かまぼこ形」を踏襲するも全面のプレスを変更して、逆『く』の字の角度が浅くなった。(通称「はんぺん形」)

昭和58年10月にフルモデルチェンジが行われ、車体がスケルトン構造となり、丸味がなくなった。以上が路線車の車体の大凡の変遷である。

スケルトン車体以前、モノコック車体時代のユーザーの東限は、近江鉄道辺りと思われているようであるが、実際はもっと東で、昭和28年に旭川市の「近藤バス」に納入実績ある。これは例外としても、近江鉄道に「かまぼこ形」が近江八幡、彦根、長浜の各営業所に配置され、彦根営業所の車両は名古屋近鉄バスと相互乗入れで彦根~大垣間、長浜営業所の車両は木ノ本~敦賀間で使用され、岐阜県、福井県まで足を伸ばしていた。「かまぼこ形」以前の「丸形」は仙台市交通局にまとまった両数が納入されている。また、群馬県の上信電鉄と群馬中央バスに納入されており、これらを初めて見た時には「何だ、これは」と思った。群馬中央バスは昭和61年頃まで生き残り、最後は競輪場の観客輸送に使用されていた。静岡鉄道に「かまぼこ形」がまとまった両数が納入され、東海道線安倍川鉄橋の前後で車窓からよく見られた。

関西では、ユーザーにより「好き嫌い」があったようで、京都市交通局や大阪市交通局、阪急バス等では好んで導入されていたが、京阪バスは「丸形」1両、「かまぼこ形」が4両納入されたのみである。京阪グループでは、江若交通に「かまぼこ形」が6両納入され、安曇川営業所に配置、若江本線にも使用され小浜まで足を伸ばしてした。福井の京福電鉄に「かまぼこ形」が1両いたが、自家用中古車を改造したものである。(京福電鉄のバス部門は子会社の「丸岡バス」に売却して、「丸岡バス」が「京福バス」に社名変更している)岩手県交通に「かまぼこ形」の自家用中古改造車が1両いた。

昭和60年頃まで、地元の京成電鉄バス、新京成電鉄バスに相当数の「かまぼこ形」が見られたが、京成自動車工業が西工のライセンス製造したものである。ところが「NSKボディー」の銘板を付けた車両もあり、実態を調べようと思っていたが廃車されてしまった。

スケルトン車体になってからは新車の他に、大阪市バスや阪急バス等の中古車が広範囲に存在するが、あまりバスの話をすると「この人何者」と思われるのでこの辺で止めておきたい。

会社解散により、正社員290名は、他の西鉄グループの会社に転籍されるであろうが、派遣社員、契約社員等の非正規雇用の人は現契約期間満了と同時に失職することになると思われる。また、下請業者まで含めると影響は計り知れない。今回の最大要因は「日産ディーゼル」と「三菱ふそう」の合弁会社設立により、バス車体の生産を「三菱ふそうバス製造(MFBM)」に集約するというバス業界の再編成によるものであるが、昭和21年10月以降65年に亘る歴史が消え去り、何年か後には「西工」で作られたバスそのものが姿を消してしまうことになると思うと、誠に寂しい限りである。

モノコック車体時代の印象に残っている車両を画像と共に紹介する。

丸形車体

 

京都市バスのツーマン車/40年式BR20(中書島のターンテーブル)

 

42年式BR20(北野線代替バス)

 

仙台市バス/39年式MR470(仙台駅前で初めて見た時、不思議な感じがした)

 

群馬中央バス/45年式RB120 初年度登録が年式となるため45年式となっているが、41年製のサンプルカーを購入したもの。丸形としては最末期の車両である。

 

宮崎交通/39年式RC100P 初期の冷房車で冷房機が天井に付いている。

かまぼこ形

 

かまぼこ形の初期車/44年式BA30(伏見線代替バス)

 

ワン・ツーマン兼用車/48年式BU04(中書島のターンテーブル)

 

定期観光バス/49年式MR470(形式からも判るようにエアサスではない)

 

改造冷房車/51年式RE100/市電錦林車庫廃止時の導入された低床車で、この1両のみ試験的に冷房改造した。

 

京福電鉄福井支社/43年式MR410(元自家用の送迎車に中扉を設置して路線車に改造した)

 

近江鉄道/44年式RE120

 

江若交通/46年式BU05

 

尼崎市バス/44年式RE100(かまぼこ形の初期車であるが、上下共にサッシ窓のため新しく見える)

 

京都交通の急行用車/47年式B805L(冷暖房・リクライニングシート付で、山陰線電化前、祇園~園部間を東舞鶴・天橋立系統と合わせて15分間隔で運行されていた。福知山、夜久野行もあり、ダイヤ通り走ると普通列車より早く、丹波と京都市内中心部を直結する交通機関として多くの人に利用されていた)

 

京成電鉄/上:43年式BA30・下:44年式BU10(西工のライセンス製造の京成車体工業製である。「西工」の銘板が付いていた車両もあったが、会社の諸元表は全車「京成車体工業」と記載されており、実体を調べ損ねた。転居当初、身近に「西工」が存在したことは心強かったが程なく姿を消してしまった。

はんぺん型

 

京都市交通局/54年式RE121

 

京都市交通局/57年式K-MP118K

 

熊本バス/56年式K-MP107K(熊本バスの前身は熊延鉄道である)

 

熊本電鉄/57年式K-MP118M

 

 

 

 

 

 

 

 

上毛電鉄「新春イベント2010」

総本家・青信号特派員さんが1月10日から14日にかけて6回に亘り「新春から鉄道写真三昧」のタイトルで正月期間中の活動報告をされた。私は年末の28日に「銚子電鉄」、29日に「ひたちなか海浜鉄道」に出かけたこともあって、元旦と2日は自宅でおとなしくして、3日に「上毛電鉄」を訪れた。当日、上毛電鉄は「新春イベント2010」が開催され、群馬県近代化遺産に登録されているデハ101の臨電の運転、昨年東急から入線したデキ3021が大胡電車庫内での運転が実施された。

 上毛電鉄の前に伊勢崎の華蔵寺遊園地に保存されているC6120を見学した。年末に高崎での仕事帰りに行ったのであるが、閉園間際で夜景しか撮れなかったためである。

高崎駅で両毛線小山行(441M)に乗換待ちの間に、信越線横川行(127M)クモハ107-110+クハ106-110を撮影し、これが今年の撮り初めとなった。伊勢崎到着後急ぎ足で華蔵寺遊園地へ。駅から約3キロあるため30分かかり、9時30分開園直後に到着した。既に10人位の人が撮影しており、その後も続々と撮影者が来園してきた。20分程で見学と撮影を切上げ、前橋までバックして上毛電鉄の中央前橋駅へ。JRの前橋駅から約1キロ離れており、レトロ調のシャトルバスが運賃100円で結んでいる。乗車予定の電車まで少し時間があるので駅の直ぐ横の踏切で到着電車の撮影をしたが、既に三脚が数台並んでいた。撮影後、電車に乗り4つ目の上泉で下車して桐生寄りの踏切でデハ101を撮影した。次の電車で大胡に行くと、車庫内ではパンタを上げたデキ3021と、デハ104が停車していた。暫くすると前橋方面からデハ101が戻ってきて3両並びとなった。その他にも元銚子電鉄デハ101が履いていた雨宮製の台車、東武伊勢崎線の急行に使用されていた行先板等が展示され充実した内容であった。

今年の撮り初め クモハ107-110+クハ106-110

 

華蔵寺遊園地のC6120

12月の初めの地元の新聞には1月8日搬出と書かれていたが、実際には1月19日に搬出された。12月16日から1月4日まではキャブ内が一般公開された。

 デキ3021+元東武鉄道テ241

 

昨年10月に東急から入線後、整備が続けられて自走できるまでになった。貨車は昭和3年日本車輌製で、野田線七光台検修区の非常用機材倉庫として使用されていた。

 デハ101

開業時に昭和3年川崎車輌で新製された車両で、現役の営業車としては最も古いと云われている。)この日は、臨時電車として大胡→西桐生→中央前橋→大胡と営業運転された。1往復9万円で貸切運転ができるため、結構走っているようである。

 

上泉~赤坂間(真横から狙えばバックに赤城山が綺麗に入るが、人が多かったため踏切から撮影した。

デハ104

 

平成9年に廃車されたが解体されずに残されている。デハ101が1両しかなく多人数の団体に対応できないため、復活を期待したいところである。電装品が老朽化して復活が難しければ、クハ化してデハ101とMT編成を組んでも良いと思う。

 デハ711+クハ721

 

上は中央前橋駅直ぐ横の踏切から手軽に撮影できるので、時間の無い時におススメである。下は大胡

東武鉄道で使用されていたヘッドマーク

 

ヘッドマークからも判る通り、浅草~中央前橋間を直通運転していた時期があった

台車

 

銚子電鉄デハ101が履いていた台車で、762mmから1067mmに改造した痕跡がはっきり残っていた。

 

東武鉄道クハ701が履いていたKS105

25年前の新春鉄道写真三昧

【6240】で総本家青信号特派員さんが阪堺電車の初詣風景の素晴らしい画像と書き込みを拝見して、25年前の昭和61年の元旦、ほぼ同じ場所で撮影したことを思い出し、当時の画像を引っ張り出してみた。

昭和58年のゴールデンウィーク期間中に生活の拠点を東京都内東部の亀有に移し、急激な生活環境の変化と旧形国電、旧形客車が姿を消したこともあって、鉄道に対する情熱はすっかり冷え切っていた時期であったが、正月休みに帰省した時に何故か阪堺線の「改々電車」(205形)と元京都市電(251形)が見たくなって出掛けたものと思われる。「改々電車」と元京都市電が営業運転に就くのは、ラッシュ時と初詣輸送時くらいのため、関西在住の頃にまともな写真が撮れておらず、チャンスと思ったのかもしれない。そのため車両中心の画像であるが、満員の乗客で当時を偲んでいただければと思う。

モ205形

旧阪堺電気軌道が開業時に新製した木製車を昭和12年から22年にかけて鋼体化した車両で、205~250の46両在籍した。最後はワンマン化されなかった平野線で使用されていたが、昭和55年11月27日、地下鉄谷町線が八尾南まで延長に伴い、平野線が廃止された時に246~248の3両が中扉を新設してワンマン化され生き残り、主にラッシュ時と正月に使用された。改造を重ねているため「改々電車」と言われた。(怪々電車と言う人もいた)

モ251形

元京都市電の1800形(ワンマン改造前は800形)で251~256の6両が在籍した。京都市電時代の旧番は車号順に1844、1866~1870である。複雑な改番を行った600形→1600形と違い、800形時代の車号に単純に1000をプラスしただけである。転入当初は日常的に使用されたが、パワー不足でスピードが出ないため多客時以外は使用されなかった。廃車後は256(元1870←870)が京都時代の塗装で我孫子道車庫に保存され、一般公開時に見ることができる。また、255(1869→869)はアメリカアリゾナ州の博物館(オールド・プエブロ・トロリー)に譲渡され、869時代の前後扉に復元の上動態保存されている。

251/元1844←844で、251形の内この車のみ昭和25年近畿車輛製である。844時代は九条車庫の配置にされ、伏見線でよく乗った思い出深い車である。窓枠は昭和30年代後半にアルミサッシに取替えられていた。

 

252/元1866←866で、昭和28年愛知富士産業製、このグループが5両全車転入した。ツーマン時代は間接自動制御で烏丸車庫に配置され、通学時によく乗った車両である。車体は半鋼製であったが、内装は木目プリントの軽金属板が使用されていた。866は、600形を1600形への改造にあたりテストカーとして、ヘッドライトのシールドビーム化(但し1灯)自動昇降式ビューゲルの取付け、車内外スピーカーの取付け、直接制御化が行われた。

 

254/元1868←868で、昭和28年愛知富士産業製。867~870はワンマン改造時に直接制御となった。

 

255/元1869←869で、昭和28年愛知富士産業製。廃車後アリゾナ州の博物館(オールド・プエブロ・トロリー)に譲渡され動態保存されている。869時代の前後扉に復元されているが、ヘッドライトが窓下に移動、集電装置が阪堺時代のパンタのままと原形とは多少異なるがよく残ったと思う。

 

256/元1870←870で、昭和28年愛知富士産業製。現役時代は「タマノ井酢」の広告車であった。廃車後、京都時代の塗装に戻され動態保存されており、一般公開時に見ることができる。

モ121形

昭和42年に元大阪市電の1601形を譲受け、木製車モ101形の足回りを組合せて竣工した。121~130の10両在籍したが平成12年までに廃車となり、ラストナンバーの130が浜寺公園に保存されている。

 

モ151形

昭和2年川崎造船所兵庫工場製で電4形として10両作られた。モ161形、モ301形への改造により、最終的には151~154の4両となった。当初は直接制御であったが昭和35年に多段式間接制御に改造、昭和54年にワンマン化されたが平成13年までに廃車された。

 

モ161形

昭和3年161~170か川崎車輌で、昭和6年171~176が田中車輌と大阪鉄工所で作られた。当初から総括制御が可能な間接非自動制御で連結器を持ち、昭和26年まで平野線で連結運転を行っていた。現在も10両が健在で多客時を中心に使用されている。

 モ301形

モ151形とモ161形の戦災復旧車で301~307の7両在籍した。制御器は多段式間接制御で301形同士の連結運転は可能であったが、161形とは制御器の相違から不可能であった。

 

モ351形

木製車モ101形の主電動機を流用して昭和37年(351・352)と38年(353~355)に帝国車両で作られた。車体は昭和32年に新製されたモ501形とほぼ同じであるが車掌台の窓が異なる。主電動機を流用しているため釣掛式であるが、台車は空気バネの新品、主電動機も間接自動式の新品である。昭和61年から冷房化され、現在も全車健在である。

 

モ501形

昭和32年帝国車両で当時の最新鋭技術によって作られた高性能車で501~505の5両在籍した。昭和60年から冷房化され、現在も全車健在である。

 

 

 

この時点では505は未だ冷房化はされていない。

 

 

 

 

 

 

新年のご挨拶

クローバー会の皆様、明けましておめでとうございます。

現役の身ですので遠出はできませんが、「ご近所鉄」で近場のニュース等を書き込みしたいと思います。今年もよろしくお願いします。

Tsurukame先輩は西暦でしたので私は平成の年号にしました。

 

ここからはオマケです。

銚子電鉄速報

8月12日の【4060】「銚子電鉄を訪ねて(Ⅰ)」で、今年度中に伊予鉄道よりモハ820形+クハ850形2編成を購入することをお伝えしたが、10月30日松山を出港し、11月4日午前中に銚子港に陸揚げされ深夜に搬入された。車号はモハ822+クハ852、モハ823+クハ853である。その後の状況が気になり、12月28日現地に確認に行ったので、その時の状況をお知らせする。

銚子までは、通常は我孫子から成田線経由で行くが、今回は千葉以遠の総武本線、成田線、内房線、外房線、東金線で使用されている113系と211系を千葉駅で撮影するため、新松戸から武蔵野線西船橋経由にした。113系は元京浜東北線の209系との置換えが進行中で、211系も置換えの対象になっている。千葉駅で暫く撮影後、211系5連の9時4分発佐倉行(1335M)に乗車して、終点佐倉で乗ってきた電車を撮影後、後続の211系5連の銚子行(337M)に乗継ぎ、銚子には11時11分に到着した。千葉~銚子間81.3㌔が普通で2時間、特急でも1時間半かかるのはお世辞にも早いとは言えない。

銚子電鉄は元地下鉄銀座線のデハ1001が停車していた。年末のため観光客らしき乗客はわずかで、殆どが地元客で座席が半分位埋まる程度であった。取りあえずフリー切符を購入して外川まで行き、撮影しながら戻ることにした。次の仲ノ町では、元伊予鉄道モハ822+クハ852がグリーンに塗り替えられているのが確認できた。笠上黒生ではモハ823+クハ853が伊予鉄道時代のままで留置されていた。終点外川では特にみるべきものが無かったので、直ぐに折り返して犬吠で降り、昼食と駅周辺で撮影した。笠上黒生では交換風景と留置中のモハ823+クハ853を撮影。仲ノ町で降りて車庫の中に入ると、モハ822+クハ852はMGが稼動して車内照明が点灯しており試運転間近を思わせた。

帰りは久留里線のキハ37を撮影するため、成東から東金線で大網、外房線で蘇我と乗換えて木更津へ、目的のキハ37は1002が比較的良い位置に停まっていたが、すっかり日が暮れてしまい、結果は今一であった。

一連の改造工事がほぼ完了したと思われるモハ822+クハ852

 

MGが唸り車内照明が点灯。この日の深夜に外川に移動したと思われる。

笠上黒生に留置中のモハ823+クハ853

 

間もなく改造工事が始まると思われる。

笠上黒生駅

 

ローカル私鉄の時刻表としては標準的なものであったが今では珍しくなってきた。

塗装が変更されたデキ3

 

一部の雑誌には旧塗装に戻されたように記述されているが、全くの新塗装である。

デハ702

 

元近江鉄道のモハ52で、多客時の増結用となっている。ワンマン運転の設備を持たないため、早目に廃車されるかもしれない。

昨日「銚子電鉄を救えwiki」というHPを見ると、29日にモハ822+クハ852が外川駅で目撃されている。恐らく一連の改造工事が完了したので28日の終電後に移動したのであろう。年明けからは、笠上黒生に留置中のモハ823+クハ853の改造工事が始まり、次の「18シーズン」には2編成揃って稼動しているものと思われる。

 

 

東京メトロスマイルフェスタ‘09inAYASE

12月5日(土曜日)東京メトロ綾瀬車両基地で「東京メトロスマイルフェスタ‘09inAYASE」が開催された。綾瀬車両基地は北綾瀬駅から徒歩10分の場所にあり、千代田線の他に有楽町線、副都心線、南北線と埼玉高速鉄道の車両の検査を担当している。ちなみに自宅からは自転車で20分程のところである。

昨年までは、最寄り北綾瀬駅が狭いこと、綾瀬~北綾瀬間の電車が3両編成のため輸送力が小さいこと等により混乱を避けるため、事前応募による抽選で参加者数を制限していたが、今年は一部のイベント以外は自由参加であった。

イベント内容でファン向けのものとしては、南北線9000系第5次車、千代田線06系、副都心線10000系の並びの撮影会、日比谷線3000系保存車の車内見学、6000系の車体吊上げ実演、鉄道部品販売等があった。その他にも事前応募制で車両洗浄乗車体験、7000系運転台見学、保守車両運転台見学があった。以下当日の模様を画像で紹介する。

南北線9000系第5次車、千代田線06系、副都心線10000系の並び

 

副都心線10134編成

 

撮影場所は30分間隔で前方の記念撮影用と少し後の3本並び撮影用に別けられていた。

日比谷線3000+3002保存車

 

3002の運転室

 

3001の台車

日比谷線の3000系は廃車後一部の車両が長野電鉄に譲渡さたが、元東急の8500形との置換えにより非冷房車が廃車となり、3001+3002が保存のため里帰りした。保存車とはいえ、MGが稼動し、車内灯は勿論、暖房がよく効き、完全に生きていた。

運転台見学(事前応募制)に使用 副都心線7128

 

運転台見学は募集40名と少なかったため、高倍率となった。

架線保守用軌道モーターカー

 

保守車両運転台見学は募集80名であった。

工場内の6000系

 

上から簡易運転台付の6616、6716、6316、車体吊上げ実演に使用された6016

6000系第1次量産車

 

イベントの対象にはなっていなかったが、6000系第1次量産車、6103と6106を撮影することできた。第1次量産車(02~13編成)は昭和46年に新製され、間もなく車齢40年を迎える。6106は車体更新時に6106は1枚下降窓に、6103は2段窓のままであるが窓構造を変更している。

6000系は綾瀬~北綾瀬間で使用中の第1次試作車3両編成1本、第2次試作車01編成、第1次量産車から平成2年製の第7次量産車まで(02~35編成)計358両が在籍し、千代田線の主力として日夜活躍しているが、第2次試作車のみ車両限界の関係で小田急線への乗り入れができないが、量産車編成は常磐線取手から小田急多摩線唐木田まで走行している。JR車は小田急線への乗り入れが、小田急車はJR線への乗り入れが不可能であるが、現在実施されている金町駅周辺の工場跡地の再開発により、大規模マンションの建設と東京理科大学の移転が計画されており、完成の暁には輸送力の不足が懸念されている。その解決には小田急車のJR線への乗り入れが不可欠となるため、最近の新車、JRのE233系2000番台と小田急の4000系は僅かな改造により3社乗り入れが可能となるように製作されていると言われている。

ここにきて、東京メトロより平成22年秋から6000系の代替として16000系16編成(160両)の投入が発表された。新車の投入は楽しみであるが、代替で廃車されるのはどの編成なるのか気になるところである。

三井芦別鉄道

ぶんしゅうさんの「北の大地へPart12 富良野線 根室本線 日高本線」で芦別駅の画像が出てきた。場違いの五重塔の後の芦別駅を見て昭和42年夏休みに三井芦別鉄道を訪れた時のかすかな記憶が蘇ってきたので、当時の状況を書いてみた。(撮影日は42年9月9日である)

歴史

歴史は比較的新しく、昭和15年12月8日三井鉱山専用鉄道として芦別~西芦別(後の三井芦別)間4.1Kmを運転開始。昭和17年5月5日旅客営業を開始。昭和20年12月15日西芦別~頼城間5.5Kmを開業。昭和24年1月20日地方鉄道に変更し、三井鉱山㈱芦別鉄道となった。昭和33年11月にはDCを3両投入して客貨分離。昭和35年10月1日炭鉱合理化に伴い鉄道部門を分離することになり、三井芦別鉄道を設立して営業を開始した。訪れた時は、まだ炭鉱の最盛期で芦別~頼城間を20往復位運行され、羽幌炭鉱鉄道と共に女性の車掌が乗務し、元国電を挟んだDTD3両編成の列車は活気に溢れていた。

その後、旅客部門は炭鉱合理化による人口の減少と並行バス路線の充実により昭和47年5月31日をもって廃止。石炭輸送も炭鉱の合理化により平成元年3月25日をもって全線の営業を廃止、炭鉱自体も平成4年9月に閉山となった。

車両

昭和42年8月時点での在籍車両は、蒸気機関車2両(C58-1・C58-2)ディーゼル機関車2両(DD501・DD502)気動車3両(キハ101~キハ103)客車3両(ホハ10・ナハニ1・ナハニ2)であった。(貨車は省略)以下、写真と共に解説する。

(1)   蒸気機関車

かつては江若鉄道から購入したナスミス・ウィルソン社製の1B1タンク機やC11が在籍したが、訪問時にはDLの予備機としてC58が2両(C58-1・C58-2)在籍した。昭和24年汽車会社製で国鉄の見込み生産品を購入したと言われている。国鉄のC58とは同一であるが給水加熱器が付いていない。昭和46年3月廃車となり、C58-2は定山渓グランドホテルに売却されたが、現車は桑園駅の引込線に留置されたままであった。それを旭川市郊外の「ニュー温泉」のSLファンのオーナーが買い取り、旅館の建物の中で保存されている。桑園から富良野線の西神楽まで回送して、トレーラーで旅館まで運搬した。この時の状況が昭和46年9月18日付の新聞に掲載されているので、運んだのは前日と思われる。

「ニュー温泉」はHPで確認すると1泊2食付で5500円~、入浴のみでは400円とリーズナブルで、リタイヤ後一泊してゆっくり見学したいと思っている。

 

2)ディーゼル機関車

DD501~DD503

昭和40年から新製された旧国鉄DD13タイプの機関車であった。DD501が三井芦別~中ノ丘間の炭山川鉄橋上にセキを連結した状態で保存されており、リタイヤ後見学に行く予定にしている。DD502は解体、DD503は京葉臨海鉄道に売却された。

 

3)気動車

キハ101~103

昭和33年、客貨分離のために3両新製された。車内は中央3区劃がクロスシートのセミクロスであった。旅客営業廃止後は関東鉄道に売却され、鉾田線(後の鹿島鉄道)で再起しキハ711~713となった。扉配置からワンマン化ができないのと、その後の新車投入のため、キハ713は平成3年、キハ711・712は平成4年に廃車された。

 

キハ103+ナハニ1+キハ102 

 

キハ101

 

鹿島鉄道 キハ711 石岡    昭和60年9月23日撮影

4)客車

ホハ10

昭和16年9月、専用鉄道の旅客列車用として購入したホハフ1(大正10年日本車輌製の元飯山鉄道のフホハ10)を昭和32年自社工場で下回りを生かして半鋼製の車体を新製した。キハ101の入線後、中間車として使用するため総括制御用回路を引通し、実質キサハとなった。

 

ナハニ1~3

スタイルからも判るように元国電モハ31系(後のクモハ11200番台)である。昭和23年10月地方鉄道に変更に際して、戦災で焼失した国電を日本鉄道自動車で復旧したものを購入した。旧番は公式にはモハ31036、31070、31104とされているが、アテにはならない。当初は形式モハ300形車号サハ1~3となっていた。元電車であるので「サハ」は理解できるが、形式が何故「モハ」になっていたのかは不明である。昭和32年12月にキハの中間車として使用するため、総括制御用回路を引通した。その際に一端に荷物室を設けて車号をナハニ1~3に変更したが、現実には「キサハニ」とでも言うべきものであった。中間車は前述のホハ10と併せて2両使用で、予備車を入れても3両で済むため、昭和39年1月、ナハニ3を廃車した。

 

ナハニ1

 

ナハニ2

(5)その他

モーターカー

昭和39年富士重工宇都宮製作所製で、冬にはプラウを付けてラッセル車として使用されていた。

 

芦別駅のC57200

滝川発(14:15)発 釧路行(23:22)435レで機関車の後にオハフ60が見える。

 

雄別炭鉱茂尻鉱業所102号機

三井芦別鉄道の後、茂尻の雄別炭鉱茂尻鉱業所の機関庫に行く予定であったが、三井芦別で機関区の人と話込んでしまい、予定の根室本線の列車に乗れなくなり、茂尻鉱業所は次回ということにした。茂尻で交換待ちの時、102号機が出てきたので撮影することができた。

「第9回みんな集まれ!ふれあい鉄道フェステバル」

11月14日(土曜日)尾久車両センターで「第9回みんな集まれ!ふれあい鉄道フェステバル」が開催されたので覗いてみた。

当日の朝、大塚で所用を済ませた後出掛けたが、大塚から尾久までJRで行くと、山手線で池袋に出て、埼京線で赤羽、更に宇都宮線か高崎線の中電で尾久というルートか、田端まで行き、京浜東北線で赤羽、中電で尾久というルートとなる。いずれも乗換えが2回伴い、距離の割にはとんでもなく時間がかかる。一方、山手線の高架下から三ノ輪橋行の都電に乗れば15分で荒川車庫前に到着し、そこから尾久駅までは約700mで10分とかからないので、当然このルートを利用した。9時45分に尾久駅に到着すると入場待ちの列が長い地下道を潜り、フェンスに沿って上野寄りまで延々と延びていた。10時を過ぎても列が動かないので入場制限でもしているのかと思いきや、強風でテントが飛ばされ、その片付けのため開場が遅れているとのことで、15分遅れの10時15分頃開場された。

今年の展示車両の目玉は、キハ48の3両編成ジョイフルトレイン「きらきらみちのく」でポスターにも大きく取り上げられていたが、人気はヘッドマーク付のEF651107、EF651118、EF8181、DD51842の機関車に集中していた。客車は、高崎支社の旧形客車、オハニ3611+スハフ322357+スハフ422173+オハ472266+オハ472246+スハフ422234の6両編成が休憩用として、ジョイフルトレイン「ゆとり」編成の両端車(中間車は廃車)、スロフ14701+スロフ14702が展示されていた。また、展示車両ではないがマヤ342004がボロボロの姿で停められていた。検修庫内にE655系「なごみ」が展示されていた。当日は強風の上、時折雨がぱらつく悪天候にもかかわらず入場者数は主催者側の発表で8300人であった。

【尾久駅とポスター】

 

駅名は「おく」と濁らないが、実際の地名は「おぐ」と濁る。都電に「東尾久3丁目」という電停があり、都バスの「尾久駅前」バス停は「おぐえきまえ」と濁っている。また、尾久は荒川区の地名であり、実際の尾久駅の住所は北区昭和町のため更に話がややこしい。類似例で有名なのは「米原」で、実際の地名は「まいはら」と濁らない。ところが町村合併で市に昇格した時に駅名を優先したのか「まいばら」市にしてしまった。中央線と小海線の分岐駅の「小淵沢」は駅名は「こぶちざわ」であるが、実際は「こぶちさわ」と濁らない。私鉄でも西武秩父線の「横瀬」の駅名は「よこぜ」であるが、実際は「よこせ」である。「旭川」のように「あさひかわ」でスタートし、途中(明治38年4月)で「あさひがわ」に改称し、昭和63年3月に元の「あさひかわ」に戻している。実際の地名は、昔から「あさひかわ」と濁らないのに、何故「あさひがわ」にしたのだろうか。駅名に関しては、勝手に途中に「の」を入れた例(常磐線の「原ノ町」、実際の地名は原町「はらまち」で「の」は入らない)、勝手に読み方を変えた例(秋葉原「あきはばら」実際は「あきばはら」)、勝手に漢字を変えた例(わたらせ渓谷鐵道の「神戸」(ごうど)は国鉄時代兵庫県の神戸と間違うという理由で「神土」にした)等もあり、調べてみると面白い。

【き・ら・き・ら・みちのく】

 

ポスターにもある通り展示のメインであった。平成4年12月の東北新幹線八戸延伸に合わせて、一般形のキハ481505・1506・1534を改造した。両端の1505と1506は正面を大幅に改造し、側面窓を拡大の上固定化、中間車の1534は側面のみ改造して運転台は残された。車内は、両端車は1人掛と2人掛の回転リクライニングシート、中間車はボックスシートで座面を畳敷にして背もたれを高くして個室風となっている。休日を中心に運転される八戸~大湊間の快速列車「きらきらみちのく下北号」に使用されている。車体は内外ともに大幅に改造されているが車号は変更されていない。

【機関車】

EF651107、EF651118、EF8181、DD51842の4両が展示され、ヘッドマークは適時取り換えられ、常に撮影者で満員であった。EF8181は終日ターンテーブルに乗り回転していた。

 

入換に使用されていたDE111041

【客車】

 オハニ3611は、JRグループの中では鋼体化改造客車の唯一の生き残りで、優等列車用のため車内はスハ43並みで、台車はナハ10のTR50類似のTR52Aを履いている。重厚な車内と軽量客車用台車の走行音のミスマッチが何とも言えなかった。再度営業運転で乗ってみたい。戦前製のスハフ32は、生き残ったこと事体奇跡で、こちらも是非乗ってみたい。

 

昭和58年8月、14系7両をコンパートメント車に改造したもので「サロンエクスプレス東京」と呼ばれていた。平成9年に堀り炬燵仕様の和風客車に改造され、愛称を「ゆとり」と改め6両編成となった。平成20年3月に使用を休止して両端車以外は廃車となった。(上 スロフ14702  下 スロフ14701)

マヤ34は昭和34年から56年にかけて作られた軌道検測用の事業用客車で、トップナンバーのみスタイルが大きく異なり、昭和42年北海道用の耐寒工事が実施され、マヤ342501に改番された。画像の2004は昭和41年製で、ボロボロの状態で留置されていたが廃車にはなっていないようである。

 

上記以外にも検修庫の中に元「出雲」のオロネ257とオシ24701、「夢空間」のオロネ25901が展示されていたが、場所が狭くて撮影は無理であった。 

【電車】

E655系は平成19年6月、皇室用客車「1号編成」の置換え用として新製した。6両編成で、その内1両が皇族方や国賓がご乗車になる「特別車両」である。通常は「特別車両」を外した5両編成で団体専用列車として使用されており、「なごみ(和)」の愛称が付いている。昨年同様、検修庫内に展示されていた。

 

 クロE654-101-モロE655-101-モロE654-101-モロE655-201-クモロE654-101

松本電鉄・大糸線

湯口先輩の新シリーズ「1954年3月北陸から長野、三重 その4」で松本電鉄上高地線(当時の名称は島々線で昭和30年4月上高地線に改称)と大糸線について、当時の貴重な画像と共にご紹介いただいたが、昭和50年前後の状況を書いてみたい。

松本電鉄上高地線

歴史は意外に古く、大正9年3月筑摩鉄道として設立、翌年の10月松本~新村間を開業、11年5月に波多(昭和31年5月波田に改称)、同年9月に島々まで開業した。以降の動きを簡単に纏めると次の通りである。同年10月社名に「電気」を挿入して「筑摩電気鉄道」に変更、昭和7年12月松本電気鉄道に再度社名変更した。戦後の動きは、昭和30年4月線名を「島々線」から「上高地線」に変更。32年11月架線電圧を600Ⅴから750Ⅴに昇圧。41年10月赤松駅を「新島々」に改称して駅前に上高地、乗鞍方面行のバスターミナルを設置。58年9月28日台風による土砂災害のため新島々~島々間が不通となり休止を経て昭和61年1月廃止。61年12月架線電圧を1500Ⅴに昇圧すると共にワンマン運転開始。平成11年10月ATSを設置。平成19年3月21日新村車庫で保管されていたハニフ1を鉄道博物館に寄贈のため搬出。

松本電鉄は川中島バス、諏訪バス等を統括するアルピコグループの中核企業であるが、少子高齢化による人口の減少、通勤客のマイカーへの転移等で、電車、バスの利用者が減少により、メインバンクに対し私的整理ガイドラインに則った再生支援を要請した。また、大正9年の創業時に建設された、西松本~渚間の田川鉄橋、渚~信濃新井間の奈良井川鉄橋が国交省から「数年以内に抜本的な対策が望ましい」との指摘を受け、架け替え工事費が数十億円もかかるとかで、会社側から「行政の支援がなければ事業継続は困難」との見解を示された。一昨年の8月下旬、槍ヶ岳登山の帰り、上高地から松本行の直通バスに乗車した時、新村を過ぎた辺りから交通渋滞のため、ダイヤ上では40分の新島々~松本間が2時間半もかかり大変な目にあった。松本市はご承知の通り城下町のため市内の道路が狭く、行楽シーズンの午後は大渋滞となることと、沿線の高校、大学の通学の足として学生の利用が相当数あること、夏季を中心に登山客、観光客の利用が相当数あること等により、バスへの転換は無理な面があると思われるため、行政側もしっかり支援していただきたい。

車両について

電車

湯口先輩が訪れられた当時の電車は昭和33年から39年にかけて、当時、日本車両が地方私鉄向けに製造した「日車標準車体」に乗せ替えられて、形式モハ10形・10-1~10-11の奇数の5両(-は解説上付けたもので実車には表示はない)とクハ10形10-2の計6両となっていた。昭和61年12月24日架線電圧の1500Ⅴ昇圧時に元東急デハ5000形改造のモハ5000形5両、クハ5000形3両と交替で廃車となった。モハ5000形も、老朽化のため平成11年と12年に元京王電鉄井の頭線のデハ3100形・3050形改造のモハ3000形+クハ3000形4編成と交替して廃車となった。

 

 

上 モハ103 下 モハ101 波田 (50.11.23)

 

モハ107+モハ1011 森口~下島 (45.3.18)

電動貨車

湯口先輩はデワ2を新村で撮影されておられるが、私が訪れた時は森口駅の直ぐ傍の工場(社名は忘れた)に出入する貨車の入換と、屋根の島々寄りに櫓が取り付けられ、架線修理車して使用されていた。

森口  (45.3.18)

電気機関車

湯口先輩の訪問時には機関車がなく、前述のデワ2がその任に当たっていたが、昭和35年6月西武鉄道からED301を購入、昭和40年から44年かけて梓川に建設された奈川渡、水殿、稲核の各ダム工事の資材輸送のためED402・403の2両を新車で購入し、計3両が在籍した。

ED301

大正15年アメリカ・ボールドウィン社(機械部分)ウェスチングハウス社(電気部分)製で昭和35年6月西武鉄道から購入した。元を正せば、大糸線松本~信濃大町間の前身信濃鉄道電化時に新製された1~3のうちの3で昭和12年6月国有化によりED223に改番、昭和31年に廃車となり西武鉄道に譲渡されA1形A1に改番した。平成7年9月廃車となったが、機器扱いで現在も残されている。

 

森口  (45.3.18)

ED402・403

前述の通りダム工事の資材輸送のため、昭和40年10月日本車両で新製した。新製当時の架線電圧は750Vであったが、工事終了後他社への売却を考慮して1500Vとの複電圧回路であった。工事終了後、昭和46年に岳南鉄道に売却され、改番されることなく使用されている。

 

波田  (45.3.18)

ハニフ1について

前述の通り平成19年3月21日鉄道博物館に寄贈のため新村車庫から搬出されたが、寄贈が決まった平成18年12月から搬出日までの土日に一般公開が実施され、搬送当日には盛大な式典が実施された。当件は後日知り、事前に判っておれば無理をしてでも行っていたのに非常に残念であった。以前から寄贈の話は何度かあったが、交換条件が折り合わず実施に至らなかったという話を聞いたことがある。

大糸線

湯口先輩が北松本区で撮影された元信濃鉄道買収車クハ5101、モハ1101、モハユニ3100は、当時の買収国電を撮影されておられた方が少なかった時代の記録として大変貴重である。車両の詳しい経歴等は佐竹先輩著作のネコパブ社発行「私鉄買収国電」をご覧いただきたい。買収後は東京から17m車が転入して信濃鉄道の買収車を置換えた。モハユニ3100の代わりは20mのモハユニ44000と100が務めた。モハユニ61001が前身のモハユニ44100は昭和35年両運に改造され、クモハユニ64000に改番され、自連付で貨車を牽引していた。昭和45年8月クモユニ81003と交替して岡山区に転属して赤穂線で使用、昭和52年9月静岡に転属して入替えと大船工場への入出庫車の控車として使用、翌年8月に伊那松島区に転属して飯田線で本来の目的で使用後、昭和59年2月に廃車となった。

17m車は、関西から転入したクモハ51、54、関東から転入したクモハ60、クハ55、サハ57等に置き換えられて廃車となった。現在は115系と大糸線専用車として新製されたE127系100番台が使用されている。E127系は交流の701系の直流版とも言うべき車両で0番代は新潟地区で使用されている。昼間の2連の列車は信濃大町以北、一部は有明以北の殆どがワンマン化されている。かつては春から秋にかけての行楽シーズンは、登山客、観光客で賑わい、新宿、名古屋からの臨時の直通列車が多数運転されていたが最近では減少している。理由はマイカーへのシフトもあるが、長野新幹線の影響が大きい。長野新幹線と大糸線は一見関係なさそうに見えるが、東京から白馬や信濃大町へは松本で大糸線に乗換えるよりも、長野で特急バスに乗換える方が断然早い。おまけにバスは栂池やアルペンルートの扇沢まで直通する。また、白馬駅ではバスと新幹線の直通切符を発売しており、山から下りてきた登山者は、運賃が高くても自宅までの所要時間が短い方を選択する傾向がある。

旧形国電時代の車両については書きはじめるとキリがないため、後日機会があれば解説することにして、今回は列車写真を中心に貼り付けた。

 

ED602牽引の貨物列車 細野~北細野 (48.3.25) 

 

ED603牽引の貨物列車 細野~北細野 (48.3.25) 

 

急行「アルプス4号」細野~北細野 (48.3.25) 中央東線急行の基本編成

南小谷12時16分発信濃大町まで普通、信濃大町から急行となる。5両目は売店付きのサハ164である。

 

急行「アルプス8号」信濃大町 (48.3.25) 中央東線急行の付属編成

新宿を23時45分に発車して、付属編成が松本から普通列車となる南小谷行

 

クモハ51013+クハ55405+クモハ51014+サハ57400+クモハ51011+クハ55439 信濃大町(48..14) 

クモハは全部51形である。旧形の基本編成は4両と2両があり、4+2の6両編成が多かった。

 

クモハ54004+クハ55430+クハ55439+クモハ12000+サハ57400+クモハ60082 信濃大町(48.3.25)

中間に17mのクモハ12が入っている。両運のためクモユニ81003の予備車として残された。2丁パンタで上がっていない方は霜取用である。

 

クモユニ81003他7連 信濃大町 (50.11.23)

 

6両編成の普通列車 細野~北細野 (48.3.25)

 

糸魚川~信濃大町間のDC列車 上 キハ5243 下 キハユニ2629 信濃大町 (50.11.23)

当時、糸魚川から信濃大町まで2往復、白馬まで1往復のDC列車が設定されていた。糸魚川~信濃大町間に2往復もDC列車が残されていた理由は、郵便・荷物輸送のためで、信濃大町でキハユニ26からクモユニ81に積み替えられていた。(下りの場合は逆)南小谷で積み替えを実施しなかった理由は、信濃大町以北のホームの有効長や南小谷駅の設備の関係があった。

 

 

クモハE127-105+クハE126-105   白馬 (H13.8.18)

E127系は、平成10年12月より使用を開始し、MT2両編成が12本、24両在籍する。座席は南小谷方面に向かって左側がクロスシート、右側がロングシートになっている。信濃大町以北(一部の列車は有明以北)はワンマン運転になっている。画像の列車は松本から更に先の辰野行であるが、平成15年12月より松本~塩尻間のATSがSN形からP形に変更されたため、乗り入れができなくなり大糸線専用になった。

新京成電鉄第15回「電車基地見学・展示会」

10月17日(土曜日)新京成電鉄くぬぎ山車両基地で第15回「電車基地見学・展示会」が実施された。自宅の近くであること、あわよくば近々廃車が予想される800系が撮影できるかも知れないと思って出かけてみた。

HPやパンフでは、ファン向きのものは「全車種ラインナップ撮影会」「新旧ダイヤの展示」「台車見学」くらいで、あとは「運転席で制帽着用撮影会」「8900形ミニ電車運行」「ドア開閉体験」等、子供とファミリー向けのものであった。

くぬぎ山駅から車両基地に行く途中、フェンス越しに800系が見えた。展示車両ではないがパンタが上がっており、フェンスの高さが2m程あり撮影はとても無理であった。もう少しフェンスが低ければ綺麗に撮影できるのに残念であった。それでも脚立に登って撮影している人がいた。取りあえず会場に行き全車種の並びを撮影したが、工場の窓から先程の800系の津田沼寄りの先頭車「モハ811」が撮影できたのはラッキーであった。一通り見学して帰りにフェンス越しにでも800系を撮影しようと思い、念のためコンデジをフェンスの穴に入れたところ、全車両ではないが、ギリギリ撮影が可能であった。

 

全車種ラインナップ(左から800系、8000系、8800系、8900系、N800系)

800系は昭和46年から50年にかけて日本車両でMc18両(モハ801~818)Tc6両(クハ855・856・859・860・865・866)T12両(サハ851~854・857・858・861~864・867・868)の36両が新製され、基本編成の4連6本と増結用の2連6本に組成された。新京成では初の高性能車であると共に初の純然たる新車であった。昭和60年から冷房化、前面の非貫通化、6連化に伴う中間車の運転台撤去等が実施された。新型車の登場により平成7年から廃車が始まり、現在は次の8両編成2本16両が残るのみとなった。

M811-M805-T857-M812-T859-M803-T854-M810

M813-M816-T863-M814-T855-M804-T853-M806

←京成津田沼

当日フェンス越しに撮影できたはM811編成で、M813編成は展示されていた。

現在、主に朝のラッシュに使用されているが、稀に終日運用に入っていることがある。何度か目撃しているがそんな時に限ってカメラを持っていない。

 

モハ811(津田沼寄りの先頭車)

 

モハ805

 

モハ812(運転台を撤去して中間車となっている)

 

サハ859(元クハで運転台を撤去して中間車となっているがクハとサハは元々通し番号であったため「ク」を「サ」に変更しただけである)

 

サハ854

 

モハ810(松戸寄りの先頭車)

 

モハ812の台車 FS329S2型