湯口先輩より1957年(昭和32年)3月14日に撮影された西鉄北九州線の超貴重な画像を公開していただいたが、この時代に地元の方以外で撮影された方は非常に珍しい。我々団塊世代の現役時代、九州ではまだまだ蒸気機関車が大活躍しており、皆さんの目がどうしてもそちらに向いてしまうため、この方面の撮影者は少数派であった。限られた時間とお金の中で、自分が撮影したいものを最優先に行動するのは当然のことであり、私の場合、魅力を感じていたローカル私鉄と路面電車の撮影を優先し、国鉄の蒸気機関車は「ついで撮影」であったように思う。
西鉄北九州線の印象は非常に速かったことで、北九州の各都市を結ぶインターバンとして建設されたため専用軌道区間の最高速度は60㎞/H、併用軌道区間でも40㎞/Hで目一杯走っていた。路面タイプの電車が60㎞/Hまで出すと体感速度は10㎞/H以上速く感じた。以前ぶんしゅう様が万葉線やポートラムが専用軌道でも40㎞/Hまで出さないことを嘆いておられたが、都電荒川線も含めて、専用軌道区間は是非60㎞/H位で走行してもらいたいものである。
それでは上から順に解説する。参考までに湯口先輩が撮影された12年後、1969年(昭和44年)3月撮影の画像を貼り付けたので、湯口先輩の画像と合わせてご覧いただければ幸いである。
(1)79・80(形式/66形)
北九州線の前身、九州電気軌道により、昭和4年66~85の20両が作られた全鋼製車で、昭和25年に車体を軽量化するため、70・76~78・80~85は車内を木製化して半鋼製に、車体の状態が悪かった66~69・71~75・79は当時の新製車600形とほぼ同じ車体を新製して乗せ替えた。
湯口先輩が撮影された1番上の79は車体新製車、2番目と3番目の80は半鋼製改造車、最後の廃車体は、新製車体に乗せ替え時の廃車体である。
その後の経過については、他形式を含め1950年代にビューゲルをパンタに取替えが実施された。半鋼製改造車はダイヤの合理化により余剰となったため、ワンマン化されることなく昭和47年に廃車された。車体新製車は昭和39年から42年にかけて福岡市内線の木製車100形(元北九州線1形・35形)を置き換えるため79を除く9両が同線に転属した。昭和50年福岡市内線一部廃止により余剰となり、福岡で廃車になった75以外の8両は北九州線に復帰したが、路線廃止に伴い66~68が昭和60年、69・71~74が平成4年に廃車された。
77(半鋼製改造車) 昭和44年3月26日 魚町
75(車体新製車/福岡市内線転出後) 昭和44年3月24日 博多駅前
(2) 104・156(形式100形)
昭和11年から15年にかけて57両(101~157)作られた車両で製作時期により大きく3つのグループに別れる。
① 101~117
昭和11年に作られたグループで前述の66形と同系のスタイルである。66形との相違点は窓が大きくなったため扉間の窓枚数が11枚から10枚に減少、扉が窓よりも高くなったこと等があげられる。
② 118~137
昭和14年から15年にかけて作られたグループで、スタイルが大きく変わり、正面が当時流行の流線型、窓が上窓固定の2段窓、扉の配置が前・中となった。屋根の形状は汽車会社製の118~124が従来と同じであったが、日本車輌製の125~137は張上げ屋根となった。昭和27年から28年にかけて、前中扉は前後扉に改造され、元中扉部分の窓幅が狭くなっている。
③ 138~157
昭和15年から16年にかけて作られたグループで扉は前後扉になった。138~147は日本車輌、148~157は汽車会社で作られたが、どちらも張上げ屋根となり差異はなくなった。このグループの内、138~140・142~145・147・148・150の10両はワンマン化されたが、それ以外の車両は昭和47年から53年にかけて廃車された。148が「北九州市交通科学館」に保存されたが平成16年4月に閉館となり、現在は門司港レトロ地区で保存されている。画像で見る限り状態は良く、リタイヤ後是非行きたいと思っている。
同一形式ながらスタイルが大きく異なるため、118~124を118形、125~137を125形、138~157を138形と呼ばれることもある。
104 昭和44年3月26日 大門/昭和11年日本車輌製
111 昭和49年1月19日 大門/昭和11年日本車輌製
119 昭和44年3月26日 大門/昭和13年汽車会社製、元中扉部分の窓が狭くなっている。
129 昭和44年3月26日 大門/昭和13年日本車輌製
152 昭和44年3月26日 大門/昭和15年汽車会社製、
139(ワンマン改造後)昭和49年1月19日 大門/昭和15年日本車輌製
(3) 204(形式/200形)
北九州線の前身、九州電気軌道の開業時から使用してきた1形のうち初期車の9両と余剰の散水車3両の台車と電装を流用して、昭和9年から12年にかけて66形に準じた車体を新製した車両である。前述の100形よりも製造年が古いのは、当時神戸市電から譲り受けた2軸車が100形を名乗っていたためである。(前述の100形は元神戸の100形が廃車後に新製されている)ワンマン化されることなく昭和48年から52年に廃車となった。
203 昭和44年3月26日 大門/昭和9年日本車輌製
205 昭和44年3月25日 小倉駅前/昭和9年日本車輌製
(4) 618(形式/600形)
昭和25年から28年にかけて50両作られ、平成12年11月26日北九州線全廃時まで主力として活躍した。601~605・636~643が昭和25年新潟鉄工所、606~610が昭和25年川崎車輌、611~635・644~650が昭和27年近畿車両で作られた。メーカーによる車体の差異はないが台車が異なる。昭和45年にワンマン改造、昭和56年から車体強化改造、昭和61年から冷房の取付けが実施されたが、全車には及ばず約半数の23両に止まった。全線廃止時まで残っていた621が「北九州線車輌保存会」により、元北方線324と共に筑豊本線筑前山家駅の近くで保存されている。毎月第4日曜日に一般公開されており、リタイヤ後是非行きたいと思っている。余談になるが、リタイヤ後に行きたい所が山ほどあり、生きている間に全部回れるかどうか甚だ疑問であるが、可能な限り回りたいと思っている。
606 昭和44年3月25日 小倉駅前/昭和25年川崎車輌製
612 昭和44年3月25日 小倉駅前/昭和27年近畿車両製
640 昭和44年3月25日 小倉駅前/昭和25年新潟鉄工所製
647 昭和44年3月26日 大門/昭和27年近畿車両製
627(ワンマン改造後)昭和49年1月19日 大門/昭和27年近畿車両製
(5) 1001・1009・1020(形式/1000形)
昭和28年から42年にかけて作られた連接車で1001A+1001B~1064A+1064Bの64編成が在籍した。製造年が15年に亘るため、時期により変化が見られるが、大きなものを取り上げると、昭和28年の1001A+1001Bから30年の1020A+1020Bまでは半鋼製、昭和33年の1021A+1021B以降全金製、翌34年の1031A+1031B以降窓枠のアルミサッシ化、最終増備の1062A+1062B~1064A+1064Bの方向幕大型化が挙げられる。後日1045・1052~1056の6編成は、ラッシュ対策のため扉のない中間車体Cを挿入して3連接車となった。
路線廃止後、筑豊電鉄に譲渡された車両が多いが、現在も原型を保ちつつ残っているのは最終増備の1062と1064の2編成のみで、1063編成改造の中間車体を挿入して3連接車となっている。
・筑豊電鉄2006ABC編成(1062A+1063B+1062B)
・筑豊電鉄2007ABC編成(1064A+1063A+1064B)
また、1043A+1043Bと1044A+1044Bは中間車体に改造され、元福岡市内線1301A+1301B~1304A+1304Bの中間に挿入されている。(筑豊電鉄2001ABC~2004ABC編成)
1003A+B 昭和44年3月25日 小倉駅前/昭和28年川崎車両製
1021A+B 昭和44年3月26日 大門/昭和33年近畿車両製
1026A+B 昭和44年3月26日 大門/昭和33年川崎車両製
1038A+B 昭和44年3月26日 大門/昭和34年帝国車両製
1045A+C+B 昭和44年3月26日 大門/昭和34年日立製作所製
1058A+B 昭和44年3月26日 室町/昭和39年日本車両製
1062A+B 昭和44年3月26日 室町/昭和42年九州車両製
(6) 506(形式/500形)
昭和23年に501~510、24年に511・512の2両が汽車会社で作られた。全長13.6m、車体中央に両開き扉を設置した3扉の運輸省規格形電車で、大阪市電1711形、横浜市電1300形とは同形であった。昭和28年頃に急カーブでの接触事故防止のため車体両端を絞る工事と中央扉の廃止工事を行った。ワンマン化されることなく、昭和51年から52年に運用を離脱し、501・502・504が広島電鉄に譲渡され、それ以外は廃車となった。広島電鉄では600形(601~603)となり、後部扉を廃止して片開きの中扉を設置した。現在602のみが残っており西鉄色に塗られている。
505 昭和44年3月25日 小倉駅前/昭和23年汽車会社製
湯口先輩の「北九州シリーズ」の続編で、西鉄宮地岳線や福岡市内線の貴重な画像が続々と公開されているが、機会があれば関連の話題を書き込みしたいと思っている。