「堺まつり」のデト11

昭和50年10月19日のこと、何を思ったのか、朝から阪堺線の撮影に出かけた。新今宮→南霞町から阪堺線に乗り住吉で下車。交差点で何枚か撮影後、我孫子道まで来たところ、反対側のホームにデト11の花電車が停車しており急遽下車して撮影。次の電車で大和川を渡って堺市内に入り宿院で下車して撮影した。
この日が「堺まつり」であったことは全く知らずラッキーであった。当日は東湊~住吉間の臨時を含めて増発され終日賑わっていた。

【デト11】
関さんが書かれておられる通り、昭和27年足回りや機器類は旧車の余剰品を流用して帝国車輛で新製されている。この手の車両は実用一点張りのものが多いが、丸味を帯びたフロント等しゃれたスタイルで、さすが南海と言ったところである。関さんが描かれた当時と比較すると、テールライトがトンガリ帽子形から普通のガイコツ形に取り換えられる等多少の変化がみられる。平成12年に廃車となったが解体はされておらず、車庫の一般公開時に見ることができる。

 

【東湊~住吉間の臨時電車他】
東湊~住吉間の臨時電車は「堺まつり」の他正月にも運行されていた。当時は乗客が多く、全車ツーマン運行で広告電車も存在しなかった。ワンマン化は上町線(我孫子道入出庫系統を含む)が昭和51年7月1日、阪堺線は昭和54年10月1日であった。

 

 

350形と500形は系統幕があり、阪堺線は「い」、上町線は「ろ」、平野線は「は」を表示していたが、他形式にはないため、あまり意味はなかった。

【たまにはバス】
泉2あ5525(42年式RB10)
エンジンは日野、車体は川崎のレアな組み合わせの元中1扉(引戸)ツーマン車のワンマン改造車。中扉を廃止して、扉と戸袋部分を窓にして前後に扉を設置したため、このようなスタイルになった。同様の改造車は大阪市バスにも存在した。中1扉ツーマン車の前後扉ワンマン改造車は阪急バス、京都バス、京都交通等にも存在したが、中扉を締切りその部分に座席を設置しただけで、ここまでは手を加えていない。

 

泉2あ5225(43年式BT100)
エンジンが床下にあるため、後部のデットスペースがなく後扉が車端に設置されている。ホイルベースが短く、非常口が後部中央にあるタイプ(BT51、BT71)はローカルバスを中心に相当数存在したが、写真のタイプになってからのものは少なく、関東では東武バス、群馬中央バス、上信電鉄、関西では南海電鉄以外では大阪市バス位かと思われる。大阪市バスはこのタイプが好きで昭和50年まで導入されていた。また、近鉄バスには特注のジャンボタイプが存在した。全くの余談であるが上信電鉄の車両は元大阪万博会場内で使用されていた。廃車後自動車愛好家に引取られ京都府下の某所で保存されている。

都電8800形カラーを変更して増備

都電8800形の平成22年度分の増備車5両が、昨年10月と12月に登場した。8806と8807の2両が従来のローズピンクからバイオレットにカラーが変更され10月22日より、8808と8809の2両がオレンジ、8810がイエローとなり、12月25日より営業運転を開始した。予備車として待機している8809以外の4両と8801に1月23日までの予定でヘッドマークが取り付けられている。

 


上/
22-12-29 飛鳥山  下/22-12-29 荒川車庫前

 


上/
22-11-23 熊野前  下/22-12-28 荒川車庫前

 
上/
22-12-28荒川車庫前  下/22-12-29 飛鳥山

 


上/
22-12-30荒川車庫前  下/22-12-29 飛鳥山

 


22-12-28
荒川車庫前

【他形式の動向】
(1)7500形
             
7500形の動向については、【8261/2010年5月22日】でお知らせした通り、8800形との置換えで順次廃車が進み、平成22年10月末日時点で7505、7510~7512、7520の5両が残るのみとなっていたが、8806、8807の増備により11月に7505、7510が廃車され、残るは7511、7512、7520の3両となった。この3両も8808~8810と交替で廃車されてもおかしくないが、1月8日時点では、7511と7512は常時運用に入っており、7520が予備車となっているようであるが、姿を消すのは時間の問題であろう。7511は【8489/2010年6月6日】でデカンショ祭り号さんの報告の通り阪堺線旧塗装に変更されている。

 


上/
22-12-29 飛鳥山  下/22-12-29 荒川車庫前

 
22-12-29
荒川車庫前

(2)9000形
他形式と共通運用で日常的に使用されているが、貸切運行時に指名が掛かることが多い。9002は正月期間中「賀正」の表示板を付けていた。

 
22-11-23
熊野前~宮ノ前

 
23-1-2
町屋駅前

(3)8500形
【8261/2010年5月22日】での紹介時点では8503と8505にラッピング広告が貼られていたが、現在は解除され、8502と8504に貼られている。スポンサーは前回と同じ警視庁でデザインは変更されている。

 


上/
22-12-29 飛鳥山  下/22-12-28 荒川車庫前

 


上/
22-12-29 飛鳥山  下/22-12-28 荒川車庫前

(4)7000形
【8261/2010年5月22日】の時点と同様22両が健在で主力として活躍しているが一部の車両のラッピング広告がスポンサーの変更により変更されている。今年度から新車と交替して廃車が始まる予定である。今年度の新車は8800形に変わる新形式車が登場する予定である。

 
22-12-28
荒川車庫

 
22-12-28
荒川車庫前

 
22-12-28
荒川車庫前

「びわ湖の銀嶺へ」/昭和22年12月26日の新聞広告

昭和4年12月、琵琶湖汽船の前身の太湖汽船と京阪電鉄が共同でマキノスキー場を開設し、昭和6年、浜大津から海津大崎まで夜行スキー船の運航を開始した。昭和9年、60形「びわこ号」を新製し、夜行スキー船に連絡する天満橋~浜大津間の直通電車を運転したことは余りにも有名である。戦時体制の強化により、世の中はスキーどころではなくなり、夜行スキー船の運航は中止されたが、戦後間もない昭和23年1月に早くも復活したことが判明した。

 大津市内にお住いで、京阪バスを中心に大津地区のバス路線の歴史、変遷を調査、研究されておられる知人の昨年12月26日付ブログに、表題の新聞広告が掲載されていた。昭和22年と言えば、戦後の混乱が未だ続き、板張り窓や座席半減車が走っていた時代であるが、4月1日のダイヤ改正で京阪本線の急行がスピードアップの上、15分間隔になる等、着々と復興しつつある時期でもあった。我が国の高度成長期の原動力となった「団塊の世代」(私も含む)の人達が誕生した時期でもあった。この時期に早くもスキー場の新聞広告が存在したということは、世の中が多少とも落着きを取り戻し、スキーを楽しむことが出来る人がそれなりに存在したということであろう。ご本人の承諾を得てここに紹介させていただいた。

「スキー予約券前売開始」の後は、宿泊券1泊55円朝夕食事付、梅田駅、天満橋駅、三條大橋駅及び現地で10日前発売。京阪バス四條大宮より浜大津まで特別運転スキー船連絡。
「スキー船就航」の後は、1月3日より3月7日まで毎土曜日及び2月10日夜12時浜大津出港後朝7時半到着。定期船奇数日午後1時浜大津発。
  スキー船連絡券(往復)三條より83円、大阪より111円、神戸より127円、浜大津より海津大崎まで38円、往復75円、小人半額
 江若スキー列車 毎日発片道55円、定期船にも通用
と書かれている。

広告主は京阪電鉄分離前のため「京阪神急行」である。阪急沿線の人は四条大宮まで来て浜大津まで特別運転の京阪バスで行き、スキー船に乗換えていたことが判る。江若鉄道もスキー列車を走らせており、乗車券は定期船にも通用となっているが、この時期は未だ京阪の系列ではないため、プール制であったと思われる。四条大宮~浜大津間のバスはディーゼルエンジン車であったのだろうか、江若のスキー列車はC11「ひら号」の引く客車であったのだろうか等想像するだけでも楽しくなる。
また、比良スキー場の場所は「八雲ガ原」ではないと思うが、何処にあったのかも気になるところである。
 ブログの名称は「京阪バス現在完了形」(http://contrapunctus.blog103.fc2.com/)で大津地区のバス路線の歴史を詳細に調査されておられるので、是非ご覧いただきたい。

【参考】JR東日本の数少ないスキー列車「ゲレンデ蔵王号」
583系6連で1月、2月の金曜日の夜、新宿から東北本線、仙山線経由で山形まで片道のみ運転されている。(今シーズンの運転状況は未確認)上りは回送で、仙台を朝出発し一旦東大宮に入るので「ヒガハス」等でも撮影可能である。

36年前 大晦日の京急羽田空港駅


36年前の京急羽田空港駅/飛行機に乗るためには、ここから更にバスに乗り継がなければならなかった。

一昔前の写真を整理していたところ、昭和50年の大晦日に京急羽田空港駅を訪れていた。ちなみに特派員さんも一緒であった。勿論地上駅で現在の天空橋駅の海老取川を隔てた手前にあり、飛行機に乗るには羽田空港行の路線バス(狭隘区間を通過するためマイクロバス)に乗り継ぐ必要があった。蒲田~羽田空港間には路線バスが頻繁に運行されていたため、このルートを利用する人は極めて少なかった。

 
羽田空港駅に進入するデハ257他3連

 
停車中のデハ256他3連

 
デハ276/行先板に注目、現在は「京急蒲田」であるが、当時は「京浜蒲田」であった。

当日の行動を振返ると、京都駅朝1番の6時19分発「ひかり302号」で出発した。名古屋で「こだま204号」に乗換え三島で下車して、東洋レーヨン三島工場の片ボギーのDLと伊豆箱根鉄道の電車を撮影。9時9分発の三島始発東京行に乗り湯河原で下車して、ホームで直ぐ後から来る「みずほ」を撮影。その後、駅の外に出て熱海よりに戻り、上下線が広く空いているところの中央から撮影した。今頃こんなところで撮影していたら、間違いなく逮捕されるであろう。小田原で大雄山線の電車を撮影後、川崎で京浜東北線に乗換え、蒲田で下車。駅の大森寄りで撮影後、京浜蒲田駅まで歩き、羽田空港駅まで乗車した。その後、上野駅で夜行列車を撮影し、八甲田55号で盛岡に行った。
湯河原に行くのにわざわざ三島で下車したのは、東レの片ボギーDLを撮影するためであったと思われる。私にとっては、湯河原でのブルトレはついで撮影で、本命は157系「あまぎ」であった。京浜急行の羽田空港駅はデハ230形を撮影が目的であった。

 


東レ三島工場の片ボギーDL

 
伊豆箱根鉄道モハ62/元モハ31024の復旧車

 
伊豆箱根鉄道クハ76/元西武クハ1450、更にその前があり、元国鉄モハ41001の復旧車

 
特急みずほ

 
特急さくら

 
特急あまぎ


急行東海

 
クモユニ74併結の普通電車

 
EF6098の引く貨物列車

 
113系普通電車

 
京浜東北線103系

 
クモニ13007

 
EF574の引く八甲田52号

上田丸子電鉄 クハ252・253他

(1)クハ252・253について
湯口先輩の「1958年 上田丸子電鉄その3」の「びわこスタイルのクハ252」の写真について【10896】本邦初公開と書かせていただいたが、クハ253の「正面3枚窓」の写真も初公開と思われる。「びわこスタイル」から「正面3枚窓」に改造されたのは相模鉄道時代で、併せて乗務員室扉の設置が行われている。ところがいつの間にか正面2枚窓に改造されているのである。京阪の704が事故復旧時に正面3枚窓から2枚窓への改造されたことは有名であるが、あまり例がない。クハ253の2枚窓改造の理由は、クハ252とスタイルを合わせるためだけであったのだろうか。また、書物
(ネットを含む)の中にはクハ253が「びわこスタイル」から直接「正面2枚窓」に改造されたように書かれているものがあり注意が必要である。
クハ252は、昭和61年10月1日の1500V昇圧時に、クハ253は昭和50年3月に廃車された。

 


「びわこスタイル」から「正面2枚窓」改造後のクハ252。(上/45-3-16 下/60-8-8)

 


「びわこ」→「正面3枚窓」から「2枚窓」に改造後のクハ253。非運転台側は3枚窓のままである。(42-3-23)

(2)再びサハ28について
湯口先輩のコメントの通り、今月発売「鉄道ファン2月号/江ノ電全通100周年によせて・1950年代のポール時代をふりかえる(1)」に201、202の鮮明な写真が掲載されている。201は両端に2枚折戸、扉間に2枚ずつセットになった12枚の窓があるが、折戸の前に縦長の窓が無い。202は2枚折戸の前に超狭い縦長の窓が設置されており、扉間には201と同じく、扉間に2枚ずつセットになった12枚の窓がある。ここまでの情報では、湯口先輩も仰せの通り、202の方がサハ28に近い。
一方、201の廃車は昭和31年で、翌32年に撮影されたダルマの写真が掲載されている。202は昭和29年に旧王子電軌174号の3000形への車体更新で不用になった旧車体を購入して振り替えている。サハ28の製造年は昭和33年であり、4年前に廃棄された202の車体よりも、2年前に廃車になった201の車体を流用した可能性が高いと考えるのが自然である。201、202共に「鉄道ファン」の写真でもお判りの通り、扉位置、窓回り等を中心に大幅に手が加えられているが、応急改造感は免れない。また、果たしてダルマになった車体を売買するか?という疑問もあるが、これはあり得ない話ではない。もし昭和29年に廃車になった202の車体が、どこか(例えば東急車両)で比較的良好な状態で残っていたとするならば、こちらの可能性も充分にあり、両端の細い窓と共に非常に気になるところである。
どちらの車体を利用したかは別にして、骨組みだけを残して大幅に手を加え、扉をやや中央寄りに移設、扉間に8枚の窓を設置した。扉と車端の間に窓を1枚設置した結果、僅かに空間ができたので細窓を設置したという可能性は「無きにしも非ず」であるが、この程度の空間にわざわざ幅の狭い窓を設置するだろうか。真相解明は、当時担当された方の記憶に頼る以外には無いと思われる。
私自身はネコパブ社「RM LIBRARY74/上田丸子電鉄(下)」の記述から「201の車体→サハ28」と思っていたが、再考の余地がありそうである。

 (3)【10928】「1958年上田丸子電鉄その4」で紹介された車両について
上から順番に解説する。
①モハ3332
モハ3331、3332の2両在籍した。大正13年日本車輌製で丸子線の前身、丸子鉄道が大屋~丸子町間の電化の際に新製したデ100形101、102が前身である。山梨交通から購入したモハ2340形2341、2342の稼働に伴い、昭和40年5月に廃車された。
②③モハ3552
モハ3551、3552の2両在籍した。大正14年日本車輌製で大屋~上田東間の延長開業時に新製したデ200形201、202が前身である。昭和44年4月19日廃止時まで在籍した。
④モハ4251 ⑤⑦モハ4254
モハ4251~4254の4両在籍した。昭和2年川崎造船所製で真田傍陽線開業時に新製したデナ100形101~104が前身である。湯口先輩が撮影された時点は車体更新前で、荷物扉の戸袋窓が楕円形、窓は下降式であった。昭和36年~38年にかけて車体更新が実施され、楕円形窓は通常の形に、客室窓は2段上昇式となった。⑤の4254の行先板付の写真は非常に珍しい。昭和47年2月20日廃止まで主力として活躍した。

 
車体更新後のモハ4252 (42-3-23)上田
⑥モハ5251
モハ5251~5253の3両が在籍した。昭和3年日本車輌製で、デナ201~203が前身である。「丸窓電車」の愛称で新製時から昭和61年9月30日の1500V昇圧前日まで一貫して別所線で使用された。昇圧後は、5251と5252は別所温泉駅の留置線、5253は長野計器㈱丸子工場に静態保存されている。5251は近々整理される予定で引取り手がなければ解体される予定である。

 
湯口先輩が撮影された27年後の昭和60年8月8日の姿であるが、スタイルの変化は殆ど見られない。
⑧モハ5262 ⑨モハ5263
大糸線松本~信濃大町間の前身、元信濃鉄道の買収車で、共に大正15年日本車輌製であるが、経歴が異なる。
モハ5262は信濃鉄道デハ5として誕生、昭和12年6月1日鉄道省買収によりモハ20004、昭和28年6月1日の改番でモハ1102に、翌29年に電装解除してクハ5110となるが程なく廃車となり、同年11月に上田丸子電鉄に譲渡。再電装の上、別所線に投入されモハ5262に、昭和33年制御器変更(HL→カム軸式)による改番でモハ5362、昭和35年小田急クハ1650形の旧車体と乗替え鋼体化してモハ5371に改番、昭和61年10月1500Ⅴ昇圧により廃車となった。
モハ5263は安曇追分~北池田間を営業していた池田鉄道のデハ1として誕生、昭和11年営業不振による内燃化により信濃鉄道に売却して同社のデハ1(2代目)に(初代デハ1は昭和10年火災焼失により廃車)、鉄道省買収によりモハ20001に、昭和28年の改番でモハ1100に、昭和30年6月上田丸子電鉄に譲渡。別所線に投入されモハ5263に、昭和33年制御器変更(HL→カム軸式)による改番でモハ5363、昭和35年小田急クハ1650形の旧車体と乗替え鋼体化してモハ5372に改番、昭和61年10月1日1500Ⅴ昇圧により廃車となった。旧車体は長らく上田原電車区の倉庫として残っていた。

ここで改めて湯口先輩の写真を見ていただきたい。モハ5262が停車している場所は、上田駅の真田傍陽線側である。別所線と真田傍陽線はどちらも元上田温泉電軌の路線であるが、別所線は600Ⅴ(昭和28年9月750Ⅴに昇圧)真田傍陽線は1500Ⅴのため、モハ5262を真田傍陽線で使用することは不可能である。この場所に停車していた理由は不明であるが、何らかの理由で国鉄長野工場入場時かも知れない。
モハ5263は急行の行先板に注目していただきたい。当時国鉄の急行列車に接続して急行運転が行われていた時の写真である。

 
モハ5263の廃車体 (45-3-16)上田原 
⑩モハ5361
昭和4年日本車輌製で、東武野田線の前身総武鉄道モハ1003として誕生、63形割当による供出車として昭和22年に入線した。当初の車号はモハ1001であったが、後日モハ5361に改番、制御器変更(カム軸式→HL)による改番でモハ4261となった。真田傍陽線廃止後、弘南鉄道に売却され、モハ110に改番の上、大鰐線で使用された。

 
大鰐線で3両編成の先頭に立つモハ110/後2両は元富士身延鉄道の買収車(50-4-28)津軽大沢付近
⑪ED2111
丸子線の前身、丸子鉄道の貨物列車用として昭和12年坂元工業所という聞いたことが無いメーカーで新製された。台車をはじめ電装品は中古品と思われる。ご覧のようにスタイルは独特で他に同形車は見当たらない。北陸鉄道で紹介された「三山工業」は現在も盛業中であるが「坂元工業所」についての現況は不明である。丸子線廃止後解体された。
⑫101 ⑬102
丸子線で使用されていた元伊那電鉄買収車のモハ5261とクハ261の鋼体化種車として入線した元東急のクハ3222とクハ3224である。鋼体化後はモハ5271とクハ271となったが、丸子線廃止後解体された。
機会があれば、改めて昭和40年代の上田丸子電鉄各線の車両の紹介をしたいと思っている。

上田丸子電鉄サハ28について

北陸鉄道に引続き、1958年上田丸子電鉄シリーズが始まり、貴重な画像をワクワクしながら拝見させていただいております。特に「びわこスタイル」のクハ252の写真は見たことがなく、本邦初公開ではないかと思います。

湯口先輩が疑問を呈しておられるサハ28について、私の知る範囲で書いてみたいと思います。湯口先輩が仰せの通り確かにパッと見はガソリンカー改造車に見えますが、書類上は昭和33年6月自社製の新製車となっています。実態は昭和31年6月に廃車になった江ノ電(当時の正式社名は江ノ島鎌倉観光)201の廃車体を購入し、モハ3223に車体を流用したサハ25(元飯山鉄道キハニ5)の台車を組合せて作られた車両です。(11月23日付【10474】1958年上田丸子電鉄で記述されておられる通り)ならば江ノ電の201とは何かということになるのですが、昭和11年に新製された夏季専用の納涼車の車体を、昭和24年東急車両で一般車に改造したもので、僅か7年で廃車になっています。江ノ電時代の201の写真は見たことがありませんが、車体の下部の切れ込みから、扉が両端にあったこと、写真では判りにくいですが扉を埋めた溶接の痕跡、車端の縦長の窓は、確かに元江ノ電の車両であることを示しています。201と同じく納涼車改造の202の写真はRP誌「私鉄車両めぐり・江ノ島鎌倉観光」に掲載されています。
参考までに江ノ電の車両も貼っておきます。

 
サハ28 昭和42年3月28日  上田

 


107、110 昭和45年3月12日  極楽寺
いずれも昭和6年川崎車輌製であるが、主電動機が107は37.3kw×2、110は44.7kw×2である。車端に縦長の窓が設置されている。

【番外】電動貨車2 昭和45年3月12日  極楽寺

 
元東急のデト3011(大正11年汽車会社製)を昭和22年に購入したもので、当初荷台に乗客を満載して営業運転をしたこともあると言われている。昭和45年3月31日付けで廃車されたため間一髪でセーフであった。

阪堺電車 モ101形

引続き国電の「クハ76形」あたりが紹介されるのかと思っていたところ「阪堺電車モ101形」でした。深い二重屋根の重厚なスタイルは路面電車の傑作の一つと思います。最終的な廃車が昭和42年ですので、乗車、撮影はギリギリ間に合いました。撮影したのは、初めて上町線を訪れた昭和39年11月で、その後廃車になるまで阪堺線は何度か訪れていますが、撮影はこの時のみです。

 
モ117

 
モ113

 
モ170(この時点で既にパンタ化され、連結器は取り外されていた)

 
モ235(台車を振り替え低床化している)

 
モ352(モ101の電装品を流用して作られた)

 
モ504(この時点では連結器が残っていた)

いずれも昭和39年11月3日 姫松で撮影。

クハ79066

長老よりご指名がありましたので、解説させていただきます。

関 三平さんの解説文を拝見すると「相当なファン」の方と思われます。「元スカ線のクハ47で、①10両すべて改造する筈が2両しか実現せず、飛び番となった。②スカ線時代はいつも中間に入り顔を見せなかった」等の項目は、旧形国電のことを相当勉強していないと書けない内容です。
ちなみに2両目と3両目はモハ70、4両目はクハ68の基本編成です。

 前身は、横須賀線の付属編成用として作られたクハ47形で、昭和5年日本車輌で47001~010の10両新製され、運転台の向きはすべて偶数(下り)向きでありました。
戦時改造で全車4扉化され、クハ85027~036となる予定でしたが、施工されたのは47004→85030、47010→036の2両に止まりました。形式の「85」は、湘南形の「サロ85」が使用するため、4扉のクハ79形に編入されることになり、昭和24年4月に改番が行われ、クハ85030→クハ79060、クハ85036→クハ79066となりました。

昭和26年11月29日付で2両揃って東京(最後の配属は津田沼)から淀川区に転属して城東線等で使用、060は昭和35年8月に高槻区に転属するも35年10月に淀川区にカムバックしています。
一方066は昭和33年7月に高槻区に転属しており、イラストはその時のものと思います。昭和36年9月に森ノ宮区に転属、城東線101系化により1カ月後の10月に東京にカムバックして池袋区に、東京地区で何度か転属があり、昭和40年4月に津田沼区から淀川区に戻り、060と共に片町線で使用され、060は昭和47年2月16日付、066は同年3月11日付で廃車になりました。

この2両の特徴は、更新修繕Ⅰの実施時期の関係から、更新修繕Ⅱが実施されなかったため、ベンチレーターがグロベン化されずにガーランド形のままであったことがあげられ、吹田工場で施工されていた正面窓と戸袋部窓のHゴム化は、060は正面窓のみ実施。それも一気ではなく、最初は運転台部分の1枚のみ、後日残り2枚も実施。066は全く実施されずに最後まで木枠のままでした。両車のスタイル上の差異は、066には正面左窓上に運行表示窓があったのに対し、060には無かったことがあげられます。詳細は写真をご覧下さい。

長老の仰せの通り「その筋の権威者」河 昭一郎様がご覧になっておられたとは吃驚です。

クハ79060 

 
昭和40年11月14日 鴫野 (この時点では正面窓は全部木枠)

 
昭和41年3月15日 河内岩船 (運転台部分の1カ所のみHゴム化)

 
昭和47年1月4日 放出  (最後は3枚共Hゴム化され、1カ月後廃車された)

クハ79066

 
昭和45年11月15日 鴫野  (正面窓は最後まで木枠のままであった)

ポール時代最末期の能勢電

10月15日付の【9939】「ちょっと気になっていた電車」で準特急様が能勢電を話題にされておられたが、ポール時代の写真は非常に懐かしく思った。
能勢電のポール時代は、諸先輩方が多数記録に残されておられて、私などの出る幕ではないが、少しばかりの写真があるので当時を偲んでいただければと思う。
能勢電鉄がポールからZパンタ、パンタに切り替わったのはDRFC入会以前の昭和41年1月17日である。私が撮影したのは前年の10月から12月にかけて京阪沿線の高等学校に通学していた頃で、滑り込みセーフであった。当時の在籍車両は31形2両(31・32)、50形3両(50~52)、60形2両(60・61)、10形8両(10~15・28・29)、20形6両(20~25)、電動貨車1両(106)の22両であった。
以下、形式毎に画像を並べてみた。

31形(31・32)
大正15年日車製で当初31~36の6両作られた。昭和30年10月に32が鼓滝踏切で大型トラックに衝突して大破し、復旧時に瑞穂工業により半鋼製改造時に31も追加された。(32は31年7月、31は同年9月竣工)残った33~36は鋼体化されることなく、昭和36年に廃車となった。35の部品を流用して電動貨車106が瑞穂工業の出張工事で作られたが、書類上は新造扱いである。
昭和41年、320形導入時にZパンタ化されることなく廃車となった。

 
多田駅を発車する川西能勢口行(昭和40年11月1日)

 
絹延橋車庫(昭和40年12月22日)

50形(50~52)
元阪急37形(37~39)(大正10年梅鉢鐵工場製)の70形(71~73)を昭和28年(71・73→50・51)と30年(72→52)に鋼体化改造したもので、50・51はナニワ工機、52は帝国車両で竣工した。昭和41年1月集電装置変更時にZパンタに取り替えられた。50と52は同年12月に廃車となり、残った51は61と共に川西能勢口~川西国鉄前間で使用、昭和56年12月20日同区間廃止により休車、翌年6月に廃車となった。

 
川西能勢口駅(昭和40年12月22日)

 
鼓滝駅を発車した妙見口行(昭和40年12月22日)

 
多田駅に到着した川西能勢口駅(昭和40年11月1日)

 
建設中の平野車庫の横(昭和40年12月22日)

60形(60・61)
借入中の阪急40形(大正12年藤永田造船所製)の40・41を昭和29年9月に譲り受けてナニワ工機で鋼体化改造して30年1月に竣工した。昭和41年1月集電装置変更時にZパンタに取り替えられた。60は同年12月に廃車となり、残った61は川西能勢口~川西国鉄前間で使用、昭和56年12月20日同区間廃止により休車、翌年6月に廃車となった。

 
絹延橋車庫(昭和40年12月22日)

 
鼓滝~鶯ノ森間の猪名川鉄橋を渡る妙見口行(昭和40年12月22日)

 
鼓滝駅を発車して妙見口に向かう(昭和40年12月22日)

 
平野~多田間を走行する川西能勢口行(昭和40年11月1日)

 
川西能勢口駅(昭和40年11月15日)

10形(10~15・28・29)
元阪急(←新京阪)のP-4、P-5形を昭和32年10月に1500Ⅴ→600Ⅴに降圧、パンタグラフをトロリーポールに取替等の改造を正雀工場で実施の上譲り受けた。翌年3月から下記の編成で常時2連で使用されることになった。( )は阪急時代の車番。
←妙見口
10(11)+11(21)・12(27)+13(22)
14(14)+15(23)・28(28)+29(54)
10~15は2個モーター、28は4個モーター、29はTcである。 
昭和41年1月集電装置変更時にパンタに取り替えられた。320形と置換えで14+156は41年12月に、それ以外の車両は42年10月に廃車となった。

 
急カーブで川西能勢口駅に到着(昭和40年11月15日)

 
鼓滝駅に停車中の川西能勢口行(昭和40年11月15日)

 
鼓滝駅に停車中の川西能勢口行(昭和40年12月22日)

 
猪名川鉄橋を渡る川西能勢口行(昭和40年12月22日)

 
多田駅での交換(昭和40年11月15日)

 
川西能勢口駅停車中(昭和40年11月15日)

 
鼓ケ滝駅に停車中の妙見口行(昭和40年11月15日)

 
多田駅を発車する川西能勢口行(昭和40年11月15日)

20形(20~25)
元阪急(←新京阪)のP-5形を昭和36年5月に借入れた。昭和41年1月集電装置変更時にパンタに取り替えられたが、同年9月に返却され、阪急では直ちに廃車手続きがされて平野車庫で解体された。編成は下記の通りである。( )は阪急時代の車番。
←妙見口
21(51)+20(24)・22(18)+23(52)
24(19)+25(53)
偶数車がMc、奇数車がTc
10形、20形は1両毎に細部が異なり興味が尽きない。

 
絹延橋~川西能勢口間を走行する川西能勢口行(昭和40年12月22日)

 
絹延橋車庫に入庫(昭和40年12月22日)

 
続行車ありの標識を表示して鼓ケ滝駅を通過(昭和40年12月22日)

電動貨車106
31形のところで触れたが、昭和36年8月に35を瑞穂工業で改造した。昭和41年1月集電装置変更時にZパンタに取り替えられたが、保線作業車が導入された結果、仕事がなくなり平成3年3月に廃車となった。
ポール時代の写真が見当たらないため、Zパンタに換装後を貼り付けた。

 
昭和41年11月25日 平野車庫

【番外①】建設中の平野車庫
昭和40年8月21日から手狭になった絹延橋車庫に代わり、平野車庫が建設され、翌年1月25日に完成した。

 
建設中の平野車庫

【番外②】320形
昭和40年5月から8月にかけて阪急320形(320~331)が全車両入線したが、受入体制が出来ていないため、川西能勢口、絹延橋車庫、多田、妙見口に分散留置され、最終的に建設中の平野車庫に集結した。翌年5月から使用が開始され主力として活躍したが、1500形との置換えにより昭和58年から廃車が始まり、61年12月20日付で全車廃車となった。

 


多田駅留置線(上/昭和40年11月1日・下/11月15日)

【番外③】40形
阪急40形は40~45(44欠)の5両作られたが、42は阪神急行時代に昭和6年箕面線で消防車と衝突したため廃車となり、昭和7年2月に41、43、45の3両を借り入れた。昭和23年6月に43が衝突事故で大破したため40を借入れた。43は書類上は休車となっていたが、60形に改造されて不要になった41の旧車体と休車中の電動貨車206の足回りを利用して復活して引続き使用されていた。昭和37年12月43、45共に返却され、43は池田車庫に、45は西宮車庫に留置された後解体された。

 
西宮車庫(昭和39年12月25日)

【番外④】阪急宝塚線

 
川西能勢口駅を通過する回送電車(昭和40年12月22日)

 
石橋駅を発車した宝塚行急行(昭和40年12月22日)

取り急ぎクハ1711、1712

湯口先輩より【10193】「北陸鉄道その6」能登鉄道のホハ、北陸鉄道統合後石川総線でのサハ611の超貴重な画像の公開があり、更に今回その続編とも言える内容の披瀝があり、唯感激するばかりである。いずれの画像も本邦初公開ではないかと思われる。
「北陸鉄道 昭和40年代シリーズ」は、写真と資料を見比べつつ仕事の合間にぼちぼち進めており、現在石川総線を進めているところであるが、不明な点も多々あり悪戦苦闘している。以降加南線、金沢市内線、能登線と進めて行きたいと思っているが、何とか全部終わらせたいと思っている。
表題のクハ1711と1712は現在進行中の「石川総線」の中で登場するが、取り急ぎ画像のみ貼りつけた。クハ1711は46年3月20日野町で、クハ1712は45年10月11日鶴来での撮影である。

 

昭和46年の北陸鉄道浅野川線


クハ1651+モハ3011 46年3月21日 蚊爪

前回の金石線に引き続き、昭和40年代の浅野川線の状況について報告する。金石線は、ほぼモハ3000形で固められていたが、こちらは車両の転出入が激しいため、昭和46年3月時点での状況で報告する。特に同年7月11日加南線廃止後、大幅な車両の動きがあり、今回取上げた元遠州鉄道(車体のみ)のクハ1601、元国鉄のキサハ04のクハ1650形が姿を消した。

【沿 革】
前身は大正13年1月に設立された浅野川電気鉄道で、大正14年5月七ツ屋~新須崎(蚊爪~粟ケ崎間に存在し昭和36年6月廃止)5.3㎞を開業、同15年5月金沢駅前(現北鉄金沢)~七ツ屋間0.8㎞開業、昭和4年7月新須崎~粟ケ崎遊園前(現内灘)~粟ケ崎海岸間2.4㎞間を開業した。同社により砂丘開発の一環として粟ケ崎に大規模なレジャー施設が建設されたが、戦争のため軍部に徴収の上、軍隊の宿舎等に転用され閉鎖されてしまった。戦争末期の昭和20年2月粟ケ崎遊園前~粟ケ崎海岸間1.8㎞間が廃止(昭和27年7月に復活して海水浴シーズンのみ営業したが、昭和49年7月再度廃止)昭和20年7月20日北陸鉄道と合併して同社の浅野川線となった。
平成8年12月8日架線電圧を600Vから1500Vに昇圧して、従来の車両を元京王電鉄3000系改造の8000系に置換え、同時にワンマン運転を開始した。平成8年3月28日、金沢市の都市計画の一環として北鉄金沢~七ツ屋間が地下化された。

【昭和46年3月の状況】
当時から現在まで北陸鉄道各線の中で最も業績が良く、M車に関しては比較的車齢の若い車両が集められていた。運転間隔は朝夕ラッシュ時ほぼ20分、その他の時間帯は30分間隔で運転され、20分間隔の時は3列車、その他の時間帯は2列車使用されていた。この辺りの状況は現在もほぼ同じである。編成はMc+Tcの2連が基本で朝ラッシュ時は2本にMcが増結され3連となった。乗客が多い理由は沿線人口もさることながら、バス路線が並行するのは2つ目の上諸江までで、その先終点内灘までは競合がないことが挙げられる。市内中心部香林坊から内灘を経由して七尾線の宇野気方面に行くバスが1時間に1本程度(現在は更に運転間隔が開いている)あったが途中経路が異なっている。余談になるがバスの方向幕は「宇ノ気」と表示されていたが、現在はJRに合わせて「宇野気」と表示されている。正しい地名は「宇ノ気」である。
北鉄金沢と内灘の間に途中駅が10カ所設置されており、当時「割出」と「蚊爪」が交換駅であったが、現在は「三ツ屋」1カ所である。

【車 両】
昭和46年3月時点での車両は、電気機関車1両(EB221)、電車11両(モハ3010、3201、3301、3551、3561、3563、5101、クハ1001、1601、1651、1652)であった。同一形式が複数両存在しているのは、モハ3560形とクハ1650形が2両のみであとはすべて1形式1両であった。

1)電気機関車
EB221(形式EB22)
小松線の前身白山電気鉄道デ3→北陸鉄道モハ503が化けた電気機関車である。デ3はデ1、デ2と共に白山電気鉄道開業時に昭和3年新潟鉄工所で新製された木製4輪単車である。当件については、湯口先輩が「【9997】北陸鉄道2」で、モハ501、モハ502の画像と共に解説されておられるので、今一度お読みいただきたい。
一旦荷物電車モヤ503となり、加南線に転属し、昭和36年に電気機関車に改造された。昭和43年に浅野川線に転入して北鉄金沢駅構内にあった工場引込線の国鉄貨車の入換えに使用されていたが、昭和47年4月貨物営業廃止により廃車となった。

 
 
(42-3-21
 山代/浅野川線での画像がないため加南線時代を貼り付けた)

2)電車
前述の通りモハは3560形の2両以外は1形式1両、クハも1650形の2両以外は1形式1両であった。
モハ3011(形式モハ3010)
昭和33年日本車輌で新製され石川総線に配置された。主要機器は他車からの流用品であったが自動制御器を持っていた。昭和39年にモハ3000形(3001~3005)と共に金石線に転属したが、予備車的存在で後年主電動機を取り外してクハ代用となっていた。昭和45年HL制御器を搭載して再電装され、浅野川線に転属した。パンタ側非貫通、非パンタ側に貫通扉が設置されていたが、浅野川線転属時にパンタ側にも貫通扉が設置された。

 
46-3-21 蚊爪)

モハ3201(形式モハ3200)・クハ1001(形式クハ1000)
昭和32年、後述のクハ1001と共に日本車輌で新製され加南線に配置され、モハ3201+クハ1001の整った編成で使用された。主要機器も新製されたが他車との互換性を重視してHL制御器を装備した。昭和39年にクハ1001と共に石川総線に転属したが、制御器の違い(石川総線は間接自動制御)から朝夕ラッシュ時以外は休んでいることが多く稼働率は低かった。昭和43年モハ3201が、翌44年にクハ1001が浅野川線に転属となり、再び2連を組むことになった。モハ3201はパンタ側非貫通、非パンタ側に貫通扉設置、クハ1001は片運で運転台側非貫通で、最後までこのスタイルであった。

 


(
モハ3201+クハ1001 46-3-21 蚊爪)


(モハ3201の非パンタ側 
42-3-20 新西金沢)

モハ3301(形式モハ3300)
前述のモハ3011と共に昭和33年に日本車輌で新製され金石線に配置された。金石線は軌道法が適用されるため、連結運転時に全長が30m以下にする必要があり、モハ3011より車長が600mm短く、扉間の窓が1枚少なく5枚となった。機器類は新品で自動制御器を装備した。昭和39年モハ3000形投入により加南線に転属、更に昭和44年制御器をHLに換装して浅野川線に転属した。パンタ側非貫通、非パンタ側に貫通扉が設置されていたが、浅野川線転属時にパンタ側にも貫通扉が設置された。
1500Ⅴに昇圧後も、補助金による新車(実際は中古車)購入の代替車として残り、平成10年に廃車になったが昇圧改造はされていないので自力走行は不可能であった。

 
46-3-20 内灘)

 
(加南線時代 
42-3-21 山代)

モハ3501(形式モハ3500)・モハ3551(形式モハ3550)
モハ3501は昭和36年、モハ3550は昭和37年にそれぞれ日本車輌で新製され浅野川線に配置された。貫通扉は当初から両側に設置されていた。車体の仕様はほぼ同一であるが、モハ3501は、主要機器は新品で自動制御器を装備、モハ3551はモハ850形の廃車発生品を流用して作られ、HL制御器を装備した。モハ850形は元飯田線の辰野~天竜峡間の前身である伊那電鉄の買収車で最後は富山港線で使用後、昭和29年に北陸鉄道が購入した木製車で2両在籍した。
モハ3501は昭和39年に加南線に転属したが、昭和46年7月11日同線の廃止により浅野川線に復帰、その際にモハ3570形3571(昭和36年元遠州鉄道モハ13の車体を利用して自社で製作)の廃車発生品を利用してHL化した。
一方モハ3551は新製以来浅野川線に所属し、頻繁に転属が行われた同社では珍しい存在であった。
モハ3501は46年3月時点では加南線の所属であったが、元々浅野川線用として新製され、同線廃止後復帰したので時期のずれはあるがここで取上げた。

 
(加南線時代 
42-3-21 山中)

モハ3561・モハ3563(形式モハ3560)
加南線の前身、元温泉電軌から引継いだモハ1800(昭和17年木南車輌製)→モハ1831とモハ1810形(昭和18年木南車輌製)を昭和37年にHL制御化の上、前面に貫通扉を設置したもので、経歴はモハ1813→モハ3561、モハ1803→モハ1831→モハ3563である。モハ1801→モハ3562も在籍していたが、昭和45年に再度加南線に転属した。モハ3563はモハ3301と共に1500Ⅴに昇圧後も、補助金による新車(実際は中古車)購入の代替車として残り平成10年に廃車になった。 

 
(
モハ3563/46-3-21  内灘)

モハ5101(型式モハ5100)
昭和26年広瀬車輌でモハ5101~5103の3両が新製され、石川総線に配置された。 HL制御器を持ち、戦後製の新車として活躍していたが、車両の間接自動化が進められた結果、次第に第一線を外れ、昭和44年モハ5101が浅野川線に転属した。石川総線に残った5102と5103は昭和46年に間接自動式の制御器に換装されモハ3761、3762に改番された。(こちらは石川総線で解説する)

 
46-3-21 七ツ屋)

クハ1601(型式クハ1600)
元遠州鉄道のクハ51の車体を昭和37年に日本車輌経由で購入して自社で改造した。遠州鉄道クハ51は同形のモハ13、モハ14、クハ52と共に昭和23年日本車輌で新製され、車体は運輸省規格B`形であった。昭和36年にモハ13+クハ51、モハ14+クハ52の機器を流用してモハ38+クハ86、モハ14+クハ52が製作され、車体のみ北陸鉄道で再起し、モハ13→モハ3571、モハ14→クハ1602、クハ51→クハ1601、クハ52→クハ1603となった。一時は4両共浅野川線に配置されていたが、クハ1601を除き加南線に転属した。(クハ1601の写真がないため加南線転属後のクハ1603を貼りつけた).

 
(クハ
160342-3-21 山代)

クハ1651、1652(形式クハ1650)
元国鉄のキサハ04101、102を昭和36年に購入してサハ1651、1652として使用し、翌37年に運転機器を取付てクハ1651、1652となった。ハ化の際、運転台側正面窓の3枚窓化、非運転台側の貫通化、乗務員扉の取付け等が実施された。
経歴は下記の通りである。
キハ41040(昭和9年日本車輌)→キキサハ41800(昭和25年新小岩工場)→キサハ04101(昭和36年2月新潟区で廃車)→北陸鉄道サハ1651→クハ1651
キハ41041(昭和9年大宮工場)→キサハ41801(昭和25年新小岩工場)→キサハ04102(昭和36年2月新潟区で廃車)→北陸鉄道サハ1652→クハ1652

 
46-3-21 蚊爪)

昭和40年代の北陸鉄道金石線

EB123  42年3月21日  中橋(左手の線路が国鉄金沢駅との連絡線)

湯口先輩より10月8日【9875】と10月16日【9947】で昭和30年代の北陸鉄道金石線、小松線を元簸上鉄道の客車を中心にご紹介いただいたが、昭和40年代の金石線の状況を紹介する。

湯口先輩撮影の写真を補足させていただくと【9875】のトップ「サハ521+サハ604」のサハ604は、乙訓の長老の解説の通りで、6両在籍し601~603が石川総線、604、605が金石線、606が浅野川線に所属し、昭和36年から37年にかけて廃車された。台車まで鮮明に写っている写真を見たのは初めてで、改めてクローバー会の諸先輩の実力を感じた。3枚目の写真の手前はモハ611で、金石線の前身、金石電気鉄道の11として昭和2年日本車輌で新製、北陸鉄道合併後の改番でモハ611、昭和35年7月電装解除してサハ701、浅野川線、金石線、小松線と転属して昭和40年10月に廃車された。

【沿革】

金石線の歴史は古く、明治31年2月長田町~金石間4.85kmを金石馬車鉄道として762mmで開業、大正3年8月1067mmに改軌と電化を実施して金石電気鉄道に改称、大正9年10月長田町~中橋間0.6km開業、大正12年8月金石~大野港間2.0km開業、昭和18年10月戦時統合で北陸鉄道に合併し、同社の金石線となり、昭和46年9月1日全線の営業を廃止した。中橋~金石間は県道と並行しており、全線軌道法の適用を受けていた。

【訪問時の状況】

金石線を訪れたのは、現役時代の昭和42年3月と昭和44年3月、社会人になってからの昭和45年10月と昭和46年3月の4回で、電車に関しては諸先輩が撮影された個性的な車両は姿を消し、ほぼモハ3000形に統一されていた。始発の中橋駅は金沢駅の裏手にあり、国鉄とは線路は繋がっているものの乗客は徒歩連絡であった。当時電車は30分間隔で運転されていたが、並行する県道には市内中心部香林坊~金石間に同社のバスが頻繁に運行(現在もほぼ10分間隔)、大野港までも30分間隔(現在はほぼ1時間間隔)で運行され、電車の利用者は通勤、通学客以外は極めて少なかった。

【車両】

昭和46年3月時点での車両は、電気機関車3両(EB123、ED211、ED231)ディーゼル機関車1両(DL21)電車6両(モハ3001~3005、クハ1201)であった。

①電気機関車

EB122/昭和55年9月14日廃止になった能美線(新寺井~鶴来)の前身能美電鉄が開業時に新製した木製4輪車デ2として大正14年日本車両製で新製された車両である。昭和34年に電気機関車に改造され、EB122となり、昭和41年にボギー車化された。白菊町駅の入換に使用されていたが、昭和45年3月金石線に転属となり、同線廃止により廃車となった。

 

上/45年10月11日 下/46年3月20日 金石

ED211/元能美電鉄のデ3として作られた車両で、前述のEB122とは同一グループであった。昭和38年に電気機関車に改造されEB123となり、昭和41年に主電動機を4個に増強されED211となった。

 

46年3月20日 中橋

ED231/元能美電鉄のデ8として作られた車両で、昭和5年日本車輌製の半鋼製4輪車であった。一旦電動貨車モヤ621に改造後EB131となり、昭和41年ボギー車化の時の主電動機を4個に増強されED231となった。長く石川線で活躍していたが、昭和45年3月EB122と共に金石線に転属となり、同線廃止により廃車となった。EB122、ED211とは異なり、電車時代の面影が強く残っていた。

 

42年3月21日  新西金沢(石川総線時代)

②ディーゼル機関車/昭和38年協三工業製の小型DLで、北陸本線の交流電化に伴い、金沢駅での自社の電気機関車による貨車の受渡しが不可能になったため作られた。

 

46年3月20日 中橋

③電車

モハ3000形(3001~3005)/昭和24年日本鉄道自動車で新製され、石川総線の主力であった。昭和39年名鉄から転入したモハ3700形(元名鉄モ700形)の投入により5両とも金石線に転属した。モハ3005は石川総線時代の事故復旧時にノーシル・ノーヘッダー、張上げ屋根、正面に貫通扉の設置が行われ、近代的なスタイルとなった。その他の車両についても前面窓のHゴム化(3001、3002)、窓枠のアルミサッシ化(3004)等が実施された。金石線廃止後は全車両小松線に転属し、従来の車両を置換えた。

 

モハ3001  46年3月20日 金石

 

モハ3003  42年3月21日 中橋

 

モハ3004 上/45年10月11日 中橋 下/46年3月20日 金石

 

モハ3005 46年3月20日 大野港

クハ1201/河南線の前身、元温泉電軌のデハ29が前身で、昭和18年木南車両で作られた。北陸鉄道合併後の改番でモハ1816→モハ1832となり、昭和37年に電装解除してクハ1201となって浅野川線に転属した。昭和45年に金石線に転属となったが、廃止後再度浅野川線に戻った。

 

46年3月20日 大野港

【参考1】金沢機関区一般公開

昭和45年10月11日訪問時、偶然にも金沢機関区の一般公開日であった。現在も鉄道記念日前後の土曜日、日曜日に全国各地で機関区等鉄道施設の一般公開が行われて多くの見学者で賑わっているが、この時はそれほど見学者は多くなかった。

 

【参考2】快速こしじ

快速「こしじ」は、電車急行を特急に格上げした時に余剰になった471系、475系等を使用して富山~福井間で運転されていた快速電車であるが、一部気動車による運転もあった。当時の時刻表が手許にないので詳細は不明であるが、この列車の運転区間は金沢~富山間であったのだろうか。45年10月11日金沢駅の七尾線ホームでの撮影である。

少し前の十和田観光電鉄

【9754】「川重製のみぶ型」のコメントで、K..生さんが十和田観光電鉄のクハ4406について触れられたので、昭和40年代の状況について少しだけ書いてみたい。同社については、乙訓の長老が昨年9月1日【4255】賛書紹介「あの電車を救え!」で昭和32年頃に撮影された貴重な映像を紹介されておられるので併せてご覧いただくと共に重複部分があることをお許し願いたい。同社を訪れたのは、京阪沿線の高校時代の昭和40年3月、現役時代の昭和42年9月、社会人になってからの昭和46年5月、昭和50年9月の4回である。その後訪れた方がおられたら是非報告をお願いしたい。

【沿 革】

現在の東北本線の前身の日本鉄道は、明治23年11月盛岡まで開通し、十三本木峠を越え、三戸から更に陸羽街道(現在の国道4号線)沿いに北上し、野辺地から陸奥湾沿いに青森に向かう予定であったが、街道沿いの旧宿場町の反対に会い、尻内(現八戸)、古間木(現三沢)、沼崎(現上北町)を経て野辺地に至るルートに変更された。陸羽街道沿いの五戸、伝法寺、藤島(三本木)、七戸の各宿場町は幹線鉄道から取り残され繁栄を失ってしまった。三本木から鉄道に最も近い古間木駅まで16キロ離れており、徒歩か馬車しかなく、この区間に鉄道を望む声が上がるのは自然の成り行きであった。

このような状況下で大正3年6月十和田軌道が設立、大正9年10月十和田鉄道に社名変更、大正11年9月14日古間木(現三沢)~三本木(現十和田市)間を軌間762mmで開業した。戦中、戦後の混乱期を乗り越え、昭和26年6月20日1500Ⅴ電化と1067mmへの改軌を同時に完成させ、一夜にして近代的鉄道に変身した。電化工事一式を日立製作所が請け負い、同社製の電車4両と電気機関車1両が新車で用意された。青森県下では弘南鉄道が昭和23年7月に電化、弘前電鉄が中央弘前~大鰐間を昭和27年1月に新規開業しているが車両はいずれも中古車であった。同年12月30日社名を現在の十和田観光電鉄に変更、昭和30年9月には十和田湖で遊覧船事業を開始した。

昭和43年5月16日に東北北部を襲った十勝沖地震は当社にも大きな被害をもたらし、その復旧費に多額の資金を要したため経営危機に陥り、昭和44年10月経営権を国際興業に譲渡した。被害の状況は、当時の新聞等によると「三本木駅は大破して倒壊寸前、線路は架線の支柱が傾き、レールは軌道床が崩れて梯子のようにぶら下がり、途中駅もメチャメチャに壊れている」と報じられている。余談であるが、尻内(現八戸)~五戸間を営業していた「南部鉄道」は復旧を諦めバス専業となった。

社名のイメージからは十和田湖へのメインルートのように思えるが、十和田市駅から十和田湖(休屋)行のバスは1日1往復しかない。途中の焼山まで7往復あり、青森駅または八戸駅発のJRバスに乗換えることは可能である。十和田湖へは青森駅、八戸駅からのJRバスがメインルートとなり、花輪線十和田南駅からのルートはすっかり寂れてしまい、弘南黒石駅からのルートはバス路線が廃止されてしまった。

【車 両】

昭和50年9月時点での車両は、電気機関車2両(ED301、ED402)、電車7両(モハ2403、2405、クハ2404、モハ3401、クハ4406、モハ1207、クハ1208)であった。電車の車号の下1桁はモハが奇数、クハが偶数になっている。

(1)   電気機関車

ED301/昭和26年7月の電化、改軌時に投入された日立製作所製の30t機関車で、入線時は貨物列車の他、混合列車にも使用されたが、昭和37年ED402の入線後は、構内入換と除雪が主な任務となった。現在も廃車にはなっておらず健在であるが、使用頻度は極めて少ないものと思われる。(4292 三本木)

 

ED402/昭和37年4月に新製した川崎車輛製の35t機関車である。貨物列車の主力として活躍したが、昭和61年11月貨物取扱が廃止され、以降は工事列車の牽引、除雪等に使用されている。(46529 十和田市)

 

(2)   電車

モハ2403、2405・クハ2402、2404

昭和26年の電化、改軌時に日立製作所で新製された半鋼製車でモハとクハは同形である。共に両運転台付であったが、昭和42年9月2日撮影時にはクハ2402の三沢寄りの運転台が撤去されて片運化されていた。新製時の車号は、モハ2401、2402・クハ2401、2402であったが、重複車号を避けるため昭和33年8月7日付で現車号に改番された。

昭和43年12月事故によりクハ2402が廃車(日付は45年3月25日)、残りの3両も元東急のモハ3809、3811・クハ3810と代替で昭和56年12月18日付で廃車された。

 

上から モハ2405+クハ2404 (46529 十和田市) / モハ2405+クハ4406(5091 三沢) / クハ2402(4292  三本木) / クハ2404 (4292  三本木)

*「三本木」は昭和44年5月15日に「十和田市」に改称している。また「古間木」から「三沢」への改称は昭和36年3月1日である。

モハ3401

昭和30年5月に帝国車両で新製された全金車で、広窓の18mを越える車体は当時の地方私鉄の車両の中では最優秀作品であった。平成14年に元東急のステンレスカーと代替で廃車になる予定であったが、動態保存されることになり、現在でもイベント時等に元気な姿を見ることができる。

 

上 旧塗装(4292  三本木) 下 新塗装(46529 十和田市) 

クハ4406

昭和36年6月に川崎車輌で新製された全金車で、車体はモハ3401とよく似ているが、貫通扉に方向幕を埋め込む等、更に洗練されたスタイルになった。基本的にはモハ3401と編成を組んだが、モハ2400、元東急のモハ3800と組むこともあった。平成14年に元東急のステンレスカーと代替で廃車となった。

 

上 旧塗装(4292  三本木) 下 新塗装(5091 十和田市) 

モハ1207、クハ1208

昭和44年11月1日に廃止された定山渓鉄道のモハ1201、クハ1211が前身で、昭和45年に入線した。幅の狭い窓がズラリと並び、座席は一見クロスシートに見えるがロングシートである。モハ、クハ共に正面2枚窓、両運で運転台は右側である。他車とは制御器が異なり連結が不可能なため、モハ1207の単行かモハ1207+クハ1208の2連で使用されていた。平成2年3月、東急からの転入車と代替で廃車となった。

 

上 モハ1207 下 クハ1208 (46529 十和田市) 

(3)   たまにはバス (またバス?)

昭和50年に訪れた時は何故かバスを撮影している。今となれば結構珍しい車両もあるので紹介する。(撮影日は5091 十和田市) 

青2く6228/青森行急行バス 42年式 いすゞBU10P(川崎航空機)

 

青2く6234/ 42年式 ふそうMR620(クレハ)

「ふそう」中型車の元祖的なバスで、関西では京阪バス、江若バス、有田鉄道等に存在した。京阪バスはボンネットバスと共通運用で大津市内線、江若バスもボンネットバスと共通運用で和邇~途中線等で使用された。後にB6(B620等)シリーズ→MK(MK115→MK116)シリーズへと進化していった。

 

青2く6257/ 42年式 いすゞBU20KP(川崎航空機)

「オバQバス」と言われた車両で、関西では丹海バスの京都~間人間の快速バスに長く使用されていた。

 

青2く6267/ 42年式 ふそうMAR470(クレハ)

 

青2く6349/ 43年式 ふそうMAR470(川崎航空機)

比較的珍しい「ふそう」「川崎」の組み合わせであるが、登録ナンバーに注目していただきたい。登録ナンバーの下2桁「42」「49」は永久欠番の筈であるにも関わらず、「49」が付番されている。登録作業がコンビ―タ化される前、青2く6000番台が十和田観光電鉄の割当ナンバーで、自社で自由に付番できたことが原因と考えられる。ちなみに現在は希望により付番は可能である。

川重製のみぶ型

「京22か 402」昭和49年11月4日 四条大宮/市電20系統代替の202系統 

青信号特派員さん投稿の「【9605】山陰線四条踏切のこと」のコメントでK.H生さんが「川重製のみぶ型」という表現をされておられた。私自身は初めて耳にした単語であるが、非常に的を得た表現であると思う。

「川重製のみぶ型」とはコメントで少し触れたが、昭和47年1月22日千本・大宮・四条線の廃止により壬生車庫が廃止になった際に代替バス用として新製されたバスのことで、シャーシはいすず、車体は川崎重工製で型式はBU06Dと称し、当時最新鋭の都市型低床バスであった。窓の大きい車体は京都市交通局の特注である。同形式のバスは、近畿圏では他の都市での導入例は無いと思われるが、関東圏では東京都営バス、東武バス、東急バス、西東京バス、国際興業等で導入された。

登録番号「京22か382~441」の60両が導入され、市電の代替系統に使用された。438~441のラスト4両は側面の方向幕が前後に設置され、市電代替系統以外でも使用可能なようになっていた。

当時の市バスは、均一系統は「前乗り運賃先払い」、整理券方式の多区間系統は「後乗り運賃後払い」であったが、代替系統は均一系統であるにもかかわらず「後乗り後払い」としたため必然的に専用車となった。配置は市電時代の壬生車庫が廃止されたので五条車庫となった。

その後、均一、多区間を問わず「後乗り後払い」に統一されたため、均一区間用車両の側面方向幕の後部への移設工事が行われた。

京22か 429 55年4月10日

 

京22か 440 51年1月8日/市電代替系統以外でも使用するため方向幕が前後に設置されている。

 

その他の47年式車について

47年式車はBU06D以外に、前期13両、後期65両合わせて78両導入されたが、後期車から、いすゞ西工車、ふそう車と日野車の窓の2段サッシ化、後扉の引戸化が行われたためスタイルが大きく変化した。

参考までにメーカー別に画像を表示する。

いすゞ

後期車は「京22か616~638」の23両が作られ、型式はBU05である。車体は616~625が西日本車体工業(以下西工と略す)、626~638が川崎重工である。前期車がBU06Dのため比較ができないので46年式車を表示する。46年式車は「京22か204~210、314~346」(342欠)の39両が在籍し、前者が型式BA30、車体は川崎重工、後者が型式BU05D、車体は西工である。

京22か 210  46年式BA30(川崎重工) 50年1月19日/「210」は市電10系統の代替系統で、この時期起点が当初の九条車庫から京都駅八条口に変更されている。その後、起点を京都駅、終点を玄琢に、系統番号を「6」に変更して現在に至っている。

 

京22か 316 46年式BU05D(西工) 50年6月15日

 

京22か 617 47年式BU05(西工) 50年3月16日

 

京22か 637 47年式BU05(川崎重工) 55年9月7日

 

ふそう

前期車は「京22か443~451」(449欠)で型式MR410、車体はクレハで44年式から続くスタイルである。

後期車は「京22か608~615・672~674」の11両で型式MR470、車体は608、672、673の3両が西工、609~615、674の8両がクレハである。

西工、クレハともに基本的なスタイルは変わらないが、窓の2段サッシ化と後扉の引戸化により印象が大きく変化した。

京22か 443 47年式MR410(クレハ)55年1月5日

 

京22か 613 47年式(クレハ)MR410 50年1月19日

 

京22か 673 47年式MR410(西工)50年1月19日

 

日野

前期車は「京22か455~459」で型式RE100、車体は帝国車体である。「山陰線四条踏切」の上から2番目に「京22か313」が写っているので、同一グループの「311」(46年式RE100、帝国車体)を表示する。47年式前期車は低床車となったが44年式から続くスタイルである。

後期車は「京22か639~671」(642、649欠)の31両で形式RE100、車体は639~663の23両が帝国車体、664~671の8両が西工である。

京22か 310  46年式RE100(帝国車体) 55年11月8日

 

京22か 645  47年式RE100(帝国車体) 50年1月19日

 

京22か 671  47年式RE100(西工) 58年1月1日

 

日産ディーゼル

47年式車は在籍しない。参考までに46年式車を表示する。46年式車は「京22か288~293」の6両在籍し、型式4R95、車体は西工である。

京22か 293 46年式4R95(西工) 50年3月16日

 

日産ディーゼル車は京都市交通局では少数派である。ちなみに、昭和51年9月末現在の在籍車両数は976両(定期観光車15両を含む)でメーカー別の内訳は、いすゞ321両(定期観光車2両)、ふそう278両(定期観光車7両、内1両休車)、日野340両(定期観光車6両)、日産ディーゼル37両)であった。

47年式「川重のみぶ型」の関連で、同年式車のスタイルの変化について簡単に触れたが、あまりバスの話をすると「あいつは何者」と言うことになりかねないので、ここまでにする。

【参考1】市電千本・大宮・四条線廃止時の代替バスの系統

201 みぶ~千本今出川~百万編~祇園~みぶ(1の代替)

202 白梅町~千本今出川~みぶ~祇園~岡崎公園(20の代替)

205 烏丸車庫~千本北大路~四条大宮(5の代替)

207 九条車庫~九条大宮~四条大宮~祇園~東福寺~九条車庫(7の代替)

210 九条車庫~京都駅~七条大宮~千本今出川~白梅町(10の代替)

217 九条車庫~四条大宮~祇園~岡崎公園(1・7の代替)

217甲 九条車庫~西大路七条~七条大宮~四条大宮~四条烏丸(17の代替)

221 九条車庫~九条大宮~四条大宮~千本北大路~烏丸車庫(21の代替)

205と221は西賀茂、210は三哲で担当した以外はすべて五条で担当した。

【参考2】BU06、BUO6Dの使用例

東京都交通局 46年式BU06D  58年6月30日 御茶ノ水駅前

 

東武バス 46年式BU06D 59年1月15日 足立営業所

 

東武バス 46年式BU06D 60年2月11日 新座営業所

多区間用の前後扉車で、スタイルは京都市の「みぶ型」と類似している。前扉が2枚共内側に開くグライドスライドドアー、後扉が引戸でなく折戸である点が異なっている。

 

東急バス 45年式BU06D 59年3月20日 大森操車所

 

西東京バス 46年式BU06D 59年7月24日 八王子営業所

歌登町営軌道

小頓別に到着した昭和39年泰和車両製の自走客車

幌延町営軌道を後に問寒別駅8時27分発324D(キハ22×2)に乗車した。稚内発旭川行で、宗谷本線全線を6時間40分かけて走破する列車である。約1時間で音威子府に到着、天北線経由稚内行725Dに乗換え、小頓別に10時26分に到着した。この時間帯は町営軌道の接続はなく、駅前から枝幸行の宗谷バスが接続した。女性車掌が乗務する中1扉のツーマン車で、乗客は思いのほか多く座席は7割方埋まっていた。「上毛登別」「下毛登別」「12線」と停車し、約30分で「歌登」に到着、降りたのは私の他3名であった。この先に大きな町はないので、殆どの乗客は終点の枝幸まで行くのであろう。

バス停から200m程歩くと線路があり、13時20分発小頓別行になる自走客車が停まっていた。寒冷地のためか立派な車庫があり、使用していない車両はその中に格納されており、外に出ていたのは、ロータリー車と廃車になった元十勝鉄道の客車だけであった。発車時間まで見学・撮影し、車内に入ると運転台横には運賃箱があり、歌登と小頓別からの運賃表が掲示されていた。途中駅間の運賃表示のないのが気になったが、そんな乗客は非常に少ないのであろう。歌登発車時は4人であったが、途中の停留所からボツボツ乗客があり、小頓別到着時は12名になっていた。小頓別から「急行天北」に乗車したが座席の8割位が塞がっていた。行きに乗った枝幸行の宗谷バスといい、まだ公共交通機関がアテにされていた時代であった。   

【沿 革】

宗谷本線は大正元年11月に音威子府まで延伸開業し、その後、小頓別、中頓別、浜頓別、浅芽野、鬼志別と小刻みに延伸開業を繰り返し、大正11年11月に稚内に達した。当初は咲来からオホーツク海沿岸の中心的な町であった枝幸を経由する予定であったが、音威子府から浜頓別に向かうルートに変更されたため、小頓別と枝幸を結ぶ簡易軌道が北海道廰により建設され、昭和4年12月小頓別~幌別六線(後の歌登)間、昭和5年9月枝幸まで全通し、枝幸線と呼ばれた。当初動力は馬力であったが、昭和8年にガソリン機関車が導入された。当初は運行組合に運営を委託していたが、昭和7年5月より北海道廰直営となった。翌8年11月幌別六線~志美宇丹間の幌別線が馬力により開業した。昭和19年11月興浜北線(浜頓別~北見枝幸)が不要不急路線として撤去されると、枝幸への唯一の足として乗客、貨物共に増加したため、難所の小頓別~毛登別間をトンネルでショートカットする工事が実施され昭和22年4月に完成した。しかし、戦後間もなく昭和20年12月に興浜北線の運転が再開されると、枝幸まで行く乗客はそちらに流れてしまい、昭和23年幌別六線~枝幸間が休止となり、昭和26年に正式に廃止になると共に、残りの区間の運営を歌登村に移管した。「幌別六線」はこの時に「歌登」に改称されたものと思われる。

話が前後するが、昭和14年9月枝幸村から分村して歌登村が誕生し、昭和37年1月歌登町発足により、村営から町営となった。

歌登~志美宇丹間は昭和37年から動力化工事が開始され、昭和40年6月15日に完成し、開業したが、国鉄美幸線の工事に伴い建設用地に充てるため昭和43年12月31日以降休止となり、翌年5月に廃止となった。美幸線自体は、美深~仁宇布間21.2キロを昭和39年10月5日に開業したが、大赤字のため昭和60年9月17日限りで廃止なった。未成区間の仁宇布~北見枝幸間57.6キロ間は、路盤工事が100%完成し、一部では軌道の敷設も行われており、完成目前で中止となった。

残る小頓別~歌登間も乗客の減少により昭和45年10月31日限りで運行を休止し、翌年の46年5月26日に廃線式が行われた。

【車 両】

昭和44年10月1日現在の在籍車両は次の通りである。

ディーゼル機関車2両/昭和40年泰和車両製8t(機関/日野DA59)

自走客車3両、内訳/昭和38年、39年、40年各1両、いずれも泰和車両製(機関/日野DS60)

ロータリー車1両/昭和40年泰和車両製(機関/日野DA59)

ラッセル車1両/昭和40年泰和車両製(機関/日野DA59)

6t積鉄製有蓋貨車1両/昭和40年泰和車両製

6t木製無蓋貨車3両/昭和40年泰和車両製

材運台車46両

上記の他、歌登に元十勝鉄道コホハ44(大正13年藤田鉄工所製、昭和32年泰和車両で鋼体化改造/昭和35年購入)と小頓別に昭和33年運輸工業製の超小型自走客車の廃車体があった。

 

昭和39年泰和車両製の自走客車

 

運転台と車内

 

昭和40年泰和車両製のロータリー車

 

元十勝鉄道の客車の廃車体

 

昭和33年運輸工業製の超小型自走客車の廃車体/運転台が片側にしかない単端式の2軸車で、エンジンはダットサンを積んでいた。定員は15名となっているが、そんなに乗れば呼吸困難になると思われ、実際には8名も乗れば満員である。窓が開かないので夏は使用できないのと小さ過ぎて使い物にならないため、早々と小頓別で物置になった。「歌登のマイクロレールバス」として模型化されており、割に有名な車両であった。

【運 行】

昭和44年10月1日現在、旅客列車4往復、貨物列車1往復が運行され、時刻表は別添の通りである。貨物列車のダイヤは、歌登発8時30分→小頓別着9時20分、小頓別発11時→歌登着11時50分であった。

歌登~小頓別間に中央、秋川(仙)、秋川(定)、熊の沢、柴山、大島、毛登別、吉田の8カ所の停留所があり、中央、熊の沢、毛登別は交換可能であった。また、歌登~志美宇丹間には辺毛内、興生、北志美宇丹の3カ所の停留所があった。

簡易軌道廃止後は小頓別~枝幸間の宗谷バスで代替されたが、小頓別~歌登間は廃止され、歌登~枝幸間に短縮されてしまった。その代わりに札幌~枝幸間1往復と旭川~枝幸間2往復の高速バスが音威子府~小頓別~歌登~枝幸間の各停留所に停車し、ローカル輸送を担当している。枝幸7時発の札幌行は音威子府で鬼志別発旭川行と相互に乗換え可能である。枝幸町では住民の利便性の向上と観光客の誘致のため、バス会社に対し、高速バスの増発を要請しているが、採算との兼合いで実現には厳しい状況である。

 

小頓別駅の接続列車の欄には「省線接続時間」と書かれており、よほど年配の職員が作成したのであろう。国鉄の駅と歌登の町を結ぶ重要鉄道路線として認識されていたため、JTBの時刻表に掲載されていた。(れっきとした地方鉄道でも「尺別鉄道」は掲載されていなかった)

【その他】

歌登町は平成18年3月20日に枝幸町と対等合併して(新)枝幸町となった。昭和14年に枝幸村から分村して歌登村が誕生しているので、元の鞘に収まったということになる。歌登町はなくなっても「歌登」の地名はなくなっておらず、今でも冬になるとニュースや気象情報の「全国の最低気温」で時折「歌登」が登場する。(最低気温-37.9度を記録している)そんな時、自走客車の乗った時のこと、小頓別に超小型車の廃車体、元十勝鉄道の客車の廃車体等を撮影した時のことを懐かしく思い出している。町営の宿泊施設「うたのぼり健康回復村」に昭和40年釧路製作所製のディーゼル機関車が保存されており、リタイヤ後是非見に行きたいと思っている。

特派員さんの「茶内の今昔」の中の浜中町営軌道の写真、西村雅幸さんの「茶内の今昔のお返しに」を拝見して、思わず現役時代に訪れた「浜中町営軌道」のことを思い出し、つい書いてしまった。直ぐに西村雅幸さんから「茶内の思い出に添えて」のタイトルで貴重なカラー写真と共に書き込みがあったので、調子に乗ってしまい1度しか訪れていない標茶、幌延(問寒別)、歌登の各町営軌道についても思い出と共に書き込みした。歌登は片道のみ乗車したが、他の3カ所は撮影だけに終わってしまったのが残念である。理由は、時刻表に記載がなく、乗車計画が立てられなかったためで、今から思うと、事前に役場に問い合わせるべきだったと思う。但し、問い合わせたところで、問寒別線のように乗れば当日中には戻れないところもあった。

今回取り上げた各町営軌道は、昭和45年度で国からの補助金が打切られたため、46年度中には全部廃止されてしまい、最末期の記録の一端として見ていただければ幸いである。本来ならば湯口大先輩の「簡易軌道見聞録」を読み、参考にした上で書こうと思ったが、手元にないため、やむを得ず当時の写真と資料等を基にして書いた。「簡易軌道見聞録」は実家の物置に眠っている筈であるが、探しても見当たらなかった。

リタイヤ後は保存車両を訪ねると共に、簡易軌道廃止後の代替バスの運行状況等についても調査したいと思っている。

幌延町営軌道

泰和車両製5tDLの引く混合列車(問寒別市街~宗谷)

幌延町営軌道を訪れたのは、昭和44年9月8日一度だけである。前日の夜、札幌21時発急行「利尻2号」で出発、確か何名かのDRFC会員の方と一緒であった。旭川には日付が変わらない内に到着するためか満員で立ち客も見られた。旭川で半数以上の乗客が降り、機関車がC5516と交替した。深夜の宗谷本線を走り、幌延に4時57分に到着。通過した問寒別に戻るため、5時40分発上りの一番列車(336D)に乗り、6時11分に到着した。簡易軌道のりばで時刻表を確認すると、20線発の列車が8時10分に到着することが判明し、それまでの間、構内の廃車体や、問寒別駅を発車する「59689」の引く下り貨物列車、キハ22×2の下り1番列車(335D)を撮影した。町の外れで、DL+無蓋車+有蓋車+客車を撮影後、事務所に挨拶に行き、お話を伺った後、次の目的地「歌登町営軌道」に向かうべく324Dに乗車した。

【沿 革】

前身は、問寒別駅を起点に上問寒別16線に至る13.8キロの馬力線で、昭和5年9月10日に使用開始した。昭和14年8月14日豪雨による水害のため全線で運休、翌15年には運行を休止した。同年9月終点付近で砂クロームを採取していた「日本白金クローム㈱」が路線の応急修理を行い、20線を経て採鉱現場までの間4.3キロを建設して鉱石輸送を実施した。昭和16年9月、運行組合、北海道廰、天塩鉱業㈱の3社で協議の結果、天塩鉱業㈱が全線を無償で借り受けて運行することになった。同社は日本白金クローム㈱の延長区間を買収し、路盤、線路の強化を行い、翌17年9月より蒸気機関車1両、ガソリン機関車2両を導入して動力化した。昭和20年8月、敗戦により砂クロームの採掘が中止となり、20線から先の採掘場までの線路が撤去された。昭和22年6月北方産業㈱による石炭採掘の開始に伴い、20線~炭鉱間約3キロを伸延して石炭輸送を開始。昭和27年9月1日、幌延村が天塩鉱業㈱の所有部分を買収して村営化した。この時の動力車は、ガソリン機関車で7t車1両、5t車3両、1t車1両の5両であった。翌28年には7tのディーゼル機関車を導入したが、昭和31年12月車庫火災により全動力車が罹災し、その復旧費が経営を圧迫することになった。加えて昭和33年11月10日経営不振により炭鉱が閉鎖され、閉山処理が終了した昭和35年11月28日をもって20線~炭鉱間の運行を休止した。その後は、地域住民の旅客輸送、雪印乳業問寒別工場への生乳輸送、北海道大学天塩演習林からの原木輸送等で役割を果たしていたが、昭和43年以降、並行する道路の路盤改良と冬季の除雪が開始された結果、存在意義を失ってしまい、昭和46年5月31日をもって運行を終了し、7月3日に廃線式が実施された。

【車 両】

昭和44年10月時点での在籍車両は、次の通りである。

ディーゼル機関車8両、内訳/昭和30年旭重工業製8t(昭和31年幌延炭鉱より購入)、昭和28年日立製作所製7t(昭和32年4月泰和車両にて更新修繕)、昭和29年日立製作所製7t(昭和32年4月泰和車両にて更新修繕)、昭和35年泰和車両製7t、昭和37年加藤製作所製7t、昭和38年泰和車両製7t、昭和38年泰和車両製6t(除雪装置付)昭和42年泰和車両製5t

牽引客車2両/昭和25年日本鉄道自動車製で昭和39年に車体更新し、木製車体に鋼板を張りニセスチール化した。(昭和31年11月当別線より転入)

6t鉄製有蓋貨車2両、内訳/昭和35年釧路製作所製、昭和36年泰和車両製

鉄製運材車50両

自走客車は最後まで入線しなかった。

 

昭和42年泰和車両製5tDL/廃止後、幌延町役場前の名林公園に牽引客車1両と共に保存されていたが、老朽化が激しく平成3年に惜しくも解体されてしまった。

 

牽引客車/上窓がHゴムになっており、鋼製車のように見えるが、実態は木製車体に鉄板を張っただけのニセスチール車。1両は5tDLに連結されて保存されていたが、惜しくも解体されてしまった。

 

6t鉄製有蓋貨車/昭和36年泰和車両製

 

昭和25年天塩鉱業自社工場製2軸客車の廃車体

 

ロータリー車と思われるが正体不明の廃車体

【運 行】

昭和44年10月時点での運行状況は、問寒別市街~20線間を混合列車2往復であった。別添の時刻表の通り、5月1日~10月31日と11月1日~4月30日とは運行時刻が異なっていた。問寒別市街~20線間16.3キロの所要時間が1時間というのは、あまりにも遅すぎであり、冬ダイヤでは20線の到着時刻と発車時刻が同じになっている。同じ列車が折り返すので、そのようなことはあり得ず、実際には10~15分前に到着していたものと思われる。

 

【その他】

問寒別~20線間に「宗谷」「4線」「8線」「16線」と4箇所停留所(すべて4の倍数である)が存在したが、「宗谷」=「第二問寒別」、「4線」=「中問寒第一」、「8線」=「中問寒第ニ、「16線」=「上問寒第一」、20線=「上問寒第ニ」と別の名称を持っていた。

三角表示の運賃表は括弧書きで「別名称」が書かれており、問寒別の駅名表示の次駅表示は画像のように「第二問寒別」と書かれていた。この辺りの関係は、聞きそびれてしまったが、今でも気になっている。

運賃は問寒別から「宗谷」まで20円、以下「4線」40円、「8線」50円、「16線」60円、「20線」70円であったが、11月1日~4月30日間は各区間10円割増となっていた。

【参 考】

 

幌延に到着したC5516の引く「利尻2号」

 

簡素な佇まいの問寒別駅

 

59689の引く下り貨物列車

 

59689のサイドビュー

下り335D(キハ22×2)

標茶町営軌道

標茶町営軌道を訪れたのは、昭和44年9月6日一度だけである。当日の行動を振り返ると、早朝に釧路市内のYHを出発し、駅前のバスターミナルより新幌呂行のバスに乗り、下幌呂で降りた。目的は廃止された鶴居村営軌道の車両を見るためであった。前日、浜中町営軌道の方から「鶴居村営軌道の車両が未だ残っていると思う」と言われたので、急遽釧路臨海鉄道に行く予定を変更した。雪裡線と幌呂線の分岐する下幌呂に行けば何かあるだろうと思い下幌呂で降りたのであるが、道端にレールの残骸が散らばっていた程度で鉄道車両らしきものは何もなく、通りかかった人に聞いたところ「車庫が役場の近くにあったのでそこではないか」と言われた。役場の場所は中雪裡である。中雪裡を通る川湯温泉行のバスは先程通過したばかりで、次のバスは2時間後のため、やむなく釧路に引き返した。釧路からは9時10分発急行「大雪3号」に乗車、途中の五十石駅でC58127の引く客車列車(623レ)と交換して10時1分に標茶に到着。駅前の道路を真っ直ぐ進み、釧路川にかかる開運橋を渡ると町営軌道の開運町駅であった。構内にはDLが1両、2個ライトの自走客車が1両、廃車になった牽引客車が1両停まっていた。事務所に挨拶に行き、お話を伺うと、自走客車は3両あり、1両は先程上御卒別行で出て行き、1両は沼幌線で使用するため中御卒別にいるとのこと。次の11時50分発の上御卒別行で往復したかったのであるが、午後の予定の雄別鉄道に行けなくなるため諦めた。後日、標茶町のパンフレットと一緒に乗車券、時刻表、運賃表等をお送りいただいたが、中でも開運町で発売されている乗車券は行先毎に色が変えられており、非常に凝ったものであった。残念ながら現物が京都の実家にあるため、今回お見せできないが、実家に帰った時に持ち帰りたいと思っている。開運町には1時間余り滞在後、「しれとこ2号」で釧路に戻り、雄別鉄道を訪れた。

【沿革】

標茶町営軌道は、簡易軌道の中で最も新しく、昭和26年5月に開運町~上御卒別間22.5キロを第1期工事として起工、地元の強い要請により昭和29年冬に14キロ地点の神社前までの工事が完成した時点で運行を開始し、昭和33年12月に全線が完成した。昭和34年より第2期工事として開運町~標茶駅前間1.7キロを起工、昭和36年11月に完成したが、予想に反して利用者が少なく、昭和42年1月に運転休止となった。中御卒別より分岐する沼幌支線は昭和39年6月に起工、昭和41年6月より中御卒別~沼幌間6.4キロの運行を開始したが、既に道路の整備が進んでいたため学生の通学利用程度しか需要がなく、4年後の昭和45年11月に運転を休止した。開運町~上御卒別間も昭和46年8月16日に廃線式が実施され、町有バスの運行に切り替えられた。

【車両】

昭和44年10月1日時点での在籍車両は次の通りである。

ディーゼル機関車4両、内訳/加藤製作所製(KE-21、昭和36年9月購入)・釧路製作所製(KE-25、昭和39年10月購入)・日本輸送機製(DA-57、昭和29年6月購入)・北炭夕張製(DA-120、昭和40年12月購入)

自走客車3両、内訳/釧路製作所製(DS-22、昭和33年11月購入)・泰和車両製(DS-40、昭和36年11月購入)・泰和車両製(DS-60、昭和40年11月購入)

ロータリー車1両泰和車両製(DH-100、昭和38年5月購入)、保線用モーターカー3両有蓋貨車1両、無蓋貨車7両

上記以外に廃車済車両として酒井車両製ディーゼル機関車(DB-50、昭和28年7月購入)、牽引客車(昭和32年運輸工業製)が残存していた。

【運行】

昭和44年10月1日時点での運行状況は次の通りである。

標茶本線 開運町~上御卒別間旅客列車3往復(日祭日は2往復)貨物列車、1月~4月1往復、沼幌支線1往復(日祭日は運休)

下り/開運町発8時50分(休日運休)、11時50分、15時40分、上り/上御卒別発7時20分、10時20分(休日運休)、14時00分

貨物列車 下り/開運町発15時00分、上り/上御卒別発7時30分(下りの休日のみ混合列車として運転)

沼幌支線 下り/中御卒別発16時20分(開運町15時40分発に連絡)、上り/沼幌発7時20分(上御卒別発7時20分に連絡)

所要時間は旅客列車が1時間、貨物列車が下り1時間20分、上り1時間50分、沼幌支線15分となっている。厚生、神社前、中御卒別が交換可能である。

道路の整備が進み、農家のほとんどが自家用車を保有しているため、乗客の大半が通学生で、標茶本線が50名、沼幌支線が7名位である。貨物は本線開通時は木材、木炭等相当の輸送量があったが皆無に等しい。冬季は道路が積雪により悪路になるため、1月~4月のみ牛乳運搬用に貨物列車を運行している。

以上のような状況から昭和45年度政府からの補助金が打切られると廃止はやむをえぬものとされていた。

 

40年泰和車両製の自走客車

 

32年運輸工業製の牽引客車

 

40年北炭夕張製の6tDL

 

39年釧路製作所製の6tDL

 

28年酒井車両製の8tDL

時刻表/発着時刻はすべて5分単位である。

 

五十石駅で交換した623レのC58127

新京成電鉄800形「さよなら運転」

新京成電鉄800形が、DRFC関東連絡網でデカンショ祭り号様と準特急様が報告されている通り、7月17日に実施されたダイヤ改正で運用を離脱し、7月24日(土曜日)と25日(日曜日)に「さよなら800形」イベントが実施された。

内容は「さよなら列車」の乗車、くぬぎ山車両基地での撮影会で、両日とも午前と午後の各1回ずつ計4回実施された。募集人員は1回当たり400名で、応募者多数の場合は抽選となっていた。参加費は2500円で、一見高いように思えるが、内容は「さよなら列車」の乗車、記念1日乗車券(500円)、「さよなら800形弁当」(700~800円位)、「さよなら列車」の扉横に取り付けられたものと同じ「さよならプレート」(1000円位)と盛り沢山で、決して高くはないと思った。弁当は後片付けの手間を考えると通常の「さよなら記念乗車券」でもよかったのではないかと思う。

たまたま24日は昼過ぎまでスケジュールが空いていたので午前の部に参加した。異常に暑い日で、午前9時くぬぎ山駅に集合、受付後「さよなら列車」発車までの間、乗車指定号車毎に所定の場所で待つことになっていたが、熱中症で気分が悪くなった人が出た。「さよなら列車」はくぬぎ山駅を9時57分に発車し、扉の開閉はせずに各駅に停車しながら新津田沼に10時19分到着、折返し10時30分に発車して八柱着11時、再度折返し11時6分に発車、くぬぎ山駅に11時12分到着後、直接車両基地に入りここで下車となった。もう1編成の800形の撮影会が行われており、乗車した編成も隣に並んで停められた。弁当が配布され検修庫内に停められた8517編成(8517-8033-8034-8035-8036-8518)の車内が食事場所となっていた。

1日乗車券があるので、午後の部の「さよなら運転」を沿線で撮影しようと思ったが、撮影できそうな場所での人の多さと、あまりの暑さのため体力に自信がなくなったため退散した。

新京成800形について簡単に述べると、新京成電鉄初の高性能車として昭和46年から50年にかけて4両編成と2両編成各6本計36両が新製された。昭和46年の新製車は、京阪3000系、阪急5100系、東京メトロ千代田線6000系第1次量産車、旧国鉄489系、415系、京福モポ300形等が挙げられる。他社の新車と比較すると、走行線区が地味なことと、通勤輸送に徹した作りのため華やかさはないが、約40年に亘り地元の足として活躍した功績は大きい。昭和60年から実施された更新工事で、冷房改造、乗務員室の機器の配置を8000系と同様に変更、終日6連及び8連化に伴い先頭に出ない車両の中間車化等が実施された。平成7年から最高速度向上(75K/H→85K/H)に伴うMT比の変更、余剰車の廃車が実施され、最終的には6両編成2本と8両編成2本に組み替えられた。6両編成は平成17年と19年に新製車N800形との置き換えで廃車され、下記の8両編成2本が最後まで残った。

←津田沼 811-805-857-812-859-803-854-810

               813-816-863-814-855-804-853-806

朝のラッシュ時を中心に使用されていたが、稀に終日運用に入ることもあった。(そんな時に限ってカメラを持っていない)

「さよなら運転」には813~806の編成が使用された。811~810の編成は【5552】(2009年11月25日)「新京成電鉄第15回 電車基地見学・展示会」で紹介してあるので参照いただきたい。また、807の前頭部が車両基地内に保存されている。

 

 

 

 

 

上から813、816、863、814、855、804、853、806

 

806の車内と冷房改造の銘板

 

811~810編成

 

807の前頭部

 

昼食場所となった8517編成

 

引退記念一日乗車券と乗車証明書

 

「さよなら800形記念弁当」の包装紙

 

記念品のプレート

 

記念乗車券

【参考】九十九里鉄道のポスター

 

京成電鉄と新京成電鉄の車内や駅構内に掲示されている九十九里鉄道のポスターである。同社は昭和36年2月28日鉄道廃止後も社名変更することなく、バス会社として存続している。余談であるが同社のHPに在籍するバスの諸元が写真と共に詳細に掲載されている。昭和60年製の富士重工5Eボディー車が健在であるようなので、興味のある方はご覧いただきたい。(通常在籍車両の諸元については、企業内の機密事項として取り扱われ、公開されないことが多いが、見る人が見れば判る。関西では京都バスが公開している。いずれにしても非常に珍しいことである)ちなみにバスの寿命は平均15年位、長くても20年位である。最も日本で廃車になったバスが東南アジア方面に輸出され、更に使用されているので、大切に使用すれば25~30年位は使用できるのではないかと思われるが、排気ガス規制等いろいろな規制があり、そうもいかないようである。

茶内の思い出

特派員さんが撮影された昭和46年3月の茶内駅の画像を懐かしく拝見した。私が茶内駅に下りたのは、現役時代の昭和42年9月5日と2年後の昭和44年9月4日で、目的は浜中町営軌道であった。昭和42年は、札幌駅21時30分発の急行「まりも」で出発、釧路着が6時20分、10分で接続の急行「ノサップ」(キハ4545+キハ22269の2連)が満員のため、「まりも」の前2両のスハフ44とスハ45の2両と荷物車がそのまま6時46分発の根室行(447レ)となるので引続き乗車した。茶内到着後、上りの234Dまで約1時間半の時間で、到着する列車を中心に撮影したが、吃驚したのは、貨物列車の直ぐ後ろを、DC(自走客車)の前後に無蓋車を連結した混合列車の続行運転であった。キハ09+キハ21の普通列車234Dで釧路に戻り、雄別埠頭の新車のDLを撮影後、雄別炭山に行った。

昭和44年は、急行「まりも」はヨンサントオのダイヤ改正で愛称名の整理が行われた結果「狩勝4号」となっていた。釧路到着後大急ぎで「ノサップ」に乗り換え、前回より1時間早く茶内に到着した。この時は車庫で撮影後、役場内の軌道事務所を訪れ、234Dまで約2時間担当の方からお話を伺い資料をいただいた。本当は西円線に乗車して上風連に行き、別海村営軌道に乗り継いで奥行臼に出ようと計画したのであるが、別海村営軌道の上風連まではかなり離れていること、11時35分発で上風連に行っても奥行臼行が夕方までないこと等の理由で乗車は次の機会ということにしたが、3年後に廃止されてしまった。あの時、別海村営軌道にこだわらずに、上風連まで往復するだけでも乗っておけばよかったと悔やまれる。この日はその後尺別鉄道を訪れた。

ちなみにその後北海道を訪れたのは、仕事を除けば、昭和51年5月に日本セメント上礒工場の電気機関車の見学撮影。平成11年11月に社内旅行で釧路空港から阿寒湖、摩周湖を見学して川湯温泉に一泊、翌日硫黄山、知床、網走を回って女満別空港から帰ったこと。平成13年2月に家族旅行で流氷見学に行ったくらいで、鉄道の見学、撮影はリタイヤ後でないと無理なようである。

【国鉄】

 

キハ22269+キハ4545の急行「ノサップ」/キハ45は、新車として完成後、北海道等の観光路線に投入してシーズン終了後本来の配置先に転属した。(42.9.5 釧路駅)

 

「まりも」に連結されていたスロ5218/スロ514を寒冷地仕様に改造。昭和44年9月にオールロングシートに改造してオハ41406となり金沢に転属、主に七尾線の通勤列車に使用後昭和56年に廃車となった。(42.9.5 釧路駅)

 

キハ094+キハ21(234D)/キハ094は、昭和37年3月苗穂工場でオハフ623を改造してキハ454として誕生、昭和41年8月の改番でキハ094となり、昭和45年2月に廃車となった。ジャンパ線が外されているのは当駅で交換する下り233Dの3両のうち1両を切離して増結するためで、北海道ではよく見られた車両運用であった。(42.9.5 厚岸駅)

 

キハ083/昭和37年3月苗穂工場でオハ6280を改造してキハ403として誕生、昭和41年8月の改番でキハ083となり、昭和46年8月に廃車となったが、加悦鉄道に売却され、鉄道廃止後も「加悦SL広場」に保存されていることはご存じの通りである。(42.9.5 釧路駅)

  

C58385の引く急行「狩勝4号」崩れの普通列車根室行447レ(44.9.4 茶内駅の根室寄り)

 

C58119の引く下り貨物列車(44.9.4 上尾幌)

【浜中町営軌道】

 

雪印乳業茶内工場に停車中の貨物列車/機関車はNo.6で、昭和40年12月釧路製作所製の8t機。廃線後「茶内ふるさと広場」に保存されている。(42.9.5 茶内)

 

西円線の貨物列車/直ぐ後ろには貨車を前後に連結した若松線(茶内~中茶内~別寒辺牛)の混合列車が続行している。機関車は昭和36年協三工業製の6t機(42.9.5 茶内)

 

貨車を前後に連結した若松線の混合列車。西円線(茶内~秩父内~中茶内~西円朱別)、東円線(茶内~秩父内~東円朱別~上風連)は客貨分離が行われていたが、若松線は混合列車2往復の運行で、日曜祝日は貨物列車のみの運行であった。(42.9.5 茶内)

 

東円線の列車(42.9.5 茶内)

機関車

昭和44年訪問時に戴いた資料によれば4両在籍していた。内訳は昭和33年製と38年製の協三工業製の6t機各1両、昭和40年釧路製作所製の8t機が2両であった。

 

No.1 /昭和31年加藤製作所の6t機で、昭和44年時点では廃車済であったが現車が残っていた。(42.9.5 茶内)

 

No.5/No.6と同じ昭和40年12月釧路製作所製の8t機(44.9.4 茶内)

自走客車

昭和44年時点では5両在籍していた。

No.1昭和35年運輸工業製(44.9.4 茶内)

 

No.2/昭和37年釧路製作所製で京阪500形を思わせる正面2枚窓が特徴であった。(44.9.4 茶内)

 

No.3/昭和39年泰和車輌工業製で、廃線後「茶内ふるさと広場」に機関車と共に保存されたが、老朽化が激しいため解体されてしまった。(42.9.5 茶内)

 

No.4/昭和40年泰和車輌工業製で、当初から2個ライト、トルコン付でワンマン設備をもっていた。(44.9.4 茶内)

 

No.6/昭和35年運輸工業製でNo.1とは同形、昭和40年に藻琴線から転入した。(42.9.5 茶内)

牽引客車

 

昭和32年釧路製作所製で、昭和42年の時点で既に休車状態であった。(42.9.5 茶内)

その他

ロータリー車2両、8t積有蓋貨車1両、8t積無蓋貨車1両、6t積無蓋貨車11両、6t積木材運搬車2両、6t積牛乳運搬車6両、6t積小荷物車1両、家畜運搬車4両、30石入牛乳タンク車3両が在籍した。

 

30石入牛乳タンク車(42.9.5 茶内)

 

 

成田スカイアクセス開業と京成金町線ダイヤ改正

東京都心と成田空港間を最速36分で結ぶ「成田スカイアクセス」の開業については【9071】で「デカンショまつり号」さんが報告されておられる通りであるが、それに伴い京成電鉄全線のダイヤ改正が実施された。その中でも最も大きく変化した金町線について報告する。

金町線のダイヤ改正は全線ダイヤ改正に先行して7月5日に実施された。その内容は、①高砂駅の発着ホームを新設の高架ホーム5番線に変更(従来は一部を除き4番線に発着)②朝夕を中心に運転されていた金町~上野(一部押上)間の列車を廃止して全列車金町~高砂間の折り返し運転とする。③高砂~柴又間を下り線を使用して単線化する。但し、上り線は入出庫線として残し、単線並列とする。④昼間の運転間隔を20分から15分に短縮する。(運転本数は改正前の平日上下各80本/日→89本/日、土休日上下65本/日→75本)

ダイヤ改正前20分間隔の時は1列車が折り返し運転を行っていたが、改正後は2列車使用して柴又駅で交換するようになった。昼間の基本的なパターンは金町駅、高砂駅ともに発車時刻は7分・22分・37分・52分、柴又駅の発車時刻は上下共に9分・24分・39分・54分で、金町、高砂双方の駅を同時に発車した電車が柴又駅に同時に着発することになり、柴又駅での駅撮りが難しくなった。

ダイヤ改正とは別に7月5日より来年3月31日までの予定で、葛飾区のPRの一環として、3300形3341-3342-3319-3320の編成に「寅さん」、3337-3338-3347-3348の編成に「両さん」のラッピングが貼られている。

 

「寅さん」のラッピングのモハ3342と「両さん」のラッピングのモハ3338

【教習所踏切】

高砂~柴又間のほぼ中間地点の踏切で直ぐ近くに京成自動車教習所があり「教習所踏切」と呼んでいる。(正式名称は「高砂(金)4号踏切」)ここまでは自宅から自転車で20分(信号のタイミングがよければ15分)で到着する。趣味誌で「撮影地ガイド」に紹介されたことがあるが、高砂~柴又間で撮影可能な場所は、この場所を含め途中の踏切しかない。

 

高砂駅から柴又駅までのほぼ中間地点まで高架化され、高架から地平に降りる「寅さん」編成と地平から高架に上る「両さん」編成

 

高架完成前の同一区間を走る3341-3342-3319-3320と3337-3338-3347-3348編成

リバイバル塗装車

 

青/3353-3354-3355-3356・赤/3345-3346-3323-3324・オレンジ/3309-3310-3311-3312

3500形

昭和47年12月から57年5月まで4両編成24本96両作られたセミステンレス車。平成8年から大規模な更新修繕が平成13年までに14本が実施された。残りの10本も実施される予定であったが、新車を投入した方が得策との考えから中止となり、既に廃車された車両もある。

 

上/3501-3502-3503-3504・車体更新車、下/3573-3574-3575-3576

【教習所踏切の山側】

 

【「教習所踏切」と柴又寄りの「高砂(金)5号踏切」の間】

 

単線化後

 

複線時代

【「高砂(金)5号踏切」(柴又駅から高砂寄り2つ目の踏切)】

 

この場所も「撮影地ガイド」に紹介されたことがある。

【金町方面から柴又駅進入】

 

【柴又~金町間】 

柴又~金町間は両側に道路がある。金町に向かって右側は交通量が非常に多いが、左側は比較的静かである。

 

ダイヤ改正で廃止された上野行/3341-3342-3319-3320

 

金町駅発車/3589-3590-3591-3592

【北総鉄道リース車について】

昨年9月17日【4342】で3305-3306-3307-3308編成と3313-3314-3315-3316編成が北総鉄道にリースされ7261~7268の車号となっていることをお知らせしたが、4月中旬頃、教習所踏切で撮影していた同業者から7月17日の成田スカイアクセス開業に伴いスピードアップの障害になるため、9000系と共に廃車(リース返還)になるため、新鎌ケ谷駅や東松戸駅では撮影者で賑わっているという話を聞いた。同車の車齢を考えると多分間違いないだろうと思い撮影を試みたが、得てしてこの種の車両はカメラを持っている時には来ずに、持っていない時に限って来るものである。それでも葛飾区役所に行った時に、場所は良くないが何とか撮ることができたが、開業後も特に変わりなく運転されているようである。しかし、いつ廃車されてもおかしくない車両であるのは間違いなく、早めの撮影をお勧めする。

 

上/22年6月29日 立石~四ツ木間・下/22年5月18日 立石駅

 

9001他8連  22年6月29日 立石~四ツ木間