Re.高松琴平のとんでもクハ

 
 昭和28年廃車後も残っていた11000形 (44-3-19) 仏生山

高松琴平電鉄のワフ改造のクハの件は、須磨と乙訓の両長老から詳細な解説がされており、私ごときが出る幕ではないが、昭和44年3月に撮影した画像をお目にかけたい。
廃車後、物置として使用するには手頃なサイズであったためか長く残り、瓦町変電所で使用されていた車体は平成3年頃まで残っていたそうである。
画像を通り、この時点では線路の上に乗っており、ダルマにはなっていなかったが、車号は長年風雨にさらされた結果であろうかどこにも残っていなかった。
それにしても終戦直後の琴平線は「人が乗れさえすれば何でも良い」というほど車両不足に陥っていたことが伺える。乗り心地の悪さもさることながら、夏は車体の外板から直接熱が伝わる上に、窓が小さいので蒸し車内は風呂状態、冬は冷蔵庫状態であったと思われる。
鉄ピク誌の1989年3月臨時増刊号に吉川文夫氏が「電車になった貨車/高松琴平電気鉄道11000形」のタイトルで、亀井一男氏が昭和24年6月に撮影された写真と共に解説されているのでお持ちの方はご覧いただきたい。

 乙訓の長老の解説に出てくる「国電のお古2000形」についても触れると、仙石線の前身宮城電鉄の買収車で、大正15年日本車輌でサハ301~303として新製され、車体は木製であった。昭和18年運転台を取付けクハ301~303となった。昭和27年10月廃車後、翌28年3月に高松琴平電鉄入りして2000形(210、220、230)となり琴平線で使用されていた。
昭和32年に230が鋼体化改造され、Hゴム支持の2段窓(通称バス窓)を持つ近代的な車体になったが、台枠以下と屋根を流用したため、トラスバーが残るアンバランスなスタイルになった。昭和40年に220が鋼体化の上電動車化され67となった。窓、扉等を原形のサイズに合わせたため、窓の小さい古めかしいスタイルとなった。210は鋼体化改造をされることなく昭和44年に廃車となった。


 
230  (44-3-19)  仏生山


  
220を鋼体化の上電動車化した67  (44-3-19)  瓦町

11000形ほどではないが、もう少しで「とんでもクハ」になりかけた車両を紹介しよう。昭和39年に国鉄からオハ31の137と299を購入してデッキ部分を乗務員室にして側面の扉を2カ所開ける予定で工事を進めていたところ、車体の老朽化があまりにも激しかったためか、旧車体を廃棄して新たに車体を新製した。台枠以下は流用しているので、何となく元オハ31の面影が残っている。


  950(元オハ31137)
 (44-3-19)  瓦町


 
960(元オハ31299)  (44-3-19)  瓦町

【14829】のコメントで米手作市様が触れておられるキワ90について画像を貼っておく。
昭和35年ローカル線の効率化を目的として2両新製した「有蓋気動貨車」で、当時気動車用の標準機関であったDMH17C(180PS)を搭載した全長8mの2軸車であった。
宮崎機関区に配置され妻線で使用されていたが、牽引力不足等で実用化に至らず、昭和44年にキワ902が房総電化の際に事業用車(装柱車)キヤ901に改造、残るキワ901は引き続き宮崎機関区に留まったが昭和46年に廃車された。


 
キワ901  (44-3-26) 宮崎機関区

都電荒川線100周年記念イベント

 
 9002、9001、7023の3両並び

 8月7日【14525】でお知らせした通り、東京都交通局は8月1日に創業100周年を迎えたが、都電荒川線は前身の王子電気軌道により明治44年8月20日飛鳥山上(現在の飛鳥山)~大塚間を開業以来100年を迎えた。これを記念して8月20日に荒川車庫でイベントが実施され、9001と9002号車に簡単な装飾とヘッドマークが取り付けられた。荒川線にとっては「交通局100周年」よりこちらの方が意義深いと思われる。

当日、たまたま午前中時間が空いていたので、イベント前にスカイツリーを入れて撮影をしようと思い早めに家を出たが、金町駅に着くと203系マト55編成が我孫子行で来たので思わず乗ってしまった。我孫子駅の入線を撮影しようと思い、松戸で降りて快速に乗り換えた。我孫子駅の入線を撮影後、再度快速で松戸に引き返し入線を撮影後、マト55編成に乗り町屋で下車した。

都電のりばに行くと、展示予定の9001が団体客を乗せて到着、直ぐに客を乗せたまま折り返した。荒川車庫に到着すると9002が装飾して停められており、隣に先程の9001が並べられた。その後7023に「都営交通100周年」のヘッドマークを取り付けて並べられた。イベント終了後は、9001は飛鳥山まで改装後大塚駅前行で、9002は「がんばろう日本」のヘッドマークを付けて三ノ輪橋行で営業運転に入った。
    
 イベント
前に貸切運用に入った9001

 
 
展示準備中の9002


 
9001と9002の並び


 9002と9001のヘッドマークが取替えられた。


 「がんばろう日本」のヘッドマークを付けた9002
 

・車両の動き
7000形の7004が3月31日付で廃車になり7000形は21両となった。それでも最大勢力で誇っている。


 在りし日の7004 
(20-6-16  飛鳥山
)

現在の在籍車両は下記の通りである。
7000形(21両)7001~7003  7005  7007  7009  7010  7013  7015  7016 7018 7019 7023 7024~7027 7029~7031
8500形(5両)8501~8505
9000形(2両)9001  9002
8800形(10両)8801~8810 
花100形(1両)花101

広島電鉄の単車

【14623】で関 三平先生の広島電鉄152号のイラストと解説が紹介された。解説文を再掲させていただくと「8月中旬には広島駅頭に立って再び興奮に包まれていた。駅前停留所にはひっきりなしに広電(広島電鉄)の四輪単車が発着して、ある時間帯には単車ばかりという(私にとっては)想像もできなかったシーンが現出されていたからだ。150、200、400、450の4型式あわせて60両強が現役で、『単車祭(?)』の状態になるのは当然の結果だが…。もちろん、全車、原爆の犠牲車だ。
4型式のうち400型、450型は、戦前から始められた鋼製車(木造車からの改造)が完了し、スマートな『広島スタイル』におさまっていた。150型、200型には、原型をとどめた応急復旧車が残り、152号車(イラストの電車)もその1両、屋根がリベット打ちの鋼板屋根に変更されたりしてはいるが、全体として昭和初期鋼製車の原形をよく残している。
長さ約9メートル、70馬力弱の小型車ながら頑張り、広島の街の復興繁栄を見届けて昭和45年までに全車廃車。152号車を含む応急復旧の3両は40年にリタイアした。なおスマートに更新された156号は『被爆単車』として保存され、現在も折にふれて市内を走る」と記されている。

関先生の言われている「単車祭(?)の状態」とは、昭和35年頃ではないだろうか。

また、米手作市様が「今回ばかりは切れが悪いようで、意味の理解できない部分もあります」と言われている部分は、①昭和45年までに全車廃車。②152号車を含む応急復旧の3両は40年にリタイアした。③スマートに更新された156号は「被爆単車」として保存され、現在も折にふれて市内を走る。以上3点の相関関係ではないかと思われるので、それらを含め解説したい。

 広島電鉄を初めて訪れたのは昭和40年3月のことで、京都駅23時5分発準急「ななうら」で出発した。準急のため途中停車駅が結構多く、広島到着は6時51分であった。ちなみに帰りは翌日の宮島口13時53分発153系の急行「関門」で帰ったが、広島で通路まで満員となり、宮島口から乗ったのは正解であった。山陽本線は全線電化されていたが、広島以西の貨物列車は殆どD52が牽いていた。私は電車の撮影に専念していたので、そちらは撮影していない。

150形(151~160)
大正15年梅鉢鉄工所で10両作られた。原爆では宮島駅にいた157以外被爆した。昭和23年までに全車復旧したが、昭和27年に152、153、160の3両を除き、車体更新が実施され、自社製の新製車体に乗せ換えた。車体更新されなかった3両は関先生が書いておられる通り昭和40年に廃車。車体更新車も昭和44年から46年にかけて廃車されたが、解体を免れ江波車庫に保管されていた156が昭和62年に複籍を果たし、イベント時に展示走行されている。

 
151/紙屋町 
(44-3-29) 万国博まであと351日

 
156/広島駅 
(40-3-27) 一旦廃車になったが、車籍を復活して保存されている。

 
157/紙屋町 
(44-3-29)

200形(201~210)
昭和5年日本車輌で10両作られた。原爆で全車被災したが昭和23年までに復旧した。150形と異なり、車体更新されることなく使用され、昭和38年から41年にかけて廃車された。

 
209/広島駅 
(40-3-27)

400形(401~430)
大正11年から昭和2年にかけて大阪市交通局の前身、大阪市交通局から購入した木製車100形を、昭和13年に17両、17年に13両自社製の半鋼製車体で鋼体化した。扉間5枚の大きな窓とノーシル、ノーベッダーの軽快な外観で、次の450形と共に戦前の広電を代表する車両であったが、足回りは旧車のものを流用したため、150形や200形よりも古かった。
原爆では宮島駅にいた417以外被災したが、昭和23年までに復旧した。
昭和31年に420~430の11両が廃車され1部は工作車となった。残りの車両も昭和40年から44年にかけて廃車された。
大きいなガラスの調達が困難なため、窓に桟が入っている車両が少なからず存在した。

 
409/広島駅 
(40-3-27) 1枚ガラス入手難のため、窓に中桟が入っている。

450形(451~465)
昭和12年11月千田車庫の火災で被災した100形11両を昭和14年から15年にかけて自社製の半鋼製車体で鋼体化した。車体は前述の400形と同型であるが車輪径が異なり、床が高くなっている。当初450~460を付番されていたが、450を461に改番した。原爆では全車被災したが、昭和23年までに復旧した。
昭和24年原爆で被災した100形の復旧を兼ねて462~465の車体を新製した。この4両は扉が引戸になった。400形と共に活躍していたが昭和40年に2両、44年に残り13両が廃車となった。

 
453
/八丁堀 
(44-3-29) 白島線で使用

 
455/広島駅 
(44-3-29)

 
460/八丁堀 
(44-3-29) 中桟入りの窓

 
462/広島駅 
(40-3-27) 昭和24年製で扉が引戸になっている。 

650形(651~655)
被爆電車654についてのコラムが掲載されているので、こちらについても解説する。昭和17年木南車輌で651~655の5両新製。原爆で5両共被災したが昭和23年までに復旧した。655は昭和42年事故で廃車、残る4両は昭和50年にワンマン改造、昭和61年には冷房改造と方向幕の大型化が実施された。654は平成18年老朽化により廃車となり広島市交通科学館で保存、653は休車扱いで千田車庫に保存されている。651と652は現役で朝夕ラッシュ時に使用されており、歴史の生き証人としていつまでも走り続けて欲しいと願っている。また、撮影された方がおられたら是非発表していただきたい。

 
652/広島駅 
(44-3-29) 冷房化、方向幕の大型化が実施され、現在も健在である。

 
654/広島駅 
(44-3-29) この時代でも窓に中桟が入っていた。

いよいよ見納め JR東日本203系


東京メトロの新鋭車16000系と行き違う203系54編成

JR東日本の203系は、後継の233系2000番台の増備により、7月末日現在残り5編成になり、いよいよ引退時期が迫ってきた。
E233系2000番台は平成21年度に1編成新製され、207系900番台の置換え後、203系を全車(17編成)置換えのため昨年度から順次新製され、現在15編成が運用に就き、残る新製予定車は僅か3編成となった。
一方203系はE233系2000番台の運用開始と共に運用を離脱し、現在運用に就いているのは、0番台のマト53~55、100番台のマト68、69の計5編成であるが、マト53と68は近日中に離脱するといわれている。運用離脱車の内、一部編成はインドネシア(51、52、66編成)とフィリピン(67編成)に譲渡予定で既に搬出された編成もある。

 203系は、使用線区が取手~綾瀬~代々木上原間に限られているためか、注目度は今一つであるが、私個人的には昭和58年5月生活拠点を東京に移して以来、通勤でお世話になった車両だけに、時代の流れとはいえ一抹の寂しさを感じている。

 「普段乗っている車両は撮影しない」とよく言われるが、103系が正にその通りで、廃車間際になってバタバタと撮影した。203系は103系の轍を踏まないよう普段から撮っておこうと思っていたが、やはり今頃になって出勤途中や、直帰等で早めの帰宅時に撮影している。203系が走行する地上区間(北千住の地下出口から取手まで)は踏切が無く、線路際に高いフェンスが設置されているため、撮影場所はホームの端か歩道橋位しか無い。鉄道雑誌やHP等で大きく取り上げられると「葬式鉄」で混雑が予想されるので、撮影は早目にされることをお勧めする。前述の通り残り5編成と少なくなってしまったため、昼間は全く走っていないこともある。最近の実積では、7月23日(土曜日)朝1編成運用に入っていたが昼間ゼロ、27日(水曜日)昼間3編成運用(1編成は綾瀬~代々木上原間の折り返し)に入り、夕方1編成出庫、28日(木曜日)終日2編成運用、30日(土曜日)朝3編成運用に入っていたが昼間1編成、31日(日曜日)ゼロといった具合で、本当に運次第となった。

 
松戸駅に到着した54編成(クハ203-4)/方向幕を「回送」にして一坦引上げ

 
折り返し霞ケ関行となりホームに入線する。

 
綾瀬駅の引上げ線から1番線に進入する53編成(クハ202-3)/この日は、昼間は綾瀬~代々木上原間の折返し運用に入っていた。

 
金町駅に進入する69編成(クハ203-109)

 
金町~松戸間を走行する53編成(クハ203-3)

 
北小金駅を発車した54編成(クハ203-4)

 
北小金~南柏間を走行する55編成(クハ202-5)

東京メトロ6000系も後継の16000系に置換えられることになり、22年度から新製され24年度までに16本投入される予定で、8編成が完成して運用に就いている。6000系は10両編成が35編成在籍していたが、第10、15、26の3編成が廃車となり15と26編成はインドネシアに譲渡されている。もしかすると日本時代と同様203系譲渡車と一緒に走っているのかも知れない。
第2次試作車の01編成は、車両限界の関係で小田急乗り入れが不可能なため運用に制限があり、その他にもM車とT車の位置、車内の仕様の違い等で早期に運用離脱が予想されたが健在である。但し予備車的な存在となっており、見かけることは少ないが、平日は下記の61S運用で見かけることがある。勿論下記以外の運用に入り、休日や昼間でも見かけることもある。
綾瀬7:47→取手8:03 / 8:11→明治神宮前9:29 / 17:49→代々木上原17:51 / 18:00→我孫子間2往復半運用→綾瀬23:55

 
松戸駅停車中の第2次試作車01編成/6001

 
松戸駅に進入する第2次試作車01編成/この編成のみ代々木上原寄りがMcである。

 
北小金~南柏間を走行する13編成/原形の面影を残す2段窓車、但し構造は変更されている。

 
北小金駅を発車した28編成/更新時にガラス面積の広い扉に取り替えられた。

 
北小金~南柏間を走行する35編成/平成2年新製のラスト編成。

 
金町~松戸間を走行する06系/平成5年に1編成のみ新製。

16000系は、関東では珍しくJR東日本の影響を受けていない電車で、連結面の貫通扉や袖仕切部の一部に強化ガラスを使用している。

 
北小金~南柏間を走行する05編成

 
松戸駅停車中の01編成

 
車内/袖仕切りに強化ガラスを使用

 
強化ガラスの貫通扉

 
松戸駅を発車した08編成/06編成から正面の扉を左寄りに設置

「スーパーひたち」用のE651系、「フレッシュひたち」用のE653系は、来春より新製のE657系に置換えられる予定で既に試運転が始まっている。
E653系はいわき~仙台間の特急に転用されることが発表されているが、久ノ浜~亘理間が東日本大震災と福島原発事故の影響で不通となっており復旧の目処が立っていない。復旧後も4両編成の付属編成で十分なため、7両の基本編成は他線区に転用されることになると思われる。

 
北小金~南柏間を走行するE651系

 
北小金駅を通過するE653系

 
松戸~金町間を走行するE653系

 
北小金~南柏間を走行するE657系の試運転

東京の交通100年博


東京都交通局は、明治44年(1911年)8月1日に東京都電気局として発足し、今年で100周年を迎えた。それを記念して両国の江戸東京博物館で「東京の交通100年博~都電・バス・地下鉄の"いま・むかし"~」で開催されている。
土、日は混雑が予想されるため7月28日(木曜日)休暇を取って見学したので紹介する。
館内には実物大の「ヨヘロ」前半部のモックアップをはじめ、系統板、行先板の実物、都電6000形、都バスの模型、円太郎バスの実物等が展示されていたが、「ヨヘロ」以外は撮影禁止であった。
屋外展示場には、函館市交通局から借り入れた「ヨヘロ」改造の除雪車(ササラ電車)、荒川車庫に保存されている「6086」が展示され、こちらは自由に撮影可能であった。

ヨヘロのモックアップ
館内展示で唯一撮影可能であった。「ヨ」は4輪車、「ヘ」はベスティビュール(前面ガラス窓付)、「ロ」は大正6年製を表している。

函館市交通局・雪4
昭和9年函館大火により多数の車両を焼失したため、明治36年か37年に作られた元東京電車鉄道時代の車両を大正9年に「ヨヘロ」に改造した車両を、東京市電より45両購入して200形(201~245)とした。ちなみに「雪4」の前身はラストの245で、昭和12年4月に除雪車に改造されている。除雪車という特殊用途のため、改造時の姿で今日まで生き延びたものと思われる。函館市交通局にはあと1両元ヨヘロの244改造「雪3」が残っている。


 6086
普段は荒川車庫に保存されイベント時に展示されている。この車両については【354】(2008-9-29) 【967】(2008-11-3) 【8489】(2010-6-6) に写真と共に紹介されている。昭和24年日本鉄道自動車製で41年に大栄車輌での更新修繕時に方向幕の大型化、窓枠のアルミサッシ化が施行された。昭和45年12月24日付で荒川車庫に転属し、昭和53年4月27日付で廃車になるまで荒川線で活躍した。廃車後は個人の方が保存されていたが、平成20年3月に荒川車庫に移されている。


廃車当時の車内広告がそのまま残されている。

荒川線新装記念乗車券発売と花電車のダイヤが掲載されているポスター

運賃表/普通運賃70円、1日乗車券が400円となっているが、現在は160円と750円である。1日乗車券は都電、都バス、都営地下鉄の他、日暮里舎人ライナーや都バスの青梅地区の多区間も乗車可能である。また都電のみの1日乗車券は400円である。

6086の説明板

はとバスのポスター
6086の横の壁にはとバスのポスターが2枚貼られていた。新幹線0系、初代のスーパーバスが描かれており昭和40年頃のものと思われる。ポスター類は一定期間を過ぎると廃棄されるが、よく残ったと思う。


はとバススーパーバス(46年式B915
N/ポスターは初代の車両であるが、写真は昭和46年製の最後の車両。一つ前の窓の大きいタイプは1両保存されている)


モノレールのリバイバルカラー車/
ポスターでは色は判らないが、多分この色であったと思われる。

 撮影禁止のため、説明板を書き写していた人がいた。禁止理由は不明であるが、フラッシュ撮影禁止程度にすれば良かったのではないだろうか。
9月10日まで開催されているので、東京周辺にお住いの方には是非お勧めしたい。函館市交通局の「雪4」の見学、撮影だけでも十分価値はあると思う。

青蛙と赤蛙(その2)

6月20日「【13758】東急のアバンギャルドな5000型」に対し、乙訓の長老より23日「【13805】青蛙と赤蛙」で、熊本電鉄と岳南鉄道に転出した車両の解説があった。
東急5000形は、上記2社の他、長野電鉄、上田交通(現上田電鉄)、松本電鉄、福島交通に転出している。
今回は長野電鉄と上田交通に転出した車両について解説する。

(1)   長野電鉄
長野~善光寺下間の地下化(昭和56年3月1日開通)に伴い、不燃化基準の関係から半鋼製の在来車が使用できなくなるため、昭和52年1月から55年10月にかけて26両入線した。Mc+Tcの2両編成10本とMc+T+Mcの3両編成2本を組み、在来車に代わり普通列車の主力として運行されたが、平成10年の長野オリンピックに向け、平成5年から10年にかけて営団地下鉄日比谷線の3000形との置換えが行われ、平成10年までに廃車となった。
モハ2510+クハ2560が須坂市の「トレインギャラリーNAGANO」の駐車場に保存されている。

 


モハ2611(元東急デハ5036)+クハ2551(同クハ5155)/昭和52年5月5日 須坂 (最初に入線した車両で、モハ2611はサハ2651+モハ2601と3両編成、クハ2552はモハ2501と2両編成を組んだ)

 


モハ2501(元東急デハ5035)+クハ2551/平成8年8月24日 屋代

(2)上田交通
昭和61年10月1日別所線1500V昇圧に際し、東急5000形8両(Mc+Tc4編成)と5200形2両(Mc+Tc)の10両が入線し、在来車を置換えた。
平成5年5月28日に元東急7200形のモハ7251+クハ7551~モハ7255+クハ7555の5編成と置換えで廃車となり、僅か6年半の活躍であった。
モハ5001は元東急デハ5001で、廃車後東急に返還され、登場時の姿に復元され保存されていたが、平成18年車体をカットされ、無残な姿で渋谷ハチ公前広場に置かれている。歴史的にも重要な車両が、何故このような結果になってしまったのか、残念を通り越し憤りを感じる。

 
クハ5053(元東急クハ5163)+モハ5003(同デハ5017)/昭和61年8月24日 上田 (昇圧前で待機中)

 
モハ5002(元東急デハ5005)+クハ5052(同クハ5162)/昭和62年1月15日 上田 (扉の窓ガラスが原形)

 
モハ5004(元東急デハ5030)+クハ5054(同クハ5164)/昭和62年1
月15日 上田

日本初のセミステンレスカーであるモハ5201(元東急デハ5201)+クハ5251(同デハ5202)は何度が撮影に行ったが振られっぱなしであった。こちらも廃車後モハ5201が東急に返還され現在は東急車両で保存、クハ5251は自社下之郷電車区で保存され、イベント時に一般公開されている。

(3)岳南鉄道補足
昭和56年5月から6月にかけて在来車置換えのため、東急5000形8両(Mc+Tc4編成)入線した。平成8年元京王電鉄3000系改造の7000形に置換えられ廃車されたが、岳南富士岡駅や貨物ヤードに留置され、平成20年夏頃解体された。

 
モハ5004(元東急デハ5049)/昭和61年8月15日 吉原

 
クハ5104(元東急サハ5364)/昭和61年8月15日 吉原

 
クハ5102(元東急サハ5363)+モハ5002(元東急デハ5028)/昭和61年8月15日 岳南富士岡

(4)その他
福島交通に昭和55年12月と57年10月各2両(Mc+Mc)入線しているが撮影していないまま廃車になった。
松本電鉄は昭和61年12月24日1500V昇圧に際し、東急5000形8両(Mc+Tc3編成、Mc+Mc1編成)が入線し、在来車を置換えた。こちらは登山で上高地から入下山の時、何度も乗っているがまともな写真がない。登山と鉄道撮影の両立は極めて難しい。

[番外]東急時代

 
デハ5030/昭和47年12月17日 多摩川園(上田交通モハ5004で再起)

 
デハ5042/昭和52年2月12日 田園調布(長野電鉄モハ2613で再起)

 
クハ5153/昭和52年2月12日 旗の台(長野電鉄クハ2552で再起)

 
デハ5201/昭和52年2月12日 旗の台(上田交通モハ5201で再起)

JR東日本のドレミ電車(E501系)

7月16日【14285】で米手作市氏より「京浜急行のドレミ電車」の話題が紹介されたが、JR東日本の「ドレミ電車」を紹介したい。こちらも京浜急行同様、改造により遠からず無くなる運命にあり、8編成中5編成まで改造が進み、残りは3編成である。

E501系とは
交直両用の通勤型車両で平成7年に15両(基本10両編成、付属5両編成各1本)平成9年に45両(基本10両編成、付属5両編成各3本)作られた。

常磐線の上野口は、昭和60年以降取手以北でも住宅の増加、竜ヶ崎に大規模団地の出現等により通勤時間帯を中心に混雑が激しくなってきたため、沿線自治体から取手止まりの快速電車の牛久、土浦までの延伸の要望が出された。直流電車の延伸は、柿岡(石岡市)にある気象庁地磁気観測所の観測障害となるため不可能であるため、交直両用の4扉通勤型車が投入されることになった。当初昼間は基本編成のみの10両、ラッシュ時は付属編成を増結して15両で運転されていたが、程なく終日15両となった。また、トイレがなく、長距離運用には不向きなため、上野~土浦間に限られ、勝田電車区への入出庫は回送であった。

車体の基本設計は当時の京浜東北線の209系とほぼ同じであるが、外板厚を1.5mmに強化された。(209系は1.2mm) また特急通過待ち等による長時間停車時の車内温度確保のため片側4扉の内1カ所を残して締切可能な「3/4扉閉スイッチ」が装備された。

ドイツ・シーメンス社のGTOサイリスタ素子による主変換装置の採用により、発車と停車時に「ソラシドレミファソ~」と音階が聞かれたが、平成18年に付属編成全編成、今年1月基本編成1本(K704)が東芝製のもの取替えられてしまい聞かれなくなってしまった。

現 況
平成19年3月18日のダイヤ改正により、上野発着の中距離電車がE531系に置き換えられ、全列車にグリーン車が連結されるようになったため、運用区間を土浦以北に変更した。それに先立ち平成18年10月~19年2月にかけて基本編成両端のクハ、付属編成下り向きのクハにトイレが設置された。常時連結されていた基本編成と付属編成はそれぞれ単独での使用となった。

走行区間は基本編成が土浦~いわき・草野間、付属編成は土浦~いわき間と水戸線の小山~友部間である。基本、付属共に予備車無しのフルで使用され、検査時等は、415系、E531系が代走する。

以下、無いよりマシ程度の画像であるがご覧いただきたい。

[上野~土浦間で使用の頃]

 
クハE501-1003/
付属編成の先頭車(15号車)で常に土浦寄り先頭に立っていた。(H18-4-8 松戸)

 
サハE501-9/
付属編成の14号車

 
モハE501-7/
付属編成の13号車でパンタ付きのモハ

 
モハE500-7/
付属編成の12号車でパンタ無しのモハ

[現 況]

 
クハE501-1004/
(H21-12-30 水戸)

 
クハE501-4/
上野~土浦間で使用されていた時は先頭に出ることはなかった。密連の下に電気連結器が設置されているが、今後使用されることはないだろう。車端にバリアフリー対応のトイレが設置され、その部分の窓が塞がれた。(H21-12-30 勝田)

福井鉄道・琴電の元京浜急行

7月7日の「京浜急行140型」に対し、翌日には両長老から書込みがあり、DRFCクローバー会の実力を改めて感じた。 

福井鉄道は昭和23年福井地震で焼失車両が発生したのに加え、同じ年に南越線が電化したため電車の絶対数が足りず、相当無理をして入線させたものと思われる。使用できたのは車体のみで台車、電装品は別のところから調達する必要があった。
昭和42年3月時点では、電装解除されたハ102が南越線のラッシュ時増結用として辛うじて生き残っていた。尚、福井鉄道モハ101、モハ103の実物の写真を見たのは初めてである。

 
ハ102 昭和42年3月20日  社武生

琴電に関しては乙訓の長老の詳細な解説がすべてであり、簡易鋼体化された64、車体を新製した62、72を新製車体に載せ換え電装した65の画像を貼り付ける。

 


64  昭和44年3月20日 長尾/台車は原形のテーラー台車である。

 
62  昭和44年3月20日 瓦町/昭和28年に自社で車体を新製した。

 
65  昭和44年3月20日 瓦町/昭和35年に72を鋼体化(車体新製)の上電装した。

昭和34年11月京浜急行120形を6両譲受け、昭和36年に自社工場で鋼体化の上、10形(11、12)/電動車、90形(91~94)/制御車となった。長老が撮影された、上から2番目の仏生山での京浜急行128の画像は鋼体化改造前である。
改造により正面5枚窓は失われたが、屋根のカーブはそのままで原形の面影が多分に残っていた。

 
11 昭和44年3月20日 瓦町/元京浜急行クハ127、乗務員扉がなく乗務員室は極めて狭い。

 
93 昭和44年3月20日 瓦町/元京浜急行クハ124

 
94 昭和44年3月20日 瓦町/元京浜急行クハ123

 
94の台車

 
33(元阪神910)との並び

昭和40年頃大船から明石に転属した車両について

クハ76305の話題が出たので、その関連事項について書いてみたい。

横須賀線の113系化に伴い、余剰となった車両が明石に転属して京都~西明石間の大阪緩行線で使用されたが期間は非常に短かった。
昭和39年8月にモハ70077、078、089、090の4両が転属し、昭和41年5月(090のみ41年8月)中央西線用として大垣に再転属するまで在籍した。
昭和40年2月にモハ70038、039、040、059、060、061とサハ58000、011、020、021の10両が転属、更に7月にモハ70037、104、105、106とクハ76032、305の6両が転属、モハ70とクハ76は昭和41年4月(70038、039、040、059)と5月に大垣に、サハ58は昭和41年8月(58000、011)12月(020、021)に岡山に再転属するまで在籍した。サハ58は元流電一族の中間車で、クハ76305と共に情報が何も無い中で初めて見た時は卒倒寸前であった。(決してオーバーな表現ではない)
以下写真と共に解説する。

クハ76305
昭和32年汽車会社製、新製以来横須賀線で使用されていたが、昭和40年7月明石に転属、写真のように塗装を茶色に変更した。わずか10カ月後の41年5月大垣に転属して再びスカ色になった。一時期浜松~米原間でも使用されたが、昭和53年12月廃車になった。

 
41年2月14日  京都駅

 
再びスカ色となった中央西線時代  49年3月4日 名古屋駅 

クハ76032
昭和26年日立製、横須賀線から76305と共に昭和40年7月明石に転属して41年5月大垣に再転属した。塗装は76305と同様、茶色に塗られ、大垣転属時再度スカ色になった。関西時代のネガ紛失のため中央西線に転属後の写真を貼り付けた。写真のように正面窓は最後まで木枠であった。

 
49年3月4日 名古屋駅 

モハ70105
昭和26年川崎製、当初明石に配置されたが、昭和37年4月横須賀線用として大船に転属、昭和40年7月古巣の明石に転属して41年5月大垣に再転属した。当初スカ色のままで使用され、後日茶色に塗替えられたが僅かな期間に再度スカ色になった。

 

 
先頭車はクハ68050、3両目はモハ70106である。40年8月28日  京都駅

モハ70037
昭和26年川崎製、昭和40年7月大船から明石に転属、41年4月大垣に再転属した。

 
41年4月8日  京都駅

サハ58000
昭和11年川崎車輌で流電第1編成のサハ48029として誕生、昭和25年9月横須賀線用として田町(後に大船)に転属した。昭和39年1月大船工場で3扉化してサハ58000となった。40年2月明石に転属、41年8月岡山に再転属して山陽本線岡山周辺のローカル、宇野線、赤穂線で使用され、51年9月廃車になった。

 
41年7月31日  京都駅

サハ58011
昭和12年8月日本車輌で合いの子第2編成のサハ48033として誕生、昭和25年9月横須賀線用として田町(後に大船)に転属した。昭和38年11月大船工場で3扉化してサハ58011となった。40年2月明石に転属、41年8月岡山に再転属して、58000と同様に使用され51年6月廃車になった。トイレ付であったが明石時代は閉鎖されていた。

 


上/40年3月13日、下/40年8月28日 京都駅

サハ58020
昭和12年3月日本車輌で流電第2編成のサハ48030として誕生、昭和25年9月横須賀線用として田町(後に大船)に転属した。昭和39年1月大船工場で3扉化してサハ58020となり、40年2月明石に転属、41年12月岡山に再転属して52年3月廃車になった。

 
41年10月11日 京都駅

サハ58021
昭和12年3月日本車輌で流電第3編成のサハ48030として誕生、昭和25年9月横須賀線用として田町(後に大船)に転属した。昭和39年3月大船工場で3扉化してサハ58021となり、40年2月明石に転属、41年12月岡山に再転属して52年3月廃車になった。

 


上/41年10月11日 京都駅  下/49年11月23日 岡山駅

直接岡山に転属した車両
サハ58010、58050、クモハ51206、51208の4両は明石を経由せずに直接岡山に転属した。

サハ58010
昭和12年8月日本車輌で合いの子第1編成のサハ48032として誕生、昭和25年9月横須賀線用として田町(後に大船)に転属した。昭和39年1月大船工場で3扉化してサハ58010となった。39年8月6岡山に転属、山陽本線ローカル、宇野線、赤穂線で使用され51年10月廃車になった。

 
49年11月23日 岡山駅

サハ58050
昭和12年3月川崎車輛で流電第3編成のサロハ66017として誕生、昭和18年10月戦時改造でサハ48035となった。昭和31年12月横須賀線用として大船に転属した。昭和38年11月大船工場で3扉化してサハ58050となった。39年8月岡山に転属して51年9月廃車になった。

 


47年2月6日 岡山駅

クモハ51206
モハ43024として昭和9年2月川崎車輛で誕生、昭和25年9月横須賀線用として田町(後に大船)に転属した。昭和38年10月大船工場で3扉化してクモハ51206となった。39年8月岡山に転属して51年9月廃車になった。

 


上/40年8月1日 笠岡駅  下/49年11月23日 岡山駅

クモハ51208
モハ43032として昭和9年8月川崎車輛で誕生、昭和25年9月横須賀線用として田町(後に大船)に転属した。昭和39年3月大船工場で3扉化してクモハ51208となった。同年8月岡山に転属して51年8月廃車になった。昭和48年11月頃から翌年2月頃まで明石に貸し出され緩行線で使用されたが、この時期昼間はオール103系の運用となっており、旧形の運用は朝と夕方以降に限られていた。

 

 
上/47年2月6日 岡山駅  下/49年1月21日 京都駅

都電荒川線「2011路面電車の日」記念イベント


「花100」と阪堺カラーの「7511」(方向幕は「あびこ道」を表示

6月13日「【13564】阪堺電車撮影会開催
!」で小西啓文氏が「阪堺電車祭り」をレポートされたが、東京都交通局でも6月12日、荒川車庫で記念イベントが開催された。当日、午前中のみではあるが時間が空いていたので見学に行った。


内容は、東京交通局が100周年を迎えたので「都営交通100周年記念」と「都電×阪堺線100周年記念」のヘッドマークを装着した8800形、秋以降に運行予定の花電車、3月に引退した7500形の展示が行われた。例年通り「都電広場」横に交通局グッズを販売するブースの他に、東関東大震災で大きな被害を受けた「ひたちなか海浜鉄道」と「三陸鉄道」のグッズ販売ブースが設置された。特に「ひたちなか海浜鉄道」は社長自ら社員の方と共に来所され、正午から会場で挨拶をされた。

イベントは10時に開始され「都営交通100周年記念」のヘッドマークを付けた8807と「都電×阪堺線100周年記念」のヘッドマークを付けた8805が展示された。

11時からは7510を改造した花電車「花100」が展示された。東日本大震災により花電車の運行中止を検討されたようであるが、秋以降に運行されることになった。 

12時から「ひたちなか海浜鉄道」の吉田社長の挨拶があり、3月13日限りで運行を停止した7511と7512がヘッドマーク付きで展示されたが、残念ながら時間切れのため撮影はできなかった。代わりに現役時代最後の写真を貼っておく。7511は3月13日営業運転最終日、7512は震災当日出勤途中に撮影した。


 荒川車庫には、7505、7515、7520が解体されずに残っている。展示された7511、7512は3月31日付で廃車されている。

 

「ひたちなか海浜鉄道」と「三陸鉄道」のブースで僅かでも復興に足しになればと思い、買物をした。「ひたちなか海浜鉄道」では「阿字ヶ浦―勝田」(裏面は那珂湊)のサボを購入したが包装紙が無く、むき出しのまま持ち帰るハメになり、都電の車内はともかく、町屋からの地下鉄、JRの車内では他の乗客から怪訝な目で見られていたに違いない。ちなみに値段は3500円であった。

同鉄道は、地震で壊滅的な被害を受けたが、6月25日に那珂湊~中根間の1駅のみであるが復旧し、1日2往復運転が再開された。7月3日には勝田~平磯間の復旧工事が完成し営業が再開される予定である。残る平磯~阿字ヶ浦間も7月末には復旧工事が完成する予定で、全線の営業再開まであと一息である。その時には、懐かしい国鉄カラーの気動車や、はるばる三木鉄道から輿入れたミキ300に会いに行きたいと思っている。

 

ゆりかもめ


建設中の東京湾ゲートブリッジ(恐竜橋)をバックに走る「ゆりかもめ」

4月中旬より勤務場所が「浜松町」から「お台場」に変わった。
新橋から「ゆりかもめ」に乗車するが、お台場海浜公園まで7キロの運賃は310円である。ちなみに6カ月の通勤定期代は50220円で会社的に小さくないコスト増である。私的には通勤時間の増、会社的にはコスト増で良いこと何もなく、あるとすれば唯一「ゆりかもめ」に乗れることだけである。当初は率先して最前部座席に座っていたが、今では空いている座席に座っている。最前部座席の2人掛けの通路側は空いていることが多い。
「ゆりかもめ」のごとき「新交通システム」は趣味の対象にはなり得ないと思っていたが、毎日乗っていると、製造年による差異等が目につき結構面白い。間もなく迎える勤務先からの「戦力外通告」後は、乗車機会は滅多にないだろうし、今のうちに観察、撮影しておくのも悪くはないと思い、コンデジを持参して通勤帰りや外出時に適当に撮影している。
「ゆりかもめ」の紹介かたがた、撮影した画像等をご覧いただければと思う。

【沿 革】
台場地区と都心部を結ぶ交通機関として平成7年11月1日新橋~有明間11.9㎞を開業した。当初の新橋駅は現在よりも100m程手前にあり、平成13年3月22日現在位置まで延伸された。平成18年3月27日有明~豊洲間2.7㎞が延伸開業し、東京メトロ有楽町線、東武東上線、西武池袋線沿線からお台場地区へのアクセスが確立した。

【運 転】
現行のダイヤは平成18年3月24日に改正のもので、平日は早朝、深夜7~10分、朝夕ラッシュ時3~4分、昼間5分、土・休日は、早朝、深夜7~10分、昼間4分間隔となっているが、現在は原発事故の影響により節電ダイヤにより運行されており、朝夕ラッシュ時4分、昼間は平日、休日共に6分間隔である。
始発は新橋駅6時、豊洲駅5時41分と他の鉄道各線と比較すると遅い。終発は新橋、豊洲ともに0時30分(ともに有明止)となっている。(ちなみに私が利用する金町駅の上り始発は4時32分(北千住行)、下り最終は1時13分(松戸行)である)全線の標準所要時間は31分である。早朝、深夜のみ有人運転、それ以外の時間帯は無人運転である。但し、有明駅から車両基地への入出庫は有人運転である。

【運 賃】
運賃は対キロ制で2㎞まで180円、3~5㎞240円、6~8㎞310円、9㎞~15㎞370円である。新橋からの運賃は竹芝まで180円、芝浦埠頭まで240円、台場まで310円、船の科学館以遠は370円、豊洲からは有明テニスの森まで180円、青海まで240円、お台場海浜公園まで310円、芝浦埠頭以遠370円となっている。ちなみにレインボーブリッジを挟む芝浦埠頭~お台場海浜公園間は3.9㎞あり、1駅で240円である。1日乗車券が800円で新橋~豊洲間を通しで乗る客は極めて少ないと思われる。新橋~豊洲間はJRで有楽町まで行き、メトロ有楽町線に乗り換えると130円+160円の290円。更に安い直通ルートは、新橋~業平橋間の都バス「業10」で200円である。

【車 両】
全編成6両固定編成で、平成7年開業時から10年までの間に作られてサイリスタチョッパ制御の7000系18編成と平成11年から18年に作られたVVVFインバータ制御車7200系8編成、計26編成在籍する。
編成と車号の関係は2桁目と3桁目は編成番号を表し、4桁目は号車を表している。例えばトップナンバーの編成であれば
豊洲方から 7011-7012-7013-7014-7015-7016 となっている。
製造年度と編成の関係は以下の通りである。

7000系(1~3次車まで)
1次車 13編成(7011――7016 ~ 7131――7136)/平成7年新橋~有明間開業時に新製した。座席はお台場への行楽客を意識して先頭車の先頭部を除きオール4人掛クロスシートである。シート間隔がクモハ51並に狭く、通勤客は窓際から詰めて着席するが、昼間の一般客は立客がいてもワンボックスに2~3人しか座っていないことが多い。

 


2次車 2編成(7141――7146 ~ 7151――7156)/平成9年新製。
1次車とほぼ同様である。

 
3次車 3編成(7161――7166 ~ 7181――7186)/平成10年新製。
スタイルは1、2次と変わらないが、車内が大きく変化し、扉間の座席がクロスシートと3人掛ロングシートが交互の配置となり、正面にレインボーのストライブが入った。また、ドアが1、2次車がプラグドアに対し、3次車以降は外吊ドアとなった。

 

7200系(4~6次車まで)
4次車 3編成(7211――7216 ~ 7231――7236)/平成11年新製。
制御装置がVVVFインバータに変更されたため、形式が7200形となった。スタイルや座席配置は3次車と同様である。外観からは判らないが722編成から案内車輪が2軸から4軸に変更になった。

 
5次車 3編成(7241――7246 ~ 7261――7266)/平成13年に新製。スタイルや座席配置は4次車と変わらないが、正面のレインボーのデザインが変更された。

 
6次車 2編成(7271――7276 ~ 7281――7286)/平成17年に新製で、翌年3月27日有明~豊洲間の延伸開業に備えて増備された。座席配置が大きく変わり、豊洲方面に向かって左側クロスシート、右側ロングシートとなり、クロスシート部は4人掛と2人掛となった。居住性は向上したが座席定員は減少した。

 



保線車両

【バスとの競合】


お台場と都心を結ぶ都バスの路線が存在し「ゆりかもめ」とはライバル関係にある。運賃は200円均一と安く、所要時間は渋滞がなければ「ゆりかもめ」と変わらないが、本数の点で劣っている。「お台場」=「ゆりかもめ」のイメージを持つ人が多く、利用者は主に地元の人(特に敬老パス使用の老人)が中心である
東京ビックサイトで大きなイベントが開催される時は、東京駅と浜松町駅から臨時バスが大増発され「ゆりかもめ」共々満員で乗客を運び補完関係にある。

〔海01〕
メトロ東西線、都営大江戸線の門前仲町駅から豊洲、お台場海浜公園、船の科学館の各駅を経由してりんかい線の東京テレポート駅を結んでいる。お台場海浜公園駅と東京テレポート駅は徒歩でも7分程度であるが、バスは台場駅、船の科学館駅、テレコムセンター駅とお台場地区を一巡する。お台場海浜公園駅~豊洲駅間の所要時間は15~20分(ゆりかもめ18分)平日の昼間は10分間隔(同6分間隔)、運賃200円(同310円)と、運転間隔以外はゆりかもめより優位に立っている。しかも門前仲町駅から直通するため更に優位である。但し土休日の昼間は15分間隔のため、やや不利である。

 
17年式日野(J-BUS)PJ-KV234L1

 
21年式いすゞ(J-BUS)PJ-LV234L2
〔虹01〕
浜松町駅バスターミナルから、竹芝桟橋、日の出桟橋を通り、レインボーブリッジを渡り、お台場海浜公園駅、船の科学館駅、パレットタウンを経由して東京ビックサイトを結び、一部の便はりんかい線の国際展示場駅まで行く。
お台場地区から浜松町に行くは、「ゆりかもめ」の竹芝で降りて約10分歩くか、新橋でJRか都営浅草線に乗換える必要があり、浜松町に直通するメリットは大きい。昼間の運転間隔は平日20分、土休日15分である。イベント時に運行される臨時便は、途中ノンストップで、船の科学館等を経由せずに直接レインボーブリッジを渡るため、浜松町までの所要時間は約15分である。
余談になるが、港区の公共施設が多数存在する田町、三田地区へのバスの便がなく、芝浦埠頭で降りて約20分歩くか、新橋からJR、都営浅草線の利用となるため、港区でコミュニティーバスを計画しているようである。


10年式日野KC-HU2RCE 
/方向幕にレインボーブリッジが描かれている。

 
19年式日野(J-BUS)PKJ-KU234L2
〔都05〕
東京駅から有楽町駅、銀座4丁目を通り晴海埠頭を結んでいるが、一部の便が土、休日の昼間のみ勝どき駅から分岐して東京テレポート駅まで運転される。本数は少なく約1時間に1本である。終日10~15分間隔で運転されても良さそうに思うが、「ゆりかもめ」に遠慮しているのだろう。
〔都16〕
東京駅八重洲口より月島駅、豊洲駅、深川車庫、有明を通り東京ビックサイトを結んでいる。観光、商業施設のある台場駅の方には行かない。昼間約15分間隔運行されるが八重洲口の始発7時50分、終発17時23分とほぼ日中のみで、他の時間帯は深川車庫止まりである。ビックサイトで大きなイベント開催時には途中ノンストップの直行便が多数運行される。
〔波01出入〕
品川駅からレインボーブリッジを渡り、お台場海浜公園駅を通り東京テレポート駅を結ぶ系統であるが、本来の「波01」(東京テレポート駅~中央防波堤)の出入庫便で平日7往復、土曜祝日3往復半の運転で日曜日運休する。尚、本来の「波01」は土曜と祝日は平日並みに運行されるが、日曜日は僅か1往復のみである。

 
21年式日野(J-BUS)BJG-HUJLFP
〔急行05、急行06〕
「急行05」は錦糸町駅から新木場駅、パレットタウンを経由して日本科学未来館、「急行06」は森下駅から豊洲駅、パレットタウンを経由して日本科学未来館を結んでいる。土曜日、日曜、祝日の昼間約30分間隔で運行される。

 〔京浜急行バス〕
大井町駅から青物横丁駅を通り、首都高速道路湾岸線に入り東京湾海底トンネルを潜り抜けフジテレビ前、台場駅、東京テレポート駅を経由して船の科学館を結んでいる。大井町駅~フジテレビ前間17分と早いが日中の運転間隔が40分のため便利とはいえないが、京急、東急沿線で積極的にPRすれば乗客は増えるのではないだろうか。出入庫系統として大森駅発着便が5往復運行されている。有料道路を走行するが運賃は210円均一である。

 
19年式いすゞ(J-BUS)PJ-LV234L1
横浜駅から首都高速道路湾岸線、東京湾海底トンネルを通りお台場海浜公園駅、東京テレポート駅経由東京ビックサイト行が約1時間間隔で運転されている。観光バスタイプの車両が使用され運賃は800円である。お台場海浜公園駅まで42分、東京ビックサイトまで55分である。ちなみに同一区間を「ゆりかもめ」と「JR」を乗継ぐと運賃820円、所要時間約1時間とほぼ互角である。

 

〔東京ベイシャトル〕

東京テレポート駅からホテル、商業施設、観光施設等を巡回し運賃は無料である。運行にかかる経費はお台場地区の企業や観光施設の協賛金で賄っている。運行時間は11時から19時頃まで約15分間隔の運行である。車両はドイツのネオプラン社とニュージーランドのデザインライン社製が使用されている。運転開始時刻が遅い、運転間隔が15分とやや長いことを差引いても、外国製のバスで無料というのはインパクトが大きい。以前、上野浅草間で運行されていた2階建バスを使用していたことがあったが、乗降に時間がかかる、バリアフリー対応でないこと等で中止となった。

 
ニュージーランド デザインライン社製

 


ドイツ ネオプラン社製

【その他】
〔お台場ダッシュ〕
飯田線の「下山ダッシュ」は有名であるが、「ゆりかもめ」には「お台場ダッシュ」がある。お台場海浜公園駅で降りて青海駅までダッシュし、先程降りた電車に再度乗るというものである。同区間には「台場」「船の科学館」「テレコムセンター」と3つの駅があり、距離にして3.2㎞、所要時間は7分である。一方同区間の直線距離は約800mでしかも迷うことのない一本道のため少し走れば余裕で成功する。
「下山ダッシュ」は、下山村駅から5つ先の伊那上郷駅までの間、直線距離約2㎞を走る。高低差70mの上り勾配で、途中迷い易い箇所がある等難易度は高い。一方電車はその間6.9kmに鼎、切石、飯田、桜町と停車するが、飯田駅での停車時間の長い電車でないと難しいようである。どちらの「ダッシュ」も足に自信のある方は挑戦されては如何だろうか。
〔大船渡線〕
「ゆりかもめ」のことを「大船渡線」と呼ぶ人がいる。お台場地区の観光、商業施設を迂回するため急カーブの連続である。「大船渡線」との決定的に違いは政治路線でないこと。私自身、電話で会社までの道順を聞かれた時、思わず「新橋で大船渡線に乗換えて」と言ってしまった。
〔お台場地区の特徴〕
お台場地区は観光、商業施設の他、オフィスビル、高層マンション、イベント会場等が混在しているため、朝夕のラッシュ時には、オフィスビルへの通勤客、逆に都心への通勤・通学客、昼間は観光客、買物客で終日に亘り乗客が多い。東京ビックサイトでの大規模イベント時は超満員になる。単年度決算では黒字であるが累積赤字を解消するまでには至っていない。

【沿線風景】


汐留駅を発車する新橋行


レインボーブリッジを通過中の新橋行


お台場海浜公園駅付近


お台場海浜公園駅に進入する新橋行


船の科学館駅に進入する豊洲行


船の科学館駅に侵入する新橋行/バックは青函連絡船羊蹄丸、これに乗船して北海道に行かれた方も多いと思う。

米手作市氏の誘いに乗る(Ⅱ)

毎朝掲示板を開けるのが日課であることは湯口先輩と同じであるが、朝食後6時30分に家を出て、京成バス、JR→メトロ→JRと乗り継ぎ、4月中旬からは更に新橋で「ゆりかもめ」に乗り換えてレインボーブリッジを渡り「お台場」まで1時間30分かけての通勤している。今回は本業多忙により若干乗り遅れてしまった。

雨宮製作所製の台車の件は前回(5月10日【13285】)で湯口先輩が解説されておられるので、関連事項について触れてみたい。

台車の実物は、湯口先輩が記述されている通り、東武博物館と上毛電鉄大胡車庫にそれぞれ保存されており、興味のある方は是非見学いただきたい。東武博物館には雨宮製作所の銘板も展示されている。(上毛電鉄大胡車庫の見学はイベント時以外は事前予約制)

 


上毛電鉄大胡車庫に保存されている台車(平成22年1月3日)

 


東武博物館に保存されている台車と説明板(平成22年5月20日)

花巻電鉄の車両について触れておられるが、この件について若干補足する。
花巻電鉄は西花巻~花巻~花巻温泉間の鉄道線と西花巻~西鉛温泉間の軌道線が存在した。実際の運行は花巻が起点で、軌道線が西花巻~花巻間に乗入れる形を取り、鉄道線の一部列車は西花巻発着で運行されていた。

雨宮製の板枠台車を履いていた車両は、鉄道線デハ1~4と軌道線デハ1、3~5である。鉄道線のデハ1~3は大正14年、デハ4は大正15年に作られたが、3と4が昭和6年8月火災で焼失し、台車を流用して半鋼製車体を新製した。木製のまま残った1と2は昭和34と35年に鋼体化が行われ、全金製の新製車体に乗せ替えてデハ21、22となり軌道線用となった。その際台車が補強されたため形が変化した。

車体幅が極端に狭い軌道線のデハ1、3~5の経歴は複雑で、デハ1、3、4は昭和6年8月火災焼失車の台車を流用して作られた半鋼製車、デハ5は大正15年製の木製車であった。晩年は鉄道線のデハ3、4も軌道線で使用され、本来の軌道線のデハ3、4と車号が重複した。

 
鉄道線用として製作されたデハ4(昭和41年9月3日)

 


湯口先輩が撮影されたデハ2を鋼体化したデハ22(昭和41年9月3日)

 
軌道線デハ5(昭和41年9月3日)/デハ4、5の2両作られたがデハ4は火災焼失のため半鋼製車体を新製した。

 
軌道線デハ1(昭和43年9月3日)/昭和6年焼失車の補充として新製し、消失により欠番となった1を付番

 
軌道線デハ3(昭和40年3月23日)/製作の経緯はデハ1と同じ。花巻駅近くの公園で保存されている。

 
軌道線デハ4(昭和41年9月3日)/デハ5と同時に新製したデハ4の焼失補充として新製。
前述の鉄道線デハ4も軌道線で使用されていたため、スタイルの異なる2両のデハ4が走行していた。

湯口先輩の記述の通り下野電気鉄道は改軌後、昭和14年に日本鉄道自動車が台車のみ引取り、木製車体と組み合わせて銚子電鉄ボデハ101として再起した。唯、昭和14年に木製車体を新製するというのは不自然で、窓配置を見ると1D2332D1と扉間の窓が分割されており、どこかの車体乗せ換えにより不要となった車体を化粧直しして売り込んだ可能性があると思っている。14年後の昭和28年に早くも半鋼製の新製車体に乗せ換えているが、車体が小さいため一貫して予備車的存在であった。写真は2009年8月11日「【4039】銚子電鉄を訪ねて(Ⅱ)」に掲載されているのでご覧いただきたい。
日本鉄道自動車が雨宮製台車を引取ったのは、自社ブランドの台車を製作するためにサンプル目的もあったのではないかと推測している。

昭和17年に納入した草軽電鉄のモハ101~105は、雨宮製類似の自社製の台車を履いている。昭和22年から順次栃尾鉄道(→越後交通栃尾線)に譲渡され、最終的に5両全車が譲渡された。

 
越後交通栃尾線サハ301(昭和48年4月29日)/元草軽モハ103→モハ208
(S25.4)→サハ301(S41.8)

 
サハ303(昭和48年4月29日)/元草軽モハ102→102
(S36.11)→ホハ29(S39.4) →サハ303(S41.12)

 
サハ306(昭和48年4月29日)/元草軽モハ105→モハ200
(S22.6)→サハ306(S41.12)

戦後では平成19年3月末に廃止された「くりはら田園鉄道」の前身、栗原鉄道が電化(昭和25年9月21日直流750V)に際して新製されたモハ2401、2402の2両の台車に使用された。但し、翌年増備されたモハ2403は通常のものになった。同鉄道は、昭和30年9月27日1067㎜に改軌され、ED20形電機は台車枠を広げて引き続き使用されたが、電車は僅か4~5年で失職して下津井電鉄で再起した。下津井電鉄では他車と共通運用するには制御器の交換等大幅な改造が必要なため電装解除してサハとして使用した。

 
サハ1(昭和44年3月18日)/元栗原モハ2401(電装解除されたのみで、車体はほぼ原形のまま使用されていた)

 
サハ2(昭和40年8月18日)/元栗原モハ2402(モハ104+サハ2+クハ25の3両固定編成化の際、車体に大幅に手を加えられた。昭和47年3月末、茶屋町~児島間廃止時にモハ102+サハ3+クハ22の中間に連結されていたサハ3と交代し、平成元年最後の新製車メリーベル号と交代するまで健在であった。

 
サハ2の台車(昭和44年3月18日)

 
【参考】サハ3(昭和44年3月18日)/元栗原モハ2403(モハ102+サハ3+クハ22の3両固定編成化の際、貫通幌の取り付け等が実施された)

「和歌山鉄道クハ803など」他を拝読して

湯口先輩が4月19日に投稿された「【13023】和歌山鉄道クハ803」の米手作市様の質問に対する回答の中で「同型車が2両存在し、その内の1両が和歌山鉄道のクハ801となり、もう1両は小湊鉄道のジハ50からハフ50となり生涯を終えた」と解説されておられる。口之津鉄道のキャンセル品を手直しの上、新車として芸備鉄道に売り込んだ話は初めてお聞きして改めて「事実は小説より奇なり」と思った。
小湊鉄道時代の写真は「内燃動車発達史上巻」のP91に湯口先輩が撮影されたハフ50の鮮明な写真が掲載されているのでお持ちの方はご覧いただきたい。
現車は昭和37年3月に廃車されたが、昭和45年3月に訪れた時、車庫の中に昭和36年3月に廃車されたハフ10と共に残っていた。小湊鉄道は廃車しても直ぐには解体しないようで、平成9年3月に廃車となった元三信鉄道買収国電改造のキハ5800が残っている。佐久間レールパークの跡地を整備して、近江鉄道、岳南鉄道、遠州鉄道に残る飯田線所縁の電気機関車と共に保存できないものかと思う。
余談になるが滋賀交通のバスもかつては廃車後直ぐに解体せずに社有地に留置され、寺庄の元本社には戦前製のバスが長い間放置されていた。さすがに今は無いと思うが、最近まで残っていれば福山の「時計と自動車博物館」で復元されていたかもしれない。

 
小湊鉄道ハフ50 五井
(45-3-20)/廃車8年後も残っていた。

 
ハフ10 五井
(45-3-20)/こちらは廃車9年後/昭和5年松井車輌製

 
【参考】キハ5801(隣がキハ5800)五井
(45-3-20)/元三信電鉄デ302→国鉄クハ5801

4月27日に投稿された「【13096】奈良電クハボ601など」は、戦後の混乱期が収まった頃の貴重な画像で、C51100もさることながらオハ70の現役時代、片町線キハ41500等は、よく撮影されたものと思う次第である。撮影された車両の昭和40年代の画像を電車を中心に並べてみた。

3番目のスロハ32は、京都周辺では昭和39年10月のダイヤ改正まで山陰線の811レ(京都9時38分発門司行)に連結されていた。昭和39年から台枠流用でオハネ17の改造種車になるものが出現し、残りも昭和40年格下げでスハ50となった。

 
スロハ3247 京都
(39-7-26)/昭和40年8月30日付でオハネ172241に改造

 
スハ502104 仙台
(40-3-22)/元スロハ3252→昭和34年電暖取付スロハ322052→昭和40年3月20日格下)仙山線使用

4番目の近鉄伊賀線のモ5252は湯口先輩の解説の通り元信貴山急行電鉄の車両で昭和5年日本車両製である。同電鉄が戦時中不要不急路線として昭和19年に廃止され、当初南大阪線で使用されていたが昭和21年に伊賀線に転属した。3両新製されたが1両は事故で廃車となり2両が近鉄に引継がれた。湯口先輩が撮影された時点は原形のままであったが後に台車をTR10に取替えた。昭和49年4月8日に訪れた時は、モ5251は元伊勢電のモニ6202と、モ5252は元伊賀鉄道のモニ5184と編成を組んでいた。
これも全くの余談であるが昭和40年代に慶応鉄研さんが誠文堂新光社より発刊された「私鉄ガイドブックシリーズ」の「近鉄」編のモニ6201の解説で「ク5360以外と連結されない」と書かれているにもかかわらず、後ろに連結されているのがモニ6202と思われる車両で思わず苦笑した記憶がある。

 
モ5251+モニ6202 上野市
(49-4-8)

 


モ5252+モニ5184 上野市
(49-4-8)

9番目の電動貨車は、大正11年藤永田造船所製で5両作られ、後の改番でモト51~55となった。画像の951はモト51に改番され、後にクレーンが取り付けられた。全車昭和44年9月の昇圧まで在籍した。

 


上 モト51 下 モト54 西大寺
(42-10-21)

 
【参考】モト71 新田辺 
(42-10-21)/元奈良電デトボ361(昭和25年近畿車輛製)

10番目の600形4連の急行は、新生駒トンネルが開通するまでは奈良線の主力として、普通から急行まで幅広く活躍していた。800、820形で運行されていた特急の代走でも見たことがある。その後は舞台を京都線、橿原線に移し、1500V昇圧時も全車改造された。

 
モ625他4連奈良行臨時急行 布施
(39-5-12)/当時急行は鶴橋~石切間ノンストップで布施は通過したが、臨時急行は特急待避のため停車した。

 
モ608他4連 上鳥羽口~竹田 
(44-7-19)/2両目は鋼体化改造車のサ300が連結されている。

次のデハポ1000形は奈良電を代表する車両で、昼間の普通は湯口先輩の画像のように単行で沿線の人から「カラ電」と呼ばれる程乗客が少なかった。昭和40年代になると沿線人口の増加によりラッシュ時に4連の急行が出現し、4基のパンタを上げて走る姿は壮観であった。1500V昇圧時に荷電に改造されたデハボ1016→モ445→モワ61(昭和46年の改番モワ87)以外は全車廃車となった。

 
モ433他4連 上鳥羽口~竹田 
(44-7-22)

 
モワ87 平端 
(49-6-16)/車体にはあまり手が加えられなかったためよく原形を保っていた。

最後の片町線のキハ41500は、非電化区間の写真自体珍しく非常に貴重である。私が知っているのはキハ10、キハ20の頃で、当時(昭和45年頃)の片町線の昼間のダイヤ長尾行と四条畷行が各40分間隔、従って片町~四条畷間20分間隔。長尾行は1本おきに木津行に連絡して長尾~木津間は1時間20分間隔であった。長尾は大阪府、次の大住は京都府で、府境を越えての地域間交流は少なく閑散としていた。

 


長尾駅に進入するキハ20473
(42-12-10)/架線はホームの直ぐ先で切れている。

 
長尾駅に停車中の片町行/先頭はクモハ73149以下クモハ41×2+クモハ31+クハ79と続くオール運転台付4M1Tの5両編成。ホームは2面2線で駅舎側の1番線を電車、2番線を気動車が使用していた。四条畷~長尾間の電化は昭和25年12月25日と非常に覚え易い日で、今考えると「先見の明」があったと言えるかも知れないが、当時の輸送量を考慮すると、大物政治家か絡む「政治電化」であったらしい。

 
長尾駅/大都市近郊のターミナル駅とはとても思えない。

奈良電クハボ600形の通風口

2月28日米手作市様が紹介された「【11969】奈良電クハボ600型」の中で「こんな通風口あったかな?」と書込みされておられる件について、私の知る範囲で書いてみたい。

「クハボ600形」については、関 三平氏の解説文の通りであるが、少し補足させていただくと、昭和29年特急運転開始に際して新製されたデハボ1200形(1201、1202)と組む制御車としてクハポ602、603を扉間の戸袋窓部分を除き転換クロス化した。昭和38年10月1日近鉄と合併時の改番で、クハボ601→ク583、602→581、603→582となった。

昭和39年10月京都~橿原神宮駅間の有料特急運転時(6往復)にデハボ1201、1202→モ681、682、デハボ1352、1353→モ692、693を窓の固定化、座席の転換クロス化、冷房の取り付け等の改造を行い、一応大阪線の有料特急車レベルに改装した。 

この時、モ692、693は電装解除されてク581、582となった。個人的には「冷房とおしぼりサービス位で誰が乗るねん」と思っていたところ走り出すと意外に好評で、12月1日には京都~奈良間の特急5往復増発された。この時予備車を確保するためにモ691、ク581、ク582を特急用として整備されたが、あくまで予備車という割切りのため改造は最小限に留められた。

ク581は元モ692の電装品で電動車化してモ684に、モ691はモ683に、ク582はク583改番され、モ684+ク583+モ683の3連を組み「予備特」と呼ばれた。更に増発されると「予備特」を含めて3編成がフルに運転され、「予備特」が「予備特」でなくなってしまったため、扉間転換クロスのモ671+モ672(元奈良電鉄デハボ1102+1103)がマルーンのまま特急マークをつけて「予備予備特」として待機した。

車体を新製してモ600形の電装品を流用して作られた18000系、京都~伊勢間の直通特急用に新製された18200系、18400系が登場すると、定期運用から外れて本来の「予備特」に戻り、団臨にも使用されるようになった。

昭和44年9月21日奈良線、京都線、橿原線が支線も含めて1500Ⅴ昇圧時にこの編成も昇圧改造され、モ683の橋原寄りの運転台撤去、モ684の京都寄り運転台撤去による中間車化、ク582の方向転換が実施され、モ683+モ684+ク583となった。昭和47年に一般車に格下げされ、塗装がマルーンになり主に団臨に使用されていたが、昭和51年3月に廃車になった。(車齢が新しいモ683は大阪線に転属して電装解除の上、ク1322となり「鮮魚列車」に使用された) 

一般車として残ったク583 (元クハボ601)は、前述のク582→ク583に改番時にク595に改番して引続き急行以下の列車に使用され、昭和44年9月1500V昇圧時ク308に改番され、元奈良線のモ653改造のモ408と2連を組み生駒、田原本線用になった。

以上、近鉄に超詳しい方を差し置いてごちゃごちゃ説明したが、通風口の結論は「予備特」となったクハボ602とクハボ603は改造時に撤去、一般車として残ったクハボ601は廃車時まで存在した。

 
モ684(元ク581←クハボ602) 西大寺/昭和44年5月18日

 
ク583(元ク582←クハボ602)西大寺/昭和44年5月18日

 
1500Ⅴ昇圧時に方向転換、一般車に格下げされマルーン一色となったク583  玉川工場/昭和50年1月15日

 
【参考】モ683(元モ691←デハボ1351)+ク583+モ684  西大寺/昭和44年5月18日

 
【参考】モ692+モ691(元デハボ1352+元1351) 丹波橋/昭和39年5月15日  モ692は有料特急に格上げ改造されク581となった。

 
最後まで一般車であったク595(元ク583←クハボ601) 西大寺/昭和44年5月18日  通風口はしっかり残っていた。

長野電鉄から転入した上田交通の車両


千曲川の鉄橋を渡るモハ5261  上田~城下/昭和61年3月16日

tsurukame先輩が書き込みされた【12122】「雪景色・番外 長野電鉄2000、600形」の関連で長野電鉄から転入した上田交通の車両について紹介したい。撮影できなかった車両(モハ612→モハ5271)の写真は、犬伏孝司氏よりご提供いただいた。

 長野電鉄は、昭和56年3月1日長野~本郷間の地下化に伴い、不燃化基準により地下乗入が不可能な車両は、河東線(屋代~須坂)で使用する車両を除き、順次廃車となった。その中で、モハ102、モハ201、モハ604、モハ611、モハ612の5両は、上田交通に譲渡され、部品取りとなったモハ611以外の4両が別所線で再起した。
当時、別所線ではラッシュ時にモハにクハまたはサハを増結していたが、サハの場合は運転台が無いため、終着駅ではモハを先頭に付け替える必要があり、機回し線がある上田はともかく、別所温泉は留置線を利用して複雑な入換作業が必要であった。この4両の増備によりサハとクハの一部が廃車となり、これらの作業が不要となった。昭和61年10月1日の1500Ⅴ昇圧により廃車となったが、モハ604→クハ271は長野電鉄に里帰りして、モハ604に復元の上、小布施駅構内の「長電電車の広場」で保存されている。
旧番対照は下記の通りである。(左/長野電鉄・右/上田交通)
モハ102→クハ261・モハ201→モハ5261・モハ612→モハ5271・モハ604→クハ271

【車両の概要】
クハ261(旧長野電鉄モハ102
)
大正15年6月汽車会社で須坂~権堂間の開業に備えて作られた車両で、モハ101、102の2両在籍した。半鋼製車初期の製品で台枠にトラス棒が付いている。昭和53年9月に廃車となりモハ102のみ上田交通に譲渡されたが暫く手が付けられず、昭和55年3月になって電装解除の上、両運のクハとなった。


上田原/昭和61年3月16日

モハ5261(旧長野電鉄モハ201)
昭和8年4月汽車会社製で長野電鉄では1形式1両であった。前述のクハ261とはよく似たスタイルであるが、台枠にトラス棒が無い、リベットが少ない、扉間の窓の並びが均等の違いが見られる。長野電鉄の廃車時期はクハ261と同じであるが、こちらは直ぐに整備され、昭和53年12月に竣工した。

 
上田/昭和61年3月16日

 
上田/昭和61年8月24日(モハ5261+クハ291の2連)

モハ5271(旧長野電鉄モハ612←モハ602)
クハ271 (旧長野電鉄モハ604
)
昭和2年川崎造船所製の全鋼製車でモハ601~604の4両作られた。阪急600形、西武151形とは同形である。昭和41年に601と602のパンタ側(長野向き)の運転台の拡張工事が実施され、乗務員室扉の設置、客室扉の移設が行われた。昭和55年に4両共廃車となり、モハ603を除く3両が上田交通に譲渡された。
モハ612は昭和56年8月にモハ5271として竣工、モハ604は昭和58年7月になって電装解除の上クハ271として竣工した。モハ611は改造されることなく部品取りとして長電時代の塗装のままで上田原検車区に留置されていた。

 


モハ5271 上田/昭和58年7月8日 犬伏氏撮影
(上田側は原形、別所温泉側は長野電鉄時代に改造)

 
クハ271 上田/昭和61年3月16日

 


モハ611 上田原/上 昭和60年1月15日 下/昭和61年3月16日
(モハ611は改造されずに部品取り車になっていた)

【元東急の車両】
元長野電鉄の車両と前後して東急から譲渡された車両についても触れておきたい。

①デハ3310・クハ3661・クハ3772
昭和50年12月朝ラッシュ時の輸送力増強のために東急からデハ3310+クハ3661を借入れ、昭和54年4月正式に譲り受けた。

東急デハ3300形は目蒲電鉄から引継いだ車両で、元鉄道省の木製車を昭和11年から15年にかけて川崎車輛で鋼体化したもので、当初3301~3311の11両在籍していたが3302と3303の2両は戦災に会い9両が残った。晩年は3両×3本が池上線で使用されていた。
上田交通では平日朝ラッシュ時に上田原→中塩田→上田→上田原の限定運用で使用していたが、正式譲受け後連結面にも運転台を設置して単行で使用可能なように改造したが、使用実績は極めて少なかった。

 
上田原/昭和61年3月16日


[参考]東急デハ3307+3306+3308 旗の台/昭和47年12月17日

クハ3660形は2両在籍し、名義上は昭和22年に元京浜急行の木製車クハ5213、5222を更新したことになっているが、実際には車体新製車である。(台車は中古品)借入直前は田園都市線で使用されていた。昭和58年10月老朽化のため廃車となり、次に述べるクハ3772と交替した。

 
上田原/昭和60年1月15

クハ3770形は戦災で焼失した国電を購入して自社で復旧した車両で、クハ3772の前身はクハ65147とされている。昭和36年東横車輛で全金製の新製車体と乗せ換えた。昭和58年10月クハ3661の代替として入線したが、1500Vに昇圧のため僅か3年で廃車になった。

 
上田原/昭和60年1月15

②クハ291、クハ292
昭和58年10月東急5000系の中間車サハ5358(昭和31年/東急車両製)、サハ5371(昭和33年/東急車両製)の上田寄りに運転台を取り付け入線した。前述のクハ3772同様僅か3年で廃車になった。

 


上 クハ291  中 クハ291別所温泉側  下クハ291/昭和60年1月15日

さようなら 都電7500形

この度の東日本大震災で被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。鉄道はじめ公共交通機関の一日も早い復旧と被災地の復興を祈念し、投稿を再開させていただきます。

都電荒川線で最後まで残っていた7511と7512の2両が3月13日を最後に営業運転を休止し、当日はお別れ式が実施される予定になっていた。

最終日2日前の3月11日(金曜日)、撮り納めと乗り納めをしようと思い、フレックスで10時出社にした。いつもの時間(6時40分)に家を出て町屋で都電に乗換え荒川車庫前で下車。三ノ輪橋方面行が順光になるが、この時間帯は正面に電柱の影が写ってしまうが贅沢は言っておられない。ラッシュのピークのため電車は3~4分間隔で次々に来るので効率がよい。町屋駅前行で来た7511を撮影したところで、横の道路から車庫内を覗くと、廃車済みの7520に「さよなら」のヘッドマークが取り付けられているのが見えた。恐らく13日のお別れ式に7511、7512と共に展示されるのであろう。三ノ輪橋行で来た7512を撮影後、町屋駅前で折り返してきた7511が大塚駅前行で来たので乗車、飛鳥山で降りて折り返してくるのを待とうとも思ったが、乗り納めで大塚駅前まで乗車して、荒川車庫前行で折り返して行くところを撮影した。次の電車で新庚申塚まで戻り、徒歩連絡の都営地下鉄三田線西巣鴨駅から芝公園駅近くの勤務先に向かい、予定通り10時に到着した。7511、7512の撮影、7511の乗り納めと予定通りの結果であったが、何か寂しいものがあり、あわよくばもう一度乗ってみたいと思った。 

いつも通り慌しく仕事を進めているうちに、14時46分やや大きな横揺れを感じた。揺れはどんどん大きくなり、立っていられない状態になり、マジでヤバイと思った。揺れが収まり、テレビをつけてみると東北地方を震源地とする大地震が発生し、東京は震度5強とのことであった。自宅に電話をするが繋がらない。やっと繋がったと思ったら誰も電話に出ない。暫く経って再度電話をすると、嫁さんと子供は亀有の大手スーパーに併設されている映画館で鑑賞中に地震に遭遇し、余震が続く中を2時間かけて歩いて帰ってきたとのこと。自宅は建物の損傷はないが、家の中は書棚が転倒し、棚や箪笥の上のものは全部落下、食器棚の中のガラス製品が多数破損している。はよ帰ってアンタの本を片付けてちょうだいとのこと。鉄道の運転再開まで時間がかかるので、約20キロの道程を歩いて帰ろうと思い、外に出たところで「ビル管」から津波警報が出たので3階以上に避難したほしい。また警報が解除になっても余震が収まるまで外には出ないで欲しいと言われ、仕方なく4階の事務所に逆戻り。事務所から海岸までは500m程である。

16時30分頃都電と都バスの運転再開が伝えられた。都バスが動けば、さほど遠くない新橋まで歩き、業平橋行に乗り途中の言問橋で金町行に乗り換えれば帰ることができる。暫くすると都バスで帰ろうとして事務所を出た人が戻ってきた。ひどい渋滞と長蛇の行列を見て諦めたとのこと。事務所前の渋谷行のバスも渋滞のため全然動かない。この時点で都バスルートは諦めた。招集がかかり、大阪の本社からの指示で食料を確保せよとのことであった。事務所周辺のコンビニは既に売り切れとの情報で、少し離れた住宅街に行くと、パン、おにぎり類はすべて売り切れ。辛うじて残っていた弁当、カップ麺を必要数購入した。21時を過ぎた頃が都営地下鉄、東京メトロを中心に運転再開のニュースが入り、半数以上の人が帰宅したが、混雑のため電車に乗れず事務所に逆戻りした人、超満員の電車で行けるところまで行き、深夜の道を歩いて帰った人、途中で帰宅難民になった人等まともに帰れた人は殆どいなかった。余震の度にロッカー類が揺れる音と、携帯電話のエリアメールの音で眠れなかったが、暖房が効き食料が充分にあるのは有難かった。

 

翌12日、ニュースではJR各線は7時頃から、山手線は8時頃から運転再開と報じていた。都営地下鉄は昨夜の段階でほぼ全線で運転再開、私に関係する東京メトロ千代田線は代々木上原~霞が関間のみ開通していた。9時30分に事務所を出て混雑を避けるため都営三田線芝公園駅から昨日の逆ルートで帰ることにした。三田線は昨夜のうちに開通しているので乗客はさほど多くなくほぼ平常通り運転されていた。都電荒川線は山手線の高田馬場~巣鴨間の代替交通機関として超満員であったが、5~6分間隔でほぼ平常通り運転されていたが、「町屋駅前~大塚駅前間の区間運用」(土休日に三ノ輪橋~早稲田間の通し運用2~3本間に運転される)の運休と明日の「7500形さよならイベントは中止となり、グッズのみ販売」とのアナウンスがあった。ちなみに山手線外回りが運転再開したのはこの日の午後であった。この時点では、千代田線は代々木上原~霞ヶ関間の折り返し運転のため飛鳥山で途中下車して撮影しながら時間調整することにした。大地震の翌日にもかかわらず何人かの撮影者がいたのには驚いたが、自身も同類のため人のことは言えない。撮影していた人に7500形の運行状況を聞いたところ、間もなく7511が貸切で来るとのこと。撮影後荒川車庫前に移動して戻りを待ったがここで入庫した。乗客は10人程で2家族の貸し切りであった。運行状況のアナウンスがあり、千代田線は綾瀬まで全線再開したとのことであった。町屋駅に到着すると、綾瀬駅混雑による運転見合わせのため京成への振替乗車が行われていた。普通八千代台行(6両編成)が直ぐ来たが成田空港から海外に行く人も結構乗っており超満員であった。高砂で乗り換えた金町行は通常15分間隔のところ1本間引きで30分間隔となっていたのとメトロからの振替乗車の乗客で満員で、金町に到着したのは13時であった。
当日の京成電鉄の運転状況は、本線上野~八千代台間と押上線がオール各駅停車で約20分間隔、金町線30分間隔、八千代台~成田空港間と千葉・千原台線は終日運休、北総鉄道は高砂~印西牧の原間、成田スカイアクセスは印西牧の原~成田空港間それぞれ約40分間隔で折返し運転され、東京~成田空港間の足は辛うじて確保されていた。

 


7511の貸切運行

 
イベント中止を告げるポスター

 
「都電おもいで広場」もお休み

 最終日の13日、イベントは中止されたが、この日のみ発売の「記念1日乗車券」を購入するため荒川車庫に行った。入口のところにヘッドマークが取り付けられた7520が綺麗な姿で停められていた。一方本日限りで引退する7511と7512は終日町屋駅前~大塚駅前間の運用に入り最後の雄姿を見せてくれた。13時過ぎ、一昨日乗り納めをした7511が来たので、町屋駅前まで本当に最後の乗り納めをした。そして7500形の昭和37年から半世紀に亘る活躍の歴史が静かに終了した。

当日イベントは中止になったが、この日のために美しく整備された7520を入口近くの撮影可能な位置に停車、7511、7512を大塚駅前~町屋駅前間を終日運行させて多くの人が乗車、撮影可能なように配慮された関係者の皆様に敬意を表したい。

 
この日のために整備された7520

 


最終日の表情(上/町屋駅前で折り返し 中/荒川車庫前発車 下/町屋駅前発車)

7511車内のポスター

 

在りし日の7500形
原形時代
昭和37年に7501~7510が日本車両、7511~7520が新潟鐵工所で新製され青山車庫に配置された。昭和43年9月青山車庫廃止により7501~7510が荒川車庫、7511~7520が柳島車庫に転属、昭和47年柳島車庫廃止により7517と7519が廃車になり、残り8両が荒川車庫に転属した。

 


昭和52年2月12日 荒川車庫前/事務所の建物は「都電おもいで広場」の位置にある。

ワンマン改造後
昭和52年10月からワンマン運転開始に伴い改造されることになった。(完全ワンマン化は昭和53年4月)7000形は車体を新製したが、ワンマン機器設置とホーム嵩上げによる車体改造に留まった。7509と7514は改造されずに廃車された。

 


上/昭和58年7月12日 下/同年6月18日 荒川車庫前

車体更新後
昭和59年から冷房装置搭載に伴い車体更新が実施され新製車体に乗替えられた。7502、7504、7508の3両は対象外となり、7502と7508は廃車、7504は朝のラッシュ時のみ使用されたが平成13年に廃車後「都電おもいで広場」で保存されている。集電装置は当初ビューゲルであったが、程なくパンタグラフに換装された。


ビューゲル時代の7503/昭和60年5月10日 荒川車庫前

思い出の風景

 
荒川2丁目~荒川区役所前/平成21年3月27日


王子駅前~飛鳥山/平成21年5月15日


飛鳥山/平成21年6月8日

荒川遊園地の送迎バス
沿線の荒川遊園地に7500形をモデルにして作られた送迎バスが存在した。こちらは一足早く姿を消したようである。


荒川遊園地/平成11年6月24日

43年前の神戸電鉄


菊水山駅を通過するデ109+デ105 (昭和43年4月20日)

神戸電鉄を初めて訪れたのは現役時代の昭和43年4月20日で、2週間前の4月7日に開業した神戸高速鉄道の見学も兼ねていた。午前中に菊水山と鈴蘭台で撮影し、午後は山陽電鉄に移動して電鉄須磨~須磨浦公園間で撮影した。
当日撮影した車両の画像で当時を偲んでいただければ幸いである。

デ109+デ105(デ101形)
デ1形とデニ11形(共に昭和3年日本車輌製)は既になく、翌年増備されたデ101形(101~110)が最古参であった。1形との相違点は車長が僅かに長くなり、台車がD16に変更された程度である。

 

デ202+ク151(デ201形)
昭和23年から24年にかけて川崎車両で201~208の8両が作られた。デ202の後ろに連結されているのは元神中鉄道キハ51(昭和11年日車製)のク151である。

 

デ211+デ212(デ211形)
昭和26年三木線延長時に川崎車両で211~213の3両が作られた。

 

ク131(ク131形)
戦時中の昭和18年に元神中鉄道キハ33、34(昭和11年日車製)を購入して制御車に改造した。

 

デ302+デ301(デ300形)
昭和35年川崎車両で作られた神戸電鉄初の高性能車で、301+302、303+304の2編成作られた。座席は扉間クロスシートであったが、昭和46年に3扉ロングシート化が行われた。

 

デ312+デ311(デ300形)
前述のデ301~304の増備車として昭和37年川崎車両で311+312、313+314、315+316の3編成作られた。前面貫通、座席がロングシートになったため、車号を311以降に付番した。

 

デ861、デ864(デ860形)
昭和41年から43年にかけてデ1形、デ101形の主要部品を流用して作られた車両で、新製車と同一スタイルのため素人目には新車に見える。861~865の5両が作られ、861~864が両運、865は神戸向きの片運であるが、有馬側に簡易運転台が設置されている。

デ1002+デ1001、デ1006+デ1005(デ1000形)
昭和40年から43年に作られた高性能車で扉が両開きとなった。1001+1002のように2両ユニットになり、5編成10両作られた。

 

デ1051(デ1050形)
デ1000形ユニットのラッシュ時増結車として1051~1058、1060、1062、1064の11両作られた。奇数車が有馬向き、偶数車が神戸向きの片運車であるが、反対側には簡易運転台が設置されており、ヘッドライト、尾灯も付いている。

 

ED2001
昭和24年三菱重工三原工場で作られた電気機関車で近々引退が噂されている。これ以下の画像は10年後の昭和53年4月23日道場南口駅での撮影である。

 
トム521
製造年、製造所は不明である。車端に控室が設置されており、ワイパーが取り付けられている。

 
トム621
昭和22年若松車両製。

 

バス
電車から「西日本車体工業」のカマボコ形以前の旧ボディーのバスが停まっているのが見えたので途中下車して撮影した。バス部門は平成10年9月30日に「神鉄バス」に分社化されている。
兵2あ2709
38年式MR470、車体は西日本車体工業である。「神戸ナンバー」の前は「兵ナンバー」であったことがわかる。「兵ナンバー」はその後「神戸ナンバー」と「姫路ナンバー」に分かれた。

 
神戸22か1318
52年式B805Lで車体はクレハである。

「23」の車号を持つ車両

1月2日【11147】でtsurukame先輩より山陽電鉄モハ2011で新年のご挨拶があった。平成23年も2月中旬となったが、平成の年号に因み「23」を名乗る車両を探してみた。

国鉄車両
電気機関車にED23があったが、廃車が昭和35年と早く、1形式1両で最終配置区が久里浜支区であった。私鉄の機関車では北陸鉄道にED231があり、昨年10月25日【10022】「昭和40年代の北陸鉄道金石線」で紹介しているのでご覧戴きたい。
電車ではクモル23、気動車ではキハ23、客車ではナハネフ23とオリエントエキスプレスが運行された時に控車として使用されたオニ23が挙げられるが、ナハネフ23を取上げた。

クモル23
昭和34年から38年までの間にクモハ11とクモニ13を改造して生れた配給車で、000~003、010、050、060の7両在籍した。種車、改造時期、工場によりスタイルは1両毎に異なっていた。その中で003、050、060の3両を紹介する。
クモル23003
昭和38年、元モハ34010を改造したクモニ13008を幡生工場で再改造した。(46-1-15 大阪駅)

 
クモル23050
昭和36年、鋼体化改造のクモニ13027を豊川分工場で再改造した。写真のように正面窓が大きく改造されている。(45-11-22  豊橋機関区)

 
クモル23060
昭和38年、鋼体化改造のクモニ13022を吹田工場で再改造した。鋼体化改造も吹田工場で行われており、ヘッダーが乗務員扉の上まで巻いているのが特徴である。(47-1-4 向日町運転所)

 

キハ23
昭和41年から44年にかけて作られた両運転台付の近郊型気動車で、113系に準じた座席が設置されていた。暖地向けの0番台が33両、寒冷地向けの500番台が21両新製され、暖地向けは主に中国地方で、寒冷地向けは主に陸羽東・西線で使用された。(48-1-28 上/キハ236他4連中島駅・下/キハ2329他2連中島~上八木)

 

ナハネフ23
「富士」と「はくつる」用として昭和39年~45年に1~20の20両が日本車両で新製された。その後昭和43年にナハフ21から4両改造されナハネフ23501~504となった。画像は「みずほ」に連結されていたナハネフ239である。(41-10-13 京都駅)

 

私鉄車両
ずばり「23」が付番されている車両を集めてみた。

京阪電鉄京津線 23
この車両に関しては説明不要であろう。この時期行先板が起終点表示になっていた。(40-3-18 浜大津)

 
江若鉄道 キハ23
元国鉄キハ072(昭和12年/川崎車輌製)で昭和38年に購入した。入線直後の状況は不明であるが、昭和39年から40年頃までエンジンがなくトレーラーで使用されていた。(上・中/40-11-14 浜大津 下/44-10-12  三井寺下)

 


越後交通栃尾線 ニフ23
元草軽電鉄のコワフ115(昭和17年/日本鉄道自動車製)を昭和35年12月に購入した。製造年はこの手の車両としては比較的新しく貴重な草軽電鉄の生残りであった。(41-9-7 長岡)

 
伊豆箱根鉄道大雄山線 クハ23
元国鉄の木製車クハ23を西武鉄道から譲受けたモハ237の車体を利用して昭和35年に鋼体化したものである。同様に元伊那電鉄買収車モハ45はモハ236の車体を利用して鋼体化し、モハ45+クハ23で揃った編成を組んだ。固定編成ではなく、編成をバラして他の車両と編成されていることもあった。西武鉄道モハ236、237は昭和3年川崎造船所製で、同形車は弘南鉄道、近江鉄道、大井川鉄道でも見られた。(45-11-22 大雄山)

 
静岡鉄道静岡線 モハ23+クハ23
昭和35年自社長沼工場で新製された。足回りこそ中古品であるが、自家製としてはよく出来ていると思う。(45-3-10 長沼)

 
静岡鉄道駿遠線 ハ23
静岡鉄道にはもう1両「23」を名乗る車両が駿遠線に在籍した。大正2年名古屋電車製作所で中勢鉄道ロハ8として新製、昭和17年に三重鉄道に売却されホハ18に、合併で三重交通となりサハ364となり、駿遠線には昭和26年に入線した。その後自社工場で鋼体化改造され写真のスタイルとなった。(41-3-9 新藤枝)

 
野上電鉄 モハ23
車体は元阪急1形の26で、昭和32年関西交通工業で改造の上入線している。屋根は丸屋根となり窓が大きくなった結果、スタイルが大きく変わってしまった。(50-8-24 日方)

 
大分交通耶馬渓線 ハニフ23
元九州鉄道の車両で明治23年小倉工場製と言われている。耶馬渓鉄道時代の昭和7年に入線し、昭和40年9月廃車になった。(39-8-18 中津)

 

「23」の車号を持つ車両をいくつか紹介したが、数字遊びの一つとして見ていただければ結構かと思う。一畑電鉄、琴電は前後の「22」「24」は撮影しているが「23」は撮影していない。もとより車号を意識したり、全車両撮影を目指していた訳ではなく、今日に至るまで適当に撮影しているだけのため、これは致し方ない。諸兄が撮影された「23」や「2011」にまつわる車両を是非発表いただければと思う。

京阪バスのトレーラーバス

【11106】「『びわ湖の銀嶺へ』/昭和22年12付き26日の新聞広告」で、湯口、沖中両大先輩よりトレーラーバスについての貴重な体験談をコメント戴いた。私自身は写真でしか見たことがなく、戦後の混乱期に大活躍した位の知識しかないが、約30年位前に名古屋大学鉄研OBのO.A氏と一緒に京阪バス本社を訪問した時に見せていただいた資料等で概略が判明したので報告する。本書込みに当ってもO.A氏より多大なご協力を戴き改めて御礼を申し上げる。
昭和26年10月30日時点で次の8組が在籍した。(前がヘッド、後がシャーシ)

1)京滋営業所4組
①滋101+滋126(1947年式定員/81名)→昭和27年3月登録替/滋2-1011+滋2-1012
②京1080+京1081(1947年式定員/82名)→昭和27年3月登録替/京2-20454+京2-20455
③大2301+大2311(1947年式定員/85名)→昭和27年3月登録替/大2-4521+大2-4522
④京1078+京1079(1948年式定員/58名)→昭和27年3月登録替/京2-20452+京2-20453

2)大阪営業所3組
①大2302+大2312(1947年式定員/70名)→昭和27年3月登録替/大2-4523+大2-4524
②京1132+京1133(1949年式定員/63名)→昭和26年11月登録替/大2-4525+大2-4526
③京1134+京1135(1949年式定員/63名)→昭和26年11月登録替/大2-4527+大2-4528

3)観光課1組
京1127+京1128(1949年式定員/63名)→昭和27年3月登録替/京2-20456+京2-20457
京滋営業所の「大ナンバー」、大阪営業所の「京ナンバー」は転属車と推定される。京滋営業所は昭和27年1月組織改正で京都営業所と大津営業所に分かれるが、トレーラーバスは全車大津営業所の所属となった。京滋営業所の①と④以外は昭和27年に廃車や売却で姿を消してしまい、生き残った①と④は昭和31年6月まで使用され10月に廃車となった。昭和25年頃から通常のバスの車体が大型化すると、小回りが利かず走行可能な道路が限定され、かつ運転操作が難しいトレーラーバスは急速に姿を消してしまった。また、昭和25年4月14日に横須賀発三崎行の京浜急行のトレーラーバスが、乗客が投捨てたタバコのマッチが別の乗客が持ち込んだガソリンに引火して火災爆発事故を発生させ、運転士が気付くのが遅れたため多数の死傷者が出たことも廃車を早めた原因の一つとなった。ちなみにこの事故により「道路運送」と「旅客運送」の関連法案が改正され「危険物車内持込厳禁」となった。

ボンネットバス
我々の世代ではトレーラーバスの撮影は無理であるが、ギリギリ間に合った「ボンネットバス」の画像をアップしたのでご覧戴きたい。

枚方営業所
私市駅→八の坪・八の坪→大和田駅のルートで1日3往復運行されていた。八の坪は奈良市に隣接した田原地区の地名である。ワンマン化の時に京阪交野→下田原→山口川→中番→滝寺→逢坂→大和田駅と田原地区を一巡する直通運行に変更された。昭和53年6月から55年3月まで、職場が大和田駅~巣本~門真団地線の途中停留所にあり、気が向いた時に大和田駅18時40分発の京阪交野行きの最終バスに乗り、交野線経由で帰ったりしていた。清滝団地を過ぎると乗客は数人となり、山口川でほぼゼロ、田原地区を一巡後真っ暗な磐船街道を私市駅経由で京阪交野まで走行した。

 


満員で大和田駅に到着、折り返しの八の坪行もほぼ満員で発車した。
大阪22あ1500/40年式BXD30、登録番号が新しい(昭和49年9月登録)のは、大津営業所からの転属車のためで、元は「滋2い875」であった。(50-5-5)

京都営業所
朝夕のみ運行の山科駅~寺内町間で使用されていた。

 
京2い1394/38年式BXD30、車体は帝国自動車工業製
(49-12-19)

 
京2い1396/40年式BXD30、車体は川崎航空機製
(49-12-19)

 
京津線の踏切を渡りバスターミナルに到着。
(50-5-11)

 
事業用となり白ナンバーになった「京22や6」/38年式BXD30、車体は川崎航空機製(
50-3-30/三条京阪)

大津営業所
長等公園~浜大津~国鉄大津駅~朝日ケ丘住宅間と石山駅~大石小学校前~曽束間で使用されていた。

 


滋2い886/40年式BXD30、車体は川崎航空機製
(50-3-9 下50-3-2)


滋2い888/40年式BXD30、車体は帝国自動車工業製 
(50-3-9)

 
滋2い887/40年式BXD30、車体は帝国自動車工業製 
(50-4-20)

昭和51年旅客営業停止後事業用として京都営業所に転属「京22や180」となった。昭和53年3月「京都定観50周年」に際し、「おいでやす京都号」として定期観光用に復活して「京22か1981」に、イベント終了後再度事業用となり「京22や304」に、62年10月に枚方営業所に転属して「京22か4264」となり、京都競馬場開催日に職員詰所として使用。この時は京阪バスカラーに戻っていた。廃車後、愛知県のバス愛好家に引取られ、当初は京阪バスカラーのままであったが、現在は名古屋市バスの旧塗装になり、「ボン太号」の愛称で名古屋地区のイベントに参加し、元気に姿を見せている。10年位前小牧空港から地下鉄藤ヶ丘駅まで乗せてもらったが、車齢30年とは思えないほどよく走った。

 
京22や180 
(52-3-6)

 


京22か1981「おいでやす京都号」
(53-4-29)

半世紀前の淡路交通(5)


洲本駅で発車待ちのモハ二2006+クハ111

乙訓の長老より3回に亘り淡路交通の車両について詳細かつ解かり易く解説いただいた。鋼体化改造のように大きく手を加えた場合、改造費は資本的支出とみなされ、現在簿価に加算された再評価価格で減価償却が行われることが判る。また、(4)の準特急様が書き込みされた、昭和40年度新入生歓迎旅行のコース、見学先等、企画された方のセンスの良さは、さすがDRFCであると思った。長老の解説を少しだけ補足させていただきたいと思う。

モハ二1003
、廃線時まで在籍し、半鋼製に改造されていたが南海のタマゴ型の原形をよく残していた。(40-6-6 宇山)

 

モハ609+モハ610
阪神から来たモハ609と610は淡路交通の付番方式ではモハ1012、1013となるべきところ、車体に609、610の切抜番号がしっかり貼り付けられていたので、それを活かしたとのことであった。長老が撮影されたパンタ側の写真は非常に珍しい。(40-6-6 賀集)

 

モニ500
長老の解説の通り元国鉄の配給車モヤ4004で、事業用車が譲渡された例は非常に珍しい。長老が撮影された時と比較すると台車が振替えられているが、モハ二1005が鋼体化された時に振替えられたものと思われる。(40-6-6 宇山)

 

モハ1010+モハ1011
昭和41年10月1日廃止後、当時輸送力増強を進めていた水間鉄道に譲渡され、同社のモハ362、363として再起した。使用期間は短く、昭和46年11月、南海電鉄が1500Ⅴ昇圧により不要となった1200形導入による車種統一で廃車となった。

 

 


上/淡路交通時代(40-6-6 宇山) 中/貝塚駅に進入するモハ362+モハ363、下/モハ363
 (45-5-24)

鉄道廃止後はバス専業となり、昭和60年6月8日の大鳴門橋開通により淡路~徳島間、平成10年4月5日の明石海峡大橋開通により翌日の6日より淡路~大阪・神戸間の高速バスの運行を開始した。島内のローカルバスはマイカーの増加や過疎化により乗客の減少が続いているが、淡路~阪神間の高速バスは好調のようで株主配当を行っている。他社と比較すると車両の代替が早く6~10年で実施している。バスの寿命は通常15年前後であるが、6~8年目に再生工事(鉄道車両の更新修繕に相当)を行い、更に4~5年後に再々生工事が行われるが、淡路交通の場合は再生工事を行わずに廃車している。車齢が新しいため他社で再起することが多く、関東では東野交通、松本電鉄、ホテルグリーンプラザ上越の送迎車で見られた。(これらは偶然見たもので、探せば他にもあるかも知れない)

東野交通
平成6年に購入した「栃木22う733」と「栃木22う736」の2両が在籍した。2両共60年式P-LV314Mで、前車は宇都宮営業所西原車庫の所属で宇都宮~真岡間等で、後車は真岡営業所益子車庫所属で宇都宮~益子間等で使用されていた。宇都宮市内で初めて見た時「なんで淡路島のバスがここで走ってるんやろ」と不思議に思った。(H6-9-11 西原車庫)

 

松本電鉄
平成6年に老朽車の代替として60年式P-LV314M、平成9年に2年式U-LV324Mを購入し、松本地区で使用されていた。(H9-8-10 松本駅前)

 
60年式P-LV314M

 
2年式U-LV324M

グリーンプラザ上越
上越国際スキー場の中にあるリゾートホテルで、61年式P-LV314Mが1両在籍し、越後湯沢駅~ホテル間の送迎バスとして使用されていた。(H10-3-15 越後湯沢駅前)