EVE展示『京都市電で偲ぶ・・・』を、web版『鉄路輝く』に追加掲載

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昨年のEVEに展示された、『京都市電で偲ぶ昭和の同志社』は、 クローバー会全員の会活動の原点とも言える作品でした。

それらは後日、総本家青信号特派員さんの手で、このデジ青に キャプションと共に掲載して頂きました。また、定点撮影の現況写真と 詳しい説明を加えて紹介くださいました。お蔭でEVEに行けなかった筆者 も自宅で力作を鑑賞させて戴きました。お礼申し上げます。

そこで、これまで4回の写真展同様に、Web版『鉄路輝く』に追加掲載しました。 上の画像は、そのサムネイルです。BGMには、ちょうど半世紀たった今も健在な 同志社カレッジソングのオルゴールが聞こえます。(このページでも聞こえます。)

サムネイルをクリックして展示写真にジャンプしてください。撮影者のキャプションと 共に、総本家青信号特派員さんの現況と説明が併記されております。

1964
僭越ですが、サムネイルの右上からジャンプできる、1964年2月の同志社大学 構内外の写真ページを追加させて頂きました。上の画像です。筆者の卒業時、 ゼミ仲間と作成した私製卒業アルバムの一部です。そしてBGMに同志社大学 グリークラブ演奏の同志社カレッジソングを2番まで挿入しました。 良ければご視聴ください。(なお、ブラウザがChrome、Firefox、Operaの場合、 グリークラブ演奏は流れません。)(この頁では1番のみ聞くことができます)

このページの画面上部、クローバー会にマウスを乗せ、リンクをクリックし、クローバー会 写真展(青色文字)をクリック。『鉄路輝く』Web版に進みましたら、『138EVE写真展』をクリックしてご覧ください。 本日は【写真展ページへ】からもジャンプできます。

呉線急行-音戸、ななうら、安芸など

呉線区間列車に続き、呉線通しの急行・普通・貨物列車です。
1966年5月3日の夜は坂駅でステーションホテル。翌5月4日。空がまだ明けやらぬ内から、坂駅で撮影開始。先ず音戸が通過。
▼(左)下り301レ急行『音戸』、機C6215【広転】 5:34頃。(右)上り622レ     12728
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少し明るくなってきて、622レの出発。
▼上り622レ、5:36発糸崎行き、機C6214【糸】                   12730
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呉線-蒸機牽引区間列車

呉線の蒸気機関車牽引の写真は、これまでに湯口先輩、青信号特派員さん、その他沢山の方が投稿されています。モノクロやカラーで美しい瀬戸内の風景も同時に見せて戴きました。筆者も人並みに、呉線を訪れていましたが、海岸線を行く画像は二番煎じ、出涸らし茶ですので、少し変わった画像を紹介しましょう。夕刻から早朝にかけ多数運転された、広島-広間(糸崎-竹原、竹原-広島間も含む)の、蒸機牽引区間列車です。

1966年当時区間列車が、広島→広間(上り)の5本、広→広島間(下り、内2本は広→宇品間)の5本がありました。この他、糸崎→竹原、竹原→広島間にも各1本がありました。これらは通勤・通学列車でしょう。早朝と夕刻の運転です。1960年代高度経済成長期時代の呉、海田市、広島、宇品など工業地域への通勤列車でしょう。この他に広島←→糸崎間の通し運転の蒸機列車やDC、区間列車のDCを含めると、たいそうな列車本数の呉線でした。

この内、夕刻の広駅折り返し列車については、広駅にターンテーブルが無い為、上りもしくは下りのいずれかで大型蒸機のバック運転が見られました。呉駅に回送、方向転換の時間的・ダイア上の余裕が無かったためです。蒸機はC59、C62、D51でした。残念ながらC59のバック運転の写真が撮れていませんが。

また、夜間の列車は正位運転で広駅に向かい、到着後機関車を呉駅にバック運転で回送、呉駅のターンテーブルで方向転換し、翌朝再びバック運転で広駅へ。ここで客車を連結、正位で広島に向かうという、手の込んだ方式でした。

▼上り客926レ、広行き、坂駅に到着。機C6218【広島(運)】、1966.05.03    C2710C2710 続きを読む

C57110,C577

鉄道が好きな者、愛している者にとって事故ほど見たくないモノはありません。人は勿論、それが鉄道車両や蒸気機関車の姿におよべはなおさらです。ここに登場するC57110は、準特急さんの記述にある通り、悲惨な事故を経験してしかも、見事に復活を遂げた機関車です。デジ青のこのページ右上に検索用テキストボックスがあります。ここに『六軒駅』と記入して検索をかけて下さい。【7158】『亀山の参宮線事故機』と題した湯口先輩の投稿記事があります。事故の詳細がよく判ります。同時に3両のC51とこのC57110の悲惨な画像が見えます。とりわけC57110の姿は目を覆うばかりです。『台枠がさして損傷がないようだ』とのコメントがありますが、よくぞ復活したものと感心しています。

さて、加太越えの補機はD51が主体でしたが、時にC57も補機役を務めていました。撮影機会が何度かありましたが、下の画像はC57110、貨物列車の補機姿です。なお、この画像は村田屋旅館の物干し台から撮ったもので、手前には10数本の電線が写っていたのですが、すべて削除処理を施したもので、実際の姿とは異なります。
▼関西本線 加太-中在家信号所 貨763レ 補機 C57110 【亀】 1967.05.07   14836
14836こちらは本務機として。早春の午前6時半すぎです。
▼同上区間 客725レ 機 C57110 【亀】 1966.03.06                                       12502
12502変わってC577。有名な築堤を過ぎて亀山に向かう同機です。加太会発祥の日、急行大和を撮影後、一同気が抜けた時にやってきたので、構図もなく慌ててシャッターを切った一コマでした。初冬の午前7時半過ぎ。この列車が終着和歌山市駅に着くのは21時21分でした。
▼同上区間 客742レ 機C577【亀】 1964.12.06                  09708
09708

D52添乗-瀬野八-

筆者が本線上で蒸気機関車に添乗できたのは、後にも先にも1回だけ。昭和37(1962)年5月4日、山陽本線・瀬野から八本松まで、故・高橋正雄さんのはからいで実現しました。機関車は補機専用D52です。残念ながら記念すべき添乗機の機番は、控えがなく不明です。

吉田耕司さんと二人、機関士の服装に着帽の上、添乗員と都合三人、瀬野から上り貨物の後部重連補機に乗り込みました。補機の後位ならトンネル内では3両分の煙で大変、前位なら2両分の煙で済むとのことで、前位乗車となりました。超大貨物を瀬野八の急坂を押し上げますが、機関車は轟音と熱気と共に大揺れでした。手すりを持たなければとてもでないが立ってはいられませんでした。ただ煙に咽せるとか、息苦しくなるとかはありませんでした。

八本松まで約20分、自動開放して貨物を見送り、坂を下って瀬野に戻り、風呂で煤を落としてからカメラを持ちました。添乗中はカメラを持参しませんでした。持参しても撮影できる状況でなかったと思います。急坂の押し上げなど途轍もなく大変で、それはそれは貴重な経験でした。

余談ながら、あの三河島事故が起きたのが、この日の前夜でした。
▼その後機関区内で撮影したD52。小郡所属のD521。鷹取式集煙装置を付けた装備改造型1962.05.04
04904

04903

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C57第4次形 12両勢揃い -4氏共同投稿-

DRFC会員の繋がりと、デジ青の力でC57第4次型12両の現役時代の画像が全部勢揃いすることができました。これまでに別途投稿された画像の再度掲載や、その後寄せられた珍しい画像をも併せてここに揃えます。奥山直秀さん、西村雅幸さん、準特急さんと筆者の4名共同投稿です。また、西村さんには製造所の製造番号などデータの提供をも頂きました。(文中敬称略)

先ずは、C57第4次形について、大御所の解説を引用します。
【C57第4次】ボイラの溶接工法が突き合わせで、缶板の厚さの2倍分だけ太くなり、結果的に缶水容量がわずかに増した。またキャブにはサイドドアが新設され、テンダは船底型を採用した。この台車には再び鋳鋼製側枠の揺れ枕式を用いたが、新設計でローラベヤリング付きである。C55形以来美しさを続けていた一直線の歩ミ板は、補助機器の部分にコニーデ形の迂回線をつくり、多少美観を損ねた。その上新製当初は動力逆転機が装備されていたので、第4次形は後述のC59形にかなりよく似た容貌である。なお全機種を通じ、詳しくみると、1軸従台車枠は時代により工法を変えており、3種類の存在が確認されている。
C57形は島秀雄が設計主任をした最後の作品である。と同時に傑作D51形との連歌でもあった。缶はほっそりと煙突は面長、煙室周囲は撫で肩で、ドームは豊満、女性的美しさを感じ、日本の近代蒸機のうち最も端麗とされている。
              出典:臼井茂信、『機関車の系譜図 4』、1978年11月1日、交友社

▼C57190【和】三菱重工製 No.523 和歌山機関区 1963.10.06 撮影者:奥山
 先輪の形状が不統一である
C5719001▼C57191【早】三菱重工製 No.524  鳥栖機関区   1962.08.29  撮影者:奥山
C57191▼C57192【宮】三菱重工製 No.525  鹿児島機関区     1970.09.20  撮影者:奥山
 これも先輪の形状が不統一である
C57192 続きを読む

人と鉄道と-沿線の人々-

5回にわたる『人と鉄道と』は今回でお終い、沿線の人々が写っている風景です。

▼八十八夜の茶摘み、ここ静岡県榛原郡川根町・崎平地区の茶摘みは手摘みで始まり、その後機械摘みに移るそうです。気候温暖な川根茶の本場も、最近は天候の変動が大きく、殊に八十八夜前後に霜や、酷い時には氷も張る異変が多いそうです。一昨年は静岡県全体で大変な被害額に上りました。傍を走るかわね路号から、茶摘みの様子を見ることができます。
大井川鉄道、かわね路14号、崎平-青部間、2013.05.04305045

▼栃木県芳賀地区の八十八夜は田植えの季節です。機械植えではなく、一本一本手で植え付けて行きます。折から近所の益子では陶器祭りが開かれ、普段は一両編成のDCも2両編成の運行です。
真岡鉄道、2123レ、益子-北山間、2008.05.03
IMG_3011

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C57200,198,190-奥山さんの機関区巡りから(1)-

準特急さんの保存蒸機とその現役時代(5)に関連ある蒸機を、『奥山さんの機関区巡り』から選んでみました。同名のHPはC62,C61,C60,C59が済んで、次にD51,C57の順番でしたが、準特急さんの記事に合わせC57を先に編集を開始します。撮影者は1958年度生、奥山直秀さん、画像編集担当は鶴です。
▼C57200【築】 小樽築港機関区、1968.08.17
C5720001

C5720002

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人と鉄道と-働く人びと-

今回は、鉄道員と、鉄道に協力して働く人びとです。

▼1967年1月2日朝、山田線区界駅。盛岡発釜石行き客630Dを見送る駅員。
小止みなく降り続く雪の中をDCが出発して行きます。気がつけば犬までが線路上で見送っていました。
昨夜、つまり1967年元日の夜は、区界駅の待合室でステーションホテルでした。待合室の木造外壁と入り口は二重にできていました。外壁の内側に50cmほどの空間を空け、二つ目の入り口扉を設けていました。起床後驚いたのは、二重の入り口の内側にまで夜来の雪が入り込んで隅に積もっているではありませんか。どこからどうして入って積もるのか、想像できません。首をかしげながら、自炊の朝食前に撮ったのがこの一枚でした。
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 ▼同日、同駅。雪が小止みになり所々に青空も見え始めた頃、616D急行『そとやま』を迎える駅員。急行『そとやま』は盛岡発山田・釜石線・東北本線経由盛岡行き、全283km、6時間の中距離急行列車です。
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 ▼同日、同駅。急行は当駅で客扱いしません。(左)627Dとの交換待ち停車です。急行の車掌はホームに降り立ち、中央と右には除雪作業員の姿が見えます。
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C5756急行『大和』を曳く(続)

C5756の画像は1枚きりと書きましたが、他にもありました。しかも同じ『大和』牽引です。
▼1964年12月6日(曇り)、急行203レ、機C5756【奈】、加太-中在家信号所間。
先の2月28日より2ヶ月前、こちらの方が夜明けが遅く、しかも曇りでした。車両後部がはっきりしません。
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097051964年12月6日、「加太会」発祥の記念日でもありました。

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人と鉄道と-機関士編-

「人と鉄道と」3回目は蒸気機関車の機関士です。

▼1962年3月23日、日豊線・竜ヶ水-鹿児島間、機D51687【人】の単機運転。機関士らしき右側の人、ヘッドライト装着で保線区員らしき左の人。二人して敷物に座り、線路や設備の移動点検でしょうか。まさか、右手の噴火湾見物とは違うでしょう。こんな光景の出会いは最初の最後でした。06736
▼1965年8月29日、福知山線・篠山口駅、ホームに写る機影は逆行運転のC11280【吹一】、上り客736列車の機関士がC11の日陰で、下り準急『丹波1号』との離合を待っていました。11432
▼そして今度は5ツ先の駅、福知山線・相野駅。急行『白兎』との離合待ちで機関士は一服。真夏の車内は暑くて、子供はホームに出たが、ホームもかんかん照り、思わず頭に手を。
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▼1966年10月1日、関西本線・加太駅、京都発亀山行き、上り客728列車、急行『かすが3号』との離合待ち。腕章を巻いた機関士と助士がホームの片隅で一服。出発時刻は20時59分です。135012

▼同上、728列車全景。さしずめ「夜も撮る」でした。ホームには駅員の姿も見えます。
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▼1964年3月17日、東北本線・小繋駅、本務機の機関士と助士が動輪周りを点検中です。前に2両のD51補機を付けた、所謂蒸機機関車「三重連」です。
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人と鉄道と-乗客編(2)-

現代が『車社会』と呼ばれるなら、半世紀前のそれは鉄道で、さしずめ『鉄道社会』でしょうか。人との出会いも別れも、多くの場合に鉄道を通じてであり、人々の日常生活で、鉄道はそれはそれは大事な役目を果たしていました。

▼1962年3月、飯山線・西大滝駅。大勢の子どもと大人から見送りを受け、我々と同じ列車に乗った人は、きっと学校の先生でしょう、乗客として画像には登場しませんが、思わず万歳を唱えている人や、見送る人の明るい笑顔から先生の人柄もしのばれるような気がしました。ホームにはテープが伸びています。車掌の顔も見えます。なお、見送り人の姿にだけ”ぼかし”を加えています。 04726▼先生を乗せた飯山線のC56牽引貨客混合列車、長野行き。春の山々にはまだ雪が残っていて、まるで墨絵のよう。筆者の旅行は、同期のDRFC会員、亀田君(この時、鶴亀コンビとDRFC内で話題になった)と北陸線・杉津、飯山線、小海線を巡った時の一コマでした。 04728

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富士山と鉄道に寄せて-富士山と煙

準特急さんのすがすがしい富士山と鉄道の写真に魅せられていましたが、筆者にも少しばかり画像がありました。富士山と蒸機を狙って何度か挑戦し、3度か4度目かにやっと快晴に恵まれました。東京への出張の前日でした。
煙ばかり目立ち、D52や列車がはっきりしません、余りよい画像ではありませんがご覧下さい。

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  ▲▼1965年12月1日、上り貨物(列車番号不明)、機D52(機番不詳)、岩波-藤岡間。
C2008
 ▼同日、上り926レ、同上区間、機D52(機番不詳)。11718▼沼津駅構内、手前C50149【沼】、その後ろにD52。富士山の頂上がかすかに。
C2018

午前中は快晴で雲一つなく、午後御殿場-足柄間に移動したときは少し雲がかかり、3時過ぎにはまた晴れて来ました。午後の下り927レは列車だけで富士山とのマッチングはできませんでした。

 

人と鉄道と-乗客編-

人が造り、走らせ、人を運ぶ鉄道。その様子を表現した手段の一つに鉄道写真があります。それには、都会や自然を背景にして走る写真が多く、『人』を撮り込んだ写真が案外少ないようです。ところがDRFC会員諸氏の写真には、逆に多い気がするから不思議です。DRFC写真展の第1回から、それらを拾ってみました。

故天野克正さんの『家路』、『雪の晴れ間』、湯口徹先輩の『湯治場温泉駅』、『通票投下』、沖中忠順先輩の『満員御礼』、中林英信さんの『おじいちゃんおばあちゃんまた来てね』、『全員乗せて下さいね』、『通過待ち』、吉田耕司さんの『遠足列車』、田野城喬さんの『各駅停車』、『無題』、宮本郁男さんの『集荷』、早川昭文さんの『豪雪のターンテーブル』、『遠足帰り』、川中勉さんの『春のローカル線』、藤本哲男さんの『軌道線の朝』、福田清二さんの『祇園の雨』。

全51作品の内、実に17点、ちょうど1/3。まるで『人を主題にした鉄道写真展』の様相でした。他のグループや、他の写真展では見られない特徴です。それは第2回写真展にも引き継がれています。そしてこのデジタル青信号にも。最近の発表作、福田清二さんの『雨も撮る』もそうで、たくさんの『人』が登場しています。DRFCの皆さんは『人』好きなのです。ぶんしゅう旅日記さんにも中国をはじめ、各国・各地の人々が登場します。

前置きが長くなりました。筆者にも『人』を扱った写真が少しあります。かなり前の撮影です。筆者のHPにも同じテーマで列挙したことがあります。シリーズで並べて見ます。先ずは乗客編。

▼1961年5月、京都市電・北野線、堀川今出川。夕刻時、電車から降りたおばあさんの財布から切符か、お金がなかなか出てきません。傘も荷物も停留所にほおり投げて懸命です。運転手は身をのり出して待ち、車掌も心配顔で覗き込んでいました。 02010

▼手には何かを持ち、運転手に見せているのか、渡しているのか。停車時間が長いので、本来なら次の電車に乗るはずの乗客までが乗れることになってしまいました。 02011

▼後からのご婦人を乗せ、電車は北野神社に向け出発しました。おばあさんは、荷物を持ち、傘を杖にゆっくりと家路に就きました。 02012
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『雨も撮る』に寄せて-加太、大井川編-

今年の梅雨は空梅雨でしょうか。梅雨入り宣言を聞いた途端、晴れの日が続いています。
総本家青信号編集特派員さんによる、この時期ぴったしの記事『雨も撮る』に刺激を受け、真似しで、加太会などの写真を引っ張り出しました。題名を拝借して寄稿します。

地形の関係からか、曇りや雨の日が多かったのが加太です。快晴の記憶や青空の写真はほとんど残っていません。以下の記事も1966年夏から秋にかけて3回連続で雨の中、『恒例加太会』催行の一部です。

▼1966年5月22日、朝から雨です。それでも早朝の列車を撮るべく、朝食前に村田屋から駅まで片道20分を歩き、撮影しました。時刻は7時44分、722レ、機C57145【亀】。雨に洗われて機関車と客車の埃や汚れが洗い落とされたせいか、そして『カラスの濡れ羽色』か黒色が綺麗に見え、雨の日の特典に預かります。肉眼では木々の緑も鮮やかに感じます。一方、後方の山々は低い雲に隠されてしまいます。 撮影機は二眼レフのリコーフレックスでした。普段でも撮影し難い二眼レフをしかも雨の日に。13001▼その二眼レフで、雨中に722レを見送りました。この列車、草津を6時10分に出発。柘植・亀山・多気経由和歌山着21時34分。延々15時間24分の長距離列車。1966年3月25日の時刻改正から登場しました。わざわざこの列車に乗り込み、車内で撮影した写真を、しかも2枚も第1回のDRFC写真展『鉄路輝く』に出展した御仁がいました。タイトルは『普通列車』と『無題』です。早朝から一日同じ車内で、見知らぬ乗客の姿を窺っていたようです。当HPの、クローバー会/リンク/クローバー会写真展から、第1回写真展画像をご覧ください。なお現在、第2回目までの出品作がweb展示されています。13005

▼村田屋に戻り朝食後も、話が弾み雨を口実に誰も外出しません。邪魔草そうに村田屋の2階、物干し台からやっと一枚、電柱や電線があろうがお構いなし。。煙は高く上がらず列車にまとわりつきます。風向き次第では絵にならないこともあります。13007 続きを読む

目に若葉 野辺の鶯 川根新茶

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毎年春秋恒例にしています、笹間渡川根温泉露天風呂・東屋旅館2泊の大井川巡りです。 本年はサクラの時期を延ばし、新緑新茶の時期にしました。ご覧のとおり、画像は青空と緑一色です。暫くは目の保養と思い、文章よりも画像を拡大して緑をお楽しみください。

5月3日、快晴。抜里の茶畑、緑の真っただ中に到着。すぐに同系色上り電車が通過。畑の中央にある黄色の花はエニシダ。川向いの山々も新緑の芽吹き。305031ほどなく、下り1001レ、かわね路11号が千頭に向かう、牽引はC5644、緑の中に黒の一筋。煙を入れると二筋。茶畑の農夫が二人、列車に手を振る場面も。305032今度は、予めgoogle Earth で検索しておいた国道473号の高所からの撮影。C108号牽引の列車は緑の中を行く模型鉄道の様。 デジタル時代の今日、在宅で予め撮影場所に立つことができる。前ばかりか、背後の状態も確認できるので、高所に登れる道も探すことができる。全く便利。ご存じデジカメは撮影写真がただちに確認できるし、もっと良い写真が撮れて当たり前ですが、いかんせん腕前は昔の儘。昔といえば、半世紀前の撮影でカラー写真が東洋現像所から手元に戻るのに、2週間ほど掛かったものでした。305033緑を眼下に眺めながら、来しなに浜松駅で買ったシラス弁当と缶ビールの昼食を撮った後、抜里の中央を横断して家山寄りの高所に登る。google の航空写真で見ると大井川の蛇行や、抜里の平地が昔川底であったことなどが容易に想像されます。流れや浸食で取り残された丘が一つポツンと抜里平地の中央に残っています。305035今撮影している山は昔の大井川右岸と思しきところ。3年前の同じ場所は樹が茂り、見通しが悪いのでさらに高所に登り見下ろしました。画面中央、踏切付近にはマニアが集合。305034大井川に青い水の流れが見えます。長年に亘る『川に水を返せ』運動を、読んだことを思い出しました。 列車を待つ間の暇な時間は鶯の縄張りのさえずりを楽しんでいました。抜里でも、あす以降の崎平、大和田でも。見事な谷渡りの声が、それも長く長く続きました。
抜里の里には、まだまだ撮影に適した角度がある筈で、また探してみようと思いながら、山を下り、家山駅に向かいました。家山駅で缶ビールを飲んでいると、丁度女王様が上り電車として通過して行きました。初日はここまでです。305036 続きを読む

大阪市営地下鉄、半世紀前

大阪地下鉄開業80周年イベント、100型の展示。新聞で見、どんな様子かと思っていましたら、大津の86さんが紹介して下さいました。
そこでこちらは、古い写真を引っ張り出します。
1号線あびこ-梅田間。まだ新大阪駅までが開通する前、1962年3月15日撮影です。
下の2枚は心斎橋駅。
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天井から大きなシャンデリア。この様子は現在も変わっていないようです。
04503

こちらは、1号線の終点梅田駅。比較的空いている時間帯の様子。
04506
混雑している時間帯。阪神電車との連絡口のある、梅田駅南側(なんば寄り)の階段上から眺めた様子。まだ島式ホームの時代で混雑の様子が判ります。
04509

半世紀前の電車特急

C0210
1963年1月1日、姫路駅。上り第二富士と思われる。車番を確認しましたがはっきりと読み取れません。クロ151-のあとは、一桁番号のようです。2に見えたり、7に見えたり。7なら翌年に事故で廃車となった車ですから、貴重品である筈ですが。ちょうど半世紀が過ぎ去りました。

 

下津井電鉄の情景

会員のデジ青への投稿が活発で、あっという間に新しい記事と写真が加わり、前の記事が後方に下がります。関連記事の写真をと思いながらモタモタシテいるとピントはずれ、時代遅れになりそうな昨今。
1961年3月、四国に行く前、茶屋町から児島まで立ち寄りました。
01430

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当会会計役の井原さんが、第1回写真展に左手に海がある写真を出品されていましたが、上の写真左側は海でなく、福田-稗田近辺と思われる(記録なし)山間部です。

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この駅も判りません。

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『電車』機関車の牽く貨物。駅は稗田駅と思われます。1961年3月17日撮影でした。