天野克正君の作品

冬隣
『冬隣』

家路
『家路』

雪の晴れ間
『雪の晴れ間』

信じられない、天野君が亡くなったなんて。まだ60歳台でしょう。
最近会ってはいないが、がっしりとした体格で筆者よりはるかに頑丈そうに見えたのに。

筆者が卒業後に、岩波君や宮本君達とよく一緒に居て、その縁で知り合ったと思う。湯口さんの写真を見ると、よく一緒に出かけていたのが判ります。

写真のセンスは湯口さんの言われる通り、筆者などは真似ができない。2006年の第一回写真展(於・大阪富士フィルムギャラリー)の出品が3点あった。デジタル青信号のギャラリーにアップされているのだが、管理人さんに無断で引っ張ってきてここに掲載させてもらった(管理人さんお許しください)。

彼の作品を見ながら、同行した時のことを思い出しています。声高らかに大騒ぎするスタイルでなく、静かであり、それでいてにこやか。穏やかな笑い声は、いつも同じでした。

筆者が特に覚えているのは、筆者の名を呼ぶとき、独特のイントネーションであった。多くの人は『つ』を高く、『る』を低く発音するが、天野君は逆で『つ』を低く『る』を高く発音した。今でもその発音が懐かしく耳に残っている。柔らかな声で、今にも呼ばれそうな気がする。それをもう望めないのは残念で仕方がありません。
ご冥福を心からお祈り致します。
またしても佳人短命、神様はいつも意地悪であると思う。

熊本電気鉄道 モハ51など

湯口徹先輩の撮影に遅れること8年、筆者も訪問し撮影していました。関三平先生の撮影からもずっと後年のようです。その明瞭な相違は車番の表記方法です。湯口先輩、関先生の写真にある、大きな書体で前面2か所の表記が後年、普通の書体で1か所に、側面前方と後方の2カ所表記がやはり1カ所に変更されています。書体の変化は著しく、PCのフォントに例えれば、Century や Times New Roman が、MS明朝に変わったようなものです。ただ車体に大きな変化はなかったようです。詳細な説明はできませんので、写真をのみご覧ください。

湯口徹先輩の記事はこちらです。
https://drfc-ob.com/wp/?p=9650


モハ51の写真は、フィルムの痛みが相当激しく、時間を掛けて修復しました。ご了承ください。

山陽電鉄-標準軌間のモハ63型-(続)

再び山陽電鉄のロクサンです。『鉄道ピクトリアル』誌を購読の方も多いとは思いますが、今回は同誌掲載の山陽ロクサンに関する記事を紹介してみましょう。同誌327号(1976.11臨時増刊号)、528号(1990.5臨時増刊号)の2冊、主に528号からです。最後に筆者の写真も少し紹介します。

始めに、渡辺寿男・山陽電気鉄道㈱取締役会長(1990年当時)の『広軌63形の導入と820型製作当時の思い出』(528号)から。広軌への改良工事や車両導入の興味深い話です。

(前略)2.モハ63形受け入れのころ
山陽電鉄が、モハ63形電車を受け入れて、運転するようになったことによって、当社の輸送施設は、革命的な変革を遂げた。 そのことをご説明するためには、それ以前の施設の状況と、戦争の被害という、山陽モハ63の前史に、若干触れなければならぬ。(中略)

b)
戦争中の状況と空襲被害など
戦争末期の山陽沿線には、軍需産業の大工場が多数建設されて、輸送需要が急速に増大したため、車両数が極端に不足して、酷使を重ねることとなった。その最中の昭和2069, 77日の二回にわたり、当社明石工場は空襲による甚大な被害を受けた。(中略)加えて、敗戦直後の昭和20918日の台風と同年109日の集中豪雨によって、残存車両のうち多数が、床下浸水のため運転不能に陥り、さらに同じ頃、西代工場の巻線工場が失火によって焼失するなどのため、空襲よる明石工場の機能停止とあわせて、故障修理も思うように進まず、車両事情は極度に悪化して、ついには、全線を通じて可動車数両に過ぎぬ状況にまで低下し、運転は麻痺状態に陥った。

このため、兵庫須磨寺間の区間運転には、神戸市電K3両を借り入れて充当するなど、ずいぶん無理な対策も実施したが、昭和20年末にはようやく、軌道線約10両、鉄道線約7両の可動車を確保する程度にまで回復した。可動車両数は、最低約50両と見つもられた状況のなかでは、輸送需要に応ずるには、程遠いものがあった。このため兵庫一須磨寺間の区間運転には、神戸市電K3両を借り入れて充当するなど、ずいぶん無理な対策も実施したが、昭和20年末にはようやく、軌道線約10両、鉄道線約7両の可動車を確保する程度にまで回復した。けれども、当時緊急に必要とする可動車両数は、最低約50両と見つもられた状況のなかでは、輸送需要に応ずるには、程遠いものがあった。   

c)全国的車両復興対策の状況
空襲による被害と、戦争中の人員資材の欠乏したなかでの酷使と合わせて、著しい車両不足に陥っていたのは、当社だけでなく、運輸省はもちろん、各私鉄会社共通の問題であった。したがって、当時の全国的な多数の新造車両の要求を充足するためには、同一形式の車両を大量生産的に新造するほかないとの判断によって、運輸省と、当時の各私鉄の統制団体であった日本鉄道会とは、昭和20年下期および21年度における、路面電車以外の新造電車の形式を、運輸省モハ63形・一形式に統一して、運輸省で一括して新造し、 とくに緊急増車を必要とする私鉄には、これを払い下げて使用させることとした。当社が、前記のような当時の線路条件に対しては、全く奇想天外とも言うべき、モハ63形の導入を決断せざるを得なかったのは、 このような事情によるものであった。 

3. 山陽向き広軌モハ63形の概要
山陽電鉄に割り当てられた20両の内訳は、電動車10両と、そのぎ装を制御車設計に変更したもの10両とであって、(中略)竣功したときの車両番号はモハ6380063819で、偶数番号車が電動車、奇数番号車が制御車であった。現車の側面中央には、省電と同じ様式で、この番号が標記されていたが、社内では簡単のため800形と呼び、入線後車体正面には800番代のみの番号標記がなされていた。台車は、MT共に電動車用のT R25A(後のD T13)であるが、輪軸を、各部直径はそのまま、軌間1,435mm用に単純に延長し、これに合わせて台車枠の幅が拡げられていて、MT40形主電動機が歯車側に寄せて吊りかけられた。従って車軸強度が狭軌用原設計に比べて、著しく低下しており、後に材質レベルの高いものと交換して、その設計の弱点を補った。  

車体については、元来モハ63は、車体の構造やアコモデーションが、戦時の最低仕様とも言うべきものであったから、製造過程で川崎車輛の協力を得て、たとえば台枠構体の組み方や、天丼の張り方などにおいて、番号の若い車両から高い車両に向かって、少しずつ改善を加えていった。このため、わずか20両ながらその中のヴァリエーションが、当時の急速な技術復興の歴史を物語っていた。

4.  63形の受け入れ
川崎車輛から当社線への輸送については、車体は1067mm軌間の仮台車に乗せ、台車は省有の長物車に積み、この2両を編成して山陽本線経由で回送した。前半12両の受け取りは、省線飾磨線と当社線とが並行する当社手柄駅付近に、当社側で側線を設け、飾磨線の本線路上から当社側線へ横取りをした。(中略)現在では考えられないような荷役作業であった。 

後半8両の受け取りは、下記の線路改良が進んで、明石以西にモハ63形が運転可能になったので、省社の側線の並行していた明石駅構内で行った。さて、前記のような状況の線路へ、いきなり車長20m、車休幅2.8m、軸重最大15tという大形車両を持ち込み、これを運転しようというのであるから、当然全線にわたって、線路施設の大改良が必要であった。その工事は、主として軌道中心とホームとの間隔の拡大、 ホーム延長、線路中心間隔の拡大、および橋梁、橋桁の補強などであって、 これらを、条件の良い姫路方から東に向かって着工し、その進捗に応じて、逐次運転区間を延長した。

22510日姫路網子間の運転を開始し、次いで八家貨物駅(営業は白浜の宮まで) 大塩、という段階を経て、2331日ようやく姫路―明石間の運転開始に漕ぎつけた。明石姫路間に63形を、兵庫姫路間の急行には従来の小形車両を使用した。明石以東の軌道線は、電車線電圧600Vであったため、この機会に1500Vに昇圧して全線の電圧を統一することとし、その工事は昭和2310月に完成した。同時に、軌道線所属600V専用車は、12両を昇圧改造したほかすべて廃車または譲渡した。そして231225日ダイヤ改正を行い、63形は全線に運転されることとなった。

 しかし、線路施設の改良は、63形運転の最低条件を辛うじて充たして、無理やりに運転を強行した感を免れず、そのため全線にわたり直列ノッチでのノロノロ運転を行った。それを若干改善するため、昭和24年には一時的に、直列最終段で弱界磁の入るよう電気回路に手を加えて、変則的ながら最高速度60km/h程度の運転ができるようになり、さらに線路改良の進捗に伴って、昭和28年には、本来の設計に戻って並列運転となった。

5.昭和20年代前半の山陽63
戦時形最低仕様、粗製乱造と悪名高い63形のイメージを少しでも薄めたい、というのが当時の担当者の願いであった。そこで昭和24年には、貫通路に幌の取付けと扉の撤去、運転室仕切り壁にガラス窓を開設、三段窓を二段窓に改造、座席の奥行き寸法の拡大、外部色の変更などを行うと共に、 天井板のなかった若い番号の車両には これを取付けた。また同じ時期に前者の番号の整理変更を実施したので、その機会に形式を700形と改め、番号を700719に変更した。全線で運転が可能になった後は、主として兵庫―姫路間の急行と、網干線で使用されたが、当社従来の車長15m、幅2.4mの小型車両に比べて格段に大きい収容力は、昭和20年代初期の輸送力逼迫の窮状を救い、主力車としてその責務を果たした。また、無理にもこの63形を導入したことが、当社の線路施設を向上させる契機となったわけで、山陽電鉄の歴史の上での63形の役割の意義は深い。
(引用終わり)

と、
63型導入の経緯に始まり、車両の運び込み、改良、運転そして最後に導入の意義を述べられている。
また、528号誌には、DRFCに多大のご理解を下さったと伺っている、故吉川文夫さんも『山陽700系の変遷と共に-63形電車が私鉄輸送に果たした役割』の文を寄稿されている。曰く、「広軌ロクサン」、「大きすぎて」など面白い話が、「私鉄へ入った63系その後」と共に掲載されています。

さて、関 三平先生のイラストですが、702+709は、1964(昭和39)年に車体を補強、内装の不燃化、窓の大改造などで再出発したものです。四扉車である以外、大きな変貌です。ベンチレータは交換され、63型、山陽700型の特徴であった前面通風器はシールドビームの前灯に変わりました。残念ながら筆者にこの写真はありませんでした。三平先生に本当は、702以外の700型のカラーイラストを掲載して欲しかったと残念がっています。 山陽に来た6320両の内、712+7131951(昭和26)年9月西代車庫で全焼しましたが、台車機器を利用して19572700+2701として復活しました。車体長は元の20mから18.67mに縮められました。しかし、大型車の印象以、63型の面影はもはやありません。2701の台車は川崎車両試作のOKA-20空気バネ台車で、2700はモハ63時代からのDT-13Sでした。
写真は、塩谷付近で洋館をバックに快走する特急です。
 

 

こちらは、長田での市電とのデッドセクションを行く2701+2700です。いかにも大きな車体で、デッドセクションを通過しました。 

 最後は、東垂水-滝の茶屋間、カメラは茅渟湾を東北東に大阪市の方向を眺めています。車両は705+704です。705の屋根前寄りにはベンチレータがありません。電装してパンタ設置予定の空間でした。

右端信号機に重なり、円柱形木製の架線支柱のあるところ、線路は隠れていますが、複線当時の国鉄山陽本線です。海と山の極めて狭い場所の一番下段です。中段が完成まじかの山陽本線の新しい線路で、真新しい鉄製の支柱。複々線完成後は、下段が山陽線下り線で西行。中段が上り線で東行。上段が山陽電鉄線です。

 仮定の話ですが、もしかしてモハ6380081920両が山陽に来ずに、国鉄で、しかも関西地区配属で山陽線電車区間を走ったとしたら、西明石まではこの下段を走り、京都まで復路は中段を走ることとなったかも知れませんでした。現実は上段を走り、山陽に多大の貢献を果たして長く活躍し、廃車もしくは改造され、最後の車両も1985年に姿を消しました。

山陽電鉄、標準軌間のモハ63型

モハ63、筆者にとって何とも懐かしい電車です。省線立花駅から三宮までの往復で何度も乗車しました。それから0番のキットを買い、初めて作ったのも、全長50cm近くのモハ63型模型電車でした。

尼崎から神戸に移住した1951年以後は、山陽電鉄700型としょっちゅう出会うことになりました。小学校校舎に接して北側が山陽電鉄東須磨駅です。5,6年生の時、我々は南側の教室でして、電車の見える北側教室がうらやましくて仕方がありません。よく北側教室に忍び込み、窓から駅を見下ろし、通過する700型などを見に行ったものです。

終戦後、国鉄同様私鉄も多くの車両を失い、輸送がままならぬ状況は諸兄ご存じの通りでした。国鉄で設計製造した63型を国鉄が一括発注し、私鉄に振り向けられた総数116両の内の20両(モハ63800-819)が山陽電鉄向けでした。その内の奇数番号車はクハでなく、モハの無電装車だそうです。製造は全車川崎車両。車両様式はモハ63型に準じているが、座席、天井、配線工事などの細部は、電鉄の注文に応じて改善されていたそうです。

山陽に入線当時、番号の内モハを取り、800-819をそのまま使用していたようですが、1949年700型700-719に改番されたので、筆者はその番号車を見ていません。また、入線時の窓は三段でしたが、のち二段に改造され、下側の窓には他の形式車両同様、保護棒が取り付けられています。また、下の写真717号車は未電装車ですので、屋根の先頭部にはパンタの設置予定スペースがそのままです。パンタ台はさすがに取り払われていますが。

初めて写真に撮ったのは、1960年9月モノクロでした。カラーは下の画像1962年1月が最初です。
この兵庫駅は1963年4月7日、神戸高速鉄道の開通にともない消滅しました。ここから西代駅までの約2km近くが道路併用軌道です。国鉄様式の大型車両が、電圧も軌間も異なる山陽電鉄に入線。その翌年に昇圧や駅ホームの延長など、幾多の困難を解消したとはいえ、道路併用軌道を走り、その上に長田では神戸市電と平面交差するのですから、それはそれは大変な事柄だったのです。

こちらは、姫路市の女鹿-白浜の宮間。筆者が正月に山陽電車を撮影する時はカラースライドでした。直線の多いこの区間は静かな播州米の産地でもありました。この辺りではさすがの大型車両でも様になります。

翌年の正月、須磨浦公園を過ぎて塩谷に向かう途中です。昔、右手石段組の坂道を上ると、藤田ガーデンがありました。今は失くなりましたが跡地に大きなマンションが建ち、当会の有名なお方が住んでおられます。

山陽に来た20両の内、2両を西代車庫の火災で失いましたが、18両が健在で撮影時にも頻繁に出会いました。
戦後の混乱期の電鉄に、大いなる貢献を果たしたモハ63型700形式ではありましたが、他形式へ転換車などを除き、老朽化が進み、20数年の活躍の後に、1969年までに廃車されました。

山陽電鉄とは無関係ですが、モハ63の話題のついでに、ジュラルミン電車のことを少し。

1946年川崎車両においてジュラルミン電車6両が誕生しました。モハ63400-402(電装して蒲田電車区に配属時は、モハ63900-902と附番された)、サハ78200-202です。下の写真は川崎車両の完成時の公式写真です。
(『蒸気機関車から超高速車両まで-写真で見る兵庫工場90年の鉄道車両製造史-』、川崎重工車両事業本部、平成8年、交友社)より。 材料は終戦で不要となった航空機用ジュラルミン10万トン活用の一端として車両製造に向けられたものです。ただ、無塗装であったため、腐食が進み、のちに塗装されたり、全金属車に改造されています。(『国鉄電車の歩み』、交友社、『電車のアルバム』、交友社を参照)

アルミニウム金属を主体に、第二成分として銅を混ぜた金属アロイ(合金)がジュラルミンです。新幹線車両をはじめ、最近の車両に使用されるアルミ合金はアルミニウムに、第ニ成分にマンガンを、第三成分にシリカを(6N01)、もしくは亜鉛を(7N01)のアロイです。こうしたジュラルミンは立派なアルミニウム合金ですし、『ジュラ電』はアルミ合金製車両の先駆車でもあると筆者は考えます。勿論台枠は鉄、内装材に一部木材も使用され、オールアルミカーではありませんでした。オールアルミカーが誕生するのはジュラ電から16年後、山陽電車の2012+2505+2013です。やはり川崎車両製でした。これはオールアルミカーの第一世代車と呼ばれています。そして現代の新幹線車両などは第四世代のオールアルミカーと呼ばれています。調査事項も含め、この辺のことは、別の機会に稿を改めます。

伊予鉄道 100、300、600型など

 1961年3月20日撮影、四国・伊予鉄道。あれから半世紀が過ぎました。この時のフィルム画像は今もしっかりとしています。
そこで モハニ200型に続き、残りの形式も一挙に公開します。参考書は、小生の写真も掲載されている、『伊予鉄が走る街 今昔』、2007年7月発行、JTBキャンブックスです。

先ずは100型。1931年日本車両製。高浜線電化に伴い新造。モハ101号のみ前面に押し込み通風機が設けられています。モハニ200型、クハ400型と固定編成を組み、モハ100型が高浜方向を向いています。反対側が前回紹介のモハニ200型です。松山市駅にて。

モハ102、正面に、通風機はありません。大都市間を疾走する電車に似たオーソドックススタイルの車両です。
一見、省線電車を短くしたような雰囲気さえあります。古町車庫です。

同じくモハ103、松山市駅にて。

高浜近くの海岸沿いを走るモハ104+クハ404+モハニ204の3両固定編成車です。

モハ105は、初代クハ406を電動車化した車両で、両運転台の3扉車です。1952年改造され出来ました。モハ102の側面写真と比較すると良く判るでしょう。そしてもう1両のモハ106ですが、小生が訪問した時はまだ誕生していませんでした。二つ下の写真モハ303のところで説明します。

次はモハ300型です。1950年に4両登場したのですが、1961年に古町工場で大型車への改造工事が行われました。車体中央部を分断し、扉1個、窓4個を継ぎ足しのでした。また運転台も片運転台に変更されたそうです。
下の写真は、改造前のモハ301号車。

改造後のモハ302号。モハ304号車との固定編成。

同じく改造前のモハ303号車。編成はモハ303+クハ406(と思われる)+モハニ206です。初代クハ405の改造車106号がまだできていなくて、モハ303を使用した3両編成です。モハ300型との編成の最後の姿です。書籍等にこの辺の記録写真は少なく、その意味では貴重な写真かも知れません。303号、301号もこの年に3扉の延長化が終わり、両車で固定編成を組みました。

また、モハ106号が完成後、この3両編成はモハ303と置き換わり、モハ106+クハ406+モハニ206の編成で活躍しました。モハ106号は、後に再び両運転台に戻され、やがては銚子電鉄801号になったことは、乙訓の老人のコメントを参照してください。

改造後のモハ304、モハ302との固定編成。

次はモハ600型、601号、602号です。1958年ナニワ工機製。もちろんオールスチール製。

反対側、モハ602号。松山市内駅にて。

衣山-山西間(当時、中間の西衣山駅はまだ出来ていない)の、国鉄予讃線陸橋下を行く、モハ602+モハ601。複線の用地がありながら、撤去のまま単線です。

DB-1。ぼっちゃん列車を牽引していた蒸気機関車の代替機として、登場した第1号車。1953年森製作所製。1965年まで活躍したそうです。

最後は、古町車庫での可愛い工事用車両。単車の30号。
以上が、前回のモハニ200型に続く、伊予鉄道高浜線の車両でした。

伊予鉄道 モハニ200型

 1961年四国の私鉄電車巡りの最後は、伊予鉄道でした。松山市内線を撮影後、高浜線を訪れました。いずれも1961年3月20日の撮影です。
松山市駅のホームで撮影後、市駅の西の方に歩き、横河原線用の客車が多数見える地点でのモハニ201号車。中間にクハ101を挟んで後はモハ101。

市駅をさらに西に進んで古町車庫にて。202号車。後に火災で焼失、廃車されました。

二代目モハ203。他のモハニ200型と異なる扉・窓配置、メーカーも日立製(この一両のみ)で200型他車(日本車両製)と異なる。

モハニ204号車、梅津寺近く。海に突き出た納涼台(桟橋)が見える。

 

山西-衣山間を疾走するモハニ204+クハ404+モハ104、松山市駅行き。この付近は単線である。戦前は複線であったが、戦時中の供出で単線化され、1961年当時はそのままであった。1964年に再び複線化された。

古町車庫での205号車、405と105の固定3両編成。

古町近くの複線区間を行くモハニ206+クハ406と3両目はモハ106か?。2扉車に見えるので、クハ405の改造車106でなく、303ではないかと思われますが、乙訓の老人様いかがでしょうか。パンタグラフの位置も異なります。改造車の誕生は1961年4月だそうですが、半月あまり前の3月です。

土佐電鉄クハ2000、モハ1000

1961年3月18日撮影。半世紀前の写真です。

1960年同志社大学に入学、鉄道同好会に入部した翌年の3月、岡山の下津井電鉄を経由、その後一週間ほど四国を巡った時の一コマです。鉄道写真にまだ慣れていなくて、計画性もなく、ただ撮影したという一枚です。撮影記録もありません。私は安芸近くと思っていましたが、乙訓の老人の解説で、三平先生の写真と同じく手結近くだそうですね。

架線柱は両持ちですが、海側が鉄製トラス柱、山側は木製です。コンクリート防波堤に柱の基礎部分が埋め込まれています。線路と山の間の道路を利用してここまで来たのでしょう。線路を超え、海岸に突き出たコンクリート製の別の防波堤上で撮影しています。クハ2003を、そして振り返って撮影したのが2枚目のモハ1008です。2両編成です。

2枚目の写真中央には木製の架線柱が写っていました。幸い車両には掛かっていませんでしたので、あまり良いことではありませんが画像から消去削除しました。

出発に際し、若かりし頃の乙訓の老人よりNEOPAN フィルムの提供を受け、琴電、琴参、伊予鉄、土佐電のこれこれを撮影せよとの依頼を受けて出かけたものです。帰宅後は現像までして頂き、お蔭でこのフィルムは何の変形もなく現在に至っています。そして図らずも今回、三平先生の記事から皆さんのお目にかかることになりました。

本年もよろしくお願いします

頑張ろう2012年。甦らそう日本!
本年もよろしくお願い致します。

山陽電鉄2012号他3連。1963年1月3日、須磨浦公園近くにて。

1962年7月1日、プレス公開、電鉄姫路にて。2012+2505+2013。

本邦最初のオールアルミカー。山陽の3扉車モデルの先駆車。性能比較の為同時に、ステンレス車2014+2506+2015を製造し運用、その後のアルミカー採用の先駆車ともなった車両。

2010年以来、山陽電車と共に新年のご挨拶をして来まして早や3年目。しかも、2013、2014、2015と用意が出来ていますので、これからもまだまだ続きます。お楽しみに。

阪神電鉄国道線(3)甲子園線

 さてさて、3回目は甲子園線です。当線は先の国道線建設のように、阪急や省線との対抗や、それらの防衛対策上から建設されたのではない。

『大正末期から昭和初期にかけて、阪神電鉄で推進された支線計画のうち、その使命がもっとも純粋に輸送・開発機能に置かれたのが、甲子園線である。当社は、大正1110月に買収した武庫川の支流であり、洪水対策から廃川になった枝川・申川の廃川地の開発のため、大正14年甲子園・甲子園浜間および甲子園・上甲子園問の軌道敷設特許を申請し、それぞれ翌大正15年に特許を得た。そして、早くも716日から甲子園・甲子園浜問、昭和3711日には甲子園・上甲子園間の営業を開始した。甲子園線はさらに昭和579日には、今津出屋敷線の一部である浜甲子園・中津浜問(複線、42チェーン13リンク)の営業を開始し、上甲子園。中津浜間を通常4車両で営業する体制となって、甲子園開発のバックボーンを形成した』のである。(阪神電気鉄道八十年史、阪神電鉄より)

 さらに、『昭和初期までに、大阪・神戸の2大都市よりも阪神問地域に人口増加が著しく進行し、市街化、住宅地化が拡がるようになった。昭和初期における支線展開やバス路線の開設は、こうした趨勢に対応するものである。』(中略)

『当社は,単なる路線展開にとどまらず、地域開発の形でこのような趣勢を積極的にリードした。その最大のものが甲子園開発である。甲子園は、大正1110月に兵庫県から410万円で譲渡された224000坪の枝川・中川廃川敷の開発から始まり、大正137月に完成した野球場が開発の初めであった。甲子園の住宅地としての開発は,大正151025日、株主総会で「食堂業及び土地家屋の売買等」を定款に追加を決議することから出発した。昭和371日から「甲子園住宅経営地」の第1回分譲が始まった。この第1回分譲地は、阪神本線の甲子園停留場の北側、旧国道付近から甲子園線沿いに拡がる中甲子園であった。』(出展:同上)

 このように、甲子園地区は北側の甲子園一番町から、海側の十番町に至るまでの街づくりがはじまり、甲子園線が活用されたのです。現在も、十番町を除いて地名番地がそのまま残っています。

国道側から眺めた甲子園線。今ちょうど211号が終点に到着して、客扱いを始めている。ドアーは車道側でなく、反対の軌道側を開けている。遠い画像だがステップの降りているのが見えます。

91号が軌道の下り車線側に入って来た。この後、客扱いと、Yゲルを転換し出発する。終点手前にX字クロスポイントがあり、亘ってから客扱いし直進で折り返す方法(上の写真)と、直進後客扱い(先のカラー写真)し、その後亘って折り返す二方法が採られていました。

同じ91号の反対側。右手が進行方向の浜甲子園側、電柱に駅名票が見える。乗車待ちらしき女性の姿も。左手が本線上甲子園。9191号。終戦直後の1947年、製造割当が少なく3両だけの製造になった内の1両。汽車製造製。

211号の出発。客扱いを終わりYゲルを転換、少し先のクロスで下り線に亘り、甲子園浜に向かう。右手に駅名票、カラーでよく判る。進行方向にに第一生命のビルが、現在もこの地で同じ姿で残っています。


71
号。上甲子園行き。この71号は74号と共に、後にパンタグラフに付け替え、武庫川線に転出。その後尼崎市の公園に静態保存されています。(後述)

 
71号の後ろ姿。周りは敷地の広い戸建ちの、静かな住宅街です。

211号。甲子園駅の北側。緩やかなカーブを経て、北の方向上甲子園に向かう。

阪神本線甲子園。高架上が甲子園駅の西側部分。高架下の甲子園線甲子園駅を出発、北に向かう。付近の電柱に赤い“ワシとんかつソース”の看板が目立つ。近畿地方にとんかつソースメーカーは多いけれど今も残っているのかしら。電車と全く無関係な話でした。
 これで甲子園線と国道線の紹介はお仕舞いです。阪神パーク前や浜甲子園の写真はありません。子供たちを連れて阪神パークにレオポンを見に行ったことはあるのですが、子供たちに精一杯で電車どころでなかったのでした。

 

 尼崎市の公園2か所に、71号と74号が静態保存されています。

尼崎市藻川公園。フェンスが車両ぎりぎりに作ってあり、姿をよく撮影できません。上の覆いも屋根ギリギリです。腰下のマルーン色がすっかり褪せていました。近くで見るとさすがに大きいです。バスよりも大きいでしょう。電車側面に案内板がありました。

 

上の公園の近く、尼崎市水明公園。尼崎センタープール(競艇場)の北側にあります。ここもフェンスが二重。木が生い茂り全容が見えません。わずかに往年の姿を思い浮かべられる程度でした。寂しさが一層増しました。 

 電車好きの少年の頃、尼崎から神戸・平野の叔母宅へのルートが34通りありました。阪神電車本線出屋敷→三宮→神戸市電→平野。国道線→東神戸→脇の浜→市電。国道線→住吉駅前→省線電車→三宮→市電。省線立花→三宮→市電。 

 住宅が尼崎市の中南部でしたこの頃、阪急電車は全く利用しなかったですね。そして国道線、神戸市電がもうとっくに無くなった今、同じ尼崎市の阪急沿線に住んでいます。

阪神電鉄国道線(2)

 1945(昭和20)65日、B29から投下された焼夷弾が東神戸の街に雨霰の如く降りかかりました。小生の御年5歳前の、神戸の大空襲。当時日本の大都市の中で、神戸は最大の被害を受けました。近くの六甲山麓にあった高射砲は全く届かず、弧を描いて落ちるばかり(昼間は見えないが、夜間に見た大人の話)。

 神戸市灘区徳井町の我が家も全焼、自宅庭の防空壕を出て逃げました。見慣れた豆腐屋の中が真っ赤でした。途中石屋川かどうかわからないが、防空頭巾の上から消防団員に水をかけてもらい、母子3人(父はラバウルに応召)で逃げ延び、着いたのが御影公会堂でした。迎えに来た芦屋の祖母に連れられ、電線の垂れ下がった国道を徒歩で、同じく国道線の森市場まで行き、そこで暫く暮らしました。

 同じ日、同じ状況で御影公会堂に逃げ延びた主人公の話が、小説およびアニメ「火垂るの墓」です。小生より10歳年長の作者野坂昭如氏が、小生の近くにいたことになります。
 
 そんな話はとっくの昔。平和な時代になり、国道線を撮影したのがそれから16年後です。写真はその徳井からスタートして東に向かいます。

 開通時に設置された停留所の安全地帯は(前回の尼崎玉枝橋の写真を見て下さい)は、戦争中に軍により撤去されました。なんでも阪神国道がほぼ直線であった為に、いざという時飛行機の滑走路にするとか。けれど戦後も、停留所は復活されませんでした。写真のように道路上に、ただ白線で四角を描いたのみです。

 201201号。西向き、東神戸行き。1942年汽車製造・東京製。基本的な装備品やデザインは71形に同じですが、正面のデザインがやや平たくなりました。野田東神戸間の通し運転です。家並みの後方に六甲山が迫ります。
 
 当時の国道の詳しい記憶はありません。現代の国道を徳井から御影方面に進みます。
下の写真、右後方かすかに御影公会堂の先端が見えます。公会堂をバックにちゃんと電車を撮影するべきだったのに、目的が明確でなかった頃の撮影でして、今になって後悔頻りです。

 

 開通時のポールは、1949年Yゲルに付け替えられました。電車の神戸寄りに付けられています。

 

 201213209と共に戦後の1948年に製造。国道線最後の新造車となりました。野田側だけに連結器が付いています。連結器付の車両は数少なくなっていまして、今回紹介の中でもこの213207号車だけです。東向き、野田行きです。

 灘高前、甲南学園前を通り過ぎて、鳥居は三王神社です。阪神淡路大震災では本殿や鳥居など境内の大半が倒壊。社務所や隣接する宮司さんの家も倒壊し、確かご家族の方が亡くなられたと記憶しています。

車両は、3190号。19291930年製造。製造時は3150号でしたが90号に改番されています。当初稼働していた2台電動機の1型(全部で50両)および51型(全部で16両)に代わり投入されました。4台の電動機を装備して長距離運転(わずか26kmですが)に備えたそうです。台車はボールドウィン64-20R、この台車は全形式共通です。
7177号。1937年合計10両製造されました。電動機4台装備、長さ14m近くの大型路面電車でした。側面の半分以上を窓が占めていて、車内が明るく、斬新なデザインは当時画期的だったと思われます。誰の命名か、金魚鉢というニックネームを貰っていました。平たいスマートなベンチレーター、ドアの開閉と連動するホールディング・ステップも装備していました。西向き。

 当時、神戸市の東端、東灘区。芦屋市との境界に近づいて来ました。

 

201214号は、戦時中の1943年汽車製造製です。東向き、野田行き。

 途中の芦屋市、西宮市の西部を飛越して、いきなり上甲子園に達しました。甲子園線との分岐点です。右の鉄柱に駅名票が見えます。赤の地色に白の駅名が描かれていました。

201203号は1942年、メーカーは上記に同じ、やはり戦時中製造です。野田-西宮間の区間運転車。

 カラー版の登場です。これまでの撮影時期から4年後、1968年撮影です。電車は後方の甲子園線へのポイントを通過、東に向かいます。

 武庫川の西側です。201204号が、武庫川の武庫大橋に向かい緩やかな傾斜を登ります。右手辺りに確か甲子園ホテル(阪神電鉄経営)がある筈です。

 204号の後ろ姿。右手に武庫大橋と、松の木が数本見えます。

 こちらは坂を下って西向き、東神戸行きの207号。先の213号同様連結器が付いています。右手松の木の前にある大看板は「阪神競馬場へ8km」の案内です。

 207号が丁度、大橋の中央付近を西に進みます。この頃はまだ車の通行が少なく橋は広々としていました。上の写真の1コマ前。撮影場所は行政区画上、西宮市。南側から北東方向を見ています。

東神戸行き206号。撮影は日曜日でして、やはり車が少なかった頃です。武庫川の両岸は共に(西宮市、尼崎市)松の木が沢山あり、これは半世紀後の今も変わっていません。撮影場所は行政区画上、尼崎市、北側から南西方向を見ています。

武庫川を渡り、さらに東に進み、東大島。車両は東向き、野田行きです。子供たちの頭のはるか上まで窓が拡がっています。いかに背の高い窓か、よく判ります。

 写真はここまでです。これから先の野田方面までは全く撮影していません。残念です。
下は国道線の未使用の軟券です。

次回は、甲子園線と71、74号車の保存(尼崎市の公園)写真です。
地図は、参考文献1「輸送奉仕の五十年」阪神電気鉄道株式会社より、引用しました。

阪神電鉄国道線(1)建設目的

   大御所、乙訓の老人からバトンタッチを受け、阪神電鉄国道線の一部を紹介します。悔いが残るのですが撮影しているのは、神戸市灘区八幡(やわた)から尼崎市西大島と、国道線の支線である甲子園線の上甲子園-甲子園間です。東神戸付近と西大島から東部野田方面を撮っていません。

 小生の幼少は国道線と共にあると言っても過言でないのに、それにチャンスもあったのに、撮影していなくて返す返すも残念です。悔いの多い人生、中でも最たるものの一つです。 

 そして小生、長じてから疑問であったのが、国道線建設の目的でした。関西における官設鉄道と私設鉄道、あるいは私設鉄道同士間の激烈な競争は敢えて言うまでもありません。阪神間はその最たるもの、皆様よくご存じの事柄です。大正年間、官設はまだ電化していないが、阪神電鉄、箕面有馬電気軌道の競争です。その中にスピード競争で勝ち目がない道路併用軌道線(阪神国道線)を何故に建設したのかです。

手許に三つの文献があります。これらに上記の疑問を解決してくれる記述がありました。

『輸送奉仕の五十年』(阪神電気鉄道、昭和30年) (文献1)と表記する。
『阪神電気鉄道八十年史』(阪神電気鉄道、昭和60年) (文献2)と表記。
『図説尼崎の歴史・下巻』(尼崎市、平成19年) (文献3)と表記。

文献1から引用します。

『国道線の開通 昭和のはじめに本線に並行して国道線が開通した。陸の大動脈阪神国道の完成に伴う副産物であった。それまでの阪神両都を結ぶ道路は昔「西の道」と言われた2間ほどの旧国道で、牛馬でさえ行き違いにひと苦労、そこへトラックなどの激増で全くの飽和状態になったため、大正8年大阪、兵庫の両政府が相協力して建設することに決定した。爾来七星霜、同151225日、あたかも昭和と改元されたその日から公用に供された。幅員15間(淀川以東は12間)、延長628町(約7キロ)、ほとんど直線的に阪神間の郊野を貫いた坦々たるアスファルトの新国道は、2,000万円の巨費を投じただけに、名実ともに東洋一の大道路として世人の目をみはらせたものである。

当社はその重要性に鑑み、いち早く大正92月にこの国道上に軌道施設を出願して122月に特許された。この為国道の幅員も急に3間広げることに変更された。(中略)軌道施設工事はわずか6ヶ月間の突貫工事をもって昭和2517日に完工した。翌5月18日新装の武庫大橋畔において国道と軌道の合同竣工式が挙げられ、運賃決定で当局と合意後の71日から開業したのである。 


                               
    
 
 野田阪神・東神戸間約26キロにわたり、国道の中央に施設された複線軌道には15mという日本で最も長い軌条を用い、鉄骨組立の側柱には煌煌と照明灯が輝きわたって大国道に美観をそえた。車庫は浜田の田んぼの中に設けられたが、路面電車のこととて30両の車両はすべて低床ボギー車で、これも日本最初のドアー・ステップ連動装置をするなど数々の新機軸が試みられた。しかし当時はまだ沿道に人家も少なく、神戸終点の連絡も悪く、阪神国道電軌の経営は危ぶまれた。
(以下略)』(文献1

  建設の様子が記載されていますが、疑問点の解消はできていません。                                                          

 

 相前後しますが、文献2に、明治43年初め頃からの電鉄株の急騰を背景に、出願ブームが起りつつあった当時の様子が記述されています。 

布引を起点として山手を通過し、西宮に達するという計画の灘循環電気軌道に、

『箕面有馬電軌は、大正元年819日、いち早く十三・門戸間の新線を出願し、灘電と接続することを企てた。電光石火の対応によって、阪神間の直通路線を入手しようと考えたのである。』(文献2 

その後、灘電が資金難となり、

『その買収・路線免許取得をめぐる係争のさなか、大正62月、箕電は灘電の軌道施設特許譲渡の認可を得、大正712月、箕電の勝訴が確定した。かくして、大正97月、灘循環線(現在の阪急神戸線)は開通し、当社の強力なライバルとして立ち現われることになった。』(文献2 

こうして、スピード競争はもとより多面的に、阪神・阪急のライバル活動が開始されて行きます。その後のことは読者ご存じの通りです。

 さらに文献2の、別の個所には

『併用軌道線の縮小と廃止 国道線は,昭和2当社子会社である阪神国道電軌㈱によって開通し、ほどなくして当社合併した。(中略)国道線は、阪神国道新設して、本線防衛という政策づき(註:下線は筆者挿入軌道敷当社費用負担によって,道路上建設された。(中略)併用軌道の輸送量は、戦中と終戦後20年代半ば頃にピークを記録して以後減少に転じていた(中略)30年代に始まったモータリーゼーションの進展によって、経営は困難の度合いを深めていった。』(以下略) 

と、新設国道に他社線が先に進出し、阪神本線に悪影響が及ぶ前の対抗処置だったことが明記されています。これが新設国道線に、阪神電鉄が道路併用軌道線を建設した真実であり、「建設目的は何か」という筆者の疑問への解答です。

国道線の経営が初めから楽ではなかったことも同時に伺えます。客が多かった時期はほんの一時期でした。
文献3に、

『鉄道と道路  現尼崎市域においては、(中略)明治38年には阪神電鉄が開業し、尼崎町中心部と大阪・西宮・神戸といった東西の市街地が結ばれます。大正期から昭和初年にかけては、これらに加えてさらに2本の重要な東西交通幹線である、阪急電鉄と阪神国道が開通することになります(中略)。 こうして開通した阪急神戸本線や阪神国道の沿線には、宅地開発や耕地整理がすすめられ、新たな市街地が形成されていきました。    

 開通当時、国道線の沿線は農村的雰囲気が漂っていましたが、大庄〔おおしょう〕村や小田村などで耕地整理が行なわれて急速に住宅化がすすんだこともあり、昭和10年代には利用者が大幅に増加していきます。戦争をはさんで、昭和20年代半ばにピークを記録しています。
 この時期、国道線の主力となったのは昭和12年製の阪神71型でした。屋根まで届くような縦長の窓が連なっているのが特徴で、流線型の開放的なガラス張りのデザインから「金魚鉢」との愛称で親しまれました。新時代の到来を予期させる、先進的な路面電車でした。

ところが、高度経済成長期に入るとともに、利用者数は減少に転じます。自動車の普及によって道路混雑が激しくなり、定時運行がままならなくなったのです。市内で一番利用者が多かったのは難波〔なにわ〕停留所でしたが、昭和27年に14,691人いた乗客数が、昭和37年には2,211人と半減。やがて、国道2号や周辺道路が渋滞する原因として、国道線がやり玉にあげられるようになります。累積赤字の負担に耐えかねていた阪神電鉄はもちろん、兵庫県や尼崎市も、廃止やむなしという方向へと流れていきました。 

昭和493月に上甲子園~東神戸間が廃止され、残っていた野田~上甲子園間も、昭和50年に営業を取りやめました。最終営業日の55日は、名残を惜しむ市民で終日ごった返しました。なお、金魚鉢こと71型電車は、市内の水明〔すいめい〕公園と蓬川〔よもがわ〕公園に保存されています。』(文献3)  

とあり、建設の過程、その後の状況、廃止前後の様子が記述されています。

 今回は国道線建設の目的や、その当時および戦後の様子と写真を文献から引用して紹介しました。次回は小生の写真で、
 第2回:八幡から西大島まで、カラー写真を交えて紹介します。
 第3回:甲子園線のカラーと7174の保存の様子を紹介します。

阪神ジェット・カー、御影-石屋川間高架上

 前回に続き、5100系、5200系です。デジタル青信号の投稿ついでに、保存の阪神フォルダ内を見ていたら、新しい発見がありました。
 1962.3.25撮影、
御影駅西方、石屋川駅まで続いている留置線、施設完成前の高架上です。 また、このフィルムは、ビネガーシンドロームなど、全く影響がない正常な状態のFuji Neopan ss safty  です。たくさんのビネガーシンドローム被害のフィルムの中に、こんなのがあるから、いよいよもってビネガーシンドロームが解らなくなります。 1. 5100系、5101 、石屋川駅寄り

 関係者でもない私が、どのようにしてこの地点に行ったか覚えていません。昨今では撮影不可能な位置です。当時とは言え、まさかホーム端から歩いたとは思えず、高架下の昇降階段から昇ったのではないかと思われます。また、この場所も阪神大震災では大きな被害を受けました。

 

 

2.  52005214他、石屋川-御影駅の中間辺り

 3.  5200系5212他、御影駅近く

阪神電車3011および5200系

久しぶりに投稿します。3012他3011系編成、梅田行き特急の後部です。
手ブレの写真、おまけにフィルムの痛みが酷いものです。
本線甲子園-久寿川間、1961年2月19日。

5216+5215神戸方面に向かっています。前部です。
行き先、列車種別共に表示がありません。
同上区間、同じ。
解説を、詳しい方にお願いします。

5001(初期)型(通称アマガエルとか)の写真は、持ち合わせがありませんでした。

追伸
3月以来、超多忙で本誌投稿がままなりませんでした。
10月にそれらから解放されました。時々投稿を再開します。宜しくお願いします。

気仙沼在住、ネットの友人が被災されました

 東日本大震災で被害にあわれた方々に心からお見舞い申し上げます。大変な状況です。平穏なこちら我々が、被災地に対して申し訳なく思うほどです。

 拙著HPを通じて交流のある気仙沼在住の方が被害に遭われましたがネットで無事が確認できました。震災当日夕刻に、NTTドコモに発信登録されていましたのをgoogle の検索で見つけました。そしてNTTドコモで携帯番号を入力し登録内容を読みました。自宅は破壊、祖父母の行方が不明とのことです。自宅はホントに海岸近くでした。

 たった3分ほどで検索できたgoogle のスピード、力に改めて感心しました。しかしHP掲載に際し許可を戴いた釜石の岩手東海新聞社、本の著者元釜石市長菊池様の安否も心配です。

 気仙沼の友人は、拙著HP大船渡線を見られ、自身の大船渡線HPに、小生の蒸機写真の提供を依頼され、送付して以来の交流でした。そして、50年前の写真と同じ地点で、現在の鉄道風景を撮影比較し、アップされていました。デジ青『雪景色』の続きで、次回大船渡線に50年前と近年の、今昔定点対比写真を投稿の予定でした。この方にデジ青への掲載許可を快く戴いた直後の震災でした。
 従って、投稿は延期しました。しかも春が近づいて来ましたので『雪景色』の続きは来冬です。大船渡・釜石・山田・米坂・飯山・宮津線などが残りました。東北地方の各線、そして飯山線の被害も甚大です。

 また近年、私が撮影に出かけている4つの鉄道の内、3つが被害を受けて運転休止となりました。真岡鉄道、ひたちなか海浜鉄道、鹿島臨海鉄道大洗鹿島線です。殊に海岸近くを走る、後者2つの鉄道はどうなっているのでしょうか。一日も早く復旧して再び撮影できることを期待して止みません。

山陽電車(4)西代-長田間 神戸高速鉄道建設

前回の投稿記事の話から1年後、神戸高速鉄道への乗り入れ工事が本格化しました。西代-長田間の工事は、専用・併用軌道の付替え工事を伴い、複雑でした。長田-兵庫間の内、長田-大開通り間は、山陽併用軌道の北側道路を掘削すればよく、普通の工事だったと思います。また大開通り-兵庫間は工事が無く、高速鉄道開通時に廃線するだけでした。
さて西代-長田間ですが、工事の順序は大きく分けて、下記の地図の①~③のようなものでした。
①大道通り-長田間の民家・商店の立退き、道路の北側への移設、道路下を堀削し地下建設。
②蓮池町-大道通り間の道路の移設、上記①と合わせて専用軌道の付替え線建設、運行開始。
③運行停止の専用・併用軌道を堀削、地下進入線と地下工事開始。完成後は開通まで新線を使った試運転。西代駅では付替え線と新線との並行運転が見られました。

▼①の部分の工事の様子です。カメラは西南向きです。すぐ横の併用軌道を2700系が進む。

▼専用軌道の横での付替え線建設です。既に一部の軌道が完成し、支柱も立っています。②の部分です。東向き、右手に工場群が。

▼こちらは、専用軌道から併用軌道に変わる付近、軌道と付替え線の間にスペースもあります。西南向き。

▼それからさらに5ケ月後。すでに付替え線での運行が始まっていました。西代駅のすぐ東側です。右手の専用線の線路はすっかり撤去されてしまいました。手前の信号機はもう使われてはいないのでしょう。新線予定地に早くも架線支柱が立っていました。北東向き。

▼上と同じ場所、逆に西向きです。付替え線に2700系が進入して行くきました。左手の信号機はやはり使われていませんね。後方に西代車庫の電車が見えます。

▼専用軌道のあった部分はすっかり堀起こされました。地下への傾斜進入部分。少し遠くに地下への入口が見えます。東向き、右手は工場群。


▼付替え線を行く200型です。後方の建物は、神戸市立蓮池小学校、震災では大きな被害を受けました。西向き。

▼地下入り口付近から西側の、西代駅方面を眺めました。

▼併用軌道の始まりの部分です。機材・資材が溢れています。北東向き。

▼併用軌道はすぐには撤去しなかったようです。小屋、機・資材で軌道も少し哀れな姿に見えます。

▼新湊川の手前でカーブして、長田駅で元の軌道に戻ります。カーブ部分の下も地下工事です。付替え線東側の様子です。

▼カーブ付近を行く、共に2700系ですが顔が異なります。住民の南北への移動用に、簡易の踏切が何箇所か造られていました。

▼長田駅と新湊川の手前でカーブして、元の軌道に繋がります。付替え線はすべて専用軌道となりました。

▼それから1年。工事が完成、試運転が開始されました。阪急と山陽。左手は付替え線です。神戸高速開通時の廃止が勿体無いクロスがあります。

▼こちらは山陽の試運転列車。

▼当然のことながら、阪神も試運転。須磨浦で折り返しての帰りです。 

▼神戸高速鉄道線向けの山陽の主力電車が通常運行。地下からは試運転の2700系が上がって来ました。 
▼構想以来、完成まで何年掛かったことでしょうか。神戸の中心部で山陽、阪急、阪神の相互乗り入れ、神戸電鉄ともイージーな乗り換え。山陽電車の夢がかなった開通は1968年4月7日でした。

200型の話題に始まった山陽電車。併用軌道の話のついでに神戸高速鉄道建設なども紹介しました。時と機会を改めて、60年代前半の山陽電車車両も紹介してみたいと思います。それから神戸市電も。

雪景色・番外 長野電鉄2000、600型

 ちょうど50年前の1961年3月6日撮影の長野電鉄です。関東での法事の後、長野・北陸周りで帰りました。その時、湯田中近辺で撮影、特急『よこて』長野行きが坂を下って来ました。2005+2053+2006で4編成あった内のC編成。もう既に廃車になっていますね。



 上の写真の後部です。先頭部が長野方向を向いています。

  続いて600型が坂を下ってました。この写真の車番は不明です。

 再び600型604号の登場です。604号はその後の改番で612号となったのでしょうか。乙訓の老人に教えてもらったのですが、もし612号ならば、その後上田電鉄に行き、5271号となった車両ではないでしょうか。604⇒612の点が不明瞭です。しかも5271号ならその後再び長野電鉄に戻り、今は展示されているそうです。車両は製造当時としては珍しい全鋼製車両だそうで、リベットが良く目立ちます。
 電車の行く雪景色は、あまり撮影していません。デジ青のトップページ画像で、消えゆく電車を見て、湯田中での撮影を思い出しフィルムを取り出しましたが、相当に傷んでいました。フィルムに柔軟性が無く、パリパリでした。幸い電車の部分に黒斑やひび割れはありませんでしたが、周りの痛みは修正しました。

山陽電車(3)西代-兵庫間の道路併用軌道

 

三度び夾雑物・山陽電車です。西代駅東方約200m付近から、終点の電鉄兵庫まで約2kmの区間は、道路併用軌道です。大型車といえども、特急といえども、制限速度は35km/時でした。下記に、専用・併用軌道、神戸高速鉄道建設完成時までの短期的な付替え線、そして神戸高速鉄道の路線などを図示しています。そしてこの道路併用軌道は、1968(昭和43)年4月7日(日曜日、この日は筆者の結婚記念日)の神戸高速鉄道の開通に伴い、創業以来58年で消滅しました。

それでは、西代駅から兵庫駅までを順に写真で追ってみましょう。
▼西代駅を出た上り・兵庫行き(北東方向に向く)が専用軌道終わりの地点を行きます。正面突き当たりに西代車庫があり、その右をカーブして板宿方面に向かいます。今電車が走っている付近が高速鉄道の地下入り口になります(板宿・東須磨間の地下線延長前まで)。そのために、本線をすぐ北側に退避移動させ、付替えました。

▼上の写真から、方向を180度転じて見た、こちらが併用軌道の大道通りです。下り・姫路行き(南西方向に向く)の各停が、間もなく専用軌道に進入します。左の更地は、神戸高速鉄道建設のために、立ち退きをした民家・商店の跡です。右側の民家や商店・工場前は舗装されていません。車の通行防止の為でしょうか。

▼併用軌道を更に北東に進むと、新湊川の手前まで緩い登りになります。最新の上り・大型特急車が、間も無く、併用軌道区間唯一の駅長田に進入します。

▼長田駅は島式のホームです。下り特急車2005が出発です。短いがこの区間は専用軌道です。看板と簡易の柵で道路と区分です。後ろの白い大きな建屋は神戸市電長田工場です。

▼木造の粗末な駅舎、東須磨からの高校3年間の通学はこの駅でお世話になりました。

▼上り兵庫行き300型が、長田駅を出発。神戸市電との交差点西南側にあった、トヨタの販売店前を通り過ぎ、クロスを渡ります。架線にはデッドセクションがあります。山陽は1,500V、市電は600Vのためです。

▼こちらは上と同じ場所を、逆に見ています。交差点を渡り長田駅に進入する下り姫路行き特急です。車を避けた為にデッドセクション内で山陽電車が急停車し、動けなくなったのを、通学時1、2度見ました。後続列車の後押しで漸く動くことができました。市電が立ち往生した場合は人力に頼ったとか聞いたことがあります。

▼こちらも交差点を過ぎ、長田駅に進入する下り・各停垂水行きです。パンタは1個。車の接近にひやひやしながらも無事にデッドセクションを通過。820型の区間運転列車は垂水行き。区間運転は明石(西新町)行きなど。昔は須磨折り返しもあったように思います。

▼北行き神戸市電が今まさにデッドセクションを通ります。市電の線路と平行に設けられたポール付きのものものしい設備は、あまり長く続かなったようです。上の写真(1963年)にも、一つ下の写真(1967年)にも見られません。右手奥の工事は神戸高速鉄道の建設工事です。北行の市電は突き当たりの看板前を直角に右手方向に曲がり、東向きに五番町・上沢町に向かいます。

▼南行神戸市電が交差点を渡りすぎました。この頃になると車が増え、市電の運行も大変となって来ました。三輪軽トラ等も見られます。南に向かうと、すぐ右手に長田工場がありました。

▼交差点を過ぎ、長田と兵庫のちょうど中間地点、ビオフェルミン本社・工場前をさらに少し進むと、大開通りに向かう三差路地点です。神戸高速鉄道は、このあたりの地下を右方向にカーブしてゆきます。軌道上の工事区間はここまでです。ビオフェルミンの本社と工場のこの建物は、阪神淡路大震災で完全に倒壊してしまいました。西方向に向かう特急。横を走るのはマツダのキャロルか。

▼正面に兵庫駅が見えて来ました。1965(昭和40)年頃はまだ車は少なかったようです。埃っぽくだだっ広い通りでした。兵庫駅(東方向)に向かう850型。架線の支柱は幅広道路の左右にあり、スパン線ビームの長さも相当なものです。

▼4面のホームを持つ兵庫駅。北側には貨物線が1本。ホームの西側先端部分は屋根は無く、枕木を積み上げその上に板張りの粗末な造りでした。神戸の中心部から西に外れた場末の感じがします。右の高架は国鉄兵庫駅、EF58が見えます。

▼兵庫駅前には、神戸市電兵庫線の終点がありました。山陽兵庫駅改札口はちょうど左手の付近に。右手には国鉄の高架線が。

▼国鉄兵庫駅の高架ホームから眺めました。山陽電車との連絡通路は無く、東側の改札を出ると、雨天でも傘をさして市電脇を渡り、高架下の連絡通路を通り国鉄に乗り換えました。西側の広い駅前広場を渡り、兵庫駅へ向かう連絡用として、山陽の改札口が西側に増設されたのは後年だったと記憶しています。この場所からは隠れて見えませんが、右隅にその屋根部分が辛うじて写っています。遠くには湊川公園のタワーが見えます。このタワーも確か震災で倒壊したのかな。

長々と続きましたが、夾雑物の話はまだまだ終わりではありません。神戸高速鉄道建設の為、、短期間だが西代-長田間で本線を退避すべく付替え線が設置されました。埋もれているそれらの写真を、千載一遇のこの時とばかりに公開準備中です。毛嫌いせずお楽しみに。

山陽電車 200型の再生300型

 

 

 前回、山陽電車の社報掲載文で200型を紹介しました通り、愛嬌のある車でしたが、如何せん輸送力増強には不適合な車でした。しかしながら作りが良く、廃車するには惜しいので、車体を広幅に更新し、台車や制御機器も再利用するということで、1962年夏から秋にかけて、300型に生まれ変わりました。第1次車300~305の6両は、川崎車両で更新した車体を運び込み、自社西新町工場で完成させました。これには大分時間が掛かったと聞いたことがあります。製造銘板も山陽電鉄でした。附番は200→300、201→301とはならず、200、201、208、209、210、211の6両で300~305の6両を製造したようでした。

▼下は、生まれて間もない303+304です。 行き先表示板には神戸・明石(西新町)とあります。神戸市内の終点駅名を『兵庫』と書かず、『神戸』と標記していました。『明石』も( )つきです。『明石』にはもうひとつ(東二見)行もありました。
▼やはり真新しい301他の網干行が、高架の姫路駅を発車したところです。オールMの3連です。

▼上の写真から2年後、第2次車306から315まで10両が揃いました。電鉄須磨駅です。

▼須磨から明石まで海岸べりに沿って、国鉄と並走します。奥に見えるコンクリート造りは、写真の2ケ月後に開通した、国鉄鷹取-西明石間複々線化の新しい列車線です。既存線は山陽電車線に接して向こう側の平地上です。道路の左はすぐ海岸です。

▼のどかで穏やかな海に漁船を見つつ、海岸沿いを走る300型です。複々線化工事中の場所に立ち、上から見下ろしました。パンタが3個、勇ましく見えます。

▼こちらは、道路併用軌道の長田-兵庫間、大開通りです。左側で神戸高速鉄道への地下工事が始まっています。砂ぼこりの多い、だだっ広い道路でした。車の通行が少なく、遠くに兵庫駅を出発した200型が見えます。

▼上の写真と同じ号車の折り返し。今度は姫路行になっています。場所は先ほどよりだいぶん兵庫駅寄りです。

▼第2次以降、製造組立の全てを川崎車両で実施。第4次まで合計28両が生まれました。その内、6両は中間電動車330型です。筆者の当時の記録では曖昧な所が沢山でした。

 大手術を受けたその割にはピンピンと元気な乙訓の老人が、自宅に戻るやいなや鉄道ピクトリアル誌327号と528号を送り届けて下さいました。その中に、やはり亀井一男さんが記述の200、300のデータがあり、移り変わりの様子がはっきりしました。整理したのが次の図です。鉄道ピクトリアル誌 No.327 1976.11 を主として参考にしました。

▼200型の台車、BW-1。

▼200型のおしまいは、流線型車両が海風を切りカーブを駆け抜けて行く姿です。下は第1次の203+202です。残念ながら第1次車両のカラー写真はありませんでした。

▼風光明媚な場所は関西一でしょう。高台を走る場所は一等地。南海にも紀勢線にも負けないくらいです。 

次回は、京都の方々には遠くて、神戸の西片隅の様子など疎い方のために、西代から神戸・兵庫までの道路併用軌道区間、神戸市電との交差無電区間、兵庫駅などをカラーで紹介しましょう。

雪景色(3)花輪線

 筆者の好きな写真の一つです。バックの山が墨絵のようです。同志社大卒業間際までゼミの研究室に拘束され、やっと開放された日から4、5日間出掛け、帰宅した翌日が卒業式の慌しさでした。



 初年兵の年末は体調不良で、撮影行は中止。
2年目の正月休みに出掛けたのが、花輪線を始めとする東北の雪の中でした。竜ケ森のヒュッテに1泊して撮影しました。天気は良くて快調でした。

 総本家青信号特派員さんはユースホテル愛好者でしたが、私はステーションホテル愛好者でした。これは湯口先輩から教わった方法で、駅のベンチに寝泊りする方法です。先輩が50数回の日本記録保持者、私は35,6回で第2位です。寝袋、炊事道具、食料(米、缶詰、リプトンのオニオンスープの素など)、燃料(ガソリン)、夏は蚊取り線香、冬はカイロ持参です。ガソリンは4Lほどポリタンクに入れ旅客列車で運んでいました。今では恐ろしくてできないことです。荷物が多くて、当時56kgの体に40kgのリュックでした。駅の台秤で計りました。

 翌年も出掛け、花森線でのホテルは竜ケ森ヒュッテでした。自炊せずとも食堂があり、大助かりでした。

 盛岡発の臨時『銀嶺』号です。シーズン中、竜ケ森まで1日一往復でした。前々日に山田線でラッセル車を押していた盛岡区所属の86が、客車3両を曳いて山を登って来ました。

 上の写真を撮影後山を下り、次の貨物を待っていると、二人連れが竜ケ森から線路中央を歩いてきました。近づいてきた人はなんと、ローズ・Yさんと現在の大阪通信員さんではないですか。全く偶然の出会いでした。次の列車撮影までの時間に、ヒュッテの食堂で撮った記念写真です。50年前のこと故に、肖像権無視で公開します。この日一日で彼等は消えて行きました。残った私は再度ヒュッテに泊り、翌日も撮影でした。


  スキーヤーは全て列車で来ます。付近の道路は空いていました。降車がすみ、乗車を始めたのが上の写真です。ところが時間がかかってしまい、ドアーが凍りつきました。ヤカンの湯で溶かしてやっと出発でした。


 
スキー場へは右手に進み、ヒュッテを通り過ぎ、山に向かいます。
翌日は、岩手松尾、大更方面に向け、山を下りながら撮影しました。



 雪景色シリーズも投稿を急がないと、春になってしまいそうです。カラーフィルムに限定して絞込み、先を急ぎましょう。次は山田線、釜石線、大船渡線です。モノクロの米坂線はまた別の機会にします。

山陽電車200型

 湯口先輩、後出しですみません。山陽電車と聞けば、黙ってはおれず遅ればせながら投稿しました。
▼先ずは、件の山陽電鉄カラーの塗り分け200型、3扉車。塗装まだ新しい頃、須磨浦公園-塩屋間、1963.1.1撮影。後方の建屋は須磨浦公園駅、階上から鉢伏山上へのロープウェイが発着しています。

▲▼その1年前、100型、200型の暗黒ぶどう色塗装車、同号車、同区間。後方の国鉄山陽本線はまだ複線です。普段波静かな須磨浦に、冬季で白波が立っていました。1962.1.1撮影。
▼同じく200型、206+207、2扉車、同じ区間、1962.1.1撮影。

 さてこの、200型ですが、ここに良い文書と図面がありますので紹介します。
それは職員であり、かつ鉄道ファンでも有名な亀井一男さんや佐々木さんによって記述されたと思える一文が、当時の山陽電車の社報に掲載されていました。少し長文です。無断転載ですが、出所を明示、50年前の文書に免じてお許し下さい。200型の功績と大型化への苦心が描かれています。
山陽電気鉄道株式会社・社報臨時号No.6(昭和36年9月)より、8・9頁を抜粋しました。本文および形式図は原文のままです。

200型車両の大型化改造
200型の生い立ち
 昭和11年、まだ山陽電車という名よりも宇治電とか兵電とか当社の前身の呼名の方が、耳慣れていた頃、この200型は生まれました。当時は神戸姫時間の直通は全ていまの100型総数35両が単車で運転しており、神戸明石間には、通称バッテラと呼ばれた木造社31両が運転されていました。この木造車は明治43年から大正10年までの間に製造されたもので、そのうち7両の車体を新品と置き換え、台車や制御装置を大改造したのがこの200型です。続いて昭和13年に、同型で更に5両の更新が行われ、また昭和16年網干線の開通に対処して、新車として3両が完成し、いまの2扉200型15両が揃ったわけです。

 そのころ流線型という言葉がはじめて普及し、空気抵抗など全く関係のなさそうな低速の市内電車まで、猫も杓子も前面を曲面にするのが流行となり、この車も御同様にそのまねがしてありますが、形として大変まとまっていて、流線型流行時代の電車の前面の傑作の一つに数えられています。

 しかし、700型のような大型車や、2000型のような高性能車が、国鉄や大手各社同様にとばすことになろうとは、夢にも思わぬ当時のことですから、最大幅2m400にも足りぬせまい車体で、一方駅員無配置があたりまえだったので乗務員が集札に便利なように出入口は両端にだけあり、全く現代の混雑時には縁のない構造になっています。

現在の200型
 戦時中の輸送に応ずるため、その後に引続いて新造された200型19両は片側3扉となり、2扉3扉あわせて現在の34両が終戦までに揃いました。ところが、最初の12両は軌道線の車体更新車で600V専用であったので、戦争中もあまり無理な使い方をしなかったせいか、あるいは製作当時の技術が戦前では最も円熟した時代のものであったためか、車体の状況は現在でももっとも良好であります。

きらわれる200型
 残念ながら、現在の200型2扉車はきらわれ者です。毎朝のラッシュ時には、下りの閑散なところを走らされたり、ごく短距離のローカル運転や、予備者としてお茶をひいています。それは、扉が車の両端にだけあって、しかも車幅が狭く、お客様が中央まで入ってくださらないので、出入口付近がひどく混雑しながら中央部は空いていて、結局の収容力が最も少なく、乗降時間も長くかかるという不便さのためです。

 それでは215号以降の車のように中央に扉を設けたら解決するのでしょうか。それには3扉の200型が愛される200型であるのかを考えてみればわかります。今年(筆者注:昭和36、1961年)の末には100型がすっかり姿を消して270型に生まれ変わりますし、来春には(同、昭和37、1962年)新車6両が登場しますと、客車総計122両中、小型車は200型34両だけになります。つまり大型3に対して小型1の割合です。ラッシュには大型車でも満員のダイヤへ、ときどき小型車がまぎれ込みますと扉の数が3つあっても、からだの小さい200型では乗れる限度がありますから、それだけ混雑もひどく、或いは積み残しも多いわけです。からだが小さい限り、扉の数を一つ増やしたくらいで安心はできません。

 また小型車は3両連結にしたら大型車2両連結と同じくらいの輸送力になるのではないかと考えられます。200型を3両連結することができればそれほど簡単なことはありません。しかし残念ながらそれが大変なのです。かりに2両連結3列車を3両連結2列車にすると、たちまち別に1列車を新造せねばなりません。電車は大きくても小さくても、1両はまちがいなく1両ですから、保守費も税金も利子も電力料もみな両数に比例して増加します。それも我慢するとしましょう。法律によって3両以上連結するにはブレーキは自動制動でなければなりません。またすべて貫通式にしなければなりません。

 ところが200型は小さくて自動ブレーキ装置が床下へ入りきりません。またその昔、併用軌道の路面から昇降する構造だったため、台車が中央に寄り過ぎていて、台車から車端までの長さがなみはずれて長く、貫通幌をつないでスムーズにカーブを通ることができません。となれば3両連結もそう容易なことではないわけです。

200型の再生
 なんとしても200型は小さすぎます。中央に扉をつけてもすぐゆきづまりがくるでしょう。さりとて3両連結するには大改造が必要ですし、車両数も増やさねばなりません。270形式の車体を新造してのせかえるにはまだ惜しい気がします。そこで中央扉をつけ、3両以上連結できるよう改造する費用にもう少し足して、巾も大型車なみにひろげれば250型と同じ能力になるのではないかということになりました。これはなかなかむつかしい作業ですが不可能ではありません。いまその具体的な工作方法を車両部で研究しています。出来上がりの姿は、長さは15mで小型車並み、側面の形は3扉の200型に似たかたち、正面は270型そのまま、と考えていただければよいと思っています。そしてとりあえず、250型と同様に大型車2連として使用もできますし、必要に応じ3両編成でも運転できることになります。
第4時輸送力増強計画の車両関係工事の一部として、来春から夏にかけて6両の工事が完成する予定になっています。

 かっての花形であったこの車も会社の発展に伴って、老朽化する以前にこうして姿をかえてゆくことになりました。この機会にその過去の功績をかえりみ、また将来の活躍を期待したいと思います。(原文のまま)
 ▼最後にステップの位置が、判り易い斜め上からの写真です。電鉄須磨駅にて。
手前が下り明石行き200型2扉車、奥が上り兵庫-姫路間の各停200型、第4次製造型。

▼下り明石行きの後部です。右の信号所の建物は使われていませんが現在も残っています。
1961.2.19撮影。

次回は、200型の改良300型について予定をしています。