三江線だより(13)

24,25日は最後の土日ということで多くの人でにぎわったようです。クローバー会の戦闘的会員も何人かは現地に向かわれていることでしょう。今週いっぱいは好天が続くようです。現地レポートを期待しましょう。

平成30年3月27日 中国新聞朝刊

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 “平成”の思い出 鉄道の記憶 〈3〉

宮原の公開イベント

国鉄からJRになったのが昭和62(1987)年ですから、平成に入って、まだJRは2年目でした。私は、「ジェイアール」の横文字が気恥ずかしくて声に出せず、もと国鉄をなんと呼んでいいものやら悩んだ時代でもありました。この頃、JRではさまざまな誘客策が展開されていましたが、機関区など現業部門の公開イベントもその一つでした。国鉄時代からも公開イベントはあリましたが、およそサービスなどとは無縁の現業部門の人たちが、必死になって来場客と接している姿を見て、JRの変身ぶりを感じたものでした。
宮原操車場の公開へ初めて行った。新幹線から全体は見えるものの、“宮原”という駅もなく、どう行っていいのかも分からなかったが、阪急十三駅から歩いて行くと正門があった。車種は現在と特に変わったものではないが、パンタはきっちり上げて、ヘッドマークも寄せ集め的ながらも装備して、今より価値があるように思えた(以下撮影日、平成元年4月30日)。

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三江線だより(12)

別れの惜しみ方もいろいろあるようです。

平成30年3月25日 中国新聞朝刊

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 “平成”の思い出 鉄道の記憶 〈2〉

旧線時代の馬堀駅付近

山陰本線京都口は、昭和46年に蒸機が消えて無煙化されました。その後、車両は、客車は50系、12系化、DCは40系の新系列に置き替えられたものの、国鉄末期の窮乏状況では、単線非電化から抜け出せないまま、昭和から平成を迎えました。京都~園部では、客車列車なら1時間20分程度を要し、蒸機時代とほとんど変わりませんでした。ネックになっていたのは、やはり蛇行する保津川の渓谷を行く狭隘区間で、改良計画では、この区間を6つのトンネル、5つの鉄橋で一気に突き抜けるものでした。これにより、距離は1.6キロ短縮され、保津峡、馬堀の駅は新駅に移転するものでした。

朝の馬堀駅で交換する列車、どちらも28・58系だが、左は131D園部行き、右は136D福知山発の普通列車で、いずれも急行列車の間合い利用のようだ(以下撮影、すべて平成元年3月4日)。

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三江線だより(11)

花の便りがあちこちから届く今日この頃ですが、三江線は余命1週間となりました。しばらく好天が続く予想ですから、沿線は一層賑わうことでしょう。今回は長船友則氏も登場です。

平成30年3月24日 中国新聞朝刊

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 “平成”の思い出 鉄道の記憶 〈1〉

2018年も3ヵ月近くが経ちました。よく考えたら、来年5月から新しい元号が施行され、「平成」という時代も、あと一年余りなんですね。我々の世代が、本欄で思い出を綴っている「昭和」も、来年になると、二世代前の出来事になってしまいます。昭和の時代、鉄道趣味の面では確かに面白い時代だったことに違いはありません。しかし、昭和の賛美だけに終始していると、来年、新しい元号になると、平成は“失われた時代”になりかねません。
いまの現役会員や20歳代は、すべて平成生まれです。昭和は生まれる前の時代であり、昭和40年代に20歳代だった我々の時代に置き換えると、デジ青で戦前の話を聞いているのと同じで、これでは20歳代にはなかなか理解できないでしょう。別に若い世代に迎合するつもりはないのですが、若い世代から共感が得られる記事も必要だと思いました。
平成の時代も、細く長く鉄道を撮り続けてきた積もりですが、それらの整理、見直しは、ほとんどできていません。平成が終わろうとする今こそ、写真・データの整理を始めなければと思った次第です。これからは、“昭和”も記録しつつ、“平成”も平行しながら、鉄道写真のアーカイブス化を進めて行きたいと願っています。そこで、昭和から平成へと移った直後の記録を順に綴っていこうと思います。
平成に入ってからも、私の撮影はモノクロが中心だった。ただ、カラーも平行しながら撮っていて、最初はカラーネガが中心だったが、徐々にカラーポジでも撮るようになった。カメラは、平成に入ってEOS-10、EOS-55、EOS-1Nと買い換えてきた。前の2機は手許にないが、中古で買った1Nだけは記念に置いてある。価格はボデーだけで12万円ほどと、当時の中古カメラは高価だった。電池がなく今は作動しないが、“カシャ”と言う鋭いシャッター音が忘れられず、時々、空シャッターを切って懐かしんでいた。フィルムカメラを止めて、デジカメに転向するのは、もっと先のことだ。

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三江線だより(10)

三江線の歴史は水害との闘いの歴史とも言われますが、今回はそんな話題です。

平成30年3月23日 中国新聞朝刊

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 市電が走った街 京都を歩く トロバス編⑤

その後のトロバス

トロバスの営業は、昭和44年9月限りで終わり、翌日から、トロバスと同じ区間を走る、代替バスの77号系統が新設されて走り始めました。トロバスの活躍は、もう見られないかと思われましたが、そのあと、保管されていた車両1両が意外な使われ方をして、再デビューを果たします。それは、京都市が開発・研究を進めていた電気バスに改造されたことで、「みどり号」の愛称で、京都の中心部を走ることになり、3年ぶりに、京都に電気で走るバスが走ることになりました。
下鴨神社前付近の河原町通を走る、もとトロバスの電気バス「みどり号」、カラーは市バスと同じながら、ボディはトロバスそのもの。300形318号を改造して生まれた。

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 市電が走った街 京都を歩く トロバス編④

新聞記事に見るトロバス

トロバス編の続き、今回は当時の新聞に載ったトロバスの記事を採り上げました。私は、小学生の時から鉄道関係の新聞の切り抜きを続けてきました。さすがに今では、ほとんどしませんが、書籍・雑誌の情報も乏しかった時代のこと、日々の新聞に載る鉄道記事は貴重な情報源でした。なかでも京都市電に関しては、廃止や事故と言った、地元の社会的なニュースとして取り上げられることが多くありました。それらを切り抜いて、一枚ずつB5の藁半紙の台紙に貼り付け、年月別に綴じてファイル化し、京都市電に関する、自分だけのデータベースが出来上がりました。
最初にトロバス廃止のタイトルが紙面に見えたのは、廃止の2年前、昭和42年9月23日のこと、前日に、京都市の交通財政再建計画が発表され、それを受けての報道だった。読み進めると、車両数が26両とあり、戦後製造の100形6両がまだ走っていた時代だった。

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三江線だより(9)

平成30年3月21日 中国新聞朝刊

写真から除雪機関車は三次区のハチロクだったことがわかります。

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三江線だより(8)

今日から中国新聞に連載記事が登場しましたのでご紹介します。

平成30年3月20日 中国新聞朝刊

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三江線だより(7)

昨日17日からは直通列車が2本増便され、あと2週間となった三江線は18きっぷを手にした乗客で賑わっていることと思います。

平成30年3月18日 中国新聞朝刊

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 市電が走った街 京都を歩く トロバス編③

前記のように、最終日に近い土曜日、DRFCの面々とトロバスの撮影会に行っていますが、その時は、梅津車庫も訪問して撮影しています。梅津車庫は、トロバスの専用車庫として、昭和33年に開設されました。その後、昭和42年に、四条御前にあった市バス四条車庫が、梅津車庫に統合されて、市バス車両も配置されるようになりました。トロバス廃止後は市バス専用車庫となりますが、隣接する京都外国大学に用地を提供し、大学の校舎の下に車庫機能を置く、珍しい構造の車庫となりました。1990年にバス停留所名も、「梅津車庫前」から、「京都外大前」に改称されています。さらに2003年には五条車庫の廃止に伴い、車両が転属し、京都市バスを代表する車庫となっています。

梅津車庫の出庫線にズラリと並んだトロバス、前2両は200形で、そのあとに300形が続く。トロバスも市電の仲間だから、当時、朝7~9時に実施していた急行運転も行っていた。「急」マークは車庫で借りて取り付けた。

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 市電が走った街 京都を歩く トロバス編②

トロバスは、京都、名古屋のほか、戦後には川崎市、東京都、大阪市、横浜市と続いて開業し、都市部にトロバスブームが到来します。背景には、石油事情が好転しない問題もあり、路面電車より建設費が安いという事情もありました。しかし、自動車の増加し道路が渋滞し、さらに地下鉄の建設計画などが持ち上がり、昭和30年代後半になると、早くもトロバスの行く末は頭打ちになってきました。
トロバス梅津線の沿線には、戦後、軍需産業から転換した工場などがあり、当時の京都随一の工場地帯を形成し、朝夕の時間帯は、通勤客がトロバスに集中しました。とくに梅津車庫から松尾橋にかけては、まだ一般の路線バスも少なく、トロバスが独占状態でした。ところが、昭和37年、阪急の河原町延伸で、交通事情が変わります。中間駅となった四条大宮は、交通結節点としての地位が低下し、さらに、この頃になると、松尾橋から、四条河原町や京都駅前へ直通する市バス系統が新設・延長され、四条大宮までしか行かないトロバスは分が悪くなる一方でした。
トロバス最終日も間近の土曜日、DRFCのボックスに集まった面々は、最後のトロバスを写すため、西大路四条から梅津車庫、松尾橋へ向かった。

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 市電が走った街 京都を歩く  トロバス編①

最近のデジ青記事を見て思うことが、皆さんの“地元愛”の気持ちです。米手さんの“散歩シリーズ”では、お知り合いの貴重な写真を惜しげもなく公開され、西村さんからは広島地方の鉄道ニュースを丹念に報告していただいています。西村さんは市民学芸員活動として、三原市の近代化遺産もまとめられ、PDF版を私も閲覧させてもらいました。皆さん、鉄道趣味活動を通じて、調査・研究を続けられ、地域に貢献される姿勢に敬服する次第です。ひるがえって、私にとっての“地元愛”とは? と考えると、やはり京都市電に行き着きます。過去には、乙訓老人さんらと一緒に本を出版したり、写真展を開いたりして、地域に一定の恩返しをしたつもりですが、ことデジ青については、京都市電のことを封印していました。別に理由はないのですが、京都市電が全廃されて、ちょうど40年になる今年、そろそろ封を解いて、デジ青に地域デビューを果たしたいと思っています。京都のトロバスは四条大宮~松尾橋を走り、49年前の昭和44年9月限りで廃止された。装飾をされた車両が走り、市民に別れを告げた。
我々世代が知りうる京都市電の廃止第一号となると、昭和36年の北野線です。私の鉄道撮影の第一号にも当たりますが、さすがに小学校6年生では、デジ青を飾るような写真は撮っていません。そのつぎの廃止となると昭和43年9月廃止のトロリーバス(梅津線)です。鉄道の一員であり、都市を走ったトロバスとしては、最古の開業です。時あたかも、関電トンネルトロリーバス(扇沢~黒部湖)15両が充電式電気バスに置き換えられることになり、国内に残るトロバスは、立山黒部貫光の立山トンネルのトロバスのみになります。まずは、そのトロバスを手始めとして、当時の写真と、現在の対比をして、“地元愛”の発露としたいと思います。

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散歩道で見つけましたー番外編ー

これは藤田さんの話ではありません。
暖かくなった日曜日、近々遊びに来るという酒好きな会員氏のために、16時から開いている酒場を探して徘徊、いや、散歩をしていました。そうしたら新設工事中の梅小路駅前の京果会館前に看板が出ていました。『酒屋の角打ち』『薩摩の焼酎勢揃い』確認のため二階へ上がってみましたら、立ち飲みで肴は薩摩揚げやおでんです。これで良し!と踵を返したとたん、目の前にまた看板。『物作り大好き!貸しアトリエ・工作室』
覗いていると愛想のいいお兄さんがドアを開けて入れてくれました。
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三江線だより(6)

まずは秘境駅から。

平成30年3月14日 中国新聞朝刊

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海外写真展開催のご案内

私事で恐縮ですが明日3月14日(水)~3月23日(金)に鉄道写真家小竹直人先生と一緒に海外へ行っております仲間たちとの写真展を大阪天満橋OMMのリコーイメージングスクエア大阪にて開催させていただきます。
お時間ありましたら、お立ち寄りください。よろしくお願い申し上げます。
私も期間中の3月14日から3月23日(夕刻まで)は現場に入っております。
尚、20日(火)は会場定休となっておりますのでご注意ください。

 「東北展」 今年も開催 !

佐竹保雄さんが、3・11前後に毎年開催されている「鉄道写真展-東北を旅して」が、ことしも本日11日(日)から開催されています。
 「鉄道写真展-東北を旅して」その10
 3月11日(日)~16日(金)10:00~17:00(16日は16:00まで)
 ひとまち交流館京都1階 作品展示コーナー 京都市下京区河原町五条下る
東北地方の復興を願って、多い時には年二回開催されてきた展示ですが、所期の成果を収めたこともあって、今回の展示で一応のピリオドを打つことになりました。ファイナル総集編と銘打った今回の展示は、とくに佐竹さんが愛した東北の鉄道の総集編として展開しています。
クローバー会会員らが待ち受ける京都駅一番ホームに入線する、佐竹さんの「トレランス」1号。はて?右端のお方は? 昨年には三陸鉄道南リアス線で「トレランス」8号が運転され、クローバー会会員3人も参加し、佐竹さん始め多くの参加者と交歓したが、その基盤となったのが、1989年から運転を始めた京都発京都行きの「トレランス」1~8号だ。今回、最終回に当たり、「トレランス全記録」として、過去の「トレランス」の走行シーンを収めた写真展示も行っている。

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三江線だより(5)

3月も1/3が過ぎて あと3週間となった三江線ですが、沿線ではいろいろな惜別の動きがあるようです。中国新聞の記事から3件ご紹介します。

平成30年3月8日 中国新聞朝刊

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