広島から小ネタ2題

明日は三江線だよりのボリュームが増えそうなので、今日は小ネタ2題だけです。

平成30年3月31日 中国新聞朝刊

工事が進められていた広電本社前の電停更新が完成したようです。車道が広いわりに比較的クルマの通行量が少ないという好立地のため このようなぜいたくな電停が作れるのだろうとは思いますが、サービス向上や改善意欲旺盛な広電さんに拍手を送りたいと思います。新聞報道を待っていたのですがなかなか登場しないものに、広電の保育園があります。若い女性乗務員も多いため本社近くに広電社員用の保育園が完成し すでに開園しています。確か650型の電車の先頭部をモディファイしたような外観だったと思いますが、上記電停とともに近いうちに取材に出かけようと思っています。

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三江線だより(15)

明日はどんな報道が流れるのかわかりませんが、いよいよラストランが近づいてきました。

平成30年3月30日 中国新聞朝刊

同紙

今日はこれだけです。

 

三江線だより(14)

いよいよあと2日となりました。最終日の沿線各地での記念イベントの紹介記事です。

平成30年3月28日 中国新聞朝刊

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 “平成”の思い出 鉄道の記憶 〈5〉

平成に入ってから撮ったネガを眺めていると、撮影の記憶が全くないものも出てきます。以下の写真もその例で、この一枚しか撮っておらず、撮影日も、その前後の行動も不明です。平成も30年経てば、加齢もあって、記憶はますます薄れていきます。この点は、昭和の時代と変わらないと改めて思った次第ですが、何気に撮った一枚だけの写真でも、写真を仔細に観察すると、平成の歴史を感じ取ることができます。
平成に入ってすぐ、3月11日に実施されたJRダイヤ改正で、片町線の長尾~木津の電化が完成した。これにより片町線は全線電化となり、103系が全区間で走ることになった。写真は、木津駅1番ホームで写した快速の片町行き、木津発の「快速」は昼間40分ヘッド、同志社前発の快速と合わせて、快速は20分ヘッドでの運転だった。東西線の開業以前、学研都市線こと片町線が、めざましい躍進をする前で、線内完結していた時代である。木津駅も、蒸機時代のままの構内を残していた。撮影日も不明だが、調べると初日の3月11日は土曜日で、初日狙いで行ったのかもしれない。カメラを持った人間、腕章を巻いた指導乗務員も、いかにも初日のようにも見える

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 “平成”の思い出 鉄道の記憶 〈4〉

信楽高原鐵道に初乗車

平成に変わって初めての春に、信楽高原鐵道に乗車しました。昭和62年7月に、国鉄信楽線から第三セクターに転換され、1年半経ってからの初乗車です。信楽線は貴生川~信楽の14.7kmで、鉄道敷設法76条に「貴生川ヨリ加茂ニ至ル鉄道」として挙げられた区間の一部として、昭和8年に開通しました。戦時中は、不要不急の路線に指定され営業休止、戦後に運転を再開しました。国鉄再建法では、第一次廃止対象線区に指定され、昭和62年7月13日、第三セクターとして転換開業しました。

貴生川駅に到着した203号、開業時に201~203が登場した。当時、貴生川ではJR線とつながっており、ホーム番線もJRに準じた0番ホームになっている。(以下撮影、平成元年4月7日)。

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今も続く倉吉とクローバー会のご縁

ぶんしゅう氏の写真提供がきっかけとなって、倉吉観光マイス協会との交流が始まり、倉吉線鉄道記念館にクローバー会会員から寄せられた多くの写真が展示されるに至った経緯については、2016年10月の【76334】「陰陽横断3日旅(後編 倉吉線跡探訪)」で詳しく紹介させて頂きました。ぶんしゅう氏と私が倉吉を訪ねたのが、2016年10月11日、そしてその10日後の10月21日に倉吉市を震源とするM6.6の鳥取県中部地震が発生し、観光に力を入れておられる倉吉が大きな被害を受けたことにショックを受けました。あれから約1年半が経過した先日、倉吉観光マイス協会の塩川修氏からご丁寧な手紙と共に、完成したばかりの倉吉線ガイドマップ「旧国鉄倉吉線廃線跡探訪地図」が送られて来ました。A3版厚紙3ツ折り両面刷りの立派なマップです。鉄道記念館用にご提供した写真の中から何枚かをこのマップにも使って頂き、画像提供者として同志社大学鉄道同好会OB様と記載して頂いていますので、マップ全体を分割してご紹介します。

おもて1/3

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三江線だより(13)

24,25日は最後の土日ということで多くの人でにぎわったようです。クローバー会の戦闘的会員も何人かは現地に向かわれていることでしょう。今週いっぱいは好天が続くようです。現地レポートを期待しましょう。

平成30年3月27日 中国新聞朝刊

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 “平成”の思い出 鉄道の記憶 〈3〉

宮原の公開イベント

国鉄からJRになったのが昭和62(1987)年ですから、平成に入って、まだJRは2年目でした。私は、「ジェイアール」の横文字が気恥ずかしくて声に出せず、もと国鉄をなんと呼んでいいものやら悩んだ時代でもありました。この頃、JRではさまざまな誘客策が展開されていましたが、機関区など現業部門の公開イベントもその一つでした。国鉄時代からも公開イベントはあリましたが、およそサービスなどとは無縁の現業部門の人たちが、必死になって来場客と接している姿を見て、JRの変身ぶりを感じたものでした。
宮原操車場の公開へ初めて行った。新幹線から全体は見えるものの、“宮原”という駅もなく、どう行っていいのかも分からなかったが、阪急十三駅から歩いて行くと正門があった。車種は現在と特に変わったものではないが、パンタはきっちり上げて、ヘッドマークも寄せ集め的ながらも装備して、今より価値があるように思えた(以下撮影日、平成元年4月30日)。

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 “平成”の思い出 鉄道の記憶 〈2〉

旧線時代の馬堀駅付近

山陰本線京都口は、昭和46年に蒸機が消えて無煙化されました。その後、車両は、客車は50系、12系化、DCは40系の新系列に置き替えられたものの、国鉄末期の窮乏状況では、単線非電化から抜け出せないまま、昭和から平成を迎えました。京都~園部では、客車列車なら1時間20分程度を要し、蒸機時代とほとんど変わりませんでした。ネックになっていたのは、やはり蛇行する保津川の渓谷を行く狭隘区間で、改良計画では、この区間を6つのトンネル、5つの鉄橋で一気に突き抜けるものでした。これにより、距離は1.6キロ短縮され、保津峡、馬堀の駅は新駅に移転するものでした。

朝の馬堀駅で交換する列車、どちらも28・58系だが、左は131D園部行き、右は136D福知山発の普通列車で、いずれも急行列車の間合い利用のようだ(以下撮影、すべて平成元年3月4日)。

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三江線だより(11)

花の便りがあちこちから届く今日この頃ですが、三江線は余命1週間となりました。しばらく好天が続く予想ですから、沿線は一層賑わうことでしょう。今回は長船友則氏も登場です。

平成30年3月24日 中国新聞朝刊

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 “平成”の思い出 鉄道の記憶 〈1〉

2018年も3ヵ月近くが経ちました。よく考えたら、来年5月から新しい元号が施行され、「平成」という時代も、あと一年余りなんですね。我々の世代が、本欄で思い出を綴っている「昭和」も、来年になると、二世代前の出来事になってしまいます。昭和の時代、鉄道趣味の面では確かに面白い時代だったことに違いはありません。しかし、昭和の賛美だけに終始していると、来年、新しい元号になると、平成は“失われた時代”になりかねません。
いまの現役会員や20歳代は、すべて平成生まれです。昭和は生まれる前の時代であり、昭和40年代に20歳代だった我々の時代に置き換えると、デジ青で戦前の話を聞いているのと同じで、これでは20歳代にはなかなか理解できないでしょう。別に若い世代に迎合するつもりはないのですが、若い世代から共感が得られる記事も必要だと思いました。
平成の時代も、細く長く鉄道を撮り続けてきた積もりですが、それらの整理、見直しは、ほとんどできていません。平成が終わろうとする今こそ、写真・データの整理を始めなければと思った次第です。これからは、“昭和”も記録しつつ、“平成”も平行しながら、鉄道写真のアーカイブス化を進めて行きたいと願っています。そこで、昭和から平成へと移った直後の記録を順に綴っていこうと思います。
平成に入ってからも、私の撮影はモノクロが中心だった。ただ、カラーも平行しながら撮っていて、最初はカラーネガが中心だったが、徐々にカラーポジでも撮るようになった。カメラは、平成に入ってEOS-10、EOS-55、EOS-1Nと買い換えてきた。前の2機は手許にないが、中古で買った1Nだけは記念に置いてある。価格はボデーだけで12万円ほどと、当時の中古カメラは高価だった。電池がなく今は作動しないが、“カシャ”と言う鋭いシャッター音が忘れられず、時々、空シャッターを切って懐かしんでいた。フィルムカメラを止めて、デジカメに転向するのは、もっと先のことだ。

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三江線だより(10)

三江線の歴史は水害との闘いの歴史とも言われますが、今回はそんな話題です。

平成30年3月23日 中国新聞朝刊

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 市電が走った街 京都を歩く トロバス編⑤

その後のトロバス

トロバスの営業は、昭和44年9月限りで終わり、翌日から、トロバスと同じ区間を走る、代替バスの77号系統が新設されて走り始めました。トロバスの活躍は、もう見られないかと思われましたが、そのあと、保管されていた車両1両が意外な使われ方をして、再デビューを果たします。それは、京都市が開発・研究を進めていた電気バスに改造されたことで、「みどり号」の愛称で、京都の中心部を走ることになり、3年ぶりに、京都に電気で走るバスが走ることになりました。
下鴨神社前付近の河原町通を走る、もとトロバスの電気バス「みどり号」、カラーは市バスと同じながら、ボディはトロバスそのもの。300形318号を改造して生まれた。

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 市電が走った街 京都を歩く トロバス編④

新聞記事に見るトロバス

トロバス編の続き、今回は当時の新聞に載ったトロバスの記事を採り上げました。私は、小学生の時から鉄道関係の新聞の切り抜きを続けてきました。さすがに今では、ほとんどしませんが、書籍・雑誌の情報も乏しかった時代のこと、日々の新聞に載る鉄道記事は貴重な情報源でした。なかでも京都市電に関しては、廃止や事故と言った、地元の社会的なニュースとして取り上げられることが多くありました。それらを切り抜いて、一枚ずつB5の藁半紙の台紙に貼り付け、年月別に綴じてファイル化し、京都市電に関する、自分だけのデータベースが出来上がりました。
最初にトロバス廃止のタイトルが紙面に見えたのは、廃止の2年前、昭和42年9月23日のこと、前日に、京都市の交通財政再建計画が発表され、それを受けての報道だった。読み進めると、車両数が26両とあり、戦後製造の100形6両がまだ走っていた時代だった。

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三江線だより(9)

平成30年3月21日 中国新聞朝刊

写真から除雪機関車は三次区のハチロクだったことがわかります。

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三江線だより(7)

昨日17日からは直通列車が2本増便され、あと2週間となった三江線は18きっぷを手にした乗客で賑わっていることと思います。

平成30年3月18日 中国新聞朝刊

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 市電が走った街 京都を歩く トロバス編③

前記のように、最終日に近い土曜日、DRFCの面々とトロバスの撮影会に行っていますが、その時は、梅津車庫も訪問して撮影しています。梅津車庫は、トロバスの専用車庫として、昭和33年に開設されました。その後、昭和42年に、四条御前にあった市バス四条車庫が、梅津車庫に統合されて、市バス車両も配置されるようになりました。トロバス廃止後は市バス専用車庫となりますが、隣接する京都外国大学に用地を提供し、大学の校舎の下に車庫機能を置く、珍しい構造の車庫となりました。1990年にバス停留所名も、「梅津車庫前」から、「京都外大前」に改称されています。さらに2003年には五条車庫の廃止に伴い、車両が転属し、京都市バスを代表する車庫となっています。

梅津車庫の出庫線にズラリと並んだトロバス、前2両は200形で、そのあとに300形が続く。トロバスも市電の仲間だから、当時、朝7~9時に実施していた急行運転も行っていた。「急」マークは車庫で借りて取り付けた。

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 市電が走った街 京都を歩く トロバス編②

トロバスは、京都、名古屋のほか、戦後には川崎市、東京都、大阪市、横浜市と続いて開業し、都市部にトロバスブームが到来します。背景には、石油事情が好転しない問題もあり、路面電車より建設費が安いという事情もありました。しかし、自動車の増加し道路が渋滞し、さらに地下鉄の建設計画などが持ち上がり、昭和30年代後半になると、早くもトロバスの行く末は頭打ちになってきました。
トロバス梅津線の沿線には、戦後、軍需産業から転換した工場などがあり、当時の京都随一の工場地帯を形成し、朝夕の時間帯は、通勤客がトロバスに集中しました。とくに梅津車庫から松尾橋にかけては、まだ一般の路線バスも少なく、トロバスが独占状態でした。ところが、昭和37年、阪急の河原町延伸で、交通事情が変わります。中間駅となった四条大宮は、交通結節点としての地位が低下し、さらに、この頃になると、松尾橋から、四条河原町や京都駅前へ直通する市バス系統が新設・延長され、四条大宮までしか行かないトロバスは分が悪くなる一方でした。
トロバス最終日も間近の土曜日、DRFCのボックスに集まった面々は、最後のトロバスを写すため、西大路四条から梅津車庫、松尾橋へ向かった。

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