岡山県下の鉄道遺産については小西伸彦氏著「鉄道遺産を歩く 岡山の国有鉄道」という名著があり、山陽本線をはじめ津山線、宇野線、吉備線などのトンネル、橋梁、駅などの詳細な調査結果が解説されています。レンガに関しても詳しい説明があって、多くのヒントを得ています。まず松濱臨港線で発見して驚いた弧状レンガのことですが、時代の最先端であった鉄道建設には、意欲に満ちた技術者が橋台のような目立たない部分の外観や意匠にも意を払い デザイン重視で弧状レンガを使ったそうです。弧状レンガは通常レンガと違って特注品であり、当然高価なレンガでした。しかし時代が進み、路線の延伸が進むにつれて意匠よりコストが優先されて弧状レンガは使われなくなり、やがてレンガから石材に移行し 次に石材からコンクリートへと進化してゆきます。そんな技術的な流れから考えて 松濱臨港線で最も古い橋台をA1の弧状レンガだと推定しました。しかし弧状レンガが使われたのはA1の1ヶ所だけです。そこで明治30年測図の地図と考えあわせて導いたのが次の図です。
「研究論文」カテゴリーアーカイブ
糸崎に山陽鉄道の痕跡を探して(1)
山陽鉄道が神戸から西進し、糸崎まで開通したのが1892年(明治25年)7月20日でした。もう124年も前のことになります。糸崎から広島へ伸びたのが2年後の明治27年6月10日ですから、糸崎は短期間ながら山陽鉄道の終着駅だったわけです。なぜ急にこんな古い話を取り上げるかと言いますと、私は三原市の市民学芸員活動もしていまして、三原市の近代化遺産なるものを調査していて 山陽鉄道のことを調べることになったわけです。手元に大日本帝國陸地測量部 明治30年測図の1/20000「松濱」という地図があります。山陽鉄道開業から5年後のものです。「糸」の字も「絲」が使われています。当時は貢郡東野村で瀬戸内海を往き来する船が立ち寄る松濱港を中心とした港町でした。
読者の方々へ(3)、山陽電鉄820型
今回の山陽電鉄紹介は、820、850型です。
大戦後日本の多くの両鉄道同様、山陽電鉄でも稼動車が限られ、日々の運行さえままならぬ状況が続きました。これを補い、その後の山陽電鉄を文字通り軌道に乗せ始めたのは、広軌モハ63型20両(山陽では800型、後の700型)と、そして今回紹介の820型18両です。
大型過ぎて中小私鉄で少し持て余し気味の63型に比べ、もう少し小型で使いやすい標準車体をとの意向で生まれたのがこの820型です。車体長17m、転換クロスシート、2両固定編成のロマンスカーによる特急運転として、1949(昭和24)年に登場しました。クリームイエローとネイビーブルーのツートンカラーでした。
1951(昭和26)年頃、東須磨小学校の教室から見える車輌は、前回までに紹介した100・1000型と200型の茶褐色一色の車輌に交じって、この820型でした。近づいてくる様子はそれほどのスピードでもなく、線路事情が良くないのか、車体を左右に振りながら、大きな音と共に通過して行きました。
▼長田、神戸市電との平面交差点を通過する下り各停 822+823 1963.1.3 C0216
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ダイヤモンド富士
世界遺産に登録された影響か最近の富士山は人気があるようで富士急の株も急上昇した。ところで富士山の頂上に太陽が沈むところを写真に撮るのが流行っているようでダイヤモンド富士というらしい。私もその真似事を自宅近くの京王相模原線南大沢~京王堀之内間で試みた。もともとカメラの知識に乏しく腕も悪いので失敗となったがその時の結果を御笑覧下され。
備後備中に消えた鉄道を訪ねて その3 ~もう少し井笠 野上式弾機装置でお付き合いを~
2カ月余りのご無沙汰です。前回の投稿が昨年の12月12日であるから間もなく2カ月になる。いよいよ笠岡から鞆鉄道の資料があるかもしれない田尻民俗資料館へと話は進むはずであったが、もう少しだけ井笠でお付き合いを
湯口先輩のコメントで、ホハ1の台車に野上式弾機装置(弾機とはバネのこと)が組み込まれたものとわかった。この野上式弾機台車については「鉄道史料109号、121号」に湯口先輩が詳しく書かれている。これについては私も興味があるので、どんなものか少し考えてみたい。
“八重の桜”ゆかりの地を訪ねる 〈4〉
山本覚馬邸
少し時代を遡るが、大河ドラマでも重要な舞台となっていた山本覚馬の邸宅について、市電がらみで探見してみたい。
覚馬は、言うまでもなく、同志社の創立時、襄の最大の協力者であり、同志社の名も彼の命名とされている(ただこれは、確かな史実はなく、伝聞に過ぎないようだ)。
明治3年、覚馬は京都府顧問となる。翌、明治4年、八重は京都へ来て、兄である覚馬の家に身を寄せる。京都府大参事であった槇村正直(のちの京都府知事)の邸宅近くに、覚馬は居を構えていた。
八重は、覚馬の家で暮らし、新島襄と結婚後も、寺町丸太町上ルの新居ができるまでは居候していた。ドラマでは、史実かどうか疑わしいが、覚馬の家に西郷隆盛も来訪している。
さて覚馬の邸宅だが、現在の河原町御池付近にあったと言われている。現在、東北角には京都ホテルオークラがあり、幕末にはここに長州藩の屋敷があった。当時の御池通の細い道を挟んで、南側には、加賀藩の前田屋敷があった。明治維新後は上地され官用地になっていた。京都府の重職に就こうとしていた覚馬に、府知事が与えた居宅と想像できる。
大河ドラマの後の“歴史紀行”でも、河原町御池付近にあったと紹介されていた。ただ、現在の河原町御池は、広い交差点であり、その場所を特定することは難しい。
河原町通は明治末期の市電敷設時、御池通は戦争中の強制疎開で、それぞれ拡幅されており、その前は、ごく狭い道幅だった。資料を調べると、河原町通は、通りの西側、御池通は、通りの南側を拡幅していることが分かった。そこからすると、現在の河原町御池交差点の南西角付近と類推される。
▲山本覚馬の居宅があった河原町御池を行く河原町線の市電。覚馬の居宅は画面右、交通指令塔の当たりになる。河原町線は昭和52年廃止、36年も前のことになる。
“八重の桜”ゆかりの地を訪ねる 〈3〉
新島旧邸とその周辺
前回紹介の鴨沂高校から、寺町通を200メートルほど南へ行くと新島旧邸がある。現在の建物は、新島襄と八重が住んだ私邸であるが、同時に同志社創設の地でもある。
明治8年11月29日、「同志社英学校」の標札を掲げ、開校の祈祷が、新島と8名の生徒によって行われた。校舎は、華族である高松保美の自邸の半分を借り受けた。もともと、ここには、御所の消防を担当した淀藩の中井主水という人物の屋敷があり、そのため火の見櫓があったと言う。その後、高松保美が住むが、遷都で東京へ移り、屋敷には誰も住んでいなかった。大河ドラマでは、蜘蛛の巣の張った荒れ放題の屋敷を新島襄が下見する場面も描かれていた。屋敷は903坪もあり、現在で言うと、隣の同志社新島会館、さらにその南隣の洛陽教会も含む区域で、のちに全域が同志社の所有となった。
しかし、翌明治9年9月に、校舎は、現在の今出川キャンパスのある薩摩藩屋敷跡へ移転してしまう。したがって、この地で、授業が行われたのは、わずか10ヵ月に過ぎない。明治11年に、コロニアルスタイルの擬洋風建築の現在の建物ができ、襄と八重の住む私邸となった。
明治22年に新島襄は永眠するが、八重は、昭和6年に永眠するまで、一人で住んでいた。大河ドラマの主人公が、私の実家から、数百メートル先で、昭和の時代まで生き続けていたとは、不思議な思いにとらわれる。
さて京都市電との関わり、と言うことで、いろいろ資料を漁っていると、またまた、自分にとっては、初めての写真を見つけた。
「京都市町名変遷史」第一巻に載っていた写真で、出典は不明である。電車の背後の森が、現在の新島旧邸、中央は、同じ敷地にあった洛陽協会である。電車は、前回にも記した京都電鉄出町線であり、撮影時期は、明治34年の開業から、大正13年の廃止までとなる。
が、写真をよく見ると、複線になっている。私は、出町線は単線とばかり思っていただけに、全く意外であった。 乙訓老人にも聞いてみたが、寺町通の拡幅と同時期ではないかとの示唆をいただいた。前述の撮影期間のなかで、大正に入ってからの撮影と思われる。なお、手前の洛陽教会は、同志社の敷地だったが、襄の死後に土地が売却され、明治26年に写真の教会が建てられた。
“八重の桜”ゆかりの地を訪ねる 〈2〉
その後の女紅場
女性への教育・教養の場として、明治5年、京都・河原町丸太町東入るに設けられ女紅場で、八重は女子教育に携わるが、キリスト教徒の新島襄と婚約したことにより、明治8年に女紅場を解雇されてしまう(次回の大河でこのシーンが紹介されるようだ)。
女紅場は何回かの改称ののち、明治28年に、京都府立第一高等女学校となり、明治33年には、寺町通荒神口下ルの新学舎に移転する。新島旧邸からは200メートルほど北になる。学舎は新築されたが、門は女紅場のから移築された。戦後の学制改革により、昭和23年には京都府立鴨沂高校となる。
▲現在の鴨沂高校。九条家屋敷の門が、女紅場でも使われ、現在も同高校の正門として寺町通に面して建つ。門は、三代に渡る百数十年の歴史がある。背後は、最近、取り壊しで話題になっている、昭和初期建築の校舎。和風の千鳥破風の屋根が特徴。
京都市電とのこじつけ、となると、鴨沂高校の前の寺町通には、京都電気鉄道の出町線が走っていた。寺町丸太町~出町間が、明治34年に開業するが、平行して市営河原町線が敷設されることになり、大正13年に廃止される。
営業期間が、23年間だっただけに、残された写真は少ない。知られているのは寺町今出川下ルで撮影と言われている、右書きで「でまちばしゆき」と行き先が掲げられた写真、それに、京極小学校の門前を行く写真、これぐらいしかなかったと思っていた。ところが、ネットで検索していると、上京区役所のホームページで右のような写真を見つけた。たいへん粗い画像で、出典も不明だが、「寺町通荒神口付近を行く電車」とあり、左側の土手は、ちょうど現在の鴨沂高校前付近と同じだ。
“八重の桜”ゆかりの地を訪ねる 〈1〉
準特急さんからバトンを受けて、“八重の桜”京都編に入ります。大河ドラマ“八重の桜”も京都編が始まり、同志社人として、京都人として、目が離せません。
いまも関連する史跡が残っているのが、京都らしいところです。と言っても、単なる史跡訪問では、デジ青のテーマから外れてしまいます。
そこで、関連史跡が、かつての京都市電沿いにあることに着目し、無理やり京都市電とこじつけて、“八重の桜”ゆかりの史跡めぐりとしました。
女紅場跡
準特急さんも書かれているが、八重が京都で初めて仕事をしたのが「女紅場」だ。
その跡地は、現住所で言うと、京都市上京区河原町丸太町東入る駒之町にあり、この駒之町は、まさに私の生まれ育った町であり、小さい時から、それを示した石碑は日常風景の中にあった。
会津戦争を生き抜いた山本八重は、明治4年、兄・山本覚馬を頼って京都へ来て、女紅場で教官として働き始める。
女紅場とは、女子に英語や手芸を教える場であり、日本最初の高等女学校である。現在の鴨川に架かる丸太町橋の西畔に「女紅場址 本邦高等女学校之濫觴」の石碑が建っている。
もともと、この付近、御所に近いところから、幕末には、鴨川に沿って、九条、鷹司、近衛、有栖川と、公家の屋敷が連なっていた。女紅場は、東京遷都で空き家になった九条家の屋敷を利用して開設され、女紅場の門も、九条家の門がそのまま流用されたと言う。
▲丸太町橋のたもとに建つ「女紅場址」碑
▲女紅場跡の前を行く京都市電丸太町線、電車の右の架線柱の下に石碑があ。背後の建物は、もとの京都上電話局で、大正13年の建築。登録有形文化財に指定されている。電話事業を昭和30年代に終えてからは、通信技術資料館、電々公社の厚生施設となり、NTTになってからは、シーフードレストラン、スポーツクラブとなり、現在は地場のスーパーマーケットとなっている。時折、“文化財のスーパーマーケット”として、テレビでも紹介されている。
信貴電の不思議 村田式台車を考察する。 その2
いよいよ問題のボギー台車の考察をしようと思う。このボギー台車は単台車と違って写真が残っている。しかし、この写真は信貴電のデハ100形のものでなく池上電気鉄道(以下池上電鉄と略称)のデハ3,4のものである。池上電鉄は現在の東急池上線で大正11年10月6日に鎌田・池上間が開通した。信貴電の開業が同じく大正11年であるが5月16日より営業開始をしているので、池上電鉄の方が信貴電より5ヶ月ほど後で開業している。池上電鉄も開業にあたり日本電機車輌に4両発注していたが開業までに完成しなかったようだ。ところが信貴電では池上電鉄が開業に間に合わなかった村田式台車をはいた同じタイプの電車が走っていたことになる。この池上電鉄の電車はしばらくして完成して納車された。この4両のうち2両は問題の村田式台車で、残りの2両はブリル27GE1であった。村田式台車はこのブリル27GE1を改造したものと言われている。この村田式台車をはいた池上電鉄の電車と台車の写真は村田式台車を考察するのにたいへん重要な資料となった。
ボギーになった村田式台車は
はじめて見た村田式台車の写真の印象は“なんとキャシャな台車やな~!”というものであった。走っているうちにバラバラになるのではないかと思ったぐらいである。その村田式台車の姿を図1に示す。
図1.村田式台車
図1は奈良県公文書の図面から主要部を中心に作成したものである。当時(大正時代)としては珍しい全てコイルバネを使用している。外観からの印象では戦後の高性能台車のようであるが実際はどのような台車であったのか。そして特許車台動揺防止装置は?公文書の図面と池上電鉄の台車の写真から村田式台車を考察してみようと思う。
信貴電の不思議 村田式台車を考察する。 その1
近鉄生駒線の大和川橋梁の橋脚が複線用となっていることから始まった「信貴電の不思議」はさらに芋ずるのごとく次から次へと「信貴電の不思議」が出現した。天理参考館で買った絵葉書にあったデハ51形の仲間が池上電気鉄道や目黒蒲田電鉄、そして水間鉄道などにも同型車があったこと、そして遠く新潟県の蒲原鉄道にもあったことがわかった。そして、デハ51形が走り出す前の開業時に走っていたデハ100形は日本電機車輌株式会社という謎めいた会社に発注されたが当時の経済環境から自社製造となった電車である。このデハ100形と日本電機車輌株式会社については調べれば調べるほどナゾの深みにはまっていった。そして、このデハ100形については当時としては画期的と思われる村田式台車と言われる台車をはいていたという。とりあえずはこの村田式台車について数少ない資料から考察してみようと思う。
考察するにあたって、私の手元に村田式台車に関する資料として以下のものが手に入れることが出来た。ほとんどが図書館などの複写資料であるが鉄道史料第130号については書店で購入した。
1.特許第29813号 明細書 車台動揺防止装置
2.奈良県公文書 大正10年信貴・生駒電気鉄道 土木課
3.鉄道史料第98号 大正期・大軌関連資料を探る(3)
信貴生駒電鉄創業期の車両について 今井健夫
4.鉄道ピクトリアルNo.727
信貴生駒電鉄開業時の車輌101形を探る 吉川文夫
5.鉄道史料第130号 目蒲・東横 戦前期の車両 高山禮蔵
6、DRFC OB会の長老様より送っていただいた写真と図面のコピー
最近は公立図書館などがネット上でデジタル化された文献などが閲覧や文献の検索ができるので便利である。各図書館で必要とする文献が蔵書されているか調べて、蔵書があればその図書館に行けば目的の文献が閲覧できるのでたいへんに助かる。便利になったものである。上記の1番目の特許明細書と2番目の公文書にあった図面を主にし、その他を参考文献として考察をおこなった。
長春(新京)の路面電車 Part1 連節車
日本占領下時代に建国された満州国の首都新京(現;長春)に走る路面電車は、1941年開業以来71年を迎えています。
▲ 現在の長春地図に満州国時代の路面電車路線図を重ねてみました。
■線は1941年11月1日、■線は1942年9月12日、■線は1942年2月1日、■線は1941~1942年、■と■は1942年以降、■は1942年12月29日の開業路線です。現在運行しています54路は、1945年日本敗戦以降に開業した路線と思われます。
これまで4度の訪問をいたしましたが、最近2012年5月15日の長春訪問記事に、走行する車両を連接車と書き、乙訓の老人様より 「おいおい違うよ、連節車だよ。」 と、ご指摘を受けました。
発音は同じです。 恥ずかしながら、「連接車、連節車、どう違うの?」 と、全く分かっていませんでした。調べて初めて連接台車を使用しているのが連接車、使用していないのが連節車と理解できました。長春の走っているのは連節車です。訂正させていただきます。
また、「どんな音を立てていました? ドイツ方式なら直角カルダンでしょうね。西安大路の市電、車体は現代風ですが、台車や駆動装置はどうでした? まだKR8とPV弁ですか。」とのお問い合わせもいただいておりますが、気にしていませんでしたので、同じく分かっていません。天津1・ 2・ 3・ 4や上海で走行している1本レールのトランスロールは、日本では営業走行がない路面電車ですので興味深く観察しましたが、こちらの方は、中国では大連、国内では広島や岡山で見ましたのと同じタイプの路面電車でしたので、さほどの探究心がわきませんでした。次回に訪れる時はもっと詳しく報告させていただきますのでお許しください。
※ 上記をクリックしていただきますと、過去の訪問記をご覧いただけます。
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国鉄八本松材修場について
この明治27年7月には日清戦争が始まり、9月には 東京から鉄道で直行できる西端であり、宇品港を擁する広島に大本営が置かれ、明治天皇も広島に移り住まわれるという年でした。明治28年には陸軍第五師団の原村演習場が賀茂郡原村に設けられて、八本松駅が最寄駅となり、この駅の重要性が増したのです。この原村演習場は現在も陸上自衛隊海田市駐屯地の演習場として使われています。その後この演習場の近くに陸軍兵器補給廠八本松分廠も設けられて、八本松駅から2.1Kmの専用線が敷かれました。ただこの専用線の開通年月日は調べきれていません。
さて八本松駅からもう1本の専用線がありました。昭和15年に海軍が設けた呉海軍軍需部川上弾薬庫専用線2.5Kmです。戦後昭和21年に米軍に接収され、昭和27年に正式に在日米軍の弾薬庫となり 極東最大の弾薬庫として今日に至っています。この弾薬庫線跡は山陽線の車窓からもよくわかり、紹介もされている(※)ので今回は割愛しますが、両専用線がはっきりと記載されている 国土地理院発行の1/25000地図(昭和27年7月印刷版)をご紹介します。
八本松駅から広島方向に時計回りに延びているのが川上弾薬庫線です。一方八本松駅から三原方向に南東に向かっているのが補給分廠線です。戦後川上弾薬庫が在日米軍の管理下になったのに対して、八本松補給分廠はその専用線、敷地、建物を利用して昭和23年2月に起工し 国鉄の八本松材修場となり昭和24年2月に開場しています。その後昭和28年4月まで設備の拡充が続き、一時は100人を超す人が働く工場になっていました。この材修場の主な仕事はロングレールの接合で、当時最先端であったフラッシュバット溶接を駆使してロングレールを製作し、広島、岡山、米子、門司、大分、熊本、四国、天王寺各鉄道管理局区内へ供給していたそうです。ただこの材修場はすでに廃止されています。いつ廃止されたのかなど詳しいことは調べきれていません。
私が三原に移り住んだのが昭和50年、ときどき広島に行くときにこの専用線の廃線跡があるのは見ていたのですが、何の廃線跡かはわからず仕舞いのまま月日が流れ、最近になって県立図書館や東広島図書館でようやく正体をつかんだ次第です。さて八本松駅でこの専用線があったことがわかる痕跡を見ることができます。もともと八本松駅の駅本屋は北側にあって 下りホームには跨線橋を渡る駅だったのですが、駅の北側と南側をつなぐ道路橋の建設に合わせて橋上駅化され、駅南側が正面のように変わってしまいました。この橋上駅に上がると 今も下りホーム側にかなり広いスペースがあるのがわかります。これが専用線の仕訳線跡です。丁度15年前の平成9年5月に撮影した写真と、先週撮影した写真を並べてみます。上2枚が下り広島方、下2枚が上り三原方で それぞれ上が15年前、下が今年です。
以前は3線がスルーしていましたが、今は駐車場になり、下り方に2線が保線用に残されています。上2枚の写真で自転車置き場になってしまっていますが、今も石積みの長いホームが残っていて、陸軍演習場に向かう兵士らが乗り降りしたのかと思われます。呉海軍軍人の回想録などでも呉から列車で八本松に向かい、原村演習場へ行ったという記述が見られます。それぞれの写真を見比べるとレールこそ無いものの、15年経っても殆ど景色が変わっていないのも不思議な気がします。
さてこの八本松材修場線跡をたどってみようとクルマを走らせましたが、それらしき痕跡、遺構は全く見つけられませんでした。専用線跡は殆どが宅地か道路になっており、また終端の材修場跡地はシャープの系列会社の工場や調整池などになっていました。新興住宅地でもあり、旧家も見当たらず 40年以上も前の様子を聞く雰囲気でもないため、取材はここまでとしました。 地図で専用線中ほどに線路が南側に少し凹んだ個所がありますが、そのあたりの写真だけを下に示します。材修場側から八本松駅側を見たところで ゆるくカーブした道路が線路跡と思われます。
昨今 廃線跡探訪はちょっとしたブームのようでもありますが、特に軍用線はその性格上写真なども少なく、謎が多いだけに気になる存在です。この材修場線については 「トワイライトゾーンマニュアル」No.8の昭和26年版専用線一覧表では 大蔵省(旧広島陸軍兵器補給廠)専用線との記載があり、一方の弾薬庫線は「トワイライトゾーンマニュアル」No.11の昭和28年版専用線一覧表で駐留軍八本松軍用側線と記載されています。
最後に私の中で未だに疑問として残っているのは、どんな車両が走ったのかということです。材修場線については 以前 三原から八本松駅に近づいてゆく車窓から 遠くの畑の中に架線柱と架線が見え隠れしたおぼろげな記憶があります。補給分廠のころはともかく 材修場時代にはロングレールを積んだチキを電気機関車が牽いていたとしてもおかしくはないように思えます。当時ならEF15あたりでしょうか? さて問題は弾薬庫線の方です。こちらは古い写真を見ても架線はなく、弾薬庫に蒸気機関車が入るはずもなく、そうするとディーゼル機関車しか考えられないのですが、昭和30年代の広島地区のDLと言えば 呉にいたDD11ぐらいしか思いつきません。どなたかの写真で呉線安浦駅で撮られたDD11の写真を見た記憶がありますから、同様に呉から八本松へ回送されて来ていたのかとも想像していますが、時系列的に検証できていません。どなたかこのあたりの事情をご存じありませんか。引き続き調べてみようと思っていますが、ご存じの方は是非ご教授を。
(※)弾薬庫線の探訪レポートはhttp://ameblo.jp/sukebe-ningen/entry-10496279719.htmlに詳しく述べられています。
“須磨の大老”の出番ですよー!
慶祝!須磨の人間国宝、島秀雄記念優秀著作賞受賞
この度、我らが大先輩であり鉄道趣味界の至宝である湯口徹先輩が上梓された「日本の蒸気動車」がめでたく鉄道友の会が選定する島秀雄記念優秀著作賞に輝いたとの速報を吉田さんよりお知らせをいただきましたのでここに記載して敬意を表したいと思います。たまたま昨日には交通科学館で写真展の打ち上げでご尊顔を拝したばかりでしたが普段より控えめで柔和なお人柄そのままにこの件について一言もなかったため、直接に御祝い申し上げることができなかったのが残念でした。おめでとうございます。
受賞作品は「日本の蒸気動車 上・下」ネコ・パブリッシング
受賞経緯など詳しくは下記のリンクをご参照下さい。
http://www.jrc.gr.jp/award/cyosaku/cy2009.htm#book2
ウワサでは近々小林宴会部長の音頭で祝賀会が開かれるとの由、その節はぜひともお知らせ下さい。
門鉄デフのD50
以前の澤村達也さんのコメントに「門鉄デフのD50のバラキットを持っているので、参考になる現物機を紹介してほしい」とのご要望があり、また紹介しますと約束してから、もうかなりの日数が経ってしまいました。やっと該当するネガを探し出すことができました。
門鉄デフはC55・C57に代表される旅客用蒸機がとくに有名ですが、D50・D60のような貨物用の太いボイラーを備えた蒸機に装備すると、まるでゼロワンを彷彿とさせるようなスタイルになり意外と似合うものです。私が蒸機を本格的に撮り出した昭和40年代の前半、D50の総数380両のうち、昭和42年度は63両、昭和43年度では21両と急速にその数を減じていきます。そのうち、撮影できた25両のなかで門鉄デフ装備は7両に過ぎません。うち1両を除いて、門鉄デフの本場、北九州に在籍していました。いずれも分類上、K-7形と称される小倉工場製の切り欠きデフですが、デフそのものの大きさは機によって少し違います。63,129、374は除煙板が比較的小さいタイプ、これに対して105は大きなタイプ、また62,90は除煙板の下辺が斜めになっています。
北九州以外のもう1両は、米原区のD50131でした。この機は長野工場製の切り欠きデフN-2形で、形はだいぶ違います。米原~田村間の交直接続に、他のD50とともに使用されていましたので、ご覧になった方も多いと思います。
模型化の参考になれば幸いです。
工房便り–EF55引退報道
橋本工房では昨年末にデナ21が完成間近となり、後回しになっていたDD16が完成に近づきました。しかし、なぜDD16を着工したのか工場長の私も良く分かりません。後回しになるのはどこか面倒な工作を残していたり、パーツの入荷待ちとか、単なる気まぐれのこともあるでしょう。そんな話は良くあることなので工場長としては全く気にしていませんが、入場中の車両が引退となると心穏やかでは居られませんね。
このEF55もあまり多く工作を残していないのにいつの間にか片隅に追いやられていました。懐かしい鉄道模型社製のバラキットで、流線型の前頭部と後部運転台の妻部分は銅の電鋳品です。前頭部はあまり出来の良い鋳物ではない上に両サイド、ボンネット、前面窓、屋根と、5つに分かれており、組み立てた後、曲げ済みの車体中央部に合わせるのに苦労しました。台車枠はエッチング抜きが不正確で使い物にならず、1mmの厚板から自作しました。動力装置は天賞堂製で、EF58の動力装置を取り替えたときに発生した旧品を流用しています。
何も未完成のままでご紹介する必要も何もないのですが工房便りが暫く途絶えていましたので、このような理屈をつけてご笑覧いただくことにしました。これも気まぐれと言うことでお許しの程を。下の写真は1972年頃しなのマイクロ社から発売のエッチング板キットを組み立てたものです。当時はこういった手がかかるけれど安価なキットが結構売られていて制作に熱中したものでした。2両分買った内、1両は作られずに永い間眠っていたもので、動力装置もそろっていたのが幸いしました。エンドウのDD13用を小改造しています。
古地図に見る京都駅
その結果、旧線はいまの塩小路通より家一軒分南側を東西に通っていたことが分かりました。
上の地図は明治22年の京都駅周辺です。鉄道記号はまだ白黒になっていませんが中央を横切っています。交差するように縦に流れているのは左が堀川で、見にくいですが西本願寺の南と九条で直角に折れ曲がっています。右に流れているのが西洞院川です。当時は西洞院に川が流れていて、北野線が西に偏って走っていたのもこのせいだと言われています。
次に明治17年の京都駅西方向の地図を掲載します。
この当時は市内と市外に別れて地図が作られていました。市外(郡部)の地図は比較的広域表示ですが市内は町別単位で重なるようには編集されていません。しかも手書きで縮尺もいい加減です。そのため突き合わせに苦労しました。
なお、地図は上が北で統一して表示します。
線路の北側を並行しているのが塩小路通、すこしぐいちになっているところがあわしま堂です。地図の右端に縦に見える青い線は堀川です。今の大宮通はこの地図の西方向ですが大宮通以西は京都府葛野郡で当時は郡部でした。
御方紺屋町はいまの堀川塩小路交差点付近にあった町です。左側が堀川で、赤い公道は旧醒ヶ井通、今の堀川通西側歩道にあたります。その東に接しているのは安寧小学校でいまは堀川通りの西側に引っ越しています。当時は堀川に支流が会ったことが分かります。線路のある場所にはリーガロイヤルホテルが建っています。右下の不動堂と道祖神社は別物ですが鉄道敷設に伴い線路上にあった道祖神社が不動堂の北側へ移動してなにやら一体化して戦後は疎開あとに取り残されていて判然としませんでした。
左下がその不動堂と道祖神社です。赤い公道は油小路通で、当時は踏切があったそうです。右端に見える青い線は西洞院川です。中央下のピンクの部分は駅構内の敷地と思われます。
さて、志水町などの地図で表示されている町名をよく見ると線路は上夷町、南夷町、松明町などに南接しており、金換町やここには掲示していませんが下糀屋町に北接しています。
この地図は安寧自治会が数年前に発行した記録誌に載っていました。大正11年に作られて昭和10年に修正されたとあります。線路北側に上夷町、南夷町があり線路が南へ下がったことが証明されます。しかも中央の塩小路通が斜めになるあたりに東西に広大な空き地があります。この位置はちょうど上夷町、南夷町に北接しています。
いまここにはタキイ種苗の本社があり、当時の面影はありませんが塩小路通りの南側の町家は南側が一直線に揃っていました。
さて、では最初の明治22年の地図ではどのあたりが今の鉄道線路になるのでしょうか?
ある一カ所で特定できました。油小路通を注意してみて下さい。油小路通は堀川と西洞院川のちょうど中間にある南北の通りですが、鉄道線路の少し下、道が斜めに西へ振れてまた南へ下がっています。この斜め区間がいま山陰線と堀川通交差地点北側にある油小路通の斜め区間と一致します。元科学技術専門学校の南端です。
今までに分かったことは以上ですが、特派員氏が以前に書いた記事ともほぼ一致していますのでまちがいはないでしょう。
皆様のご意見をお待ちしております。