北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part10 再び夜行寝台列車に乗って樺太東線を南下、ユジノサハリンスクへ戻る

第5日目 7月13日 その2

ノグリキ駅に戻って、公安に見つからないように撮影ポイントを探します。駅の南側の木々が切れた辺りはホームからは見つからず、良いだろうと決まりました。一旦駅に引き上げて直前まで現場に行かず、カメラはバックに入れた状態で待機しました。▲ 16:45 定刻にノグリキを発車したТГ16-081号機牽引の11両編成の№604列車、こちらは13時間51分をかけてユジノサハリンスクに向かいます。表定速度は44.22km/hとゆっくりです。
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 50年前の撮影地を歩く -18-

竜華操車場・竜華機関区・久宝寺駅

少し前の本稿で、東京の近くを走っていた50年前の御殿場線D52を紹介しましたが、その時期に残っていたD52のなかで、なんと大阪市内を走るD52もいました。それは、吹田第一区にいた2両のD52で、城東貨物線の吹田(操)~放出~竜華(操)の貨物列車を牽いており、同線の一部は大阪市内にも掛かっていたのです。50年前、あの超弩級のD52が、東京近辺や大阪市内を走っていたとは…。
さて城東貨物線の終点の竜華、今は八尾市の行政地名として残るのみですが、かつては竜華操車場、竜華機関区があって、国鉄の重要な拠点でした。その竜華操車場を挟むように、上下線別に離れて久宝寺駅もありました。日中は、普通列車も通過するほど、みすぼらしい無人駅でした。いま、全く姿を変えた久宝寺駅付近の変貌ぶりを見る時、改めて50年という年月の隔たりを感じます。
ED60と並んで竜華操車場の発車線に並ぶD5228の牽く城東貨物線の列車、左手に見えるのが、久宝寺駅の上り方ホーム、2、3両分しかない木造のホームだった。背後の高い煙突は帝国製糸のもので、河内地方で盛んだった木綿の生産拠点の名残り。

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北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part9 夜行寝台列車に乗って樺太東線を北上、ノグリキに着く

ユジノサハリンスク(豊原)を定刻の22:42に出発した№1列車は、戦前の北緯50度の日ソ国境線を越えて。612.2㌔先のノグリキに向けてゆっくりと北上していきます。発車後はしばらく皆さんと一緒の部屋にいましたが睡魔もやってきて部屋に戻って爆睡です。
ノグリキから最北端のオハまでは実線で引いていますが、この路線は、1953年に全通したオハ─ノグリキ狭軌鉄道線(総延長233㌔、軌間750mm)ですが、主力の貨物がトラック輸送にシフトしたために2007年に廃止されています。
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北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part8 夜行寝台列車に乗って樺太東線を北上する

第4日目 7月12日 その4

17:00 真岡南駅で下車してからは再びバスターミナルに戻って同じく516系統のバスに乗って豊原(ユジノサハリンク)へと戻ります。
▲ 戦前は東西を結ぶ貨物輸送で貢献した豊真線の宝台ループ線(宝台~池ノ端)、「Чёртов мост」(悪魔の橋)と呼ばれ名所になっています。1994年にトンネル内の落盤があって以降は運行されていません。ループを抜けて橋梁の上から見た車窓はどうだったのでしょうか、乗って見たかった路線の1つです。
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北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part7 樺太西線に乗る、撮る。北真岡駅、野田駅、

▲ 樺太西線の主力は1985年(昭和60年)に富士重工業で製造されたД2系の気動車です。厳寒の冬季対応のために満鉄ジテと同様、ディーゼルエンジンを運転席後部の床上に置いた液体式車両です。運転当初は両端に動力車、中間2両付随車の4両編成で10組が投入されましたが、現在運用されているのは中間車を除いた2両編成、または中間車1両を間引いた3両編成です。
車体長21,300㎜、高さ3,825㎜、車体幅2,950㎜、出力1,177kw、最高速度100km/h、ステンレス車体です。

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北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part6 豊真線、真岡駅

第4日目 7月12日 その2

8:40 ワンボックスに毛の生えたような小さなバスに乗って豊原バスターミナルから真岡へと向かいます。かつての豊真線沿いを行くのかと思っていましたが南方向に迂回したA-392号線を行きます。真岡の手前でようやく豊真線の橋梁が見えたのが最初の遭遇した。

【 豊真線 】
開業は1925年(大正14年)10月1日、樺太東線と樺太西線を結ぶために豊原~鈴谷が開業、1928年(昭和3年)9月3日に小沼~手井の76.2㌔が全線開業しました。
1943年(昭和18年)度における線別キロ当り1日平均貨物トン数では、勾配区間でもあるにもかかわらず豊真線が964㌧で、川上線の877㌧、樺太東線の869㌧、樺太西線357㌧より多く、貨物輸送に貢献していました。これは大泊港が冬季に凍結することが多く、夏季は潜水艦からの攻撃を避けるために安全な西海岸からの物資輸送に切り替えられたことが大きな理由です。内地へと送る石炭や木材の輸送が多かったようです。
かつての日本統治下時代は
豊真線の豊原~北真岡に上下3本の列車が運行していましたが、1995年頃に途中のループ線(
宝台 ~池ノ端)にあるトンネルが崩壊したため運行はなくなってしまいました
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北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part5 樺太のD51形蒸気機関車

▲ ユジノサハリンスク駅前広場に静態保存されていますD51-22号機です。D51形蒸気機関車は1949年、日本車両7両・川崎車両7両・日立製作所6両・汽車製造5両・三菱重工業5両の計30両が当時のソビエト連邦に客車たちと一緒に輸出されました。なぜか形式番号と車両番号の間にハイフンが入っているのが特徴で、運転席も厳冬対策に密閉構造になっていました。でかい前照灯が印象的なD51形です。
現在このD51-22号機ユジノサハリンスク構内にD51-4号機が静態保存されているのが確認できます。
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北欧のたび4(タリンの鉄道)

サンタクロース急行でヘルシンキに到着したその足で港へと向かいました。バルト三国の一つエストニアに向かうためです。首都タリンはフィンランド湾をはさんでヘルシンキの真向かいにあり、フェリーで2時間の旅、ヘルシンキに荷物を置いて日帰りでタリンへ行きました。
↑ 今年就航したばかりの49000トンの新造船
往復の料金は早割で€40と安く、フェリーは国際航路なので船内には免税店があるため、免税品の買い物目当てに乗る人も多いようです。特に北欧ではアルコール類は高いので船賃払っても十分に元が取れます。ちなみに船内の免税店ではハイネケンの330mlX24缶1ケースが€14.9と日本の発泡酒以下でした。また、エストニアはユーロ圏ですが、国内の物価は安く、他の国と比べると食費などは半額位の感覚です。シェンゲン協定の国ですのでフェリーを降りると入国審査もなく、フェリーふ頭から10分ほど歩くとトラムの走る広い道路に出ました。

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北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part4 ロシアのSIMカード購入、サハリン鉄道を見る、撮る

第3日目 7月11日 その2

【 ユジノサハリンスク(豊原)でロシアのSIMカードを買う 】
フロントでパスポートを返してもらってNETさんとヤスベイさんにご同行頂きSIMカードの購入です。皆さんスマホをお持ちですので出かける時は私のiPadにロシアのSIMカードが入っていればルーターとして使えますので、全てのスマホでパスワードを入れればどこでもネットが出来ます。

フロントのお嬢さんから何とか売っている店を聞いて街に出て探しますが、見つかりません。どうも反対方向と間違えて説明を受けたようで教えてもらったところは街中の売店でした。おばちゃまに説明しようにもさっぱり通じません。またSIMカードを買えても回線開通には今からこのSIMを使用開始しますとの連絡を入れなければなりませんのでスマホを売っているような店でないとやってもらえません。これは世界共通のことで、各国で経験済みです。
▲ これではだめだとホテルに引き返して、「教えてもらったところは反対だった。もう一度教えてください。」と言うと、ドアマンを呼んで一緒に行くようにとの返事です。100mもないホテルの直ぐ横のビルにある携帯電話を売る店に案内してくれました。始めからこうしてくれれば徒労はなかったのですが、これがロシアの洗礼かと納得することにしました。値段は350ルーブル(約700円)。これでどこでもネットが出来ます。Google地図で現在位置が分かりますので、いつものように迷わず動けます。
しかし、ホテルに戻ると皆さんおられません。フロントに「ユジノサハリンスク(豊原)駅を発車する列車があるので撮りに行きます。」とメッセージが残されていました
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北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part3 稚泊航路に乗ってサハリン上陸

今日は、稚内から船に乗ってサハリンのコルサコフへ向かいます。この航路は戦前の1923年(大正12年)5月1日に稚内と樺太の大泊の167㌔を結ぶ鉄道連絡船として開業しました。Google地図をご覧のように宗谷岬からクリリオン岬までは約43㌔と近く晴れた日なら宗谷岬から見えています。砕氷船が運用にあたり所要時間は夏季8時間、冬季は9時間を要したそうです。しかし、敗戦により1945年(昭和20年)8月24日に航路は消滅しました。22年間余りの営業でした。

もう航路でつながることはないと思われていましたが1999年5月1日、東日本海フェリーが稚内~コルサコフに定期航路を開設しました。(但し、冬季は流氷のため運休)戦後初の稚泊航路には、総トン数2,267㌧、航海速力17.1ノット、旅客定員304名、乗用車なら48台を運べるフェリー船アインス宗谷号が運行に当たりましたが運航当初より赤字が続いていました。そのため稚内市の補助金・助成を受けての運航でしたが乗客は増えず、貨物取扱量は減少するばかりで、2015年9月18日をもって運航を終了、船体もフィリピンへ売却されてしまいました。

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北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part2 札幌から稚内へ撮り鉄旅

今日はメンバー5名でレンタカーを借りて札幌から稚内まで宗谷本線を撮りながら向かいます。運転手はいつも安全運転のクモハ7310東ウラさんですが、今日は特急宗谷がノースレインボーエクスプレス183系へと運用が替わったのを朝ネットで見られました。特急宗谷の札幌発は7:30で、我々と一緒の出発です。札幌市内・市街地までは一般道を走りますので追いつくことは無理ですが高速道路に入れば、途中駅で停車する特急宗谷を無停車の我々が追い越せるかも・・。これを撮りたいと高速道路を目一杯の安全速度で走って、特急宗谷と競争です。

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 夏の思い出 2017-2  江若の水泳列車を撮る

前掲の朗読劇へ行くため湖西線の電車に乗ると、目は自然と窓外の江若の跡地を見ていました。廃止されて48年目の夏、思い出すのは水泳列車を撮りに行った時のことに行き着きます。撮影地は、決まって京阪石坂線南滋賀駅から湖岸へ5分ほど歩いた、江若の滋賀駅の南側でした。日影の全くない、カンカン照りのなか、田んぼのど真ん中で数時間、通過する水泳列車を写したものでした。自宅から1時間少々で行けるところで、水泳列車は、この場所以外では撮ったことがなく、私にとっては定番の撮影地でした。またまたの江若ネタですが、今まで発表したことも無い写真も含めて、昭和43・44年に滋賀駅付近で撮った水泳列車を総ざらえします。

滋賀駅の南、田んぼの中を行くDD1351+1900系客車4両の水泳列車。1900系客車は以前快速列車にも使用されていたが、快速はDCに置き換えられたため、活躍の場は年に数日の水泳列車のみだった(昭和43年8月4日)

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北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part1 ジパング倶楽部入会、旅立ち

5月下旬、今回のお誘いも台湾と同様にクモハ73106東ウラさんからでした。台湾、中国に続いての稚内での現地集合、7月11日~16日の5泊6日のツアーで、先はまだ行ったことのないロシアの樺太(サハリン)です。
数10回も行っています中国では北朝鮮、ロシア国
境を見ながら一度は行ってみたいと思っていました。

台湾・中国から続いて3連発の海外渡航にはなりますが、失った気力を取り戻すには多少の無理はやっていこうと決断しました。今回のツアーは稚内港から船に乗ってのサハリン上陸です。12月の稚内訪問ではドームの稚内港駅を見ながら稚泊航路はどうだったのだろうか、乗船してみたかったなあと思っていたのも決断を後押ししました。
参加者は、クローバー会の準会員になられたクモハ73106東ウラさん、千住のヤスベエさんの2名と
、不銹鋼號さん、NETさんを合わせて5名です。

参加を表明して直ぐに稚内へのANAの航空券は早い方が安く購入できますので押さえておきましたが、後日皆さん方の予定は8日または9日に空路で千歳空港へ、レンタカーを借りて撮影しながら札幌、そして10日に稚内へと向かわれることになりましたので私も遅れまいと、9日のJAL便で千歳に向かうことに切り替えました。

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 50年前の撮影地を歩く -17-

国府津

50年前、御殿場線にはD52の牽く列車が走っていました。その始発駅が国府津であり、D52の基地である国府津機関区も駅の裏手にありました。D52と言えば幹線の貨物用であり、旅客列車も牽引していたのは、ここ国府津区のみでした。国府津は、東京から僅か80キロほどのところ、こんな近郊にD52が働いていたとは、その時代を知っている人間からしても、今から見るとにわかに信じられないことです。50年前の高校3年生の夏休み、関東方面に向かいました。一番の目的は、C62「ゆうづる」を撮ることにありましたが、夜行列車に乗って、真っ先に訪れたのが国府津でした。御殿場線の電化も翌年に迫っており、最後のD52の撮影をしました。
国府津駅5番ホームに停車するD52236の牽く御殿場線の旅客列車、右側のホームに放置されているのは、当時私が使っていた青色のリュックサック。
同地点の50年後、基本的な駅構造には変化はないから、車両が代わっただけで、当時の面影がまだ感じられる。古レールを使った支柱も健在。

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北欧のたび3(サンタクロース急行)

ロバニエミに2日間滞在した後ヘルシンキへの帰りは寝台列車を使うことにしました。今回の旅は乗ることを中心にし、その中でも一番の目的はこの寝台列車に乗ることでした。時刻表には特にサンタクロース急行という名前は出ていませんが、北極圏の入り口で、近くにサンタクロース村のあるロバニエミとヘルシンキを結ぶIC273 、IC266、ロバニエミのさらに先、ケミアルビーとヘルシンキを結ぶIC265、IC274 をサンタクロース急行と呼んでいるようです。
 ↑ 郊外のサンタクロース村を北極圏の北緯66度33分線が通っている。
私の乗ったのはケミアルビーからやってくるIC274でした。ロバニエミはカートレインの積み込み場所となっていますので、30分停車しその間に車の積み込み作業をします。 続きを読む

半世紀前の長崎電軌(3)-併せて街の新旧対比-

長崎電軌第3回目です。一旦長崎駅前に戻りました。
▼【旧】第1回でも紹介した駅前です。食堂、パチンコ屋のほか、かすてらの看板もありました。線路は右手奥と右手前の二方向に分岐します。画面では170型電車が右手奥へ進み、旧・小川町(現・桜町)を通り公会堂前方向に向かっています。
次の画像で歩道橋上から眺めると好く判ります。1963年4月3日 07922▼【新】(左)上の画像とほぼ同じ位置から眺めました。山が見えなくなりました。(右)駅前は歩道橋と橋上広場に変わっています。歩道橋の上から南の方向を眺めました。線路を左奥に進むとこれから紹介する旧・小川町(現・桜町)、右奥に進むと五島町、出島を経て築町です。Google Earthより
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半世紀前の長崎電軌(2)-併せて街の新旧対比-

長崎電軌第2回目、図は南部方面、今回紹介の路線図です。蛍茶屋から公会堂前を経由して一旦長崎駅前に戻ります。再び同所を出発、西浜町経由で思案橋に、その後石橋に向かいます。グラバー亭を訪ね街を見下ろして、最後は築町、出島経由で長崎駅に戻りました。
▼【旧】211型212 蛍茶屋車庫  1963.4.3撮影  07900     続きを読む

半世紀前の長崎電軌-併せて街の新旧対比-

半世紀前シリーズ、今回は長崎電気軌道株式会社、長崎電軌。1963(昭和38)年3月末に訪れました。車輌と共に、街の様子を新旧対比したいと思います。停車場及び街名は、1962年訪問時の表記です。現在名は()内に表記しました。
新しい街の様子は、例によってGoogle Earth を利用しました。
▼1963(昭和38)年頃の長崎電軌路線図を作成しました。その一部、北部方面です。
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燃える大地への旅 2017年 台湾 Part10 台北雙連市場見学、桃園空港MRTに乗る、帰国

第7日目 6月14日

朝起きますと久々の雨模様です。この旅の撮影中によくぞ降ってくれなかったと感謝、感謝です。今日は撮影予定を入れていません。帰国のフライトも12:15発と十二分の時間がありますのでこれも久しぶりのゆっくり朝食です。

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燃える大地への旅 2017年 台湾 Part9 崇徳・海バックを撮る

第6日目 6月13日 その2

② 六塊厝 8:41(區間車)⇒8:45 屏東 9:03(自強號)⇒10:45 台東
③ 台東 11:20(自強號)⇒12:47 花蓮 13:10(區間車)⇒13:27 新城

▲ 13:27、新城に到着。南迴線を回って花東線から北迴線へと4列車を乗り継いでの4時間46分の乗り鉄旅でした。
新城站からはタクシーでクモハ73106東ウラさんご推薦の撮影地へと向かいました。 続きを読む