木次線ツアーご報告(余録)

さっそく大津の86さんがレポートして頂きましたので、私は補足説明的に2日間の印象に残ったシーンをご紹介します。まずは8日 新見から乗車した443D(キハ120単行)の混雑ぶりです。

平成29年3月8日 芸備線443D 車内風景

岡山で伯備線に乗る前にお弁当を買い、新見からの芸備線車内で沿線風景を楽しみながら食べようと思っていましたが、伯備線新見行き849M(2連)の混み具合から考えると、かなりの人が芸備線443Dに乗り換える雰囲気で とても443Dでは座れそうになく、伯備線内で急いで弁当を食べました。正解でした。青春18の期間は避けねばなりませんね。

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木次線ツアーご報告

4月8日、9日にDRFCクローバー会木次線ツアーが催行されました。参加したのは’56年度生から‘85年度生まで、30年の世代を超えた17名です。皆さん思い思いのルートで新見に集まってこられ、備中神代から乗車されたYさんを最後に全員が予定の列車に乗車しました。この日は桜のシーズンで、青春18きっぷの使える最後の土日という事もあり、1両の芸備線の列車は、つり革が埋まるくらいの立ち客でにぎわっていました。列車は順調に走りましたが、東城を出たあたりでしょうか「備後落合から木次線に乗り継ぐ方はおられますか?木次線は落石のため備後落合と出雲横田の間で不通になっています。」との車内アナウンスが入りました。その後代行バスを手配するとのことで、一安心して備後落合に到着しました。
↑ 備後落合にはこの時間三方向から来た列車が集まるはずのところ木次線の列車は姿が見えず。 続きを読む

 カラーで振り返る 昭和の気動車 -3-

キハ20系(2)

キハ20系での派生形式として、寒冷地向けのキハ21・22と、機関2台の強力型のキハ52がありました。当時走っていた多くのDCのなかで、1900生さんはキハ20系、とりわけキハ52が好き、とコメントをもらいましたが、私はキハ22が大好きでした。ドアが車端に寄ったうえ、窓が小さく、控え目ですっきりした側面、乗り込んでも急行型に遜色のない設備で、東北の北部、北海道でしか見られない希少性も憧れとなりました。
最北端に近い、利尻島を望む宗谷本線南稚内~抜海の海岸沿いを行くキハ22 307の338D、後部の運転室から顔を出す人物一人、よ~く見ると、なんとなく1年先輩のTさんに見える。この時は、“抜海現地闘争”と称して、DRFCメンバーの戦闘的な4人が、勝手に保線小屋に泊まり込んだのだったが、日和見会員(?)も日中には多くが参加して撮影会状態となったため、列車で移動を重ねていたのだった(昭和44年9月)。

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 カラーで振り返る 昭和の気動車 -2-

昭和30年前後、前述のキハ10系に続いて、改良が加えられた新系列のDCが続々投入されることになります。当時の軽量客車の技術を採り入れて、車体断面を拡大の一般車として登場したのがキハ49000(のちのキハ20)でした。走行機器はキハ10系を踏襲しましたが、座席の構造や間隔も大幅に改善されて居住性が格段に向上しました。前回、キハ10系が前に停まれば“ハズレ”でしたが、キハ20系はその逆で“アタリ”でした。昭和32年に登場以来、キハ20系は、一般形DCの主力として、最終、昭和41年までに1126両が製造されることになります。日本一の積雪量を記録したこともある豪雪地帯の飯山線森宮野原付近を行くキハ20系(昭和47年2月)。

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凍える大地への旅 2016年 Part10 札幌市電を撮る その1

▲ 撮影日 1972年(昭和47年)9月6日 札幌の繁華街”すすきの”を行く札幌市電の834号連接車は、金魚鉢と呼ばれた阪神71形電車と同様の側面大型窓やパノラミックウインドーを採用した斬新な北欧調デザインの路面電車です。最近のスタイリッシュな低床式トラムと比べても遜色ない車両です。
私の最も大好きな車両でした。
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寒中北海道見聞録 半世紀前の旅ー5号車

■尺別鉄道へ(迷い込む)行きはよいよい、帰りは・・・

心地良い眠りの中、列車はひたすら釧路に向かって走り続けます。池田を過ぎると3人とも目を覚まし寝台もたたまれた所で早速今日どうするかの予定の相談です。あと30分もすれば尺別に着くのですが、まあ「出たとこ勝負で行こか」と始めた旅であるにしても至極ええ加減なことをしています。相談内容は次の2つからどちらを選択するか、その意思決定をしようというのです。

  • ・ このまま乗って釧路へ行くか
  • ・ 折角なので尺別鉄道へ行くか

尺別鉄道はれっきとした地方鉄道であるが時刻表にも載らず地方鉄道の権威藤本大先生でも訪れたことがないような全く状況が分からない点が問題でした。釧路へ行くとしたら議論が纏まらないうちに降りるチャンスを逃した、というか成行に従った結果ということになるでしょう。議論の結果は折角ここまで来たのだからこの際行っておこうということになって尺別に降り立ちました。とんでもないことになってしまいそうであったとは露知らず・・。

 

尺別に到着
駅員もこの時代には居ります。まだ、尺別が元気な頃。

改札口まで来ると駅員が「汽車ですか?」と言うではありませんか。驚いた小林氏が「そうです」と返事をすると、その駅員「そこに止まっているバスにお乗りなさい」と言うではありませんか。その言葉に従って我々3人は少し不安を感じつつもバスに乗り込んだのです。バスには新聞や荷物が積まれていて車掌などという気の利いた乗務員がいないボロボロのバスは走り出しました。

尺別鉄道を左に見ながら約20分で車庫のある新尺別に着きました。新何々とかというと、何か最近出来たモダンな駅か何かのようであるが、尺別があるので新尺別位かなあの感じである。さて運転手に料金を聞くと「さあ・・・、いらんでしょう」という返事。想定外のことに驚きながらバスを後にしました。※今にして(編集時点)思えば、何でこのバスをもう少しちゃんと記録し、写真を撮っておかなかったんか、と後悔しきりです。得てしてこんなもんなのでしょうが・・。 続きを読む

 カラーで振り返る 昭和の気動車 -1-

最近はもっぱら家に引き籠って、第二の人生で最大の事業?と位置づける写真・資料のアーカイブス化に精を出しています。対象は、もっぱらモノクロネガが中心で、カラーフィルムには、なかなか手が回りません。理由のひとつは、とくにカラーポジの場合、初期のものは劣化が進行し、データ化しても手遅れ感もあって、優先度が低くなっていました。しかしスキャン・レタッチの技術もわずかながらも向上し、何とか見られるようになって来て、 少しずつカラーポジのスキャンも進めるようになりました。

始めてみると、国鉄ではDCを多く撮っていることに気づきました。なるほど、蒸機を撮りに行っても、蒸機はモノクロ中心になりますが、その合い間にやって来るDC列車はカラーで、となります。あくまで“ついで撮り”のカラーですが、集めてみると、案外、当時のDCの事情が伺えるかなと思い、カラーで撮った昭和の時代のDCを系列別に見ていくことにしました。
伯備線井倉~石蟹の高梁川に沿う鉄橋を渡って行くキハ17×3+キハ20の列車。伯備線のハイライト区間も路線変更で今は見られない(昭和46年9月)

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 50年前の撮影地を歩く -16-

米子(2)
米子機関区での撮影を終え、米子駅から東へ歩いて、最初の踏切を渡って南側へ行くと、民家に囲まれて日ノ丸自動車法勝寺線の米子市駅がありました。
法勝寺鉄道として大正13年に開業、米子市(当時・米子町)から法勝寺までと、途中から母里へ向かう支線がありました。社名を何度も変えながら、鳥取県でバス事業を行う日ノの丸自動車の電車部門となり、訪れた当時は、米子市~法勝寺12.4キロを16往復の電車が結んでいました。地方私鉄がどんどん廃止されていた時代、ご多分に漏れず、法勝寺線も廃止の申請が出されており、訪問した翌年、昭和42年5月に廃止されました。廃止時の車両は、電車4両(デハ201・203・205・207)、客車6両(フ50・51・52・53・55、フニ100)、貨車2両がすべてでした。 米子駅の裏側に隠れるようにしてあった日ノ丸自動車法勝寺線の米子市駅、当時はバス社が経営する鉄道だった。

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凍える大地への旅 2016年 Part9 西の大地から北の大地へ

第8日目 12月16日

今日は日本への帰国日ですが、今回のツアーでご一緒させていただいた数名の方々は夏のインドネシアツアーでご一緒させていただいた方々でもありました。その時に哈密の噴火ツアーが終わったら北海道の「丸瀬布いこいの村」で走る雨宮21号の雪中運行が12月17日に予定されているので帰国後一緒に行ってみないかと、哈密からの怒涛の丸瀬布ツアー後の話がまとまりました。旭川空港からのレンタカーや宿泊ホテルの予約も完了し、私も参加を表明していましたので今回の北京からの復路航空券は羽田経由で旭川行きをマイレージ航空券で購入済みでした。

ところがご存知の通り夏の台風7~9号による水害で「丸瀬布いこいの村」は大きな被害を受けて冬の雪中運行は中止となってしまいました。マイレージ航空券ですので帰国後の空港からの国内線乗継は目的地の変更不可なのですが、JALの勝手な都合となった場合は別で、今回も旭川空港への便の時刻変更があり、JALからは「目的地は変更可能となりました、どうされますか。」との問い合わせが来ました。
羽田から伊丹へ帰ることもできましたが、折角取った北海道への搭乗券です、冬の函館には行きましたが札幌はまだ行っていません、雪が降る中を走る路面電車を撮りに行くのも良いなあ、先日JR北海道から維持不可能路線としてノミネートされた宗谷本線も大学時代以降は乗車したことがないので乗り鉄をしてみたいと、行くことにしました。そして行くからには「排雪列車」も撮ってみたいとダイヤを調べました。
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夕張鉄道の気動車たちとのご縁

KAWANAKA氏が「寒中北海道見聞録」の復刻版を連載されています。その4号車で予告がありましたように 私がこの旅で出会った夕張鉄道の車両とは その後も各地で再会することになりました。そんな後日談を紹介したいと思います。

夕張鉄道を訪ね、写真を撮り、気動車に乗ったのは昭和44年2月27日のそれも半日程度でした。夕鉄は昭和46年11月には栗山・野幌間に短縮され、昭和50年3月末に廃止の運命をたどります。ところが 永く鉄道趣味を続けている者の特権かもしれませんが、その後 各地で元夕鉄君に出会うことになるのです。それを具体的にご説明しましょう。夕鉄にいた湘南タイプの気動車6両は 夕張を離れて津軽海峡を渡り、第二、第三の職場を得てゆきます。そんな彼らに各地で出会う機会に恵まれました。

まず簡単に6両とのご縁を整理してみました。下線は再会を示します。

  1. キハ251(庫内にいた)→関東鉄道(鹿島鉄道)キハ714→廃車
  2. キハ252 →水島キハ303→岡山臨港キハ7001→英田町→先頭部保存(柵原町)
  3. キハ253(乗って車内撮影)→水島キハ304→岡山臨港キハ7002→英田町→解体
  4. キハ254(野幌で撮影)→関東鉄道(鹿島鉄道)キハ715→廃車
  5. キハ301 →水島キハ301→岡山臨港キハ7003→岡山ちどり保育園に保存
  6. キハ302 →水島キハ302→事故廃車

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凍える大地への旅 2016年 Part8 三道嶺を撮る、北京へ

第7日目 12月15日

今日は三道嶺撮影の最後の日です。午後には北京へのフライトになりますので、早朝からの撮影から参加することにしました。
▲ 7:50 撮影地 東站 昨日と同じく夜明け前の東站で出発前の撮影です。
ISO51200の解像力はどの程度だろうと絞りも解放値で挑戦してみました。
【DATA】NikonD500 ズーム70㎜ F2.8 1/125秒 ISO51200 露出補正-0.7段

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寒中北海道見聞録 半世紀前の旅-4号車

明けて2月27日、今日は札幌近郊の私鉄見て歩きであり、勿論お目当てはカマであります。コースは大夕張鉄道の大夕張炭山、夕張鉄道(または夕鉄とも記しています)の鹿ノ谷で、あとは乗り鉄で札幌に戻ってくるということにしました。

ところで、この寒中北海道号は少々遅延気味であるので、4号車では欲張って札幌を離れて道東に行くところまでをカバーすることにしました。相変わらずのすかたん珍道中で、この段階では寒い北海道を鉄道で旅をし、鉄道を楽しむというレベルに達していないのですね。そういう目で見て欲しいのです。もたもたしていると春になってしまいます。急がなければ・・・。

■大夕張に向かう

先ず、7:35発「夕張1号」で大夕張鉄道に向かって出発。

←岩見沢(夕張) キハ22314①+キハ22210増 続きを読む

 50年前の撮影地を歩く -15-

米子

4月に行われる木次線ツアーには多数の申し込みがあると聞いています。その際には、さまざまなサプライズ企画が用意されているとのことで、私も一部で協力させてもらいました。ここで木次線のことを書きますと、ネタバレになりますから、その関連で本稿を進めましょう。ちょうど50年前の昭和41年夏ですが、山陰地方を家族旅行で訪れたあと、途中から一人で、米子機関区、日ノ丸自動車法勝寺線、木次線を訪れ、夜行「ちどり」に乗って、広島、呉線を訪れました。初めての長距離一人旅でした。
得るものは多かったものの、いまは無残な状態でフィルムが残っています。この時、初めてのフィルムを自家現像したところ、真夏なのに液温調整もせずに現像して、超オーバーネガになったうえ、水洗不足がたたって、今や悪臭漂うビネガーシンドローム状態、最悪の仕上げとなって、隔離されて置かれています。見苦しい画像が続きますが、米子の50年前と現在を比べてみます。
▲ 石見益田発西舞鶴行き544列車が米子駅に到着する。牽引するのは、C5763〔米〕+C5728〔浜〕の重連、いずれも集煙装置付きのC57だ。続くのは荷物車代用のワキで、山陰本線ではよく見られた光景だった。

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凍える大地への旅 2016年 Part7 三道嶺の火の玉列車を撮る④

毎晩第6日目 12月14日

三道嶺滞在も4日目を迎えました。三道嶺を離れるのは明日ですが移動のため火の玉列車を撮影できるのは今日が最後の日になりました。今までは朝の撮影はパスしてきましたが最後の機会なので見ておこうかと参加することにしました。

▲ 8:08 撮影地③ 夜明け前の東站
哈密と北京では実質2時間の時差がありますが、中国ではどこへ行っても同じ時間で時差は設定されていません。北京ならこの時間はもう明るい朝を迎えていますが、哈密ではまだ夜明け前の暗い朝です。運行される列車の発車站、東站では仕業へと向かう列車がまだ休んでいました。
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凍える大地への旅 2016年 Part6 三道嶺の火の玉列車を撮る③

第5日目 12月13日

13:00 今日もお昼までゆっくりで昼食から参加です。

▲ 13:30 いつものウイグル料理屋で注文したのはラグメンとタンドリー窯で焼いたサムサです。中には羊肉とたまねぎが入っていますが、皮のパリパリ感とジューシーな中身がコラボしてとっても美味しいのです。私はラグメンよりもこちらの方が好きです。具材は違いますが、台湾・台北の夜市で見かける胡椒餅とよく似ています。
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凍える大地への旅 2016年 Part 5 三道嶺の火の玉列車を撮る②

第4日目 12月12日 その1

今日は年を考えて早朝、東駅での撮影をパスして部屋で熱いシャワーを浴びたりでゆったりしました。何回も来ていますのでいくら煙を見たといっても同じ光景を見ての感動は高揚しません。今回は陽が沈む午後7時前後が全てですのでスイッチを入れるのは午後6時半と決めていました。

10:40 撮影を終えて皆さんがホテルに戻ってこられましたのでチャーターバスに乗り込んで露天掘りへと向かいます。夜のお立ち台から南へ少し行った坑口站としました。
▲ 11:13 撮影地⑦ 昼前になってようやく陽が当たりだした坑口站付近、 東露天鉱から石炭を満載して上がってくるJS8225号機牽引お運炭列車、サミットはもうすぐです。
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凍える大地への旅 2016年 Part 4 三道嶺の火の玉列車を撮る①

第3日目 12月11日 その2

三道嶺へ来た目的は火の玉列車の撮影です。2年前に来た時に初めて見ましたが、インドネシアの花火とはスケールが違ってすごいとしか言いようがありません。ただ全列車で見られるものではなく2年前はJS6209号機でしか見る事はなかったのですが、引率者の王さんの話によると試しに1年前に粉炭を投炭すると他の蒸気機関車でも可能だったとの事でした。昨年は見ていませんので確かな事は理解できません。本当にそうだったら良いなあと楽しみにしました。▲ 2014年12月31日、撮影の火の玉列車です。 【DATA】Nikon800E、ズーム90㎜、F5.3、 1/25秒 ISO6400
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凍える大地への旅 2016年 Part 3 北京から哈密へ

第3日目 12月11日 その1
▲ 6:13 今日は空路で哈密に向かいます。国内線ですが2009年ウイグル騒乱があったウィグル自治区への空路です。イスラム問題もあって非常に厳密な搭乗前の検査があるので早めに向かうことになりました。早朝ですが出発案内の表示はびっしりとあります。何と7時台は39便のフライトです。
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凍える大地への旅 2016年 Part 2 天津から北京へ

第2日目 12月10日

昨夜は深夜を過ぎても宴は盛り上がりました。今日のツアー集合は 20:30~21:30の間に北京空港の第3ターミナル国際線到着出口で、十分な時間がありますので今朝は遅い目覚めとしました。
▲ 11:00 宿泊しました168ホテル近くの海河沿いの広場では大太鼓を持ってこられて演奏の準備が行われていました。和太鼓とは違って胴が短いタイプです。
しばらくすると付近には太鼓の音がなり響きました。

荷物を預けて夕刻までかつて暮らした街の変貌ぶりを見ながら散歩です。
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凍える大地への旅 2016年 Part 1 旅立ち 天津へ

私の最も訪問の多い国はお隣の中国です。まだ地方には定期運転の蒸気機関車が残り現役で走っていること、また乗り鉄が大好きですので、車内2泊3日乗車時間50時間にも及ぶ夜行寝台列車の乗車は、日本国内では経験できない素晴らしさです。

2014年12月31日、撮影の火の玉列車です。 【DATA】Nikon800E、ズーム90㎜、F5.3、 1/25秒 ISO6400

毎年何度も訪中を重ねていた中国鉄路ですがついに蒸気機関車の煙を見る日もカウントダウンが近づいてきました。現在確認できます定期運行は、SL観光鉄道として生き残りを図った四川省の芭石鉄道と、露天掘り炭鉱で現役として活躍する三道嶺だけになってしまいました。
後者の三道嶺は2年前に見た火の玉列車に驚嘆しました。あまりの衝撃に、また機材の性能不足もあって上手く撮れず何としてもリベンジしたいと、昨年も訪問したかったのですが家の事情で動けず撮りに行けませんでした。
今回は何としても撮りたいと決めましたが、問題は手持ちの機材では撮影不可能なことです。照明もない暗夜の中で走行する列車を撮影するに対して必要とするカメラ、レンズの機材調達です。そして前後のコースをどうするかの問題でした。
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