地図を携えて線路端を歩いた日々 -5-

ここがウワサの“筑豊の山科”、またまた登場のC5546〔若〕の牽く門司港発原田行き625列車 門鉄デフの形態がよく分かる(昭和43年3月)

中間駅・D地点

つぎに紹介するのは中間駅です。二面三線の典型的な国鉄駅ですが、ここから複々線から複線に変わり、また香月線を分岐する筑豊の要衝駅でした。中間を出ると、遠賀川に向かって上り勾配となり、そして右へ大カーブを描きます。山科も真っ青、と感じるほどキレイな大カーブです。複線の間隔も広く安全に撮影できます。定番の編成写真が撮れる箇所として、この区間の撮影地の最後を飾るハイライト区間でした。
中間は、現在、福岡県に28もある市のひとつ、炭鉱と命運をともにした市でしたが、現在でも人口は4万人程度にとどまっています。どう考えても印象に残らない市ですが、ここから超有名人2人を生んでいることを、先ごろ新聞で読みました。一人は、文化勲章も受章した、あの高倉健、もうひとりは、プロ野球名監督の誉れ高い、仰木彬。中間市にある球場を「仰木彬記念球場」に改名する記事が出ていました。二人とも折尾駅に近い、名門高校の出身ですが、ともに過去帳の仲間入りをしました。

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なぜか今年は阪神電車から

 時は過ぎ、あけまして おめでとうございますではなく、間もなく桃の節句になるという時節柄。今年は阪神電車からということで・・・

 なぜ、阪神電車からというと、年末に阪急百貨店に行った時に鉄道模型売り場を覗くと目にとまったのが阪神電車がかつて梅田から三宮・元町まで特急として走っていた3両セットNゲージの模型である。値段を聞くと4,500円である。うう~んと思案をしてみたが、こういう時は衝動買いに走るのが常である。衝動買いするもう一つの理由は、子供の頃に神戸へ行くときはいつも阪神電車のこの特急に乗っていたので懐かしい。思い出深い電車だからである。子供の頃、神戸に行くには家からは十三から阪急電車で行くのがいいのであるが、そこをわざわざ梅田まで行って阪神電車に乗るのである。家族4人がふわふわしたクロスシートに席をとり、ちょっとした小旅行を楽しんでいたのである。

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北海道寒中見聞録-2号車

今回は大沼から「ニセコ」に乗って倶知安に至るまでです。少し短いのですが冬なので乗客が少なく短編成になっています。

コメントに西村氏は変わらんけど、他の2人は経年劣化というか、補修を受けてか要するに前の形式が分からんようになっているやないけ、と先輩から頂きました。確かにそうかもしれません。車齢もこのくらいになると原型を留めることは難しいですからね。ま、とにかく2号車に乗車いただきありがとうございました。発車します。写真をみて3人(否2人)は今でもこんなにイケメンとは思わないでいただきたい。発車前のご注意です)。書いている内容はうそではありませんが相変わらずオリジナル文章を時代に合わせ個人に合わせ適当に追加しています。北海道でも股覗きもしたことにいたしましょう。

函館から大沼公園へ

16:05に十和田丸は無事函館港に到着しました。宿泊予定は大沼であるから一刻も早く大沼公園に着きたいところでありますが17:20発の急行「せたな」まで列車がない。連絡船では16:30に急行「すずらん4号」に連絡いたします、とか放送していたはずであるが、実際には季節列車で運転されておりません。冬の北海道にはこの手の列車が多く、中には定期列車が運休するのや、時刻変更などで結構ややこしい。17:20ということは発車まで1時間ほどあるので待合室に荷物を置いて駅前をぶらつくことになりました。ところが風が冷たく手が千切れそうで市電を数枚撮っただけで這う這うの体で退散と相成ったのであります。先が思いやられる。

これ、寒そうではありませんが実際は凄く寒かったのです。時間は16:45です。撮影を諦めて駅に戻るときのようです。

  • の準備もしていなかったので単に撮っただけ。今にして思えば撮りまくるべき題材なのであるが、ついでに駅を降りたのでということで、これはこれで由としたいと思います。

 

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2016年 西方見聞録 Part37 ウイーン市内から空港へ、帰国

第18・19日目 10月5・6日

フィンランドのヘルシンキ、スイスのチューリッヒとゴッタルゴ峠周辺、ウクライナの西ウクライナ地方、オーストリアのウイーンと4ケ国を訪問した西方見聞録の旅も帰路を残すだけとなりました。
今日のウイーン国際空港からのフライトは11:15発とゆっくりめですが、国際線ですので8時半までには空港に到着してラウンジに早めに入って休みたいところです。5時半には起き上がりました。

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2016年 西方見聞録 Part36 ウイーンのトラム、メトロに乗る、撮る4

▲ 18:51 撮影地⑮ Jägerstraße Google座標;48.211763, 16.339495
今回最後の撮影に選んだ古い教会とトラムとのツーショットです。このカトリック教区教会は、U6バーンJosefstädter Straße駅をぐるりと1周するトラムのループ線横にあります。1839年に建立されましたが第2次大戦の1945年に爆弾破壊にあいました。1998年に復旧工事を終えて再建されています。
【DATA】NikonD800E、ズーム36㎜、1/25秒、F2.8、ISO1600
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北海道寒中見聞録-半世紀前の旅物語 1号車

寒中北海道見聞録  1号車

今を遡ること半世紀。昭和の時代、そう昭和44年の冬の終わり頃のお話です。丁度、試験が終わり、年度末の休みになったときに、今や高齢者であるクローバー会の会員が冬の北海道に蒸機を求めて旅をしたときの記録です。その報告は青信号22、23号に既に発表されていますが、これはその復刻版であります。内容は忠実に従っていますが、所々に深い内容の解説を入れて読者の理解を助けるようにしました。元々22号は参加者の小林氏が執筆していましたが、今回復刻版を作成するに当たって、川中が承認を得て多少文も変え色々編集しました。3月4日からの後半は23号と同じく参加者の西村氏が青信号と同じく執筆する予定です。

なお、1号車は旅に出る前を中心にしているため、お楽しみの写真は余りありません。ご期待に添えませんが、痔、間違えました次号車から多くのお写真様がご乗車になるはずです。

今から考えると、へえ!というものがあるかも知れない隔世の感がある時代のこと。旅の情報に関してもIT時代の今では、北国の否、世界の果ての情報も瞬時に知ることができる世の中ですし、入学試験の最中でも解答を得られ答案を書けるほどの時代なので、へえ、そんなあ!と思われるものがあるでしょう。宿(このころは若いモンはYH=)はユースホステルを利用するのが常であり、先輩諸氏のようにステホに宿泊する覚悟でなければ往復はがきを出して、「よっしゃーっ予約が取れた」、と言って出掛けた時代です。その頃にはすでに先輩諸氏は冬の北海道に遠征し、成果を上げておられるのですが、またそこまで至らない若造3人があれこれ試行錯誤しながら冬の北海道の鉄路を彷徨したときの記録です。記録といえば今は亡きY大先輩のすかたんシリーズがありますが、この稿はそれには及ばないけれど「あんたら何してんねん?」というような旅であったと思います。

他人の紀行文など、行った本人は面白いかも知れませんが読む方は大抵退屈、下らんことばっかり書き腐って、となるのがふつうであります。拙稿ではそれを避けるため、また原文の青信号記載の今から言えば無知下品(?)な表現を今風上品(!)に改め、当時の鉄道風景を再現するために参考となる情報や画像を写真とともに豊富につけました。

また冬の北海道は当時あんまり訪れる人がいないと思っていましたが、旅をすると同業者、他趣味の人とも知り合いになり心温まる旅をすることができたのも収穫でした。ほとんどはその後音沙汰なくなっていますが遠い昔を思い出せば懐かしさがこみ上げるというものです。

では早速本文に入りたいと思います。文体もそれに応じて変わります。

ただいまから改札を始めます。こちらからお入りください。 続きを読む

 地図を携えて線路端を歩いた日々 -4-

C地点

続いて折尾~中間のC地点付近に移ります。立体交差地点で複々線が入れ替わり、C地点では方向別運転になります。短い切り通し区間を過ぎると、左右が開け、ゆったりとした編成写真を撮ることができました。今でこそ宅地ビッシリですが、周囲は田が広がり、サイドからの真横写真も撮れました。そしてつぎの駅、中間駅へと至ります。
ここで、この区間の現状について記しておきますと、立体交差付近には昭和63年に新しく東水巻駅ができています。駅を中心に周辺は宅地化が進んでいますが、立体交差はそのまま残置されています。複々線もさすがに過剰インフラとなり、折尾駅は2線の対向ホームですが、発車するとすぐ単線になります。 また黒崎方面からの短絡線も単線化され、両者が寄り添う地点で両渡りポイントを設けて、ここからは複線構造となっています。さらに今は、折尾駅連続立体交差事業が進められ、付近の地形すら変えてしまうほどの大工事が2021年を目指して進行しています。

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2016年 西方見聞録 Part35 ウイーンのトラム、メトロに乗る、撮る3

第17日目 10月4日 その4

15:56 国鉄Sバーンとの乗換駅前の Franz Josefs Bahnhof からはD系統のトラムから5系統へと乗り換えることにしました。目的地が決まっているわけではありません。行先はトラムに聞いてくれとのぶらり乗り鉄旅です。
しかし、他のトラムが0~71系統と数字なのにこのD系統とだけはなぜに英語なのでしょうか? 1つ疑問が残ったウイーンのトラム乗り鉄旅でした。[googlemap lat=”48.225836″ lng=”16.360932000000048″ align=”left” width=”300px” height=”150px” zoom=”14″ type=”G_NORMAL_MAP”]48.225836,16.360932[/googlemap]
▲ 15:56 撮影地⑥ Google座標;48.225836, 16.360932

入線して来た5系統4554号車に乗車して出発です。ご覧のように道路幅はそんなに広くはなく駐車中の車もあって走行できる車線は1車線だけですが、軌道にはみ出してトラムの走行を邪魔する車は見かけません。公共交通優先のマナーがよく守られています。
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 地図を携えて線路端を歩いた日々 -3-

夕陽にC55のスポーク動輪が透けて見える。本数の多いこの区間で初めて流し撮りも試みた。

B地点

折尾~中間のハイライト区間であるB地点の立体交差付近について写真を続けます。
前回投稿のコメントにも記しましたが、複々線区間の開業時は二つの鉄道でした。若松を始発として折尾を通り、中間・直方へ向かう筑豊本線は、明治24年に筑豊興業鉄道として開業、これにより、水路に頼っていた石炭の輸送は、鉄道で若松港まで運ばれます。のちに若松は日本一の石炭積出港として発展しますが、増産される石炭は、若松だけでは賄いきれず、その前に開業していた九州鉄道(現・鹿児島本線)は折尾付近で、筑豊興業鉄道への短絡線を設け、連帯運輸を始めます。同時に、別々に設けられていた折尾駅も、現在のように共同駅として筑豊本線、鹿児島本線の交差地点に移設されました。複々線の誕生で、従来の若松だけでなく、九州鉄道経由で、戸畑、門司でも石炭の積み出しが行われ、また八幡製鉄所への石炭輸送も担うようになります。これによって、明治40年の両線の国有化の頃には、鉄道収入の半分以上は石炭輸送で占められる、黄金期を迎えたのでした。

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2016年 西方見聞録 Part34 ウイーンのトラム、メトロに乗る、撮る②

第17日目 10月4日 その3

昼食後はグランドホテル前のリング通りに出ました。旧市街を環状に取り巻くリング通りは全長5.3㌔、沿道には1860年代から1890年代までに建築された歴史的な建築の数々が並んでいます。そんな街中を走るトラムが撮りたいと雨降る中に出ました。
▲ 14:06 撮影地① Wien Oper Google座標; 48.202414, 16.369950
リング通りの電停は西回り一方通行を挟んで歩道側に上下線が分かれています。トラム軌道上に自動車は入ることなく流れています。
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2016年 西方見聞録 Part33 ウイーン国鉄近郊電車、ウイーンのメトロに乗る、撮る

▲ 撮影地 シュピッテラウ(Spittelau)駅はÖBBのS40バーンとMTRのU4・6バーンが交わり、またTramも乗り換えられるターミナル駅です。
Tramが走る上の高架軌道を通過するのはU6バーンのTramと同サイズの電車です。U6号線はU4号線と同じく、かつて建設されたウイーン都市鉄道(シュタットバーン )をMTRにリノベーションした路線です。ほぼ造り直されたU4号線に比べてそのまま活用できたU6号線は高架区間が多くなっています。

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2016年 西方見聞録 Part32 ウイーン国鉄近郊電車、ウイーンのトラムに乗る、撮る

▲ 撮影地 Google座標; 48.202250, 16.369829
1869年5月25日に竣工したウィーン国立歌劇場の前をウィーン・リングトラムが行きます。ウィーン・リングトラムは、ウィーンが誇る美しいリング通りや国立オペラ座、ホーフブルク王宮、国会議事堂、市庁舎など壮麗な建物の数々を車窓から楽しむために30分間隔で運行されている観光トラムです。

【 ウイーンのトラム 】
ウイーンのトラムはこの国立歌劇場ができる4年前の1865年に1435mmゲージの馬車鉄道として開業しました。1883年蒸気トラムが入り、1897年にはDC600Vに電化されています。2013年現在で176.9㌔の路線があり、これは世界5番目の長さです。29路線での輸送量は年間2億9,360万人(1日平均約80万人)の利用客です。
この日は朝から雨が続きましたが今回の旅、最後の撮影日ですので頑張って乗って撮っての1日を過ごしました。
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 地図を携えて 線路端を歩いた日々 -2-

皆さんからのコメントを拝見して、地図一枚にも、一人ひとりの思いが詰まっていることを痛感しました。では、これから五万分の一の地図を手に各地を巡った撮影記を続けます。なお国土地理院発行の「五万分の一」は正しくは「地形図」ですが、馴染みのある「地図」で通すことにしました。
第1回は筑豊本線折尾~中間です。非電化の複々線上を、都市間の電車ダイヤ並みに10~15分に一本は蒸機列車が通る、まさに“煙の聖地”でした。

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 地図を携えて 線路端を歩いた日々 -1- 

この齢になってくると、残された時間も考えて趣味活動するようになりました。活動が、今後に有効な成果をもたらすものかを、つねに考えます。資料・蔵書関係の整理も同様です。今までは、集める一方の拡大路線でしたが、一度立ち止まって、今後も有効なのかを熟慮して、時には“縮小”も視野に入れて進めています。かつて撮影時の必携アイテム必需品だった五万分の一の地図を代表とする、国土地理院発行の地図も同様です。
初めての撮影地は、列車の窓から首を出して地図で地形を確認、好適地を見つけると地図に印を付けて、つぎの駅で下車して、目的地へ向かったものでした。当時の鉄道雑誌にも「撮影地ガイド」はありましたが、アバウトなもので、信頼が置けず、やはりちゃんとした地図を購入しました。でも現地に着くと、地図から思い描いた風景とは違ったり、撮影に適したカーブも、五万分の一の地図では表現しきれないこともあり、撮影適地を発見できないまま、ガッカリして帰ったことも多々あります。 昭和40年ごろから、撮影用に購入したり、また出版社から取材で使った地図を大量に譲り受けたりして、約300枚の国土地理院の地図が残りました。
 しかし、いまは多様な地図アプリがあって、鉄道撮影に紙の地図を持参するのは、もはや化石人間以外の何物でもないでしょう。残された時間のなかで、有効に使うことはないと判断し、何枚かの思い出に残る地図や、京都周辺のものを除いて、すべて廃棄することにしました。

一枚一枚に思い出が詰まった五万分の一地図、一部を除いて廃棄することに

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2016年 西方見聞録 Part31 ウクライナからウイーンへ

▲ ウクライナのリヴィウからウイーンへと向かう機内で満面の笑みを浮かべて働くCAさんです。大した機内食は出ませんでしたがCAさんの笑みはそれにも増しての機内サービスでした。日系JAL/ANAのおもてなし機内サービスは世界中から賞賛を受けています素晴らしいものがありますが、自然と出るこういった温かさも格別のサービスですね。
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 50年前の撮影地を歩く -14-

留萠鉄道 幌新駅

北海道ならどこにでもありそうな駅にも、クローバー会の皆さんの思い出が詰まっていること、前出の「恵比島」でも痛感しました。調子に乗って、もうひとつ駅を紹介します。恵比島から分岐していた留萠鉄道は、前記のように昭和44年に休止されましたが、目玉は、終点・昭和駅の奥にあった明治鉱業昭和炭鉱で働いていたクラウス社製のBタンク機15・17号機でした。
炭鉱閉山後の同機2両は、直後に開催の大阪万博でも展示されたあとは、流転の歴史で、各地へ転売・転属を繰り返しましたが、15号機は、留萌鉄道の中間駅でもあった幌新駅近くの温泉施設の公園に安住の地を見つけて、大事に保存されています。
昭和炭鉱のクラウス17号機、この可愛らしい姿を見るのが、留萠鉄道乗車の目的だった。この17号機は、栃木県那須烏山市にある那珂川清流鉄道保存会で保存公開されている。

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2016年 西方見聞録 Part30 ウクライナの蒸気機関車を撮る⑤

▲ 撮影が終わってボロフタ(Bopoxta)駅からホテルに戻る途中でお会いした土地っ子のお姉さん、気軽に撮影に応じてくださいました。英語が通じませんのでタブレット翻訳でのコンタクトです。落ち着いた微笑みはモナリザのようでもありました。
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 50年前の撮影地を歩く -13-

 

ふたつの駅名がある駅

留萌線の残存区間から留萌、峠下の今昔を紹介しましたが、もうひとつ恵比島駅の今昔も紹介しましょう。恵比島駅も、無人の棒線駅、一日乗車人員1人台と、典型的な北海道の駅ですが、かつて留萌鉄道が分岐していて、石炭輸送の中継駅として賑わいを見せていました。訪れてみると、当時の姿は、すべて草木のなかに埋もれてしまい、面影は全くありません。ところが、NHK朝ドラのロケ地となったことを契機に、ふたつの駅名を持つことになり、ロケセットも観光資源として残され、流行りの聖地巡りか、時おり、観光客もクルマで訪ねて来るという駅になっています。
「えびしま」?「あしもい」? 駅名標もふたつ

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2016年 西方見聞録 Part29 ウクライナの蒸気機関車を撮る④

 今回はいつもある嬢さんの写真がないのはなぜかとのご意見をいただきました。街や駅を歩くたびに素敵な被写体の方はおられないかと探してはいたのですが若い年齢層に出会うことは少なく、撮りたくとも機会に恵まれませんでした。
今回はもう撮れないかなと思っていましたら今日初めて乗車したウクライナ鉄道の客車列車の中で元気な土地っ子お嬢さんに会えました。撮らせてくださいと申し出ましたらニッコリ笑顔のピースサインで答えてくださいました。
お嬢さんが座っておられるのは寝台車の昼間運用時の座席です。中々凝った作りになっていますので後ほど紹介させていただきます。
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2016年 西方見聞録 Part28 ウクライナの蒸気機関車を撮る③

第13日目 9月30日 

▲ 6:35 撮影地②
今日も夜明け前の出発です。
ボロフタ駅(Vorokhta)に参りますと始発列車が発車していきました。
ホームには降りられたおばさんたちが大きな荷物を持って出口へ向かわれておられます。何か仕入れてこられたのでしょうか。

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