カラフルDC-半世紀前、盛夏編

残暑お見舞い申し上げます。
昨年に続き『真夏の蒸機』を考え、記事も途中まで書いたのですが、もうひとつパッとせず、諦めて、DCにしました。以前加太のDCを投稿したのですが今回はそれ例外の場所です。炎天下になかなか来ない蒸機を待つ間、さっと通り過ぎたDC。高価なフィルムが勿体無くてあまり気乗りせずに撮ったDCですが、今はやはり貴重に感じるものです。DCの形式を私はよく間違えます。気を付けますが、間違いあればご指摘下さい。

先ずは米坂線。先だってより、蒸機39685の写真をさいたま市役所に飾って頂いていますが、それはこれと同じ場所の地上から撮ったもの。下の画像は山から俯瞰した準急『あさひ』です。仙台発仙山線、奥羽線、米坂線、白新線経由新潟行き。上下各2本あり、鉄橋とトンネルが続く深山幽谷地帯を行くキハ58系が画面左に進行します。一面緑でDCの色がよく映えます。同じ位置から撮った貨物列車の画像は蒸気も見えず、緑と黒だけ。見栄えがしませんでした。
▼米坂線 玉川口-小国間 607D 『あさひ1号』 1965.8.17      C1521 続きを読む

北方見聞録 北の大地、シベリア鉄道をちょっと見の旅 Part17 サハリンからロシア本土のウラジオストクへ

今日はサハリンから帰路の旅となります。Part15でも述べましたように当初はユジノサハリンスクからの直行便で成田に帰るはずだったのですが、行程が決まって申し込んだ後で突然にオーロラ航空が6月18日からの休航を発表しました。発表前にもロシアに折角行くのだからウラジオストクにも寄りたいねと冗談ですが言っていましたので、これが現実となったのです。
NETさんのようにトランジットで帰国する事も選択肢だったのですが、次はいつ行けるか、もう行く機会はないかもしれないロシアです。一回ぐらいは行って見てみたい気持ちが大きくなりました。即決で2日間の追加滞在に賛成しました。
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北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part16 ユジノサハリンスク遊覧、サハリン鉄道最後の撮り鉄

▲ ユジノサハリンスク駅のヤードで静かに休む樺太最後の蒸気機関車、D51-4号機(日本車両製)です。
戦後の1949年(昭和24年)にソビエト連邦からの要望でD51形蒸気機関車30両が他の客車等と合わせて輸出されました。日本仕様と違っているのは防寒のための密閉構造と、形式と車両番号間にハイホンが入った表示をしてあることです。仲間たちが廃車されていく中、最後に残ったのはD51-4号機で観光列車に使用されていました。

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北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part15 大泊(コルサコフ)を散策する

▲ 図書館で借りた樺太の写真集を見ていましたら、大泊に向かって海沿いを走る蒸気機関車の写真がありました。バラストも満足にない軌道を走っていますので600㎜ゲージ軍用鉄道時代の写真とは思います。光景は、乗って来た車窓とほぼ同じです。

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北欧のたび5(フィンランド鉄道博物館)

フィンランドの鉄道博物館はヘルシンキから近郊電車で45分ほどのところにあるハイビンカという町にあります。この町とフィンランド南西にある港町ハンコを結ぶ鉄道は1872年に開通したフィンランドで最初の私鉄でした。また、フィンランド最初の鉄道であるヘルシンキからハーメリンナ間の国鉄との接続駅でもありました。現在はハンコへの鉄道の客扱いはなく貨物専用路線となっていますが、古い扇形庫や建物が残っておりこれらを利用して鉄道博物館が作られました。

↑ ハイビンカ駅にて、スペイン製sm4型近郊型電車、ドアの丸窓が何ともユニーク

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北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part14 豊原から大泊(コルサコフ)への乗り鉄旅

▲ 今日の午前中の乗り鉄は、豊原(ユジノサハリンスク)から稚内への稚泊航路のある大泊(コルサコフ)までです。
日本時代は7往復もあった路線ですが今は1.5往復しか運行していません。今日は土曜日で土日しか運行しない朝の列車に乗って豊原から大泊へ向かいました。

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北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part13 

▲ 豊原から樺太西線の真岡まで、山脈を横断した豊真線(76.2㌔)ですが、1994年になって途中の宝台ループ線のトンネル内崩落があり、復旧費用が多額に及ぶ事から1995年以降は運休(廃線)になってしまいました。ただ、豊原から16.2㌔先の奥鈴谷、ロシア語ではノヴォデレヴェンスカヤ(Ново-Деревенская)まではД2 系気動車による運行が行われています。
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北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part12 ユジノサハリンスク鉄道歴史博物館を見る

第6日目 7月14日 その3
奇跡的にユジノサハリンスク鉄道歴史博物館のチリーキン・アンドレイ・ニコライ館長さんにお会い出来ました。この博物館の開館は月曜日~土曜日 8:30~17:30、休館は日曜日とはなっていますが、常時開いているわけではありません。連絡を受ければ開館するといったスタイルですので入場は運がよくなければ難しいのです。この難関だった問題が解決できたのは感激です。皆さん歓喜で入場しました。

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 カラーで振り返る 昭和の気動車 -4-

キハ55系
キハ55系は、昭和31年から造られた、当時の準急用気動車です。同年10月から上野~日光の座席指定の準急「日光」でデビューしました。それまでのキハ17(当時キハ45000)と比べると、幅・高さとも大きくなり、客車と同じ車内設備の第一号DCとなり、翌年からは量産車が登場します。なお当時はキハ44800形で、昭和32年4月に形式称号の改正で、機関2台、車体幅2.8mの区分によりキハ55となりました。基幹形式のキハ55のほか、キロ25、キロハ25、キハ26、キハ60、キロ60を加えた6形式からなるグループで、最終的に、キハ55系は昭和36年までに総勢489両が製造されました。

全国の非電化区間の準急として活躍したキハ55系ですが、その後に、急行型キハ58系が誕生すると、優等列車の主力の座を追われ、冷房化改造も見送られたため、昭和40年代は、むしろローカル線の普通列車で、一般型気動車とともに混成された形式と言う印象の強いキハ55です。

   ▲舞鶴線真倉付近を行く、すべてキハ55系で編成された普通列車。

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北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part11 ユジノサハリンスクの子供鉄道に乗る撮る、サハリン州立郷土史博物館視察

第6日目 7月14日 その2▲ 9:55ユジノサハリンスク駅北側の踏切での撮影を終えてからはもう列車の運行も夕刻までないので市内にある子供鉄道を見に行こうとなりました。

【 子供鉄道 】
旧共産圏諸国の多くの主要都市では、子供の社会教育を目的とした「子供鉄道」が運営されていました。将来の職業選択の際役立つように子供たちの社会学習の一環として行われており、現在も続いているものが多いそうです。以前にハンガリーのブタペストに行った時に訪問しましたが、全長は11.6㌔もあって本格的なものでびっくりしました。ここでも山裾のガガーリン公園の池の周りをループする2.5㌔の子供鉄道があります。
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 50年前の撮影地を歩く -19-

最後のC62特急を撮りに四ツ倉へ

本シリーズの前々記事、御殿場線の訪問のあと、私は横浜港の氷川丸のなかにあるユースホステルに泊ったあと、翌日は神田の鉄道博物館などを見学し、上野22時23分発の常磐線経由の青森行き227列車に乗り込みました。当時の蒸機ファンの最大のターゲットだったC62特急「ゆうづる」撮影の御用達列車で、案の定、1両目の客車に乗ると、大半はカメラを持った人間ですが、それでもその数は十数人程度、大型三脚も脚立もなく、みんなカメラ一台だけ、ごく平和で、のんびりした車内光景でした。
上野駅の隣のホームでは下り「ゆうづる」が発車待ち。翌朝にC62の牽く上りを撮ることを思うと、それだけでワクワクしてきた。関西では見られなかった、ブルトレの座席車、2枚窓のナハフ2052から洩れる車内灯にも心ときめいた。

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北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part10 再び夜行寝台列車に乗って樺太東線を南下、ユジノサハリンスクへ戻る

第5日目 7月13日 その2

ノグリキ駅に戻って、公安に見つからないように撮影ポイントを探します。駅の南側の木々が切れた辺りはホームからは見つからず、良いだろうと決まりました。一旦駅に引き上げて直前まで現場に行かず、カメラはバックに入れた状態で待機しました。▲ 16:45 定刻にノグリキを発車したТГ16-081号機牽引の11両編成の№604列車、こちらは13時間51分をかけてユジノサハリンスクに向かいます。表定速度は44.22km/hとゆっくりです。
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 50年前の撮影地を歩く -18-

竜華操車場・竜華機関区・久宝寺駅

少し前の本稿で、東京の近くを走っていた50年前の御殿場線D52を紹介しましたが、その時期に残っていたD52のなかで、なんと大阪市内を走るD52もいました。それは、吹田第一区にいた2両のD52で、城東貨物線の吹田(操)~放出~竜華(操)の貨物列車を牽いており、同線の一部は大阪市内にも掛かっていたのです。50年前、あの超弩級のD52が、東京近辺や大阪市内を走っていたとは…。
さて城東貨物線の終点の竜華、今は八尾市の行政地名として残るのみですが、かつては竜華操車場、竜華機関区があって、国鉄の重要な拠点でした。その竜華操車場を挟むように、上下線別に離れて久宝寺駅もありました。日中は、普通列車も通過するほど、みすぼらしい無人駅でした。いま、全く姿を変えた久宝寺駅付近の変貌ぶりを見る時、改めて50年という年月の隔たりを感じます。
ED60と並んで竜華操車場の発車線に並ぶD5228の牽く城東貨物線の列車、左手に見えるのが、久宝寺駅の上り方ホーム、2、3両分しかない木造のホームだった。背後の高い煙突は帝国製糸のもので、河内地方で盛んだった木綿の生産拠点の名残り。

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北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part9 夜行寝台列車に乗って樺太東線を北上、ノグリキに着く

ユジノサハリンスク(豊原)を定刻の22:42に出発した№1列車は、戦前の北緯50度の日ソ国境線を越えて。612.2㌔先のノグリキに向けてゆっくりと北上していきます。発車後はしばらく皆さんと一緒の部屋にいましたが睡魔もやってきて部屋に戻って爆睡です。
ノグリキから最北端のオハまでは実線で引いていますが、この路線は、1953年に全通したオハ─ノグリキ狭軌鉄道線(総延長233㌔、軌間750mm)ですが、主力の貨物がトラック輸送にシフトしたために2007年に廃止されています。
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北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part8 夜行寝台列車に乗って樺太東線を北上する

第4日目 7月12日 その4

17:00 真岡南駅で下車してからは再びバスターミナルに戻って同じく516系統のバスに乗って豊原(ユジノサハリンク)へと戻ります。
▲ 戦前は東西を結ぶ貨物輸送で貢献した豊真線の宝台ループ線(宝台~池ノ端)、「Чёртов мост」(悪魔の橋)と呼ばれ名所になっています。1994年にトンネル内の落盤があって以降は運行されていません。ループを抜けて橋梁の上から見た車窓はどうだったのでしょうか、乗って見たかった路線の1つです。
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北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part7 樺太西線に乗る、撮る。北真岡駅、野田駅、

▲ 樺太西線の主力は1985年(昭和60年)に富士重工業で製造されたД2系の気動車です。厳寒の冬季対応のために満鉄ジテと同様、ディーゼルエンジンを運転席後部の床上に置いた液体式車両です。運転当初は両端に動力車、中間2両付随車の4両編成で10組が投入されましたが、現在運用されているのは中間車を除いた2両編成、または中間車1両を間引いた3両編成です。
車体長21,300㎜、高さ3,825㎜、車体幅2,950㎜、出力1,177kw、最高速度100km/h、ステンレス車体です。

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北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part6 豊真線、真岡駅

第4日目 7月12日 その2

8:40 ワンボックスに毛の生えたような小さなバスに乗って豊原バスターミナルから真岡へと向かいます。かつての豊真線沿いを行くのかと思っていましたが南方向に迂回したA-392号線を行きます。真岡の手前でようやく豊真線の橋梁が見えたのが最初の遭遇した。

【 豊真線 】
開業は1925年(大正14年)10月1日、樺太東線と樺太西線を結ぶために豊原~鈴谷が開業、1928年(昭和3年)9月3日に小沼~手井の76.2㌔が全線開業しました。
1943年(昭和18年)度における線別キロ当り1日平均貨物トン数では、勾配区間でもあるにもかかわらず豊真線が964㌧で、川上線の877㌧、樺太東線の869㌧、樺太西線357㌧より多く、貨物輸送に貢献していました。これは大泊港が冬季に凍結することが多く、夏季は潜水艦からの攻撃を避けるために安全な西海岸からの物資輸送に切り替えられたことが大きな理由です。内地へと送る石炭や木材の輸送が多かったようです。
かつての日本統治下時代は
豊真線の豊原~北真岡に上下3本の列車が運行していましたが、1995年頃に途中のループ線(
宝台 ~池ノ端)にあるトンネルが崩壊したため運行はなくなってしまいました
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北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part5 樺太のD51形蒸気機関車

▲ ユジノサハリンスク駅前広場に静態保存されていますD51-22号機です。D51形蒸気機関車は1949年、日本車両7両・川崎車両7両・日立製作所6両・汽車製造5両・三菱重工業5両の計30両が当時のソビエト連邦に客車たちと一緒に輸出されました。なぜか形式番号と車両番号の間にハイフンが入っているのが特徴で、運転席も厳冬対策に密閉構造になっていました。でかい前照灯が印象的なD51形です。
現在このD51-22号機ユジノサハリンスク構内にD51-4号機が静態保存されているのが確認できます。
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北欧のたび4(タリンの鉄道)

サンタクロース急行でヘルシンキに到着したその足で港へと向かいました。バルト三国の一つエストニアに向かうためです。首都タリンはフィンランド湾をはさんでヘルシンキの真向かいにあり、フェリーで2時間の旅、ヘルシンキに荷物を置いて日帰りでタリンへ行きました。
↑ 今年就航したばかりの49000トンの新造船
往復の料金は早割で€40と安く、フェリーは国際航路なので船内には免税店があるため、免税品の買い物目当てに乗る人も多いようです。特に北欧ではアルコール類は高いので船賃払っても十分に元が取れます。ちなみに船内の免税店ではハイネケンの330mlX24缶1ケースが€14.9と日本の発泡酒以下でした。また、エストニアはユーロ圏ですが、国内の物価は安く、他の国と比べると食費などは半額位の感覚です。シェンゲン協定の国ですのでフェリーを降りると入国審査もなく、フェリーふ頭から10分ほど歩くとトラムの走る広い道路に出ました。

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北方見聞録 最果ての地、樺太(サハリン)鉄路への旅 Part4 ロシアのSIMカード購入、サハリン鉄道を見る、撮る

第3日目 7月11日 その2

【 ユジノサハリンスク(豊原)でロシアのSIMカードを買う 】
フロントでパスポートを返してもらってNETさんとヤスベイさんにご同行頂きSIMカードの購入です。皆さんスマホをお持ちですので出かける時は私のiPadにロシアのSIMカードが入っていればルーターとして使えますので、全てのスマホでパスワードを入れればどこでもネットが出来ます。

フロントのお嬢さんから何とか売っている店を聞いて街に出て探しますが、見つかりません。どうも反対方向と間違えて説明を受けたようで教えてもらったところは街中の売店でした。おばちゃまに説明しようにもさっぱり通じません。またSIMカードを買えても回線開通には今からこのSIMを使用開始しますとの連絡を入れなければなりませんのでスマホを売っているような店でないとやってもらえません。これは世界共通のことで、各国で経験済みです。
▲ これではだめだとホテルに引き返して、「教えてもらったところは反対だった。もう一度教えてください。」と言うと、ドアマンを呼んで一緒に行くようにとの返事です。100mもないホテルの直ぐ横のビルにある携帯電話を売る店に案内してくれました。始めからこうしてくれれば徒労はなかったのですが、これがロシアの洗礼かと納得することにしました。値段は350ルーブル(約700円)。これでどこでもネットが出来ます。Google地図で現在位置が分かりますので、いつものように迷わず動けます。
しかし、ホテルに戻ると皆さんおられません。フロントに「ユジノサハリンスク(豊原)駅を発車する列車があるので撮りに行きます。」とメッセージが残されていました
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