▲ 1号線と3号線とまじ合う华茂中心の架線レスの広い交差点を渡る5連節車(023号車)。いつの日かスーパーキャパシタ搭載車が進化を遂げて全線でこういった光景が見える日も来るのでしょうね。今はまだ第一歩の実用段階と言ったところです。
当初の予想利用者数が元々上積みで達成は難しい地下鉄があります。これからの維持管理・保守にも多額の費用が必要で、負の建築遺産とも言われています。トラム建設の方が全てに便利でエコノミーでした。当初からトラムは都市交通には邪魔として計画が始まった都市計画自体に問題がありました。世界は既に見直しを終えて、新たなトラム活用を実施しています。
日本も遅れず、都市交通のあり方をもう一度考えて欲しいと願います。
「紀行文」カテゴリーアーカイブ
熊本電気鉄道の併用軌道
大津の86さんにリクエスト頂きました熊本電鉄の併用軌道を紹介させていただきます。
鹿児島の花電車の翌朝 熊本駅からJR815系2連の満員電車で上熊本へ行きました。
上熊本駅前に入ってきたのは切妻側を前にしたモハ5102Aでした。7時20分発の北熊本に乗車し北熊本でモハ6238A-6231Aの2連藤崎宮前行で黒髪町で下車 目的地へ向かいました。
2014年 塩の海 復州湾の塩田ナローと瀋陽路面電車への旅 Part8 沈阳有轨电车(瀋陽路面電車)その1、2号線
▲ 13:51 美しい白い車体を折り曲げて交差点を90°曲がる3連接のトラム(012号車)、Z形パンタは下ろしての架線レス走行です。沈阳では広い道路が交わる交差点では架線レス、直進道路では中央を走りセンターポールにしています。こうすれば車高の高い大型トラックの走行に支障が出ません。またトラムが渡る交差点は架線が目立ち都市景観も損ないますが、これならスッキリと景観を守れます。スーパーキャパシタ活用の1つの例です。わずかな距離での架線レス走行ですが効果は大きく、都市交通でのトラム運行の成功例でしょう。
日本では長距離架線レス研究開発が進んでいますが、高価になるのは否めません。安価な簡易的採用でも十分に用は足します。
来年1月には台湾の高雄市でも同じ仕様での架線レストラムが運行されます。あえて欲ばりしないのも必要かと思いました。
2014年 塩の海 復州湾の塩田ナローと瀋陽路面電車への旅 Part7 沈阳地鉄、奉天地下鉄、奉天路面電車、沈阳有轨电车
▲ 11:42 沈阳トラム2号線に乗車して、瀋陽桃仙国際空港(沈阳桃仙国际机场)まで来ました。向かってくる白い車体色の3連接車トラムをご注目ください。Z形パンタは架線から離れてきています。この先からは架線はなく、充電池による架線レス走行となります。反対側の青い車体の5連節車トラムはZ形パンタを上げて加速していきます。これを可能にしたのはスーパーキャパシタと呼ばれる高電圧での急速充電・給電装置です。以前に天津開発区でトランスロールによる同じ一部の架線レス走行をご紹介しましたが、新しく敷設建設された沈阳トラムでは、全線各所で採用されての本格的な走行となりました。勿論、中国にはこれほど先進的な技術はなく、アルストム社からの技術供与のコピーです。運行もフランスRATP Devが3年間契約を締結しています。今回は、全線での乗り鉄、撮り鉄をして参りましたので詳細をご紹介させていただきます。 続きを読む
2014年 塩の海 復州湾の塩田ナローと瀋陽路面電車への旅 Part6 復州湾塩田ナローを撮る その4
▲ 14:35 復州湾ナロー鉄路五島運輸站路線にはもう1つのハイライトがありました。14基の橋脚に支えられた鉄橋です。本土側から海の中道へは1992年に建築された比較的新しいコンクリート橋でした。中国鉄路を撮影してきていつも戦前か中華人民共和国建国後かを判断する1つの基準として、鉄橋は戦前の日本統治下または列強各国が建築したもの、コンクリート橋は建国後だろうと思っています、そう考えるとこの鉄橋は日本統治下時代に大日本塩業㈱によって建築されたと思われます。ここまで塩田開発が進んでいたとは驚きです。今のように機械化はなかったでしょうから数千人もの作業員が塩の採取、製塩作業に従事していたのでしょうね。
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2014年 塩の海 復州湾の塩田ナローと瀋陽路面電車への旅 Part5 復州湾塩田ナローを撮る その3
第3日目 10月12日 その2
10:26 食後は五島運輸站に戻りこれからの運行状況を聞きますが、まだ指示が来ていない様子で確認できません。
作業車編成を牽引していた06号機が単機で待っています。
▲ 10:35 撮影地① Google座標; 39.469295, 121.483682
ダイヤが分からずとあれば、仕方がありません、一路順風!さんが撮りたいが、今まで列車が来ず撮れなかったといわれる第5~7塩場への路線が俯瞰できる道路橋上に向かいました。道路脇に車を停めて、いつかは来るであろうソルトトレインをひたすら我慢の待ちです。
確かに第8塩場の海の中道を俯瞰できる小高い丘と同様に待つに値する絶景の撮影地です。強風を避けるために車の中でお昼寝しながら待機します。
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2014年 塩の海 復州湾の塩田ナローと瀋陽路面電車への旅 Part4 復州湾塩田ナローを撮る その2
▲ 8:27 塩田から採取された塩山が連なる横を第8塩場へと向かう作業車編成。今朝は青空が見えていますが、風が半端ではありません。日本に上陸した台風の影響をこんな離れたところでも受けて、風速20m以上はあります。塩の海も荒れて、塩田には珍しい波の花が舞っています。今日は強風との戦いになりそうです。
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2014年 塩の海 復州湾の塩田ナローと瀋陽路面電車への旅 Part3 復州湾塩田ナローを撮る その1 五島運輸路線
【復州湾塩場ナロー鉄路・大連塩化集団 】
大連からは車で約2時間余り、北約90キロにある遼東半島西岸の復州湾一帯は、温帯大陸性季節風気候に属し、年平均気温は10℃、平均年間降雨量は687mm、年間日照時間は2600時間、年間無霜期間は190日です。冬は厳寒がなく、夏も酷暑がなく、古くから汚染なしの海にめぐまれて品質が高い塩の産地で、広大な塩田が広がっている地域です。
日本統治下時代には大連は自由港であったため関税収入が見込めず代わりに塩税が関東州の財政を支えていたそうです。関東州も積極的に塩の生産拡大を図り、やがて塩田の90%以上は日本企業(大日本塩業㈱)の経営となり、ソーダ工業の原料用として内地に大量に輸出され、日本の化学工業を支えていました。
大日本塩業㈱は、天日製塩のために広大な塩田を造り、その輸送のために762㎜のナローゲージ鉄道を敷設しました。最盛期には総延長約100キロにもなったそうです。機関車は当初からDLで今も改造を受けながら現役使用されています。小さな木造トロッコを牽いて海を渡る姿はとても可愛いと、ナローファンが訪れる所となりました。
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C11、大川(阿賀野川)を渡る-半世紀前-
1965年5月の会津(滝ノ原)線です。
山間が少し開けた南会津の楢原から北に、弥五島、湯野上、桑原へと、大川(阿賀野川、国土地理院も四文字にしたり、阿賀川と三文字にしたり、いい加減)の橋梁を渡るC11を順に撮影しました。桑原まで凡そ13km、谷合の区間です。
この内、湯野上から少し北、桑原までの中間付近から舟子あたりまで、大川ダムの建設が進み(1988年運用開始)若郷湖となり、撮影した一部区間は水没してしまいました(後図参照)。先ずは弥五島の北、第五橋梁から。
▼第五大川橋梁 貨客混合332レ 機C11 弥五島間-湯野上間 1965.5.4 10421
次は湯野上の手前、第4大川橋梁です。天気は良くなかったのですが、日中8本程の旅客、貨客混合に貨物列車と結構な列車に会いました。左手が弥五島方向、右手が湯野上方向。
▼第四大川橋梁 客334レ 機C11 同上区間 同日 C1104
九州のたび(その2)
前回の投稿から2ヶ月も経ってしまいました。中途半端で終わるのも気持ちが悪いので、気を取り直して続けることにしました。しばしお付き合いください。
2日目は乗り鉄が中心、もう一度市電の写真を撮った後、9:40の鹿児島中央発日豊本線国分行きで隼人に向かいます。鹿児島を出ると錦江湾沿いを走り、あいにくの雨で山頂は雲に覆われていますが桜島が眺められます。SL時代の名所竜ヶ水を通り、隼人で吉松経由の都城行きに乗り換えます。吉松には11:42に到着、吉松はSL時代機関区があり、使われていないものの広い構内は当時交通の要地だったことをうかがわせます。隣のホームに次に乗車する「しんぺい2号」が停まっています。御存知の通り、JR九州にはユニークな特急、観光列車が走っていますが、「いさぶろう」「しんぺい」は地元の人も乗れる観光列車という位置づけで4人掛けと2人掛けの指定ボックス席のほか私の乗ったしんぺい2号には2号車に7席、3号車に6席の自由席があり、また各車両の中央部は展望スペースになっていて、ここも一応指定券無しでも自由に使えます。 続きを読む
2014年 塩の海 復州湾の塩田ナローと瀋陽路面電車への旅 Part2 大連路面電車

大連は、日露戦争後の1905年、ポーツマス条約により日本の租借地である関東州に入りました。都市計画を進めるための路面電車建設については、南満州鉄道運輸部運輸課電気係が当初を担当しました。1909年9月25日に大桟橋(大栈桥)から電気遊園(电气游园)間、2.45キロ(DC750V、ゲージ1,435㎜)の路面軌道を開業したのが、大連路面電車(大连有轨电车)始まりです。
最初の電車は車体は米国製、台枠は英国製、電気部品はドイツ製と国際都市らしく、木造11車型電車37両が投入されました。会社名は、後に「満電鉄課」と改称され、1927年には営業路線も33.80キロに延伸、車両数も100数両となり、ピークを迎え市内ネットワークが完成しました。何度か替わった社名は、「大連都市交通」と再度改称されています。
2014年 塩の海 復州湾の塩田ナローと瀋陽路面電車への旅 Part1 旅立ち 天津地下鉄、空港乗り入れなる
「復州湾の塩田ナローの金城・五島ともに、やはり国慶節明けが最も頻繁に走ることが判明しました。前回の事もあります。ぶんしゅうさんのサポートをさせていただけます。」
中国ナロー鉄路の第1人者であられます一路順風!さんが2度目の惨敗をするわけはありません。満を持しての訪問とあれば乗らないわけにはいきません、即決で決めました。
2014年 立山砂防軌道(国土交通省立山砂防工事専用軌道 ) 2年連続2回目の訪問
秋は気ままに一人旅 -5-
ほくほく線列車を撮る
八木原から上越線の普通列車で北上する。明るいうちの乗車は初めてなので、窓外の景色に興味津々で、鉄道誌でよく見かける鉄橋を通るたびに、一人で歓声を上げる。新清水トンネルの中の湯檜曽・土合の地下駅の様子もよく理解できた。水上で乗り換えて下車したのが大沢、対向ホームだけの静かな小駅で、眼前には谷川岳など上越の峰々が連なっている。
越後湯沢で新幹線に接続し、ほくほく線経由で北陸本線方面へ向かう特急「はくたか」は、来年3月の北陸新幹線の開業で全廃がアナウンスされている。北陸・信越本線では、「はくたか」など485系狙いもあって賑わっているようだが、私はまず上越線からの始動となった。
▲大沢に着いてダイヤを確認する間もなく、やって来たのが北越急行683系、一瞬、「はくたか」と思ったが、ダイヤを調べてみると快速の831Mだった。「はくたか」の間合い利用で、こんな豪華で長編成の快速列車が走っているのだった。
鹿児島市電と花電車
2014年 天空の鏡 チャカ塩湖に走るナローへの旅 Part14 北京⇒天津 帰国

▲ 今日は北京から天津に向かいますがルートとしては京津城际鉄路(北京南~天津、120キロ、33分)に乗車するのが一般的です。列車本数も多く、天津は在来線との併用站です。繁華街からは離れていますが、地鉄のネットワークが出来たので便利になりました。他にも上海への京沪高速鉄路(北京南~天津南、122キロ、36分)で途中下車する事も出来ます。また旧来の在来線(京山線)も時間を気にしなければ選択肢に入ります。ただ今日は北京西站すぐのホテルに宿泊しているので、北京南站まで地鉄で行こうとすると乗換2回があって50~60分は見ておかないといけません。荷物を持っての階段の上り下りの乗換は老人には辛いものがあります。
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2014年 天空の鏡 チャカ塩湖に走るナローへの旅 Part13 北京市郊鉄S2線、和諧長城号、中国鉄路の父「詹天佑記念館」
▲ 2014年末には世界第2位(第1位は上海)の18路線総延長527キロに達しようとする北京地下鉄、初めて開業なったのは1969年10月1日の国慶節、复兴门~建国门16.1キロでした。中国では初めての地下鉄の誕生で、その後延伸工事が行われ、私が初めて訪中した1985年には上記の路線39.7キロが完成していました。今は1日約870万人の利用客を誇り、2015年には1,000万人を突破するであろうと言われていますが、当時は1日約10万人とわずかでした。まだ車内や町中には人民服を着た人を多く見かけました。
※ この路線図は車内に掲示されていたものです。
仕事で視察に訪れた際に案内していただいた地鉄職員からいただきました。今となっては貴重なものになりました。
左は当時の車両です。
秋は気ままに一人旅 -4-
湘南色115系を撮る
▲八木原駅を発車する水上発高崎行き726M、クハ115-1028ほかの7連。朝の光線のなかに湘南色の長編成がよく映えていた。
高崎で泊まって、翌日は上越線に向かった。上越線は夜行列車で通ったことはあるが、日中は、以前に準特急さんと八木原へ写しに行った程度で、ほとんど初めての乗車・訪問だった。北陸新幹線が開業すると、上越線も様変わりする。その前に一度は行っておきたかった。
さらに高崎~水上には湘南色の115系がまだ頑張っている。関西での113系湘南色車もほぼ絶えてしまったいま、ヘンな細工も何もない、手入れの行き届いた原色を堅持する高崎車両センターの115系は貴重な存在になってきた。同センターの115系は、3連、4連の固定編成に分れ、上越線をはじめ、高崎周辺の信越線、吾妻線、両毛線で使用されている。
2014年 天空の鏡 チャカ塩湖に走るナローへの旅 Part12 西安⇒北京 西安北站、中国高速鉄道の現状
▲ 今日は西安北からCRH(高速電車)に乗車して北京西に向かいます。赤線が乗車する高速鉄路の区間(営業距離:1,216キロ)です。
中国の高速鉄路は北京オリンピック直前の2008年8月1日に開業した京津城際鉄道(北京南~天津、116.907キロ)から始まりました。実質距離こそ違えてはいますが、日本の新幹線(東京~新大阪、515.4キロ)が東京オンピック直前の1964年10月1日に開業したのとよく似ています。
国家の威信をかけて建設されましたが、中国では大躍進の新規開業が相次ぎ、気が付けば10,000キロを超えて日本の新幹線(2,620.2キロ)の3倍を上回る距離で建設されています。今年中には4倍を越えようとしています。
なぜにこれほど計画通りスムーズに開業が相次いでいるのか、それは都市間移動短縮に伴う大きな経済効果があげられますが、中国では55もの少数民族を有しているがために日本とは違った事情があります。
最近では新疆ウィグル自治区に始まり、少数民族による反政府テロが発生しました。これを武力鎮圧するには短時間で大勢の軍隊を移動させなければなりません。外務省公式HPでは中国960k㎡、日本は38万k㎡と約25倍もの大差があって、もし有事があった場合には高速大量輸送が国策上で欠かせないためでもありました。
高速鉄路建設には最初に用地買収が必要ですが、土地は国の物であって使用権は認められているものの国策となれば転居は強制的に行われます。日本とは全く違った状況が早期の高速鉄路建設の前進を進めました。
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秋は気ままに一人旅 -3-
上信で夕陽を狙ってみる
▲上信電鉄南高崎~根小屋の烏川鉄橋で、上信に31年ぶり登場の新車7000形を流してみた。車内はセミクロスシーシになっていることが分かる。
深谷で廃線跡探索のあと、近代建築巡りにも時間を割いたため、想定外の長居となってしまった。高崎に着いたのは、もう陽が傾きかけていた。高崎で夕方となると、行くところは決まってくる。上信電鉄南高崎の先にある烏川鉄橋だ。上信高崎駅に行くと、沿線の富岡製糸場の世界遺産登録の号外が貼ってあったりで、世界遺産の恩恵は相当なもののようだ。烏川鉄橋の夕景は今回で3回目だが、なかなかいい夕陽に恵まれず、この日も昼間は青空だったものの、次第に雲が多くなってきた。失意のうちに電車に乗り込むと、発車のとたんに居眠りしてしまい、気がついた時は、くだんの烏川鉄橋を渡っているところだった。居眠りによる乗り過ごしはよくあることで、慌てることなく、つぎの根小屋で下車、オバチャン駅長に聞くと、撮影者はみんなこの駅から歩いて鉄橋まで行くとのこと、たしかに農道をたどっていくと、それほど時間も掛からず、鉄道橋の南に架かる、人・自転車専用の木橋に着くことができた。なお、南高崎~根小屋には新幹線高架の直下に佐野信号所があり、日中はここで列車交換を行なっているが、今年12月からは“佐野のわたし駅”として駅に昇格するとのこと、駅ができれば、烏川に最も近く、撮影は格段に便利になる。





