快速133列車は、クルンテープに30分ほど遅れて到着しました。タイでは長距離列車の遅延は織り込み済です。むしろこの程度で済んだのはまだまし、と言えます。ここからは沿線撮影です。
▲普通261列車スアンソン行き サムセン
「紀行文」カテゴリーアーカイブ
2024年夏、タイからラオスへ(その6)
カムサワート駅に戻ると、心なしかラオス中国鉄道の駅に居るよりもホッとしました。
出国手続きの後、ホームで進入してきた列車を撮ります。ラオス中国鉄道と違ってこちらでは気兼ねなく撮影が出来ました。タイのノーンカーイの一つバンコク寄りのウドンターニーからの快速147列車が5両で入線してきました。
▲ウドンターニーからの快速147列車は、ヴィエンチャンカムサワートに着くとすぐ機回しを行います。 続きを読む
2024年夏、タイからラオスへ(その5)
28日朝、起きると緑濃い平原の中を走っています。ほどなく乗務員が、寝台を解体
しにきました。上段にも客は居たようですが、途中で下車したようです。顔を見ることはありませんでした。定刻の6時25分、ノーンカーイに到着。約530キロを10時間掛かっているので早くはありませんが、997バーツ(約5千円)の値段を遥かに上回る快適な夜行特急でした。
▲こちらはディーゼル急行76列車 キハ47のステンレスカーのような車両ですが、これでバンコクまで約9時間の乗り通すのはきついように思われます。いや、それを楽しみ、と捉えるか。
2024年夏、タイからラオスへ(その4)
▲クルンテープ駅で発車を待つノーンカーイ行き特急25列車
クルンテープは高架の巨大駅でしたが、発車直前の決まった時間でしか改札しないのでホームに入れません。ホワランポーン駅の時代はあらゆる列車を好き勝手に撮ることが出来ましたが、これは痛いです。もっとも発車直前に改札し、乗り込むスタイルは、かつての国鉄優等列車や中国も同じです。構内をうろうろしてさまざまな列車を撮影することが出来なくなってました。入場券を買えばうろうろ出来るのかも知れませんが、今回は分かりませんでした。もっとリサーチが必要です。 続きを読む
2024年夏、タイからラオスへ(その3)
▲北海道か?いやバンコクですよ。方向幕にも「バンコク」!
2024年夏、タイからラオスへ(その2)
2024年7月26日、MM091便は、定刻通り19時15分に関西空港を離陸、10分程早着の23時45分にはバンコクスワンナプーム国際空港に到着しました。日本とタイとは2時間の時差があります。大阪を出る前に夕ご飯は食べていたのですが、あまりに腹が減ったので、空港でタイ風の焼きそばとコーラを食したのですが380バーツ(約1900円)もします。いくら円安といってもここまでとは、と驚きましたが、これは空港価格で、市中ではそれほどでもなかったので少し安堵しました。
▲巨大空港スワンナプーム国際空港 朝方なのでだいぶ人が抜けていますが、夜中はベンチの殆どで人が仮眠していました。私もその中の一人に。
2024年夏、タイからラオスへ(その1)
▲ラオス、ターナレーン駅 2020年2月3日 4年前、タイからラオスへの鉄路への入国は、貨物コンテナと客車の混合列車でした。
ぶらり旅 岡山~広島 ③
ぶらり旅 岡山~広島 ②

岡山駅前に岡山電気軌道の停留場があり 折り返し清洲橋行きの7701号がやってきました。7701号は元呉市電700形の機器流用車です。ホーム向側には東山本線の東山・おかでんミュージアム駅行きがやってきます。
消えゆく老舗書店 熊本と京都~路面電車あれこれ噺⑲
路面電車が走る街で、撮影のため歩いていると書店と出会うことがあります。なかでも、地域に根ざした老舗の書店・古書店は大好きでした。撮影の手を止めて、入ってしまうこともあり、地域ならではの地方出版物のなかから鉄道関係の書籍を見つけて思わず買ったこともありました。ところが、街の書店がどんどん減ってきて、社会問題化しています。もう、路面電車と書店のある光景も過去の思い出になろうとしています。熊本市にある、創業150年を迎える老舗の書店が閉店すると言うニュースを耳にしました。真ん前を熊本市電が走ると言う絶好のロケーションでした。
▲熊本市中央区、熊本市電の上熊本線「新町」電停前の「長崎次郎書店」。真ん前を上熊本線の3・8系統が通っている(以下、2016年2月12日)。
仙台駅前で定点対比する ~路面電車あれこれ噺⑱
少し前、三陸・大槌を訪れる途中に、仙台駅前へ寄って、昭和51(1976)年まで走っていた仙台市電を、同一地点からの対比を試みました。今まで、何度か仙台へは行ったものの、駅前の巨大なペデストリアンデッキに阻まれて、定点撮影は不可能と思っていましたが、改めて地上から対比すると、たしかにデッキは邪魔にはなるものの、意外と市電時代の街並みが残っていました。
▲仙台市電は、路線延長16キロとごく小規模ではあったが、茨城交通、琴参電鉄、呉市からの転属車や仙台のオリジナル車など多彩だった。車両は200形211号、昭和29年から製造された前中扉の軽量車で、201~211の11両があった。前面は2枚窓だが、後期車は写真のように非対称となった。仙台を特徴づけるセンターポールも見える。
▲青葉通が交わる駅前の地上へ行って定点対比すると、デッキの合い間から、何とか定点対比ができた。すっかり変わってしまったように見える駅前だが、よく観察すると、左の「宮城ビル」は外装は新しいが、躯体はそのままのようだ。正面には、市電時代には地場の百貨店、丸光デパートがあった。そのあと、2002年に、さくら野百貨店となったが、倒産し、建物はそのまま残っている。
豊橋市内線の支線を偲ぶ ~路面電車あれこれ噺⑰
豊橋鉄道 柳生橋支線
路面電車に関わる小ネタをしばらく綴っていきます。先般行われた豊橋ツアー、もう一ヵ月が過ぎての後出し投稿で失礼します。丹羽さんからは、本欄でも貴重な豊橋市内線を紹介していただき、旭川電軌や三重交通神都線から来た貴重な車両を紹介していただきましたが、私も、過去に一度だけ、豊橋市内線の車両を撮っていました。かつての柳生橋支線を走っていた3700形です。
現在、豊橋の市内線は、先日みんなで乗った駅前~赤岩口・運動公園前の東田本線だけですが、以前は駅前~市民病院前、新川~柳生橋の2支線がありました。駅前~市民病院前は昭和44年に休止・廃止、もう一方の新川~柳生橋0.9kmの柳生橋支線は、昭和
51年廃止で、私も直前に短時間撮りに行きました。そこで走っていたのが、日本最初の半鋼製電車と言われる3700形でした。柳生橋支線の廃止後も3702が生き残り、鉄道友の会「エバーグリーン賞」を受賞、平成19年まで「レトロ電車」として活躍し、廃車後は豊橋市こども未来館に保存展示されていることが、丹羽さんの原稿にも書かれています。
▲豊橋の駅前大通りをまっすぐ進んだ東田本線は、新川で左へ曲がり北へ向かう(写真の上方向)。その新川から分岐していたのが、手前の柳生橋線で、専用に走っていたのが細面のモ3700形(昭和50年6月撮影)。
飯田線 乗って 降りて 歩いて ⑤
飯田線 乗って 降りて 歩いて ④
飯田線 乗って 降りて 歩いて ③
飯田線 乗って 降りて 歩いて ②
飯田線 乗って 降りて 歩いて ①
ある駅から探索を開始
先般のクローバー会の豊橋ツアー、参加の皆さんとともに楽しんできました。晩は豊橋駅の居酒屋で、名物の味噌煮込みおでんで気勢を上げたあと解散となりましたが、その日、私はは豊橋に泊まって、翌日は一人で飯田線へ行きました。飯田線は、旧型電機・電車が走っていた頃には、よく訪れたましたが、それらが消えてからは全く足を踏み入れたことがなく、今回、約50年ぶりの飯田線入りとなりました。2扉、転換クロスの213系5000代車は、超ガラガラで、窓から見える渓谷美とともに、実に快適な乗り鉄一人旅となりました。思い出に残る駅や、以前から憧れていた駅に下車して、周辺を自分勝手に思いのままの街歩きを楽しみました。
▲雨に洗われて新緑の鮮やかさを増す飯田線、乗車して一時間あまり、ある駅に到着し下車した。島式ホームには、乗車の313系、交換の213系と、飯田線の現有形式が顔を揃えた。
5月の晴れ間に 日常+αを記録する ③
開業40周年の三陸鉄道へ
5月の最終、もう一件だけ「日常+α」載せます。先週になりますが、三陸鉄道に乗って来ました。いままで三陸鉄道では、佐竹保雄さん主宰の「トレランス号」に、佐竹さんの東北復興への願いを思いながら、2回に渡って乗りました。今回は、私にとっての思い出の地である大槌を中心に瞥見してきました。過去、デジ青誌上でも、三陸鉄道の前身である、国鉄山田線の大槌駅のこと、そこで何気に撮った写真が、意外な展開を見せて、「トレランス号」が走る端緒にもなったことも書きました。 「TOLERANCE 10」 大槌を行く! | DRFC-OB デジタル青信号
「トレランス」に乗車してから5年が経過し、この間にも、地域の復興はさらに促進されて、三陸鉄道を取り巻く状況も変化していると聞きます。現地でその空気に触れるべく、家族とともに大槌入りとなりました。
▲釜石から三陸鉄道で3つ目の駅が大槌、震災で街も鉄道も壊滅したが、もとJR山田線は三陸鉄道に移管されて、大槌駅も旧駅とほぼ同じ場所に設けられた。その三陸鉄道は、ことし開業40周年を迎え、そのヘッドマークも掲げられている。車両も開業時の36-100形が、三鉄のオリジナル塗装のままで走っているのが嬉しい。
5月の台湾(5月7日)その5







