市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑥

札ノ辻

大石橋を出た市電は竹田街道を南下して行きます。古来からの竹田街道の街路をそのまま踏襲しているため、道は右に左に緩くカーブを続けます。商店、民家の連なる街並みを見ながら「札ノ辻」に到着です。いかにも旧街道らしい停留所名で、街道などに高札を立てた辻のことを言い、現在でも、地名や交差点名称として全国で見られます。この交差点は、東西の通りが、宇賀神社への参道に当たっていて、人通りも多かったようです。現在、この参道は、地図を見ると札ノ辻通とありました(今回の写真は、大部分Mさん提供の写真を掲載しています)。【札ノ辻 定点対比】いかにも街道筋らしい家々が連なっていた昭和の時代、停留場に到着する501号。左は、現在の札ノ辻交差点、中央の二階建てが、市電時代と変わっていないのが分かる。

 

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 廃駅をめぐる  【11】

臼ノ浦  (昭和46年12月廃止)

九州の炭鉱地帯と言えば筑豊や三池だけでなく、松浦半島にも小規模な産炭地がありました。その運炭を目的として、現・松浦鉄道の前身、松浦線から3つの支線が伸びていました。臼ノ浦線(佐々~臼ノ浦3.8km)、世知原線(肥前吉井~世知原6.7km)、柚木線(左石~柚木3.9km)で、行き止まりの短い盲腸線は、採掘された石炭の輸送、または積出港への輸送を目的に敷設されたものです。そのうち、私は臼ノ浦線だけ乗ることができました。同線は、佐世保北部の炭鉱から運炭輸送を目的に佐世保軽便鉄道によって昭和6年に建設された762mmの鉄道がルーツで、国有化、改軌ののち、戦後に臼ノ浦線となったものです。機関区のあった佐々から分岐して、臼ノ浦までの3.8kmで、中間に駅はありません(以下、昭和44年3月)。訪れた昭和44年、臼ノ浦線には、まだC11の牽く石炭列車が走っていた。セム、セキの混合、トラ、ワフも混じる興味深い編成だった。

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 廃駅をめぐる  【10】

香月  (昭和60年3月 廃止)

つぎは九州、筑豊などの炭鉱地帯には、かつて無数の支線が伸びていました。今ではすべて廃止されて、あれほど複雑だった時刻表の地図もすっきりしました。筑豊本線の中間から分岐していた香月線のそのひとつでした。沿線では、石炭の採掘が古来から行なわれていて、九州鉄道によって敷設免許を得て、工事が着工されます。九州鉄道は明治40年に国有化され、その後も工事が進められ、明治41年7月に、中間~香月の3.5キロの路線が開通し、途中には、新手、岩崎の駅が設けられました。水運に頼っていた石炭の輸送は、香月線の開通で飛躍的に増加、最盛期には、中間~新手は、九州初の3線区間(貨物用複線+旅客用単線)となり、わずか3.5キロの区間に、3列車以上の貨客列車が走っていたと言います。しかし、エネルギー革命によって昭和30年代後半から探鉱が次つぎ閉山し、訪問時には気動車のみの旅客列車で、貨物列車はもう見られませんでした。第一次特定地方交通線として、昭和60年3月限りで廃止されました。ちょうど、扇町から輸入炭を秩父鉄道三ヶ尻まで運んでいた、日本最後の石炭列車が無くなったニュースが入ったばかりでした。(以下、昭和46年12月)

香月駅で発車を待つ130D、キハ4520+キハ1010という当時の新鋭気動車と10系気動車の始祖が仲良く繋がっていた(以下、昭和46年12月)。

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東急3450系の窓の大きさ他

表題の件について米手作市様より関先生とお前の写真の窓の大きさが違うようだとご指摘があり、お詳しい方に助けを求めたところ、早速回答を頂きましたので原文のまま掲載をさせていただきます。なお、この方は、ぶんしゅう旅日記さんが名付け親の「不銹鋼」さんで時々デジ青の台湾編などで出てこられる方です。内容は以下の通りです。

準特急様の撮影されたデハ3456号は1963年10月の更新後で窓高さを850mmから950mmに変更されています。

ちなみにこの車両は旧モハ517號で1981年11月に廃車後、宮崎台にある電車とバスの博物館にカットモデルとして保存されています。

この運転台部はそのまま更新後の姿、旧連結部はモハ517號にもどし、窓高さを850mmに、片隅式運転台を復活させています。

この改造工事は小職が1982年に担当させていただきました。

お時間がございましたら、ご案内させていただきます。

暫くはコロナの影響で不要不急の外出は憚られますね。

以上ですが、えらい方にご回答をいただいたもので宮崎台に行ってきたいと思います。そのころの紺と黄色、およびその後の青ガエル等緑色の復刻色の写真もご紹介させていただきます。

2018.08.22 多摩川線沼部1317▼

2020.01.30 多摩川線沼部1312▼

2018.10.02 東横線多摩川5822▼

京阪700形旧80型塗装色最終日

2016年9月に「80形誕生55年記念イベント、80形塗装車両」との投稿をさせて頂いてから3年半、3月3日が最終運行日となりました。80形が登場したのは1961年8月12日それから55周年を記念して701,702号がこの色に塗られました。この車両は何度か撮影しましたが、昨日は天気も良く暖かかったので撮影に出かけました。平日にもかかわらず、特に浜大津交差点にはいつもより多くの人が集まっていて、学校が休校になったためか高校生らしき姿も見られます。     ↑ 最終日の700形旧80形塗装色 続きを読む

客車廃車体訪問記 内地編65 兵庫県-2

【健康ひろば加古川】 34.736263, 134.853301 2005年5月4日撮影
スロ81 2122
旧型お座敷客車の廃車体である。珍しい。健康ひろば加古川は、山陽電鉄別府駅の北北東約500mにあって、お好み焼き・明石焼きのスロ81 2122、喫茶・寿司・麺類・丼のサシ581-25が営業していた。今は全く別の店舗になっていて現存しない。
◆ホハ(ナハ)35040(1925年新製)→(1928年改番)ナハ23481→(1951年鋼体化改造 大宮工)オハ61 123→(1962年改造 長野工)オロ61 2088→(1964年改造 松任工)オロフ61 2004→(1967年改造 多度津工)スロフ62 2004→(1979年改造 高砂工)スロ81 2122「摂津」→1986年廃車
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 廃駅をめぐる  【9】

郷津  (昭和44年9月30日廃止)

今回の郷津は、以前の記事でも触れていて既出ですが、改めて“廃駅”として紹介します。郷津は、北陸本線の最東端に当たる駅で、地滑りが多く発生する災害多発地帯でもありました。昭和40年代に進められていた北陸本線の複線電化の改良工事に際しては、西隣にある谷浜と、東隣にある直江津を長大トンネルで直結することになり、その中間に当たる郷津には、代わりとなる駅も新設されず、昭和44年9月限りで廃止されることになりました。郷津は、明治44年に国鉄信越線の駅として開業し、のちに路線名が変わって北陸本線の駅となりました。昭和39年には、集中豪雨で地滑りが発生し、土砂で駅が埋まったこともあります。駅舎は山側の国道8号沿いにありましたが、周囲に人家はほとんどなく、訪れた時は、北陸本線の糸魚川~直江津の最後の非電化シーンを収めるため、能生、谷浜といくつかの駅に降り立ち、夕方になって、郷津に降り立ちました。郷津を通過する大阪発青森行き特急「白鳥」、堂々14両編成の82系特急が日本海沿いを行く姿は、“クイーン”の称号にふさわしいシーンだった(以下、昭和44年8月)

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 廃駅をめぐる  【8】

岩代川俣  (昭和47年5月14日廃止)

“岩代川俣”と言っても、私にとっても記憶が繋がらない駅でした。線名である川俣線も、今となっては正確な場所を言い当てることはできないと思います。廃止されたのが昭和47年で、地方交通線の大規模な廃止よりもっと先に、ひっそりと消えています。開業は大正15年で、松川~岩代川俣の12.2kmが開通しています。本来は、常磐線の浪江までの敷設を目的としていましたが、建設は途中でストップ、盲腸線のまま終わりました。途中に岩代飯野、岩代大久保(戦前に廃止)を設置していました。川俣、浪江、と来て思い出すのは、福島第一原発事故による放射線量の高い帰還困難区域などの居住制限に指定されたことです。昭和43年に、国鉄がまとめた、鉄道より自動車が相応しい赤字83線区のひとつに挙げられて、昭和47年5月14日に廃止となりました。川俣線の始発は、東北本線の松川、われわれ世代にとっては、松川事件のあったところとして認知されている駅。

川俣線の終点の岩代川俣、到着した727Dは、キハ52141+キハ22328の2連、いずれも郡山区の所属で、キハ22328は、郡山に1両だけ配置されていたキハ22。寒冷地用のキハ22の本州での配置は、青森、八戸、山形などは知られているが、これはキハ22南限の1両に当たるだろう(昭和46年9月)。

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