市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑩

深草下川原町

では、また京都市電伏見・稲荷線に戻って、停留場ごとに50年前のシーンを巡っていきます。河さんにとってはホロ苦い思い出の残る、深草下川原町から始めます。前記の勧進橋から、棒鼻の手前まで約2キロは、ほぼ一直線の竹田街道を南下していきます。ただ明治の頃は、ここから少し西を流れていた高瀬川に沿った、曲がりくねった道で、京電も同様に走っていました。明治45年に、一直線の広い道に付け替えたもので、京電も同様に移設されています。今でも、竹田街道を歩くと、交差する小さい道とは、少し高低差があり、拡幅時期に、低い土地に盛り土をして、新しい竹田街道を通したことが伺えます。市電時代には、まだ田んぼも散見されますが、大部分は工場・民家が混在した車窓風景が続いていました。正直、なかなか絵にはなりにくい区間で、撮影もスルーすることが多く、今回も、Mさんの貴重な記録で助けてもらいました。

【深草下川原町 新旧対比】

この付近では、竹田街道の東側を市電が走っていた。もちろん安全地帯も無く、乗客は命がけで電車に乗り込んだ。右の現況と対比すると、右手のビルがそのまま。

 

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阪急900型

私のような者でもよければ出します。但し、白黒です。コメントでもいいのですが、2枚の載せる方法がわからないので別項としました。赤い特急マーク付きのこの電車は神戸や大阪に行く時はいつも速いなと思っていました。残念ながら私の撮影時の900型は普通列車の運用ばかりでした。そして最晩年は20両全車が920,800型6~7連の中間車になっていました。ファーストナンバー900は中間電動車で残っていました。現在は116とともに正雀に保存されておりイベント運転で見た方もおられると思います。

 

1966年12月2日今津線仁川進入の今津行き900です。▼

 

1968年10月21日 六甲。中間電動車となった900。▼

 

 

 

 

昭和の電車 改訂版(57)ー京阪700型ー

京阪の600型・700型の現役時代は乗ったことがあると思いますが記憶が無い!
この頃、両親に連れられて大阪へ行くときには省線電車(親がそう呼んでいた)が主で、北浜方面へ行くときだけ京阪を利用していたので1000型以外の記憶が曖昧です。

近鉄ダイヤ改正

近鉄でも3月14日にダイヤ改正がありました。身近な話題としては「ひのとり」の運転開始、「鮮魚列車」の廃止があります。どちらも大きなイベント行事は無かったようですが、ニュース映像を見ると「鮮魚列車」最終日の上本町駅には多くの「鉄道ファン」が押しかけていたようです。この「鉄道ファン」という表現が曲者(?)で、最近は価値観の全く違う者が特に目立っているように感じます。準特急さんの言われるように、日常の普通の風景を楽しむというのが私の思う「鉄道ファン」なのですが。ということで改正後の普通の風景を紹介します。まずは改正後から走り始めた名阪特急「ひのとり15列車」で(赤目口)、時刻表での表現に識別番号が付いています、ちなみに大阪難波15:00発です。今はまだ一部の名阪特急ですが今年度中には合計11編成が完成して名阪(甲)特急はすべて「ひのとり」になるようです。 続きを読む

とあるニュースの見出し

Yahoo! の見出しに『地下駅の強風、何とかならない? 髪ぼさぼさ「分け目逆に」と不満、その原因は』なんてなのがありました。
最近は記事の購読数を稼ぐために刺激的な文言が見出しとして多用されており、思わずクリックすると、阪急の西院駅と大宮駅のことでした。


画像は下り特急から通過する西院駅を撮ったものです。

記事本体は、以下のURLです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200315-11004048-maidonans-life
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 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ⑤

ローカルネタ、しかもバス関連で失礼します。元気な趣味活動の報告とご理解ください。全国的には14日(土)が春の改正でしたが、京都では、市バスが20日(金)から新ダイヤとなります。旺盛な観光需要などに対応した増便・延伸など、利便性の向上が中心ですが、いっぽうでは径路が重複する三つの系統が廃止されることになりました。京都市バスは、分かりやすい「多便少系統」が叫ばれる時勢に逆行するかのように、改正のたびに、どんどん系統を増やしてきましたが、久しぶりに系統が縮小されることになりました。なかでも、中心部を回る「循環1号系統」、通称“100円バス”は、土休日のみ運転のため、本日が最終日となりました。自分なりに京都の交通の変化は記録しておきたく、京都の街に繰り出しました。
京都の“100円バス”は、2000年4月から四条→河原町→御池→烏丸のルートで運転を開始し、土日のみ42回/日運転されていた。乗客数は一日780人程度だったが、他系統でも代替できるところから廃止されることになった。バス代の高い京都では、100円はデビュー当時は衝撃的だったが、慣れてしまうと価値を感じなくなったし、それに一周しても4キロ足らずでは、歩いた方がずっと早く、利用価値は低かった。

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ちょっと思うこと

最近、スマホで東京メトロの03系(日比谷線の18m車)がなくなり地方私鉄(北陸鉄道、長野電鉄、熊本電鉄)に譲渡される(た)という内容を見たが、その中で同社は03系のお別れ運転イベントを取りやめたということが出ていた。何でも千代田線6000系の時にえらい大変だったらしくもう懲りたということのようだ。開業やお別れはそれはそれで意味のある事とは思うが、今や需要(鉄道ファンが多くなり過ぎた)と供給(場所や列車の限定)の関係で危険な状態にあると判断されたようだ。どこもかしこもこの状態ならイベントはやめた方がよいと思う。1回か2回しか乗ったこともないような列車にありがとうとか泣きわめくなどちょっと考えられない場面をテレビ等でよく見る。罵声が飛び交い、マナーを守れず、注意すると反対に文句を言う輩もいる。人それぞれであるから何とも言えないが、そうガツガツしないで普通の日に普通の列車を撮ればゆっくり撮れるのにと思う。なくなりそうになると情報が漏れてくるものである。どうせいつかは人間と同じように消えていくはずだ。そういう私も1回だけ阪急の北千里延長関西初の自動出改札駅開業の時見に行ったことはある。今日はダイヤ改正の日なので澁谷の病院のついでに話題の高輪ゲートウェイ駅を見てきた。雨のしょぼ降る中、側線に役目を終えたのかクハ185-1が止まっていたのが印象的だった。今回の久しぶりの投稿はその消えたメトロ車両である。これも老人鉄が撮った普通の日の普通の車両である。普段着の姿でよいのではないか。

2015.08.23 東武線内 竹ノ塚-西新井 中目黒行き03ー102 ▼

 

2015.08.23 東武線内西新井-竹ノ塚 南栗橋行き 03-811▼

 

2014.08.20 小田急線内 黒川ー栗平 多摩急行我孫子行き 6018▼

 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ④

明後日あたりに寒波が到来と報じていますが、ことしは記録的な暖冬で終わりそうです。でも富士山に関しては、例年どおりの冠雪があったようです。いつの時代も富士山は憧れです。とくに、日常的に見ることができる首都圏の在住者より、めったに見られない関西人のほうが、潜在的な憧れを抱いているような気もします。ことし1月、東のほうで用事を済ませて、翌朝、のんびり帰ろうかと思って普通列車に乗り込むと、窓に飛び込んできたのが、雪を抱いた富士山でした。急遽、予定変更、結局は陽が暮れるまで、定番撮影地3ヵ所を歩き回り、その姿を拝んだ一日となりました。
最初に行ったのは、伊豆箱根鉄道駿豆線の三島二日町から南へ歩いた地点、ここは以前来たものの、全く富士山が見えず、悔しさのあまり何も撮らずに戻って来たところだ。それだけに冠雪した富士山を見て感激、しかも、最初に通過したのが、今回の改正でも生き延びることになった185系「踊り子109号」。

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 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥ ③

“阪堺線”と言えば、初詣で活躍する旧型車は有名ですが、そのほかの時期にも通うことが多くなりました。以前は恵美須町から出ている阪堺線の寂れた雰囲気が好きで、北天下茶屋などへよく行ったものですが、いかんせん乗客減で本数も減ってきて、日中は24分ヘッド、もはや路面電車とは言えない間隔になりました。いっぽう、天王寺駅前から出る上町線は、阿倍野・天王寺の再開発事業も終わって商業施設への乗客も増えて、改正のたびに増発されて、日中は6分ヘッドの運転となりました。自分好みの撮影地も多いのですが、なかでもハマっているのが、あべのハルカスとのコラボです。本欄でもWAKUHIROさんらが発表された写真が刺激になったのがきっかけです。東京に勝てるものが何もない大阪ですが、今のところ高さ日本一を誇っているのが、あべのハルカス、まもなく、その座も東京に奪われるようで、今のうちに日本一高いビルと現役最古の電車が走る阪堺線を、との思いで通っています。
高いだけあって、ハルカスは遠くからでも望むことができるが、できるだけ膝元で大きく取り入れたい。そこで選んだのが「松虫」、ここは、あべの筋の併用軌道から専用軌道に入るところにあり、クルマにも邪魔されることも少なく、その全容を収めることができる。午後の遅い時間帯から、夕景、夜景を楽しんだ。

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 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ②

終端の小さな駅が、日没とともに、はなやかな光彩に包まれた。

叡山電鉄の八瀬比叡山口駅で、毎年冬に行なわれている“イルミステーション”に行って来ました。開業当時の面影を残す、八瀬比叡山口の駅舎をはなやかなイルミネーションで飾るイベントで、12月から2月までの開催で、ことし5回目、冬の叡電では定番行事となりました。ただ、きらびやかな構内も、平日の夕方とあっては人影も見えず、ただ老人が一人だけ走り回って必死にカメラを向けているのでした。

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 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ①

深刻な事態が続いています。クローバー会の活動も影響を受け、私のまわりの行事・イベントも中止・延期に追い込まれています。感染が早く収束し、以前の日常に戻れるよう願うばかりです。この事態に及んでの趣味活動は、団体での行動は自粛すべきでしょうが、前向きな姿勢を失わないためにも、個人の活動は元気に取り組みたいものと思っています。
私もデジ青投稿を、老齢人生の第一の使命と考えて投稿を続けていますが、家に引き籠って文字を打ち込み、カビの生えたモノクロ写真を載せただけでは、決して元気さが伝わりません。もっと明るく、リアルで空気感の伝わる写真も載せて、多少なりとも誌面から元気さを感じてもらいたいと、最近の撮影記録を、しばらく紹介させていただきます。少し前に岡山へ行って、岡山電軌を撮ってきた。目的はこれ、東武日光軌道線から来た3000形のうち、日光線の塗色に復刻された3005号だ。岡電では予備車的な存在で、冷房も無いところから、秋冬春に月に一回だけ運転される。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑨

稲荷

勧進橋から分岐する稲荷線は、明治37年に開業しました。その距離はわずか0.7kmで、専用軌道で上り勾配を上って行きました。上り詰めると、師団街道の踏切を通り、京阪電鉄と平面交差します。市電はいったん停止し、信号を確認後、京阪の線路と平面交差して、琵琶湖疏水に架かる橋上の「稲荷」に至っていました。すぐ向こうは国鉄奈良線で、同線の稲荷駅も近い距離にあります。伏見稲荷大社への参拝客が多く訪れていて、とくに初詣や初午、例祭の時は乗降客であふれていました。

稲荷に関して最近のトピックは、何と言っても停留場付近からレールが“発掘”されたことでしょう。停留場のあった橋の改修によって、コンクリートで埋められていたレールが露出したものです。

行った時は発掘レールはブルーシートで覆われていたが、今後は現地で保存・展示されると言う。最終日の午後、停留場付近を柔らかい陽光が包み込んでいた。みんな思い思いに別れを告げていた。501号の下部付近から、上記のレールが発掘された。

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鉄道、つれづれ草ー“乙訓の長老”からのお願い その2

乙訓の長老様の記憶はさらに続きます。

⑧近江鉄道の八日市駅で撮影。左220形車番読めません、右は読めませんが米原行きクハ12〇〇+モハ□で撮影時期は1990年代でしょうか。以下写真⑨⑩もこれだけで撮影時期は分かりませんでした。

⑨写真⑧と同じ八日市駅の220形224でしょうか。到着番線からこの列車は近江八幡方面からの列車では?

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑧

勧進橋

鴨川を渡ると、京都市の南区から伏見区に入り、伏見・稲荷線の本場に入ってきた感がします。右にカーブすると、すぐに勧進橋の停留場で、土蔵造りの荒れ放題の待合所が東側にありました。ここから明治37年にできた稲荷線が左へ分岐して行きます。「伏見稲荷大社」と大書きされた石碑と、稲荷参詣道(新道)の竣工を記念した石碑が緑地帯のなかにありました。稲荷方面~中書島方面は、直通電車もなかったため、相互乗り換えには、ここで乗換券が発行されていました。また今回も大部分の写真をMさんから提供いただきました。稲荷から来た稲荷線と合流する勧進橋、安全地帯の無い停留場からの乗り降りはたいへんだ。

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客車廃車体訪問記 内地編66 大阪府-3

【First Train】 34.347193, 135.242997 2011年12月29日撮影
オハ46 378
JR和泉鳥取と南海鳥取ノ荘の中間、蓮池の北縁にあるレストランである。現在も営業している模様。オハ46の廃車体は珍しく、他に京都鉄道博物館のオハ46 13がある。
◆スハ43 378(1954年5月新製 川車)→(1956年2月11日改番)オハ46 378→1966年7月22日近代化改造、信越線対策併施 幡生工→1971年7月15日体質改善B3 高砂工→1986年廃車
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昭和の電車 改訂版(55)ー小田急デハ1600型ー

小田急には乗ったことは無いが、正面貫通扉にある「転落防止柵?」に記憶があります。これは「転落防止柵」で間違いないのでしょうか?

また、関先生の解説中に「16㍍の車体が重宝されて、各地の中小私鉄で重宝・・」とありますが、その各地の写真をお持ちの方があれば、ぜひとも見せて頂きたい。

 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑦

十条通

十条通の交差地点に停留場が設けられていました。十条通は、京都市南部の東西の所要道路で市電時代から自動車の通行が多くありました。民家、商店も次第に途切れて、近くの鴨川の水流を利用した染工場などが見えてきました。正直、なかなか絵になりにくいところで、私自身は、1、2点しか撮っておらず、今回もMさんの撮影で助けてもらいました。

【十条通 定点対比】

停留場前には、古い家並みが残っていた。市電時代は商店もあったが、右の現況では、さすがに看板も無く廃業しているものの、家そのものは改装されて残っていて、この西南の一角だけは、市電時代のままだった。

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