1週間前から、京津城際鉄路の記事をまとめて投稿しましたら、本日2月2日の朝日新聞朝刊のGLOBEに下記の記事が出ていまして、びっくりしました。CRH2-300についての記事を転載しますので、お読み下さい。 続きを読む
「紀行文」カテゴリーアーカイブ
CRHの旅Ⅲ Part1 2009年の京津城際鉄路
タフとパワーが売りでしたが、さすが病魔には、勝てずで、定年後の勤務続行を急遽断り、自由人となる決意をいたしました中国特派員です。
リハビリと静養を続け、ようやく担当医からOKが出ましたので、1月中旬、機上の人となり、大地を目指しました。今回の訪中は、12月末まで務めていた会社からの、最後の社命です。
関空から北京へのJAL便は、定員232人に対して、わずか38名の乗客です。最近は、殆どこんな搭乗率で、不況による影響は、搭乗客減に直結していると、アテンダントのお姉様方は、嘆いておられました。しかし、機内サービスは十分で、呑み助には最高でした。
鉄道と違って、乗客数に応じて、編成車両数を調整出来ない飛行機は、大変です。この分では、また便数が減ると思っていたら、先日JAL,ANA共、休航や減便発表がありました。両社共、劇的に搭乗客が増加しない中国線に、競うように増便を重ねた結果です。これでもまだ多いと思いますので、第2段が続くでしょう。
しつこく江若鉄道と法勝寺のこと
江若鉄道のキハ12が何とか完成し、先に完成したキハ5124と塗装を残すのみとなりました。キニ9のエッチング板をオークションで入手したものの、車両製作はひと休みとしましょう。(オハ27 3両の完成が先・・・) キハ12は棒型モータを床下にぶら下げ、ユニバーサルジョイントで駆動することにしたのですが、あえて1軸駆動にしたため動き始めは音ばかりで加速が悪く、またモーター付のキハ15などと連結運転すると 引っ張られたり押したりと実物そっくりの状態で うれしい限りです。
さてレイル67号に藤本先輩の法勝寺の記事があるとのこと、三原市内の本屋に行ってみたものの、三原の田舎に格調高い「レイル」があるわけもなく、その代わりになぜこんな本がという「鉄道連隊」の本があって これを買って帰りました。日の丸法勝寺の現役時代には訪れたこともなかったのですが、この正月休みに米子を訪ね、保存車両には会ってきました。南部町法勝寺の西伯小学校に保存のデハ203も米子市元町商店街に保存のフ50のいずれも状態は良く、当時を彷彿させてくれました。
ところで 木次線の亀嵩-出雲三成間の線路脇の空き地になぜかワキ10073と10120の2両が放置されていてびっくり。空気バネ台車を履いた高速貨車がなんで出雲の山の中にあるのか 夜も寝られません。どなたか事情を知っておられる方は薀蓄をかたむけてください。
汽車住宅や江若鉄道でお騒がせ致しておりますが、毎夜この掲示板を開くのを楽しみに正業にも励んでおります。明治村には行けそうになく残念至極でありますが、皆様とつながっていると実感しながら 鉄分補給しています。
天然色写真で巡る40年前の九州 (10)
九州の締めは、また筑豊である。九州に入ってまず筑豊で撮り、夜行を駆使して九州各地を転戦したあと、最後は筑豊へ戻ってくる。「筑豊に始まり筑豊で終わる」である。
そのメインラインである筑豊本線、勾配区間で狙うなら、筑前内野~筑前山家間の冷水峠を置いて他はない。両側から25‰勾配がサミットとなる冷水トンネルまで続き、多くの列車に補機が付く。旅客列車では、普通列車の大部分がC55の牽く客車列車である。白眉は、朝に峠へ向かう急行「天草」である。先頭はDD51であるが、飯塚~鳥栖間には、D50またはD60の後補機が付く。
この列車は、筑豊本線経由で熊本へ向かっている。つまり博多を通らない急行列車である。距離だけで見れば、博多経由より若干短いのに加え、沿線の直方、飯塚の下車客の配慮もあったのだろう(当時、博多~飯塚間の篠栗線は全通していない)。今のように博多に一極集中している列車体系からは考えも付かない設定である。
加えて、当時の特急「かもめ」でさえも、小倉で長崎・佐世保編成を分割、長崎行きが鹿児島本線経由、佐世保行きが筑豊本線経由で運転され、両者が再び合流する原田~鳥栖~肥前山口では、2列車が10分の違いで雁行していた。
さて、峠近くの高台から「天草」を迎え打ったのが上の写真。右に見える青年は? なにを隠そう40年前の特派員そのものである。当時は、モノクロとカラー、2台のカメラで写していた。モノクロは手持ち、カラーはヘナヘナの三脚に据え、レリーズを押して写していた。本人を避けてカメラを据えたつもりが、しっかりと画面に入ってしまったという次第。
並行する国道は2、3年前までは未舗装だったが、改良工事で車線も広げられて舗装された。その際に真っ白なコンクリートで山肌が固められてしまい、随分様相が変わってしまった。
いっぽう、貨物列車は、飯塚に集結した石炭列車は、若松や苅田港へ送られるので、この区間を通ることはないが、それでも一時間に一本程度は上下列車が通過する。まだD51はごく僅か、ほとんどがD50、D60だった時代である。
天然色写真で巡る40年前の九州 (9)
新年早々、湯口先輩、藤本さん、西村さん、KH生さんの投稿も拝見し、不肖、総本家青信号特派員は今年もセッセと投稿を続けていくことにします。
鹿児島本線のC60・C61
今回の九州行きの大きな目的は、完全電化間近の鹿児島本線で、C60・C61を撮ることだった。昭和44年のこの時期、C60・C61に関しては、東北の牙城だった盛岡区は、前年の東北本線完全電化で姿を消し、奥羽本線用に青森区が残るのみ。九州は、長崎本線のDL化で鳥栖区になく、残るは鹿児島本線用の鹿児島区のみで、それも昭和45年10月に予定されている鹿児島本線熊本~西鹿児島間の電化までの命で、風前の灯だった。同じハドソン機でも、函館本線、呉線で急行列車をなおも牽いていたC62とは対照的だった。
さて、鹿児島本線の電化が迫っていたが、何ヵ所かは別線になる区間があり、まだ架線柱のない正統写真が撮れる。鹿児島に近い、上伊集院~薩摩松元間がその代表であった。単線ではあるが、旅客、貨物ともかなりの頻度で通り、しかも10~20‰の勾配が続く。
上伊集院から歩くこと10数分、いきなりやってきたのが、写真の下り急行「桜島」だった。牽引はC60102である。この時期の「桜島」は、東海道線最後の急行で名を売った「桜島・高千穂」時代のものでなく、大阪~西鹿児島間の不定期急行で、写真のようにグリーン車1両のみ、あとはすべてハザという列車であった。優等列車で蒸機牽引はこの「桜島」などの不定期・臨時列車のみ、あとはDD51牽引、普通列車はC60またはC61、貨物列車はD51、面白いのは、伊集院方から国鉄に乗り入れる鹿児島交通のDCで、車両は前記のキハ100ではなく、国鉄キハ10をベースにしたキハ300形が単行で使用されていた。また山野線の貨物を牽くC56が回送として普通列車にブラ下がっていく光景も見られた。
天然色写真で巡る40年前の九州 (8)
指宿枕崎線に乗って南国の旅は続く。車窓から見る開聞岳は美しい円弧を描いている。終点の枕崎で鹿児島交通のキハ105に乗り換える。キハ100形101~106は、国鉄キハ07の100番台車と酷似した自社発注車で昭和27年製。赤に青帯という強烈な塗装が南国らしい。単行の車内は高校生で満員。この頃から田舎の高校生の車内マナーは悪かったが、現代のような悪態はなく、バンカラの延長ともとれる、まだ容認できるものであった。
鹿児島交通は、当時、枕崎と伊集院を結んでいた49.6kmの私鉄で、かつては南薩鉄道と名乗っていた。途中から分岐して知覧までの支線もあったが、水害によって訪れる4年前に廃止になっている。ちょうと中間の加世田に車庫がある。
加世田を有名にしたのは、7両の蒸機の廃車体である。いずれも自社で使用され、廃車後、10年以上前から野外に放置されたままになっている。その錆び方も尋常ではない。
下の写真の一枚目、1・2両目は、開業時に製造した大正2年製のハノーバー社製C型タンク機の2・1号機。3両目は4号機で、大正15年日車製のC型タンク機、二枚目の3両、先頭から13・14・12号機、いずれも国鉄C12形を飽和式に改めた自社機12形で、この3両が在籍していた。
加世田駅・車庫はこの放置蒸機だけでなく、オープンデッキの客車や貨車の廃車体もおびただしく、建屋も朽ち果てて末路を見る思いだったが、意外に長持ちし、昭和59年3月に廃止となった。直接の要因も、水害による不通区間の復旧困難のためで、最後までイベント蒸機の運転や軽快気動車の導入が検討されていたという。
天然色写真で振り返る40年前の九州(7)
蒸機を巡る九州の旅は続く。相変わらず夜行列車を活用した南北トンボ返りパターンだった。満員の夜行臨時急行「しろやま51号」で西鹿児島駅に降り立った。多くの蒸機が集結する鹿児島機関区でたっぷり時間を掛けて撮影し、久しぶりのユースホステルへ向かう途中の西鹿児島駅前で鹿児島市電をとらえる。
この時代の鹿児島市電、のちに廃止となる上町線、伊敷線も健在で、市電のピークを迎えていた。増加する需要に対処するため、廃止の続いていた大阪市電から大量の車両を購入していた。懐も豊かだったのだろうか、徹底的に改造され、鹿児島市電型ともいうべきスタイルに生まれ変わった。中には鹿児島では初登場となる連接車も含まれていた。
そのような中で現れたのは、412号(400形)と607号(600形)であった。
400形は、元は東京都電の木造ボギーの4000形で、鹿児島で半鋼製の正面二枚窓に改造された。東京と大阪の路面電車が在籍したのも鹿児島だけではないだろうか。しかし、この車両も大阪からの転属車両の増加に伴い、撮影したこの年には廃車されてしまう。
もう一方の600形は昭和34年の鹿児島生まれ。正面が小大小の3枚窓、方向幕上のヘッドライト、パンタ集電と、典型的な鹿児島市電スタイルである。それ以上に鹿児島を印象づけるのは、この黄と緑の塗装だろう。一見、ド派手な趣味の悪そうな塗装に見えるが、いかにも南国らしい鹿児島を印象付ける色である。事実、のちにクリームに赤帯が標準塗装となるが、リバイバル塗装として、この色が復活している。
この西鹿児島駅前、現在までに2回の路線移設を経て、九州新幹線の終点の駅前としての形を整え、電停名も鹿児島中央駅前となった。少し前、40年ぶりに駅前に立った。低床車1000・7000形が走る市電にも、観覧車がある駅前風景にも、当時の面影はなかった。
江若鉄道高島町駅のこと
しばらく掲示板から遠ざかっていましたが、年末になって思い残してきたことを書き連ねていきます。
まず、西村雅幸さんが以前に江若鉄道のDD13+オハ27を完成され、オハ27が留置してあった高島町駅構内をレイアウトに再現するための資料を求めておられる記事を読みました。
まずは模型の完成をお祝いするとともに、私の撮っていた高島町駅の写真を遅ればせながら載せたいと思います。
高島町は、終点の近江今津に近い主要駅で、一時は終点であっただけに、2面4線のホームのほか、側線も持つ広い構内でした。どうしても車両ばかりに目が行き、なかなか駅の施設にまでは目が行かないもので、私はこんな程度しか撮っていません。なにかの参考になれば幸いです。
われわれの鉄道趣味活動の原点ともいえる江若鉄道が模型で再現されることを願っています。
おじん2人ヨーロパ軽便 その23-12
THE GREAT LITTLE TRAINS of WALES その5
小生にしては珍しく約1か月の間隔があいてしまった。やれ嬉しや、この「どこまで続くぬかるみぞ」シリーズもやっと消え失せたか、とはかない喜びを感じた手合いがもし居れば、そ奴に呪いあれッ!
次に訪ねた VALE OF RHEIDOL RAILWAY は旧スレート運搬の産業鉄道ではなく、純粋の観光鉄道で、1902年12月22日開業。軌間1フィート11 1/2インチ(597mm)で、ウエールズ西岸 Cardigan Bay に面するリゾートタウン Aberystwyth の英国鉄道駅から Devils Bridge (滝があるそうな)まで、11 3/4マイル(約19km)の間に600フィート(約180m)程を、Afon Rheidol なる川に沿って上る。180mなんて丘もいいとこだが、そこはそれ、ほとんど山らしい山がない英国・ウエールズのことだから、山といってもいいのか。かつての「ウェールズの山」なる、心温まる映画をご記憶だろうか。
この鉄道はその後 Great Western 鉄道に属したが、その後国鉄に統合され、ご多分に洩れず1988年11月5日一旦停止した運行を、新組織で続けている。いきなり見た機関車はPRINS of WALES なる銘板を付けた3号機で、当線オリジナルの2号、GWR時代は1213号、国鉄時代に9に改番。1902年 Daves & Metcalfe 製1C1タンク。ため色というのか、海老茶色というべきか、実に美しく、かつ軌間からは信じられないほどでっかいアウトサイドフレーム機関車で、サイドタンクが大きく煙室の前まで伸び、さらにその前にエアコンプレッサーがどかんと立っている。連結器はドロップフック。キャブの少し前から幅が広がっているのは何でか。
機関車はこのように素晴らしいのだが、客車はいささか、機関車にマッチしているとは云いかねる。運行は1999年の場合4月2日から10月28日まで、月、金曜日には運休する日があり、大方は Aberystwyth 11時、14時30分発、Devils Bridge 発13時、16時30分の2往復だが、6~9月には4往復する日が計32日ある。運賃は往復で大人10.5ポンドと高いが、小人は大人1人につき2人まで各1ポンド、これを超えると1人5.25ポンド、犬1匹1ポンドとある。一等車は片道1ポンドプラス。他に交通機関はないと見え、運賃は往復のみの設定であった。
上ってくる列車を撮るべく場所を探したが、何分線路両側とも森が深く、おまけに著しく狭く、カーブもきつく、見通しは全くきかない。パンフレットにもあまり展望の開けた写真は無いようで、土地不案内者にはどうしょうもない。走行中の機関車は8号で、これはGWR時代の1923年増備、やはり1C1でGRW Swindon 工場製。名前は「LLYWELYN」 だが、例によってウエールズ語だから何と発音するのか。スリヴェリン?
我々は滝には興味がなく、途中山をやや外れたあたりでの「走り」を撮ろうと、不案内の猛烈に狭い道を山勘で走っていたらタイヤがパンクした。万一に備え軍手まで持ってきてはいたが、弱ったのは道が狭く、もし対向車なり追い越し車がきたらどうにもならない。仕方なく農家の矢張り狭い駐車場を無断で一時占有させて貰い、タイヤを替えた。レンタカーでかなり各地を走ったが、パンクは唯一の経験だった。このお陰で「走り」は諦めざるを得なかった。
Aberystwyth まで下りて来て、British Rail の駅でディーゼルカーを撮ったが、駅近辺に何と何と、単気筒の内燃機関車が半分朽ち、赤錆姿で鎮座しているではないか。ラストン1915年製で、製番50823、煙突まわりは新しい同社DLも同じ雰囲気である。通りかかった鉄道従業員と思しきオッサンは、親切に「こいつはペトロル(ガソリン)で始動、温まったらパラフィン(灯油=米語ならケロシン)い切り替えた」と教えてくれた。そんならフォードソンと同じである。
しかし1915(大正4)年で単気筒とは。我国では実に1904(明治37)年、大阪難波で福岡駒吉が焼玉ではあるが5馬力の単気筒石油発動機関車を生み出し、翌年以降北九州の軌道に約80台を馬車軌道の馬に替わる「日本版アイアンホース」として供給しているから、これは世界的にも誇ってよい。
その隣には1930年製のディーゼル機関車がいた。また現役の10なる短く小さい入換用DLがいた。
三岐の貨物
三岐鉄道で遊んできました。以前から興味はあるものの、少し行きにくい場所であったことから今回初めての訪問です。’66小林隊長と私(’67澤村)は朝8時京阪樟葉駅を出発、新名神経由で10時前に現地に到着。さっそく隊長から単回2002レと貨503レをキャッチせよとの命令が。ロケハンするほどの時間もなく暁学園前付近で列車の通過を楽しみました。
その後近鉄富田駅で’67涌田隊員が合流、3名となった小林隊は沿線各地に貨物列車を追いかけたのであります。
今回は偵察のつもりで出かけたのですが、9時帯から16時にかけて上下12本の貨物列車が設定されており、また沿線各所に展示館、保存車両や模型鉄道まであって一日飽きることのない楽しい場所でした。次回は春先に残雪の藤原岳を眺めながら撮影を楽しみたいと思っています。タキを連ねた列車は模型化も楽しそう・・・
行橋区のC5058のこと
以前にK.H.生さんからのコメントで行橋のことが話題になり、行橋機関区の名物だったC5058の写真を載せますと約束してから随分時間が経ってしまいました。やっとネガを探し当てましたので、ここに掲載いたします。
撮影した昭和42年当時、行橋機関区には、C50が5両配置され、田川線、日豊本線で旅客列車を牽くほか、入換用としても使われていました。当時、日豊本線は新田原まで電化が完成していましたが、一部はまだ蒸機牽引で残っていたのです。
写真のC5058には、門鉄デフに波と千鳥の装飾が入っています。門鉄デフ機に装飾のあるカマは九州で何両かあり、いちばん有名だったのは「かもめ」牽引用のC5711です。我らが山科の人間国宝が撮られた最盛期の貴重な写真が雑誌にも発表されています。ほかにも数両がありましたが、すべて旅客列車の先頭に立つC55、C57ばかりで、C50のような入換用が主務のカマに装飾が施されたのは唯一この58号だけと思います。
C50の牽く旅客列車は小山区の両毛線・水戸線が有名でしたが、ほかには行橋だけでした。それだけに客車列車の先頭を行くC50に少しでも華やかさを演出してやりたいという区の思いがあったのでしょうか。
蒸機の中ではいちばん地味で目立たなかったC50ですが、他区のようにトラ模様に塗られた入換のC50とは、別形式のような整備の行き届いた好ましいスタイルです。行橋に限らず、若松、直方、後藤寺と、筑豊の機関車はたいへん美しかったのです。
最近、「ばんえつ物語」用のC57180が門デフになり、しかも波と鴎の装飾入りと取って付けたような姿になったのには驚かされました。

デフに波に千鳥の飾りをつけたC5058

門司港発柳ヶ浦行1529レを牽いて夕方の行橋を出発(昭和42年3月)
おじん2人ヨーロッパ軽便 その23-10
THE GREAT LITTLE TRAINS of WALES その3 TALYLLYN RAILWAY その1
TALYLLYN はウエールズ語だから、L が二つ重なった場合に限り先のL はスと発音するので、タリスリンと読む。軌間は2フィート3インチ(685.8mm)という半端な、実に可愛い軽便鉄道で、ウエールズ編最初に入れた The Great Little Trains of Wales パンフからの地図では⑤である。
後日紹介する幾つかの鉄道と同じく、これはウエールズ特産のスレートを港まで搬出するための産業鉄道であった。1866年12月に開業し、1950年10月廃止されたが、翌年保存鉄道として再開し、かような分野では最古参になる。延長は約12.5km、起点の Tywyn (どう発音するか分からない)Wharf をゼロとすると、ほぼ上り勾配が続くが、終点の Nant Gwernol は269フィート(82m) だから大したことはない。
日本の建築用材料でスレートというとセメントやガラスウールで作った人造素材だろう(乙訓老人よ、解説を)が、本来は天然素材で、結晶板を薄く削ぎ、石造や木造建築物の屋根、壁面などに貼り付ける。南部の石炭(ジョン・フォードが都合4回アカデミー監督賞を得たそのひとつ「我が谷は緑なりき」を思い出す人もいるだろう)と共に、ウエールズ北部はこのスレートが特産物で、採石場がいっぱいあった。当初の橇や馬車から、軽便鉄道を敷設して港まで本格的に搬出されだしたのだが、本来大規模な綿織物業者だったこの鉄道の創始者は、南北戦争のため米国から原綿の輸入が止まって商売が出来ず、スレートに転進した由である。

ヨーロッパの軽便鉄道といってもいろいろある。日本でなら例えば伊予鉄道がドイツ系、小坂鉄道が米国系の車両・流儀で建設され、英国系は青梅鉄道が代表であった。諸兄頸城鉄道自動車に廃止まで健在(実はその後何十年も六甲山中で生き残っていたのに、先年他車両搬出時壊れてしまった)だったニフ1という2軸客車をご記憶か。これは本来青梅鉄道の客車が魚沼鉄道を経たもので、これがいわば英国軽便鉄道系というべき小型客車である。
機関車も写真で見ると可愛いが、軌間に比し9~12トンと、そうは小さくなく、メーカーはフレチャー・ジェニングス、カー・スユアート、アンドリュー・バークレイなど。番号だけでなく、各タリスリン、サー・ハイドゥン、エドワード・トーマス、ペーター・サムなどの固有名詞を持つ。中にはお子様向けに煙室扉に「機関車トーマス」のお面?を付けたものもいた。
客車は4輪車とボギー車だが、その4輪車の可愛い事。特に1等車は2コンパートメントで、我々は共通乗車券に加え1ポンドの「お直り券」を奮発し、道後温泉に行く「坊ちゃん」気分を味わった。車内は当然狭いが、隣のコンパートメントとは高い背もたれと鏡で完全に仕切られ、窓は皮ベルトの穴に車体側のポッチをはめ、適当な位置に止められる。これは完全に馬車の名残で後自動車にも用いられたが、ずっと以前ドイツはキームゼー・バーンの客車で説明した時は写真がなかった。今回写りこんでいる不要な人物は無視して、「窓を途中好きなところに止められるシステム」のみご覧を。なお拙老の記憶に誤りなければ、関西国電に初登場した湘南=クハ86の運転席小窓がこれだった。パンタグラフ式バランサーが普及して姿を消した。
おじん2人ヨーロパ軽便 その23-9
THE GREAT LITTLE TRAINS of WALES その2 Welshpool & Llanfair Railway 2
この鉄道は1903年開業、1923年にはGWR(Great Western Railway)のグループになり、1931年旅客取扱を停止、1948年には British Railways の傘下になったものの1956年1956年11月2日最終に廃止。その後有志の手で1963年再開されたものである。運行は8月がフル、6月に7日、7月に5日の非運行日があり、4月は14日、5月12日、10月9日、11月5日のみ運行=1999年現在。現時点の運行日はインターネットのサイトで確認頂きたいが、大体同じようなもの。
現在ではボランティアによるレストアの結果可動車両も増加し、さらに客車を含め仲間入りした車両も増えている。我々が覗いた時点列車は3往復だが、ここでも Special Timetable will operate on BANK HOLIDAYS として、年間6回6往復の日がある。この Bank Holiday はマン島の Groudle Glen Railway でもお目にかかった表現だが、銀行休日というのがいまいち理解できない。ボランティア・スタッフに銀行員がいるから、というのでもなさそうで、どなたかご存知の方、解説してくだされ。
さて列車撮影にかかる。ここも沿線に羊の放牧地が多く、例により厳重な生垣で線路両側が閉ざされて撮影場所選定は厄介である。それでも車を走らせているうちに好適地を何か所か発見。列車速度が遅いので、ある程度追っかけも可能であった。また踏切は無人停留場に隣接するよう設定されており、駅に接近した列車から機関助手が降りて線路を塞いでいた柵を90度回転させ道路を閉鎖。
なお車両基地には8号(Dougal)なる、キャブ屋根・前後妻板のないチッポケな機関車がいる。1946年バークレイ製、グラスゴーの瓦斯会社で1958年まで働いていたが、滅多やたらと背が低いのは、元来極めて狭苦しい環境で就役するための特注車両だったからだが、時には動くこともある。
天然色写真で振り返る40年前の九州(6)
九州山地を横断する久大本線にはD60が使われていた。久留米側では朝夕に鳥栖区のハチロク牽引の列車もあったが、山間部は大分区のD60が客貨を一手に受け持っていた。D50を二軸従台車にしたD60は、少し前まで、九州では筑豊本線、日豊本線、本州では山口線、紀勢本線、磐越東線と各地で使用されていたが、次第に減じて、当時では、大分区と直方区に残るだけだった。
久大本線は高校生のときに全区間乗車して撮影に適した線であるとの認識はあったが、いざ行こうとしても撮影地ガイド的な情報がない。五万分一の地図で探し求め、見つけたのが由布院付近のΩカーブだった。今でこそ由布院付近は名立たる撮影地となり、また観光地としても著名になっているが、当時はまだ山間の秘湯であった。
由布院駅前に立つと、春霞に包また由布岳が聳え立つ。つい数日前の春の雪で頂上付近は白く化粧している。ここから、野矢、南由布に両方向へ90度近いカーブを描いている。野矢へは25‰勾配が続き、サミットとなる水分峠はトンネルで越えて野矢へ至っている。南由布方面とは線路がほぼ平行しており、はるか眼下に南由布を発車するD60が見え、以来、由布院を通って峠へ向かってくるブラストが延々と聞こえてくる。ひたすらトンネル方向へ歩き、やって来た下り列車をとらえた。門デフを備えたD6061の牽引であった。
余談ながら、この写真の一本前の列車を手前付近でとらえ、当時の「鉄道ピクトリアル」の鉄道写真コンクールに応募したところ、推選に入賞した。縦位置にして由布岳を大きく入れ、登ってくるD60を135mmで正面に入れた構図だった。応募したなかで、本命視していた写真が選外になり、なかばアテ馬的に応募した写真が推選となった。選者の高松吉太郎さんから「日本画を見るような柔らかさの中に力強さを感じる」とコメントをされ、なるほどそんな見方もあるのかと思ったものだ。以来、写真の評価など、十人十色だと思うようになった。
最新! 中国東北部・韓国駆け足紀行
中国特派員氏に刺激を受けて瀋陽郊外調兵山の上遊型蒸機を見に行った。ガイドしてくれたのはこの間まで立命に語学留学していた謝さんという若い女性。これは朝の風景だが久しぶりに煙のある活気に満ちた駅に懐かしさを感じた。
これは王千駅に停車中の上遊型蒸機1772号で、この後、2~3分運転をさせてもらった。動いていたのは3両で一部ディーゼル機関車牽引の列車もあった。
撫順炭鉱砿務局駅に到着した旧満鉄ジテ。最近は殆ど稼動していないと言う事で車庫にでも見に行こうとしていたら幸運にもやって来た。
京阪の複々線を行く流線型1000型を思い出す。この1本前に来た電車は綺麗に塗装され、車内にはテーブルが置かれ、花やご馳走が並んでいたが、大勢の幹部がこの駅で乗り込んだ。公安か職員か忘れたが撮影するなと言われた。
今回、大連では有名な日本製の路面電車を撮影。 他に長春にもあると聞くが今回は素通りして、10年前の厳冬期に訪問したハルビンの松花江を見に行った。この時ガイドにハルビンの昔の路面電車の話をしたら、路上に保存してあると言う。行ってみると結構往来の激しい路上に鎮座しており、この様な保存もあるのかと感心した。
ハルビンでは流線型の単車などが有名であったが、これは本当にハルビンを走っていたのか、何処で製造されたのか、定かではない。
天然色写真で巡る40年前の九州 (5)
大分交通にはほかにも、日豊本線杵築から国東まで国東線が、同じく宇佐からは豊後高田・宇佐八幡へ宇佐参宮線が伸びている。3線とも非電化で、緑とクリームに塗り分けられた気動車には、それぞれ愛称が付けられている。現在、紀州鉄道に残るキハ603は、耶馬溪線用として昭和35年に製造され、同線の廃止後、紀州鉄道へ転じたものである。
さらに大分と別府を結ぶ軌道の別大線も大分交通である。もちろん出自は様々だが、戦後の陸運統制で大分交通に一元化された。その後、大手バス会社に成長した大分交通は、鉄軌道部門の経営意欲を失い、昭和40年には宇佐参宮線、同41年には国東線が廃止となった。この2線の廃止で、在籍していた車両のほとんどがここ中津の車庫に集められ、写真で見られるような光景が出現した。DCあり、客車ありと、すごい数の車両が車庫を埋め尽くしている。建屋の中にはクラウス社製の蒸機1444号機も保存されていた。
客車は宇佐参宮の団体列車など波動用として多くを保有していた。ボキーあり、二軸あり、片ボギーありで、そのほとんどが木造車である。この時代でも、木造車は地方のローカル私鉄に辛うじて残っている程度で、これほどのズラリ並んだ木造車は、たいへん珍しい光景だった。しかも、訪問するつい4年ぐらい前までは、これら二軸車が現役で走っていたというから驚きで、今も整備状態も良く留置されている。ほとんどの車籍はなかったが、男子更衣室、女子更衣室といった札が各車両に掲げられ、有効に活用されている様子だった。
その後、この耶馬溪線も昭和46年に山間部の野路~守実温泉が部分廃止され、残る中津~野路も昭和50年に廃止、軌道の別大線も昭和47年に廃止され、大分交通から鉄軌道はすべて消えてしまうのである。
CRHの旅Ⅱ Part7 京津城際鉄路 335km/h!
翌日は、中々乗車できないシーメンス社製の、CRH3の乗車を目指しました。
オリンピックのおかかげで、天津中心部から天津駅までの交通アクセスは、道路の拡張、橋の新設等があって飛躍的に早くなりました。以前、ラッシュ時は、タクシーに乗車して、30分ではとても行けなかったのですが、約10分で到着です。 続きを読む
天然色写真で巡る40年前の九州 (4)
筑豊から夜行に乗り大畑へ、また夜行に乗って久大本線へ戻り、再び夜行で上伊集院へと、九州を南へ北への旅は続く。九州では、門司港を起点として、長崎、西鹿児島、宮崎へと夜行の急行・普通が相互発着していた。夜行に乗って朝起きると、乗り継ぐローカル列車もうまく一番列車に接続し、朝のラッシュ時の蒸機列車から総ナメで、たっぷり一日撮影ができるという、今から考えると本当に撮影には恵まれた効率のいい時代だった。
行程の半分あたりの日に、宮崎でI氏と合流した。氏は宮崎にはたいへん執心され、その後も数日を掛けて訪れている。鉄道以外にも種々の理由もあると聞いたが詳らかではない。
今日はそのI氏に案内されて初めての田野を訪れた。日豊本線は、前年まで健在だったC55はもう見られないものの、C57の天下となり、旅客列車はもちろん貨物列車までもC57牽引という徹底ぶり。日豊本線はのちにC57の牽く最後の蒸機急行とし名を馳せるが、この時代は逆に優等列車はDF50牽引だった。
さすが南国、宮崎。ポカポカ陽気で、同じ九州でも明らかに北九州とは気候が違う。たいへん気持ちがいいのだが、ついつい夜行の疲れで、線路端でウツラウツラしてしまう。
ここ田野の築堤で上り特急「富士」をとらえた。別の日にも佐土原で「彗星」をとらえている。富士」は、東京から日豊本線経由で西鹿児島まで、日本一長距離を走る特急だった。「彗星」は、昭和43年10月改正で新大阪~宮崎間を走り始めた。どちらも20系客車で、あざやかな車体色はまさにカラー向きの列車であった。20系の後継となる14系は昭和46年の誕生だから、寝台客車特急はすべて20系だった時代で約400両あった。貧乏旅行の私は、20系には乗ることなく終わってしまったが、この時代の憧れの象徴だった。
20系の先頭に立つ牽引機もその時代を象徴していた。蒸機ならやはりC62、電機なら同色でまとめたEF60、65Pがいちばん相応しい。DLとなると、DD51時代が長かったが、やはり凸形が長編成を牽くのは似合わない。DF50こそ相応しい牽引機に映る。DF50の派手な新塗装も案外ブルーの車体にマッチしていた。山陰本線の普通列車を牽く地味なDF50しか知らなかった身には、ずいぶん華やかな存在と映った。
CRHの旅Ⅱ Part6 出た!334km/h CRH2-300
着いた北京南駅は、空港と間違うような立派な駅でした。。
2Fタクシー降り場に着いて、自動ドアから入ると、高い天井から自然な光が降り注いでいました。屋根には、ソーラーパネルが取り付けられています。
これほど広くて、ゆったりとしたコンコースは、日本にはありません。コンコース中央部には、グランドピアノも置かれ、5ツ星ホテルのロビーのようでもあります。まあ、びっくりしました。 続きを読む
おじん2人ヨーロッパ軽便 その23-5
マン島鉄道 その5 グラウドルグレン鉄道

蒸気鉄道のダグラス駅がある高台からかなりの急坂を下るとダグラスの町が展開する。高級ホテルが並ぶ海岸通の南端 Clock Tower から軌間3フィートの Dougglas Horse Tramway が約2.6km北東の Derby Castle まで、観光客を乗せ営業している。その終点路面では、同じ3フィート軌間の Manx Electric Railway の電車が待っているが、馬車鉄道共々次回以降にご覧頂く。
そのマンクス・電気鉄道の木製電車(乗降は妻面から行う)に乗車して3km程、道路とその傍らを行く電車が川を少し遡り、馬蹄形に曲がって川を渡るのだが、その手前に Groudle 駅(無人)があり、そこで下車。ここがグラウドルグレン鉄道入口だが、看板には Operating Sundays & Bank Holidays(in season )と書いてあった。なぜ銀行休業日に運行するのかは?だが、銀行員がボランティアをしているのだろうか。
狭い川を渡り、何やらハイキングコースの如き小徑を結構歩いて起点 Lhen Coan である。狭いところにオモチャのような駅舎(叡山電鉄鞍馬駅のミニチュアみたいな)があり、軌間2フィートの線路、ちっちゃい汽車一式が待っている。海岸の Sea Lion Rocks まで2kmに満たないちっちゃなちっちゃな鉄道で、終点以外別段景勝地もない。

何やら叡山電鉄鞍馬駅のミニチュアのような
右側の店はスーベニールショップ
1896年に開通し、戦時中を除き営業したが1962年廃止に。それをボランティアが1962年から復旧に取り組み、1986年運転を再開。訪ねた1999年では4月4日のイースターとその翌日、5月2日~9月26日までの日曜日11時~16時30分。それに8月3、10、17日(各火曜日)と7~18日の水曜日に限り、なぜか夜間19時~21時のみ運行する。
我々の訪問も、企画・実施・運営すべてを取り仕切る先達=相棒(通称ウメムラツーリスト)が段取りして運行日に合わせていたのである。
天気は最悪で、これ以上暗くはなり得まいというぐらい暗かった(写真の上がりもピントもそれ以上に悪く、理由はすべて天候に帰しておく。相棒のは忌々しいがちゃんと写っていた)が、折角来たのだから1.8ポンド払って往復乗車券を買う。遊園地のお伽列車並みの客車が2両、それでも牽引は暦とした蒸機 SEA LION 号で、英国小形蒸機メーカーで有名な W.G.バグナル1896年製、僅か4トン。

もう1両は庫内におり、やはりバグナル1905年製 POLAR BEAR 号5トン、ウエスト・サセックス州で保存されていた機関車とか。他に Hunslet 1952年製5トンのディーゼル機関車が2両。Dolpin 、Walrus というプレートを付けている。
列車は30分毎に発車。森を抜けると真中に離合設備があり、シーズンには2個列車が走るのだろう。起点以外すべて無人で、途中停留場には Passengers wishing to bord train must give a clear signal to driver との表示があった。DRIVER とは正に英語で、米語なら ENGINEER と書くのだろう。
終点の Sea Lion Rocks も、この日の天候を割り引いても、わざわざ見に来るほどの景勝地とも思えないが、列車は機回りして付替え、しばしの停車後引き返す。

途中のリクエスト・ストップ停留場標識

この右先が終点 SEA LION ROCKS
ところでこのミニ鉄道、先に記したように、乗客は徒歩以外アプローチの方法がなく、以前は石炭すら人力で運んだのであろう。しかし現在では秘密の?管理用道路があるらしい。夢を壊すようだが、船でないと行けないのがウリの大牧温泉も、その実秘密の管理・物資補給用道路があり、熊が出るゾの標識で立寄りを防いでいる。船(関西電力経営=発電ダム建設→道路水没→永久補償)には食料等を全く積んでいない。



























































