越南(ベトナム)統一鉄道の旅 Part 1 旅立ち前

インドネシア、タイ、ミャンマー、ラオス、シンガポールと東南アジアの国々を旅してきましたが行きたいと思っていたベトナムには機会がないままでした。最近になりホーチミンに日本が開業援助した地下鉄が遅れながらも2024年7月に開業すると聞き昨年準備をしていましたが、ベトナム側の支払い不履行問題が発生して再度開業延期となりました。
待ちに待った発表がされたのは昨年12月22日の開業で、1ヵ月間は試運転として無料乗車となります。これでは混み合うのは必至ですので落ち着いてからが良いだろうと思っていました。

目的はもう一つ、日本と同じような南北に長い国土を持つベトナムには南北総延長1726kmの南北統一鉄道のメイン路線と、その他数本の鉄道路線があります。
南満州鉄道を走った客車もいると噂では聞きます。是非に真偽を確かめたいと思いました。

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リハビリを兼ねた関東からの日帰り旅行 7

<上信電鉄に揺られて富岡めぐり 1 2007.9.17>

9月の平日、休みを取って群馬県の富岡製糸場を訪ねた際、久しぶり上信電鉄に乗った。上信電鉄は高崎とコンニャクやネギで有名な下仁田を結ぶ33.7キロの地方私鉄で明治28(1895)年開業した歴史のある鉄道である。私は関西在住時の昭和57(1982)年1月、東京出張の折に全線乗車をしたので、25年ぶりとなる。

高崎にて。1301号+252号 下仁田のコンニャクメーカーのラッピング車

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 わが 鉄道熱中時代 ~8~

最終回、米原~田村の交直接続区間、“熱中時代”のその後を見て行きます。湖西線の開業、2回に渡る交直接続区間の変更に伴い、同区間を行き交った車両も、ずいぶん変わってきました。田村駅を通過する「白鳥」、初めて訪れた時、キハ80系14両編成の「白鳥」は最もまぶしい存在だった。それが、昭和47年10月の日本海縦貫線の全線電化で485系電車に変わり、昭和50年3月の湖西線経由変更で、同区間を通らなくなった。そして平成13年3月には運転を終える。電車化されてから、編成短縮、食堂車なしと、輝きを失ったものの、関西・北海道連絡の使命を持ち続けた昼行特急だった。

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 速報! ピク「京阪2600系」特集 発売

ローバー会メンバー、お知り合いが満載!

つい先ほど送られて来た鉄道ピクトリアル4月号「京阪2600系」。はて、私はこの号には写真投稿もしていなかったはず、訝りながらも、表紙から口絵、目次、本文へと  ページを進めるうちに、あの写真、この記事に、見たことのある名前が ! クローバー会の面々、私のお知り合いの名前が続々と誌面に出てきます。

本日午後3時30分、家に籠ってデジ青を楽しんでいる時、“ドサッ”という郵便物の投函が。見ると鉄道ピクトリアル4月号「京阪2600系」が。

感動のあまり、ページをめくる手の震えが止まらないほどです。影の編集長と言われるSさんから、“やってまっせ~、ええ本になります”と以前に聞いていましたが、言うことなしの充実ぶり。デジ青でもおなじみの、あの人、この方、本文執筆者のOさん、Sさん、Fさんの三本柱の記事も必読、Nさんのカラーはいつでも素晴らしいなぁ。DRFCなしでは、京阪特集は作れないという神話(?)が出来たのは、50、60年前のこと、しかし、その威光も次第に薄れて来たと危惧を感じていましたが、そんなことはない、いまもしっかり生きています。亡き沖中さんや湯口さんが活躍されていた60年前の再来ではないですか。編集後記を読みますと、ピク編集長が新人の頃、澤村達也さんにお世話になったことも述懐されています。以前の京阪特集号にも同様のことが書かれていて、ベテラン編集長にも強く残った事柄なのでしょう。鉄道雑誌に関しては、鉄道ジャーナルの休刊など、寂しいニュースが続いていますが、久しぶりの活力を、私にも与えてくれました。関係のない私に献本していただいたSさんにも感謝です。

 

 

 わが 鉄道熱中時代 ~7~

その後の交直接続区間 機関車編

米原~田村の交直接続区間の蒸機牽引は、昭和43年ごろに終わり、そのあとはDD50、DE10に代わり、“熱中時代”も終わりますが、その後も機会あるごとに同区間へ行き、その変化を確認してきました。同区間を含む北陸本線の出来事をまとめますと、昭和44年に直江津まで電化が完成、北陸本線は全線電化となります。昭和49年には湖西線が開業、大阪発着の特急などは同線経由となり、米原~田村は一挙に寂しくなりました。そして、平成3年には長浜まで直流化され、北陸本線にも新快速電車が走り、平成18年には、敦賀まで直流区間まで延伸、新快速も敦賀発着となります。

交流電機3形式のうち、その後も残ったのはEF70で、ED70、ED74なきあと、敦二区、富二区の81輌が田村~糸魚川で客貨を牽いて活躍した(田村付近)。

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JR美祢線のゆくえは?

令和5年の大雨で被災し、それ以来全線運休が続く美祢線ですが、未だに復旧方針が決まっていません。ようやくJR西がBRT化が妥当との態度表明をしましたが、55億円と約3~4年の工期を要するという試算です。更に高齢化、過疎化が進み、通学生も減るのは目に見えています。三江線に代わったバス路線も大幅な赤字で存続が危ぶまれています。美祢線も同じ轍を踏むのでしょうか。

いつものように、中国新聞記事を2つご紹介します。

令和7年1月22日 中国新聞朝刊

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リハビリを兼ねた 関東からの日帰り旅行6

<仙台空港線と登米の散策2 2007.5.19>
仙台まで新線乗車に行ったあとは、かねてから訪ねたいと思っていた登米(とよま。行政区の名称は「とめ」)まで足を伸ばした。仙台駅前から1日5本のバスで約一時間半、「宮城の明治村」の別名がよく似合う静かな町である。とよま明治村の停留所で降りて観光の拠点「遠山之里」に立ち寄り、ミュージアムの割引共通券を買って歩いて散策を楽しんだ。教育資料館→警察資料館→水沢県庁記念館の順に回り、展示品の中にかつて登米を走っていた仙北鉄道の写真を見つけ、まだ駅舎が残っていると聞き、県庁記念館で受付のベテラン女性に道を教えてもらった。予期せぬ廃線跡巡りに心が弾んだ。

旧登米駅舎の入口。腕木式信号機や車輪さえなければ見逃してしまうほど

後ろに回ると改札やホームなどがある。廃止後の施設を効果的に活用していたが

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 叡電“リバイバル721” 雪のなかを走る

叡山電鉄では、2月1日から700系最後のリニューアル未施工車の721号を、昭和62年にデビュー当時の塗装、アイボリー&マルーンに復刻し、「リバイバル721」として運転しています。一度は写しに行きたいと、以前の本稿でも述べましたが、今冬最強の寒波が訪れ、昨日未明に起きてみると、外は真っ白! またまた“雪が降ったら叡電へ”となりました。出町柳駅へ駆け付けると、叡山線の3本運用のなかに、うまく「リバイバル721」が入っていて、本格的な積雪のなか八瀬比叡山口、三宅八幡で撮影しました。

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京阪大津線のラッピング電車

京阪石坂線には多くのラッピング電車が走っています。ラッピング電車を好んで撮っているわけではありませんが、地元に住んでいるものとして四季折々に石坂線の写真を撮っていますので、その中にはラッピング電車の写真もあります。
また、昨年にはNHK大河ドラマ「光る君」、昨年の本屋大賞に選ばれた「成瀬は天下を取りにいく」と地元大津にちなんだラッピング電車が走りました。「光る君」は2月2日、「成瀬」は2月9日が最終運行となりましたので、これに合わせて少し紹介させていただきます。↑ 2024.9.4撮影「成瀬は天下を取る」ラッピング電車。

昨年本屋大賞を取ったこの本と続編は地元の施設、地名が実名で出てきて大人気です。ちなみに主人公の成瀬あかりの通っていた高校は私の卒業した高校で、それもあってこの電車はよく撮りました。
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 わが 鉄道熱中時代 ~6~

交直接続区間 米原~田村で熱中する ④

米原~田村の交直接続区間の歴史を少し。昭和32年10月、田村~敦賀で初の交流電化が成り、交流専用のED70が造られて客貨の牽引を始めます。米原~田村は複線化されますが非電化のままで、E10による蒸機接続を行なっていました。昭和37年12月に、同区間が直流電化され、田村駅の南側に交直セクションが設けられました。交流電化のテスト線区としても着目され、関門用のEF30の試作機1号機や、常磐線用の試作機ED461も、この区間でテストされたり、蒸機接続の代わりとして、日本車輌で試作されたDD931も入線しています。北陸本線は、北陸トンネルの開通により福井まで電化したのが昭和37年6月、金沢へは昭和38年4月で、電機もED74、EF70が新製され、逆に余剰のD50、D51が交直接続に転出し、私が初めて訪れた昭和40年に見た光景へと続いていきます。今回は、この時代の田村以北の交流機の活躍を見ています(以下、昭和40、41年撮影)。初の量産形の交流電機、ED70の 1号機が牽く上り普通列車、昭和32年に1~ 18が、翌々年に改良形となる19の計19両全機が製造され、おもに客車列車を牽いた。同機は長浜鉄道スクエアで保存中。田村~長浜

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 わが 鉄道熱中時代 ~5~

交直接続区間 米原~田村で熱中する ③

初めて米原~田村の交直接続区間を訪れた昭和40年は、湖西線が開業するもっと前のことで、その前身たる江若鉄道がまだ元気に走っていた時代でした。京都・大阪から北陸方面への旅客・貨物は、すべて米原経由で運転されていました。名古屋方面からの列車も加わって、米原~田村はボトルネックのようになって、列車の頻度も相当なものがありました。今回は、蒸機・電機以外の電車。DCを見ました(昭和40年8月、41年2月撮影)。特急用の481系交直両用電車は、その前年、昭和39年12月から走り始めたばかりで、この区間では、大阪~富山の「雷鳥」、名古屋~富山の「しらさぎ」が見られた。朝に米原に着くと、まず通過するのは、下り「しらさぎ」で、ピッカピカの車体で、オリジナルのボンネットスタイルがまぶしかった。

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駅名喫茶店(第125回:鉄分補給にクイズでも(駅名読み方クイズ3))

久しぶりの駅名クイズです。ネタが無いための埋め合わせではございません。むしろネタがありすぎて、同時並行のまとめ作業で忙しい日々を送っている次第です。難読駅名はまだまだ沢山ありますよ。鉄分補給にいかがでしょうか。

駅名喫茶店(第111回:たまには駅名で涼みましょう(駅名読み方クイズ))

駅名喫茶店(第112回:蒸し暑い日こそ駅名で涼みましょう(駅名読み方クイズ2))

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リハビリを兼ねた 関東からの日帰り旅行5

昨年11~12月は、京都市電の写真展に忙殺されていたこともあり、関東の日帰り旅行の掲載を滞っていました。ネタはありますので再開します。関西の皆さんにとっては馴染みのない路線が続くと思いますが、ご了承ください。

<仙台空港線と登米の散策1 2007.5.19>
2007年はこの年の3月18日に開通した、仙台空港アクセス線(仙台空港鉄道)に乗りに行った。仙台空港アクセス線は全列車仙台~仙台空港の直通運転。途中名取までは東北本線を走り、名取からは仙台空港鉄道の新線高架区間だが、JRの運転手がそのまま乗務していた。ワンマン運転でドアの開閉、ホーム確認は運転手が行う。単線の高架を100㎞以上で快走し、ほどなく仙台空港駅。

仙台駅3番ホーム。JRのE721系

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 わが 鉄道熱中時代 ~4~

交直接続区間 米原~田村で熱中する ② 

客貨列車の牽引はすべて蒸機だった交直接続区間に、昭和37年に、注目の電気機関車が登場します。ED30(二代目)の新製で、この区間へ専用の交直電機の配置は初めてでした。EF55の3号機の部品を再利用して、浜松工場で製作されましたが、EF13以来の凸型で、交直両用を示す鮮やかなローズピンクの塗装と相まって、強烈な印象となりました。さらに増備も計画されていたようですが、結局1両だけに留まり、昭和43年ごろに鉄道技術研究所へ実験用として送られたと言われています(昭和40~43年撮影)。蒸機牽引で行なわれていた米原~田村の交直接続区間に、突如、特異な交直両用電機、ED30が出現した。凸型、交差形パンタを装備し、派手なローズピンクの塗装をまとっていた。

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 わが 鉄道熱中時代 ~3~

交直接続区間 米原~田村で熱中する ①

いまでは、“交直接続”という言葉も死語に近くなりましたが、北陸本線の米原~田村には、平成3年まで交直接続区間がありました。交直両用機がない時代、客車列車は、米原で直流機から蒸機に付け替えて、田村まで4.7kmを走り、あとは交流機に代わるという煩雑な付替作業が伴いましたが、その分、さまざまな車両が見られたのが、この区間の魅力で、昭和40年に初めて行って、その後何度も撮影することになります(以下、昭和40~42年撮影)。

米原まで来ると、ここは名古屋鉄道管理局の駅であり、ホームに吊り下げられている「のりかえ敦賀・金沢方面」の案内を見て、北陸方面に向かう高揚感を覚えたものだ。上下線ホームが分離した広大な構造で、貨車がびっしり詰まった操車場、忙しそうに行き交う入換機、国鉄の一大ジャンクションであることを強く感じたものだ。北陸本線ホームへ行くと、待望のD50の牽く列車が発車を待っていた。初めて写すD50だった。

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駅名純喫茶店(1/21:ことでんに新駅誕生の予定。)

2020年に伏石駅を開業させたばかりの「ことでん」ですが、2026年度中にまた新駅開業とのこと。新造車両も予定しており、ノリにノッています。https://www.youtube.com/watch?v=SYBX2fjX1I8

DF50の予潤滑スイッチ!?

SNS等をネットサーフィンすると、こんなことがあったのかと驚かされることが間々あるのだが、先日、松田優作バリに「何じゃ、こりゃ!」と叫んでしまいそうな写真を発見した。

4枚組の写真は、1枚目がM.A.N.製のV6V22/30mA(撮影時期からDF50 537号?)、2枚目が制御箱内上段(同扉が上下段に分割されていないので、Sulzerならば50号以前、M.A.N.ならば549号(?)以前と思われるが、機号不明)、3,4枚目が機関士席の写真であった。

問題は、この3,4枚目である。機関士席パネルの表示灯(「主電動機送風電動機停止」及び「第1弱界磁」)の左側にポツンとスイッチが1個取り付けられている。下の写真のようなイメージである。   ▲機関士席(DF50 41号2E、1981.07.28)

K14Aブレーキ弁の検査日付からDF50 17号2Eの機関士席の写真と思われ、同スイッチ上部には「予潤滑」と読めるような手書きのラベルが貼り付けられていた。DD51やDE10形式の機関車には標準で取り付けられているスイッチではあるが、DF50にもオプションとは言え取り付けられていたことを、引退から41年を経過した今になって初めて知ることとなった。

この予潤滑スイッチは、名称から察すると潤滑油を循環させて機関始動を容易くするものと考えられるのだが、実際には機関を回転させ、そのシリンダとピストンの摩擦熱や圧縮過程におけるシリンダ内の温度上昇を利用して燃料の爆発を容易にしているだけのことと思われ、潤滑自体は結果論のように思われる。DD51やDE10形式の構造をよく知らないので、これらの形式ではどのようにこの機能を実現しているのかはわからないが、DF50については恐らく以下のようなものと思われる。

長野鉄道管理局で刊行されたDF50形電気式ディーゼル機関車運転取扱説明書では、冬季などで着火が困難なときとして「機関始動押スイッチと同時に機関停止押スイッチを押すことで、燃料を噴射することなく機関は回転し、摩擦熱により予熱され、適当な時期に機関停止押スイッチを離せば、機関は始動する」と書かれている。つまり、下図のように配線とスイッチを追加するだけのことで、多度津工場の匠にとっては造作のないことであったと思われる。ちなみに、この予潤滑スイッチを機関稼働中に押した場合には、単なる機関停止スイッチとして使用可能であることもわかる(但し、機関停止直後にこの予潤滑スイッチから手を離す必要はありそうだが)。    ▲想定回路図

予潤滑スイッチの追加方法については、凡そのことは想像できたのであるが、わからないことがまだ残っている。

一点目は17号がいつこの改造を受けたのか、また17号以外にこの改造を受けた車はなかったのか、という点である。

二点目は、予潤滑スイッチに対するニーズがどこにあったのか、という点である。17号は四国以外での配属はなく、改造工場は多度津工場でしかない。高松、松山、高知は始発駅であるから出区してから出発までの間に機関を停止することはなかったであろう。多度津や伊予西条、阿波池田では入区したり、もしくは出発線で停車時間中に機関を停止する場面もあった。ただ阿波池田を除けば、そこまでは寒くなかったであろう。後は斗賀野ぐらいであろうか。夕方に石灰を積み込んでから多ノ郷へ向かうまでに、斗賀野駅4番線で2時間余り停車していたので、駅東側の住民の方から苦情があったのかもしれない。その間、機関を停止していたのかどうかまでは確認していないが、その可能性は高いと思われる。また、同じ盆地内にある西佐川駅では、分岐器凍結防止のためのカンテラが常備されていたことを考えると(斗賀野駅に常備されていたかどうかは知らない)、斗賀野駅での機関停止後の再始動に不安があったのかもしれない。ただ予潤滑スイッチがなくとも、機関始動押スイッチと機関停止押スイッチを同時に押すだけで同等の対応は可能であり、他の車にこの改造が広がることはなかったものと思っている。

三点目は機関士の養成上、機関始動の手順をDE10と極力共通化させたい意図があったのだろうか、とも勘ぐれることである。予潤滑スイッチを押す前までの手順はDF50とDE10では大きく異なると思われるので、あり得ないとは思うのだが・・・。

何かご存知の方がいらっしゃれば、ご教示のほど、よろしくお願いいたします。

駅名純喫茶店(1/19:夢洲駅が開業しました)

2025年1月19日、夢洲駅(大阪メトロ中央線)が開業しました。新駅誕生はわくわくするものです。一方で廃駅となる駅もあり複雑な思いです。

ところで今回の夢洲延伸により、近鉄けいはんな線の車内アナウンスの声が変更されたとのこと。昨日まで担当されていた津田英治さんの訃報が、ちょうど昨日ありました。近鉄沿線で生まれ育った私にとって、津田さんのお声は両親の声に次いで身近な存在だったと思います。ご冥福をお祈り申し上げます。https://news.yahoo.co.jp/articles/628081809cd1ce8d457a343e5494b94aba725512

 わが鉄道熱中時代 ~2~

新幹線開業後の山科大カーブで熱中する ②

昭和39年10月、東海道新幹線開業後の山科大カーブを行き交った列車、今回は昼間の急行・準急列車、貨物列車です。昼間は、電車特急こそなくなったものの、急行・準急にはほとんど変化がなく運転されていました。ただ、その後の改正のたびに、廃止されていく運命にありました。電車特急を補完する東京~大阪(神戸)の電車急行は、新幹線開業後、一部の廃止があったものの、「六甲」「なにわ」「いこま」「よど」と、関西由来の愛称の4本が運転された。新幹線には、まだ高値感があり、主要な駅に停車し、自由席が主体の電車急行は、つねに人気があった。

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 わが鉄道熱中時代 ~1~

「鉄道少年の時代」として、小・中学生の頃に撮った写真を本欄に載せたことがあります。昭和36年のN電の廃止から、昭和39年の東海道新幹線の開業前後までの3年間でした。その鉄道少年も、高校に入ると鉄道へ興味をさらに傾注させ、撮影回数も増えていきます。以来60年、75歳となった高齢者ですが、社会人として成すべきことは、きっちり済ませたうえで、鉄道趣味を楽しんで来たつもりです。常軌を逸する活動は厳に謹んで来たはずですが、今から思うと、よくぞこれだけ撮っていたと思うケースもあります。鉄道趣味への熱量が、今とは違っていたと改めて感じ、そんな“熱中時代”を綴っていくことにしました。昭和39年10月の東海道新幹線の開業後に、山科の大カーブを行き交った記録を、熱中時代の第一号としました。

新幹線開業後の山科大カーブで熱中する ①

昭和39年10月、東海道新幹線が開業し、一夜にして、東海道の旅客輸送は、東海道線から東海道新幹線に移行します。ただ、それは昼間の電車特急「こだま」「つばめ」などから、新幹線「ひかり」「こだま」への移行だけで、国有鉄道として均質で平等なサービスが求められていた時代、昼間の特急列車は全廃されたものの、補完する昼間の急行・準急、夜行の特急、急行、準急はすべて据え置かれました。東海道新幹線の開業により、東海道を走る電車特急はたしかに消えたが、山科ではまだ特急を見ることができた。それが、北陸本線へ向かう「白鳥」、「雷鳥」だった。「白鳥」は、上野行き、青森行きの2編成併結で、82系14両という長編成で山科の大カーブを爆音を響かせて通過して行く。両数だけで見れば、特急「こだま」「つばめ」より長く、特急列車の洋々さを感じたものだった。

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