1968年8月2日鷹取工場の廃車蒸機群を、大急ぎで撮影したネガが出てきたので、事のついでにご笑覧に供する。詳細は省略するが仕事で鷹取工を訪ね、辞去の寸前ほんの5分ほどの間に、行き掛けの駄賃として走り回ったのだが、カメラが取材用でワイドレンズ装着だったから、ご覧のように「ともかく撮った」というだけ。48年前である。回送時はメインロッドを外すのが常識で、煙室扉が開けっ放しだったり、デフレクターが無かったりと、いずれも解体待ちの見るからに索漠とした悲しい姿ではある。
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2016年 初夏の北陸路一人旅 Part7 黒部渓谷展望ツアーに参加する
これからが黒部渓谷展望ツアーの開始です。ようやく実感がわき、ワクワク感が高まってきました。まずは黒部渓谷鉄道に乗車して欅平を目指します。
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選挙と広電
第24回参院選が公示され選挙戦が始まりました。すると広電恒例の啓発花電車が走ります。22日の中国新聞記事をご紹介します。
この写真では判りにくいのですが、使用される電車は元神戸市電の582号の筈です。かつて570型は17両もいたのですが 今ではこの582号1両だけとなっています。3年前の第23回参院選のときに I氏と一緒に撮影したショットを添付します。もうあれから3年経ったのだと 暑い夏の日を思い出しました。次回平成31年の参院選のとき この582号が元気でいるかどうかも気になりますが それよりも自分自身が元気でカメラ片手に広島の街を歩いているかを心配した方がよいのかも。まずは今回 7月10日までに一度出かけないといけません。昨夜来の大雨が上がり、晴れ間も見えてきたので 善は急げと出かけようと思ったら、瀬野付近での土砂崩れで115系4連が脱線して不通になっているそうで、出鼻をくじかれました。日を改めて出かけることにします。
2016年 初夏の北陸路一人旅 Part6 黒部渓谷展望ツアー参加できるか?
黒部渓谷展望ツアーとは宇奈月駅から黒部渓谷鉄道に乗車して終点の欅平駅まで行き、ここから関電の専用列車に乗り換えます。ここから普段は一般の観光客の立ち入る事のできない関西電力施設内の「専用列車」や「トンネル」、「竪坑エレベーター(高低差200m)」の体験と、周辺の白馬鑓ヶ岳、唐松岳などの北アルプスの山々が間近に展望できるといった特別なツアーなのです。
当日にきっぷを買って参加できるものではなく、事前の申し込み支払いが必要です。何といってもまだ通常解放されていない黒四ダムまでつながっている専用軌道に途中までですが乗車出来る事は、鉄ちゃんにとっては大きな魅力です。
毎年初夏から晩秋までの金~月曜日の1日4回、今年は6月3日~11月14日に開催される予定で、各便53名の参加募集をしています。今回は6月4日のクローバー会の富山ツアーに参加しますので、前乗りして初日の3日の参加を申し込みました。 続きを読む
2016年 初夏の北陸路一人旅 Part5 富山地方鉄道
第4日目 6月3日 その2
12:17 城端線撮影から約40分弱、北陸高速道を走り富山地方鉄道不二越上滝線の開発~月岡の水田地帯に到着しました。不二越上滝線は3回目の訪問になります。全線は17.3㌔ありますが、布市辺りまでは市内住宅地区を走りますので撮影地はなく、田園が広がる上掘~岩峅寺で気に入っています開発~月岡を選びました。
この辺りは散居村が多く、出雲平野の「築地松(ついじまつ)」と同じく、暴風・防雪対策のために住居の周りには屋敷林「垣入 ( かいにょ ) 」が設置されています。これを入れて撮ることにしました。
▲ 12:40 開発~月岡 Google座標; 36.630039, 137.255710
東急から来た17480系(元8590系)モハ17484+モハ17483)、岩峅寺行き621レです。
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2016年 初夏の北陸路一人旅 Part4 城端線
客車の座席―ロングとクロス
カビの生えたような古い写真ばかりを列挙し続けて誠に申し訳ないが、事のついでに国鉄ボギー客車の等級と座席につき、一席ブツことをお許し頂きたい。但し本格的な座席論などではなく、ホンの上っ面だけの茶飲み話程度である。
現在の電車での長距離ないし観光路線、都市間では特に競争が激しい区間などに、乗客優遇=他社線との差別化を目的にクロスシート、特に転換クロス車が投入されている。国鉄→JRの客車(通勤用多客改造車以外)、新幹線は等級にかかわらずすべてクロスである。しかし古くはそうでなかった。以下のような観点からの論及は、不勉強で従前見たことがないが、勿論例外はあっても、三等がクロス、あるいは転換片クロスだったのは、けして乗客優遇などという「優しい心遣い」などではなく、限られた床面に如何に多数の三等乗客を押し込むか、が目的だったと小生は考えている。反面一、二等はゆったりとくつろげるという観点から、ごく少ない例を除き、奥行きの深いロングシートが常識というか、当たり前であった。

九州鉄道イロブ1形式図(九州鉄道株式会社車輛図)
一二等ともロングシートだが、一等は一人毎にアームレストがある。 続きを読む
武庫之荘界隈と阪急ブレーブス
マルーンさんも認める阪急今津線沿線の有名校の同窓会は高齢の先生の出席し易い武庫之荘で行われた。桜の名所は4月8日では少し遅かったことは前回(2016.6.7デジ青72252「今春の撮影」)報告の通りであるが、もう一つ武庫之荘駅で今昔定点対比を考えていた。昔の撮影をした頃のプロ野球阪急ブレーブスのことと併せて報告したい。
武庫之荘駅での昔の記録は1968年10月17日で高速神戸発大阪梅田行き特急である。この日も西宮球場で行われた阪急-巨人の日本シリーズのPR、案内のため特急列車にヘッドマークが取りつけられていた。よく見ると駅のホーム柵には枕木が利用されており待合室もホームの中ほどにあるだけである。不便な感じもするが何となく昭和の時代の暖かさも感じられる。他の駅も概ねこのようんなのんびりしたものであった。電車は1034-1057の7連で今から見ると古さを感じる車両であるが半鋼製(阪急では全鋼製が多かったが)、吊り掛け車から全金製、カルダン車に発展した最初のグループで非常に近代的車両に思えた。それが、今では2代目1000系ができており時の経過の速さを感じる。ところで7両中前3両が3扉で後ろ4両が4扉であるが駅のアナウンスや乗車位置表示など混乱のないように誘導できていたのだろうか。会社によっては編成された車両のそれぞれの長さや扉の数がマチマチのところも多かったように思う。整列していたのに到着した車両の整列位置に扉がなくてお客は憤慨しながら両サイドの扉に向かって分散していったという話を聞いたことがある。
兵庫・鷹取工・高砂工・姫路6
その6に入る前に謹んで前稿の訂正を。加古川で撮影した2軸の救援車の形式をエ790と記したが、現に車体にちゃんとエ749とあるではないか。まさしく80歳目前の耄碌ぶりをさらけ出し、お恥ずかしいやら落ち込むやら。何卒ご寛容ありたい。
2軸木製救援車は最終時点エ740、エ770、エ790の3形式にまとめられ、エ740には旧客車だけでなく貨車からの改造も含まれる。あとの2形式の種車は、手荷物車、郵便車を含めた客車で、妻面に屋根上ランプ着脱作業のためのステップと手摺が残っているものが結構多かった。救援車になってからでも、出動は極めてまれ(本来ない方がいい)だから、屋根石油ランプが生きているものすらあった。加古川のエ749は当然形式740である。お詫びして訂正させて頂きます。
高砂を後にして姫路に。姫新線と播但線にはまだまだ木製客車が健在であった。鷹取工、高砂工に行ったのは先述の通り1955年7月16日だが、姫路はその前後に何回か行っているので、その間に撮影した車輌も一緒にご覧頂くことにする。

43年前の越美北線
ぶんしゅう殿の越前路の旅が連載され、なつかしく拝見しています。1973年(昭和48年)3月に越美北線を訪ねた際に追いかけたカマ28651が九頭竜湖に保存されていることを初めて知りました。以下は白山の山なみがまだ真っ白な3月15日の撮影です。
水害で橋が流され、長く不通となって廃線も話題になったのは確かこの橋だったように思いますが、ウロ覚えです。
「兵庫・鷹取工・高砂工・姫路5」に寄せて
久方ぶりに湯口大先輩のお宝画像が登場し、じっくりと拝見しています。その中で控車ヒ104が紹介されました。釈迦に説法のようで恐縮ながら、控車には航送用と構内用がありました。このヒ104は構内用だと思います。大きな駅や操車場で入換機関車とセットで使われていました。さすがに私はヒ100を見たことはありませんが、ヒ600は写していました。
広電ビール電車
よく冷えたビールが恋しい季節になってきましたが、こんな記事が載りました。詳しくは6月20日に広電ホームページにお知らせが載るそうです。
車両は768号のようです。768号は昭和40年代に大阪市交から広島にやってきた古老ですが、窓回りなどはかなり改造され、台車まで赤く塗られているようです。ところで 定員26名、広島・西広島間往復1時間40分で129800円だそうです。定員一杯の26人の団体として ひとり約5000円です。ビール飲み放題でお弁当付きだそうですが 決して安くはないように思います。そう思うと昨年の広島ツアーでの貸切電車は もちろんビールも弁当もありませんが 28名 約1時間で15000円 おひとり535円はお得感一杯でした。
兵庫・鷹取工・高砂工・姫路5
木次線で盛り上がって、その間丸1か月空いてしまったが、その5を続ける。タイトルに従い高砂工場に行くためには加古川で高砂線への乗り換えが必要である。加古川には機関支区があり、当時まだ複線だった山陽本線鷹取以西は塩屋手前まで、国道2号線に沿い、海側に張り付いて走る。このため台風などの強風時は波をかぶるため電車の運行が止まり、加古川線のC12が客車共急遽出動して神戸―西明石間を臨時代行運転したものである。その後複々線化で海面を埋めて新たに2線分の敷地を確保し、防波堤ができてこのようなことはないし、第一近くに機関車や客車は一切ない。
その加古川に、何故かヒ=控車がいた。これは機関車が入れない可動桟橋などに客貨車を押し込む際、機関車との間の「控え」に使うのが本来だが、桟橋などあるわけない加古川ではどんな使い方をしていたのか、確かめなかった。ご存知の方のご教示をお待ちする。

ここの救援車は2軸車の形式エ790で、この形式には前身が客車と貨車と2種があり、これは残念だが有蓋貨車の改造である。客車の成れの果てなら板バネが長い。 続きを読む
2016年 初夏の北陸路一人旅 Part3 白川郷、城端線
富山に行ったがや
昨年は西条に「白牡丹」を飲みに行ったじゃけん、今度は富山で、ちょっこし遠い黒部へ行くことになったがや。ということで、6月4日の午後12時に電鉄富山駅に集合したやちゃ。しかし、第一日本語弁の大阪弁と違って、第二日本語弁の富山弁で書いていくのはかなり難しちゃ。もう富山弁で書くのはやめとくが。
車体幅狭比べ
乙訓ご老人から名指しがあったからには、この世捨て人とて何ぞ申さねばならん。で、車体幅の狭い比べだが、諸兄もし拙著「花巻電鉄(上中下)」RM LIBRARY176~178をお買い求めいただいておるならば、上巻(176号)23頁をお開き下され。「主要狭幅車輌数値比較表」があって、幅福島交通軌道線(信達軌道←大日本軌道福島支社を改軌電化)の車体幅最大5呎6吋(1,676.4mm)とある。
この電気軌道は動力変更、3呎6吋改軌は鉄道聯隊の演習として実施したのだが、道路横断定規を改定しなかった=できなかったとは、道路の拡幅がなされなかったことに尽きる。軌道での車体幅は、併用する道路の「残り幅」で車体最大幅が決まるから、「へっつい」機関車が牽引していた客車の幅を、電車になっても拡げられなかったのである。
拙著表から福島より狭いものを探すと、沖縄馬車軌道1,440mm、日本硫黄(沼尻=旧耶麻軌道)の最も古い客車1~3が4呎10吋(1,473.2mm)、現在の富士急行が1067mmで開業する以前の冨士電気軌道(軌間2呎6吋)、それに笠間稲荷軌道(軌間2呎)が5呎(1,524mm)、花巻電気の軌道線4、5が5呎3吋(1,600.2mm)とある。動力が人間様の人車軌道では、4呎(1,219mm)程度もザラである。もっとも初期の車輌寸法は呎吋ではなく、尺寸が多いが。
現在でもバリバリ営業中の黒部峡谷鉄道だが、恐らく今では使っていない無蓋貨車改造の開放客車が1,640mm、三井鉱山神岡鉄道(軌間2呎)が1,650mmであった。これらを比較すると、福島交通の1,676mmとは、「3呎6吋の電車」としては著しく狭かったことが分かる。なお明治期―それも早い時点で開業した路面電車は、京都電気鉄道を含め6呎(1,828mm)が多かった。なお常識的な「軽便」では、車輌最大幅=車輌定規最大幅は7呎(2,133.6mm)が大方で、これは地方鉄道建設規程が定めている車輌定規の寸法だからだが、例えば1067mm改軌前での小坂鉄道ディーゼル機関車DC3、4は、勿論特別設計許可を得ていたが2,430mmもあった。
ところで、日本硫黄沼尻鉄道の無蓋貨車の写真があるので、ご愛嬌にご披露申し上げる。要は40輌あった沼尻名物の硫黄運搬用三枚側無蓋貨車セタなのだが、その最大幅1,540mm、実幅1,4656mm、内法1,390mmを実感頂くだけの目的である。だからなぜか貨車に乗車している若者3名はどうでもいいわけで、その名はプライバシーとして特に秘しておく=詮索も無用である。左の1名が手を下に伸ばしているのは、マイクで録音中なのである。撮影は1964年1月2日であった。
名鉄モ5200型
2016年 初夏の北陸路一人旅 Part2 越美北線の麦秋
第2日目 6月1日
7:30 昨日は久しぶりの304㌔の長距離ドライブが効いたのか疲れていました。朝1番の始発から撮影を始めるつもりでしたが熟睡で遅くの起床です。2番列車は10時以降になりますので、熱いコーヒーを入れてゆっくりと朝食を取ってからの出発にしました。
今日の撮影の最初の目的地は麦畑としました。福井は米どころですが転作による小麦の栽培も盛んな所で、昨日も水田と交互する場所が見かけました。小麦の生産量は北海道が最も多く全国の50%以上を占めていますが福井県も№5の生産地です。
小麦は秋から初冬に種をまき初夏に収穫期を迎えます。そして黄金色に実った麦畑は「麦秋」と呼ばれています。薄緑色になった水田と違ったコントラストを見せてくれています。
大野付近が多く見かけられましたので、今日は麦秋の中を行くDCを撮りたいと撮影ポイントを探すことから始めました。
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海外写真展開催のお知らせ
やっと目覚めた福島電鉄の思い出
デジ青【17434】2012年1月13付で須磨の大人から1971年4月12日に廃止となった軌道線について「出番でっせ!」と尻を叩かれた。目下幽閉の身であるので身動きできない、解放後に後塵を浴びさせてもらうとコメントを入れてから4年半近くなる。その間、身辺に……、言い訳が多い気ままな生活を送ってきたことで申し訳ない。そこで福島について思いを寄せてみた結果、、貨物列車が2ケ所から郊外に向けて運行していたことに思い当った。小学生の頃から京阪電車が天満橋~塩小路貨物駅間で貨物電車を走らせているのに興味を持っていたが、1955(昭和30)年6月25日に営業廃止となった。関西では近鉄、南海で残っていたが、両親の出生地、つまり田舎と現在の生活拠点の京都を結び種々雑多な物品が「小口便」と称するもので行きかいしていた。兄の結婚相手は近江八幡の人で、こちらは「飛脚便」で行き交いしていた。祖母は小口便を「チッキ便」と呼んでいたが、その違いはここでは触れない。















