盆休みとなると毎年のように大井川鐡道に通っていた。その起源は元京阪特急が走るようになったからで、新金谷駅徒歩1分の吉川(きっかわ)屋旅館が定宿になった。ある年は準特急氏、逗子の旦那様、総本家氏に加えJTS牧野1号氏と共に在庫ビールを飲み干してしまったが、翌朝は5時前に起床、金谷駅近辺に散開して寝台特急を迎えた。
その頃、木造国電のなれの果てに次いでステンレス車体の両運転台車が千頭駅に留置されるようになった。1950年代中期から各地で見られた日車型スタイルなのだが、このステンレス車1105号の銘板では昭和35年汽車会社となっていた。1105号は岳南鉄道に入線、お払い箱となるや大井川に来たものだ。
大鐡にはステンレスカー以外にアルミカーもあった。こちらは正真正銘の昭和38年日本車両製で、北陸鉄道加南線で走っていた。「しらさぎ号」と名付けられ国鉄のお株を奪ったようなものだ。日頃は2両だが多客時となると電気機器の相性あう2両と4両編成で走った。近鉄特急のお古が揃った時点でこちらも休車となり新金谷車庫の本線側の留置線が定位置となった。何時の間にやら見られなくなったので、車庫で聞いてみたら故郷の山中温泉に里帰りしたそうだ。
孤独な1両でのステンレス製
























