下津井電鉄の思い出

1955年3月末、初めて下津井電鉄を訪れている。前年8月、姉が四国善通寺で世帯を持ったことで、四国へ電車を訪ねる旅が始まった。最初の宇野線への踏み入れは京都21時発、四国連絡の夜行普通列車であった。東海道、山陽本線はC59牽引であったが、宇野線に入るとD50となった。途中交換の貨物列車もD50で、今から考えると乙線であったのだろう。茶屋町停車で夜目に気付いたのが荷物台付きの四角い電車、始めてみる軽便電車であった。だがこの年の乗車券は京都-高知間往復学割で、行き帰りに途中下車で善通寺に立ち寄っている。次は茶屋町下車で、軽便電車に乗って下津井から関西汽船で丸亀へ、そして琴参電車で善通寺入りしようと思った。

そして翌年春休み、茶屋町到着は深夜であった。下車した16才の少年以外は籠を担いだ行商人、岡山からの新聞であった。夜行列車到着時の駅ホームは賑やかになる。ホームの電灯は全て点灯され、荷扱い車掌と新聞配達人の大声の応酬がある。行商人は跨線橋を渡り、新聞屋は包みを担ぎ線路敷を歩き駅本屋側で待つリヤカーや自転車に運搬する。上り夜行普通列車は茶屋町交換のため、上下列車が出発した後のホームは消灯となり、夜のしじまは戻った。少年は待合室で転寝となり、駅の喧躁と共に目覚めたのだが、一番電車は出た後であった。二番電車の発車前に到着した下津井発一番は、前部の荷物台に魚のトロ箱を乗せた3両編成であった。先のthurukame君紹介の編成がその姿である。ホームに魚の匂いが立ち込める中、少年を乗せた新車2両編成は出発した。と共に睡魔が襲い気付いた時は山沿いを走っていた。窓外に下津井の甍を眺めつつ終点となった。ホーム端から見えた木造車庫には木造客車がぎっしり詰め込まれていた。車庫事務所の扉を開けたが無人で、ウロウロして怒られるのが嫌だから一旦改札を出た。港はすぐ傍で食堂も開店していた。この年カメラ持たずで、朝食後は下津井の街並みを拝見して丸亀への便船に乗った。その後来る筈が、DRFCで須磨の大人と出会い、ニブロクは彼の領域として近づかなかった。それが1961年3月thurukame君が訪問した事を知り、NEOPAN SSを借り名刺版プリントで訪問の時を探っていた。

1963年9月、富山から大阪に転勤、その翌年から四国、中国地区担当となった年の秋、午前中に丸亀で用務を果たし午後、関西汽船のフェリーボートで下津井を目指した。車庫には9年半前に見た木造客車の幾らかが残っていた。元気動車の一部は台枠足回り流用でナニワ工機タイプのMTc編成に更新改造されていた。その編成で茶屋町を目指し21km50分の快適な旅を万喫することが出来た。鷲羽山麓に取り付き、琴海から転がるように下るが、児島湾が見え隠れするうちに川沿いを児島の町に走り込んだ。児島からは田圃の中を淡々と走るが、元は児島湾であった干拓地のせいか水路をまたぐ築堤箇所が多いのに気付いた。

下津井電鉄の愛称は“しもでん”というが、仕事でも付き合いがあった。岡山市内の設計事務所から地区代理店に「電車の好きな大阪の営業マンが来たら立ち寄るように……」との伝言があった。何事ならん、と出向いたら「下電の宿舎で採用するから現場の建築屋に挨拶に行くように……」とのことであった。喜び勇んで天満屋隣のバスセンターから建築地・児島に向かった。下電のバスは当時定評があり、路線バスでもリアエンジンで快適さを売り物にしていた。四国に向かうときは岡山に立ち寄り1泊、早朝のバスで宇野へ、国道フェリーで高松上陸すれば午前中に一仕事出来た。何より連絡船の行列とは無縁であるから快適であった。岡山から高知に向かう時は下電バス→児島→下電→下津井→関西汽船→丸亀→国鉄のコースを辿ることもあった。こうした四国担当は大阪万博を前に終わった。

1966年京都転職後、四国の元得意先から呼び出しがあり出向くことがあった。その中には下電の診療所工事もあった。そして1972年4月児島-茶屋町間が廃線になった。世はバス時代で、電車の役割は鷲羽山の裾野、道路整備が遅れている地区のみとされた。それが瀬戸大橋開通を機に鷲羽山を中心に一大観光地として再開発する事業に下電は打って出た。

1988年4月10日JRの本州と四国のレイルがつながった。乙訓の老人は5月1日、下電を久しぶりに訪問した。橋の開通祝いは善通寺でやるべく、すき焼き肉と九条ねぎを背負っての出で立ちであった。この頃8ミリ撮影をしており、東下津井から始まる大カーブを畑の中から撮影することを目論んでいた。JR児島で下車したのは初めてで、西に歩くこと10分ばかりで下電児島に到着、けばけばしい装飾にびっくりした。改札内外共にも田舎の電車乗り場とは言えない装飾で、その中に1001号“赤いクレパス号”こと落書き電車が止まっていた。ほぼ満員の客を乗せ発車した。かぶりつきは先客の子供と鉄ちゃんに占拠されており、老人(この時は満50歳1日)は入り口近くで立ちん坊であった。展望電車“メリーベル号とは琴海駅で交換した。そして大カーブを辿り、ほぼ15年ぶりで下津井到着となった。

まず目についたものをOM10で撮った。今回プリントしてみたらご披露申し上げた「ざま」である。

富士カメラ店の店主はびっくり仰天、コンピュター技術駆使してやっとこさ黄色を弱く出来た、と言っている。モノクロはそれなりに見られるが、カラーは全くダメと言わねばならない。フィルムはFUJIネガカラー100で625の数字が入っている。1958年はNEOPAN SSで、30年後にまたしてもFUJIにやられた。その後、めでたく8ミリ撮影をしているが、これもFUJI COLORである。映写機が壊れたから廃棄済みである。どなたかシングル8対応の映写機お持ちでしょうか、声掛け願います。

丸亀へのフェリーは大型の新造船で、これに合わせて丸亀港も移転していた。

姉は2011年暮れに神に召されたが、今も善通寺との往来は継続中である。

投稿に並行して準特急氏から頂戴した、ナローゲージ鉄道・下電の戦後五十年“イーグルよ翔べ”を読んでいた。鉄道部門撤退、バス事業後退の中、生き残りをかけての企業の姿が画かれている。都市圏で何とか生き残っている日本の鉄道だが、百年後はどうなっているのだろうか。エネルギー効率の良い電鉄だと言っても世の中の潮流に乗れなくなると見放されるは必須である。その時のあがきが本書には説き起こされているようだ。筆者は同志社大学法学部出身である。何年度入学なのか知りたい。

これが名物落書き電車

これが名物落書き電車

掃かない車生だったメリーベル号

掃かない車生だったメリーベル号

富士フィルムは宣伝は上手、品質は一体どうなのか?

富士フィルムは宣伝は上手、品質は一体どうなのか?

べんけい号と名付けられていたが、どこを走ったのか不明

べんけい号と名付けられていたが、どこを走ったのか不明

西村君が紹介した他所で保存されたクハ6らしい

西村君が紹介した他所で保存されたクハらしい

廃線の井傘鉄道から入選したものらしい

廃線の井傘鉄道から入選したものらしい

トワイラ尾道

今日3月28日 トワイライトをどこで撮ろうかとあれこれ考えた末、尾道市街地通過風景と決めて早めに尾道へ。ご存じ 坂の街尾道の小路を上がったり下りたりしながらポイントを探すも気に入った場所が見つけられず、結局イージーな陸橋上からの撮影となってしまった。春休みとあって、高級なデジカメを持った小中学生が何人か撮りに来ていたのにはビックリした。

EF210-14牽く下り貨物列車

EF210-14牽く下り貨物列車

くEF651132牽くトワイライトが尾道を通り抜ける

くEF651132牽くトワイライトが尾道を通り抜ける

次回4月2日は尾道・糸崎間で狙うことにします。

京阪 雪景色

特派員氏のすばらしい写真に刺激されて、投稿します。京都市電もそうですが特派員氏のカメラアングルにはいつも感心します。私は高校、大学と通学に毎日墨染から三条へと京阪にお世話になったのですが、あまりに身近すぎて写真を撮っていないのです。市電や叡電も同様です。その点特派員氏は身近な日常をしっかり切り取っておられてさすがです。そんな京阪の雪景色のカラー写真が2コマだけあります。撮影日時が不明ですが多分昭和50年の2月か3月かです。このあとのコマが叡電鞍馬線なので墨染から鞍馬に向かう途中で五条駅で途中下車して撮ったようです。3000系が投入され1900が緑色になって各停運用に入っていた頃です。鴨川と疏水にはさまれて走る七条、三条間は四季おりおりの景色が楽しめてすばらしい区間でした。

京阪雪景色2

1900 淀屋橋行き各停

1900 淀屋橋行き各停

京阪(旧)3000系を思う (4)

京の風情を車窓に見て

最後の3000系が、臨時快速特急として、23日から土日に片道一本のみ走っている。ダブルデッカーを抜いた懐かしの7両編成を撮るべく、昨日、祇園四条から中書島を目指した。天気もいい、順光で撮れるはずだ。ところが、途中で車内放送とともに緊急停車。なんでも、寝屋川市付近で停電が発生し、全線で運転見合わせとのこと。結局、電車の中で1時間余り待たされた挙句、ようやく中書島に到着した。

何本かの上り電車が通り、つぎは1時間半遅れの3000系のはずだ。駅西方の遮断機が下りた。カーブの向こうから、その顔が見えた。っとそこに、スーッと手前ホームに下り電車が入線。無情にも下り電車の窓越しに3000系は通り過ぎるのだった。もう、計ったような、完璧なまでの被りだった。運に見放された一日だった。

閑話休題。3000系から見る鴨川沿いの車窓風景ほど、風情を感じさせるものはなかった。都市部での鉄道沿線では、稀有な例だと思う。それは、京都特有の行事でもあり、桜や雪と言った季節の移ろいでもあった。

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年の始めは、正月三が日の大増発から始まる。特急も10分ヘッドとなる。この時の目当ては、鳩マークをつけた、かつての特急車1900系だが、3000系もこれに伍して、超満員の客を運ぶ。四条駅のホームから吐き出された乗客は、たちまち、踏切を埋め尽くし、遮断機がが上がるや否や、いっせいに八坂神社を目指す。

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 いっぽう、夏は祇園祭だ。中でも、短時間に客が集中する16日の宵山の人出は圧巻だ。四条通は祇園から四条堀川まで、歩行者天国となり、広い四条大橋も人、人で埋まってしまう。3000系は人波をかき分けるようにして、四条通を渡る。

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台湾五分車のたび(その1)

3月14日から21日まで台湾に行ってまいりました。台湾は仕事では何度か行ったのですが、観光はなく、空港から工場のあった台中へはバスで直接移動、そのため台湾の鉄道は全く無縁でした。2009年に行かれたぶんしゅう先輩の台糖のナローゲージ、また昨年諸先輩方が投稿された台湾のレポートに触発され、中でも台湾で唯一現役稼動している虎尾糖廠を訪問したいと思いました。今回虎尾糖廠に加え、観光化された台糖新営鉄道文化園区、渓湖糖廠鉄道文化園区、烏樹林休閒園区を訪問しましたが、まだデジ青で発表されていないのではないかと思われる虎尾と、新営についてレポートさせていただきます。 続きを読む

大津百町大博覧会

地元におりながら報告が遅れてしまいましたが、先に総本家青信号特派員さまがご紹介されたように、先週土曜日より旧大津公会堂3階ホールにて西村先輩が製作され、一昨年の江若イベントで披露された江若鉄道三井寺下駅の情景、昨年の大津線100年イベントで披露された昭和40年代の浜大津周辺の情景のジオラマが一挙に展示されています。

手前が浜大津の情景、奥が江若鉄道三井寺下駅

手前が浜大津の情景、奥が江若鉄道三井寺下駅

これは大津歴史博物館が開催している大津百町大博覧会の一環として行なわれているもので、以前のイベントの時に出された江若鉄道の写真の他にも、歴史博物館所蔵の地図、写真が展示されています。また、この会場では見学に来た人が思い出をメモに書いて展示物の横に置けるようになっていて、ジオラマの周りにも当時のことを思い出しましたなどのコメントがつけられていました。

江若鉄道三井寺下駅

江若鉄道三井寺下駅

会期は4月14日までの月曜を除く9時~17時です。前回見逃された方は、両方を一度に見られるチャンスですので、ぜひお越しください。

アベノハルカスⅡ

最近大阪では話題の出てきたアベノハルカスですが、最近外装工事も終わり屋上のクレーンが撤去されました。夜には一部の窓にも明かりが見られ少しはビルらしくなってきました。昭和3年生まれの阪堺線とのツーショットもいつまで見られるか気になるところです。阪堺電車の案内図には超低床ノンステップ電車「堺トラム」が2013年に登場とありました。旧型車の動向が気掛かりですね。

阪堺1

阪堺2

今日の呉線トワイライトエクスプレス

この春3回目の「トワイライトエクスプレス 瀬戸内ランチクルーズ号」が走りました。今日は山の上からの俯瞰撮影をすることにして、三原市の観光名所 筆影山に登りました。早咲きの桜が満開で 穏やかな春の陽をあびてトワイラは呉線をのんびり走ってゆきました。

上りの山陽新幹線が通過

上りの山陽新幹線が通過

呉線は三原駅で山陽本線と分かれ、高架で市街を抜けてゆきます。沼田川(ぬたがわ)を渡る手前で高架が終わります。

山陽線下り115系 353Mが通過。手前の校舎は県立三原高校。

山陽線下り115系 353Mが通過。手前の校舎は県立三原高校。

沼田川の鉄橋脇に約20名ほどが陣取っているのが 山の上からよく見えました。遠くからの遠征 ご苦労様です。

沼田川橋梁脇には多くのファンがカメラの放列。

沼田川橋梁脇には多くのファンがカメラの放列。

左手に瀬戸内海を見ながら呉線の旅が始まる

左手に瀬戸内海を見ながら呉線の旅が始まる

次の運転日は3月28日(木)です。6月まであと5回チャンスがあります。次回の撮影ポイント探しも楽しみのひとつとなりました。

福山レールエクスプレス号

佐川急便の専用列車は有名ですが、福通も鉄道輸送を見直したのは慧眼と言うべきか。「福山」とつくので山陽路でも見られるかと一瞬喜んだのですが 品川-吹田間ということでガッカリ。佐川のような専用電車ではなく、福通のコンテナがずらりと並ぶコキ編成でしょうが 専用編成になるならかつての「たから号」を彷彿させる「福通号」のテールマークをコキ最後尾につけたらいかがでしょうか。夜中に走るのなら誰も見てくれないか・・・。中国新聞朝刊記事を添付します。さて今日は「福山エクスプレス」ならぬ「トワイライトエクスプレス」が呉線を走る日なので これから出かけます。今日はどこで撮ろうか・・・・。

中国新聞2013.3.19

中国新聞2013.3.19

 

2012年度表彰式行われる

 3月15日(金)、同志社大学寒梅館ハーディーホールにて2012年度 同志社大学文化系公認団体表彰式が行われた。当会は昨年度の「学生支援センター所長地域貢献賞」に引き続き、今年度は「学生支援センター所長奨励賞」を受賞した。8月下旬の寒梅館夏まつり、9月の京阪三条イベント、船場まつりへの参加が評価の対象となった。
 残念ながら昨年度の地域貢献賞を上回る賞ではなかったが、90以上存在する文化系公認団体から当会が2年連続 で選出されたことには大変意義があることであると考える。今回の受賞をきっかけに、鉄道同好会は今年も大いなる発展を遂げていくことになるだろう。
 
 今回の受賞の知らせを頂いたのが直近であったため、事後報告とさせて頂きました。悪しからずご了承ください。今後のイベント等はできるだけ事前かつ早めに報告するようにいたします。今年もDRFCの活躍にぜひご注目ください!

学生支援センター所長から表彰状と盾を受け取る大垣2013年度会長

学生支援センター所長から表彰状と盾を受け取る大垣2013年度会長

京阪(旧)3000系を思う (3)

鴨の流れに沿って

3000系の走る風景を思い起こすと、それは人により、さまざまだろうが、私はやはり鴨川沿いのシーンを忘れることが出来ない。地下線が開通する昭和62年まで見られた、3000系特急が15分ヘッドで上下する全盛時代だった。

赤・黄の派手な3000系の塗色は、鴨川沿いの景観にホントによく似合っていた。車窓から見る鴨川の水は清く、堤の木々は、桜から新緑へ、紅葉へと変化し、雪の降る時もあった。京都らしく、季節の行事に3000が出会うこともあった。主要な通りとは平面で交差し、3000系がより身近に感じることが出来た。

そんな、鴨川と3000のコラボをいくつか綴ってみた。

IMG_0037鴨の流れを見て。 鴨川沿いに育った私から見ると、下水が未整備だった昔の鴨川は、友禅流しで川が赤く染まり、中州もそのまま、ホントに汚い川だった。昭和40年代ごろから急速にキレイに整備された。現在では、生態系の保持のため、中洲を残したまま整備しているが、この時代は、ブルドーザで徹底的に均して、川幅を広げる方式だった

IMG_0005四条通を渡る3000系と市電1600形。四条線が廃止となる昭和47年まで見られた平面クロス。京都第一の繁華な通りを、遮断装置もなく、係員の笛ひとつで電車を通していたとは、今となっては信じられないような保安方式だった

IMG_0045sw始発の三条駅に停車中の3000系。狭い2番ホームが特急用のホーム。6連と7連では停車位置が違う。左が7連でホーム端ギリギリ、右は6連のため、先頭は1両分後退した位置に停車している

IMG_0031四条通を横断する3000系。乙訓老人の“東華菜館”屋上から撮影の京阪特急は余りにも有名だが、私は、その向かいの“いずもや”へ、撮影を兼ねて食事に行った。背後の南座も、その後に改築される

IMG_0040祇園側から見た四条踏切、この頃は、市電が廃止後のため、遮断機も設けられた。向こうに、その東華菜館、阪急百貨店、高島屋が連なる

IMG_0042四条河原町の高島屋の屋上からも、四条踏切を行く3000系が望めた。新緑の頃には、東山が手に取るように近くに見える

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2013年 記録的大雪のリンゴの町への旅 Part5 広田尚敬先生と一緒の弘南鉄道「雪飛ばしツアー」 その2

第5日目 3月3日

青森空港18:05(JL2158)→19:40伊丹空港

起床してすぐに外を見ますと、昨夜からの雪は止んでいました。積雪は、約15㎝で移動には問題なさそうです。朝食後まっすぐに大鰐方面へと向かいました。

01_あけぼの_edited-1▲ 朝から快晴です。前日まで運休が続いていた寝台特急「あけぼの」が今日は約8分遅れですが運行しています。大鰐温泉近くには、定番の有名撮影地があるそうで皆さんまずはここで朝1番の撮影となりました。大多数の皆さんは正面から撮りたいと雪原を渡って行かれましたが、数名は晴れた青空、雪と木、そして「あけぼの」を入れてのカットはそんなに撮れるものではないと横から待ちました。
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下津井電鉄の情景

会員のデジ青への投稿が活発で、あっという間に新しい記事と写真が加わり、前の記事が後方に下がります。関連記事の写真をと思いながらモタモタシテいるとピントはずれ、時代遅れになりそうな昨今。
1961年3月、四国に行く前、茶屋町から児島まで立ち寄りました。
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当会会計役の井原さんが、第1回写真展に左手に海がある写真を出品されていましたが、上の写真左側は海でなく、福田-稗田近辺と思われる(記録なし)山間部です。

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この駅も判りません。

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『電車』機関車の牽く貨物。駅は稗田駅と思われます。1961年3月17日撮影でした。

梅田貨物駅 138年の歴史終える

明日、16日はJRのダイヤ改正日、その前日となると、何かと心が騒ぎ出す。“葬式鉄”など絶対にしないと言い張っておきながら、その日となると、気もそぞろ、足はどこかへ向いてしまう。

関西圏では、183系電車の撤退が話題の中心だろうが、いよいよと言うか、やっとと言うか、梅田貨物駅の廃止も、地味ながらも大きな変更点だ。本日は梅田貨物駅の最後の記録に当てることにした。

130315_026梅田駅は17ヘクタールあり、ピーク時の貨物扱いは年間360万トンあったが、最近では114万トン/年まで減っているという。2年掛けて更地にされて売却されるというが、その利用法は百出されて、いまだ結論が出ていない

梅田の高層ビルから見下ろすと、そこだけ時間が止まったように、錆付いた梅田貨物駅の構内が広がっている。

その歴史は古い。明治7(1874)年、大阪駅の貨物取扱所として開設、昭和3(1928)年に、大阪駅から分離、貨物専用の梅田駅が誕生する。国鉄借金返済のため、国鉄分割民営化時に売却することが決まったものの、貨物拠点の移転先をめぐって紛糾し、なかなか進捗しなかったが、結局、吹田操車場跡地の吹田貨物ターミナル、百済貨物駅に分散移転することになり、明日16日から、この2駅での業務を開始することになった。梅田貨物駅そのものは、今月末まで営業するようだが、貨物列車の発着は本日が最終日となった。

130315_141「さようなら138年間ありがとう」の記念の看板が取り付けられた。138年とは、明治7年の大阪駅時代からの起算

130315_033ss入換はDE10の1500番代が担当、懐かしい突放の作業も見せてくれる

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成18年には、修繕施設などのあった東側部分が先に売却され、跡地には4棟の高層ビルが建ち、“グランフロント大阪”として来月、オープンする

130315_083西側に新大阪と大阪環状線を結ぶ短絡線(東海道支線)がある。「はるか」「くろしお」の通り道。地下地下線化、新駅設置の計画がある

130315_276貨物駅を印象付ける二つのドーム屋根、二本の線路がさらに手前まで伸びていた

130315_300陽が暮れて、背後の梅田のビル街が輝きを増すとともに、貨物駅は深く沈み、最後の貨物の発着を迎える

 

 

2013年 記録的大雪のリンゴの町への旅 Part4 広田尚敬先生と一緒の弘南鉄道「雪飛ばしツアー」

第4日目 3月2日

今日は、待ちに待った鉄道写真の巨匠広田尚敬先生が参加されての神谷武志さん企画の弘南鉄道{雪飛ばしツアー」の開催です。
朝、ホテルのレストランで皆さんとご挨拶です。今回は、いつも海外鉄でご一緒させていただくO氏も久しぶりにお会いできました。心強い限りです。
ロビーで参加15名の方々と対面しました。半数は面識ありますが、初めての方も半数おられます。じっくりとご挨拶することなくレンタカー5台に分乗しての出発となりました。皆で一緒に行動するのかと思いましたが、最初の目的地大鰐駅だけが決まっていて後は車別での自由行動です。私はO氏、O氏の鉄ちゃん朋友と3人乗車となりました。しかし、3人とも撮影ポイントと道筋を熟知していません。前に行く車に付いていくしかないのですが、出発早々に見失いました。車のナビの言うとおりに行くしかありませんでした。
02_大鰐駅01_大鰐駅▲ 9:06、何とか大鰐駅に到着することができました。先を行かれた神谷隊長も大鰐駅近くで迷走されたようで後からの到着です。構内では、雪が降りしきる中でED221+キ105は、出動準備をされていました。

ED221は、まだ日本の鉄道車両製造技術が未成熟だった1926年(大正15年)にアメリカより輸入された電気機関車です。車体と台 車はボールドウィン社製、電気機器はウェスチングハウス社製です。最初は、信濃鉄道(現;大糸線)で使用され、1937年国有化後ED22-1となり1943年には飯田線に転出しました。その後西武鉄道→近江鉄道→一畑電気鉄道と譲渡され弘南鉄道には1974年に参りました。日本各地へと移動を重ねた波乱万丈の人生だったのですね。弘南鉄道では大鰐線に配属されて、キ105とタッグを組んでの冬期のラッセルが担当業務となっています。年齢は87歳、元気ですね。
キ105は、1929年(昭和4年)国鉄苗穂工場で誕生しました。国鉄時代はキ157で、1927年旭川工場で改造されています。弘南鉄道には1975年に譲渡され、キ105となりました。同型車は、苗穂・大宮・浜松・土崎・郡山の各国鉄工場と、飯野産業(飯野重工業)・立山重工業において製造が行われ、全194両が存在しました。現役で活躍しているのは極めて少なく、弘南鉄道大鰐線弘前線の2両、今回DL不調で運行されなかった津軽鉄道キ101(国鉄時代;キ120)と思われます。

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京阪(旧)3000系を思う 〈2〉

IMG_0017昭和46年8月ダイヤ改正で、昼間時のダイヤパターンが20分ヘッドから15分ヘッドになった。特急も運用数が増加することから、新造されたのが3000系だ。当初は、従来の1900系特急との混結も可能な設計になっていた(大和田)。

IMG_0020昭和46年8月ダイヤ改正を前に、同年7月1日から写真の3501編成ほか6両編成2本の冷房つきの3000系特急の運転を開始したと、沖中忠順編著JTBパブリッシング「京阪特急」には書かれていた(中書島)

3000系特急で通勤の日々

(旧)3000系は、今でこそ趣味としての対象だが、初期の時代は、ユーザーとして乗客の立場だった。

昭和51年4月、大阪の職場に転勤になった私は、京阪三条から北浜まで3000系特急で通うことになった。学生・社会人を通じて、初めて“郊外電車”に定期券で乗れる。本格的なサラリーマンになった気分だった。当時、朝ラッシュ時、特急は20分ヘッドで、三条8時5分発特急に乗ると、同50分ごろに北浜着、歩いてすぐの会社に9時始業前に着く絶妙のダイヤだった。

もちろん、“七条を出ますと、つぎは大阪の京橋まで止まりません”の京都・大阪間無停車の時代で、途中駅で、通勤客を満載した急行・準急を退避させ、特急が悠々と通過して行くのを、ゆったりした座席から眺めるのは、ずいぶん偉い人間になったような優越感さえ感じた。着席するためには、その前の特急の発車直後に並ばなければならないが、当時、社会問題化していた通勤地獄とは無縁の別世界で、まさにエリート特急、ステータス電車だった。

ところが、その2年後、職場が堺筋本町へ移転してしまい、三条8時5分発では始業に間に合わず、その前の三条7時45分発に乗らないと間に合わなくなった。しかも、その頃、住まいは山科になっていたので、朝、道路渋滞に巻き込まれる京津線ダイヤも加味すると、毎朝6時前後の起床を強いられた。

帰宅が遅く、朝の弱い身にはさすがに堪える。朝の京阪特急は、恰好の寝不足解消の場となっていく。七条を過ぎ、車内アナウンスが流れる頃から、すっかり白河夜船、とくに、窓側に座って窓框にアタマを載せると、ちょうどいい枕代わりになり、約30分はぐっすり熟睡できた。

その後、昭和55年3月、守口市~萱島間複々線化によるダイヤ改正で、、ラッシュ時に、特急に抜かれない急行が出現した。急行だと、直前乗車でも座れるから、自宅を出る時刻を多少遅らせることができる。結局、朝の3000系通勤は、4年あまりで終わり、急行乗車に切り替えた。しかし、帰宅時の3000系特急の利用は、いまの阪急沿線に転居する昭和58年まで続くことになる。

帰宅時は、車内で寝ることもあったが、だいたい新聞か本を読んでいた。読み終わった新聞は、下車まで前の座席カバーの中に潜り込ませておくのがツウな3000系ユーザーの仕儀だった。

帰宅時の場合、北浜からの乗車でもまず座れた。テレビカーは混むので避けていたが、ただひとつ、タイガース戦の放映がある時は、歩いて始発の淀屋橋へ向かい、ひと電車遅らせて、テレビカーに乗り込み、小林繁が古巣巨人を相手に勝利するのに喝采を送ったものだ。

ところが、淀屋橋22時以降発になると、編成が分割されて、3両の一編成だけになってしまう。座席定員が一挙に半分になってしまうから、混むのは必至、運が悪いと、深夜の立ちっぱなし、という残酷な仕打ちが待ち受ける。さすがに、これは評判が良くなく、昭和62年に分割は中止されている。

また、昼間も仕事で大阪・京都間を3000系を利用することがあった。とくに、昼間12~14時台は、たいへん空いている。大阪から乗車する場合、最後部はとくに顕著で、一車両、10人以下だった。前の転換シートをひっくり返し、ワンボックスを占有して、ゆっくり午睡を楽しんだものだった。

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複々線上をいく上り特急。淀屋橋9時発の特急には伝統の「びわこ連絡」の副標が取り付けられ、15分ヘッドの特急の中でも、ひとつ格上の感があった(野江)

IMG_0011_edited-1こちらは「ミシガン」副標つき。3000系は昭和47年7月に14両(二次車)、48年6月には一気に32両(三次車)が加わり、9編成58両となり、完全に1900系を置き換え、すべての特急運用を賄った。8000系登場まで、3000系特急の時代が16年間続くことになる(四条)。   

梅小路公園の保存市電その後

過日、京都市が梅小路公園に保存してある市電7両のオープン展示と、運転中のN電について運転区間の変更と蓄電池化すると発表したことをここで報告した。 これに関してはすでに新聞紙上やテレビでも報道されているのでご存じのことと思う。

この件には多くの知人からメールや電話で京都市へ蓄電池化反対の意見を言うべし、とのご意見を頂いた。そこで個人として市長へメールでN電に蓄電池を積むことは車体への負荷が多すぎないか、架線はどうなっているのか、保存車両を民間業者へ貸し出して飲食店に使うのは車体保存に問題が生じないか、等の質問をしたところ回答を得た。
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