玉野市営電鉄制御車201号

先日、玉野市営電鉄が紹介された。荒尾市営電鉄と共に市電と言われながら一風変わった雰囲気を持つものであった。専用軌道を走る鉄道線型の車両、これが両社に共通するもので、そして戦争の落し子であったと言えるであろう。玉野の場合、制御車を導入したのは高度成長時代の一現象と思われるが、僅かの間であっただけに知る人も少ない。老人が富山で雪と格闘している時に入線し、大阪に転勤となった時には終焉期を迎えただけに、どんなダイヤで運用されたか知らない。またDC化後、訪問したことなく、どんな色をしていたのかも知らない。制御車クハ201号、野上電鉄時代の姿をお目にかけようと思う。いずれも1958年12月5日、1960年5月15日、日方車庫で調査の合間を縫っての撮影である。ツートンカラーは1958年、上半クリーム下半明るく薄いブルー。1960年は青味かかったグリーン一色であった。102号が玉野201になった由。

デハ7時代は半鋼4輪単車で、ホイルベース2438ミリのブリル21E台車に20馬力の電動機2ケで走った。1946年11月に6、7号は101、102に改番、1954年には自社で車体延長工事を施工した。約8.5m車体が11,2mになったと言うが、工事後の車体長は連結器込の全長であると思う。台車はTR26となっていたが、変芯台車であり、果たして八日市鉄道時代のものかどうか、これは須磨様の解明をお伺いを立てる事にしよう。デハ時代の自重は10トン、クハとなってからは12.4トンとなっていた。

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図面の4輪車はボギー車に改造された

図面の4輪車はボギー車に改造された

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おたずねします。

以前に京都市バスの写真と資料が掲載されていたように思いますが見つかりません。
市バスなら藤本さん、と思ってさかのぼりましたが見つかりませんでした。
誰が書いたものか?いつの掲載か?どなたかご存じの方があればお教え下さい。

京阪(旧)3000系を思う 〈1〉

京阪(旧)3000系の通常の営業運転が去る10日で終了した。沿線は、大変な人出だったらしいが、私はとうとう出動することはなかった。この3月、東西都市圏の鉄道ネタは、東は東急渋谷駅、西は京阪(旧)3000系が抜きん出ていたようだ。

このあとの(旧)3000系の運転は、3月中に4日間のみ、中之島発出町柳行き臨時快速特急として運転される片道一本になる。

3000系の生い立ちを見ると、私のような団塊の世代の人生とオーバーラップして見える。そのデビューは、42年前の昭和46年のこと、ちょうど私が大学4年生の時で、まさに実社会にデビューする時期だった。以来、我々世代も、3000系も、必死になって社会を支えてきた。そして、我々世代が実社会から身を引くように、いま3000系も静かに役目を終えようとしている。

それだけに3000系の引退は、特段、電車に興味を示さない私にも感慨深いものがある。3000系が、京阪特急のすべてだった時代の思い出を綴ってみたい。

3000系見学会

以前の掲示板でも、どですかでんさんが書かれているように、鉄道同好会では、昭和46年6月に、新造・搬入直後の3000系の見学会を、守口車庫で行っている。「参加24名」と青信号22号の活動報告には書かれており、やはり、3000系デビューの人気は高かったようだ。

見学したのは、3002+3102+3502の一次車3両編成だった。

外観では、なんと言っても前面のパノラミックウィンドウが衝撃だった。私鉄車輌では、名鉄5500系、京王5000系といった名車も同様のスタイルだが、関西私鉄では初である。両端に寄ったライトで、オデコが散漫になりがちだが、それをステンレス製の幌枠がうまく引き締めている。

旧3000系の車内にも入って、初の全車クロスシートの座席や自動転換機構、壁面に目を見張った。車内で撮った、たった一枚の写真には、偶然だが、亡くなられた澤村さんが写っていた。

ここで写した編成写真は、先ごろ、送られてきた、「鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション京阪電気鉄道」の表紙と全く同じ構図の写真だ。撮影者は同好会関係者ではなく、古老の鉄道ファンだが、撮影日を見ると、見学会の前日になっていた。この本は乙訓老人のご厚意で、かなりの会員に献本されていると聞いているが、巻頭企画として書き下ろし担当したのが、クローバー会会員であるほか、本文には、“同志社大学鉄道同好会”の文字が黒々と誌面に躍っている。当会の55年の歴史が凝縮された、記念号でもある。

IMG_0004守口車庫で3002編成を見学した。搬入直後の姿で、編成全体が輝いていた

IMG_0001車内は京阪特急初のオールクロスシート、真っ白な座席カバーも新車らしいIMG_0002

車内を見学する会員たち。故澤村さんの顔も見える IMG_0003 この時は、あまり写真は撮らず、鳩マークを収納した写真を撮って終わっている

下津井モハとクハ

先日玉野市営の写真をご紹介しましたが、昭和44年8月1日に下津井に行き、鷲羽山ユースホステルで1泊して翌日玉野を訪ねています。その際の東下津井駅での交換風景をご紹介します。下津井電鉄は票券閉塞式で 女性車掌が対向列車の運転士から票券を受け取っているひとコマです。この電車はモハ50型だと思いますが、車番不詳です。IMG

さてこの気動車改造電車の一統のなかで モハ50型より窓2つ分短いクハ6が良好な状態で保存されています。場所は岡山県瀬戸内市長船町です。名刀で知られる備前長船の 国道2号線沿いのドライブイン「おさふねサービスエリア」の裏手の山陽新幹線高架下です。ここにはクハ6の他ホハフ2とホワ10が保存されています。高架下とは言え雨ざらしなのですが 誰が手入れされているのか 外観も車内もきれいな状態です。昭和6年製のカハ6がクハ6となり、80年以上を経てこんな場所でこうして残っているのが不思議な気がします。IMG_6996-1

ここは新幹線に乗っていても当然見えませんし、国道2号を走っていてもドライブインの建物の裏手なので見えません。すぐ西側が吉井川の土手ですが 吉井川橋梁を通過する新幹線を写すにはこの土手が好適地のようで撮影者の姿をよく見かけます。赤穂線の香登駅が最寄ですが1Kmほどありクルマの方が便利な場所です。クルマで通るたびに立ち寄っては確認するようにしています(直近は2011年11月7日ですが)。笠岡の高架下の井笠ホジ9とともに要安否確認対象車両です。

下津井電鉄モハ50

これは須磨老人が優先するはずと勝手に決め込み、以下投稿に及ぶ。山陽鉄道による宇野線と宇高航路新設で、岡山一帯と四国琴平さんを結ぶ要路下津井と、途中の味野(児島)の比重に衰えを感じた地元有志が建設した。宇野線茶屋町が起点だが、倉敷との関係も昔から深く、この間の鉄道建設も何度か意図されたが実現せず、長らく国鉄バスが運行。現在では下津井電鉄バスが茶屋町-倉敷、児島-倉敷を運行し、後者は文字通り頻発である。

下津井鉄道は191928年以降ガソリンカーを投入し、当初日車21人、30人乗りの単端式車から、1931年以降60人、68人と大型化し、1934~37年にかけ6両の78人乗り大型車を加藤車輌製作所で新製。これは戦前軽便用としては最大で、これをしのぐ車輌は敗戦後の仙北鉄道キハ2406(92人)のみ。機関はウォーケシャ6MK、延べ14輌も戦前軽便では日本一である。

下津井鉄道カハ51下津井西尾克三郎撮影
下津井鉄道カハ51 下津井 西尾克三郎撮影 鮮魚台奥行きが700mmと狭いが

カハ53以降は855mmに拡大

戦時中は当然代燃で、この鉄道は途中2か所の峠があり、25‰勾配が延々と続くから、苦労は他鉄道より大きく、敗戦後電化したのも当然であった。淡路鉄道や栃尾鉄道とは違い、ガソリンカーの台車に釣掛式で30馬力×4個モーターとした。台車は鋳鋼製で、旧動台車は650+1,000mmの偏心台車だったが、そのまま使ったのである。改造は東洋電機だが、実際の作業は電機車輌株式会社なるところが手掛けたようで、出張工事だったかもしれない。

その後ナニワ工機で台車を新製して偏心がなくなり、前後荷台分車体を延長した車輌もある。

電化による蒸機全廃で、当初中古電機1輌の入手も予定したが、結局は貨車も電車が牽引た。この鉄道は客貨車の連結器は昔ながらの螺旋連環式、気動車はピンリンクから日車の簡易連結器に改めたため、大型のカハ50→モハ50型には、両方の連結器を装着し、精悍さが増した。1950年代では木製ボギー客車が健在で、ラッシュにはMTTTT編成もあった。その後の経緯は諸賢よくご存じだから省略する。

ところでこの鉄道は1925年1月22日、「起業目論見書並ニ工事設計概定書中一部変更」を願い出た。資本金50万円を60万円に増資、軌間1067mmへの拡幅と電化だけなら驚かないが、茶屋町-岡山間、すなわち宇野線の一部も「自前で」600V電化し、岡山-下津井間に電車を走らそうというものだったから、鉄道省は大騒ぎに。

運輸局、工務局は「将来運輸上ニ支障ヲ及ボスコト大ナルベキヲ以テ本件ハ承認ナサザルコトト致度」。電気局は「省(=鉄道省)ニ於テ岡山宇野間ヲ電化シ茶屋町岡山間ニ会社(=下津井)車輌ヲ乗入レシムル方技術上便利ト認ムルモ差当リ国鉄ヲ電化スルノ計画ナシ」と、潰してしまった。

結局は1926年4月20日「当線乗入運転方承認不可ノ場合ハ弊社ノ軌道改良工事ハ到底遂行出来難キ状態ニ御座候間可然(しかるべく)御処理相成度候」と取り下げ。どこまで本気だったか分からないが、その後の下津井自体の歴史にも記録がなく、ファンも一切書いていないのはどうしたことか。

「へっつい」と登山電車

25-2-22なかよし号停車中2
モデルは熱海駅前に保存展示されている「熱海軽便鉄道」7号機

昨年末、ネコパブ社より湯口先輩が執筆された「RM LIBRARY160 『へっつい』の系譜」が発刊され、購読された方も多いと思う。その中で営業線を引退した「へっつい」が横浜花月園内の遊覧列車に転用された写真が掲載されており、遊園地の乗物に転用できるほどの小さい機関車であったことが伺える。

小田原の遊園地に「へっつい」の形をした機関車が走っていることを知り、予てより見たいと思っていた。2月21日のこと、小田原での所用が、昼前に終わったので、駅の西口(新幹線側)より「いこいの森(わんぱくランド)」行のバスに乗車した。小型バス(日野リエッセ)は10人程の乗客を乗せて発車し、競輪場前を過ぎると山登りになり、尾根沿いの道にさしかかると右手に相模湾、真鶴半島が望まれ、水之尾バス停から人家が途切れ山道となり、15分で終点「いこいの森(わんぱくランド)」に到着した。

バス停のすぐ前が「わんぱくランド」の入口で、正面に「へっつい」の牽く「こども列車」の「エントランス広場駅」があった。列車は520m先の「冒険の丘駅」との間を7分で結んでいる。線路はエンドレスではなく、両端駅がループ線になっている。発車時間まで乗務員氏にお尋ねしたところ、動力は電気50A/100Ⅴで、集電は第3軌条方式とのことであった。要するに「へっつい形電気機関車」である。他に客がいないことを幸いに乗ってみたが、とても遊園地内とは思えないような所を走行した。どうせなら客車も本物っぽく作った方が良かったと思うが、そこまで望むのは無理であろう。帰りは撮影しながら歩いて戻ったが、足の速い人であれば走って追いかけながらの撮影も可能であろう。
25-2-22なかよし号走行3-2
25-2-22なかよし号走行5
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軌間中央の白いベルトはゴム製で、機関車の下に着いているタイヤがこの上を走ることで粘着力を増加させている。
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メーカーは泉陽興業と泉陽機工で2000年(平成12年)製である。
25-2-22 わくわく号
終点の 「冒険の丘」でロードトレインに接続している。
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2013年 記録的大雪のリンゴの町への旅 Part3 弘南鉄道 大鰐線

第3日目 3月1日

① 弘前中央9:00→9:29大鰐9:50→9:56石川プール前
② 石川プール前10:36→10:44義塾高校前12:46→12:49石川
③ 石川14:39→14:53聖愛中高前15:53→15:58弘前中央
④ 中土手町(循環バス)→弘前駅→中土手町
⑤ 弘前中央17:30→17:34聖愛中高前18:34→18:38

今日は3月1日、暦では春ですが、本州北端の地はまだ冬の季節のまっただ中です。
朝から天候が期待できませんので、弘南鉄道大鰐線ロケハンと撮影です。ホテルのデラックスな朝食をたらふく食べてから向かいました。

大鰐線の起点弘前中央駅までは、ホテル前の坂道を下って約5分少々でした。
01_弘前中央駅01_弘前中央駅201_弘前中央駅3▲ 8:47に到着しましたが、電車はまだ入線していません。改札係のおばちゃまは、前回10月に来た時にリンゴをくださった方でした。ご挨拶しますとよく覚えておられて、「また来たね。今日は正常通り運転していますよ。でも、ラッセルは必要ないから運行しないでしょうね。」と申されます。

8:51、大鰐からの折り返しの電車が到着しました。
通勤客と思われる乗客が下りて来られましたが、都会のラッシュとは雲泥の差でパラパラです。
降車客が改札を通過してからの乗車改札です。待合室にはそんなに乗客はいなかったのに車内に入ると半分くらいシートに座っているお客があられました。途中駅は温かい待合室などありませんので、折り返し電車が待合室代わりなのかも・・・。

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鉄道展「東北を旅して」開催中

 

本日から、佐竹さん鉄道展「東北を旅して」が、ひと・まち交流館京都(京都市下京区河原町五条下ル)で開催されています。

設営時間は午前9時からの午前中のみ、時間内の作業完了が心配されましたが、そこは、応援に駆けつけたクローバー会の少数精鋭たち。開場の5分前には滞りなく終了し、午後から来場者を迎えることが出来ました。

東北の復興、鉄道の復旧を願った、この催し、多彩な展示の中で、とくに感慨深いのは、青森市で行った写真展が、そのまま展示できたこと、青森展にもお見えになった方が来場され「青森の時を思い出しましたよ」と言われたように、1000キロ離れた青森の地で味わった感動を再び味わうことができました。

明日11日は震災2周年、“祈念の集い”が行われます。会期は17日(日)まで。皆さんのお越し、お待ちしています。P1090252

開場後、さっそく多くの来場者、和やかな交歓が見られたP1090247

模型運転は、東北ゆかりの車輌が揃ったP1090237

“乙訓老人”の電車薀蓄を、ありがたく拝聴する会員たち

 

2013年 記録的大雪のリンゴの町への旅 Part2 津軽鉄道

第2日目 2月28日

① ホテル6:00(Taxi)→弘前6:34(JR)→7:19五所川原
② 津軽五所川原8:10(津軽鉄道3)→8:54大沢内(徒歩)→津軽中里
③ 津軽中里12:50(153)→13:00川倉(徒歩)→芦野公園15:34(156)→
④ 芦野公園15:34(156)→16:06津軽五所川原16:11(JR)→17:01弘前

13今日は5時過ぎに起床。支度を整えてホテルが宿泊者のためにチャーターしている無料TaxiでJR弘前駅へと向かいました。このホテルは、駅から歩くと坂道もあって約30分近くはかかりますのでこのサービスは、宿泊者にはとても便利ですね。

弘前駅では、今回も津軽フリーパスを購入しました。JRの他に津軽鉄道(金木まで)、弘南鉄道全線バスにも使えてとても便利です。雪飛ばしツアーの皆さんと合流するまでの間の2日間は、これで乗り鉄、撮り鉄に使います。
02_弘前ホーム

▲ 弘前駅のホームです。ラッセルされているのは、浪岡駅同様に乗降する場所のみがやっとのようで、後のスペースは雪山です。
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2013年 記録的大雪のリンゴの町への旅 Part1 弘前へ

インドネシアのSL撮影ツアーでお世話になった神谷武志さんから3月2日、3日のひな祭りに津軽鉄道ラッセル車をチャーターしての雪飛ばしツアーを開催するので参加しないかとのお誘いを受けました。津軽鉄道は、昨年10月にリンゴとDCのツーショットを求めて撮り鉄に励みました。冬にはストーブ列車も乗ってみたいし、撮ってみたいと思っておりました。そして今回も巨匠、広田尚敬先生が参加されます。喜んでの参加を申し出ました。

ところが、2年ぶりのラッセルを牽引するDL機関車DD352号機の軸受メタルに不具合が発見されて部品交換等の準備手配をしていたが今年度中の復旧は不可能になったと、残念なお知らせが参りました。
しかし、参加希望者の方々にそれではどうするのかを聞かれた結果は、代わって弘南鉄道(大鰐線、黒石線)のラッセル撮影に振り替えて挑むこととなりました。

参加者の皆さんの行程は3月1日夜に弘前着です。時間に束縛されない失業者の私は、津軽鉄道も訪れてみたいと、例によって2日間前倒しで先乗りすることにしました。

第1日目 2月27日
① 伊丹10:30(JL112)→11:35東京12:30(JL1205)→青森13:50
② 青森空港14:05(リムジンバス)→14:18浪岡BS
③ 浪岡14:30(JR)→14:47弘前15:00(弘南鉄道)→15:19津軽尾上
④ 津軽尾上15:30→15:32柏農高校前16:02→16:19弘前

01_青森空港出発当日までの弘前は、観測史上最高の積雪量153㎝を記録、今シーズン最悪の気象状況となり、行くこと自体危ぶまれましたが、当日は雪も止んで快晴となり到着できました。

02_リムジンバス03_青森空港~浪岡BS 続きを読む

Re.備南電鉄→玉野市営電鉄について

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三井造船所前付近を走行するキハ102/(44-3-18) 検査中のキハ103と廃車後放置状態のクハ201が見える。

「昭和の電車」は、しばらくは山陽地方の小私鉄とのことで下津井電鉄、尾道鉄道、広島電鉄、山陽電軌が続くと思われるがで何が登場するのか楽しみにしている。

今回の備南電鉄について、早速湯口先輩より貴重なモハ102、103の写真と共に解説があった。電車から気動車に切り替わったのが昭和39年12月のため、我々団塊世代では電車時代の撮影は、地元に居住してかつローカル私鉄に興味がないと難しいと思われる。
私自身は、気動車化後の40年8月18日と44年3月18日の2回訪れている。

湯口先輩の補足と、その後の経過について述べてみたい。備南電鉄は、宇野~児島~水島間(31.4㎞)結ぶ目的で、昭和25年4月1日に設立され、28年4月5日宇野~玉間3.5㎞を開業した。この時用意された電車がモハ101、102、103の3両であった。
湯口先輩の解説通り、曰く因縁付きの車両で、蔵王高速電鉄が山形~上山間の開業にあたり日立製作所に5両(モハ3両、クハ2両)発注したが、朝鮮戦争による物価の高騰により工事が中断したためキャンセルになった車両(モハ3両)である。クハ2両は十和田観光電鉄のクハ2401、2402になり、モハ2401、2402を同形で新製して同社に納入したという噂を聞いたことがある。H.K生さんがコメントされている通り、スタイルがそっくりであることは事実であるが真偽の程は不明である。

経営難により31年3月24日付で玉野市に移管され、その後「玉遊園地前」まで延伸され営業距離が4.67㎞になった。この間に駅が11カ所、信号所が1カ所あり、駅間距離は路面電車並みで、高速運転用電車や気動車の使用は不適切であった。

湯口先輩に続き、西村雅幸氏が投稿されており重複する部分もあるが、訪れた時に撮影した写真を貼り付けた。

【気動車】
昭和39年11月17日より運転を開始し、12月24日に全面的に切り替えた。当時のピク誌「読者短信」に電車+気動車のMD編成の写真が掲載されていた記憶がある。
業績悪化により電車から気動車に転換した鉄道は、池田鉄道、栗原電鉄→くりはら田園鉄道、羽後交通御雄勝線等何件かあるが、いずれも転換後数年で廃止されている。

キハ101/上(40-8-18) 三井造船所前 下(44-3-18) 玉遊園地前
三岐鉄道より関西線四日市乗入れ中止により余剰になったキハ81を購入した。昭和9年日本車両製で元鉄道省キハ41097として新製し、26年8月に譲受け、翌年の27年9月エンジンをDMH17に換装した。入線時に変速機を液体式に変更した。
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44-3-18 101玉遊園地

キハ102・103
昭和39年3月31日付で廃止された熊延鉄道からジハ102、102を譲り受けた。25年汽車会社製で片側(玉遊園地寄り)に荷物台が設置されており、戦後製の気動車で荷物台付は珍しい。変速機は熊延鉄道時代、33年に液体式に変更されている。
キハ102/(44-3-18)  大聖寺前
44-3-18 102
キハ103/上(44-3-18)  三井造船所前車庫で検査中 中・下(40-8-18) 玉
103 44-3-18
98-20.kiha103.65.8.18
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玉野市営をなつかしむ

会長様のお誘いに乗り、湯口先輩の後塵を拝しつつ 昭和44年8月時点と平成21年12月の状況をご報告します。学園紛争で騒然としていた昭和44年の夏、別府、岡山電軌、井笠、水島、下津井、玉野、岡山臨港と山陽路の私鉄めぐりをしたあと KAWANAKA氏と呉線にC62、C59を追いかけ夏バテしたことを思い出します。四国連絡の大動脈であった宇野線ですが、電化されてはいましたがD51牽く貨物列車も走っていた時代でした。宇野駅からまず終点の玉遊園地前まで行きましたが、住宅地の児童公園の横で線路はプツンと終わっていて 予想していた終着駅のイメージとは全く違っていて驚きました。

終点玉遊園地前のキハ101

終点玉遊園地前のキハ101  車掌は発車までタバコ休憩 右手が宇野方面

さて40年後の平成21年12月に現地を訪ねてみました。プラットホームは勿論ありませんが、ガードレール、送電鉄塔やその手前の2階屋などが当時と変わっていないのには また驚きでした。

平成21年12月28日の玉遊園地前

平成21年12月28日の玉遊園地前

このキハ101に揺られて車庫のあった玉造船所前まで戻りました。三井造船玉野造船所に隣接した小さな車庫で、この日は庫外にキハ103、庫内にキハ104休んでいて、すぐに撮影終了。また造船所側の側線にはクハ201がみじめな姿をさらしていました。

熊延鉄道から来たキハ104

熊延鉄道から来たキハ104

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備南電気鉄道→玉野市交通局

備南電鉄モハ103宇野1952.12.24大橋一央 関センセ紹介の、宇野から発する備南電気鉄道は、玉の三井造船所に至る専用鉄道として建設されたが、途中で敗戦、放置されていたものを、1953年動力電気で開業した。電車は日立1951年製モハ101~103の3輌ポッキリ。これは元来山形から上ノ山温泉に至る12.642kmの蔵王高速度電鉄(1948年5月7日免許、1949年7月2日工事施工認可。他に半郷-高湯間13.200kmの免許線あり)が発注した車輌と思われるが、1960年11月15日許可で起業廃止している。

この3輌の電車は1952年末にはパンタもない姿で宇野に放置されていた。この「出物」のお蔭で、備南が開業に至ったと思われる。宇野-三井造船所前3.5kmが1953年4月5日、玉まで0.2kmの延長が1955年9月10日。途中離合設備もなく、進水式などでの突発的乗客増では3輌連結し、プラットホームが1輌分しかないので3回に分け乗客扱いをしたとか。のち野上電鉄クハ102(←デハ102←デハ7)がクハ201として加わっている。

備南電気鉄道モハ102宇野1960.2.18
備南電気鉄道モハ102 1960年2月13日宇野 湯口 徹撮影 ネオパンシンドロームで見る気もしない悲惨なネガを何とかここまで回復

しかし赤字が積み重なって行き詰まり、1956年3月24日玉野市が譲り受け、1960年8月3日には玉からさらに遊園地前まで1.0km延長。この区間は市街地のため用地がなく、街の中央を流れる浅い白砂川の中にコンクリートの工作物を造り、その上にレールを敷いた。橋梁とは河川を横断するものだが、これは川の流れに沿って縦断する、世にも不思議な構造物である。なお宇野-玉野高校前間にはトンネルがあり、無人の離合設備も設けられ、2個列車走行が可能になった。

玉野市交通局キハ101-1965.4.11
白砂川(名前が泣く汚いドブ川)の中を縦に走るキハ101 1965年4月11日湯口 徹撮影  橋の数だけ踏切が出現 架線はまだ外してない

河川所管の建設省は、その断面を減ずることには無茶苦茶神経質で、かような工作物は原則許されないはずだが、なぜか罷り通ったのは、地元選出大物議員=建設族の、星島二郎の横車かと思われる。

それがまた経営不振で赤字を積み重ね、1964年10月8日動力変更認可、11月17日以降電車をやめ中古ディーゼルカー4輌に代替した。キハ101~104の前身は三岐鉄道キハ81(←国鉄キハ41097)、熊延鉄道ヂハ101、102(新製)、103(←島原鉄道キハニ104)である。

しかし経営改善には至らず、1972年4月1日廃止。両備バスに代替した。なお備南電気鉄道は水島までの免許も取得していたが、もちろん実現していない。白砂川の工作物は、廃止直後にはバラスが残り、自動車が置かれたりしていたが、今はどうなっていることか。

備南電鉄モハ100

関先生によりますと、今後しばらくは山陽地方の小私鉄シリーズと言うことで、西村さんはじめ湯口先輩や乙訓の長老様達の出番が多くなるでしょう。
最初は「備南電鉄」という聞き慣れない私鉄です。母の実家が倉敷なので宇野線沿線へは良く出かけましたが備南電鉄は知りませんでした。でもよく読むと玉野市営になった、とのことで、これなら名前だけは知っています。当時は私鉄に興味がなかったため見ることは致しませんでしたが、いまになって悔やんでおります。
後に琴電へ移ったと言うことなので乙訓の長老などはご覧になったことがあるのでしょうか。また、玉野市営では中古のディーゼルカーを購入した、とあるので、これなどは湯口先輩が先週に引き続いてご出座されるかもしれません。よろしくお願い致します。

それにしても関先生の資料はどれほどあるのでしょうか!

備南電鉄モハ100_NEW
備南電鉄モハ100(文)_NEW

伊勢志摩ライナー赤

伊勢志摩ライナーリニューアル車の赤色を載せます。曇りの日で多少条件が悪いですが、写真映りはいいようです。実際にはあまりきれいとは思えないボテッとしたイメージがあります。近鉄標準色のレッド?とも違うようですがその内慣れてくるでしょう。

伊勢志摩赤

2012年~2013年 極寒の中国鉄路の旅 Part15 帰路・帰国

第16日目 1月7日

漠河 前日22:26(2668次)→23:00哈尔滨

01_朝食03_昼食車中で目覚めると雪原地帯を走行していました。今日は、食堂車が付いていますので温かい食事の車内販売が回ってきます。
朝食は、お粥定食15元(約200円)です。列車受持ちの鉄道局によって、麺もあったりしますが、お粥は定番ですべての列車で用意されています。違っているのは惣菜等です。
かつては食堂車でバイキングを用意してあったこともありましが、最近は見かけなくなりました。食堂車に行っても注文できるのは、このお粥定食のみです。

昼食は、同じく車内販売の弁当にしました。25元(約350円)です。食堂車内では、1品単位をオーダーできますが、注文しても車内販売の弁当を作り終わってからになります。量も多いので多人数で一緒に食べる時には4~5品頼んで楽しめますが、夜食時の方が良いですね。
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夕食です。毎度即席の手書きメニューでしたが、この列車では珍しく印刷された物が出てきました。肉と魚料理を注文しました。哈尔滨鉄路局受け持ちだけあって、見た目濃いめ東北料理の味付けでした。やはり成都鉄道局受持ちの食堂車に勝る料理は出てきませんね。

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春3月 会員イベントふたつ

佐竹さん鉄道展「東北を旅して」(その5)

被災した東北地方の一日も早い復興と、鉄道の復旧を願って、佐竹保雄さんが、折々に開催されてきた「東北を旅して」展も、5回目を迎えました。今回は、とくに昨年秋に青森市で開催の写真展「青森を走った汽車・電車」の再展示を行います。遠隔地の開催のために写真展を観覧できなかった会員の皆さんには、またとないチャンスです。また、震災2周年の3月11日(月)には、祈りの集いもあります。お越しをお待ちしています。

◎会期 3月11(日)~17日(日)11~17時 10日のみ13時開場  

◎会場 ひと・まち交流館京都 展示コーナー     ※入場無料                                                        (京都市下京区河原町五条下る東側、市バス 「河原町正面」前)

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 青森での写真をフルラインナップで展示

西村さん「昭和40年代の浜大津周辺模型」

これまた昨年秋、多くの来場者に共感を呼び起こした、西村雅幸さん制作の浜大津駅周辺のジオラマが、再び浜大津に帰ってきます。「大津百町大博覧会-博物館とまちなかで歴史探検!!」のテーマのもと、旧大津公会堂で開かれる展覧会に、“昭和40年代の浜大津周辺の復元模型”として再登場します。そのほかにも、浜大津周辺の写真・地図が出展されるとのことで、たいへん興味深そうな展覧会です。

◎会期 3月16日(土)~4月14日(日)9~17時  月曜・3月21日は休み

◎会場 旧大津公会堂3階(大津市浜大津1-4-1 京阪浜大津駅東)※入場無料121103 (24)

 ▲浜大津のかつての賑わいが再び見られる

相模クハ1110と淡路交通モハニ2007

しばらくサボっていた間に田野城会長から、関三平センセの淡路交通と相模鉄道の、いずれも旧ガソリンカー改造車が紹介アップされた。これは最近音沙汰ない後期高齢老人を狙い撃ちし、ケツを蹴り上げたのに違いないと睨んだが、黙っているわけにも参らず、その実ニコニコと、会長の誘いに乗ることに。

先ず相模鉄道のクハ1110を。時は1936年、東京横浜電鉄は川崎車輛製120人乗り―関東では最大のガソリンカーを、しかもポンと8両一挙に導入した。急行として、しかも増発でも変電所の増設が不要で、車齢は多少短くとも利息含みで投資金額が抑えられ、トータル有利との目算であった。連結器含む全長は17,694mmで、戦前私鉄では最大だった江若鉄道キニ一統の18,736mm(機関GMF13)には及ばないが、私鉄唯一のKP170(GMH17)装着車であり、かつ左右対称3扉車でもあった。

東京横浜電鉄キハ2鉄道趣味第4巻4号(33号)

東京横浜電鉄キハ8西尾克三郎撮影上=キハ2 鉄道趣味33号(伊藤東作撮影) 下=急行運転中のキハ8(西尾克三郎撮影)

実は電車線にガソリンカーやディゼルカーを投入し、投資金額を抑えるとのセールスは、日車が先駆け、予想をはるか超える広い範囲に営業活動を展開していた。その中には標準軌間の九州鉄道(現西日本鉄道大牟田線)や大阪電気軌道、参宮急行も含まれ、各種のセールス用図面が残存している。現実の売り込み成功が瀬戸電気鉄道2輌、東京支店では丸子鉄道1輌にとどまったのは、その後石油消費規正が追いかけたことが大きい。

例えば山陽電気鉄道飾磨線1937年4月6日免許取得時点では、動力瓦斯倫だった。故亀井一男氏すらご存じなかったのだから、知る人は少ない。日車はまさか東京横浜電鉄までもとは、予想しなかったのか。まんまとライバルに大魚を攫われた次第であった。

でその東横だが、わざわざ会社定款の「電気鉄道ヲ敷設シ」から「電気」を抜き「鉄道ヲ敷設シ」と改めた程、ただならぬ入れ込み様ではあった。しかしいざ導入してみると、特に勾配区間での加速性能が電車に比し著しく劣り、ダイヤを乱すことが露呈。結構勾配があり、それも急行停車駅に隣接していると、ガソリンカーには不向きなのであった。スタイルは川崎車輛ならではの欧州風であり、妻面は嵌め殺しで、コーナーの三角窓を外に開いて風を入れる。

当初重連使用を見込んだが、結局はラッシュオフの単行走行に止まった。それでも、1937年度は405,664km走行し、ガソリン消費は232,818リットルで、1リットル当たり1.74km。1輌1日160kmしか走行しなかったから、到底投資額に見合ったものではなかったことになる。その年日中戦争が勃発し、石油消費規正が始まったから、不運な車輌ではあった。

神中鉄道キハ6大谷正春1940.12厚木神中鉄道キハ6 1940年12月厚木 大谷正春撮影

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しまかぜ 他

伊勢志摩しまかぜ本日、しまかぜの試乗列車が走るとのことで伊賀神戸へ行ってきました。近鉄沿線に住んでいながら実物を見るのは初めてです。詳細はこれからも紹介されてくると思います。ついでといってはなんですが伊勢志摩ライナーのリニューアル車も撮りました。黄色の場合は外観上大きな変更はありません車体下部のラインの色が変わったのと側面にロゴが入ったくらいです。しまかぜの方は初日の指定券も20分程度で売り切れたようで今後の乗車会が楽しみです。