微笑みの国、タイ王国鉄道の旅 Part6 ナムトク線、旧泰緬鉄道のアルヒル桟道橋、クウェー鉄橋、C56型

第5日目 12月6日

① バイヨークスカイホテル7:30(専用車)→11:15アルヒル桟道橋
② アルヒル桟道橋13:53→14:25ナムトック駅14:40→15:10アルヒル桟道橋
③ アルヒル桟道橋15:22→16:05クウェー川橋17:50→21:00バンコク市内

00_クウェー河▲ 「戦場にかける橋」で有名なクウェー川永久橋の駅名掲示板で気軽にポーズをとってくださったスタイル抜群のお嬢さん。白い綺麗な手が印象的でした。こんな平和な光景が永久に続いて欲しいと思った旧泰緬鉄道の旅でした。

今回のツアーですが、準特急先輩がいつも一緒に行っておられる海外鉄仲間の皆さんの企画に相乗りしました。2011年冬にも中国内新疆ウイグル自治区哈密にある三道嶺露天掘り炭鉱のSL撮影に同行させていただきました。最近では、2012年9月に久留里線・いすみ鉄道・小湊鉄道の撮影にも同行させていただきました。メンバーは、大学は皆さん別々ですが、高校が同じ開成高校だったり、勤め先が京王電鉄で同じだったりの繋がりのある老練鉄ちゃん仲間の6名の方々です。鉄道知識のみならず人生、社会経験豊富な尊敬すべき大先輩の方々ばかりで、私のような一介の風来坊がいるのは場違いと思われますので、極力ご迷惑がかからぬように心がけました。
01_▲ 7:19、バンコク一の高層バイヨークスカイホテルの部屋から眼下には、空港を結ぶエアポート・レール・リンク(APL)高架鉄道とその下を在来線が見えます。丁度、DLが牽引する5両編成の客車列車が走ってくるのが見えました。

DSC_3593今日は乗り鉄組2名と、撮り鉄組5名に分かれて、ナムトク線(旧泰緬鉄道)のアルヒル桟道橋を目指します。撮り鉄組には、チャーターされたパンダバスが用意されていました。

03_踏切▲ 10:57、走ること約3時間半、無人自動踏切を渡りましたので、降りて見ました。踏切警報器、遮断機は腕木式と道路封鎖可動式の両方が設置されていました。
04_アルヒル桟道橋駅▲ 11:15、アルヒル桟道橋に到着しました。70年前の悲惨な歴史とは反対に綺麗に整備された公園の中に停留所がありました。
05_アルヒル桟道橋時刻表▲ 待合室には、ご丁寧に時刻表までかかっていました。1日3往復が走行しています。
07_アルヒル桟道橋
▲ アルヒル桟道橋に向かいました。補強のために4線区間をなっている間を少し歩いてみました。
06_アルヒル桟道橋▲ 全長450.06mの木橋です。よくも重機もなく人力だけで造り上げたものだと実際見ますと分かります。
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微笑みの国、タイ王国鉄道の旅 Part5 タイの蒸気機関車撮影

第4日目 12月5日

① ファランボーン8:20(DC)→9:39アユタヤ ※実際は約30分遅れ発、約57分延着
② アユタヤ16:37(136)→18:40ファランボーン ※実際は、約45分遅れ発、約58分延着

00_微笑みの車窓▲ アユタヤ駅で蒸気機関車を撮っていましたら、隣のホームに着いた列車の窓からの柔らかな視線を感じました。振り返ってシャッターを押した1枚です。微笑みの国民が持つ寛容に満ちた優しさの姿がありました。

00_微笑みの車中▲ 今回はもう1カット。アユタヤへ向かうDCでお向かいに座られたお嬢さん。乗車中に難解なタイ語を教えてくださいました。コォープ・クゥン(ありがとうございました)。穏やかでさわやかな微笑みが、とってもすてきでした。

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こんなん ありますけど・・・

Doshisha Timesに掲載されたDRFC紹介記事に対する米手作市さんのコメントで、DRFCの会旗にある動輪とレールのデザインを平山氏が作られたということを初めて知りました。平山氏というお名前も名簿に出てこないので全く存じ上げないのですが、あのデザインは旗だけではなく 写真のような会員用のピンバッジにもなっておりました。皆さん覚えておられますでしょうか。米手作市さま、近々平山氏に会われるとのこと、酒の肴にでもしてください。なお現品は クローバー会博物館が完成のあかつきに寄贈すべく 我が家の金庫に厳重保管してあります。

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年の始めは 住吉へ

年が明けてから半月が経過しました。皆さんはどのような正月を送られたのでしょうか。

正月から早くも活動全開という方もおられると思いますが、私の場合は、昨年末に周囲の状況が変わってしまい、活動の停滞を余儀なくされました。しかし、これもまた人生、気を取り直して、自分なりの趣味人生を貫きたいと思ったところです。

130102_153遠隔地への旅行など、叶わぬ夢になってしまった現在、手始めに正月に目指したのは、住吉詣ででした。思い出すのは、毎年の恒例行事とされた乙訓老人のことです。めっきり足腰が弱った老人が、住吉詣を止めてから数年が経ちます。その老人の思いを引き継ぐつもりで、今回は、住吉大社から天王寺駅前まで、久しぶりの歩きの撮影を楽しみました。

次から次へ来る電車、どっと乗り込む乗客、正月の住吉は、まさしく路面電車の最後の聖地でした。

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阪堺線住吉鳥居前は、正月三が日恒例の阪堺電車の大増発。つぎつぎに電車がやって来る。大勢の初詣客にも増して、カメラ人間が放列を敷いていた。

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現役最古参となったモ161も大車輪の活躍、10両のうち、8両が稼動していた。

130102_033sy住吉交差点に立つと、恵美須町、天王寺駅前、浜寺公園、住吉公園の四方向から電車がひっきりなしに顔を出す。警笛とクロッシング音が絶え間なく聞こえてくる。130102_059

阪堺線では今春に新車、低床車がデビューの予定で、モ161の大増発もこの正月が最後かも知れない。

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神ノ木で“ギラリ”を狙う。阪堺線は、大きくSカーブを描いて、南海高野線を越す。

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Wakuhiroさんも、本掲示板で、あべのハルカスと鉄道との組合せについて述べておられた。阪堺線も姫松付近からも遠望できるのは、さすが日本一高いビルだけはある。まだ照明がついていないので夕景も寂しいが、完成後の撮影が楽しみだ。130102_442

東天下茶屋も、私の好きな北天下茶屋に劣らず、いい雰囲気を持った駅だ。専用軌道上に対向式ホームがある。暮れていく中を発車したモ161形を流してみる。130102_420

暮れてからも電車の増発は止むことなく、専用軌道上を続々と上下の電車が行く。130102_448sy_edited-1asd

最後は天王寺駅前、あべのキューズモールの2階から流してみた。一帯はまだ再開発工事の途上だ。天王寺から難波まで、LRT新設の構想もあり、阪堺線はどう変わっていくのだろうか。ちょうど、都電カラーの502が、きらめきの中に映えた。

多摩川朝錬

立川から鳥沢へ撮りに行くのに立川始発の521Mをよく利用します。発車してすぐに多摩川橋梁を渡るのですが、寒い日などは川霧が立ち昇りとても綺麗でした。そこで本日、挑戦してみました。

ビデオ画像から切り出した画像なので車輌は流れています。黎明のこととて、ISO12,800、EV:+2.0と目一杯明るさの補正をしています。

最初は貨物83列車。通常は土日曜日運休なのですが、冬季には土日も運転される様です。

 

この地点から反対側を望むと多摩モノレールが見られます。太陽も顔を出し逆光気味の方が川霧がよく見えました。

 

 

台湾DR2700型

ブギウギさんの「2012年の暮れ台湾へ(上)」[28374]に登場したDR2700型気動車の光華号時代の姿。撮影したのは中華民国57年(1968年)で蒋介石、毛沢東が存命の時代であり、日台間に国交があった時代である。

台湾の看板列車は客車の観光号と気動車の光華号で、ヘッドマークは前者は台湾が、後者は中国大陸が描かれていた。

DR2700型は1966年に登場。東急車両製ステンレスカーで椅子は台湾製、機関はアメリカカミンズ製(世界の鉄道68朝日新聞社)。

s-68.3.23台中光華号_edited-1

↑1968.5.1 台中駅 台北発2001車次高雄行き 途中の停車駅台中、台南

s-台湾時刻表

↑ 当時の台湾の時刻表表紙に出ている看板列車光華号

↓ 44年ぶり撮影DR2700 海端付近を行く4682車次玉里発台東行き 2012.5.1

s-台湾DR2725

 

 

 

 

 

The Doshisha Timesより

同志社タイムス社発行のThe Doshisha Timesに同志社大学鉄道同好会の記事が載っておりましたので、本掲示板に転載いたします。OBの名を鉄道雑誌や記事等で発見すると大変嬉しいものです。

余談ですが、1月10日(木)22:00~23:00にBSフジで放送された全国百線鉄道の旅(毎週木曜日放送)のテーマは湖西線でした。その後半部に江若鉄道の話題に触れられ、福田さんの撮影した写真が取り上げられていました。学生時代に撮られたという江若鉄道の写真が数十年を経た今、再び注目されています。私も諸先輩方に見習い、今の鉄道の姿を“記憶しておく”だけでなく“記録に残していこう”と思います。

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今でも気になる江若鉄道(番外編)に寄せて

藤本様 江若バスの貴重な写真の数々 ありがとうございます。マイカーならいざ知らず、アクセスが不便な鯖街道沿線での撮影はさぞ大変だったこととお察し致します。ところで滋2い 1073が福山自動車博物館にいたことも知らなかったのですが、それが磐梯東都バスで復活していたとは。と言うのも平成21年7月20日に裏磐梯を訪れた際に出会い、撮影していたからです。まさかあのバスが江若バスだったとは!いやはや驚きました。写真を2枚アップして 御礼に代えます。

会津2 028-1会津2 029-1

阪急 251+201

251 39-5-3
桂/昭和39年5月3日

平成25年度の「昭和の電車」の幕開けは、新年にふさわしく阪急251であった。
我々の世代が現役の頃は、嵐山線専用車となっていたので桂駅で見られたり、実際に乗られた方も多いのではなかろうか。私自身小学生の頃、初めてこの電車を見た時、阪急には不思議な電車があるものだと思った。

前歴は焼失したP-5形のデロ25とフロ55の足周りを利用して昭和12年田中車輌で新製された。千里山線で使用されていたが、小型車2両固定編成のため輸送力が追い付かず嵐山線で使用された。昭和40年代になると嵐山線でも乗客の増加により朝のラッシュ時はP-6等の大型車が入り休んでいたように思う。

松尾駅の201+251/(39-1-25)
201 松尾 39-3-21

松尾駅の212+261+211/(39-1-25)
251+201と共に嵐山線専用車として使用されていた。前歴は新京阪から引継いだ電動貨車3000形の電装品、台車を流用して昭和31年ナニワ工機で新製された。当初は千里山線で使用されていたが、小型車3両固定編成のため使い勝手が悪く、38年頃から嵐山線専用となった。51年廃車となり212と211は広島電鉄宮島線で再起した。
212 松尾 39-3-21

桂駅を発車した251+201/(43-8-15)
251 43-8-15桂

桂駅停車中の131+1516/(43-8-15)
上と同じ日の撮影であるが、この日は212+261+211の代わりにP-6の2連が入っていた。
43-8-15 131+1516

今でも気になる江若鉄道(番外編)

56-1-18 栗原
栗原(昭和56年1月18日)/写真の子供達は今では35~40歳になられている筈である。このバスのことを覚えておられるであろうか。

昭和44年11月1日鉄道廃止後、江若鉄道は江若交通に社名を変更してバス専業となったことはご存知の通りである。私と江若との関係はこの時点で一旦途切れたが、数年後再度江若通いが復活した。

49年秋頃だったと思うが、職場の同僚から「鯖街道を車で走っていたらボンネットバスと擦れ違った」という話を聞いた。湖西線開業後、堅田、安曇川、近江今津の各駅には何度か乗り降りしているが、ボンネットバスなど見たことがなく俄かに信じ難かったが、やはり気になるので堅田まで出かけてみた。駅到着直前左手のバスの車庫を見ると確かにボンネットバスが停まっていた。夕方になると次々出庫して、和邇行、町内循環、細川行で発車して行った。

昭和55年1月には、「滋2い1073」「滋2い1074」「滋2い1081」「滋2い1082」の4両が健在で、葛川線、和邇・途中線、栗原線、堅田町内循環線(朝・夕のみ)、浜大津線の本堅田~和邇駅間(和邇・途中線と栗原線の入出庫運用)で使用されていたが、同年2月から中型リヤエンジン車と代替で廃車が始まり、57年2月には全車姿を消した。
現役時代を写真で振り返ってみた。

滋2い1073/ (51-11-21)
41年2月初年度登録 いすゞBXD30、車体は帝国自動車製(メーカーと車体は以下の3両も同じ)、昭和55年2月13日付で廃車になった。
部品取り車として、堅田営業所、後に整備工場の片隅に置かれていたが、福山自動車博物館でレストアされ、福島県の磐梯東都バスで再起した。「森のくまさん号」の愛称で観光シーズンに桧原湖周遊線で使用されている。
51-11-21 1073堅田

滋2い1074 (55-6-1)
41年6月初年度登録で、56年2月12日付で廃車になった。廃車後、堅田の「名鉄マリーナホテル」に売却、この後近江鉄道に売却され、現在も「彦根ご城下巡回バス」に使用されてる。
55-6-1 1074

滋2い1081 (57-2-11)
42年7月初年度登録で最後まで残り、57年2月16日付で廃車になった。最後の1両になった時、予備車として殆ど稼働しないのではないかと思ったが、ほぼ連日、葛川線の堅田~細川間を1往復走行した。会社主催の撮影会、趣味団体のお別れ乗車撮影会も開催され、最終営業日の2月15日には細川で折返しの間合い時間を利用して、葛川小学校の生徒を招待して葛川学校前~坊村間を往復した。廃車後は久多の小学校に寄贈されるという話を聞いたが、その後の消息は不明である。
57-1-15 1081

滋2い1082
42年7月、滋2い1081と同時に登録され、滋2い1074と一緒に56年2月12日付で廃車になった。方向幕はあり得ない行先を表示しているが、このようなコマも持っていた。
廃車後は濃飛乗合自動車に売却され、ボンネット部分を古いものに取換え、扉を前部に移設等の改造を加えられ観光路線で使用されている。
54-6-14 1082

【葛川線】(堅田~途中~細川)
昭和9年11月堅田~還来神社間を開業して、一足早く8年10月に個人営業の路線を譲受けて開業した和邇・途中線と還来神社でドッキングした。途中から先は花折峠前後の道路整備が遅れていたため、35年4月にやっと葛川中村まで開業して、安曇川~葛川中村間の路線と結ばれた。安曇川~葛川中村間は、8年2月安曇駅前~朽木岩瀬間、戦後の24年12月朽木栃生まで、28年2月葛川中村まで開業した。

堅田駅前に停車中細川行、隣のマイクロバスは町内循環線。(55-2-10)
55-2-10堅田駅

北在地/(57-1-17)
北在地

途中で発車待ちの和邇行 /(56-1-25)
56-1-25途中

花折峠を登る /(56-11-22)
56-11-22 花折峠

花折トンネル/(57-1-17)
57-1-17花折トンネル

平/鯖街道沿いの民家をバックに (57-1-17)
57-1-17平

足尾谷橋/ (55-2-10)
55-2-10足尾谷橋

坊村/雪の比良山にアタックする登山客 (54-3-3)
比良リフト、ロープウェイが廃止されたため、比良の最高峰武奈ケ岳へはここから登るのが最短距離となるため、現在でも多くの登山客が利用する。
54-3-3坊村

細川~貫井/(57-1-17)
57-1-17右淵

細川終点/(54-3-3)
小さな車庫があり、堅田発と安曇川発の最終バスと乗務員が宿泊した。
54-3-3細川

【和邇・途中線】(和邇~還来神社前~途中)
歴史は古く昭和8年10月に個人営業の路線を譲り受けて開業した。現在は、栗原道~還来神社前間が廃止されて、「和邇・途中線」の名称もなくなった。

比良病院前~栗原道/ (54-9-23)
54-9-23

栗原道~出口/ (56-1-25)
56-1-25栗原道~出口

出口~上龍華/ (55-3-23)
この時点での風景は戦前と変わらないような気がするが、現在はどのように変化しているだろうか。
55-3-23出口~下龍華

還来神社前/ (55-4-23)
戦時中は親族の無事帰還を願う多くの人々の参拝で賑わったそうであるが、今はひっそりしている。
57-2-17還来神社

【栗原線】(栗原道~栗原)
昭和44年7月「和邇・途中線」の支線のような形で栗原道~栗原間を開業して和邇駅から栗原までバスの運行が開始された。その後、栗原集落の先に宗教団体の施設が開設され信者さんの輸送のために51年1月栗原~妙道会聖地間が延長された。但しこの区間にボンネットバスが営業で走った実績はない。「和邇・途中線」が廃止されたため、現在は「和邇・栗原線」と名称が変わっている。

 栗原を発車して和邇に向かう/ (57-2-11)
廃車直前に1年振りにボンネットバスが栗原線を走り、栗原のバス停では地元の人が記念撮影する光景が見られた。
57-1-25栗原

栗原の大カーブ/ (56-1-18)
56-1-18栗原~栗原道

栗原道~栗原/ (55-3-23)
55-3-23 栗原道~栗原

栗原道~栗原/ (55-3-23)
雪の比良連山をバックに走る。
栗原道~栗原255-3-23

【堅田町内循環線】
堅田町内循環線の経歴は複雑で、元は浜大津線のバスが町内を経由して運行されていたが、38年1月のダイヤ改正で下り便の全便と上り便の堅田以北の便が町内を経由しなくなったためサービスダウンの救済策として設定された。
48年2月専用のマイクロバスが新製されたが、朝夕のラッシュ時には捌き切れないためボンネットバスや大型車(BA20)が使用された。

末広町/ (55-2-11)
55-2-11堅田町内

堅田本町~堅田出町/ (56-2-11)
56-2-11 堅田町内 1081

堅田出町~仰木道/ (55-2-11)
55-2-11堅田町内2

【さよなら運転】(昭和57年1月17日)
「滋2い1081」の廃車日を約1カ月後に控えた1月17日、お別れ乗車・撮影会が開催され当会からは私と特派員さんが参加した。参加者は35名位で全員が着席できないため補助席代わりのパイプ椅子を積んで出発した。運転士はお名前を忘れてしまったがよく知った方、車掌兼添乗員は本社総務課長の畠中氏自らが乗務された。コースは堅田から国道161号線を北上して安曇川営業所で昼食。県道23号線から朽木に出て朽木車庫で休憩。国道367号線(鯖街道)を南下して細川から堅田行のルートで堅田に戻るというもので、距離は約75㎞、下車して撮影した個所は22カ所に及び参加者一同大満足の1日であった。ボンネットバスが走ることがない場所で撮影できたことは良かった。また「滋2い1081」の最初の配置は安曇川営業所であり、その意味でも良かったと思っている。

琵琶湖をバックに
びわこを望む

白髭神社/右は鉄道の線路跡
57-1-17白髭神社

安曇川に沿って

57-1-17朽木渓谷

下市場の鉄橋
57-1-17下市場

朽木車庫
57-1-17朽木車庫2

桑野橋
桑野橋 57-1-17

当時バスの営業所に鉄道から異動された方がおられて、鉄道時代の思い出話をしながらバスについてお教えいただき、車両の動きがある度に連絡をいただいた。ボンネットバス運行最終日直前の2月11日と14日には運用変更をしていただき、和邇~途中線、栗原線を走行して地元の方に喜んでいただけたこともよき思い出である。

2012年 微笑みの国、タイ王国鉄道の旅 Part4 ファランボーン駅、メークロン東線(マハーチャイ線)

第3日目 12月4日

① ファランボーン8:34(MTR)→シーロム/サラデーン(BTS)→8:58ウォンウェイヤイ(徒歩)→9:26国鉄のウォンウェンヤイ駅
② 国鉄のウォンウェンヤイ9:40→10:36マハーチャイ(フェリー・徒歩)→バーンレーム
③ バーンレーム(フェリー・徒歩)→マハーチャイ14:25→15:22国鉄のウォンウェンヤイ
④ ウォンウェンヤイ(BTS)→サイハム→バヤタイ(徒歩)→ホテル
⑤ ラチャーテウイ(BTS)→サイハム→シーロム/サラデーン(MTR)→ファランボーン

00_高架下バラックの親子▲ 空港と市内を結ぶエアポート・レール・リンク(ARL)の高架下には在来線が走っています。その線路脇にはバラック住居が立ち並んで、高層ビル周辺とは違っての庶民の暮らしがあります。住居内は狭くクーラーもなく暑いので、夕刻になると皆さん外へ出て夕涼みでした。
そんな貧困の暮らし中にも笑顔を振りまく親子がいました。思わずシャッターを切りましたが、やっぱり元気で笑顔を絶やさないことが1番の幸せなんだなとなと感じました。

01_国旗付き列車_DSC_2366▲ 今日は1日どこへ行こうかなと思っていましたが、まずは明日本隊と合流するSL列車の発車ホームを確認するためにファランボーン駅に参りました。5番線と確認できましたが、隣の6番線には、珍しく国旗を掲げた機関車が着いていました。短編成で客車も新車でもありませんが、何か特別な列車なのでしょうかね。
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微笑みの国、タイ王国鉄道の旅 Part3 バンコク ウォンウェンヤイ駅

第2日目 12月3日 2の2
① 羽田空港00:15(JL033)→5:20バンコク(スワナブール)空港
② 空港6:27(APL)→6:43マッカサン(MRT)→7:23ファランボーン
③ ファランボーン15:29(MRT)→15:36シーロム/サラデーン15:51(BTS)→15:57ウォンウェイヤイ(徒歩)→16:35国鉄のウォンウェンヤイ駅
④ 国鉄のウォンウェイヤイ駅17:53(徒歩)→18:13ウォンウェイヤイ(BTS)→サラデーン/シーロム(MRT)→18:50ファランボーン

20▲ 何を買ったのかビニール袋に入れて、犬走りを家路へと走る少女。黒く日焼けした手足は、熱帯で暮らす子供たちの元気の証しなのでしょうね。

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微笑みの国、タイ王国鉄道の旅 Part2 バンコク ファランボーン駅、タイ王国お召し列車、C56形蒸気機関車

第2日目 12月3日 2の1
① 羽田空港00:15(JL033)→5:20バンコク(スワナブール)空港
② 空港6:27(APL)→6:43マッカサン(MRT)→7:23ファランボーン
③ ファランボーン15:29(MRT)→15:36シーロム/サラデーン15:51(BTS)→15:57ウォンウェイヤイ(徒歩)→16:35国鉄のウォンウェンヤイ駅
④ 国鉄のウォンウェイヤイ駅17:53(徒歩)→18:13ウォンウェイヤイ(BTS)→サラデーン/シーロム(MRT)→18:50ファランボーン

10_1▲ ファランボーン駅は、タイ各地から来たり戻る人たち、また出かける人たちで賑わっています。列車が発車していったホームの中で、裸足でたたずんでいる坊やは、駅で働くお姉さんの子供です。「僕の保育所は、ファランボーン駅のプラットホーム。」友達もなく一人ぼっちで退屈そうに欠伸をしていました。もう、たくさんの機関車や客車は見飽きたのでしょうかね。

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2012年の暮れ台湾へ(下)

 24日月曜日は、早朝から台東の北郊、鹿野の駅付近で数本の列車を撮影しました。駅から線路に沿って南へ5分ほどバナナ畑の傍と、駅の北側とで何往復かしてディーゼルカーの自強号、DR2700の普快車、客車列車の莒光号(急行に相当)の撮影をこなしました。
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「鹿野駅に入るDR3000型の自強号」

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「莒光号 鹿野駅付近」

 その後鹿野8時56分発の復興685次で玉里まで出て自強号乗換えまでの約一時間、玉里麺という約45円の汁そばを食べます。今流行の腰が強い麺と濃い味のスープのラーメンとは異質ですが、細めの麺と肉、もやしの具材があっさりしたスープとよくあいなかなかいけます。復興号は普快と莒光号の中間、つまり準急に相当する客車列車でブルーの濃淡二色の塗りわけになっています。客車の見かけはほとんど莒光号の客車と変わらないのですが、定員が莒光号客車が52人のところ60人となっているのでシートピッチが若干狭く、窓割りとシートの並びがあっていません。玉里からは10時39分発のディーゼル自強301次、花蓮から13時3分発の自強175次で福隆まで乗ります。この175次は、プッシュプル方式の12連ほどの長大編成で、前後の電気機関車が南アフリカ製、間に入る客車が韓国製となっています。普通電車で大里まで戻り、亀山島を望む海沿いの道でカメラを構え、何本かの列車を撮影しましたが、生憎どんより曇っていました。
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「莒光号 大里駅付近」

 その日の泊まり先は、近くの礁渓温泉です。台北からも列車で1時間半程度で行けるとあってなかなか賑わいのある温泉地です。台湾は温泉も多く、礁渓温泉のように賑やかな行楽地と山深いところなどいろいろあります。台湾の場合、水着で入る大浴場か個室の風呂になります。ホテルは日本風の畳部屋でしたが、部屋は温泉の出ないユニットバス式の風呂しかありませんので、外湯となる系列施設の個室風呂に行きます。カラオケボックスのように各個室に大小もあるようですが、通された部屋は3人用とかで、ゆったりとした浴槽の蛇口をひねると無色透明の湯が勢いよくほとばしり出ました。この日も、蟹のフライなど海鮮中華の味を楽しみました。
 25日火曜日は、東部幹線と平渓線の分岐駅となる三貂嶺駅での撮影です。ここは、総本家青信号特派員さんも寄稿されておられますとおりかつての福知山線道場-武田尾間のような趣です。補機がつく貨物列車と機関車の切り離し、平渓線ローカル列車のタブレット交換の他、幸運なことに試運転中の日本車両製の新鋭TEMU2000型も撮影することができました。
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「補機も付けてあと一息 三貂嶺駅」

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「平渓線ローカル列車 三貂嶺駅」

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「試運転中の新鋭TEMU2000型 三貂嶺付近」

 その後、台北近くの有名撮影地、汐科駅で釣り掛け式電車EMU1200型で運用される自強112次、127次などの優等列車の他、懐かしい荷物客車やセメント貨物などの撮影をこなしました。ここは、編成を撮るのに好都合なカーブがあり、東部幹線と西部幹線が交差する位置でもありますので、かなり高い効率で撮影をすることができます。
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「荷物列車 汐科駅」

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「配給列車も通過 汐科駅」

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「自強112次 EMU1200型 汐科駅」

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「自強113次 EMU300型 鶯歌駅付近」

 この駅で、デカンショまつり号さんと新所沢都民さんと別れ、私は翌26日水曜日、桃園近くの鶯歌駅近くの陸橋で彰化行きの釣り掛け式電車EMU300型の自強113次を撮った後、帰阪しました。また行く機会があれば、その時は是非、客車急行となる莒光号に台北から高雄、あるいは台東まで弁当を買い込んでゆっくり乗り通してみたいと思っています。あとは時間があれば、観光列車化してはいますが、SL牽引がある渓湖糖廠など糖廠のナローゲージトロッコにもまた乗ってみたいと考えています。

2012年の暮れ台湾へ(上)

 夏に集集線の蒸気を撮った後、総本家青信号特派員さんの寄稿を拝見し、台湾でもそろそろ乗車優先から走行写真を、と思っていたところデカンショまつり号さんから熱烈な台湾行きのオファーをいただきました。そこへ台湾の鉄道に深い関心を示していた新所沢都民さんも誘い、それぞれ航空便は関西、成田、羽田からとばらばらながら12月22日(土)16時50分、台北駅中央切符売り場に3者が集合しました。今回はTR-PASSの3日間用(1800元)を使うことにします。これは、台湾の在来線ならどの列車(商務車(グリーン車)は除く)でも乗れ、座席指定も窓口で指定券を発行してもらうだけの便利な切符です。
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「クリスマスの装いの台北駅」

 この日は少し雨がぱらつく肌寒い天気です。先ずは花蓮までの移動の前に階上のフードコートで腹ごしらえです。このフードコートは台湾の料理をはじめ、ファーストフード、洋食、日本食など多く選べますが、せっかくですので鶏肉の焼き物と中国野菜の炒め物と台湾風らしい食事を食べました。あっさりしていて結構いけました。花蓮までは17時40分発の自強282次のタロコ号です。
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「タロコ号 花蓮駅」

 タロコ号は人気列車とかで花蓮まで切符がとれたのは初めてでした。専ら充当されるTEMU1000型はJR九州885系をもとにしているとあって車内の窓周りはそっくりですが、シートの前後の間隔はタロコ号の方が相当ゆったりしていました。花蓮は漁港に近いとあって、海鮮料理の店で夕食をとりました。太刀魚、しじみ、イカなど材料を選び、焼く、茹でる、揚げるなど調理も選択できるのですが、よく分かりませんので炒め物中心でも新鮮なのかさっぱりしていておいしくいただきました。
 翌朝23日日曜日、5時47分発の普快車4676次に乗り込みます。この列車にはDR2700型ディーゼルカーが充当されています。かつては台北高雄間の特急光華号で活躍したとのことですが、今は花蓮-台東で余生を送っています。ビニール張りの回転式クロスシートは相当くたびれていますが、DR2700は、カミンズ製のエンジンを勇ましく轟かせ、なかなか鋭い加速をします。
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「DR2700型」

 ホテルで朝食のサンドイッチと豆乳を用意してもらいましたが、少ないのでコンビニで買った国民弁当も食べます。国民弁当は、台湾のコンビニに必ずといってもいいほど置いてある弁当で、ご飯の上に、豚肉や鯖の焼き物の他、炒め野菜や卵焼きなどを載せただけですが、これをほおばると台湾にいる実感が体の底から沸いてきます。ただし、国民弁当が一番美味いということではありません。台湾にも独自の弁当の文化が根付いており、日本のような豊富なバリエーションや盛り付けの美麗さはありませんが、車内販売でよく見る台鉄弁当の他、ご当地弁当ともいえる池上弁当や関山弁当などもご飯の上の具材をそれぞれ工夫しており、これらを食べることも旅行の楽しみの一つとなっています。
 この日は、旧型客車に乗ることが目的なので、鳳林6時46分発の自強304次のDR3100型ディーゼル特急に乗り換えます。こちらはリクライニングシート、空調つきの大型固定窓で、特急と呼ぶにふさわしい車でDR2700とは隔世の感があります。大きな町の台東をやり過ごし、トンネルの多い新線区間を一気に枋寮まで快走し、10時16分着。駅で暫し撮影をした後、駅前の餃子専門店に繰り出します。焼き餃子、水餃子それぞれ普通の味に加えキムチ餃子やカレー餃子など変わった種類もあり、ビールも進みます。
 枋寮から台東までは日本製の旧型客車3両を連ねた普快車3671次で戻ります。旧型客車といっても日本で多く見られたオハ35やスハフ42そのままではなく、10系客車でもし特急専用車があったらこんなんだっただろうというスタイルです。狭窓が並ぶ回転クロスシートは、スハ44の軽量客車版といってもいい形です。
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「普快車3671次」

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「SPK32700車内」

 この日も天気はぱっとしませんでしたが、窓を開け放って風を受けるのは気持ちいいものです。この旧型客車SPK32700ですが、もはや枋寮12時8分発の普快車3671次とその返しとなる台東17時25分発の普快車3672次の一往復しかありません。SPK32700もかつて対号特快として台北高雄間で活躍していた車両で、大井川に残存するスハフ43と内装もよく似ているように見えます。
 枋寮-台東間は開通して20年足らずの新線なので路盤もよく、時折海岸線に接するもののトンネルも多く、旧型客車といえどもかなり高速で走ります。

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「快走」

2011年の9月に乗車した際は、この列車に団体客が大勢乗り込み騒がしかったのですが、この日は他に鉄チャン風と地元の客がちらほら乗っているだけで至って車内は静かです。戻りもこの旧型客車の返しに乗り、枋寮20時38分発の自強753次で台東に22時25分着後、駅前のホテルに投宿しました。

あけましておめでとうございます。阪急200型

新年第一回は阪急200型。
学生時代の一時期、阪急嵐山線の松尾と上桂の中間地点に住んだことがあります。ちょうど河原町延伸が完成した直後で、毎日嵐山で本線に乗り換えて通っていました。このときに嵐山線で乗っていたのがこの251号。
書いてあるとおり座席が深く、足が短いためか背中を背ズリにつけると足が上がる始末でした。乗り心地が良く、スタイルと相まって大好きな電車でした。
いま思えば、この当時の電車は良く似たものが各地にあったように思います。阪急200型_NEW阪急200型(文)_NEW

新年、女王様健在

新年1月4日、元京阪特急電車は元気に業務に就いていました。上り第14列車。
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抜里駅の西方、お茶畑を金谷に向かうところです。
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その後お茶畑を、今度はC108曳くかわね路1号が。新春のヘッドマークを付け千頭に向かいました。
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梅小路公園に市電広場!

1月5日の朝刊に、梅小路公園内に市電ひろばができて、保存されている京都市電が展示・運転されるとの記事が出ていた。いままでも旧N電が運転されているが、記事によると運転コースが現在の旧二条駅前から西へのルートを廃止して、山陰線高架より東側になるらしい。市電は山陰線の高架下に車庫を作って現在も保存されている。搬入時に見たのだが、900型、600型、700型、500型等だったように記憶している。市電ひろばは、旧国鉄の官舎跡で、昨年まで福島県からの疎開家族に提供されていたものである。場所は水族館の西隣で、木津屋橋通りの南側である。
問題はこの市電の運転方法である。記事で見る限りであるが、給電設備が必要だからという理由で、市電にバッテリーを積んで架線を使わずに「EV」化して走らせるとのことである。

これはとんでもない考えであると私は思う。子供の遊園地の遊具ではないのだ。運営主体はJR西日本と京都市と違えども、れっきとした鉄道博物館の付帯設備で、京都市の税金で建設される産業遺産展示物である。受電設備がないというが現在も600Vで架線給電して走っているではないか。市電廃止後30年以上も放置してきた保存車両を市民に公開して走らせるなら当時の姿を再現するのが行政の責任ではないか。何でもいいから走らせればいいだろうとは市民を馬鹿にするのも甚だしい。そんな形で走らせるなら静態保存の方がまだましだと思う。会員諸兄はいかがお考えであろうか。

できるなら現在の線と新設線をつないで頂き、公園の西の端から東の水族館までのピストン運転をして頂きたい。もちろん架線集電でである。30年も日の目を見ずに待っていた市電達に対するせめてものご褒美として。

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