
栗原(昭和56年1月18日)/写真の子供達は今では35~40歳になられている筈である。このバスのことを覚えておられるであろうか。
昭和44年11月1日鉄道廃止後、江若鉄道は江若交通に社名を変更してバス専業となったことはご存知の通りである。私と江若との関係はこの時点で一旦途切れたが、数年後再度江若通いが復活した。
49年秋頃だったと思うが、職場の同僚から「鯖街道を車で走っていたらボンネットバスと擦れ違った」という話を聞いた。湖西線開業後、堅田、安曇川、近江今津の各駅には何度か乗り降りしているが、ボンネットバスなど見たことがなく俄かに信じ難かったが、やはり気になるので堅田まで出かけてみた。駅到着直前左手のバスの車庫を見ると確かにボンネットバスが停まっていた。夕方になると次々出庫して、和邇行、町内循環、細川行で発車して行った。
昭和55年1月には、「滋2い1073」「滋2い1074」「滋2い1081」「滋2い1082」の4両が健在で、葛川線、和邇・途中線、栗原線、堅田町内循環線(朝・夕のみ)、浜大津線の本堅田~和邇駅間(和邇・途中線と栗原線の入出庫運用)で使用されていたが、同年2月から中型リヤエンジン車と代替で廃車が始まり、57年2月には全車姿を消した。
現役時代を写真で振り返ってみた。
滋2い1073/ (51-11-21)
41年2月初年度登録 いすゞBXD30、車体は帝国自動車製(メーカーと車体は以下の3両も同じ)、昭和55年2月13日付で廃車になった。
部品取り車として、堅田営業所、後に整備工場の片隅に置かれていたが、福山自動車博物館でレストアされ、福島県の磐梯東都バスで再起した。「森のくまさん号」の愛称で観光シーズンに桧原湖周遊線で使用されている。

滋2い1074 (55-6-1)
41年6月初年度登録で、56年2月12日付で廃車になった。廃車後、堅田の「名鉄マリーナホテル」に売却、この後近江鉄道に売却され、現在も「彦根ご城下巡回バス」に使用されてる。

滋2い1081 (57-2-11)
42年7月初年度登録で最後まで残り、57年2月16日付で廃車になった。最後の1両になった時、予備車として殆ど稼働しないのではないかと思ったが、ほぼ連日、葛川線の堅田~細川間を1往復走行した。会社主催の撮影会、趣味団体のお別れ乗車撮影会も開催され、最終営業日の2月15日には細川で折返しの間合い時間を利用して、葛川小学校の生徒を招待して葛川学校前~坊村間を往復した。廃車後は久多の小学校に寄贈されるという話を聞いたが、その後の消息は不明である。

滋2い1082
42年7月、滋2い1081と同時に登録され、滋2い1074と一緒に56年2月12日付で廃車になった。方向幕はあり得ない行先を表示しているが、このようなコマも持っていた。
廃車後は濃飛乗合自動車に売却され、ボンネット部分を古いものに取換え、扉を前部に移設等の改造を加えられ観光路線で使用されている。

【葛川線】(堅田~途中~細川)
昭和9年11月堅田~還来神社間を開業して、一足早く8年10月に個人営業の路線を譲受けて開業した和邇・途中線と還来神社でドッキングした。途中から先は花折峠前後の道路整備が遅れていたため、35年4月にやっと葛川中村まで開業して、安曇川~葛川中村間の路線と結ばれた。安曇川~葛川中村間は、8年2月安曇駅前~朽木岩瀬間、戦後の24年12月朽木栃生まで、28年2月葛川中村まで開業した。
堅田駅前に停車中細川行、隣のマイクロバスは町内循環線。(55-2-10)

北在地/(57-1-17)

途中で発車待ちの和邇行 /(56-1-25)

花折峠を登る /(56-11-22)

花折トンネル/(57-1-17)

平/鯖街道沿いの民家をバックに (57-1-17)

足尾谷橋/ (55-2-10)

坊村/雪の比良山にアタックする登山客 (54-3-3)
比良リフト、ロープウェイが廃止されたため、比良の最高峰武奈ケ岳へはここから登るのが最短距離となるため、現在でも多くの登山客が利用する。

細川~貫井/(57-1-17)

細川終点/(54-3-3)
小さな車庫があり、堅田発と安曇川発の最終バスと乗務員が宿泊した。

【和邇・途中線】(和邇~還来神社前~途中)
歴史は古く昭和8年10月に個人営業の路線を譲り受けて開業した。現在は、栗原道~還来神社前間が廃止されて、「和邇・途中線」の名称もなくなった。
比良病院前~栗原道/ (54-9-23)

栗原道~出口/ (56-1-25)

出口~上龍華/ (55-3-23)
この時点での風景は戦前と変わらないような気がするが、現在はどのように変化しているだろうか。

還来神社前/ (55-4-23)
戦時中は親族の無事帰還を願う多くの人々の参拝で賑わったそうであるが、今はひっそりしている。

【栗原線】(栗原道~栗原)
昭和44年7月「和邇・途中線」の支線のような形で栗原道~栗原間を開業して和邇駅から栗原までバスの運行が開始された。その後、栗原集落の先に宗教団体の施設が開設され信者さんの輸送のために51年1月栗原~妙道会聖地間が延長された。但しこの区間にボンネットバスが営業で走った実績はない。「和邇・途中線」が廃止されたため、現在は「和邇・栗原線」と名称が変わっている。
栗原を発車して和邇に向かう/ (57-2-11)
廃車直前に1年振りにボンネットバスが栗原線を走り、栗原のバス停では地元の人が記念撮影する光景が見られた。

栗原の大カーブ/ (56-1-18)

栗原道~栗原/ (55-3-23)

栗原道~栗原/ (55-3-23)
雪の比良連山をバックに走る。

【堅田町内循環線】
堅田町内循環線の経歴は複雑で、元は浜大津線のバスが町内を経由して運行されていたが、38年1月のダイヤ改正で下り便の全便と上り便の堅田以北の便が町内を経由しなくなったためサービスダウンの救済策として設定された。
48年2月専用のマイクロバスが新製されたが、朝夕のラッシュ時には捌き切れないためボンネットバスや大型車(BA20)が使用された。
末広町/ (55-2-11)

堅田本町~堅田出町/ (56-2-11)

堅田出町~仰木道/ (55-2-11)

【さよなら運転】(昭和57年1月17日)
「滋2い1081」の廃車日を約1カ月後に控えた1月17日、お別れ乗車・撮影会が開催され当会からは私と特派員さんが参加した。参加者は35名位で全員が着席できないため補助席代わりのパイプ椅子を積んで出発した。運転士はお名前を忘れてしまったがよく知った方、車掌兼添乗員は本社総務課長の畠中氏自らが乗務された。コースは堅田から国道161号線を北上して安曇川営業所で昼食。県道23号線から朽木に出て朽木車庫で休憩。国道367号線(鯖街道)を南下して細川から堅田行のルートで堅田に戻るというもので、距離は約75㎞、下車して撮影した個所は22カ所に及び参加者一同大満足の1日であった。ボンネットバスが走ることがない場所で撮影できたことは良かった。また「滋2い1081」の最初の配置は安曇川営業所であり、その意味でも良かったと思っている。
琵琶湖をバックに

白髭神社/右は鉄道の線路跡

安曇川に沿って

下市場の鉄橋

朽木車庫

桑野橋

当時バスの営業所に鉄道から異動された方がおられて、鉄道時代の思い出話をしながらバスについてお教えいただき、車両の動きがある度に連絡をいただいた。ボンネットバス運行最終日直前の2月11日と14日には運用変更をしていただき、和邇~途中線、栗原線を走行して地元の方に喜んでいただけたこともよき思い出である。