第2日目 11月29日
① 台北 6:40(区間車)⇒6:49 板橋
② 板橋 7:17(MRT環状線)⇒7:58 十四張
今日は前回初めて訪問しました「安坑LRT」安坑軽軌を再訪します。朝6時前には目覚めて身支度です。徒歩直ぐの台北駅へと向かいます。
乗換えの板橋站地下コンコースでは前回同様に朝マックで朝食を取ってからLRTへの乗換のためにMRTで十四張站に着きました。
鉄輪式標準軌道の無人自動走行の車両は日立レールイタリア製です。
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第2日目 11月29日
① 台北 6:40(区間車)⇒6:49 板橋
② 板橋 7:17(MRT環状線)⇒7:58 十四張
今日は前回初めて訪問しました「安坑LRT」安坑軽軌を再訪します。朝6時前には目覚めて身支度です。徒歩直ぐの台北駅へと向かいます。
乗換えの板橋站地下コンコースでは前回同様に朝マックで朝食を取ってからLRTへの乗換のためにMRTで十四張站に着きました。
鉄輪式標準軌道の無人自動走行の車両は日立レールイタリア製です。
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(2) 中津付近
天神橋筋六丁目を出た北大阪線の電車は、中津方面へ向かいます。すぐに「本庄中通」の停留場で、戦災を受けなかった古い街並みが続き、並びには老舗のツバメ屋模型店があったことも思い出です。つぎの「南浜」では、東海道本線をくぐり、名称は、むかし西成郡南浜村だったことに由来、つぎの「北野」も、かつての西成郡北野村に由来、ここに北野中学があり、戦前に十三駅西に移転し、戦後、北野高校となっています(以下、昭和50(1975)年5月)。
▲そして、阪急の複々線をくぐり、北大阪線唯一の専用軌道を行くと、阪急と国道176号に挟 まれて、梅田貨物駅・梅田貨物線を越す、乗り越し橋脇の「中津」に到着する。
(1) 天神橋筋六丁目
“煙”の話が続きましたので、目先を変えて。路面電車シリーズに入ります。先に“アレ”関連で阪神軌道線(阪国)の甲子園線を紹介しました。阪神軌道線には、ほかに国道線、北大阪線がありましたが、昭和50年に全廃され、廃止から50年近くが経過しました。今回は、天神橋筋六丁目~野田の北大阪線を何回か紹介します。目立つことがなかった阪神軌道線にあって、北大阪線は、阪急中津駅の近くを並行していて、阪急電車の窓からも見ることができました。小さい頃、阪急電車に乗って、梅田に着く直前に、チラッと単行の電車が見え、しかも阪急以上に地味な色の電車で、“なんやろ”の思いで見ていたことを思い出します。
▲天神橋筋六丁目から発車していた北大阪線。阪神本線の野田までの4.3kmの路線で、梅田の外縁を半周するようにして連絡していた。
9月に訪台してから約2ヶ月、コロナ騒動で渡航を控えていた海外鉄の仲間達が揃うように台湾へと向かわれました。
聞けばJALが10月29日から来年1月8日までの週4往復の期間運航開始とのことで、待ちに待った運航です。国内線は北海道・九州・沖縄へと搭乗してきましたが国際線は2019年12月以降、その中でもJALには2019年3月以来約4年半も搭乗していません。是非とも搭乗して短距離の海外線ですが、久しぶりに機内食を食べたい思いがでました。
この時期からの台湾は暑さは消えて過ごしやすい気候にもなります。台湾鉄の仲間からは12月になると阿里山でシェイ式蒸気機関車牽引の特別ツアー列車も運行するとの情報が聞こえてきましたのでこれに合わせて行ってみるかと予定を組み出しました。
航空券につきましては貯めていましたJALマイレージ25,000ポイントを利用して、他に燃油サーチャージ・空港利用税の往復 24,030円が出費です。
かつて、必要なマイル数は16.000ポイント、燃油サーチャージはなし、空港使用税のみ追加の時代もありましたので、随分と高くになったものです。
魚梁瀬ダムを過ぎて、魚梁瀬大橋を渡り丸山台地に向かいます。ここはダムによって沈んだかつての魚梁瀬集落の皆さんが集団移転してできた新しい町です。そこにある丸山公園に、復元された森林鉄道があります。
初めて駅間を歩いて撮影 昭和43(1968)年3月
今までの駅・機関区撮りから脱して、呉線を駅間で撮りたいと思うようになりました。呉線の車窓からは海岸沿いを走る光景は見ているし、鉄道雑誌でも呉線は注目されるようになって「撮影地ガイド」も載るようになってきました。高校3年生の終わりの春休み、北九州への撮影旅行の前後に、呉線の撮影となりました。
▲関西からアプローチしやすい三原寄りで有名な撮影地は須波~安芸幸崎で、ほとんど瀬戸内海に沿って走る。ちょうど中間地点あたりにアウトカーブがあり、まるで瀬戸内海へ飛び出しそうな海岸ギリギリの区間がある。何度も広島からの乗ったことのある徳山発糸崎行き624レは、待望のC59 162が牽いていた。C59廃車説も吹き飛ばす、C62に伍しての活躍が見られた。
魚梁瀬森林鉄道跡を訪ねるにはクルマが不可欠です。高知市でレンタカーを借りると土佐くろしお鉄道に乗る機会がなくなるので、なんとか現地調達をと調べたところ、くろしお鉄道安芸駅に駅レンタカーがあることがわかりました。岡山から瀬戸大橋、大歩危を経由して後免へ、そして初めての土佐くろしお鉄道ごめんなはり線で安芸へと向かいました。くろしお鉄道については、別稿でご紹介したいと思います。
(その1)で述べましたように、魚梁瀬森林鉄道は安田川線が先に開通し、あとで奈半利川線が作られたのですが、今回の旅は奈半利川線経由で魚梁瀬に向い、魚梁瀬から安田川線を下るルートで計画しました。では狭い道を考慮して借りた軽自動車で出発です。 続きを読む
学生時代に何かの雑誌で、阿里山で活躍しているシェイ式蒸機が、国内にも数機いたことを知り、それがきっかけで高知県の魚梁瀬森林鉄道の存在を知りました。しかし、木曽森林鉄道以上に訪ねにくい地にあり、気になりつつも半世紀が経過しました。一方、我が家の食卓(冷蔵庫)には「馬路村のポン酢醤油」が常備されていて、生産地である馬路村も気になる存在でした。また、平成13年にはRMライブラリNo.29として舛本成行氏により「魚梁瀬森林鉄道」が詳しく紹介されるに至り、馬路村と魚梁瀬森林鉄道跡をいつ訪問しようかと考えていました。この度、ようやく念願であった現地訪問が実現しましたので、現地の様子をご紹介します。
なお「中芸地区」とは、安芸市、奈半利町、北川村、田野町、馬路村、安田町が安芸郡の中央にあることから、そう呼ばれるのだろうと思います。ガイドマップの表紙を飾るのが「シェイ」であるのも素敵です。
昭和42(1967)年3月 九州行きの初日に呉線へ

またまた投稿が途切れてしまいました。言い訳無用、とにかく専念することにします。高校2年生の終わりの昭和42(1967)年3月、いままで夜行日帰り撮影から、一挙に2週間に渡る九州一人旅に出掛けることになりました。例によって、最初の立ち寄り先に糸崎を選び、3回目の呉線行きとなりました。▲14日間通用の九州均一周遊券を握りしめて、新大阪から博多行き「第2つくし」に乗り込んだ。新大阪9:50発、糸崎13:45着、通い慣れた駅西側の踏切を渡って、糸崎機関区へ向かった。
その2を投稿してから2週間が経ってしまいました。JR向洋駅周辺の取材のあと広電駅前大橋ルートの工事の様子を見に行ったのですが、報告が遅くなってしまいました。写真はすべて令和5年11月25日の撮影です。
1週間ほど旅行をしていて投稿・チェックが出来なかった。
さて今回は私の人生最大のショックを受けた大事故の記事を紹介する。
三河島事故、若い会員でもこの事故はご存じだろう。
昭和37年5月3日21時37分、国鉄常磐線三河島駅構内で田端発水戸行下り貨物287レ(D51364)が出発信号を見落とし安全側線に入り、停まりきれずに脱線して機関車と次位のタキ50044が下り本線上に飛び出した。これに三河島駅を4分延で出発した上野発取手行き2117Hレがタキに衝突、先頭車クモハ60005と次位のクハ79396が脱線して上り本線上に飛び出した。さらに7分後、上野行き上り2000Hレが進入し、線路上を歩いて避難中の乗客をはねたうえ、上り本線上の2117Hレ先頭車と衝突した。これによりクモハ60005とクハ79396は粉砕され、上りの2000Hレも先頭車クハニ67007が原形を留めないほど粉砕され、二両目のモハ72549と三両目のサハ17301は築堤下まで転落、四両目も脱線した。
死者160名、負傷者296名
関西にいても紀勢本線は遠く、さらに関西本線のDF50の活躍は限定されていた。1965年5月2日名古屋23時20分発夜行ディーゼル準急紀伊勝浦行き「うしお2号」に乗車。翌5月3日早朝5時過ぎの新宮で下車した。ここで新宮6時30分発天王寺行き123列車で紀伊田辺で下車しC57やD60の撮影に向った。この時、雨の早朝の新宮駅で撮ったのが唯一のDF5016[亀山]である。この後に交換する列車にDF50は見られず、準急もC57、C58であった。▼
もう少し前の1963年5月3日亀山区で撮った茶系塗装のDF5031[亀山]でピクのDF50特集に掲載された。▼
1972年9月9日下庄駅でC57198の126列車を撮った後下り多気方面に向かうDF5014[亀山]の列車。▼
1968.9.29関西本線加太-中在家(信)の大カーブを行く廃止直前の急行「大和」湊町行きを牽引するDF5025[亀山]。大阪通信員さんを始め加太会の皆さんの主戦場。この写真も趣味誌に掲載されたことがある。今見るとこの写真はあちこちに氾濫している。▼
94度も開店しておきながら、意外と触れていなかったテーマが「新快速」です。奈良に住んでいると「新快速」とは縁もゆかりもないのです。種別が誕生してから、今年で53年を迎えました。もはや「新」しくはありませんが、固有名詞として存在すべき立派な種別です(ひょっとして、最新版の広辞苑には掲載されている?)。
山陽本線の海田市・天神川(広島貨物ターミナル)間には山陽本線上下線、広島貨物ターミナルへの出入りのための上下貨物線、そして呉線上り列車が山陽本線下り線をオーバークロスする渡り線があり、列車本数が多い区間なのですが、踏切が多くあり、開かずの踏切が以前から問題になっていました。そこで海田市・天神川間を高架にすべく大規模な工事が始まっています。その丁度中間にあるのが向洋(むかいなだ)駅です。この地は広島市内ではなく、マツダ本社があるがゆえに広島市とは合併せず、安芸郡海田町で通している財政豊かな町です。工事はまず在来線を北側に移設し、山陽本線を在来線跡地に高架化し、貨物線は多分地上に残すのではないかと思います。すでに向洋駅の上りホームは北側の仮設上り線側に移設されています。11月25日、向洋駅周辺の工事の様子を見てきました。
準特急さんにより各地で活躍したDF50の記事が続いていて楽しませてもらっています。DF50機関車はキハ55系気動車と同じように国鉄車輛近代化転換期に登場しましたが地味な存在でした。端正な車体でED70とともに好きな機関車でした。塗色が変わったころは客車もブルーに変わったころでともに亀山駅で初めて見たのを思い出します。
50号の表紙は題が「なごり雪」で1981(昭和56)年3月2日土讃本線雪の坪尻駅となっています。ガリ版刷りからタイプ印刷にグレードアップしたと中島禎孝会長が巻頭に書いておらqれ1983(昭和58年)11月26日の発行でした。
事件や事故も続くと飽きてくるらしい。
反応もイマイチだが、読んでは頂いているようで気を取り直している。
今回は1961年のダイヤ改正から年末へと進める。
この年は「36.10」で新DC特急が走り出す年である。しかし・・・