総会での決定・承認事項は、追って会員個別に連絡するとして、まずは当日の様子を、午前中に行われた乗車会・見学会とあわせて速報版で写真紹介しましょう(多数の閲覧があることを踏まえ、写真の選定に配慮しました)。
新しく広報担当を任命された、ぶんしゅうさんからの依頼を受け、代わってお知らせします。
今年6月中旬開業予定の京滬高速鉄道について、昨日の現地報道(原文はこちら)によると、大幅な変更があリました。
① 最高速度380km/hで走行して北京~上海1318キロを4時間で結ぶ予定であったが、最高速度は300km/hに減速し、5時間運転とする。
② 編成車両で目玉だった飛行機の国際線ビジネスシート並みシェル式のVIPフラットシート車は、連結予定を今回取りやめにする。
といったショッキングなニュースです。理由としては、
① 走行スピードが320km/hをオーバーすると10km/h速度が上がるたびにエネルギーは倍増されてコスト高となるので、経済性を優先する。
② 飛行機と比べても高額運賃となり、庶民が利用できないので誰もが乗れるように庶民性を重視する。
こんなことは、初めから分かっていたのに開業直前で修正するとは何よりもメンツを重んじ、世界最高が大好きな国民性からはとても信じがたい報道ですが、どうやら本当のようです。
折角、380km/h走行の乗車を楽しみにしていましたが、 興味が激減しました。
最近まで500km/hを目指すと試運転を繰り返していましたのに、なぜに健全な運行への方向転換をしたのか不思議でなりません。一説によると最高幹部が更迭されたからとの推測が当たっているかも・・・・。
これからの中国鉄路の方向性に大きな変化がでてくるのは容易に想像できます。 今年は中国鉄路各地で高速鉄道の開業が相次ぎます。片っ端から乗車してのレポートを投稿させていただきます。よろしくお願いします。

片上鉄道キハニ120 1937年10月14日和気 牧野俊介撮影

片上鉄道キハニ120組立図
米手作市氏、畏れ多くも乙訓ご老人までが露払いして下さったからには、黙っているわけに参らず、須磨老人から一言を。この流線形クハ803は加藤車輛製作所1936年8月製、片上鉄道キハニ120が前身である。加藤製としては1か月後の能登鉄道キホハニ2と共に、個性の強い流線形で、運転席窓の庇が特徴だが、車体実幅が2,200mmと狭いのに幕板が広く、屋根も深く、鈍重―スマートとは申しかねる。扉下、荷台にも踏み板を盛大に張り出し、最大幅は2,640mm。50人乗り、機関は戦前私鉄中型車標準のウォーケシャ6SRL、エアブレーキを装着し、手動ワイパーがある。塗装も木部がニス塗り。
1942年に代燃ガス炉設置、1946年には多度津工場で機関を下ろし、台枠を補強して客車化、1948年3月12日手荷物室を撤去しフハ120に。1955年2月ナニワ工機で制御装置を付し和歌山鉄道クハ803に。

これは乙訓ご老人ご撮影のクハ803

和歌山電軌クハ801 ←国鉄キハ5020←芸備鉄道キハ3 日車1929年12月製 本来両ボギー2個機関で製造 一旦口之津鉄道に納品されたがキャンセルされ 日車に出戻って1個機関片ボギーに改造し 新車と称して芸備に納品された代物

和歌山電軌クハ802 ←片上鉄道キハニ102 日車1931年製
なお和歌山鉄道は乙訓のご老人お書きの通り、1941年12月東和歌山-伊太祈曾間を600V電化、1年後大池、さらに1年後貴志と2年かかって全線の電化を果たした。当初はオリジナルのガソリンカーを電車にしたが、淡路鉄道方式ではなく、マトモな電車用の台車(南海のお古)と交換している。半鋼ボギー車ばかりでなく、木製鋼板張り(俗に謂う「偽スチール」あるいは「鉄面皮」)の丸山車輛製2軸車キ101~103のうち、キ103を加藤車輛製作所でボギー化、片側扉を広げたモハニ103なんて代物もあった。芸備鉄道買収の片ボギー車キハ5020にポールとコントローラーを付したクハ801もでっち上げ、これはかなりあとまで健在だった。

和歌山電軌モハ201 ←和歌山鉄道オリジナルのキハニ201 小島栄次郎工業所製とされるのは メーカーたる松井車両製作所が当時手形不渡りを出して銀行取引停止中だったため
敗戦後は江若鉄道が、国鉄キハ41000形式を獲得した代償供出によるキニ1、2(川車)をモハ205、206にし、片上キハニ102をクハ802に、など。これらの旧ガソリンカーの一群は乙訓ご老人が以前この欄に写真を出して御座る。他には旧京浜やら阪急やら阪神やら南海やらのボロ電車をかき集め(いずれも供出だから状態は推して知るべし)るなどしたが、そっちは須磨老人の受持外である。
ともかく東の雄上田丸子電鉄には及ばないまでも、百鬼夜行の旧ガソリンカー天国=西の雄だったのは確かである。小生の撮影は和歌山電気軌道となってからの1959年7月16日で、紀勢本線全通初日を撮影、御坊臨港鉄道、有田鉄道、野上電鉄を撮っての帰路で、和歌山電軌軌道線の2軸単車は終点でまだポール回しをやっていた。
その前日、自宅から山科駅までの間に大雨に遭遇し、傘がなく川にはまった状態で猿股までぬれたまま亀山でステホ、幸い風邪も引かず翌朝は体温で衣服は乾いていた。しかし靴はチャップリンが「黄金狂時代」で、ナプキンをして大真面目な顔で食べ、腹を抱えさせられた靴同様、水を含んでブカブカ・チャプチャプ、軟らかくなり何やら白い粉を吹いていた。確か新宮だったかの機関区構内の靴屋で応急処置をしてもらった記憶がある。
なおモハ205のみは1952年12月28日で、得体の知れない映画用(当然安いが感度も判らない)35mmフィルムだったので、傷だらけである。

モハ205 ←江若鉄道キニ1 川崎車両1931年製 撮影時点和歌山電軌に合併され1か月が経過しているが 社紋は和歌山鉄道のまま

和歌山電軌モハ601 車体は旧阪急

モハ601+クハ802

和歌山鉄道モハ300車体 南海軌道線57を高床化したもの
第2日目 4月15日
①三国港 6:33(えちぜん鉄道)→7:21 福井
②福井駅前 8:16(福井鉄道)→9:01越前武生9:08→10:09 田原町
③ 田原町 10:18(えちぜん鉄道)→10:58 三国港
昨夜は、芦原温泉にある「セントピアあわら」でゆっくり身体の疲れを癒してから「道の駅 みくに」で泊まりました。夜明けとともに起きて周囲を見ますと、隣の秋田ナンバーをはじめ5台の宿泊車がいました。多分例年と比べると少ないようです。
すぐに約10分ほどにある越前鉄道三国港駅へと向かいました。



▲ 6:13、えちぜん鉄道三国港駅に到着。1番電車は出た後でした。以前にDRFC-OB会の旅でご同行させて以来の訪問です。駅前のパーク&ライドに車を置いてゆっくりと駅周辺を散歩した後、6:33発の632Mに乗車して今日撮影する鉄路のロケハンに向かいました。
毎年桜の時期は雨が多いのに、今年は不思議と晴天が続いてくれますが、東日本大震災以降各地の桜祭りは自粛ムードで寂しそうです。
何でもかんでも自粛、自粛と続くとみんなの元気がなくなり、被災に遭われた方々への「元気をだして頑張ろう」とのメッセージも届かないのでは、またこれでは復興を支えるべき日本経済そのものが活性化を失ってしまうと、ようやく気づきました。
年金生活者としてのできるだけの義援金には協力しました。時間はたっぷりとあるのでボランティアに出たいのですが、この老体と健康状態ではすぐにボランティアされる方になるのは明らかです。それでは経済活性化しか協力はないだろうと、 割り切っての行動にでました。
今回は、3日後にDRFCクローバー会総会の打ち合わせがあるので、出られるのは2日間 のみです。昨年桜前線を追いかけましたが、すでに葉桜となってしまった越美北線、越前鉄道、福井鉄道を目指しました。相棒は久しぶりのぶんしゅう7号です。
4月14日朝の天候を確認し、大山崎ICから京滋バイパス、名神高速を圣由して北陸道に乗りました。右手に見える伊吹山は残雪が残り湖北は遅い春を迎えています。日本海の見える北陸路に入ってからの山々も残雪がたっぷりと残っています。福井ICで降り、真っ先に向かったのは、越美北線一乗谷駅です。

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ご無沙汰しております。先日病院から逃げ帰ったばかりのぷるぷるです。
併走・競争が話題になっていますが、準特急様がコメントでおっしゃっているのはここのことでしょうね。現場は京阪橋本駅から徒歩約10分、狩尾(とがのお)神社という小さな神社の社殿の裏です。 撮影日は2009年5月30日まだ元気だった頃で、数時間の粘りが出来ました。一枚目の写真、丁度旧3000系がやってきましたが、川向こうには何も走っていません。
二枚目、京阪機関車トーマス号(上り)と新幹線。
三枚目、京阪旧塗色2200系(上り)と新幹線。
四枚目、川向こうで新幹線(下り)と在来線雷鳥のすれ違い。と言うわけで阪急の絡みはありません。悪しからず。
なお、この場所から拙宅、すなわち橋本工房まで直線距離100m余りですので撮影のあとにでも是非お立ち寄り下さい。但し、通院のため午前中留守にすること多々ありますので事前のご予約を。
週明けの新聞広告で「被災鉄路再生の行方」のタイトルが眼についた。以前、掲示板で紹介された「週刊東洋経済」誌である。あれ以来交通関係誌が特集された号は愛読している。先のタイトルは40頁、その44頁には「被災者の足に」に大奮闘の三陸鉄道。震災で大打撃を受けたにもかかわらず5日後に一部運転再開。赤字会社なのに運賃無料。三陸鉄道の矜持がここにある。との小見出しが踊っていた。知らなかった。三陸海岸べりの鉄路は津波の猛威の前に壊滅したものと思っていた。NHKの報道番組ではJRに関する報道が中心で、こと三陸鉄道についてはコンクリート橋の崩壊の姿が大きく取り上げられていたのが印象に残っていただけである。ところが北リアス線は久慈-陸中野田間(11.1km)を3月16日に運転再開させたと言う。次いで宮古-田老間(12.7km)を3月20日、田老ー小本間(12.4km)3月28日に開通させた。車両基地は久慈にあり、宮古側には1両しか残って居らず、それでもって1日3往復の運転しかできないとか。南リアス線はいまだに不通のままのようだが、いずれ朗報が聞かれるであろう。運転再開に当り三陸鉄道は3月一杯、運賃無料とした。分断区間、不通区間の運転再開については触れられていないが、第三セクタ-では、転換当初は好成績を上げていたのが、いつの間にか赤字となり、横浜未来博からの払い下げ車を活用するなど話題を振りまいていたが、今回の災害復旧で、国がどのような条件で手を差し伸べるのか、見守って生きたいと思っている。
東京では7日に大きな余震があったが、昨日、今日とまた余震が頻発しており、落ち着かない日が続いている。加えて福島原発の見通しが立たず、最悪の状態である。放射能の影響度がよくわからず、何を食ったり飲んだりしたらいいのか、夏場の電力不足は大丈夫なのか、毎日心配の連続である。こんな時はパーと表題のような内容を報告してみたい。
①京王、小田急の永山から新宿寄りに二つのトンネルがある。その二つのトンネルの間が京王、小田急両社の電車が併走してくるのを俯瞰撮影できる場所で、その名も「電車見橋」と言う。散歩がてらに時々行ってみるが、なかなか難しい。トンネルから両車が並んでくれば「よっしゃー」で、気合が入るが、先頭車の顔に架線柱が邪魔しないようにするのが大変で、結局、デジカメを乱写して運に任せるしかない。

09.12.10 永山~若葉台・はるひ野 小田急1000新百合ヶ丘行き、京王8000若葉台行き
②有名撮影地浜名湖鉄橋で117系を撮影中、突然、新幹線が並んだ。これも「よっしゃー」の気合。「併走」ではあるが、「競走」にならず、「激走」とでもしたい。残暑厳しく熱中症に注意した。
③列車本数が多い所では併走をキャッチするのはそれ程難しくはない。この写真は後追いのため、もう一つ面白くない。JR西の東海道、近鉄、京阪、東武、小田急等同一方向に2列車がピタリと並んでくるのは面白い。どなたか発表願いたい。
④併走の極め付け阪急十三。私鉄王国の一端をうかがわせるシーンで、他国人はこれを見てうなる。ここも毎回同時刻に梅田を出発するので1時間も居れば、一つくらいはましなのが撮れる。
⑤看板特急の併走を狙った。平日なので難波10時発を狙うしかない。ところが、この日は「こうや3号」はもたついて出遅れる。「ラピート29号」鉄仮面が新今宮に到着する頃、「こうや3号」は未だ隣の今宮戎を通過中。このホームは非常に狭くて危険で撮り難く、その上、105ミリレンズでは苦しくて手前の電線をカットできなかった失敗作。
⑥王子駅近接の高層ビル北トピアからの撮影でここも鉄道を見る名所となっている。新幹線と在来線が並んで走るので飽きないが、ここも特に新幹線の顔に架線柱がかからないようにしたい。「併走」と言うよりも「乱走」である。
⑦この撮影の2日後に乙訓の老人、逗子の旦那とこの蒲田駅を1往復半する。何でも目的は以前撮り損なった7000系を捕獲するとのことであった。蒲田駅を池上線と多摩川線が毎回同時に出発するので、成功確率は高い。しかし、阪急十三の様な充実感はない。
マイナス20度の新疆ウィグル自治区からプラス20度の四川省芭石鉄道へ、温度差40度の冬から春への14泊15日、うち車中6泊におよぶ旅が終わりました。中国鉄路に乗車した距離は過去最長の8,636キロ、乗車時間は100時間を超え105時間11分と日本国内では経験したこともない最長時間でした。これに撮影時間を加えると、鉄道三昧の撮り鉄、乗り鉄と鉄道好きにはこたえきれない至福の時間を持てました。
糖尿、頚椎ヘルニア、狭心症と持病が多くなり、かかりつけ医も呆れかえっておりますが、これからも美味しい酒が飲め、身体が動けるうちは老体に鞭打ってでも続けて参りたいと思っております。よろしくお願いします。
今後、訪問される方の手助けになればと思い中国鉄路に乗車した走行路線、行程表、乗車した列車表、費用、そして各紀行記のリンク表をを作成しました。ご参考にしていただければ幸いです。
第15日目 3月8日
①成都17:15(D358次)→8:50上海虹橋
②火車虹橋駅9:53(上海地铁10号線)→10:33豫園
③豫園11:55→南京東路(2号線)→12:25張江高科
④張江地铁駅12:55(路面電車)→13:25張東路金春路
⑤張東路金春路駅(原動自転車タクシー)→14:10張江地铁駅
⑥張江高科14:28(2号線)→15:11浦東国際空港
⑦上海浦東空港17:50(JL898)→20:55関西空港
上海は昨年11月以来、4ヶ月ぶりです。トランスロール撮影前に豫園で小籠包を食べたいと前回は未開通だった10号線に乗車して向かいました。やはり長蛇の列でしたが、美味しいものを食べるのには苦になりません。デイト中の若者と話しながら順番を待ちました。

▲ 蟹肉小籠包16個で20元(約390円)、朝兼昼食です。
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2月28日米手作市様が紹介された「【11969】奈良電クハボ600型」の中で「こんな通風口あったかな?」と書込みされておられる件について、私の知る範囲で書いてみたい。
「クハボ600形」については、関 三平氏の解説文の通りであるが、少し補足させていただくと、昭和29年特急運転開始に際して新製されたデハボ1200形(1201、1202)と組む制御車としてクハポ602、603を扉間の戸袋窓部分を除き転換クロス化した。昭和38年10月1日近鉄と合併時の改番で、クハボ601→ク583、602→581、603→582となった。
昭和39年10月京都~橿原神宮駅間の有料特急運転時(6往復)にデハボ1201、1202→モ681、682、デハボ1352、1353→モ692、693を窓の固定化、座席の転換クロス化、冷房の取り付け等の改造を行い、一応大阪線の有料特急車レベルに改装した。
この時、モ692、693は電装解除されてク581、582となった。個人的には「冷房とおしぼりサービス位で誰が乗るねん」と思っていたところ走り出すと意外に好評で、12月1日には京都~奈良間の特急5往復増発された。この時予備車を確保するためにモ691、ク581、ク582を特急用として整備されたが、あくまで予備車という割切りのため改造は最小限に留められた。
ク581は元モ692の電装品で電動車化してモ684に、モ691はモ683に、ク582はク583改番され、モ684+ク583+モ683の3連を組み「予備特」と呼ばれた。更に増発されると「予備特」を含めて3編成がフルに運転され、「予備特」が「予備特」でなくなってしまったため、扉間転換クロスのモ671+モ672(元奈良電鉄デハボ1102+1103)がマルーンのまま特急マークをつけて「予備予備特」として待機した。
車体を新製してモ600形の電装品を流用して作られた18000系、京都~伊勢間の直通特急用に新製された18200系、18400系が登場すると、定期運用から外れて本来の「予備特」に戻り、団臨にも使用されるようになった。
昭和44年9月21日奈良線、京都線、橿原線が支線も含めて1500Ⅴ昇圧時にこの編成も昇圧改造され、モ683の橋原寄りの運転台撤去、モ684の京都寄り運転台撤去による中間車化、ク582の方向転換が実施され、モ683+モ684+ク583となった。昭和47年に一般車に格下げされ、塗装がマルーンになり主に団臨に使用されていたが、昭和51年3月に廃車になった。(車齢が新しいモ683は大阪線に転属して電装解除の上、ク1322となり「鮮魚列車」に使用された)
一般車として残ったク583 (元クハボ601)は、前述のク582→ク583に改番時にク595に改番して引続き急行以下の列車に使用され、昭和44年9月1500V昇圧時ク308に改番され、元奈良線のモ653改造のモ408と2連を組み生駒、田原本線用になった。
以上、近鉄に超詳しい方を差し置いてごちゃごちゃ説明したが、通風口の結論は「予備特」となったクハボ602とクハボ603は改造時に撤去、一般車として残ったクハボ601は廃車時まで存在した。

モ684(元ク581←クハボ602) 西大寺/昭和44年5月18日

ク583(元ク582←クハボ602)西大寺/昭和44年5月18日

1500Ⅴ昇圧時に方向転換、一般車に格下げされマルーン一色となったク583 玉川工場/昭和50年1月15日

【参考】モ683(元モ691←デハボ1351)+ク583+モ684 西大寺/昭和44年5月18日

【参考】モ692+モ691(元デハボ1352+元1351) 丹波橋/昭和39年5月15日 モ692は有料特急に格上げ改造されク581となった。
第14・15日目 3月7・8日
①成都17:15(D358)→8:50上海虹桥
小腹も満たしました。四川のパン、果物も買いましたので、荷物を受け取って少し早いが成都駅の軟座待合室でゆっくりとすることにしました。

▲ 鄭州鉄道日記さんのプログを拝見して知っていたのですが、今まで見たこともない立派な軟座待合室です。北京西站の貴賓室は勤務時代に何回も入りましたが、広さでは勝ります。座っていますとお嬢さんがお茶を運んでくれます。
但し改札時刻になりますと、この待合室からホームに案内してもらいますが、立ちはだかるのは長い階段です。重いスーツケースを持っての上りは苦痛でした。
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もうひとつ、九州の撮影地近くのユースの紹介を-。
久大本線日田駅から杖立温泉行きの日田バスに乗ること約30分、ダム湖の近くに日田ユースホステルがありました。廃止された宮原線の終点、肥後小国の方向で、自然が豊かなところです。安くて設備の良い、公営のユースのひとつで、泊まった時は出来たばかり、宿泊客も少なく快適なユースでした。ユース一泊二食430円、バス往復320円とメモ帳には記してありました。
ここを拠点にして、撮影に行ったのが久大本線でした。昭和40年代前半の久大本線は、D60、ハチロクが配置され、貨物はもちろん、旅客もほとんど蒸機でした。今でこそ、沿線の由布院などは第一級の観光地となりましたが、当時は、まだまだローカル色豊かな路線で、一人で撮影しながら鉄道の旅も堪能したものでした。なお、このユースは、日田おおやまユースホステルと改名して現在も在るものの、長期休業中とありました。
▲日田駅は久大本線のほぼ中間にある。夜明から分岐する日田彦山線も、ほとんどの列車が日田を始終発としていた。久大本線の結節点を成す駅でもある。2面3線の典型的な国鉄式配線を持つが、広い構内には駐泊所もあって、いつも何両かの蒸機が休んでいた。乗客が待ち受けるなか、タブレットの授受をしたD60の牽く上り列車が到着する。左手はハチロクの牽く下り貨物列車。
▲夏の朝、日田駅では、陽射しを浴びたハチロクがガンガンに輝いている。久大本線では、D60だけではなく、豊後森機関区のハチロクも客貨の区間列車を牽いている。九州の蒸機ならではの輝きだ。これからの暑さを予感させる。陽炎の立つ構内に、門鉄デフ越しにD60の牽く交換列車が見えた。腕木信号機がコトリと落ちて、ハチロクは細いボイラーを震わせて、発車して行った。
▲西鹿児島から夜行に乗って鳥栖に着き、一番列車に乗って久大本線に入った。どこで降りる当てもなかったが、対向列車とまもなく交換することから、何の予備知識もなく田主丸で降りることになった。久大本線が山間部に入る前、筑後平野の真っ只中にある平凡な駅である。乗ったときから空模様が怪しかったが、駅に着くと、とうとう雪が舞ってきた。北九州は、意外と雪が降る。すっかり戦意を失くし、駅構内で日和ることにするが、雪をかぶった木々とハチロクの猛煙が、いい味を出してくれた。
▲久大本線の撮影地と言えば、由布岳山麓の湯布院付近、玖珠川の渓谷沿いの豊後中川付近が有名だ。私も下車して写したことはあるが、むしろ日田から久留米方面にかけての区間が好みだった。ことさら優れた風景はないが、その分、穏やかな田園風景が続く。それに、日田以西は鳥栖行きの区間列車があり、朝のラッシュ時は、多くの蒸機列車を稼ぐことができる。この風景には、D60より、ハチロクが客車数両を牽く姿が似つかわしい。
老人は学者ではなく一介の鉄道趣味者であり、沿線住民でもないのに幼児から京阪電車に拘ってきた。米手作市さんから京阪と和歌山の関係を解説せよとの希望があった。幸いなことに京阪電車のご厚意により「京阪100年のあゆみ」が送られてきた。50年史「鉄路五十年」と比べると、和歌山との関わりがコンパクトに、分かり易く紹介されている。
和歌山との関わりについて50年史では、毎期12%の配当を続けている和歌山水力電気(株)が業容拡大のために資本増強を図るため大阪電燈(株)との合併の斡旋を、京阪の重役に依頼してきたことに始まると記している。京阪は開業時、営業成績が振るわない時があったが、それを救ったのが配電事業であった。和歌山水力電気からの話が耳に入った当時の社長は和歌山出身であり、他所に紹介するより京阪が資本調達に応じようではないかとなり、1922年7月に合併(買収)してしまった。そして和歌山支店を設置、県下で発電、配電事業に加え電気鉄道(軌道)経営をする事になった。2010年(京阪開業100年)年賀状に、新造35年後の姿(1960年撮影)の、和歌山軌道線100号を、京阪本線100号代用車として使った。
和歌山支店の経営は順調であったが、京阪は新京阪鉄道建設による借金地獄解消のため三重合同電気に和歌山での事業を売却することになった。この時の社長は三重合同電気の社長を兼ねており「和歌山支店を切り離して金に替えることが、京阪自体の財政を整理する第一歩」と考えていたそうだ。和歌山支店の事業譲渡は1930年5月に行われ、8年余に及ぶ京阪マークは紀州から消えた。
これにより京阪本体は救われた。そして新京阪鉄道は本家京阪に加えられたのであった。そこで阪和電鉄について言及したいのだが、50年史、100年史では余り触れられていない。阪和と言えば竹田辰男さんの研究が知られており、老人の出る幕ではない。僅かに頭に残っているものを中心に綴ってみる。
阪和電鉄(株)は和歌山県下の企業家に加え大阪財界人の手で設立されたのは1926年4月であった。設立時の資本金は2,000万円で、京阪は40万株(1株5円)の内1万株(2.5%)引き受けたとされている。会社設立の翌年、金融危機があり、払い込みは順調でなかった様だ。会社設立時の筆頭株主は南紀方面に航路を持つ大阪商船で、払い込み失権株分を大阪商船と京阪が引き受け、京阪及びそのグループの株式保有量は15%であったと言う話を何処かで聞いた。そのためか、京阪からは当時の社長が取締役として名を連ねていた。
和歌山で配電事業を展開していた京阪は、営業戦略として出資者となったのであろうが、経営にどれだけ関与したのかは50年、100年史共に触れられていない。ただ車両の電気機器について、京阪と同じメーカー東洋電機(株)であった。これを介して何らかの関係があったのではないかと思われる。東洋電機設立時の社長は、京阪開業時の専務取締役を務めた渡辺嘉一氏である。京阪は開業時、代表取締役社長を置いていない。東京財界と大阪財界の関係を勘案して社長を置なかった様だ。その渡辺氏は開業を見届けるや会長となり東京に戻ってしまった。その後、渡辺氏は東洋電機(株)を1918年6月に設立し、英国デッカー社の電鉄電気用品製造と独自に開発した製品で今日の地歩を固めた。
東洋電機(株)の最初の製品、DK9‐C形の納入先は京阪であり、今も密接な関係にある。この東洋電機は鉄道省への製品納入について大変な苦労を重ねた事が東洋電機50年史では紹介されている。大容量電動機や電動カム制御器を始め、自動扉開閉器などユニークな製品が開発され、実用化された。当時の最大の需要先は鉄道省であったが、先発メーカーの高いハードルに阻害され、その成果を鉄道省への納入で発揮できなかった悔しさは、民有鉄道で花が咲いたように思える。その先兵隊となったのが京阪であり、新京阪での採用であった。そのグループに阪和電鉄も入っていたのは、京阪-渡辺ライン上にあると思う。渡辺氏の来歴は今回100年史で初めて知った。