雪景色(1)奥羽本線矢立峠・秋田県側

  今冬は各地で積雪が多いようです。ところが大阪湾に面した地域、兵庫県南西部、大阪府では滅多に降らないし積もらない。わが街でも今冬まだ雪を見ていません。この現象は昔も同じで、雪見たさによく雪国へ出掛けたものです。
 
拙著HP(ホームページ)にも、初期の作である奥羽本線を始めとする雪景色のページがあるのですが、これらはページを改良する必要があります。スタイルが現在の標準と異なり写真の数も少ないのです。時刻表やダイアグラム、古い地図の掲載もありません。改良の準備で、新たに写真やダイアも用意しました。先にデジ青でもご覧ください。
 
暖かい部屋でネットを楽しんでいる皆さん。眠気を少しは覚ませるように、寒くて冷たい画像をお届けします。筆者の暖かい配慮に感謝しながらご覧いただければ幸いです。 

(画像をクリックして、大きな画面でご覧ください。)

 奥羽本線の難所のひとつが矢立峠です。大館から弘前までの44.2kmの内、大館から順に10‰、14.7‰と上りこう配が続き、陣場矢立峠間は25‰です。この難所も1970(昭和45)年11月に矢立トンネルが完成し陣場、津軽湯ノ沢駅も場所を移動して一直線の新線に付け替えられました。さらに翌年には電化と一部複線化もでき、難所が消え去りました。
 (なお余談ながら、この地図からは、大鰐・碇ヶ関・陣場・白沢各駅から沢山の林用軌道が施設されていたのが解ります)

   1965年当時の牽引機はC60(客車用)、稀にC61(客車用)、DF50(急行「日本海」、急行「第12津軽」、客車)、D51(貨物用)、補機はD51(弘前、大館機関区)でした。

 列車には下り及び上りの旅客、貨物ともに陣場-碇ヶ関間でD51の補機が付きます。長大貨物には大館から、さらに陣場からも付きますのでダブル補機です。碇ヶ関からの上り列車にはダブル補機が偶に見られました。急行「日本海」の牽引はDF50ですが、下りは大館から、上りは大鰐からD51補機が付きました。急行「第12津軽」に補機は付きません。

珍しいC61【仙】牽引の客車です。激しい吹雪の中でした。

 補機の方向転換は行われず、常に大館向きですから、矢立峠の下り列車は逆向きで後押しして峠を上ります。ダブル補機も同様です。C605の牽引とD51の補機で、客車列車が通過しました。

貨物は牽引・補機共にD51でした。これは短い編成です。

長大貨物には、大館から、陣場からさらにD51補機が加わります。トップと合わせればD51三重連です。

 

陣場駅舎の屋根は内も外も立派なツララでした。

 峠に矢立温泉があり、奥羽線鉄橋下の雪深い谷間にひっそりと眠っているようなたたずまいでした。画面上部と左端に見えるのが、それぞれ鉄橋と橋脚の一部です。1965年の大晦日の泊まりはここでした。真っ赤な鉄泉の為、手拭は旅館のものを使い、重くて長細い板でできた湯船の蓋を一枚ずつ捲って入浴した記憶があります。
 部屋の窓から鉄橋を行く列車が良く見えました。撮影したのですが窓枠が邪魔でうまく撮れませんでした。
 翌日
1966年の元日は、矢立峠の青森県側で撮影です。

ユースで巡った鉄道旅 -2-

宿泊第一号ユース

下関にある火の山ユースホステル、これが記念すべき第一号ユースでした。時は昭和42年3月、ウラ若き高校2年生にとってドキドキの一泊でした。

2週間に及ぶ九州一周旅行の最初の宿泊地で、当日は新大阪から急行「つくし」に乗り、糸崎区でC59・C62を写し、広島から夜行で初めての九州入り、若松・門司区で写したあと下関に戻り、まだ走っていた山陽電軌で御裳川(みもすそがわ)まで行き、山手にある火の山ユースホステルへ向かいました。

公営のユースで、設備・食事は申し分なし。さすがに高校生の一人旅にとっては、ユース名物のミーティングに参加する勇気もなく、ベッドの中で小さくなっていました。屋上から見ると、関門海峡を行き来する船舶の光跡が美しく、三脚で夜間撮影したことは覚えていますが、この頃は、国鉄型にしか興味がなく、乗車した山陽電軌の写真は全く写していないのが悔やまれます。検索すると、火の山ユースホステルはまだ営業を続けていることが分かりました。

 

直流電化の西端駅、下関はさまざまな列車が交錯する結節点として賑わっていた。午前7時、クハ181のトップナンバー車を先頭にした「第一しおじ」が、多数の見送りを受け、新大阪へ向けて発車するところ。東海道新幹線の開業で、151系が大挙して山陽本線に移り、一時はその181系がED73に牽かれて交流区間の博多まで乗入れしていたが、その後、交直両用の481系ができて181系乗入れは中止されている。下関を始終点とする特急は「しおじ」2往復だけにはなっていたが、客車列車は、必ず機関車の交代があり、下関の比重はまだ重いものがあった。

 

当時の下関には、こんな旧型国電も発着していた。下関発宇部線経由の小郡行き2958M、クモハ12024+クモハ41083+クハ16418という、宇部新川電車区の17mロングシート車・20mクロスシート車の混成編成だ。山陽本線を直通せず、宇部地域の中心駅である宇部新川を経由する列車で、現在でこそ、このような設定はないが、最近まで、同様の経由の列車は九州内から発着する421系電車などで残っていた。

 

山陽本線からC59・C62などの大形蒸機は消えてから久しいが、下関ではまだ蒸機が見られた。それは、山陰本線の客車列車を牽く長門区のD51で、とくにラッシュ時はまだD51の牽く客車列車が幅を利かせていた。下関発長門市行き842レ、D51692〔長〕。左は久留米発下関行き236M、クハ421-77ほか。

ユースで巡った鉄道旅 -1-

昨年末になりますが、地元の新聞で気になるニュースを見つけました。京都にある東山ユースホステルが廃業するという記事で、利用客の減少と建物の老朽化を理由に、40年の歴史を閉じると結んでいます。記事によると、現在、ユースホステルは258軒、会員数6万人、利用客は年間47万人ですが、ピークの昭和47年には585軒、会員63万人、利用客は340万人にも達していたと言います。

昭和47年といえば、ちょうど特派員の大学生時代と重なります。確かに、その当時、大学生の旅行と言えば、ユースホステルしか選択肢はありませんでした。休みともなれば、猫も杓子もユースを使った観光旅行、ユースはすぐ予約で満員になり、ハガキで申し込んでも断られることが多く、スケジュール作りに難渋したものです。

ユースが満員だったり、近くになかった場合、止むを得ず駅前旅館に泊まったこともありますが、高い、汚い、まずいで、いい印象は全くありません。片やユースは、一泊二食で公営450円、民営550円という、考えられないような破格の宿泊料ながら、一部を除いては、設備・食事とも十分に満足がいくものでした。

学生時代といえば、全泊夜行という猛者もいましたが、特派員は体力的な自信がなく、夜行は最大でも連続3泊までとし、その間は必ずユースに泊まるようにしていました。

思い返せば、高校生から始まって社会人に至るまで、実に多くのユースホステルを利用したものと改めて思います。北から南まで、夏も冬も、ユースを基地にして写しまくった若き日々を、写真とともに少し思い返してみましょう。

ユースに一泊するたびに会員証にスタンプが押される。今も大事に残している会員証を見ると115泊していることが分かった。100泊記念にもらえるバッジも大事に残している。カメラは、その当時の愛機、アサヒペンタックスSV

阪急202の初期写真、また発見

御大が発表されてからの後出しで恐縮ですが、こちらにも阪急202号の初期の写真がありました。こちらは、大阪の古老ファンのアルバムから複写させてもらった中にありました。
やぐらを組んだ上に宙に浮いた運転台、側扉もなく、どうやって乗務員は出入りしていたのでしょうか。
出自は、初代202の機器を利用しての昭和2年川崎兵庫製、昭和17年に、関さんの絵に見られるスタイルに改造されたようです。その後、昭和36年に作業員室を増設(関さん言うところの避難室)され、昭和43年の昇圧時には、作業員室が車体の半分近くまで拡張されました。その間に、3202、4202と改番されています。
末期は、昭和49年京都線に転属、昭和52年廃車とピク阪急特集には記載されており、関さんの記述とは異なります。

阪急202

阪急202が公衆電話ボックスみたいな運転室になる前は、かようなスタイルでありました(ようです)。目的は同じく、車長より長いレール等を積むためです。これは故西尾克三郎御大撮影のキャビネ写真であります。

阪急202号

関さんのシリーズは、ますますマニアックになってきました。

こんなのを見たことがあるようなないような、でも前週の南海のデト11の兄弟とか。二回の改造後の姿だそうですから最初の形は、デトと同じだったのでしょうか?写真を持っている人は見せてください。でも持っているとすれば長老様か藤本さんぐらいかも。

半世紀前の淡路交通(4)

1965年4月28日~29日にDRFC恒例の新入会員歓迎旅行が四国・淡路方面で開催された。入会して始めての行事参加であり、緊張しながら京都21時35分発645レ宇野行き夜行に乗った。当時は国鉄大型蒸機に夢中になっており、何でC58と気動車王国の四国や田舎電車の淡路に行くのか多少不満であった。しかし、今になってみるとよくここを選んでくれたと感謝したい。前回の淡路交通(3)でカラー写真を掲載されている大阪通信員さんと同じ写真があるので、おそらく通信員さんが選び、新入会員を引っ張っていってくれたものと思う。宇野から宇高連絡船で高松に渡り、高松5時25分発125レで阿波池田に向った。DRFCは日頃から行いのいい人ばかりで終日雨。池田の駅前大衆食堂で朝食後、8時47分発324レで徳島に向う。徳島で8620を撮ったりしているが、それから先は鳴門に出て船で福良に着いたはずだが、記憶が無い。淡路交通ではFさんが列車交換する毎に対向する車両を撮っていたが、雨の中を周囲を気にせず「窓を開けてくれ」と言うのを軽蔑の眼差しで見ていたことを覚えている。宇山車庫では数枚撮影したのみであるが、一部掲載させていただく。宇山の後も21時頃に神戸に着いたがその間全く記憶にない。その後、島の電車は再訪してでも記録しておけばと悔やんでいるが、あれもこれもできないのでせめて見た、撮ったでもいいとしよう。

1965.4.29 宇山 台車に群がるDRFC参加メンバー

今は第一線から引退されている方もおられるが、今尚毎回飲み会に顔を出される方も見える。

 

1965.4.29 宇山 2007

ご説明によるとキハニ6→モハニ2007(1948.9)ということですか。台車が電車タイプではないので元キハニは何となくわかりますが。

 

1965.4.29 宇山 元阪神609+610

乙訓の老人さんが2度撮られた阪神電車。同じ車両を譲渡先等他の場所で再び撮るのは感激ものですね。ところでこの車両が阪神で活躍していた頃のダイナマイト打線は別当、藤村、土井垣で真っ黒なユニホームを着た時代もあったと思います。古い話で恐縮です。

「堺まつり」のデト11

昭和50年10月19日のこと、何を思ったのか、朝から阪堺線の撮影に出かけた。新今宮→南霞町から阪堺線に乗り住吉で下車。交差点で何枚か撮影後、我孫子道まで来たところ、反対側のホームにデト11の花電車が停車しており急遽下車して撮影。次の電車で大和川を渡って堺市内に入り宿院で下車して撮影した。
この日が「堺まつり」であったことは全く知らずラッキーであった。当日は東湊~住吉間の臨時を含めて増発され終日賑わっていた。

【デト11】
関さんが書かれておられる通り、昭和27年足回りや機器類は旧車の余剰品を流用して帝国車輛で新製されている。この手の車両は実用一点張りのものが多いが、丸味を帯びたフロント等しゃれたスタイルで、さすが南海と言ったところである。関さんが描かれた当時と比較すると、テールライトがトンガリ帽子形から普通のガイコツ形に取り換えられる等多少の変化がみられる。平成12年に廃車となったが解体はされておらず、車庫の一般公開時に見ることができる。

 

【東湊~住吉間の臨時電車他】
東湊~住吉間の臨時電車は「堺まつり」の他正月にも運行されていた。当時は乗客が多く、全車ツーマン運行で広告電車も存在しなかった。ワンマン化は上町線(我孫子道入出庫系統を含む)が昭和51年7月1日、阪堺線は昭和54年10月1日であった。

 

 

350形と500形は系統幕があり、阪堺線は「い」、上町線は「ろ」、平野線は「は」を表示していたが、他形式にはないため、あまり意味はなかった。

【たまにはバス】
泉2あ5525(42年式RB10)
エンジンは日野、車体は川崎のレアな組み合わせの元中1扉(引戸)ツーマン車のワンマン改造車。中扉を廃止して、扉と戸袋部分を窓にして前後に扉を設置したため、このようなスタイルになった。同様の改造車は大阪市バスにも存在した。中1扉ツーマン車の前後扉ワンマン改造車は阪急バス、京都バス、京都交通等にも存在したが、中扉を締切りその部分に座席を設置しただけで、ここまでは手を加えていない。

 

泉2あ5225(43年式BT100)
エンジンが床下にあるため、後部のデットスペースがなく後扉が車端に設置されている。ホイルベースが短く、非常口が後部中央にあるタイプ(BT51、BT71)はローカルバスを中心に相当数存在したが、写真のタイプになってからのものは少なく、関東では東武バス、群馬中央バス、上信電鉄、関西では南海電鉄以外では大阪市バス位かと思われる。大阪市バスはこのタイプが好きで昭和50年まで導入されていた。また、近鉄バスには特注のジャンボタイプが存在した。全くの余談であるが上信電鉄の車両は元大阪万博会場内で使用されていた。廃車後自動車愛好家に引取られ京都府下の某所で保存されている。

JR西日本の柿の木

 JR西日本神戸線、立花駅西方500m付近。
一本の柿の木があり、実をいっぱいつけていました。2m程離れた別の木は、
フェンスの内側ですが、この木は、フェンスに接して外側でした。
でも、間違いなく敷地内で、JR西日本の柿の木です。
昨年末12月19日でした。

1月20日再訪しました。実はすっかり無くなっていました。
スズメや小鳥が頂戴したようです。

半世紀前の淡路交通(3)

電化に合わせ南海電鉄から、運輸省規格形のモハ63型20両割当見返り供出車両として、5両の木造電動車が入線した。南海からは後に2両増車された。次いで阪神電鉄の鋼製廃車体を2両購入。自社宇山車庫で手持ち部品を取付け、電動車とした。以下、奥野師匠に教えられた事を交え述べる。

*モハニ1001・入線1948.01.23→クハ101・制御車化1953.10:1961.06.20廃車。元加太電鉄モ30の旧番号を持つ。車体は南海電化時(1907.8.21)の新造車(1907.07日車)で、電1形10両のうち3号車が昭和初期に鋼体化名義車となり、抜け殻を加太電鉄に売却したものであった。加太電鉄は1942.03.14に南海鉄道に併合されたので、南海電鉄から譲渡されたことになる。車体は【10722】で紹介された軌道線101形に似た面構えの正面3窓で、台車は加藤BW型、電動機はWH101‐1(37kw×4)が加太時代。淡路では台車BL・27GE‐1と電動機は×2になっていた。譲受時価格は1,181,000円、1950年再評価で600,000円、制御車化で400,000円。阪神中古車体の再生後に廃車。

*モハニ1002・入線は前と同じ、鋼体化1955.01.10。元加太電鉄モ31。これも南海時代の1937年に鋼体化名義車になったもので、原車は製造1909.07・天野であった。これが前窓5、関西タマゴ型の最初の電車であった。台車BL27E‐1と電動機はモハ30と同型で×4となっていた。鋼体化は台枠再用で内装は木造、台車をBWタイプ、電動機をTDK‐30に、出力72㏋×4に強化している。購入時価格245,000円は鋼体化後、再評価で4,125,000円となった。1958.09.18にドアエンジン取付、1960.02.01貫通路設置、幌を取り付けた。更に台車をDT10、電動機はMT‐4・に取替、クハ112とMTc編成を組んだ姿を見ている。この届けは翌年1961.07.05らしいが、田舎ではよくある話、気にしない。

*モハニ1003・入線は前と同じ、簡易鋼体化1959.06.15。元加太電鉄モ32である。この電車の来歴は先の1002号と同じ、鋼体化は屋根を残し柱や外板を鋼製とした。台車BL27GE1、出力37kw×4、制御器・制動装置MK15・AMJと、淡路標準方式になった。

*モハニ1004・入線は前と同じ:1961.02.20廃車。次の1005号と共に南海での車歴は同じ。電3形1921年川崎造船所製造とある。その後1940年に改造を受けモユニ525,526となる。これが迷図作家紹介の木造4扉車であった。そして1944年6月開業の多奈川線専用となり、沿線に建設された川崎造船潜水艦工場に向かう産業戦士専用車として無座席車となった。終戦後、この2両は加太線に配置されていたとか。これが縁で紀伊水道を渡った。台車BL77E2、電動機の出力37kw×4、定員90人は1001~1003と同じが座席定員(60)の記載なし。阪神中古車の再生後に廃車。

*モハニ1005・入線は前と同じ、鋼体化1961.05.25。来歴は1004号と同じで車体新造の鋼体化車。淡路唯一のクロスシート車。訪問時に確認できず、後に京都鉄道趣味同好会誌”急電”で概要を知った。ここでは大阪通信員撮影のカラー写真で紹介する。台車DT10、電動機TDK30・53kw×2、制御器はPC型、制動装置はAMJとなっていたが、後年変更があったようだ。

*モハ1010、1011・入線1956.08.24。1010→鋼体化1957.06.05、モハ1011→鋼体化1958.03.20。この2両は入線後に車体新造で鋼体化された。原車は前面5窓タマゴ型の電8形132(1924.10・梅鉢鉄工)号と電5形120(1921.10・川崎造船)号の2両であった。その後、改番を経てモハ1025、1027となり共に加太線用となり、本線新車投入に伴う玉突きで淡路島へ送られた。台車BL・MCB2、電動機GE-218(52kw)×4、制御器は日立PR200、制動装置はAMJ、定員90(52)人となっていた。車体製造は昭和車両工業所と名乗る今も知らないところである。譲受価格は1,025,000円、鋼体化後の再評価で5,654,000円になっていた。

*モハ609、610・竣功1960.06。木造車101、1004号追放のため、阪神電鉄で廃車(1960.02.05)になった車体2ケを購入、宇山工場で手持ち台車と電装品で再生した。この2両、阪神時代とパンタを見れば向きを変えている。台車は609にBWタイプ、610はBL・27GE1をあてがい、電動機はTDK30・53kw×2の出力。単車走行可能である。老人は1954年秋、この2両を伝法大橋で撮影している。その2両と再会出来て感激であった。評価額は不明。

*モニ500・入線1950.07.28→鋼体化1952.10.10。元国電モヤ4003である。鋼体化までの期間が少ないところをみると、相当酷い状態でやってきたものと思える。元モハ1だけに電装機器は国鉄の標準品で送られて来ており、その後の標準化に役立ったと思われる。ただ連結器は間に合わずで、そのくだりは須磨の爺やの薀蓄をお読み下さい。入線時評価額は957,681円と記録されていた。

淡路交通にはその後、2回乗ることが出来た。1961年秋と1966年初夏に「鳴門観潮」のためであった。

1966年の時に外部塗色が変わっているのに気がついた。1960年訪問の時は窓下濃チョコレート、窓上淡クリームであったとの記憶が残っている。準特急氏から「新歓」の帰途に訪ねたと便りがあった。それが紹介されることに期待を寄せている。大阪通信員さんの思い出はいかが?

DRFC現役時代、須磨と行を共にすることは殆どなかった。しかし生中の時だけは別で、この日も15時頃の南海汽船で「深日港」に上陸、愛用していた東福寺口経由、ミュンヘンで大ジョッキを煽りながら島の鉄道について益々の隆盛を祈念した筈あった。

モハ1002

    モハ1002

モハ1003
モハ1003
モハ1005
モハ1005
モハ1010+1011
モハ1010+1011
モハ609
モハ609
モハ610
モハ610
モニ500
モニ500

デト11

年末年始お休みでした、関三平さんの「昭和の電車」シリーズが再開されました。

また、阪堺電車ですが無蓋電動貨車のデト11です。もちろん私は見たこともありません。しかし、昔はこんな電車はどこの鉄道にもありました。国鉄のクルやクモルを始め、京都市電にもありました。京都市電の無蓋電車は中央市場からゴミを運び出すのに使われていたようですが、どこへ持って行ってたのかは知りません。今回も乙訓の長老様にご高説を伺うことにしましょう。

江若鉄道三井寺下駅再現(その8)

今年初めての投稿です。正月休みも専ら三井寺下で過ごしました。来週の梅小路での運転会にお誘いを頂いたのですが、残念ながら参加できない代わりに 今日時点での三井寺下の状況をご紹介します。

駅本屋、本社屋、2棟の車庫、給油所、給炭・給水所、ホームの上屋、洗浄線など主な設備がかなり揃ってきました。各路盤の裏にこれからポイントマシンを仕込んでゆくことになるのですが、ポイントマシンの製作が結構面倒です。ポイントマシンの取り付けと調整が済まないと、レールへのバラスト撒きや固定ができません。

駅本屋とその前の給油所の裏側です。

本社屋も何とかそれらしく出来ました。これもまた外装の色がわからないので 適当な色にしました。この本社屋の左側にももう1棟木造2階建てがあり(後年 組合事務所?)、これから着工です。日本瓦や波板(スレート)はエコーモデルのパーツを使っていますが、本社屋や車庫のように大きな屋根が日本瓦や波板の場合は 屋根だけで数千円にもなってしまうので、雰囲気が出ればよしとしてペーパー屋根にして 必ずしも実物通りではありません。

エコーモデルのレイアウトパーツは種類も豊富で出来も良いのですが、何といっても高くつきます。困るのがブロック塀です。駅構内の周辺の民家にブロック塀が多いのですが、これをエコーのものを使おうものなら 万円になってしまいます。給油所もブロック塀で囲わねばならないのですが、厚紙にスジを入れ、 厚さを出すために張り合わせて作ったのですが、水性アクリル塗料で色付けしたりしているうちに、どんどん反ってきて不気味なブロック塀になり 改善が必要です。全体写真の右側の車庫への引き込み線沿いの境界には延々と古枕木の柵が続いていて この枕木柵の製作もうんざりしそうです。

そして駅周辺の民家をどう再現しようかと 最初から判っていた課題が現実のものになりつつあります。あの市街地の中の三井寺下のムードをどう再現するか・・・・。何か良い知恵がありましたら アドバイスをお願いします。

民國100年のはじめに、台湾へ2

 台湾でナローゲージ(五分仔車)のトロッコに初めて乗りました。台湾では、かつて精糖工場輸送のナローゲージ鉄道が数多くありましたが、現在ではほとんど役割を終えて、かつての日本の軽便鉄道のように廃線になっていきました。

 しかし、その一部は観光用に残り、中には蒸気機関車の運用を行うところもあります。 

 今回は、台湾糖業公司の2箇所、高雄花卉農園と圓林の溪湖花卉文化園區に行ってきました。

 

 高雄はMRTの橋頭糖廠駅からすぐ、往復切符のみで80元、始発は10時半から、あと11時半、13時半、15時半、16時半の最終まであり、帰りもそれぞれの30分後に出るパターンです。ただし、定期列車は土日のみで、平日は団体予約を受けることとされています。機関車の銘板を見るとドイツ製ということはわかりましたが、この手の車には全く知識がありませんのでわかりませんでした。トロッコはもとは貨車のようでしょうが、観光用に改造されています。路線は片道7分弱田舎道を走り結構本格的です。遊園地鉄道ではないので当然といえば当然でしょう。

 路線は、西部幹線としばらく並行するので、特急や鈍行電車からもよく見えます。特急(自強号)から眺めていると橋頭駅の手前で観光用塗装を施していない機関車がたくさん車庫に留まっているのが見えて「しまった」と思いました。また機会があれば撮影してみたいと思いました。

 

 次いで、圓林の溪湖花卉文化園區中心です。こちらは少し行きにくく、圓林駅を降りて左に暫く歩き、圓林客運(バス)の溪湖生きで30分程度まず乗ります。そこを降りてからさらに10分歩くと到着です。

 こちらは、かなり本格的で路線も片道約15分、9時の始発から16時30分の最終まで7本、うち2本は蒸気機関車による牽引です。初発の9時は私一人の貸切状態でした。高雄と同様切符は往復券のみで100元。土日のみの定期運行、平日は団体予約のみです。団体観光客も結構いるようでしたので、平日も走っていることと思います。ディーゼル機関車はロッドが懐かしい1967年の日立製でした。客車はやはり観光用に改造したものでした。車庫にオリジナルと思われる客車もあり、私にはそちらの方がよかったのですが、観光トレインですのでそうはいきません。

 

溪湖糖廠の五分仔車
溪湖糖廠の五分仔車
橋頭糖廠の五分仔車
橋頭糖廠の五分仔車
溪湖糖廠のDL
溪湖糖廠のDL
溪湖糖廠のSL、1948年ベルギー製で現役
溪湖糖廠のSL、1948年ベルギー製で現役
渓湖糖廠の廃車体
続きを読む

都電8800形カラーを変更して増備

都電8800形の平成22年度分の増備車5両が、昨年10月と12月に登場した。8806と8807の2両が従来のローズピンクからバイオレットにカラーが変更され10月22日より、8808と8809の2両がオレンジ、8810がイエローとなり、12月25日より営業運転を開始した。予備車として待機している8809以外の4両と8801に1月23日までの予定でヘッドマークが取り付けられている。

 


上/
22-12-29 飛鳥山  下/22-12-29 荒川車庫前

 


上/
22-11-23 熊野前  下/22-12-28 荒川車庫前

 
上/
22-12-28荒川車庫前  下/22-12-29 飛鳥山

 


上/
22-12-30荒川車庫前  下/22-12-29 飛鳥山

 


22-12-28
荒川車庫前

【他形式の動向】
(1)7500形
             
7500形の動向については、【8261/2010年5月22日】でお知らせした通り、8800形との置換えで順次廃車が進み、平成22年10月末日時点で7505、7510~7512、7520の5両が残るのみとなっていたが、8806、8807の増備により11月に7505、7510が廃車され、残るは7511、7512、7520の3両となった。この3両も8808~8810と交替で廃車されてもおかしくないが、1月8日時点では、7511と7512は常時運用に入っており、7520が予備車となっているようであるが、姿を消すのは時間の問題であろう。7511は【8489/2010年6月6日】でデカンショ祭り号さんの報告の通り阪堺線旧塗装に変更されている。

 


上/
22-12-29 飛鳥山  下/22-12-29 荒川車庫前

 
22-12-29
荒川車庫前

(2)9000形
他形式と共通運用で日常的に使用されているが、貸切運行時に指名が掛かることが多い。9002は正月期間中「賀正」の表示板を付けていた。

 
22-11-23
熊野前~宮ノ前

 
23-1-2
町屋駅前

(3)8500形
【8261/2010年5月22日】での紹介時点では8503と8505にラッピング広告が貼られていたが、現在は解除され、8502と8504に貼られている。スポンサーは前回と同じ警視庁でデザインは変更されている。

 


上/
22-12-29 飛鳥山  下/22-12-28 荒川車庫前

 


上/
22-12-29 飛鳥山  下/22-12-28 荒川車庫前

(4)7000形
【8261/2010年5月22日】の時点と同様22両が健在で主力として活躍しているが一部の車両のラッピング広告がスポンサーの変更により変更されている。今年度から新車と交替して廃車が始まる予定である。今年度の新車は8800形に変わる新形式車が登場する予定である。

 
22-12-28
荒川車庫

 
22-12-28
荒川車庫前

 
22-12-28
荒川車庫前

「カレチ」という漫画

先日、ふと手にした講談社のモーニングという漫画の見ていましたら、「カレチ」という作品が掲載されていました。モーニング自体は、週刊ですが、月一回の連載の作品です。

文字通りカレチ(専務車掌)がモデルになった作品で、舞台は、昭和40年代後半の大阪車掌区。そこに勤務する新米カレチ荻野の奮闘と成長が描かれています。

DRFC OB諸兄の身近な国鉄が舞台です。

今まで連載をまとめたコミックも発売されており、今まで、コミックを買ったこと無かった私も購入してみました。因みに御代は、一冊533円(税別)です。

中身は、読んでのお楽しみですが、なかなかのものです。下記の内容が描かれています。

ご興味ある方は、是非、立ち読みではなく、購入してご覧ください。

続編を期待しています。

民國100年のはじめに台湾へ

354次普快 金崙駅

354次普快 金崙駅

 成人の日の連休に台湾へ行ってまいりました。

 夜、台北に着くと結構寒い。ダウンジャケットやコートを着ている人も結構います。着いた日に夜行の急行(CK63次)で台東へ向かいましたが、車内の寒いこと。足元の暖房がほしいと思いました。ところが南の高雄や台南まで行くと日中はかなり暖かく、彰化駅の温度計は25℃でした。

 12月22日にダイヤ改正があり、花蓮台東間の普快199次、200次の旧型客車は復興型の空調付客車に置き換えられました。時間と列車番号はそのままで区間車となっています。西部幹線の復興号もなくなっており、このタイプの客車は余剰となったものと考えられます。

  あと、1月2日に新線の沙崙線が開業しました。これは台南から終点の沙崙まで全て通勤電車が走ります。終点の沙崙は高鉄(台湾新幹線)台南駅に直結しています。

 

 旧型客車ですが、南廻線(台東-枋寮)の2往復はそのまま残っていました。普快352次、353次、354次、355次全て2両編成で、割合は日本製とインド製と半々でした。南廻線は新しい線なのでトンネルが多いのですが、太麻里-大武の間は太平洋を眼下にとても気持ちのよい線です。ただし私が乗った1月7日は曇りでしたが。数年前まで旧型客車を冷房化して冷気平快として運用されていた35SPK2300型客車が加禄駅の構内に大量に留置されていました。

 旧型客車といっても製造は1970年前後、たたずまいは10系客車のようです。もしもスハ44の10系客車タイプがあればこのようになっていただろうという形です。シートはビニールクロスの回転式で、阪急6300系のような棒の足置きがあるタイプもあります。

 

 沙崙線にも乗ってみましたが、8日までは無料の体験乗車ができました。何と太っ腹のことと思いました。そのまま高鉄台南から新幹線で高雄まで戻り、釣掛式EMU1200型の自強号(特急)に乗ります。次いで週末だけ運用されているEMU300で始発の斗南から自強1024次で台北まで向かいます。EMU300も釣掛式車両です。これらの電車は釣掛式といえども特急車なので、空調固定窓、絨毯敷、リクライニングシートで快適です。EMU300はイタリア製でEMU1200も台湾で更新したとはいえ元は南アフリカ製、他の形式では日立や日本車両、韓国製もありなかなか多彩です。

 今回、日本製の最新振子電車TEMU1000型タロコ号にも乗ることができました。こちらは、JR九州の885系をもとに作られたことは有名です。実際よく似ています。台湾鉄路管理局はTEMU1000型を136両増備し、2012年から就役させるとアナウンスしています。

 

普快客車35SPK32700の車内
普快客車35SPK32700の車内
開業間もない紗崙駅
開業間もない紗崙駅
EMU1200型 高雄駅
EMU1200型 高雄駅
EMU300型 斗南駅
EMU300型 斗南駅
EMU300型の車内
EMU300型の車内
タロコ号 TEMU1000型 台中駅
タロコ号 TEMU1000型 台中駅

 

 

半世紀前の淡路交通(2)

それでは2人が眼にした電車などを紹介することにしよう。宇山車庫で見せてもらった形式図や書類を2人は1冊の手帳に分担して記帳している。片方が記帳の時は、もう一人は外へ出て撮影をしていたようである。以下の説明は、一部について鉄道ピクトリアル161,162号を参考にした。

*キハニ1→モハニ2006:電動車化1948年6月、床下に電動機(TDK516A・85㏋×2)取付、内燃動車時代の推進軸により駆動する直接制御車とした。1955年8月、ブリル27GE1台車にすると共に電動機(WH37kw×4)は吊り掛け駆動とし、制御器はGE-PC形、制動方式もAMJ自動ブレーキとした。1957年5月、車体改造を行い上り(洲本側)方の運転台撤去、荷物室仕切撤去、貫通路の開設、定員80人(手荷物4.3頓)を乗客定員90(36)人、制御器統一でMK方式とした。更に1958年9月ドアエンジン取付をしている。

*キハニ6→モハニ2007:電動車化1948年9月、要領は2006号と同一。ところが1955年9月直角カルダン改造とあるが委細不明。1956年3月MK、AMJ化。1958年9月、客用扉閉鎖窓新設(荷扱い扉を客用に)及びドアエンジン、塗油器取付。定員は100(42))人となる。

*キハニ5→モハニ2008:電動車化1950年3月、おそらく南海から譲渡された電動機・50㏋×4と直接制御器を使用したものと思われる。その後1954年12月、当車は台車をブリル77E2からTR10に取り換え、運輸省の補助金を得て神鋼電気製の垂直カルダン方式を採用した。電動機は75㏋×4、制御器はSE・RPC‐101となった。1958年1月、貫通路設置、荷物室と客用扉撤去(荷物室扉を客用に)、ドアエンジン取付とある。定員100(40)人。尚、当車は代燃装置取外し後、トレーラーとして使用されていたらしいとの話もある。

*キハニ3→モハ2009:電動車化1956年3月、木造電動車1001を制御車とし、その電動機WH‐101H、37kw×2にした。この時の台車は日車・菱枠型である。形式図ではBL27GE1とあり、現車は日車製である。藤井信夫氏の記述によれば、後述の111号とMTc編成を組んだとあるが、訪問時は63形供出車1003号とMM編成であった。後に出力強化されたものと思われる。1958年8月車体改造と制御器及び制動装置の変更についても先の2007に倣っている。当時のメモに113→2009とあり、代燃装置を取り外した後、一時期トレーラーとして使用していたのかも知れない。また逆で2009→113として元内燃動車6両を、垂直カルダン編成3本へと目論んでいたのかも知れない。想像するのは勝手で、夢ある話だと思いませんか?

「内燃動車発達史」をお持ちでない方にほんの少し補足しておこう。キハニ1,2は川崎車両製で、全長

12,840粍。キハニ3、4は日本車両製で、全長13,120粍。キハニ5,6も日車だが、全長15,294㍉と長い。価格だが1~3は12,635円、4は16,215円、5は23,145円、6は23,845円となっていた。

*キハニ2→クハ111:制御車化1951年9月、1957年5月乗務員室、客室出入口扉一部変更及び貫通化改造とある。ハニ→ハとなったのであろう。1958年7月ドアエンジン取付。

*キハニ4→クハ112:制御車化1952年3月、1958年8月ドアエンジン化、1960年1月貫通扉設置及び運転室変更。この2両のクハは上り(洲本)方片運転台となった。これら内燃動車改造車は電動車を含め、乗務員扉を両側面に整備したりで窓配置や顔付の変わったものもある。

写真は6枚、連続して掲出する。垂直カルダンの図は三重交通志摩線5401号のものであるが、淡路交通も同一と思われる。これについて、「ぷるぷるさん」が解説してくれるとうれしい。(つづく)

モハ2006

    モハ2006

モハ2007

   モハ2007

モハ2008
モハ2008
モハ2009
モハ2009
クハ111
クハ111
クハ112
クハ112
垂直カルダン駆動の構造図
垂直カルダン駆動の構造図

残った18きっぷで福知山行き

準特急さん言われるところの”老春18きっぷ”、今回の冬期間は、従来より10日間短い30日間の通用となり、1月10日で終了しました。使われた皆さんも使い切るのに苦心されたことと思います。私も、気がつけば一片が残ってしまい、終了間際に、雪の天気予報に誘われて、福知山を訪れました。
すでに、アナウンスされているように、3月12日のダイヤ改正で、山陰本線、福知山線の特急ネットワークに大きな変更があります。要点は、列車体系の見直し、愛称名の変更・集約、新型車両287系の投入で、昨年から、機会を見つけては、ぶんしゅうさんらと撮影に出かけてはいますが、雪の中での撮影は、これが最後かも知れません。

最初に訪れたのは、上川口駅。福知山寄りに1キロほど戻った第一十二踏切周辺は、以前から何回か訪れたところで、やや築堤になったカーブがある。ここだと、京都発、大阪発の両方の特急が通り、効率もよく、自分としては気に入っている。降雪も止んで、、晴れてきた。背後の形のいい山も姿を見せた。「こうのとり」になる「北近畿」も国鉄色が雪によく映えている。通常は4両が基本編成だが、まだ正月の増結期間で、増結2両ユニットを組み込んだ6両編成だった。

福知山電車区の183系は104両あり、すべて485系からの直流化改造である。3つのグループに分かれ、JR西日本色で全室グリーンありの4両編成がA編成、国鉄色で半室グリーンつきの4両編成がB編成、JR西日本色でグリーンなしの3両編成がC編成で、これに増結用の2両ユニットが加わる。写真の「北近畿」は、C+A編成となる。新型車両287系の投入により、183系の約半数が置き換えられるという。愛称名も変更・集約化され、新大阪発着はすべて「こうのとり」に、京都発着も「きのさき」「はしだて」「まいづる」になり、「文殊」「たんば」「タンゴエクスプローラー」「タンゴディスカバリー」は消える。調子の悪かった北近畿タンゴ鉄道の車両は、JR線への乗り入れがなくなる。

普通列車も約1時間ヘッドでやってくる。すっかり223系が多くなったが、どっこい、113系、115系も健在だ。特異なスタイルでカーブを曲がってきたのは、クモハ1146123+クモハ1156510のR1編成、以前は115系2両編成も多くいたが、他区へ転属してしまい、福知山に残る115系はこの1編成のみ、切妻、2丁パンタという、本形式でしか見られないスタイルだ。

山陰本線、福知山線の特急ネットワークは「北近畿ビッグXネットワーク」と呼ばれ、福知山駅で、京都方、大阪方、城崎温泉方、天橋立方の4方向から来た特急が福知山駅の同一ホームで乗り換えができるように、ダイヤが組まれている。特急先頭車にもネットワークを意匠化した大きなステッカーも貼られている。時刻表上では、わずかの時間、福知山駅のホームに4本の特急が並ぶ時間もある。実際は編成に長短があったり、延着があったりで、うまく4本の顔が並ぶのは難しいが、3本なら日常的に見られる。

50年前の淡路交通(1)

1960年11月3日、須磨は山科から、乙訓は京都から東京発姫路行きの客車列車に乗り込んでいる。既に姫路まで湘南型が直通運転していたが、敢えて客車列車を選んだのは理由があった。それはこの場で披露するのは遠慮して別の機会としよう。兵庫で出迎えてくれたのはthurukame氏であった。昼食を済ませ、彼の案内で湊川トンネルを出たところから長田に向かい歩いている。途中、火葬場の裏へまわり川ベリに出たら丸山駅前後の崖淵であった。須磨の目的は元神中、気動車改造の制御車。乙訓は湘南タイプ、WN駆動、対向クロスの温泉電車であった。好天に恵まれ3人は目的を達成することが出来た。

それ以後暫く委細不明。気付いたら2人は中突堤の飯屋で、当時流行って握り鮨(1皿3貫:20円?)で安酒を煽っていた。淡路島への渡船待ちだったのである。

JTB時刻表では淡路島への夜行便の記載なく、夜行列車愛用族はどうしたものかと思案にくれていた。その頃、旦那が新聞輸送の便船があると教えてくれた。2人は卒業後の行き先も決まった事だからと、これに飛びついたのであった。便船は播但連絡汽船の1日一便、岩屋21:20発、神戸22:50着の折返し運用となるもので、100噸位の貨物船に便乗の形であった。24:00乗船開始。案内されたのはデッキ下、エンジンルームと隣合わせであった。板張りに茣蓙、騒音と振動。この時、例え魚の干物の匂いが染みついたオハ60系であっても、汽車の夜行列車の有難味をつくづく思い知ったのであった。乗客も我々2人を除くと行商人風のオッサン連中であった。

24:30出航、志筑2:30着、同3:00発、洲本3:30着。ここで2人は退船を命ぜられた。6時まで仮眠が出来ると聞いていたが、それは嘘だった。抗議する元気もなく。淡路交通の洲本駅の場所を聞いて夜道を歩き待合室に転がり込んだのだが、寒くて寝られない。仕方なく2人は駅周辺でジョギングをすることになった。有難い事に関西汽船6時発神戸行きの初発があり、この頃に夜明けとなり港周辺の店も開店となった。そこで飯屋で定食を賞味したのだが、何を食ったのか覚えはない。

電車の洲本初発は6:10、この電車は福良5:00発→洲本5:47着で、関西汽船神戸便に接続、神戸中突堤8:30着となっていた。当時の関西汽船洲本航路は神戸8:30初発、洲本に10:40着、洲本最終17:50発、神戸19:10着があり、日帰りも可能であった。

目覚めと共に本題に参ろう。淡路交通は淡路鉄道として軌間1067粍、1914年4月10日創立、開業日と区間は次の通りである。洲本口-市村:1922.11.26、市村-賀集:1923.11.22、洲本-洲本口(宇山):1925.05.01、賀集-福良1925.06.01、福良延長線(港湾整備により埋め立て地を延長)1938.04.01、これで全線23.4㎞の開通となった。開業と共に蒸気列車が走りだしたのだが、1号機は1920年9月ポーター製の13.38頓Cタンク、客車は播州鉄道から2軸車6両を購入して対応した。路線延長による車両増備は2,3号機で、同じくCタンク1922年5月コッぺル製、13.82頓と僅かに大きいが、軽便規格と言っても差し支えない。福良延長に合わせ国鉄から18.29頓のこれまたCタンク、1914年3月ポーター製の払い下げを受け4号機としている。これは長州鉄道開業期のもので、国に買収後は形式1045となり1047号となったものであった。客車もその後の路線延長に合わせ、揖斐川電気から2軸単車7両を購入し総計13両とした。蒸機の重量はいずれも運転整備時のもので、空車時重量は9.45頓、10.97頓、15.24頓の順、価格は同じく19,400円、23,175円、5,254円と記録されていた。 

さて1920年代後半から内燃動車が実用化され、非電化鉄道でも旅客輸送が見込める地方私鉄では採用される事例が増えて来た。詳しくは湯口会員の「内燃動車発達史」をご覧ください!としておけばこの場は凌げる。淡路鉄道は1931年にキハニ1~3、1933年キハニ4、1935年キハニ5、1937年キハニ6と6両の半鋼製ボギー車を揃えた。揃ったとたんに燃料統制となり、苦闘の時代を迎えるのであるが、

その話は前著上巻231頁に紹介されている。終戦と共に燃料問題が解決したわけでなく、比較的得られやすい電力を動力源とする鉄道電化が世の風潮となった。戦時統合で鉄道から交通に改名したのは1943年7月、1946年11月電化工事の許可を得、1948年2月11日より電車運転となった。この時導入されたのが南海電鉄の木造電動車で、いずれも63形割当供出車で、淡路では1001~1005となった。それが先日、見事な姿で紹介された訳である。本稿では先輩である内燃動車の電化後の姿を改造順に紹介することにする。それらの車両番号は電動車2006~2009、制御車111、112号となっていた。

 

工房便り D50の制作(4)

 皆さん、新年おめでとうございます。私、時折コケながらもしぶとく生きております。本年もどうぞ宜しくお願いします。
  ぐずぐずしている内に新年となり、今更D50でもないのですが主台枠後部の工作 を残していましたので、続きをご覧頂きます。 主台枠後部はご覧のようなユニットを作り、ダイキャスト製の台枠にねじ止めしました。既製品は製造コストや曲線通過性のために主台枠後部は従台車と一体に作ってあることが多いのですが、今回は実物のように主台枠後部は固定し、従台車のみ首を振る構造です。

従台車の軸箱はドロップ製のものを加工。担いバネは愚直に帯板を重ねて作ったものです。我ながら呆れます。

  

台枠にねじ止めしたところ。

従台車と、ついでにモーターも取り付けてみました。コアレスモーター初採用です。

 

以上で主な工作が終わり、細部の仕上げを終えた姿をご紹介します。それにしてもずいぶん時間がかかっています。そのわけは一緒に写っている機関車。そう、D51標準型、これも同時併行していたからです。

細部の仕上げを終え、上回りを乗せたところ。背後にいるのはD51。

D51と一緒に、洗いを終え塗装直前の姿。真鍮生地が美しい。

D51と一緒に、洗いを終え塗装直前の姿。真鍮生地が美しい。

D50のテンダーは12-17。本来の20立方メートル形をC51��と交換したり、最初から12-17で新造された機が多かったとか。
D50のテンダーは12-17。本来の20立方メートル形をC51等と交換したり、最初から12-17で新造された機が多かったとか。
さて、いよいよ私の最も苦手とする塗装作業です。今回小型の電動コンプレッサーと排気扇付きの塗装ブースを導入しました。従来はエアー缶を圧力源として霧吹き式のスプレーガンを主体に、空気使用量の多いエアブラシは修正用に使っていましたが、今回からはエアブラシを全面的に使用することにしました。
分解の後、ナンバープレートとスライドバーをマスキングして塗装を始めます。メタルプライマーを数回吹いた後に、数時間の乾燥時間をとってから黒色のラッカーを吹いて行きます。最初の2~3回はフラットベースを混ぜないで、仕上げの数回はフラットベースを混ぜて、半艶消し塗装としました。
というわけで今年の年賀状に使ったショットです。

というわけで今年の年賀状に使ったショットです。

このあと、作用管などの磨き出しor銅色塗装とか、最後に石炭の積み込みを行ってやっと完成。ウエザリングは(自信がないから)しないつもりです。
今回でD50の巻は終了とし、次回は一緒に写っていたD51をご紹介しましょう。