中国鉄路 第2の新幹線 『武広線』 昨日26日開業!

【5904】で、報告されていただきました中国鉄路としては、第2の新幹線『武広線』が、予定通り12月26日に開業しました。

高速鉄道として世界一長い全線1.069kmを、最高速度350km/hの世界一の高速で、走行します。所要時間は、当初4時間を書きましたが、約3時間になったそうです。平均速度は、何と350km/h近く、全線を、ほぼ全速力行運転すると言うことになります。当初の運転本数は、21往復です。今までの約11時間が、8時間も短縮しています。驚嘆の短縮時間です。

東海道・山陽新幹線と比較すれば、新横浜~小倉間1078.9kmに匹敵します。のぞみ99号では、4時間22分かかりますので、『武広線』のスピードがお分かりと思います。

そして、使用される車両は、シーメンス社技術援助のCRH3と書きましたが、川重とJR東日本糖が技術供与した『はやて』も併用使用されるとの報道です。また、ひと悶着ありそうですね。

問題の運賃は、1等が780元(約10,000円)、2等が490元(約6,500円)で、今までの約3倍と、予想通りですが、春節前の帰省には、珍しさもあって、利用殺到になりそうです。

ちなみに、新横浜~小倉間のぞみ号利用では、運賃+普通席定席で、21,370円です。

読売新聞等に、掲載されていますので、HPもご覧ください。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091226-00000794-yom-int
http://www2.explore.ne.jp/news/articles/13537.html?r=sh
http://www.asahi.com/international/jinmin/TKY200911250305.html

近々には、初乗車に行くつもりです。

2009年 厳寒の大地へ Part3 調兵山 2日目

年始・年末の芭石鉄道への旅ですが、北京西→成都への切符は購入できていますが、今日発売の成都→北京西の切符が売り切れと、現地から連絡がありました。やはり、出発駅でないと、買えないようです。また、困りました。でも、よくある事なので、何とかしようと、対応におおわらわです。しかし、どうなるのでしょうか。

第10日目 
12月1日
昨夜、夕食を食べに街に出かけた際に、凍結した路面に滑ってしまいました。そのまま、転べばまだ良かったのですが、右足で踏ん張った拍子に、ぎくっと音がしました。ちょっと、まずいなと思いましたが、普通に歩けたので、ホテルに帰ってから、ゆったりと風呂に浸かってから、寝ました。
しかし、朝起きると、右足が曲がりません。何とか立ち上がって、歩こうとすると、痛みが出ます。特に階段は、手摺りにしがみつかないと降りられず、激痛です。かなり、マズそうです。

昔、野球をやっていた頃に、膝のじん帯を伸ばし+た時の症状と似ています。それでも、王千駅着7:52の列車を撮りたいと、運転手の王さんと約束していたので、患部にホカロンを何枚も貼って、出かけました。
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2009年 厳寒の大地へ Part2 調兵山 1日目

第9日目  11月30日

5:30、モーニングコール前に起床して、調兵山行きのバス停に向かいました。道路は、完全に凍っています。バス停周辺には、早朝から早飯屋が開店していますので、ここで小籠包を購入して、発車待ちのバスに乗り込みます。乗客は、私一人です。

定刻より早く、6時過ぎには、発車しました。乗車席は、1番後の特等席です。なんといっても、前の席が撤去してあるので、ゆったりと座れます。定刻より遅く、6:50に沈阳駅前を発車しました。暖かい車内で、満腹感もあって、乗車後は、直ぐに熟睡してしまいました。そして、着いた所は、9月に乗車した沈阳駅前でした。運転手は、前に停車している同じ調兵山行きのバスに乗換えるように言っています。昨日は、6:30に北駅を発車すると言っていたのに、良く分りませんが、乗換えました。こういう事があるので、中国では、時間に余裕を持って駅に行く事が必要不可欠です。

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2009年 厳寒の大地へ Part1 旅立ち


今夜は、クリスマスイブです。皆様方は、どのようにお過ごしのことでしょうか。私は、年末・年始の芭石鉄道への乗車・撮影旅行の手配に大わらわです。ここへ行くのは、初めてです。一人だと、何とかなるのですが、今回は、海外旅行は初めてという友人と一緒です。まだ、在職中ですので、出発・帰国日が決まっています。

問題は、北京から芭石鉄道への玄関口、四川省への成都までの特快夜行寝台列車が、1本しかないことです。北京に着いてからでは、切符は、多分売り切れているでしょう。そのため、現地旅行社に購入を依頼すると、現金前払いが原則と、言われてしまいました。
困り果てて、北京の常宿の日本人スタッフに、泣きついたところ、快く立替払いをして下さいました。往復で、約40,000円です。感謝、感謝です。今回も、出発前から、人の温かさを受けました。 続きを読む

NHK放送予定、あの加太駅も!ぜひご覧下さい

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[ 番 組 名 ]  にっぽん木造駅舎の旅「高野山駅・学文路駅・貴志駅・鳥居本駅」
[チャンネル]  BS1
[ 放送日時 ]  2009年12月30日(水)午後3:10~午後3:25(15分)
[ 番組HP ]  http://www.nhk.or.jp/ekisya/
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[ 番 組 名 ]  にっぽん木造駅舎の旅 日本縦断100駅すべてみせます!
[チャンネル]  BS1
[ 放送日時 ]  2009年12月31日(木)午前0:10~午前0:55 [30日(水)深夜](45分)
[ 番組HP ]  http://www.nhk.or.jp/ekisya/
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[ 番 組 名 ]  にっぽん木造駅舎の旅 日本縦断100駅すべてみせます!
[チャンネル]  BS1
[ 放送日時 ]  2009年12月31日(木)午前1:10~午前1:55 [30日(水)深夜](45分)
[ 番組HP ]  http://www.nhk.or.jp/ekisya/
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[ 番 組 名 ]  にっぽん木造駅舎の旅 日本縦断100駅すべてみせます!
[チャンネル]  BS1
[ 放送日時 ]  2009年12月31日(木)午前2:10~午前2:55 [30日(水)深夜](45分)
[ 番組HP ]  http://www.nhk.or.jp/ekisya/
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[ 番 組 名 ]  にっぽん木造駅舎の旅 日本縦断100駅すべてみせます!
[チャンネル]  BS1
[ 放送日時 ]  2009年12月31日(木)午前3:10~午前3:55 [30日(水)深夜](45分)
[ 番組HP ]  http://www.nhk.or.jp/ekisya/
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[ 番 組 名 ]  にっぽん木造駅舎の旅「能登鹿島駅・阿漕駅・加太駅・加賀一の宮駅」
[チャンネル]  BS1
[ 放送日時 ]  2009年12月31日(木)午前4:10~午前4:55 [30日(水)深夜](45分)
[ 番組HP ]  http://www.nhk.or.jp/ekisya/

洛西をめぐる話題

元新京阪線が現在、桂~洛西口間で高架工事をしている事はかぶりつき愛乗者はよくご存じと思う。その一人、老人は工事着手以来、連日観察しているが、いよいよ仮線切り替えの日が迫ってきたなと思われる姿となっている。この工事は京都市道中山・稲荷線と立体交差するためで、現在、交差部分上り方には洛西口駅があり、この駅設置の時は仮駅構造で開業した。今回、東側にまたしても仮駅が設けられ、本線東側に敷設中の仮線使用時に切り替えられる。交差部の新設本線上への勾配距離を勘案すると、建設される本格駅の位置は下り方(京都寄)に移設されるようである。切り替え日の発表はまだないが、先日、南茨木~正雀間に新設される”摂津市”駅の開業日を3月14日と発表しているから、それに合わせるのではなかろうか。元新京阪線では更に長岡天神~大山崎間でも新駅の建設が確定しており、新京阪らしいぶっ飛ばす-といってもJRには負けるが-区間が次々と消えていくのは寂しい。

人気物クミオ君こと9300系、12月に入り07、08編成が走り出した。一方、ロミオ君こと6300系は、00、30編成2本しか見られない。04編成は桂で留置中、07編成は正雀で暇を持て余しているのではないだろうか。クミオ君は後2本新造されるらしい、との話も耳にした。ロミオ君撮影は早いうちに……。

次いでJR嵯峨野線は、3月13日から京都~園部間の残る単線区間の複線化に伴いダイヤ改正が行われる。スピードアップ、増発と共に国鉄時代の車両は一掃されると新聞発表があったが、老人は車両についてはほんまかいな、と思っている。過去にもこのような発表があったが、依然として113系が轟音と共に運用される場面に出くわしたことがある。いくら更新したといってもあの轟音はお断りしたい。

中国鉄路 第2番目の新幹線 『武広線』26日開業予定

11月11日に今年に入って、4月1日、7月1日に続いて、3回目の時刻改正が行われ、急ピッチでの旅客輸送力増強と、高速化が進んでいる中国鉄路ですが、広州と三国志で有名な武漢を結ぶ、高速鉄道『武広線』が、12月26日に開業される事が、発表されました。

同線は北京と香港を結ぶ旅客専用鉄道の「京港客運専線」の一部として2005年に着工され、路線の全長は、高速鉄道としては世界で最も長い1068.6キロで、武漢から広州までを、これまでの11時間から、約4時間で結びます。最高速度は、同じく350km/hで、飛躍的なスピードアップです。ただ、当日にならないと、時刻表は発売されませんので、実際の走行時間や、本数は、確認できません。

2008年、オリンピックを控えて開業した、北京と天津を結ぶ新路線の京津城際鉄道に次ぐ、2番目の高速鉄道です、車両は、同じCRH3が使用されます。日本の『はやて』は、残念ながら、以前に掲載したとおり、中側と、JR東日本・川重との契約上トラブルで、使用される事はなくなりました。

京津城際鉄道開通の際に、付近人民がフェンスを壊して、近道を作り、事故が発生した経緯もあって、今回の開業には、線路内などへの違法立ち入りを防ぐために高さ1.8メートルのフェンスで敷地を囲むだけでなく、1km当たり2人の公安官を配置し、「全面密閉・徹底監視」対応をするそうです。

広州駅は、春節(旧正月)には、中国国内で最も混雑する駅です。この地区に出稼ぎに来ていた内陸部の人民が、一斉に帰省します。問題は、運賃で、500元前後(約7,000円)と予想されています。

現在の在来線ですと、普通席140元ですので、約3倍もします。1元でも安くしたいのは、どこの国でも一緒です。まして、1元でも多く故郷へ稼いだお金を持って帰りたい出稼ぎ者です。はたして、どれだけの人が、乗車するのか・・・。

すでに、航空業界は、ディスカウントチケットを用意しているそうで、陸・空の競争が始まっているそうです。日本のように、新幹線のディスカウントチケットがない中国ですが、これからは、何かが始まるのではと、予想しております。

実は、先日、その武漢に行ってきました。現地では、全く知っていない人もいて、びっくりしました。それも、鉄道員です。逆に、どうして、そんなことを、日本人が知っているのかと、質問されました。

駄洒落でしょうが、『中韓海底トンネル』構想が浮上・・・北京~ソウル間が高速鉄道で、4時間』なんて記事もありました。海底トンネルの建設は中韓交流を促進する上で、極めて有効だとの構想で、ルートとしては、韓国・仁川-中国・威海(341km)、韓国・華城-中国・威海(373km)、韓国・平沢-中国・威海、韓国・瓮津-中国・威海(221km)の4案があるとの事で、5年の準備と10年の工期が必要とされています。

何でも、世界一が好きな中国です。以外と真剣かも・・・。

2009年 北の大地へ Part17 函館市電

第12日目 11月2日

有珠山SA7:30→8:40昭和新山8:50→10:10長万部駅10:25→11:30森駅11:40→12:30大沼公園駅12:50→13:30函館駅→18:00湯の川温泉

かつて、青森駅から青函連絡船に乗船して、初めて北海道に入る玄関口の函館駅でしたが、昭和63年に青函トンネル開通に伴い、連絡船も廃止されました。現在の駅は、平成15年に第5代目の駅として、建替えられた綺麗で立派な駅です

大沼公園での撮影後は、函館を目指しました。恥ずかしい話ですが、函館は、いつも乗継駅で、市電を見た事がありません。全線の撮影に挑む前に、函館駅の案内所に向かいました。

と、言うのも、着いてみて分かったのですが、今の温度は、零下で、風も10m以上です。ぶんしゅう7号が、いくら頑丈とはいえ、過酷です。駐車場があって、インターネットができて、とにかく安いホテルと、希望を言ったところ、湯の川温泉で、1泊2食付き6800円の激安ホテルを紹介してくれました。
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2009年 北の大地へ Part16 昭和新山、長万部、森、大沼公園

第12日目 11月2日

有珠山SA7:30→8:40昭和新山8:50→10:10長万部駅10:25→11:30森駅11:40→12:30大沼公園駅12:50→13:30函館駅→18:00湯の川温泉

昨夜は、夕食もまだだったので、食事、宿泊できるSAを探しましたが、行けども、行けどもありません。そのうち、『冬用タイヤ装着必要』の道路サインが出だし、あせりました。氷雨は、雪まじりに変わっていました。ようやく、伊達紋別の高台にある有珠山SAを見つけ、入りました。沼ノ端も40年前によく行った所です。苫小牧、室蘭も立ち寄りたかったのですが、ずいぶんと先まで行ってしまいました。
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2009年 北の大地へ Part15 北海道開拓の村

第11日目 11月1日 その2

笠道の駅8:30→10:00美唄市郷土資料館10:05→10:55三笠鉄道村クロード公園11:05→11:10三笠鉄道村鉄道記念館12:15→13:20万字線鉄道資料館
13:25→15:15開拓の村16:30→19:20有珠山SA 

『万字線鉄道資料館』からは、国道12号線をひた走りました。途中で、大好きなそば屋を見つけ、遅い昼食です。旨かったです。40年前は、道内で蕎麦を食した経験はありません。貧乏旅行でしたので、一日2食が、せいぜいでした。唯一、たまに宿泊するYHで食べる夕食が、ご馳走でした。今でも、贅沢は敵と、安いコンビニ弁当で済ませていますが、お酒だけは、忘れません。


15:15、『北海道開拓の村』に到着しました。ここで見たいのは、開拓時代に走った馬車鉄道です。入口の建物は、かつての札幌駅です。入場券を購入すると、馬車鉄道の乗車券がプレゼントされていました。平日ですので、入場者はわずかで、駐車場はガラガラでした。


入場すると正面に馬車鉄道の駅があります。N電そっくりのダブルルーフの客車が止まっていました。発車時刻は、15:40が、最終です。時間がありましたので、近くの手宮駅長官舎を視察しました。

馬は、発車直前にならないと、連結?されません。なぜか、連結すると直ぐに走るので、そうしているそうですが、無理を言って1カット撮るのを許可してもらいました。

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「佐竹保雄 山科国鉄写真展」打上会

昨夜、12月13日、京都京阪七条近くの『サカタニ』にて、「佐竹保雄 山科国鉄写真展」打上会に、クローバー会の面々が集まり、盛大に開催されました。それぞれが、近況をご報告され、毎年1歳1歳、老いていきますが、今後の活動予定等を話されました。席上、佐竹先輩より、鉄道ファンには、バイブルとなって、古本屋に出ても30,000円前後の高値で取引されている『日本の客車』の復刻版が、来春には、再販される予定で、話が進行していることが報告されました。手に入ることが、少なくなった幻の本です。発売が待ち遠しいかぎりです。

2009年 北の大地へ Part14 三笠鉄道村、万字線鉄道記念館

第11日目 11月1日 その1

三笠道の駅8:30→10:00美唄市郷土資料館10:05→10:55三笠鉄道村クロード公園11:05→11:10三笠鉄道村鉄道記念館12:15→13:20万字線鉄道資料館
13:25→15:15開拓の村16:30→19:00有珠山SA  


道内に入って、最も寒い朝を迎えましたが、昨日追加購入した湯タンポのおかげで、寒さで寝られない夜は回避できました。旭川方面から来る車の屋根は、雪がたっぷりのっています。朝風呂があるかなと隣の温泉に行きましたが、ダメでした。いつものようにコーヒーを沸かせて、ポットにも入れて、温まりました。本格的な北海道の冬が始まっています。スキーには、家族と毎週のように行きましたので、雪道の経験が多いとはいえ、シーズン初めては、緊張します。道路に雪が消えるのを待っての出発でした。

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三井芦別鉄道

ぶんしゅうさんの「北の大地へPart12 富良野線 根室本線 日高本線」で芦別駅の画像が出てきた。場違いの五重塔の後の芦別駅を見て昭和42年夏休みに三井芦別鉄道を訪れた時のかすかな記憶が蘇ってきたので、当時の状況を書いてみた。(撮影日は42年9月9日である)

歴史

歴史は比較的新しく、昭和15年12月8日三井鉱山専用鉄道として芦別~西芦別(後の三井芦別)間4.1Kmを運転開始。昭和17年5月5日旅客営業を開始。昭和20年12月15日西芦別~頼城間5.5Kmを開業。昭和24年1月20日地方鉄道に変更し、三井鉱山㈱芦別鉄道となった。昭和33年11月にはDCを3両投入して客貨分離。昭和35年10月1日炭鉱合理化に伴い鉄道部門を分離することになり、三井芦別鉄道を設立して営業を開始した。訪れた時は、まだ炭鉱の最盛期で芦別~頼城間を20往復位運行され、羽幌炭鉱鉄道と共に女性の車掌が乗務し、元国電を挟んだDTD3両編成の列車は活気に溢れていた。

その後、旅客部門は炭鉱合理化による人口の減少と並行バス路線の充実により昭和47年5月31日をもって廃止。石炭輸送も炭鉱の合理化により平成元年3月25日をもって全線の営業を廃止、炭鉱自体も平成4年9月に閉山となった。

車両

昭和42年8月時点での在籍車両は、蒸気機関車2両(C58-1・C58-2)ディーゼル機関車2両(DD501・DD502)気動車3両(キハ101~キハ103)客車3両(ホハ10・ナハニ1・ナハニ2)であった。(貨車は省略)以下、写真と共に解説する。

(1)   蒸気機関車

かつては江若鉄道から購入したナスミス・ウィルソン社製の1B1タンク機やC11が在籍したが、訪問時にはDLの予備機としてC58が2両(C58-1・C58-2)在籍した。昭和24年汽車会社製で国鉄の見込み生産品を購入したと言われている。国鉄のC58とは同一であるが給水加熱器が付いていない。昭和46年3月廃車となり、C58-2は定山渓グランドホテルに売却されたが、現車は桑園駅の引込線に留置されたままであった。それを旭川市郊外の「ニュー温泉」のSLファンのオーナーが買い取り、旅館の建物の中で保存されている。桑園から富良野線の西神楽まで回送して、トレーラーで旅館まで運搬した。この時の状況が昭和46年9月18日付の新聞に掲載されているので、運んだのは前日と思われる。

「ニュー温泉」はHPで確認すると1泊2食付で5500円~、入浴のみでは400円とリーズナブルで、リタイヤ後一泊してゆっくり見学したいと思っている。

 

2)ディーゼル機関車

DD501~DD503

昭和40年から新製された旧国鉄DD13タイプの機関車であった。DD501が三井芦別~中ノ丘間の炭山川鉄橋上にセキを連結した状態で保存されており、リタイヤ後見学に行く予定にしている。DD502は解体、DD503は京葉臨海鉄道に売却された。

 

3)気動車

キハ101~103

昭和33年、客貨分離のために3両新製された。車内は中央3区劃がクロスシートのセミクロスであった。旅客営業廃止後は関東鉄道に売却され、鉾田線(後の鹿島鉄道)で再起しキハ711~713となった。扉配置からワンマン化ができないのと、その後の新車投入のため、キハ713は平成3年、キハ711・712は平成4年に廃車された。

 

キハ103+ナハニ1+キハ102 

 

キハ101

 

鹿島鉄道 キハ711 石岡    昭和60年9月23日撮影

4)客車

ホハ10

昭和16年9月、専用鉄道の旅客列車用として購入したホハフ1(大正10年日本車輌製の元飯山鉄道のフホハ10)を昭和32年自社工場で下回りを生かして半鋼製の車体を新製した。キハ101の入線後、中間車として使用するため総括制御用回路を引通し、実質キサハとなった。

 

ナハニ1~3

スタイルからも判るように元国電モハ31系(後のクモハ11200番台)である。昭和23年10月地方鉄道に変更に際して、戦災で焼失した国電を日本鉄道自動車で復旧したものを購入した。旧番は公式にはモハ31036、31070、31104とされているが、アテにはならない。当初は形式モハ300形車号サハ1~3となっていた。元電車であるので「サハ」は理解できるが、形式が何故「モハ」になっていたのかは不明である。昭和32年12月にキハの中間車として使用するため、総括制御用回路を引通した。その際に一端に荷物室を設けて車号をナハニ1~3に変更したが、現実には「キサハニ」とでも言うべきものであった。中間車は前述のホハ10と併せて2両使用で、予備車を入れても3両で済むため、昭和39年1月、ナハニ3を廃車した。

 

ナハニ1

 

ナハニ2

(5)その他

モーターカー

昭和39年富士重工宇都宮製作所製で、冬にはプラウを付けてラッセル車として使用されていた。

 

芦別駅のC57200

滝川発(14:15)発 釧路行(23:22)435レで機関車の後にオハフ60が見える。

 

雄別炭鉱茂尻鉱業所102号機

三井芦別鉄道の後、茂尻の雄別炭鉱茂尻鉱業所の機関庫に行く予定であったが、三井芦別で機関区の人と話込んでしまい、予定の根室本線の列車に乗れなくなり、茂尻鉱業所は次回ということにした。茂尻で交換待ちの時、102号機が出てきたので撮影することができた。

2009年 北の大地へ Part13 新冠、追分、夕張、三菱大夕張鉄道車両保存地

前回、投稿してから、3週間を迎えました。その間、厳寒の大地へと、再び訪中をしておりました。現地から投稿をしようと試みましたが、ホテルのインターネット回線は遅く、途中で諦めました。申し訳ありません。続編を続けさせていただきます。

第10日目 10月31日

新冠温泉 レ・コードの湯ホテルヒルズ』8:00→10:45大狩部10:50→節婦付近11:40→13:30追分鉄道記念館14:00→14:40夕張15:00→15:15清水沢15:20→15:30三菱大夕張鉄道車両保存地15:40→三笠道の駅

昨夜は、久しぶりに部屋のベットで寝られましたので、爆睡でした。朝は、露天風呂から、夜明けの新冠の街並みを見ながら、ゆっくりとしました。まともな朝食も久しぶりでした。
厚賀~静内間を丹念にロケハンしましたが、撮影地は、やはり定番の場所が良さそうです、昨日は、道路橋梁から撮った厚別川対岸の丘に車を入れ、撮影ポイントの選択をしますが、川から、ほぼ垂直の崖の上からですので、足場が崩れやすく危険です。また、木々と雑草が生い茂り、全く見晴らしがありません。

庭バサミを取り出し、長靴を履いて、30分以上も、草刈を続けましたが、邪魔な木の枝は、取り除くのは、不可能でした。かといって、他の場所を探すにも、また同じ作業をしなければなりません。ここで撮影するには、電柱作業をするようなクレーン車を必要とします。30分間の労働は、一体、何だったのかと一人呟きながら、列車を待ちました。
▲ 芦別川鉄橋を渡る様似行きの2225D キハ40352
▲ 風・波除けの枕木を植えて、風・波除けの大狩部駅
▲ 撮り終えた後は、節婦付近の海沿いに場所を変えました。

ここでも、釣り人がおられました。列車が来るまで十分時間があります。秋アジを狙っているのかと尋ねますと、ここでは、遡上する川もなく、秋アジは、もう終わった。釣れても、質が悪い。長万部以南なら、80~100㎝級があがる、絶好のシーズンを迎えている等々の釣り談議や、ここでも必要ない箱物や道路ばかりが出来て、困っている等々の話を聞かせてもらいました。

線路と並走する道路は、ひっきりなしに車が走行しています。これだけの往来があるという事は、道路状況が悪く、鉄道を利用するしかなかった時代は、日高本線は、客貨共、大いに盛況だったのだろうと、察しました。
天気予報では、今年1番の寒冷前線が近づいている事を告げています。空も雲が覆い、すぐれません。走行撮影を切り上げて、夕張方面へと向かう事にしました。
▲ 途中、むかわ道の駅で、今が旬の名物“ししゃも”を食しましたが、我々が一般的に食べるのは、一夜干しにして焼いて食べるのが殆どですが、ここでは、刺身、揚げ物や煮物が食べられました。勿論、初めてです。こんな駅弁があったら、列車の旅も一段と楽しくなるでしょうね。

▲ 現在の追分駅、ホームに、構内にも、かつての面影はありません。
▲ 旧追分駅
▲ 40年前は、ホームに乗客があふれていました。




▲ 13:30、追分駅に着きました。
40年前は、とにかく広い構内があって、夕張近辺から集められた石炭貨車が、ヤードを埋め尽くしていました。D51を筆頭に、何本もの煙が上がっていました。広く長いホームにも、SL列車が入線して、じっとしているだけで楽しめました。今の追分駅は、当時の雰囲気は全くなく、殺伐とした光景だけが、広がっていました。






追分駅コンコースには、駅近くにあります追分鉄道資料館の案内が掲載されていましたが、ご覧のとおり、今日は、開館しなく教育委員会に連絡してくださいです。他にも行きたい所がありますので、ちょっと覗いてみるだけにしました。

黒くなってきた雲を見ながら、夕張へと向かいました。JRに乗車すると、約65分を要しますが、今は、道路整備され、高速道路も出来ていて、40分で到着です。


破綻した街、夕張は、車窓を見ても活気は見られず、全国的な名産品となった夕張メロンの道沿い路店が並ぶのみです。夕張駅に立ち寄り、駅員兼観光案内所のおばさんと話をして、SL博物館の場所を聞きましたが、夕張・・・の中にあって、既に廃館となっています。仕方なく、見下ろせる橋まで走り、外観を撮りました。

おばさんの聞くところによると、清水沢駅を曲がって、少し上がった所に、客車が展示されているとの事で、行ってみる事にしました。


車に乗ろうとすると、白い物が降ってきます。細雪です。今年、初めての雪と言っていました。先を急がねばなりません。途中、清水沢駅にも立ち寄りましたが、かつての姿はありません。清水沢を出て、坂道を上がった約30分後に、『三菱大夕張鉄道車輌保存地』に着きました。

除雪車を先頭に3両の客車と、2両の石炭貨車が大事に保存されていました。線路に沿っての道路を走りますが、廃線跡は確認できますが、痕跡は残っていません。この先には、三絃橋がありました。
▲ 1935年(昭和33年)完成した森林鉄道最長の、単線鉄道橋(軌間762mm)、長さ381.80m(最大支間77m、7連)の三弦トラス橋です。貴重な鉄道遺産ですが、新ダム完成後は、水没するそうです。

細雪の中、ゆっくりと道を下り、明日の三笠山鉄道公園視察のために、道の駅『三笠』に停車しました。向かいには、大きな温泉施設とジャスコがありましたが、重宝する湯タンポをもう1つと、残り少なくなったカセットボンベを購入、食事を優先するため、ジャスコとしました。外は、雪まじりの氷雨です。風も強くなり出しましたが、『ぶんしゅう7号』は、安眠を守ってくれました。 Part14 へ続く

「第9回みんな集まれ!ふれあい鉄道フェステバル」

11月14日(土曜日)尾久車両センターで「第9回みんな集まれ!ふれあい鉄道フェステバル」が開催されたので覗いてみた。

当日の朝、大塚で所用を済ませた後出掛けたが、大塚から尾久までJRで行くと、山手線で池袋に出て、埼京線で赤羽、更に宇都宮線か高崎線の中電で尾久というルートか、田端まで行き、京浜東北線で赤羽、中電で尾久というルートとなる。いずれも乗換えが2回伴い、距離の割にはとんでもなく時間がかかる。一方、山手線の高架下から三ノ輪橋行の都電に乗れば15分で荒川車庫前に到着し、そこから尾久駅までは約700mで10分とかからないので、当然このルートを利用した。9時45分に尾久駅に到着すると入場待ちの列が長い地下道を潜り、フェンスに沿って上野寄りまで延々と延びていた。10時を過ぎても列が動かないので入場制限でもしているのかと思いきや、強風でテントが飛ばされ、その片付けのため開場が遅れているとのことで、15分遅れの10時15分頃開場された。

今年の展示車両の目玉は、キハ48の3両編成ジョイフルトレイン「きらきらみちのく」でポスターにも大きく取り上げられていたが、人気はヘッドマーク付のEF651107、EF651118、EF8181、DD51842の機関車に集中していた。客車は、高崎支社の旧形客車、オハニ3611+スハフ322357+スハフ422173+オハ472266+オハ472246+スハフ422234の6両編成が休憩用として、ジョイフルトレイン「ゆとり」編成の両端車(中間車は廃車)、スロフ14701+スロフ14702が展示されていた。また、展示車両ではないがマヤ342004がボロボロの姿で停められていた。検修庫内にE655系「なごみ」が展示されていた。当日は強風の上、時折雨がぱらつく悪天候にもかかわらず入場者数は主催者側の発表で8300人であった。

【尾久駅とポスター】

 

駅名は「おく」と濁らないが、実際の地名は「おぐ」と濁る。都電に「東尾久3丁目」という電停があり、都バスの「尾久駅前」バス停は「おぐえきまえ」と濁っている。また、尾久は荒川区の地名であり、実際の尾久駅の住所は北区昭和町のため更に話がややこしい。類似例で有名なのは「米原」で、実際の地名は「まいはら」と濁らない。ところが町村合併で市に昇格した時に駅名を優先したのか「まいばら」市にしてしまった。中央線と小海線の分岐駅の「小淵沢」は駅名は「こぶちざわ」であるが、実際は「こぶちさわ」と濁らない。私鉄でも西武秩父線の「横瀬」の駅名は「よこぜ」であるが、実際は「よこせ」である。「旭川」のように「あさひかわ」でスタートし、途中(明治38年4月)で「あさひがわ」に改称し、昭和63年3月に元の「あさひかわ」に戻している。実際の地名は、昔から「あさひかわ」と濁らないのに、何故「あさひがわ」にしたのだろうか。駅名に関しては、勝手に途中に「の」を入れた例(常磐線の「原ノ町」、実際の地名は原町「はらまち」で「の」は入らない)、勝手に読み方を変えた例(秋葉原「あきはばら」実際は「あきばはら」)、勝手に漢字を変えた例(わたらせ渓谷鐵道の「神戸」(ごうど)は国鉄時代兵庫県の神戸と間違うという理由で「神土」にした)等もあり、調べてみると面白い。

【き・ら・き・ら・みちのく】

 

ポスターにもある通り展示のメインであった。平成4年12月の東北新幹線八戸延伸に合わせて、一般形のキハ481505・1506・1534を改造した。両端の1505と1506は正面を大幅に改造し、側面窓を拡大の上固定化、中間車の1534は側面のみ改造して運転台は残された。車内は、両端車は1人掛と2人掛の回転リクライニングシート、中間車はボックスシートで座面を畳敷にして背もたれを高くして個室風となっている。休日を中心に運転される八戸~大湊間の快速列車「きらきらみちのく下北号」に使用されている。車体は内外ともに大幅に改造されているが車号は変更されていない。

【機関車】

EF651107、EF651118、EF8181、DD51842の4両が展示され、ヘッドマークは適時取り換えられ、常に撮影者で満員であった。EF8181は終日ターンテーブルに乗り回転していた。

 

入換に使用されていたDE111041

【客車】

 オハニ3611は、JRグループの中では鋼体化改造客車の唯一の生き残りで、優等列車用のため車内はスハ43並みで、台車はナハ10のTR50類似のTR52Aを履いている。重厚な車内と軽量客車用台車の走行音のミスマッチが何とも言えなかった。再度営業運転で乗ってみたい。戦前製のスハフ32は、生き残ったこと事体奇跡で、こちらも是非乗ってみたい。

 

昭和58年8月、14系7両をコンパートメント車に改造したもので「サロンエクスプレス東京」と呼ばれていた。平成9年に堀り炬燵仕様の和風客車に改造され、愛称を「ゆとり」と改め6両編成となった。平成20年3月に使用を休止して両端車以外は廃車となった。(上 スロフ14702  下 スロフ14701)

マヤ34は昭和34年から56年にかけて作られた軌道検測用の事業用客車で、トップナンバーのみスタイルが大きく異なり、昭和42年北海道用の耐寒工事が実施され、マヤ342501に改番された。画像の2004は昭和41年製で、ボロボロの状態で留置されていたが廃車にはなっていないようである。

 

上記以外にも検修庫の中に元「出雲」のオロネ257とオシ24701、「夢空間」のオロネ25901が展示されていたが、場所が狭くて撮影は無理であった。 

【電車】

E655系は平成19年6月、皇室用客車「1号編成」の置換え用として新製した。6両編成で、その内1両が皇族方や国賓がご乗車になる「特別車両」である。通常は「特別車両」を外した5両編成で団体専用列車として使用されており、「なごみ(和)」の愛称が付いている。昨年同様、検修庫内に展示されていた。

 

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芭石鉄道撮影・乗車の旅 お誘い

DRFC-OBのM・T氏のご依頼で、中国四川省に残る、最後の軽便SL鉄道『芭石鉄道』の撮影・乗車と、生きている化石『メタテコイア原生林』を見る旅に、年末年始に参ります。今から、手配を行いますので、もしご参加を希望される方がいらっしゃいましたら、ご連絡下さい。勿論、中国内は、全て列車移動で、約25時間乗車の夜行寝台列車の旅、最新のCRH(新幹線)の乗車も堪能します。行程は、日本→北京空港集合→成都→芭石鉄道・沫江煤電です。ゆっくりと、10日間程度を予定しています。費用は、中国内のみで、約20万円を見込んでいますが、節約には努めます。参加者が増えれば、もっと安く、豪華な食事にもありつけます。
ご興味ある方は、コメント欄に、入学年度とイニシャル(例;M・T)をお書き下さい。それで、分ると思います。
芭石鉄道については、下記のホームページに詳しく掲載されていますので、ご覧ください。
http://www.geocities.jp/hokuman_hailaer/tentetsuki/china/bashi/info.htm
http://c5557.kiteki.jp/html/baseki11.htm
http://travel.railway.org.cn/wuyi/bashi/bashi.html
http://www.geocities.jp/hokuman_hailaer/tentetsuki/china/bashi/top.htm

カフェに続いて巨大模型店も開店!

友人が知らせてくれたのですが、会員に話したところ「知らないので場所などを書いてくれ」と言われたのでURLを記します。

http://www.volks.co.jp/jp/hs/hs_kyoto.html

この模型店は昔、室町今出川にあったそうですが私は知りませんでした。

それにしても開店する場所が問題、西大路駅の北方の西大路通り東側にあった悪名高かったサラ金の「日栄」本社ビルです。かつては債務者に「肝臓うれ!」「腎臓売れ!」と脅しの電話で警察沙汰になった会社です。悪は栄えず、過払い利息の返還請求に耐えられずつぶれてしまいました。あのビルは巨大なものですからここで模型店とは大丈夫かいな?と心配してしまいます。まあ、時々は覗きに行ってみようとは思いますけど。

祇園にジオラマカフェ『デコイチ』オープン

厳寒の大地への旅を終えて、ようやく帰国しました。今日朝、朝日新聞を見ていましたら、祇園にジオラマカフェ『デコイチ』オープンの記事が載っていました。京都に、しかも家賃の高い祇園に出きるとは、ちょっとびっくりしました。模型班の皆様、一度寄ってみませんか。場所は、見つけるのが難しそうな所です。四条通を八坂神社に向かって、花見小路を左に曲がって、約300m直進、祇をん神門荘がある角を右折して、東に入った7軒目、祇園フォレリール2Fです。鉄道好きで、模型を運転してくれるスタッフを募集中だそうで、趣味と実益を望まれる方は連絡してあげて下さい。責任者は、本山支配人です。記事内容は、下記のとおりです。
http://mytown.asahi.com/kyoto/news.php?k_id=27000170912100001

続々東海道あれこれ①

三島で宿(アルファ・ワン)を予約したのは2度目である。BHを利用するようになったのは1989年九州旅行の時からで、夕は居酒屋、朝はコンビニのスタイルが確立した。宿は駅前だから荷を置くや5軒先の居酒屋へ潜りこんだ。魚料理売り物の「庄屋」と称する店で、縞鯛の煮付け、おでん、胡瓜の糠付け、飯1杯、ビール大1本で2,500円で釣りがきた。ほろ酔いで宿に戻りしばらくニュースを見ていたら寝てしまった。深夜3時過ぎに目が覚めた。風呂に湯を入れ目覚まし代わりとする。ひげをそり、0415からテレビ観賞。自宅でも土曜日のこのスタイルは変わらない。

 こんなことで三島駅には7時前に登場である。霧が濃い。喫茶店が見当たらないので天麩羅そばを賞味する。伊豆箱根のホームには西武の中古車が客を待っている。「霧のため徐行運転をしておりますので全列車5分遅れています。」と、アナウンスしている。自動改札器は自社線キップとJRのキップを一緒に入れろとあるので2枚入れた。ピンポーン、通してくれない。きっと老人のジパングの方に問題があるのだろう。ホームの中古車は100系の後期車で、最近引退を始めたグループのものだ。1301140122013連だ。これに乗って一先ず大場まで行く事にした。

広小路を出たら霧は益々濃くなってきた。架線電柱の2本目が見えない。視界780mであろう。大場の手前、PSコンクリートの橋は霧に埋まって姿を現さない。この橋の架け替え工事の時、この場所にやって来た。ポン友・三好好三さんと三角トラス組の架線柱が話題となり、1994年東北旅行では仙石線矢本付近で見付け、かぶりつきから一発仕留めた。数年後、大場車庫へ向かう途中、この地で発見。車庫訪問後に撮りにきた。撤去された三角柱は転がっていた。関西では見られないもので、買収国電の線区で時折見られるものであった。

大場の駅付近は少し明るい。駅では8分遅れと言っている。霧が晴れるには後1時間かかるであろう。老人は川べりに住まいしているから分かる。昨日は雨、今日は霧、ついとらんなぁ。そうだ、830分過ぎに東京行きがあったぞ。それに乗ろう。そこで大場から三島に戻ることにした。9分おくれでやって来た300130023501編成に乗る。3001に乗って気付いた事がある。中間車3002の車内が変わっている。3扉車の扉間は明るい茶色の対向クロス22列の筈が、やけにブルーのシート地が目立つではないか。行ってみると扉間62列の転換クロスに取替えられていた。伊豆箱根JR西日本113系更新バージョンといったところである。

東京直通の湘南電車231系を待っていたら、彼方の伊豆急ホームには最新型7200系が到着。こちらの腰部分はカッテングシール張りの賑やかなものになっている。この系列の中間車は2扉車で、はじめから転換クロス車であった。座席指定にして別料金でも取るつもりだったのかもしれないが、今のところ特別扱いはしていない。元西武700系であった1000系は見られなかったから、もう引退したのであろう。当線の7時台は5列車の設定で、岳南も同様である。いつの間にかワンマン運転になっていた。

丹那トンネルを出ると快晴である。伊豆半島の東西でこれだけ気象が異なるのはどうしてであろうか。熱海では伊豆急2100系が乗り換え客を待っていたが、東急中古車の受け皿となり観光電車も引退する日は近いようである。昨春訪問が叶ったが、東急8000系の片側(海)が転換クロスに改造されており、

これには参ったなあ、と思った。これを見て伊豆急の3002号が誕生したのかもしれない。

 小田原を前にして箱根登山いや小田急の登山電車連絡専用の赤い電車と競争になったが、あっと言う間に抜き去った。箱根登山線は湯本~強羅間を4回に分けて東海道を歩いている。この話はまたの機会としよう。酒匂川を越え、恨畜生の富士フィルムの工場を後にすると“富士山”が目に入る。231系ボックスシートで東京に尻を向けている。小田原で乗客の大半の入れ替わりがあり、席の位置を変えておいた。富士は5合目辺りまで雪に覆われている。国府津を過ぎて一旦見えなくなる。二宮あたりで再び見えてくるが、今度は5合目から上で、真っ白である。神々しい思いがする。裾野を引き摺るよりきれいだ。富士を撮るなら富士見へ、富士岡へと撮り鉄のお立ち台があるようだが、老人のような乗り鉄は、あちこちに移動展望区間を設定している。このあたりで幕を引く事にしよう。(2009.12.09.記)

 

1954年3月北陸から長野、三重 その8


三岐鉄道キハ5+ハフ11 (国鉄)富田

最後の余力?を振り絞り、三岐鉄道が分岐する富田へ。この時点架線は既に張ってあったがまだ電化に到らず、蒸機とディーゼルカーだったのに、なぜか蒸機は撮っていない。この鉄道の開業は1931年7月23日と遅いが、初めから客貨分離で客車はなく、旅客用にキハ1~5の同形車5両を投入。江若鉄道キニ3と同図(同形車)だが、機関がウォーケシャ6SRL(江若はブダBA-6)。手荷物室があるのに記号はキハニではなくキハで、1931年6月日車本店製、両荷台は敗戦後の装着である。


キハ5 荷台と窓2段化で分からないが 江若鉄道キニ3と(機関以外)同形車だった

燃料が不自由になった戦時中は混合列車を運行せざるを得ず、私鉄、国鉄からボギー車、2軸車を購入。この時期の買い付けだからまさしく雑多の寄せ集めだが、珍しく半鋼製2軸車が4両あった。


ハフ11←鶴見臨港鉄道モハ51 

ハフ11、12は汽車会社1932年製鶴見臨港鉄道(鉄道線)の2軸電車モハ51、52。台車はブリル、片側車軸上にパンタがあったが、貨車用の単軸受に交換し、当然自連も装備。入線当時はハフ1、2を名乗っていた。


ハフ13 車体は戦時中の新製だが、屋根上のトルペードベンチレーターは旧車から取外した?

ハフ13は芸備鉄道買収車で、その前は日露戦争当時陸軍が多数のB6機関車と共に現地に持ち込んだ新橋工場1904年製木製客車だった。芸備ではハユフ1で三岐でも同番だったが、戦時中名古屋工機部で木製車体を新製。除去した旧車体はその後も三岐の社紋のまま富田に物置で残存していた。


ハフ15←神中鉄道キハ11 のち別府鉄道ハフ6に

ハフ14、15は旧神中鉄道のキハ10、11で、日車東京支店1930年製の、一見丈夫そうな2軸車。下降式窓は2段(下段上昇)に、乗務員扉も埋められ窓になっている。


ハフ16 のち別府鉄道ハフ7 

ハフ16はやはり旧神中鉄道のハ24で、汽車1926年製オープンデッキ車。なお当線電化後ハフ14~16の3両がキハ5、キハニ6とも、別府鉄道にやってきてハフ5~7、キハ2(二代目)、キハ3になったのが周知である。なお別府廃止後キハ3は佐久市に引取られ、本来の佐久鉄道キホハニ56に復元(100%厳密な復元とは言いかねるが)され静態展示。ハフ16も相模鉄道に無償で譲られ、保存されている。

このほか三岐には旧神中鉄道ホハ200も購入しホハフ201としており、車体を半鋼で新製したが、小生が訪ねた前年に日本軽金属(蒲原)に売却したので、結局見ず仕舞であった。

三岐鉄道は1955年電化するが、電気機関車は貨物のみ牽引。旅客はディーゼルカーが分担するという特異な運行を続け、1956年以降社型国電を導入。また貨物は当然関西本線への接続だが、旅客は1970年6月25日近鉄名古屋線の近鉄富田に変更し、数少ない国鉄富田接続のためにディーゼルカーを保有し続けた。その後気動車はキハ1~3を津軽鉄道キハ2406、2405、2404に売り飛ばし、2404はさらに上武鉄道キハ2400に転じている。謎の多いキハ7も北陸鉄道(能登線)に譲渡しキハ5162になったが、廃車後日本海の藻屑―漁礁として沈められた。

最終日のみ個別活動した3人は指定の列車に参集し京都へ。乗車券は草津で切れ、山科で下車すると草津-山科分を払わにゃならん。手元著しく不如意とあって、心ならずも山科では先頭客車からホームと反対側に下車?したら、機関士か助手かに見付かり、「おーい、2人逃げよるぞー」と大声が発せられたが、無事逃げおおせた。当時の駅はどこも開けっぴろげだったから、まことに「人に優し」かった。(この項終わり)