模型班、新春ミーティング

祇園のデゴイチ(*1)に有志4名が集まり、模型事始を実施しました。

 

私は「きたぐに」を現行色・旧色の2編成持参し、向日町付近で本務と回送が快速線と緩行線を並んで走る風景の再現などをして楽しみました。

 

*1 http://www.club-d51.com/

初撮りは、住吉詣で

新年のご祝詞を申し上げます。

さて、正月も3日になりますと、足は、自然と阪堺電車の住吉鳥居前へと向かいます。正月の臨時ダイヤで大増発された電車と、初詣客を絡めて撮るのです。去年と同じ撮り始めとなりました。

かつては乙訓老人が、住吉詣でを正月の日課にされていたことは有名な話です。今は、体力・気力の衰えから自重されているようですが、現地へ行けば、老人の気持ちはよく理解できます。

とにかく次から次と電車がやってきて、路面電車ファンでなくても、圧倒されます。初詣客もついつい写しています。

電車はどれも満員、普段は車ばかりに乗っている家族連れや若者も、初詣ばかりは、路面電車に乗り込みます。路面電車がこれほどまぶしく、頼もしく思えるのも、正月の阪堺電車ならではです。

定期的に一般運用に就く電車としては日本最古と言われるモ161形も大活躍。リバイバルカラー、雲形カラーなど、さまざまな塗色も楽しめる。

住吉交差点に立つと、四方から次つぎに電車が来る。豪快なクロッシング音を響かせて、昭和初期生まれの古豪が行き交う。今年は阪堺百周年の年でもある。

車内に注目のポスターが。今月15日から、阪堺は全線200円に値下げされる。現在は、大阪市内、堺市内のみ乗車が200円、両市をまたがると(大和川を越えると)290円だが、特に堺市内での乗客減が著しく、堺市の支援を受けて、値下げされることになった。昨年12月には、通勤定期も値下げされており、このデフレ化現象、乗客増につながるのか注目である。

新年あけましておめでとうございます。

新年明けましておめでとうございます。

昨日、今年の鉄はじめとして、成田臨を撮影してまいりました。

山陰は大雪とのことですが、ここ関東地方は穏やかな三が日です。

2011-1-2 9835M 成田線 安食~下総松崎

ご承知の方も多いと思いますが、首都圏各地より成田山新勝寺を目指し、多くの臨時列車が設定されます。私が毎年通っている自宅近くの成田線我孫子口は、普段E231系しか走っていませんが、この時期は、バラエティが豊富になります。とはいっても、以前のあったような、客車列車やJR東海からの乗り入れなどは無くなり、183系・189系・485系ばかりですが・・・

ここでは、まだまだ、国鉄色が元気に活躍しています。1月下旬まで楽しめます。

国鉄色といえば、正月三が日設定されているホリディ快速鎌倉が115系で運転されているので、今朝は、早起きして東川口まで出かけてきました。

2011-1-3  9524M  武蔵野線 東川口

 

昨年2月のダイヤ改正で、快速むさしのから115系が引退しましたので、もう武蔵野線を行く115系の姿が見られないかと思っていましたが、まだ健在でした。

このホリディ快速鎌倉は、以前は、大宮始発でしたが、この正月三が日設定分は、大宮ではなく南越谷始発でした。逆光ですが、従来走っていなかった区間で、撮影しました。

ゴールデンウィークや秋の三連休にも運転されていますが、今度のゴールデンウィークにも115系の姿を見たいものです。

新年のご挨拶


2011年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

写真は、山陽電鉄 須磨浦公園-塩屋間、1965年1月撮影です。

「びわ湖の銀嶺へ」/昭和22年12月26日の新聞広告

昭和4年12月、琵琶湖汽船の前身の太湖汽船と京阪電鉄が共同でマキノスキー場を開設し、昭和6年、浜大津から海津大崎まで夜行スキー船の運航を開始した。昭和9年、60形「びわこ号」を新製し、夜行スキー船に連絡する天満橋~浜大津間の直通電車を運転したことは余りにも有名である。戦時体制の強化により、世の中はスキーどころではなくなり、夜行スキー船の運航は中止されたが、戦後間もない昭和23年1月に早くも復活したことが判明した。

 大津市内にお住いで、京阪バスを中心に大津地区のバス路線の歴史、変遷を調査、研究されておられる知人の昨年12月26日付ブログに、表題の新聞広告が掲載されていた。昭和22年と言えば、戦後の混乱が未だ続き、板張り窓や座席半減車が走っていた時代であるが、4月1日のダイヤ改正で京阪本線の急行がスピードアップの上、15分間隔になる等、着々と復興しつつある時期でもあった。我が国の高度成長期の原動力となった「団塊の世代」(私も含む)の人達が誕生した時期でもあった。この時期に早くもスキー場の新聞広告が存在したということは、世の中が多少とも落着きを取り戻し、スキーを楽しむことが出来る人がそれなりに存在したということであろう。ご本人の承諾を得てここに紹介させていただいた。

「スキー予約券前売開始」の後は、宿泊券1泊55円朝夕食事付、梅田駅、天満橋駅、三條大橋駅及び現地で10日前発売。京阪バス四條大宮より浜大津まで特別運転スキー船連絡。
「スキー船就航」の後は、1月3日より3月7日まで毎土曜日及び2月10日夜12時浜大津出港後朝7時半到着。定期船奇数日午後1時浜大津発。
  スキー船連絡券(往復)三條より83円、大阪より111円、神戸より127円、浜大津より海津大崎まで38円、往復75円、小人半額
 江若スキー列車 毎日発片道55円、定期船にも通用
と書かれている。

広告主は京阪電鉄分離前のため「京阪神急行」である。阪急沿線の人は四条大宮まで来て浜大津まで特別運転の京阪バスで行き、スキー船に乗換えていたことが判る。江若鉄道もスキー列車を走らせており、乗車券は定期船にも通用となっているが、この時期は未だ京阪の系列ではないため、プール制であったと思われる。四条大宮~浜大津間のバスはディーゼルエンジン車であったのだろうか、江若のスキー列車はC11「ひら号」の引く客車であったのだろうか等想像するだけでも楽しくなる。
また、比良スキー場の場所は「八雲ガ原」ではないと思うが、何処にあったのかも気になるところである。
 ブログの名称は「京阪バス現在完了形」(http://contrapunctus.blog103.fc2.com/)で大津地区のバス路線の歴史を詳細に調査されておられるので、是非ご覧いただきたい。

【参考】JR東日本の数少ないスキー列車「ゲレンデ蔵王号」
583系6連で1月、2月の金曜日の夜、新宿から東北本線、仙山線経由で山形まで片道のみ運転されている。(今シーズンの運転状況は未確認)上りは回送で、仙台を朝出発し一旦東大宮に入るので「ヒガハス」等でも撮影可能である。

賀正・総会・淡路

クローバー会の皆さん、新年明けましておめでとうございます。京都は今のところ穏やかな日照りの中、老人宅の窓から見える新京阪線「キュウミ」ちゃんが満載の初詣の人を運んでいます。今年も仲良く「デ元青」を盛りたてて行きましょう。

春、4月23日(土)に第3回クローバー会総会を、京都駅前・京都タワーホテルで開催します。今夏は役員改選、会則改訂、その他重要案件提案があります。詳細は追ってお知らせしますが、とりあえずカレンダーの4/23にはO印をお願いします。宿泊希望者についてはホテルと相談することにしております。

淡路交通の紹介ですが、1960年11月4日訪問のまとめを当時ガリ版3粍方眼で作ったことを思い出し、すぐ出来ると思い「玉手箱」に潜り込んだのは良いとして、12/30までに見つけることが出来ずがっかりしていました。ところが大晦前に時の手帳が見つかりヤレヤレとなりました。これよりまとめ直しの上、紹介いたします。

以上、ごあいさつ、お知らせ、お詫びで年頭の辞といたします。

2010年 秋の中国一人旅 Part16 帰国

前回投稿してから随分と経ってしまいました。1年間動き回ったので全身点検に行きましたら、即日入庫を命じられ軟禁状態となりました。加えて、車庫内感染で約40度の高熱を発症し絶対安静です。今年は最後までいろいろと予期せぬ遭遇にあいます。とうとう開放は、年末となってしまいました。勿論こんな半月以上におよぶ入庫は初めての経験です。今日は朝から雪の降る1日でした。総本家青信号特派員のようにカメラを持って出かけたいところですが、自由の身となってもこれからの予定を考慮すると、年末年始だけでもおとなしくせざるを得なく残念です。

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36年前 大晦日の京急羽田空港駅


36年前の京急羽田空港駅/飛行機に乗るためには、ここから更にバスに乗り継がなければならなかった。

一昔前の写真を整理していたところ、昭和50年の大晦日に京急羽田空港駅を訪れていた。ちなみに特派員さんも一緒であった。勿論地上駅で現在の天空橋駅の海老取川を隔てた手前にあり、飛行機に乗るには羽田空港行の路線バス(狭隘区間を通過するためマイクロバス)に乗り継ぐ必要があった。蒲田~羽田空港間には路線バスが頻繁に運行されていたため、このルートを利用する人は極めて少なかった。

 
羽田空港駅に進入するデハ257他3連

 
停車中のデハ256他3連

 
デハ276/行先板に注目、現在は「京急蒲田」であるが、当時は「京浜蒲田」であった。

当日の行動を振返ると、京都駅朝1番の6時19分発「ひかり302号」で出発した。名古屋で「こだま204号」に乗換え三島で下車して、東洋レーヨン三島工場の片ボギーのDLと伊豆箱根鉄道の電車を撮影。9時9分発の三島始発東京行に乗り湯河原で下車して、ホームで直ぐ後から来る「みずほ」を撮影。その後、駅の外に出て熱海よりに戻り、上下線が広く空いているところの中央から撮影した。今頃こんなところで撮影していたら、間違いなく逮捕されるであろう。小田原で大雄山線の電車を撮影後、川崎で京浜東北線に乗換え、蒲田で下車。駅の大森寄りで撮影後、京浜蒲田駅まで歩き、羽田空港駅まで乗車した。その後、上野駅で夜行列車を撮影し、八甲田55号で盛岡に行った。
湯河原に行くのにわざわざ三島で下車したのは、東レの片ボギーDLを撮影するためであったと思われる。私にとっては、湯河原でのブルトレはついで撮影で、本命は157系「あまぎ」であった。京浜急行の羽田空港駅はデハ230形を撮影が目的であった。

 


東レ三島工場の片ボギーDL

 
伊豆箱根鉄道モハ62/元モハ31024の復旧車

 
伊豆箱根鉄道クハ76/元西武クハ1450、更にその前があり、元国鉄モハ41001の復旧車

 
特急みずほ

 
特急さくら

 
特急あまぎ


急行東海

 
クモユニ74併結の普通電車

 
EF6098の引く貨物列車

 
113系普通電車

 
京浜東北線103系

 
クモニ13007

 
EF574の引く八甲田52号

撮り納めは、雪の八瀬で

今年最後の日、京都は朝から雪が降り続き、数年ぶりの積雪となりました。
雪を見ると、居ても立ってもいられないのは、この歳になっても変わりません。はやる心を抑えながら、午後から叡山電鉄の八瀬比叡山口まで出かけました。約20センチ、しばらく経験したことがないような積雪です。
八瀬比叡山口駅では、四季を通じて狙ってきたシーンがあります。
ホームから電車の入構を見ると、カーブした大屋根の向こうに、四季の光景が額絵のように広がます。桜、新緑、紅葉と、四季のテーマをとらえることができたものの、雪だけは、何回行っても空振りに終わっていましたが、今日ようやく、それが叶いました。

大屋根の向こうは白銀の世界だった。こんな時は、原色のエンジ・クリームの車両が似合うが、今やラッシュ用で、車庫に休んでいた。

の一年、まぁ、よく出掛けて写しました。好き勝手に行けるのも、心身ともに健康であるからこそ、この環境に感謝しながら、来たる年の飛躍を誓うのでした。
皆さま、よき年をお迎えください。

鉄道ファン昭和41年6月号

淡路交通の記事が出ていると言うことで川畑君に見せてもらったことはすでに書いたが、同号にはさらに驚くべき記事が出ていたのだ!

目次を見ると隔世の感だ。総武線複々線化工事とか、大分交通国東線廃止とか、クモユニ82登場とか、走れ!C62などの記事の中に「実現近い神戸市の高架市電」という荒唐無稽な記事が出ていた。これだけでも驚きだが記事の出元を見てさらに驚いた。なんと「同志社大学鉄道同好会」とあるではないか!!

記事を読むと建設進む阪神高速神戸線と同じような高架線にして二両連結の市電を走らせよう、でも国鉄線をオーバークロスするのが難しい、などと言っている。なにやらこうしたいという希望記事かと思ったが、この構想に対して市民からは騒音が心配との投書があるとか、累積赤字が10年で返済されると交通局が言っていると書いてあるので本当にあった話であろう。41年度予算で2000万円がついたとあるので与太記事ではないらしい。こんな高架市電は実現していないからよかったが、もしできていたらあの震災で大被害が起きていただろうと推察できる。

ところでこの記事は誰が書いたのか、41年と言えば3年生だったので会長職を拝命していたときである。なのに全く記憶にない。神戸だから阪急会かサロン・ド・阪神が怪しい。村尾、津村、藤田、早川などの諸君が想像できるがわからない。川畑君の手帳に書いてあればわかるのだが・・・。当事者からの自供を待つ。

淡路鉄道→淡路交通

佐渡ヶ島には長岡鉄道が免許を有しており(両津-相川町、762mm、1926年5月1日免許)、1067mm線に我国最初のディーゼルカーを注文して舞い上がった長岡鉄道は、納品(1928年12月)もされていない1928年2月23日、「佐渡線起業目論見書記載事項中動力蒸気ヲ重油ニ変更」を申請し、4月9日認可。しかしこの線は結局着手に至らず失効した。

従って我国で旅客貨物営業の「島の鉄道」は、沖縄を別にすれば淡路島が唯一になる。淡路鉄道は1912年10月25日免許、開業は宇山-市村1922年11月26日、市村-賀集1923年11月22日、洲本-宇山1925年5月1日、賀集-福良1925年6月1日で、全線23.1km。勿論動力蒸気、軌間1067mmである。

機関車はコッペルC、13tが3両、鉄道省1047(ポーターC、18t、形式1045←長州鉄道)、客車は播州、揖斐鉄道のお古で2軸車ばかり。元をただせば南海やら山陽やら。孤立した鉄道だから、連結器が螺旋連環のままで自連換装も必要なかった。明治村の蒸気動車(現在JR東海が自前博物館展示のため引き揚げて整備中)が装着していた螺旋連環連結器は、展示復元に当って名古屋鉄道が淡路交通から貰い受けたものである。

ガソリンカーは1931年以降。川崎と日車のボギー車が計6両いた。敗戦後燃料入手難と高騰に困窮し、600V電化したのが1948年2月11日である。ガソリンカーの機関に換えモーターを装着し、プロペラ軸で駆動したのが知られている。他に南海から古色蒼然たる電車の供出提供を受けており、米手作市氏紹介の丸妻5枚窓電車がこれである。

お後は乙訓の爺様の受け持ちじゃろ。ハイさいなら。よいお年を。

知らなかった”淡路交通”

関さんのシリーズもかなりマニアックになってきて、浅学非才の私にはついて行けなくなりました。

お恥ずかしい限りですが、そもそも淡路島に電車が走っていたことを知ったのは大学を卒業してからはるか後のことでした。

京都へ淡路交通という観光バスが走っていたのをよく見かけましたが、あれが私鉄のバスだったとは気がつかなかったのです。

今回の記事はぜひとも「その筋」の方に詳しく説明をお願いしなければなりません。当該車両だけではなく、鉄道の生い立ちまで教えて下さい。

お願いします!地元“須磨の大人”、脳内の血管を複線電化したい“乙訓の長老”、永遠の電車小僧・藤本先生!

 

【レポート】関東地区の納めの会

暮れも押し詰まって来ました@ロギング太郎です。
 
昨日、関西から佐竹様ご夫妻が東京へ来られたので、有志で迎撃しました。
称して「今年、納めの会」です。
(宴会後の記念撮影)

 

自己紹介として、自分の「鉄との馴れ初め」を語らいあいました。
なお右から3人目は一見、F氏風の頭部(!)ですが同窓ではなく鉄道研究者の
方です。例によって肖像権の尊重を図っておりますが、小生宛に個人メール
を頂ければ厳重包装のうえ密送します。 (^^;)

来年も新年会(1月中旬)をはじめとし、数回の「例会」を開催予定です。
もし東京へ来られる方が居らっしゃいましたら、事前にご連絡ください。
「臨時例会」として歓迎したいと思います。
もちろん「年末調整で仰山戻ったから、今夜は儂に任せろ」てな太っ腹
ご提案も大歓迎でございます。 \(^o^)/

上田丸子電鉄 クハ252・253他

(1)クハ252・253について
湯口先輩の「1958年 上田丸子電鉄その3」の「びわこスタイルのクハ252」の写真について【10896】本邦初公開と書かせていただいたが、クハ253の「正面3枚窓」の写真も初公開と思われる。「びわこスタイル」から「正面3枚窓」に改造されたのは相模鉄道時代で、併せて乗務員室扉の設置が行われている。ところがいつの間にか正面2枚窓に改造されているのである。京阪の704が事故復旧時に正面3枚窓から2枚窓への改造されたことは有名であるが、あまり例がない。クハ253の2枚窓改造の理由は、クハ252とスタイルを合わせるためだけであったのだろうか。また、書物
(ネットを含む)の中にはクハ253が「びわこスタイル」から直接「正面2枚窓」に改造されたように書かれているものがあり注意が必要である。
クハ252は、昭和61年10月1日の1500V昇圧時に、クハ253は昭和50年3月に廃車された。

 


「びわこスタイル」から「正面2枚窓」改造後のクハ252。(上/45-3-16 下/60-8-8)

 


「びわこ」→「正面3枚窓」から「2枚窓」に改造後のクハ253。非運転台側は3枚窓のままである。(42-3-23)

(2)再びサハ28について
湯口先輩のコメントの通り、今月発売「鉄道ファン2月号/江ノ電全通100周年によせて・1950年代のポール時代をふりかえる(1)」に201、202の鮮明な写真が掲載されている。201は両端に2枚折戸、扉間に2枚ずつセットになった12枚の窓があるが、折戸の前に縦長の窓が無い。202は2枚折戸の前に超狭い縦長の窓が設置されており、扉間には201と同じく、扉間に2枚ずつセットになった12枚の窓がある。ここまでの情報では、湯口先輩も仰せの通り、202の方がサハ28に近い。
一方、201の廃車は昭和31年で、翌32年に撮影されたダルマの写真が掲載されている。202は昭和29年に旧王子電軌174号の3000形への車体更新で不用になった旧車体を購入して振り替えている。サハ28の製造年は昭和33年であり、4年前に廃棄された202の車体よりも、2年前に廃車になった201の車体を流用した可能性が高いと考えるのが自然である。201、202共に「鉄道ファン」の写真でもお判りの通り、扉位置、窓回り等を中心に大幅に手が加えられているが、応急改造感は免れない。また、果たしてダルマになった車体を売買するか?という疑問もあるが、これはあり得ない話ではない。もし昭和29年に廃車になった202の車体が、どこか(例えば東急車両)で比較的良好な状態で残っていたとするならば、こちらの可能性も充分にあり、両端の細い窓と共に非常に気になるところである。
どちらの車体を利用したかは別にして、骨組みだけを残して大幅に手を加え、扉をやや中央寄りに移設、扉間に8枚の窓を設置した。扉と車端の間に窓を1枚設置した結果、僅かに空間ができたので細窓を設置したという可能性は「無きにしも非ず」であるが、この程度の空間にわざわざ幅の狭い窓を設置するだろうか。真相解明は、当時担当された方の記憶に頼る以外には無いと思われる。
私自身はネコパブ社「RM LIBRARY74/上田丸子電鉄(下)」の記述から「201の車体→サハ28」と思っていたが、再考の余地がありそうである。

 (3)【10928】「1958年上田丸子電鉄その4」で紹介された車両について
上から順番に解説する。
①モハ3332
モハ3331、3332の2両在籍した。大正13年日本車輌製で丸子線の前身、丸子鉄道が大屋~丸子町間の電化の際に新製したデ100形101、102が前身である。山梨交通から購入したモハ2340形2341、2342の稼働に伴い、昭和40年5月に廃車された。
②③モハ3552
モハ3551、3552の2両在籍した。大正14年日本車輌製で大屋~上田東間の延長開業時に新製したデ200形201、202が前身である。昭和44年4月19日廃止時まで在籍した。
④モハ4251 ⑤⑦モハ4254
モハ4251~4254の4両在籍した。昭和2年川崎造船所製で真田傍陽線開業時に新製したデナ100形101~104が前身である。湯口先輩が撮影された時点は車体更新前で、荷物扉の戸袋窓が楕円形、窓は下降式であった。昭和36年~38年にかけて車体更新が実施され、楕円形窓は通常の形に、客室窓は2段上昇式となった。⑤の4254の行先板付の写真は非常に珍しい。昭和47年2月20日廃止まで主力として活躍した。

 
車体更新後のモハ4252 (42-3-23)上田
⑥モハ5251
モハ5251~5253の3両が在籍した。昭和3年日本車輌製で、デナ201~203が前身である。「丸窓電車」の愛称で新製時から昭和61年9月30日の1500V昇圧前日まで一貫して別所線で使用された。昇圧後は、5251と5252は別所温泉駅の留置線、5253は長野計器㈱丸子工場に静態保存されている。5251は近々整理される予定で引取り手がなければ解体される予定である。

 
湯口先輩が撮影された27年後の昭和60年8月8日の姿であるが、スタイルの変化は殆ど見られない。
⑧モハ5262 ⑨モハ5263
大糸線松本~信濃大町間の前身、元信濃鉄道の買収車で、共に大正15年日本車輌製であるが、経歴が異なる。
モハ5262は信濃鉄道デハ5として誕生、昭和12年6月1日鉄道省買収によりモハ20004、昭和28年6月1日の改番でモハ1102に、翌29年に電装解除してクハ5110となるが程なく廃車となり、同年11月に上田丸子電鉄に譲渡。再電装の上、別所線に投入されモハ5262に、昭和33年制御器変更(HL→カム軸式)による改番でモハ5362、昭和35年小田急クハ1650形の旧車体と乗替え鋼体化してモハ5371に改番、昭和61年10月1500Ⅴ昇圧により廃車となった。
モハ5263は安曇追分~北池田間を営業していた池田鉄道のデハ1として誕生、昭和11年営業不振による内燃化により信濃鉄道に売却して同社のデハ1(2代目)に(初代デハ1は昭和10年火災焼失により廃車)、鉄道省買収によりモハ20001に、昭和28年の改番でモハ1100に、昭和30年6月上田丸子電鉄に譲渡。別所線に投入されモハ5263に、昭和33年制御器変更(HL→カム軸式)による改番でモハ5363、昭和35年小田急クハ1650形の旧車体と乗替え鋼体化してモハ5372に改番、昭和61年10月1日1500Ⅴ昇圧により廃車となった。旧車体は長らく上田原電車区の倉庫として残っていた。

ここで改めて湯口先輩の写真を見ていただきたい。モハ5262が停車している場所は、上田駅の真田傍陽線側である。別所線と真田傍陽線はどちらも元上田温泉電軌の路線であるが、別所線は600Ⅴ(昭和28年9月750Ⅴに昇圧)真田傍陽線は1500Ⅴのため、モハ5262を真田傍陽線で使用することは不可能である。この場所に停車していた理由は不明であるが、何らかの理由で国鉄長野工場入場時かも知れない。
モハ5263は急行の行先板に注目していただきたい。当時国鉄の急行列車に接続して急行運転が行われていた時の写真である。

 
モハ5263の廃車体 (45-3-16)上田原 
⑩モハ5361
昭和4年日本車輌製で、東武野田線の前身総武鉄道モハ1003として誕生、63形割当による供出車として昭和22年に入線した。当初の車号はモハ1001であったが、後日モハ5361に改番、制御器変更(カム軸式→HL)による改番でモハ4261となった。真田傍陽線廃止後、弘南鉄道に売却され、モハ110に改番の上、大鰐線で使用された。

 
大鰐線で3両編成の先頭に立つモハ110/後2両は元富士身延鉄道の買収車(50-4-28)津軽大沢付近
⑪ED2111
丸子線の前身、丸子鉄道の貨物列車用として昭和12年坂元工業所という聞いたことが無いメーカーで新製された。台車をはじめ電装品は中古品と思われる。ご覧のようにスタイルは独特で他に同形車は見当たらない。北陸鉄道で紹介された「三山工業」は現在も盛業中であるが「坂元工業所」についての現況は不明である。丸子線廃止後解体された。
⑫101 ⑬102
丸子線で使用されていた元伊那電鉄買収車のモハ5261とクハ261の鋼体化種車として入線した元東急のクハ3222とクハ3224である。鋼体化後はモハ5271とクハ271となったが、丸子線廃止後解体された。
機会があれば、改めて昭和40年代の上田丸子電鉄各線の車両の紹介をしたいと思っている。

大連に行ってきました。

先週の金曜日から日曜日にかけて、会社の旅行で大連に行ってきました。

土曜日一日自由行動の時間がありましたので、午前中は、満鉄本社とアジア号。午後は、バス約一時間かけて旅順まで行き、「坂の上の雲」で話題の二百三高地や水師営などを見学した後、一日二往復しかない列車で、二時間弱かけて戻ってきました。

朝一番に、宿泊したフラマホテルから歩いて10分ほどの旧満鉄本社にある満鉄の資料館へ。事前に調べたところ、無休とのことでしたがカギがかかっており開いていません。棟続き隣に行っても、手で追っ払われる始末。そうこうしている内、駄目もとでガイドブックに書かれていたところに電話をしたところ、日本語のできる方が出て、やっとカギを開けてくれました。ひとり入場料として50元払って入場。中では、日本語がとても上手なガイドさんが付っきりで、満鉄の歴史をガイドしてくれました。

展示物がある部屋は、撮影禁止でしたが、総裁室は撮影可能でした。

そののち、金庫や会議室を見学。満鉄のグッズがあるみやげ物販売コーナーへ。

残念ながら、どれもなかなかのお値段で手が出せませんでした。一つだけ満鉄のマークが入った帽子掛けを3000円で購入しました。

旧満鉄本社を後にして、タクシー(8元)で勝利橋をわたり、パシナが保存されている鉄路錫炉安装工程公司へ。

アーチをくぐった先の扇形庫の中に、お目当てのパシナが居ます。ここもカギがかかっており、カギを開けて見学させてもらうのに50元かかります。カギを開けるだけで何の案内もなく、50元もとられます。きっと、ここの人たちのこずかいとなっているのでしょう。それにしても高いです。

雨の当たらない庫に入っていますが、撮影に不向きです。なんとか前面だけは、撮影できました。

運転台にも上れますが、やはり日本のSLと比べると一回りも二回りも大きい感じです。

感動のパシナの見学ののち、再びタクシー(8元)で、大連駅に出て、バス(7元)で旅順に・・・駅前で交渉して、戦跡めぐりのタクシーをチャーター約3時間で100元です。

最後は、中国で現存する最古駅舎といわれる旅順駅に車をつけてもらい、大連から来る快速 K7329次の到着を待ちます。定刻は、旅順着15:58ですが、少し遅れて到着しました。

到着後、機回しして、旅順発16:25 大連着18:14の普快6332次となります。編成は、前から6両硬臥+1両軟臥+6両硬座+1両行李車の14両編成です。長距離列車の間合い運用のようで、旅順~大連に関係ないようなサボがつけられていました。   旅順大連間の硬座は、4.5元で、硬臥や軟臥には、乗車できないようでした。車内では、地元民がトランプ賭博をやっており、さながらギャンブルカー状態でした。

定刻に、大連に到着。隣には、和諧と書かれたHX30680という電気機関車に牽引された快速 ウルムチ行が停車していました。

いつか、機会があったら乗ってみたいものです。

墓参りに行って来ました

 当掲示板に近頃、「高野山」の話題がたくさん見受けられます。米手作市さんが旧婚旅行に出かけたり、乙訓の老人が『関西の電車巡察』で巡ったり、はたまた青信号特派員さんによる「厠」の話などなど・・・。遅ればせじと「元祖高野山 」も墓参りに行って来ました。例年5月の中旬、寺の特別天然記念物・石楠花(シャクナゲ)が満開となる頃に出かけるのですが、本年は叶わず、延びに延びて、とうとう11月28日(日)になってしまいました。秋の高野山1day チケット最終日の3日前でした。買っておいた代金3,000円券を払い戻すと、何もせずに500円失うのが勿体なくて、重い腰を上げました。
 先週と違って、この日は曇り空、肌寒い日でした。阪急塚口を午前6時23分、快速急行にて出発。地下鉄を乗り継ぎ、難波発7時12分橋本行きに乗車。車両は6000系。車齢40年を越えた車両とか。いかにも重そうで、幅広の片開き扉だが、開閉は比較的にスムーズに見えました。橋本着8時2分。
  8時6分発に乗り替え、44分極楽橋着、ケーブルで54分高野山着。山上バスで今日は真っすぐに奥の院バス停へ。高野槇を500円で買い、裏参道を急ぐ。公園墓付近を左に折れ参道に入る。丁度芭蕉碑の前である。折りたたみ式手桶に水を汲み、そこから100mほどの墓に参る。参道右手、加賀前田家、伊勢藤堂家を通り過ぎて間もなく、参道の右手。小さな空き地と、美濃加納城主松平家墓所と書かれた、白い角柱標識に接して左が鶴家の墓。参道から3~4mの距離ですので、すぐに判ります。奥の院にお越しの節はどうぞお参りください。但し、『鶴』は『靍』と彫刻されています。苔がこびり付き少し見難いです。墓は明治36年(1903)の建立です。「日暮れに握手、日と英」と習い憶えた1902年の日英同盟の翌年になります。この頃神戸で羽振りの良かった曾祖父が建てたとか。南海高野線が全通80周年ですので、それより27年古いことになります。ご先祖様はどのような交通手段で登山されたのでしょうか。
 ご先祖には申し訳ないが、この日は菩提寺・金剛三昧院に立ち寄らずにまっすぐにバスで高野山駅へ戻ります。10時40分発ケーブルで山を下りました。ケーブルカーは確か3代目の車両。2代目にも乗ったと思うが記憶は不確か。ケーブルカーから見えた向かいの山は紅葉していました。山上は時季外れで樹木はすっかり葉が落ち、枯れ木になって風情無しでした。

 下は、先ほど山に登る時に撮影しておいた勾配標識ですが、最急と最緩の勾配標識を見落としました。南海電鉄のホームページによると、最急は562.8‰、斜度29度22分、最緩は273.9‰、同15度19分とか。同じ事を考える人もいるもので、乙訓の老人も8年ほど前に乗った時、順番に撮影したそうです。

 下は、2008年6月、新緑の頃、下りのケーブルカーです。緑豊かでした。これに反して今回は時季外れで、もの足りません。来年は、やはり石楠花が満開の頃に行くことにします。 

 極楽橋に着くと、11時26分発のこうや4号(11000系)が停車中。私は向こう側の快速急行に乗車です。まもなく下りこうや5号 (この日は30000系)が到着するので、その時には2編成が揃うことになります。

2編成が揃った2008年の時です。時刻は13時30分前後だと記憶します。向う側には乗車する2300系が見えました。

快速急行難波行きで10時49分に出発。途中紀伊細川で下り「天空1号」と交換。今日は土・休日ダイヤで運行です。今日の私の第2の目的は、天空の撮影です。

  上古沢で下りこうや5号と交換。11時21分紀伊清水で下車。天空を撮影すべく、紀の川鉄橋付近まで歩くことにしました。鉄橋のこちら側に大きなカーブがあり、内側が畑で障害物が無く、良い撮影地であり、かねてから一度出かけてみたいと思っていた場所です。約2km歩いて目的場所に到着しました。上り天空2号まで30分近くあります。
 乙訓の老人が、「らくさい便り」で『天空の名前の由来についてtsurukame さんの解説を待とう』とかありましたが、墓があるだけで高野山密教を知る訳ではありませんので、解説できませんが、南海電車のHPで「天空」に関して曰く、『弘法大師「空海」が開いた世界遺産・高野山は、標高約900mに位置し、周りを奥深い山々に囲まれたその街並みは、まさに天空都市の趣です。列車の愛称は、その高野山が醸し出す印象に由来します』とあるから、その辺りではないでしょうか。チベットや中国の3~4,000mの高地で、天と空が迫ったような場所や都市には、よく「天空」なる表現を使うようです。高野山はそれほどの髙地ではありませんが。なお余談ながら、「天空のシンフォニア」なるパチンコ台があるとか。
 間もなく「天空2号」が下ってきました。オープンデッキ設置とかで、橋本寄りのドアが開いています。外観上、少し違和感が残りました。左手方向に紀ノ川を渡って橋本駅へ、後方が紀伊清水駅。正面の山々は和泉山脈。

 撮影場所を、先ほどより300m程離れた紀ノ川鉄橋の袂に移動しました。列車間隔は30本近くに1本ですが、上下ともなれば、結構頻繁に列車に巡り会いました。高野下駅折り返しの上り2300系が通過。橋本駅に向かう

そして、上り「こうや6号」です。12月からは、橋本発となり、冬季の山登り・下りはお休みの列車です。

 最後に、お目当ての「下り天空3号」です。日曜午後ですが、乗車率は高いように見えました。人気の電車なのでしょうか。次回、墓参りは来年5月中旬に戻します。その時の撮影は、大変ですが中古沢の鉄橋にしようかと思います。

叡電デナ1

関三平さんのプロフィールがわかりました。

 お尋ねの関三平さんは、とっても有名な迷路図作家です。
 1940年大阪生まれ、70歳。京都工芸繊維大学意匠工芸学科卒。
 1977年に(零)日本迷路公団を創立され、「総裁」を名乗っておられます。

 若い頃から鉄道が好きで、仕事の合間に鉄道会社を訪ねては人脈を築き、資料を集めたり。もちろん趣味で。
 70歳になり迷路を書くのも「しんどくなった」らしく、「それじゃぁ、趣味の鉄道話しでも」と、9月からスタート。とりあえず50回を予定しているらしく、単行本出版も当然、視野に入れているそうです。
 絵は水彩画ですが、色にこだわりがあるらしく、原画を自分でパソコンに取り込み、いい色が出たものをカラーコピーして我が社に渡しているそうです。 

     日本迷路公団総裁「プレジデント・サンペ。

      プロフィール
     1940年大阪生まれ。京都工芸繊維大学意匠工芸学科卒。
     1977年(零)日本迷路公団を創立。
     以来、総裁プレジデント・サンペを名乗る。

     著書
     「迷図の国のケンとマリ」
     「コンピュータ世界のケンとマリ」
     「ケンとマリの迷図紀行」

 

台湾の旧車両

最古のディーゼルカーDR2700型も活躍中

最古のディーゼルカーDR2700型も活躍中

台東行199次普快
台東行199次普快

 いささか旧聞に属しますが、今年の6月に台湾に行きましたので賑やかし程度のものですがアップさせていただきます。関東のデカンショまつり号様とご一緒させていただきました。第一の目的は電化完成後は恐らく淘汰されるであろう旧型客車です。日本製とインド製があり、インド製はドア自動扉のセミクロス車で117系300番台風の車内レイアウトです。日本製はスハ44軽量客車にしたような形す。10系客車で回転クロスの3等車があればこんなんだっただろうというような形です。花蓮発の199次に鳳林から台東まで、台東からは354次で枋寮まで乗りました。旧型客車は大井川以外では久しく乗ってなかったので懐かしく感じました。でも路盤がよいのか乗り心地も悪くなく相当とばします。

 

 台東~枋寮の区間は大武付近が昨夏の台風で鉄橋が流され不通になっていた区間です。まだその災禍の痕が残っていましたが鉄橋が流れるくらいですから相当なものです。台湾は中央部の峻険な山から海まで短く、大雨洪水になると大変です。高雄からは台北までは座席夜行の客車急行で戻ります。グリーン車並みにリクライニングするのですが座席は座席です。寝台があればと思いました。

 

 台北に戻ってからは、釣り掛け式の特急電車に乗ります。イギリス製のEMU100型、イタリア製のEMU300型とも固定窓のリクライニングシートで特急にふさわしい設備です。EMU100型は製造後30年足らずですがもう1編成しかないとか。こちらはM車でも遮音が効いているのか車内はいたって静かですが、EMU300型は豪快な釣り掛け音が轟き釣り掛けファンにはたまりません。名鉄7300でもはたまた80系300番台でもない不思議な世界です。

 

 台湾の鉄道シーンは日本、英国、イタリア、韓国などさまざまな国で作られた車両が活躍し、車両だけでなく日本時代の古い駅舎もまだ大事に使われています。関空から台北までLCCも就航し、行きやすくなりました。また行ければ年明けにでも行こうと思っています。

 

 

夜の高雄駅 台北行きの夜行が停車中
夜の高雄駅 台北行きの夜行が停車中
EMU100型
EMU100型
EMU300型
EMU300型

 

 

 

 

 

1958年上田丸子電鉄 その4


上田丸子電鉄モハ3332

例により藤本哲男氏から、ピタリと勘所を押さえたコメントが頂戴でき、後期高齢者寸前(来年)の老人は痛く感激し、かつ長年の胸の痞えが消えて、心底嬉しく晩酌が「殊の外」すすんだことであった。藤本氏よ、有難う。

で、上田丸子の残りを片付けるが、全部「本物の」電車ばかり。この解説もして頂ければ、老人は望外の幸せでありまする。何卒良しなにお取り計らいあらんことを。


モハ3552


モハ4251

モハ4254

モハ5251

モハ5254

モハ5262

モハ5263 この2両は信濃鉄道の買収国電だ ぐらいはいくらなんでも小生でも分かる

モハ5361 これは東武←総武

ED2111 台車はブリル27E メーカーは坂元工業社?なるところとか

東急から搬入されたばかりの101 仮台車とはいえ旧ガソリンカーのものだから押し潰されそう

同じく102 こっちはブリルMCB摸造台車?

鉄道スケッチ

重い腰を起こして漸く青信号に投稿しようという気になりました。 先輩諸先生や同期のF氏のような奥深い記事、K氏のような外国の紀行は書けませんが、幼い頃に鉄道に憧れたそんなプロモートが出来たら、ええやないかと思うに至り、またやはりJ氏の尻叩きもあって、拙写を披露するところから始めることになりました。 ヨロシク!! 暫くは、鉄道の季節を追っていきます。1年くらいはクオータリー+臨時便を出して行き、その後、色々書いていこうと考えています。 なに、大した学術的なものは一切ありませんから、適当にあしらって頂いて結構と思います。 さて、もう季節は冬に突入ですが、ちょうど秋が終わったので秋からの風景。目的も無く、思いつきで感じた写真を投稿します。 本格的に秋が深まるころ、同期のJ氏に声を掛けました。小生は長らく関東に勤務していて、関西は浦島亀太郎状態であったので、何年ぶりかに加太に行きまへんかと。30年いやもっと経っています。どないなっているやろうかと訪れた写真です。 すでに加太は無人駅で野猿の天下。駅の横になっている柿を食べてホームを我が物に歩く様子に驚きました。あの築堤にも猿の姿が・・・。 この写真は、昔よく通った場所から少し高い禁断の場所から捕ったものです。

休みの日にふと、同期のM氏の大和川での阪堺電車の写真を思い出し俄かにどないなっているか見に行きたくなりました。その写真とは40年前のものですので、60前後の人は見たことがあるかもしれません。すでに高速道路の橋が架かっていて往年の風景はありませんでしたが、空が高く、秋やなあ!という天気に恵まれました。歩くのが面倒くさいので、橋のたもとで、空を撮ってみました。

住吉さんへ戻ってみました。ちょうど神輿が練り歩いていました。そんな日本の風景を境内からスナップしました。 メタボになって膝が弱っているのでタイコ橋からの撮影は怖かったですが、神輿の向うにちょうど電車がきました。そんなこととは関係なしに神輿は通過していきます。

秋は抜けるような青空が魅力です。仕事で帰ったときについでに寄りました。 1つめは、ひたちなか海浜鉄道。田んぼの中にある中根駅辺りの風景です。 何?国鉄色ではない?ま、あまり気にしない、きにしない。次の那珂湊には、「たま」ほどではなけど、駅員のねこがいます。そのおさむ君に餌をやって家路につきました。 北関東で天気が良いときは、赤城山がよく見えます。上毛電鉄の赤城山は有名ですが、JRだって裏赤城?が見えます。 快晴の中を115系が走ってきました。 *赤城山と思いますが・・・。違えばばゴメンです。 せっかくここまで来たのですから、吾妻線に行かねばなりません。ちょうどダムの建設場所辺りが川原湯温泉です。車中のおばさんは、この温泉も客が減ったねえ、と言っていました。その近所、渓谷を見下ろす鉄橋に来ました。日本最短のトンネルのあるところにはあと2kmくらいのところです。おりしも湘南色の185系がくるので、写真を撮っていた観光客にお「どうせ撮るなら電車もどうですか}と一緒に撮りました。ちょうど一陣の風が吹いて山間で残り少ない紅葉を散らせて行きます。

関西は秋がもう少し長いようです。 またまた休みの日に。能勢電鉄を訪れました。1時間ほどで大阪に仕事で戻ってきましたが、4連でワンマンなのですね。びっくりです。光風台から坂を上って見ましたが、季節を感じさせるものはkの黄色い花くらいです。あとはポジションがあいません。まあ、これでも秋かな、と1枚撮りました。

さて、小生の自宅は、東海道線、トレインビューの場所に ありますが、実は関東勤務の時に無理して購入した自宅が佐倉にあります。写真は今年(ということにしたかったのですが)ではなく1年前ですが載せます。我が家は丘の上にあり、総武線と成田線の分岐近くにあります。そのためにバラエティーには富みませんが、やはりある意味でトレインビューです。佐倉は朝霧が多いのですが、ちょうど通勤時、霧が上がりかけた中を今はなき初代成田エキスプレスが成田からの客を運んで来ました。乗客はまだ寝ているかも。霧が明けたら晴天です。手持ちのエクスリムで来た瞬間をスナップしました。

こちらは東海道の秋。自宅は線路脇なので、いつでもふらりと出かけることができます。このときも天気が良かったので、JRと阪急を撮りにチャリンコで出ました。ススキがきれいです。

まもなく、ススキの季節が終わり白い冬になります。 冬も鉄道はいろんな表情を見せてくれます。 そんな、景色を拙写ではありますが、お届けしたいと思います。