turukame先輩の投稿「雪景色・花輪線」の素晴らしい列車寫真に混じってヒュッテの室内画像がありました。ヒュッテはダブルルーフのオハ31系客車4輛ほどを、台車代わりに積み上げた枕木のうえに線路横にならべたものです。やまぶき色車体に窓周り青色に塗ってあり、遠目には側線に列車が停まっているように見えます。一輛は食堂、他は宿舎としてスキーや八幡平の観光に供されていたのです。竜が森は1960年代に数回同好会合宿が行われています。
1967年正月休みを利用し、一年先輩のローズ山下氏とともに大阪から米坂線・八郎潟を撮影し竜が森へとたどり着いたのです。スパッツを着けカンジキを履いた雪装備で線路脇をとぼとぼと歩いていると、ドケーと大きな声が聞こえました。雑誌鉄道ファンの撮影地ガイドにも載った好適地なので正月の雪のなかにも先客があったのです。掃き溜めではなく、雪の中にturu一羽というところです。雪深い東北の片田舎でバッタリお会いするとは思いもしませんでした。ヒュッテに戻り、縄張りを荒らしたことを詫び、一献をかたむけ手打ちを期して記念に撮った写真です。網棚からはローズさん愛用の望遠付ザンザブロニカが吊され、卓上には通信員愛用のペンタックスSV・SPが見え、コニパンSS・サクラカラーが装填されています。「彼らは雪に消えていった」と腹立ちが44年後もまだおさまらないように愛想無く記述いただいていますが、竜が森を後にしたふたりはその後常磐線の平と四ツ倉の間で大型蒸機大好きのローズ氏とC62を撮影しました。ローズ氏は全国各地で蒸機を沢山撮り溜めされてるので発表いただきたいものです。
なお、投稿のなかに総天然色画像で到着した気動車(キハユニ26他)に乗り込むスキー客を撮ったものがありますが、そのとき通信員は先頭車を正面線路上から撮影していました。その一枚が2006年10月のクローバー会写真展「鉄路輝く・記憶に残る昭和の鉄道風景」に「全員乗せてくださいね」の題名で展示いただきました。マイカーや宅配便の無かった時代に、スキー場で過ごした人々がスキーを抱えて14:27発の列車に殺到しているところです。次の盛岡行きは16:51分で積み残されると大変です。日帰りの人は随分早い列車で来たのでしょう。
また写真展が開催されるそうですが、準備いただく方々はもとより力作をお持ちの方々よろしくお願いいたします。
雪景色(3)花輪線
筆者の好きな写真の一つです。バックの山が墨絵のようです。同志社大卒業間際までゼミの研究室に拘束され、やっと開放された日から4、5日間出掛け、帰宅した翌日が卒業式の慌しさでした。

初年兵の年末は体調不良で、撮影行は中止。2年目の正月休みに出掛けたのが、花輪線を始めとする東北の雪の中でした。竜ケ森のヒュッテに1泊して撮影しました。天気は良くて快調でした。
総本家青信号特派員さんはユースホテル愛好者でしたが、私はステーションホテル愛好者でした。これは湯口先輩から教わった方法で、駅のベンチに寝泊りする方法です。先輩が50数回の日本記録保持者、私は35,6回で第2位です。寝袋、炊事道具、食料(米、缶詰、リプトンのオニオンスープの素など)、燃料(ガソリン)、夏は蚊取り線香、冬はカイロ持参です。ガソリンは4Lほどポリタンクに入れ旅客列車で運んでいました。今では恐ろしくてできないことです。荷物が多くて、当時56kgの体に40kgのリュックでした。駅の台秤で計りました。
翌年も出掛け、花森線でのホテルは竜ケ森ヒュッテでした。自炊せずとも食堂があり、大助かりでした。
盛岡発の臨時『銀嶺』号です。シーズン中、竜ケ森まで1日一往復でした。前々日に山田線でラッセル車を押していた盛岡区所属の86が、客車3両を曳いて山を登って来ました。
上の写真を撮影後山を下り、次の貨物を待っていると、二人連れが竜ケ森から線路中央を歩いてきました。近づいてきた人はなんと、ローズ・Yさんと現在の大阪通信員さんではないですか。全く偶然の出会いでした。次の列車撮影までの時間に、ヒュッテの食堂で撮った記念写真です。50年前のこと故に、肖像権無視で公開します。この日一日で彼等は消えて行きました。残った私は再度ヒュッテに泊り、翌日も撮影でした。

スキーヤーは全て列車で来ます。付近の道路は空いていました。降車がすみ、乗車を始めたのが上の写真です。ところが時間がかかってしまい、ドアーが凍りつきました。ヤカンの湯で溶かしてやっと出発でした。

スキー場へは右手に進み、ヒュッテを通り過ぎ、山に向かいます。
翌日は、岩手松尾、大更方面に向け、山を下りながら撮影しました。
ユースで巡った鉄道旅 -6-
現在も横浜・山下公園に保存・係留されている氷川丸には、かつてユースホステルが併設されていました。氷川丸は、1930年に建造された12000トン級の大型客貨船で、永らくアメリカ航路で活躍、昭和35年に運航が終了したあとは、山下公園に係留され、内部はそのまま宿泊設備として転用されました。3等船室は、2段ベッド、相部屋で、改造もなしにそのままユースに転用が可能でした。
泊まったのは昭和42年8月、高校3年生でした。夜行鈍行で東上、まず国府津で御殿場線のD52を撮ったあと、横浜へ向かいました。関東方面に向かうのは中学校の修学旅行以来でした。
▲御殿場線のD52が国府津駅で発車を待っている。当時、御殿場線にはDCも走っていたが、客車列車は、貨物とともに、国府津区のD52が牽いていた。40年以上前とはいえ、東京から80キロ足らずのところに、こんな大型蒸機がいたこと自体、信じられないことだった。走行中は撮らず、もっぱら駅と機関区での撮影に終始した。右に当時愛用していたリュックが見える。
▲ユースで食事後、夜の山下公園へ出かけ、氷川丸を夜間撮影した。今も氷川丸は、全く同じ位置に停泊したままだ。船体の塗装は、当時スカイブルーだが、現在は、航行当時の黒に塗り替えられている。内部は新たにリニューアルされ、宿泊設備はなくなったようだ。
▲横浜駅の東口。三代目として昭和3年にできた駅舎で、建設当時は最大級の駅舎で、西口はまだ全く未開拓だった。昭和55年に現在の駅ビルになり、駅前は高速道路が高架で通り、大型デパートや高層ビルが林立する。以前の掲示板に米手作市さんが横浜駅の東口に触れられていたが、東口駅前は横浜の玄関口と言いながら、古びた工場・倉庫ばかりで、引込み線が延びるだけの荒涼とした光景が広がっていた。
▲その後、都内へ行き、都電に乗って須田町まで行き、交通博物館を見学した。あとは物見遊山で、皇居前や当時、日本で最初の高層ビル、完成直前の霞が関ビルを見物に行った。なにせ関西では高層ビルというものは全くなかった時代、さすが日本の首都だと感嘆したものだ。東京駅前で都電を写そうとするが、このように車に邪魔されてうまく写せなかった。ただ、却って車に時代を感じるかもしれない。よく見ると、八重洲側の大丸が入店していた駅ビルは建設中のようだ。それがもう取り壊されるぐらいに時代は過ぎてしまった。
和田岬線

兵庫駅に進入する和田岬線DEプッシュプル列車 朝の上り、夕方の上りはほぼ空車である

この時点まだ旧ヤードに機回り線その他も若干残るが その後完全に撤去され再開発で高層住宅が立ち並んでいる 和田岬線発着も半高架ホームに
和田岬線とは俗称で、正式には山陽本線の一部である。山陽鉄道時代からあって、かつては蒸気動車も運行していた。敗戦後はB50、その後鐘付で知られた8620が長らく働き、DD13を経てDE10が前後に付いたプッシュプルトレインに。そしてキハ35が取って代わり、さらに電化されて電車が。
地表の和田岬線ヤードから高架への接続ランプ線があり、かつてこの区間貨車押し上げ専用にD50が駐在していたのは以前に記した。高架の海側に35kgレールの線が1本あって5線になっており、兵庫-新長田間で列車線が電車線をくぐって山側になるのに並行し、鷹取に達する。すなわちこの35kgレールの線は、和田岬線-鷹取間のかつては貨物、その後は和田岬線電車を引き揚げる専用線なのである。勿論川車新製車の甲種輸送用にも使われる。
阪神淡路大震災の復旧時、この兵庫(高架上)-の線にも架線を張り、本線を1本ずつ復旧する助けとした。その後完全復旧後も架線は取り外されないまま。キハ35が老朽すると、何と和田岬線そのものも電化し、兵庫の和田岬線用ホームも半高架化し電車を投入。

兵庫を出るとぐるりと向きを変え和田岬に 阪神高速高架の向こうは川崎車両


プッシュプル列車和田岬に到着 この時点では折り返し列車の乗り込む通勤客も若干ある
乗客は100%定期客で、それも大方が三菱造船所の職員である。終点はかつて道路を横断して直接三菱に入っていたいたのも短縮し、道路の手前でカット。現在では完全無人駅になり、乗車券自販機もなく、定期客以外は和田岬から無札乗車せざるを得ないが、兵庫に「関所」があって、清算するようになっている。
いくら歴史があっても、肝心の三菱の通勤客が減り続けて、この線が黒字とは到底思えないが、先述のように山陽本線の一部なので、ここだけの収支や採算等は公表されていない。小生などは(電化前)三菱に線路をタダで呉れてやり、三菱に運行させりゃいいと思っていたが、国鉄―JRは何故か律儀に運行を継続。
三菱にしたら、職員の通勤手当が安くて済む=神戸市海岸線経由だと神戸か新長田からの定期券を上乗せせねばならないから、大助かりなのであった。逆に神戸市交通局は海岸線の開通で、当然和田岬線は廃止されると信じて三菱従業員輸送を見込んでおり、完全にアテが外れた。
それが今回和田岬線が急に廃止の方向に向かって進み出したのは、恐らく三菱神戸が大縮小ないし廃止されるからであろう。そんな事態が遠からず来ることは分かっているはずなのに、電化までして三菱に義理立てし続けたJRは理解を超える。廃止後は川車の甲種輸送もなくなるのか。随分少なくはなったが、鷹取で新製電車の一列を見るのは楽しいのだが。
なおこの写真撮影は1987年4月18日である。

片側のみ中央に引戸を設けた通勤専用客車オハ64車内 吊革はともかく窓の保護棒は超満員を想定しているが 三菱の職員が減り続け かつての超混雑を見ることはなかった
「23」の車号を持つ車両
1月2日【11147】でtsurukame先輩より山陽電鉄モハ2011で新年のご挨拶があった。平成23年も2月中旬となったが、平成の年号に因み「23」を名乗る車両を探してみた。
国鉄車両
電気機関車にED23があったが、廃車が昭和35年と早く、1形式1両で最終配置区が久里浜支区であった。私鉄の機関車では北陸鉄道にED231があり、昨年10月25日【10022】「昭和40年代の北陸鉄道金石線」で紹介しているのでご覧戴きたい。
電車ではクモル23、気動車ではキハ23、客車ではナハネフ23とオリエントエキスプレスが運行された時に控車として使用されたオニ23が挙げられるが、ナハネフ23を取上げた。
クモル23
昭和34年から38年までの間にクモハ11とクモニ13を改造して生れた配給車で、000~003、010、050、060の7両在籍した。種車、改造時期、工場によりスタイルは1両毎に異なっていた。その中で003、050、060の3両を紹介する。
クモル23003
昭和38年、元モハ34010を改造したクモニ13008を幡生工場で再改造した。(46-1-15 大阪駅)

クモル23050
昭和36年、鋼体化改造のクモニ13027を豊川分工場で再改造した。写真のように正面窓が大きく改造されている。(45-11-22 豊橋機関区)

クモル23060
昭和38年、鋼体化改造のクモニ13022を吹田工場で再改造した。鋼体化改造も吹田工場で行われており、ヘッダーが乗務員扉の上まで巻いているのが特徴である。(47-1-4 向日町運転所)
キハ23
昭和41年から44年にかけて作られた両運転台付の近郊型気動車で、113系に準じた座席が設置されていた。暖地向けの0番台が33両、寒冷地向けの500番台が21両新製され、暖地向けは主に中国地方で、寒冷地向けは主に陸羽東・西線で使用された。(48-1-28 上/キハ236他4連中島駅・下/キハ2329他2連中島~上八木)
ナハネフ23
「富士」と「はくつる」用として昭和39年~45年に1~20の20両が日本車両で新製された。その後昭和43年にナハフ21から4両改造されナハネフ23501~504となった。画像は「みずほ」に連結されていたナハネフ239である。(41-10-13 京都駅)
私鉄車両
ずばり「23」が付番されている車両を集めてみた。
京阪電鉄京津線 23
この車両に関しては説明不要であろう。この時期行先板が起終点表示になっていた。(40-3-18 浜大津)

江若鉄道 キハ23
元国鉄キハ072(昭和12年/川崎車輌製)で昭和38年に購入した。入線直後の状況は不明であるが、昭和39年から40年頃までエンジンがなくトレーラーで使用されていた。(上・中/40-11-14 浜大津 下/44-10-12 三井寺下)

越後交通栃尾線 ニフ23
元草軽電鉄のコワフ115(昭和17年/日本鉄道自動車製)を昭和35年12月に購入した。製造年はこの手の車両としては比較的新しく貴重な草軽電鉄の生残りであった。(41-9-7 長岡)

伊豆箱根鉄道大雄山線 クハ23
元国鉄の木製車クハ23を西武鉄道から譲受けたモハ237の車体を利用して昭和35年に鋼体化したものである。同様に元伊那電鉄買収車モハ45はモハ236の車体を利用して鋼体化し、モハ45+クハ23で揃った編成を組んだ。固定編成ではなく、編成をバラして他の車両と編成されていることもあった。西武鉄道モハ236、237は昭和3年川崎造船所製で、同形車は弘南鉄道、近江鉄道、大井川鉄道でも見られた。(45-11-22 大雄山)

静岡鉄道静岡線 モハ23+クハ23
昭和35年自社長沼工場で新製された。足回りこそ中古品であるが、自家製としてはよく出来ていると思う。(45-3-10 長沼)

静岡鉄道駿遠線 ハ23
静岡鉄道にはもう1両「23」を名乗る車両が駿遠線に在籍した。大正2年名古屋電車製作所で中勢鉄道ロハ8として新製、昭和17年に三重鉄道に売却されホハ18に、合併で三重交通となりサハ364となり、駿遠線には昭和26年に入線した。その後自社工場で鋼体化改造され写真のスタイルとなった。(41-3-9 新藤枝)

野上電鉄 モハ23
車体は元阪急1形の26で、昭和32年関西交通工業で改造の上入線している。屋根は丸屋根となり窓が大きくなった結果、スタイルが大きく変わってしまった。(50-8-24 日方)

大分交通耶馬渓線 ハニフ23
元九州鉄道の車両で明治23年小倉工場製と言われている。耶馬渓鉄道時代の昭和7年に入線し、昭和40年9月廃車になった。(39-8-18 中津)
「23」の車号を持つ車両をいくつか紹介したが、数字遊びの一つとして見ていただければ結構かと思う。一畑電鉄、琴電は前後の「22」「24」は撮影しているが「23」は撮影していない。もとより車号を意識したり、全車両撮影を目指していた訳ではなく、今日に至るまで適当に撮影しているだけのため、これは致し方ない。諸兄が撮影された「23」や「2011」にまつわる車両を是非発表いただければと思う。
京阪バスのトレーラーバス
【11106】「『びわ湖の銀嶺へ』/昭和22年12付き26日の新聞広告」で、湯口、沖中両大先輩よりトレーラーバスについての貴重な体験談をコメント戴いた。私自身は写真でしか見たことがなく、戦後の混乱期に大活躍した位の知識しかないが、約30年位前に名古屋大学鉄研OBのO.A氏と一緒に京阪バス本社を訪問した時に見せていただいた資料等で概略が判明したので報告する。本書込みに当ってもO.A氏より多大なご協力を戴き改めて御礼を申し上げる。
昭和26年10月30日時点で次の8組が在籍した。(前がヘッド、後がシャーシ)
(1)京滋営業所4組
①滋101+滋126(1947年式定員/81名)→昭和27年3月登録替/滋2-1011+滋2-1012
②京1080+京1081(1947年式定員/82名)→昭和27年3月登録替/京2-20454+京2-20455
③大2301+大2311(1947年式定員/85名)→昭和27年3月登録替/大2-4521+大2-4522
④京1078+京1079(1948年式定員/58名)→昭和27年3月登録替/京2-20452+京2-20453
(2)大阪営業所3組
①大2302+大2312(1947年式定員/70名)→昭和27年3月登録替/大2-4523+大2-4524
②京1132+京1133(1949年式定員/63名)→昭和26年11月登録替/大2-4525+大2-4526
③京1134+京1135(1949年式定員/63名)→昭和26年11月登録替/大2-4527+大2-4528
(3)観光課1組
京1127+京1128(1949年式定員/63名)→昭和27年3月登録替/京2-20456+京2-20457
京滋営業所の「大ナンバー」、大阪営業所の「京ナンバー」は転属車と推定される。京滋営業所は昭和27年1月組織改正で京都営業所と大津営業所に分かれるが、トレーラーバスは全車大津営業所の所属となった。京滋営業所の①と④以外は昭和27年に廃車や売却で姿を消してしまい、生き残った①と④は昭和31年6月まで使用され10月に廃車となった。昭和25年頃から通常のバスの車体が大型化すると、小回りが利かず走行可能な道路が限定され、かつ運転操作が難しいトレーラーバスは急速に姿を消してしまった。また、昭和25年4月14日に横須賀発三崎行の京浜急行のトレーラーバスが、乗客が投捨てたタバコのマッチが別の乗客が持ち込んだガソリンに引火して火災爆発事故を発生させ、運転士が気付くのが遅れたため多数の死傷者が出たことも廃車を早めた原因の一つとなった。ちなみにこの事故により「道路運送」と「旅客運送」の関連法案が改正され「危険物車内持込厳禁」となった。
ボンネットバス
我々の世代ではトレーラーバスの撮影は無理であるが、ギリギリ間に合った「ボンネットバス」の画像をアップしたのでご覧戴きたい。
枚方営業所
私市駅→八の坪・八の坪→大和田駅のルートで1日3往復運行されていた。八の坪は奈良市に隣接した田原地区の地名である。ワンマン化の時に京阪交野→下田原→山口川→中番→滝寺→逢坂→大和田駅と田原地区を一巡する直通運行に変更された。昭和53年6月から55年3月まで、職場が大和田駅~巣本~門真団地線の途中停留所にあり、気が向いた時に大和田駅18時40分発の京阪交野行きの最終バスに乗り、交野線経由で帰ったりしていた。清滝団地を過ぎると乗客は数人となり、山口川でほぼゼロ、田原地区を一巡後真っ暗な磐船街道を私市駅経由で京阪交野まで走行した。

満員で大和田駅に到着、折り返しの八の坪行もほぼ満員で発車した。
大阪22あ1500/40年式BXD30、登録番号が新しい(昭和49年9月登録)のは、大津営業所からの転属車のためで、元は「滋2い875」であった。(50-5-5)
京都営業所
朝夕のみ運行の山科駅~寺内町間で使用されていた。

京2い1394/38年式BXD30、車体は帝国自動車工業製 (49-12-19)

京2い1396/40年式BXD30、車体は川崎航空機製 (49-12-19)

事業用となり白ナンバーになった「京22や6」/38年式BXD30、車体は川崎航空機製(50-3-30/三条京阪)
大津営業所
長等公園~浜大津~国鉄大津駅~朝日ケ丘住宅間と石山駅~大石小学校前~曽束間で使用されていた。

滋2い886/40年式BXD30、車体は川崎航空機製 (上50-3-9 下50-3-2)

滋2い888/40年式BXD30、車体は帝国自動車工業製 (50-3-9)

滋2い887/40年式BXD30、車体は帝国自動車工業製 (50-4-20)
昭和51年旅客営業停止後事業用として京都営業所に転属「京22や180」となった。昭和53年3月「京都定観50周年」に際し、「おいでやす京都号」として定期観光用に復活して「京22か1981」に、イベント終了後再度事業用となり「京22や304」に、62年10月に枚方営業所に転属して「京22か4264」となり、京都競馬場開催日に職員詰所として使用。この時は京阪バスカラーに戻っていた。廃車後、愛知県のバス愛好家に引取られ、当初は京阪バスカラーのままであったが、現在は名古屋市バスの旧塗装になり、「ボン太号」の愛称で名古屋地区のイベントに参加し、元気に姿を見せている。10年位前小牧空港から地下鉄藤ヶ丘駅まで乗せてもらったが、車齢30年とは思えないほどよく走った。
ユースで巡った鉄道旅 -5-
前回は、旅館に併設されたユースを紹介しましたが、今回は寺院のユースです。広い寺院の部屋を利用したユースホステルは、全国にたくさんあり、私も各地で泊まった経験があります。ただ設備・食事ともイマイチのところが多く、いい目をした思い出は全く残っていません。
ここで採り上げたのは、長野・善光寺の中にあった塔頭の教授院というユースホステル。ここに泊まったのは高校2年のとき、最初で最後となるスキーに友人と飯山線戸狩へ行き、その後に一人で泊まったところ。だだっ広い部屋に、満足な暖房もなく、寒さに震えて眠ったことしか印象に残っていません。朝、出発しようとすると、濡れたままにした長靴が凍ってしまい、滑りそうになりながら、駅への坂道を急ぎました。
▲朝の長野駅で写した181系電車、長野発上野行「あさま」。昭和41年10月にデビューしてから1年余りしか経っていないから、モノクロ写真で見ても車体が輝いているのが分かる。ボンネットに太い帯を入れた181系を見たのは、これが初めてだった。151系に比べて、何か足りないと思ったら、低トンネル対応で運転台上部の前灯がなかったのだった。
▲長野駅舎は、まだ善光寺をイメージした寺院建築風だった。その後、1996年に長野新幹線に合わせて駅舎が新しくなった。このような地域色豊かな駅舎も今や少なくなってしまった。長野電鉄の駅もまだ地上だった。駅裏にも長野機関区、長野工場が広がっていたが、ここもすっかり撤去され昔日の面影はない。
▲長野駅で写したあとは、篠ノ井線姨捨へ向かった。その頃の「鉄道ファン」撮影地ガイドに紹介されたところで、陰影を利かせた記事のような写真を撮りたくてやって来た。篠ノ井線は寸前に旅客列車は無煙化されており、貨物のみが長野区の特徴あるスタイルのD51が牽いていた。姨捨のスイッチバックの駅構内、眼下に広がる善光寺平の光景、さすがは日本三大車窓のことはある雄大な風景だ。桑ノ原信号場へ向かっていると途中でトンネルがあり、高校生では一人で通り抜ける度胸もなく、急斜面を登って、トンネル上の道路を目指した。フーフー言いながら、下へ降りた途端に、D51の牽く貨物が迫ってきた。
▲スキーで訪れた飯山線、しかし、ここは蒸機に執心する高校生、まずは飯山機関区を訪れC56を撮影する。この日も、すごい雪、というか飯山線ではごく普通の降り方だろうが、駅はうず高い雪で埋まっていた。駅で写したのが、スキー臨時急行「信越銀嶺2号」C11211+旧型客車3両。この頃のスキー臨時列車には、地域名を冠した「○○銀嶺」の愛称が多かった。「信越銀嶺」は、上野を夜に出て早朝に豊野まで急行として運転、以降は普通となり、スキー場のある戸狩で終着となる。写真は、飯山駅に停車中の上り列車で、昼行列車で上野を目指す。飯山線は冬季にスキー列車で忙しく、機関車も他区から借り入れしてしのいでいる。この機も美濃太田区から借り入れられた。
佐竹さんの鉄道ではない講演会
山陽電車200型
湯口先輩、後出しですみません。山陽電車と聞けば、黙ってはおれず遅ればせながら投稿しました。
▼先ずは、件の山陽電鉄カラーの塗り分け200型、3扉車。塗装まだ新しい頃、須磨浦公園-塩屋間、1963.1.1撮影。後方の建屋は須磨浦公園駅、階上から鉢伏山上へのロープウェイが発着しています。


▲▼その1年前、100型、200型の暗黒ぶどう色塗装車、同号車、同区間。後方の国鉄山陽本線はまだ複線です。普段波静かな須磨浦に、冬季で白波が立っていました。1962.1.1撮影。
▼同じく200型、206+207、2扉車、同じ区間、1962.1.1撮影。

さてこの、200型ですが、ここに良い文書と図面がありますので紹介します。
それは職員であり、かつ鉄道ファンでも有名な亀井一男さんや佐々木さんによって記述されたと思える一文が、当時の山陽電車の社報に掲載されていました。少し長文です。無断転載ですが、出所を明示、50年前の文書に免じてお許し下さい。200型の功績と大型化への苦心が描かれています。
山陽電気鉄道株式会社・社報臨時号No.6(昭和36年9月)より、8・9頁を抜粋しました。本文および形式図は原文のままです。
200型車両の大型化改造
200型の生い立ち
昭和11年、まだ山陽電車という名よりも宇治電とか兵電とか当社の前身の呼名の方が、耳慣れていた頃、この200型は生まれました。当時は神戸姫時間の直通は全ていまの100型総数35両が単車で運転しており、神戸明石間には、通称バッテラと呼ばれた木造社31両が運転されていました。この木造車は明治43年から大正10年までの間に製造されたもので、そのうち7両の車体を新品と置き換え、台車や制御装置を大改造したのがこの200型です。続いて昭和13年に、同型で更に5両の更新が行われ、また昭和16年網干線の開通に対処して、新車として3両が完成し、いまの2扉200型15両が揃ったわけです。
そのころ流線型という言葉がはじめて普及し、空気抵抗など全く関係のなさそうな低速の市内電車まで、猫も杓子も前面を曲面にするのが流行となり、この車も御同様にそのまねがしてありますが、形として大変まとまっていて、流線型流行時代の電車の前面の傑作の一つに数えられています。
しかし、700型のような大型車や、2000型のような高性能車が、国鉄や大手各社同様にとばすことになろうとは、夢にも思わぬ当時のことですから、最大幅2m400にも足りぬせまい車体で、一方駅員無配置があたりまえだったので乗務員が集札に便利なように出入口は両端にだけあり、全く現代の混雑時には縁のない構造になっています。
現在の200型
戦時中の輸送に応ずるため、その後に引続いて新造された200型19両は片側3扉となり、2扉3扉あわせて現在の34両が終戦までに揃いました。ところが、最初の12両は軌道線の車体更新車で600V専用であったので、戦争中もあまり無理な使い方をしなかったせいか、あるいは製作当時の技術が戦前では最も円熟した時代のものであったためか、車体の状況は現在でももっとも良好であります。
きらわれる200型
残念ながら、現在の200型2扉車はきらわれ者です。毎朝のラッシュ時には、下りの閑散なところを走らされたり、ごく短距離のローカル運転や、予備者としてお茶をひいています。それは、扉が車の両端にだけあって、しかも車幅が狭く、お客様が中央まで入ってくださらないので、出入口付近がひどく混雑しながら中央部は空いていて、結局の収容力が最も少なく、乗降時間も長くかかるという不便さのためです。
それでは215号以降の車のように中央に扉を設けたら解決するのでしょうか。それには3扉の200型が愛される200型であるのかを考えてみればわかります。今年(筆者注:昭和36、1961年)の末には100型がすっかり姿を消して270型に生まれ変わりますし、来春には(同、昭和37、1962年)新車6両が登場しますと、客車総計122両中、小型車は200型34両だけになります。つまり大型3に対して小型1の割合です。ラッシュには大型車でも満員のダイヤへ、ときどき小型車がまぎれ込みますと扉の数が3つあっても、からだの小さい200型では乗れる限度がありますから、それだけ混雑もひどく、或いは積み残しも多いわけです。からだが小さい限り、扉の数を一つ増やしたくらいで安心はできません。
また小型車は3両連結にしたら大型車2両連結と同じくらいの輸送力になるのではないかと考えられます。200型を3両連結することができればそれほど簡単なことはありません。しかし残念ながらそれが大変なのです。かりに2両連結3列車を3両連結2列車にすると、たちまち別に1列車を新造せねばなりません。電車は大きくても小さくても、1両はまちがいなく1両ですから、保守費も税金も利子も電力料もみな両数に比例して増加します。それも我慢するとしましょう。法律によって3両以上連結するにはブレーキは自動制動でなければなりません。またすべて貫通式にしなければなりません。
ところが200型は小さくて自動ブレーキ装置が床下へ入りきりません。またその昔、併用軌道の路面から昇降する構造だったため、台車が中央に寄り過ぎていて、台車から車端までの長さがなみはずれて長く、貫通幌をつないでスムーズにカーブを通ることができません。となれば3両連結もそう容易なことではないわけです。
200型の再生
なんとしても200型は小さすぎます。中央に扉をつけてもすぐゆきづまりがくるでしょう。さりとて3両連結するには大改造が必要ですし、車両数も増やさねばなりません。270形式の車体を新造してのせかえるにはまだ惜しい気がします。そこで中央扉をつけ、3両以上連結できるよう改造する費用にもう少し足して、巾も大型車なみにひろげれば250型と同じ能力になるのではないかということになりました。これはなかなかむつかしい作業ですが不可能ではありません。いまその具体的な工作方法を車両部で研究しています。出来上がりの姿は、長さは15mで小型車並み、側面の形は3扉の200型に似たかたち、正面は270型そのまま、と考えていただければよいと思っています。そしてとりあえず、250型と同様に大型車2連として使用もできますし、必要に応じ3両編成でも運転できることになります。
第4時輸送力増強計画の車両関係工事の一部として、来春から夏にかけて6両の工事が完成する予定になっています。
▼下り明石行きの後部です。右の信号所の建物は使われていませんが現在も残っています。
1961.2.19撮影。

次回は、200型の改良300型について予定をしています。
老人も撮っていた山陽電気鉄道
米手作市氏はかなりのへそ曲がりで、かつ妙なところに気付く御仁なのであろう。老人にとってはどうでもいい、標準軌電車のテールライトの位置なんぞで、ナイーブで老い先短い老人を悩ますのであるから。お蔭で老人は、確か俺だって、山陽電気鉄道は何度か撮ったことがある筈と、皆無に等しい記憶のきれっぱしを必死に搾り出す羽目に。これで寿命が縮んだらどうしてくれる。確かにテールライトは上にあったが。
探すとあったあった。1952、1958年に撮っていることとは撮っていたのだが、およそ興味がなく、いままでほぼプリントとは無縁であった。で、先ずは200型とその一統の1958年の姿をご覧頂き、その後はエイ面倒くせェ、全部ぶちまけちまぇ、と、例により「これでもか」とアップしてご笑覧に供する。解説はどなたかにお願いしたい。老人はヘトヘトに疲れて、一刻も早く「水薬」(厚生省でなく財務省所管の)を飲みたいのであります。

224 須磨浦 1958.3.9

355と貨車ワフ603 姫路 1952.9.23

特急829 姫路 1952.9.23

11車体 西新町 1958.3.9

20車体 西新町 1958.3.9
357 西新町 1958.3.9

2004 西新町 1958.2.27

特急2006 須磨浦 1958.3.9

特急2007 一ノ谷 1958.3.9

特急822 須磨浦 1958.3.9

特急824 須磨浦 1958.3.9

特急827 須磨浦 1958.3.9

特急2701 須磨浦 1958.3.9 山陽本線はまだ複線で、国道にはバーハンドルオート3輪がのんびりと 道路に白線なんぞ引いてない
確か西代でもロクサンの残滓を撮った記憶があるのだが、今日は探す気力がない。また後日に(ナヌ?もう結構だと!それなら余計探し出してやるゾ) 老人はへそ曲がり=それなら米手作市氏と同じだが=なのであります。
須磨が電車を?
米手作市氏からのお名指しは身に余る光栄といいたいが、その実この老人に、事もあろうに電車―それも軽便ならイザ知らず、標準軌間電車の解説をせよとは、そりゃ余りといえばあんまりな、ミスキャストもいいとこじゃござんせんか。勘ぐれば、日ごろ歳を笠に着た大言壮語が目に余り、乙訓ご老人がおとなしくせざるを得ないこの時期に、一発かまして恥をかかそうという魂胆と見たが。いや歳をとると人間僻みっぽくなるものであります。
なるほど現在は、恐らく誰よりも山陽電気鉄道の近く住んではおるが、申し訳ないが日頃は目にする電車毎に、気の毒なぐらい乗客が少ないと気をもんでいるぐらい。明石以西はもう少しマシだろうが、少なくとも明石以東は、JRにほぼ完膚なきまでに打ちのめされているのである。JRの須磨海浜公園駅新設で、ある程度利用があった須磨水族園団体客や海水浴客までJRが分捕り、対抗上終日月見山に特急を停車させているが、到底歯が立たない。
閑話休題(=「それはさておき」と読む)、米手氏から頂戴した「お題」だが、正直よく知らない。まあ川崎車両特有というか、あんまり褒められんというべきかの流線形電車ではある。日車は「びわこ」号で独特の流線型を創出し、なぜか電車はそれっきりで、あとは気動車に移された。川車は江若キニ10でその亜流を造り、その後こんなスタイルの電車にしたんじゃないかと思うが、全くの見当外れかもしれない。少なくとも扉上から妻面にかけての、幕板と屋根との仕切りカーブは江若キニ10の流れであろう。
元来この電鉄の兵庫-須磨間は兵庫電気軌道として1910年3月15日開業し、1917年4月12日明石に達している。1927年1月1日宇治川電気に合併し、1933年6月6日山陽電気鉄道に譲渡。兵庫駅前の路上を発し、東尻池で神戸市電と平面交差、併用軌道と新設軌道を交えて須磨へ。一ノ谷付近でまた国道2号線上をゴロゴロと西へ向かい、また新設軌道、併用軌道で明石へ。
明石以西は神戸姫路電気鉄道として1923年8月19日明石-姫時間を一気に開業。その後宇治川電気合併→山陽電気鉄道という流れだが、こっちは地方鉄道で1500V。ところが明石以東は軌道で当然600V、路面乗降停留場も多く、車体幅も狭い。この200型は201~207が1936年、208~212は1938年製で、扉下に踏込と折り畳みステップがあり、路面からだと都合3段上らねばならない。まあこれは京阪京津線や福井電鉄、京王電鉄やら、類例はいくらでもある。明石で線路を接続し、西新町にデッドセクションを設けていた(そうな)。
話を敗戦後に飛ばすと、戦災による車両の著しい不足=非常事態とあって、何と標準軌間なのにモハ63が割り当てられ、20両を投入。明石以東の軌道区間も車両、建築定規を拡大し、老人も路面を行く63を見て正直肝を潰さんばかりだった記憶がある。一ノ谷前後の併用軌道区間も山側に移設され、今日の山陽電気鉄道になった、というお話。「お題」とは限りなく関係が薄そうだが。ついでながらこの区間が地方鉄道になったのは、実に1977年度なのである。
手元に恐らく谷川義春氏撮影と思われる写真があるので添付しておく。200型は1枚しかないので、31、32(1920年梅鉢製)は「おまけ」である。


これは舞子のあたり?かと思うが、電柱にご注目あれ。旧併用軌道で使った溝付レールを2本束にして使っているが、同様の電柱は現在でも塩屋の東方に見られるので、ご興味ある方はどうぞ。
山陽200型
飯山線1962.3.4

逆光の中214レと上越線734レ=越後川口 自分でも大好きな写真の一枚なんだが
やったら寒い日が続いたと思ったら、昨今は3月下旬並みの暖かさ。北陸の大雪も一段落したようだが、1月末9歳上の姉の葬儀で上京した際は、往路新幹線が名古屋で7分、新横浜で2分遅れていたが、東京には定時着。当然ながら関東圏では、北陸の大雪など、どこの話?全く関心がない。48年前のサンパチ豪雪の際と同じである。
諸兄の素晴らしい雪中写真がいくつか出て、そういやぁ、俺もサンパチや杉津、大桐以外、重澤旦那と飯山線に行ったことがあったなぁ。結構写真も撮ったなぁと、限りなく薄れ行く記憶を搾り出した。時は1962年3月4日、つまりサラリーマン初年兵の終わり近くであった。ルートも全く記憶がないのだが、撮影順序からは、急行「北陸」で長岡へ、上越線642レで越後川口へ、目的たる飯山線214レに乗車した、としか考えられない。

越後川口で214レに乗り込む 天気は「いまいち」
発車待ちの214レ

十日町で215レと離合

十日町で トンビや角巻なる和式防寒衣が健在だった
十日町での離合 214レは14分 215レは31分停車する

十日町発車前の214レ
その間入換も行われていた

一路鹿渡目指す214レ
なおその後の飯山線(に限らないが)はダイヤ改正毎に列車がキハ化され、C56牽引列車は減る一方である。この日は当初天気が「いまいち」だったが、幸いその後回復したのは、新島譲の加護か、天が「自ら助くる者を助けた」か。
東京から鹿児島までの旅
KAWANAKAです。
そろそろ我が関東の故郷になってしまいそうな佐倉点描でもと思っていましたが、YHや西村氏の投稿に刺激されて九州の写真を探しました。そこに吉都線など南九州があるはずなのですが、引越しを重ねるうちにどこにあるのかわからず、その代わりこんな写真を見つけました。アルバムに整理する途中だったようですが、編成の記録などはどこかに紛れ込んでわかりません。録音テープも行方知れず。
年代の人は、懐かんで見てもらえれば幸甚です。大きな1枚窓を開放し風を全体に浴びて旅の空気に浸り、見知らぬ人との出会いやハプニングを楽しむ。夜明けの寒さに目覚め、ホームの洗面で葉を磨く、こんな古き良き旅を思い出した訳です。
また、いささか汚い写真は多いのですが、何せ写真をスキャン/取り直ししての掲示なのでご容赦を。また、だらだら長いですが、それくらいの旅程と思えば容赦いただけるかなと思います。
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ダイヤ改正が間近に迫った金曜日、大阪から大垣経由で東京着、ここから長駆鹿児島を目指します。今まで乗った桜島高千穂(昔はこの名前ではなかったが・・・)とは違い、食堂車もないので、これからずっと4食駅弁にお世話になります。
東京駅12番ホームです。当時は一般的なゴハチの牽引です。入線した客車の先頭に立ち、いよいよ出発。
沿線ではカメラを向けている人がいます。車内放送を録音している人もいます。そんな中を東海道をジョイント音も高らかに一路西下します。
熱海を過ぎると興奮は一段落、変化の少ない東海道をひた走ります。
昼になったので東海軒の駅弁を買っています。小生はこの時期が東海道で駅弁の購入した最後位になりましょう。名古屋の中村屋の弁当の包みはいつも面白いですが、このときはそこまで腹持ちがせず途中での購入です。皆さんデッキから降りて買っています。
列車はいくつかすれ違いをしながら只管、走り続けます。岐阜を出ると次は大津です。
この間のいくつかのすれ違いが写真に残っています。
・上りの桜島と離合
・新幹線が追い抜く

・しらさぎと離合

大阪に着くのは夕方。
これから列車は趣を夜行列車に変えていきます。
「おおさか~、おおさか~。列車がよく停まるまでお待ちください・・・」デッキドアが手動であるので時間に競っている人は飛び降ります。今ではそんな危険なこと、となるでしょうが。
大阪駅では8分の停車。給水をします。
その間に弁当を仕入れたり、まあ色々あります。鉄道は出会いと別れがつき物。このころのよき風物でしょうか。お婆さんが車内の人に挨拶をしています。
・8分停車
・さようなら、お気をつけて
・スチームはよいか。いよいよ夜汽車に。冷えるので十分な暖房が必要。懐かしいSGの湯気。
昔は、このように過ごすのが普通でしたね。寝台車なんて高嶺の花。学生は普通列車でごろんと行くのが当たり前でしたなあ。
山陽を西に向かってひた走ります。途中停車駅で特急寝台に通過追越されていきます。
まだ、乗客が眠りの中にあるころ、本州と分かれていよいよ九州に。
長駆がんばってきたゴハチとお別れです。
九州に入った列車は小倉で分割、それぞれ別の鉄路を歩みます。熊本廻りの桜島を見送り、高千穂単独となります。列車の各としては、まあ、準急なんでしょうね。
列車は長旅の乗客を乗せて日豊路を南下します。
途中でほとんどの人が入れ替わります。もっとも東京から通しで乗ってくる人は誰もいませんが、さすがに単調な列車の旅は疲れます。
みどりと離合。単線なので格上列車に進路を譲ります。ヒマな乗客は気分転換、通過列車を見送ります。発車したってデッキから乗れますからまあ暢気なものですね。
・青井岳通過。こんどはこっちが格上です。
・長旅はさすがに疲れる。
いよいよ最終コース。桜島が見えると終着です。
車内はガラガラ、つり広告の「新しいひかり」の掲示が皮肉です。

・焼くムラがあって、どうもこのときは焼きをミスったみたいです。桜島が見えてきました。
1.5メガメートルの旅はこれで終わります。西鹿児島に着くと、旅情もなくあっという間に回送です。西鹿児島の写真は手元にないのでこれで終わりとします。
小生はこれから、鹿児島をふらついて、博多まで夜行で北上、つばめで帰阪することになりました。しんどかったが面白かった、また行こう、と言いたいのですが、もうあの列車は居ないのですね。九州ではこういう事態がまたすぐ起こります。しかし、こんな旅があってもええではないですか。
なお、この取材の前に高田氏も単独で走破されており、小生は京都から大阪まで併乗しました。弁当でも差し入れすればよかったかな(古い話ですが、高田さん、覚えておられたらごめんです)。南九州の記録は写真が見つかれば掲示するかなと思っています。
なお乗車は3月1日と記憶します。
雪景色(2)矢立峠・青森県側
下の2枚は、峠を越え、青森県側で大晦日に撮影した補機付きです。

1966年元日、矢立温泉、鉄橋を行く列車が見える寒い部屋で起床。朝食もそこそこに出かけました。雪は止んで少し青空が見えたが、すぐにまた雪空になって来ました。

国道を通り津軽湯ノ沢方面に向け峠を下ります。この日もダイアは雪で乱れていました。トンネルを出たところのカーブが今日の撮影の中心地です。
DF50曳く急行『第1津軽』が峠を下りました、補機は峠の登り列車にも付きません。『出世列車』と呼ばれた「津軽」、上下・第1、2の計4本があります。間違っても『出征列車』と呼ばないでください。後部から順に、マニ、オロネ、オロ、オハネ2両、その前はナハ10系ですか。補機が付かないのは相当軽量化された編成なのでしょうか。客車に詳しい会員諸氏へ、編成に間違いはないでしょうか。
普通列車も補機付で登って来ます。せっかくの補機をと意気込むが巻き上がる粉雪と蒸気が邪魔になります。

上り急行日本海が登ってきました。オユ、オロ61、スハネ30などが見えます。秋田で1両を、新潟からはさらに2両を増結、編成方向を逆にして大阪に向かいます。


雪国で、見て楽しいのは、天気のよい日の墨絵のような山々、雪によく映える蒸気機関車。逆に辛いのは寒さ。特に風には弱かった。粉雪や弱い吹雪程度なら大丈夫でも、強い風と吹雪には参ることが多かった。現代のように手軽で便利な使い捨てカイロなどがない時代で、「桐灰懐炉」なるものを携帯していました。ハッキン懐炉もまだない時代です。『フーフー』しながら灰の先に上手に火を付け、上下に針のついた細長い空間に収め、金属製で外側に繊維粉が糊着(フロッキー加工と呼ぶ)された金物の容器のふたを閉めて使う代物でした。肌に近づければとても熱いし、服の上からではなかなか温まらない代物、それでも寒さを少しばかり凌いだのでありました。 それに吹雪では、遠景の見通しが利かず、写真も良く撮れません。


峠を下り、140分遅れの客車で碇ヶ関に着きました。碇ヶ関の構内風景です。


矢立峠も二度訪れたのですが、翌年は吹雪が激しくて結局、陣場駅近くで撮影するのみでありました。
次回は花輪線です。偶然にも当会会員とばったり出くわすことがありました。ローズ・Yさんと現在の大阪通信員さんです。お楽しみに。
吉都線と霧島連山
連日 霧島連山の新燃岳の噴火が報じられています。学生時代の最後 昭和49年3月に九州を巡り 吉都線のC55, 山野線のC56などとの出会いがなつかしく思い出されます。当時のメモを紛失し、撮影場所や列車名が判りませんが、高崎新田、日向前田、高原あたりであったと思います。そのときは霧島連山としか認識がなく、どの頂きが何岳なのか判然としませんが、とにかく天候に恵まれて 山が美しかったのが印象的でした。現在は宮崎自動車道がこのあたりを走っているようで、多分景色は大きく変わっているのでしょう。
平成16年2月に広島から鹿児島まで 日本エアコミューター(JAC)で飛んだことがあります。36人乗りのプロペラ機で 低空を飛んでゆくため 地上の様子が手に取るように見えて 1時間の飛行中 地図と見比べながらずっと外を見ていました。鹿児島に着く手前で霧島連山の上を飛びます。それぞれの山頂が 上空から見るとまさに火口であることがよくわかり 感動しました。この写真も何岳かわからないのですが 新燃岳ではないようです。広島西飛行場も今は営業終了し、コミューター便もなくなってしまって寂しいかぎりです。
特派員さんの「ユースの旅シリーズ」に刺激されて投稿しました。
半世紀前の淡路交通(5)
乙訓の長老より3回に亘り淡路交通の車両について詳細かつ解かり易く解説いただいた。鋼体化改造のように大きく手を加えた場合、改造費は資本的支出とみなされ、現在簿価に加算された再評価価格で減価償却が行われることが判る。また、(4)の準特急様が書き込みされた、昭和40年度新入生歓迎旅行のコース、見学先等、企画された方のセンスの良さは、さすがDRFCであると思った。長老の解説を少しだけ補足させていただきたいと思う。
モハ二1003
、廃線時まで在籍し、半鋼製に改造されていたが南海のタマゴ型の原形をよく残していた。(40-6-6 宇山)
モハ609+モハ610
阪神から来たモハ609と610は淡路交通の付番方式ではモハ1012、1013となるべきところ、車体に609、610の切抜番号がしっかり貼り付けられていたので、それを活かしたとのことであった。長老が撮影されたパンタ側の写真は非常に珍しい。(40-6-6 賀集)
モニ500
長老の解説の通り元国鉄の配給車モヤ4004で、事業用車が譲渡された例は非常に珍しい。長老が撮影された時と比較すると台車が振替えられているが、モハ二1005が鋼体化された時に振替えられたものと思われる。(40-6-6 宇山)
モハ1010+モハ1011
昭和41年10月1日廃止後、当時輸送力増強を進めていた水間鉄道に譲渡され、同社のモハ362、363として再起した。使用期間は短く、昭和46年11月、南海電鉄が1500Ⅴ昇圧により不要となった1200形導入による車種統一で廃車となった。

上/淡路交通時代(40-6-6 宇山) 中/貝塚駅に進入するモハ362+モハ363、下/モハ363 (45-5-24)
鉄道廃止後はバス専業となり、昭和60年6月8日の大鳴門橋開通により淡路~徳島間、平成10年4月5日の明石海峡大橋開通により翌日の6日より淡路~大阪・神戸間の高速バスの運行を開始した。島内のローカルバスはマイカーの増加や過疎化により乗客の減少が続いているが、淡路~阪神間の高速バスは好調のようで株主配当を行っている。他社と比較すると車両の代替が早く6~10年で実施している。バスの寿命は通常15年前後であるが、6~8年目に再生工事(鉄道車両の更新修繕に相当)を行い、更に4~5年後に再々生工事が行われるが、淡路交通の場合は再生工事を行わずに廃車している。車齢が新しいため他社で再起することが多く、関東では東野交通、松本電鉄、ホテルグリーンプラザ上越の送迎車で見られた。(これらは偶然見たもので、探せば他にもあるかも知れない)
東野交通
平成6年に購入した「栃木22う733」と「栃木22う736」の2両が在籍した。2両共60年式P-LV314Mで、前車は宇都宮営業所西原車庫の所属で宇都宮~真岡間等で、後車は真岡営業所益子車庫所属で宇都宮~益子間等で使用されていた。宇都宮市内で初めて見た時「なんで淡路島のバスがここで走ってるんやろ」と不思議に思った。(H6-9-11 西原車庫)
松本電鉄
平成6年に老朽車の代替として60年式P-LV314M、平成9年に2年式U-LV324Mを購入し、松本地区で使用されていた。(H9-8-10 松本駅前)
グリーンプラザ上越
上越国際スキー場の中にあるリゾートホテルで、61年式P-LV314Mが1両在籍し、越後湯沢駅~ホテル間の送迎バスとして使用されていた。(H10-3-15 越後湯沢駅前)
ユースで巡った鉄道旅 -4-
もうひとつ、雪にまつわる一件を。
雪を求めてよく行ったのが只見線でした。利用したのが会津柳津駅近くの春江荘というユースホステル。会津柳津には温泉があり、円蔵寺の門前町でもあり、只見川に沿って温泉宿がいくつか建っています。ユースもそのひとつで、副業としてユースも営業していました。この形態は全国でよく見られ、旅館の一室をユースに流用しているだけに、場合によっては結構な設備です。このユースはいつ行っても宿泊客はほとんどなく、一人で広い和室を独占し、温泉にも入って、只見線の旅を満喫したものです。この春江荘ユースホステル、その後、湖畔荘という名に改名されたものの、今は廃業したのか、旅館のリストにも見当たりませんでした。
只見線は昭和46年の夏に行って以来、お気に入りの路線となり、47年からは、毎年雪を求めて只見線を訪れ、ユースにも連泊して、只見線の良さをしみじみ味わったものでした。ところが暖冬続きで、真冬の2月にも全く雪がなく、地肌が見えているという年もあり、只見線らしい大雪が見られたのは、昭和49年に行った時だけ、この時はもう社会人で、会社を終えた金曜日の晩に、新幹線、上野発夜行で只見線を目指しますが、途中の雪で大幅に遅れ、只見線に着いたのは、昼前になっていました。
▲只見線は、当時、貨物のみがC11牽引で残っていたが、なんと、その貨物はすべて運休だった。勢い、DC列車や駅でのスナップを撮るしかないが、逆にそれが、只見線の良さをしみじみ感じさせてくれた。40年足らず前の光景だが、福島県の山奥は、いかにも東北という、木村伊兵衛が撮るような光景が広がっていた。
▲駅長に見送られて、雪を載せたDC列車が会津柳津を出発する。後部はキハ23だが、当時、只見線の運行を担当する会津若松運転区には、キハ16、キハ18、キハ51、キハユニ18と言った希少な車種があり、気動車としても興味深い線区だった。
▲会津柳津駅は、二面三線の典型的な国鉄式の駅。気象板を掲出した光景も思い出のシーンになってしまった。現在、駅は交換設備も撤去されて棒線化され、無人駅になっているという。駅前にはC11244が静態保存されている。
▲2日間、只見線に居て、結局蒸機を写せたのは、この排雪列車だけだった。駅でラッセルが通ると聞き、会津宮下近くの鉄橋で待つ。突然、列車がやって来て、鉄橋から、豪快に雪が落として行った。その後、日中線へ向かったものの、その日、日中線は全列車運休(と言っても日中は走らない、朝夕の数往復のみだが)。駅で見たテレビは、東北地方11年ぶりの大雪と報じていた。帰る時、喜多方から上野行き急行に乗ろうとしたところ、部分運休を知らされ、会津若松まで初めてタクシーの代行輸送を経験し、這う這うの体で帰ってきた。
ユースで巡った鉄道旅 -3-
厳しい寒さが続いています。Tsurukameさんに習って寒さに関する一件を。
冬の北海道へも、学生時代、ユースを利用して何回か訪れたことがあります。ただ、冬と言っても、授業・試験はちゃんと済ませてからになりますから、すべて3月の訪問でした。1・2月と比べると、多少はマシになっていますが、内地から来た人間には、まだ寒さがこたえます。
昭和46年3月、本掲示板でも活動されている西村さんや、津田さんと一緒に渡道し、その日は北湯沢ユースホステルに泊まりました。北湯沢と言っても、ピンと来る人は少なくなったかも知れません。昭和61年に廃止になった胆振線にあった駅です。伊達紋別から乗車時間約50分、倶知安から約1時間40分程度の距離にあり、駅のすぐ近くに北湯沢ユースホステルがありました。胆振線が廃止されてからは、ほとんど顧られることもなくなりました。
内陸部にあって、とにかく寒かったことを覚えています。朝、ユースの寒暖計を見ると、-15℃を指していました。厳冬期に-30℃以下まで下がる北海道としては、屁のような気温でしょうが、私が実際に寒暖計で確認できた気温としては最低気温でした。
寒かったことだけは覚えていても、ユースの印象は全く残っていません。ネットで調べてみると、ごく最近まで営業を続けていたことが分かりましたが、今は休業となっていました。
▲ここでの目的は、倶知安区の二つ目玉の9600を撮ることだった。朝飯前にちょうど貨物列車がやって来るので、起床後すぐに、みんなで駅へ向かった。新雪も多く、遠方へ歩く気力もなく、駅近くで日和るしかなかった。寒気を震わせるようにして、二つ目玉を輝かせた9600が通り過ぎて行った。
▲北湯沢駅の外観。当時運転されていた急行の停車駅でもあり、交換設備もあって、ローカル線の駅としては、そこそこ賑わいのあった駅である。上記の9600貨物を撮ったあと、ユースへ戻って朝食をとり、キハ22単行で、C62重連を撮るべく倶知安へ向かった。
▲倶知安へ向かう途中、御園駅でのカット。乗った列車の前に、キハ22が増結されるシーンだ。当時、北海道のDCは、途中駅での増結・解結が頻繁に行われていた。極端な例になると、始発を単行で発車したのに、交換駅ごとに、1両ずつ増結し、終点に着いた時には、4~5両になっていることもあった。少ない気動車をやり繰りし、両運のキハ22ならではの運用だが、よく要員も確保できたとの思いが強い。しかも、交換列車から解結して、反対列車に増結するという離れ技で、そのため、増・解結に費やす停車時間のロスも多かった。



























































































