昨日(8・21)の朝日新聞の記事に京阪「びわこ号」
が「復活」する、という記事が載っていました。
一瞬保存車が走るのかと思ったのですがそれは
できないことのようで、HPをみると9月14日から
603+604が復活色で石山坂本線を走るようです。
「面影は楽しめる」かな。
昨日(8・21)の朝日新聞の記事に京阪「びわこ号」
が「復活」する、という記事が載っていました。
一瞬保存車が走るのかと思ったのですがそれは
できないことのようで、HPをみると9月14日から
603+604が復活色で石山坂本線を走るようです。
「面影は楽しめる」かな。
2015年8月18日 大阪モノレールで分岐器を楽しむ
愛称の「大阪モノレール」は、社名が大阪高速鉄道でしたが、ことし6月、社名も大阪モノレールに変更されたばかりです。高いところを走るだけに、駅から邪魔もなく撮ることができます。この日は、万博記念公園駅のホーム東端から、本線、彩都線の両線が分岐して、さらに高度を上げて高架を行く、未来感覚あふれるシーンを撮りに行きました。とくに興味深いのは、5基ある分岐器で、PC軌道桁自身が動いて、路線を切り替えます。モノレールで支線があるのは、大阪モノレールしかありませんから、この独特の光景が見られるのも、万博記念公園ならではです。
▲万博記念公園を発車して、彩都線を行く大阪モノレール、太いPC桁がゆっくり動いて、ポイントを切り替える。
▲本線の千里中央行きと、彩都線が交換する。この年、千里中央~南茨木が開業してから25年に当たり、右の1631には、記念のステッカーが貼られている。この1000系も開業時の車両は、3000系の増備で順次なくなると言う。
後ほどご本人から投稿があるかと思いますが、取りあえずマイナビニュースから第一報
新快速が50周年を迎えるにあたり、京都鉄道博物館で歴代の「新快速」車輌やマークなどを展示します。特に期間中、講演でクローバー会の福田静二さんがお話をされるのでぜひともご参加下さい。定員は40名だそうです。
以下、マイナビニュースから引用
京都鉄道博物館は18日、JR西日本の代表的な列車である新快速が今年、運行開始50周年を迎えることを記念し、新快速の歴史と魅力を紹介する展示・講演会・イベント「この秋は新快速で50! ~学んで、遊んで、しんかいそく!~」を9月19日から順次開催すると発表した。
新快速に関連した講演会は、第1弾として10月11日に、新快速(223系など)のデザインを手がけた鉄道車両デザイナーの南井健治氏による「新快速 – 車両デザインの50年」を開催(1日2回)。第2弾は11月1日、同志社大学鉄道同好会クローバー会の福田静二氏による「新快速が走り始めたころ113系、153系から117系へ」、鉄道ライターの伊原薫氏による「新快速が果たした役割と私の思い出」を開催(1日2回)する。講演会はいずれも各回先着40名とのこと。
その他にも、9月19~22日に新快速の車両前面をモチーフにしたハチマキ型サンバイザーのプレゼント(各日先着500枚)、9月19日から11月23日まで新快速の停車駅をテーマにしたオリジナルスタンプラリーが開催される。
1996年8月17日 山崎へ夏の臨時列車を撮りに行く
この時期は、盆の期間に運転される東海道本線の臨時列車を撮りに、毎年のように近くの長岡京、山崎へ写しに行きました。以前の本欄でも「山崎を走った夏の臨時列車」として紹介しましたが、この日は、カラーポジに絞り込んで撮影しました。今から見ると、実に多様な列車・車両が走っていたことが分かります。しかも、ネバって撮ったものではなく、撮影メモを見ると、朝の7時50分から1時間の間に撮影できた列車です。

▲今から20年余り前、別に盆の期間でもなくても、いつでも見られた列車。新快速は221系、緩行電車は201系の時代だった。今と同様に山崎付近で併走が見られた。201系に「海へ」のヘッドマークが掲げられているのも、この時代ならでは。▲▲快速は113系オンリー、デカ目のライトが、朝の空気を切り裂くようにして走り去る。
1996年8月16日 北大阪急行を新御堂筋の歩道橋から撮る
桃山台~千里中央に、新御堂筋、北大阪急行を跨ぐ歩道橋があります。ここから、千里ニュータウンをバックにして、北大阪急行、地下鉄御堂筋線の電車を撮ることができます。写真は、20年以上前のサラリーマン時代で、よく仕事で千里中央へ行くこともありましたが、この写真を撮ってからは、一度も北大阪急行沿線へは行っていない気がします。それどころか、最近は、大阪市内へも行くことがなくなり、今年になってから自分の行動範囲がどんどん狭まって来ていることを感じます。
▲北大阪急行は、“ポールスター”こと8000系7編成が走っていた。後継の9000系の増備で、今では、7編成のうち、3編成が残るのみ、この8005Fも2018年に廃車されている。古さを感じさせない、昭和の時代の製造で、洗練された車内外は、地下鉄用車両の中では、今でも最も豪華な造りだと思っている。
2004年8月15日 大井川鐵道で関西私鉄の競演を楽しむ
大井川鐡道は、1994年のクローバー会の40周年記念旅行で初めて行き、今回が2回目でした。この時は、乙訓の老人さん、準特急さん、逗子のTさんと一緒で、何度も行って沿線を熟知されている乙訓老人に連れられ、各所で下車して撮影しました。いまは、すっかり電車も世代交代しましたが、当時は、京阪、近鉄、南海からやって来たばかりの電車が、きれいな姿で走っていました。この日は、乙訓老人が行きつけの新金谷の駅前旅館に一泊、大宴会をした楽しい思い出も残っています。大井川鐡道は、先の豪雨で被害があり、家山~千頭が当分の間不通でバス連絡とされていますが、早く大井川の渓谷を行く蒸機、電車の姿を見たいものです。
▲最初に降り立ったのが抜里、茶畑に囲まれた静かな山里の駅で、好ましい雰囲気の中で、懐かしい電車と再会した。
続いて日豊本線にあった南延岡機関区です。大分~宮崎のほぼ中間にあり、運輸上の要衝でした。おもに配属されていたのはD51で、昭和43年当時は15両が在籍し、大分~宮崎の貨物列車を牽引していました。ほかに、当時はまだ走っていた細島線(日向市~細島)の貨物用、南延岡などの入換用に8620、日ノ影線(延岡~日ノ影)の貨物用にC12が配属されていました。当時から南延岡では、延岡の代表企業である旭化成からの貨物の発着がありました。現在でも、鉄道の現業部門は無くなりましたが、旭化成の専用線は残って、日豊本線のコンテナ貨物も南延岡を始終発としています(以下、特記以外昭和43年3月)。
▲立派なコンクリート製の扇形庫があった南延岡機関区。その前の側線で休む宮崎区のC5747 南延岡は、旅客列車の行き先として多く、当時は運輸上の要衝だった。ラウントハウスに名称を大きく標示しているのは全国的に見られた。
九州に戻って蒸機巡りを再開します。まず宮崎、大分以外で、日豊本線にあった、そのほかの機関区へ行きます。昭和42年10月まで、D50、D60の配置区として賑わいを見せていた柳ヶ浦機関区です。区は明治45年に設置され、煉瓦造りの矩形庫、給炭塔、給水塔がコンパクトに配置されていました。門司港~大分の中継地に当たり、給炭・給水、蒸機の付け替え、乗務員の交代などが行われていました。別府、大分方面、急勾配の立石峠を控え、柳ケ浦から後部補機が連結されました。区は昭和42年10月改正で日豊本線の新田原~幸崎の電化が完成、蒸機の運用を廃止。支区に格下げされたあと廃止されました(以下すべて昭和42年3月)。
▲煉瓦造りの矩形庫で休む、柳ヶ浦区のD50310 D50341 訪れた昭和42年3月当時、柳ヶ浦にはD50が12両、D60が2両在籍し、日豊本線の貨物、補機を担当していた。
2004年8月11日 琴電の旧型電車を初めて撮影に行く
高松琴平電鉄を走っている旧型電車も次第に数を減らしてきました。いま残っているのは、23、500、120、300の4両で、2021年5月に旧型電車の運転を終了する旨の告知が会社からありました。旧型電車を使った定期的なイベントも、この春からは中止されていましたが、今月30日には再開され。展示会、撮影会が行われるようです。私が初めて琴電を訪れたこの年には、冷房のない旧型電車は、窓を開け放して、ごく当たり前に定期列車の中で活躍をしていました。
▲讃岐の国には、七つの富士があると言われるほど、円錐形の山が多い。白山もその一つ、長尾線の車窓からよく見える。公文明~長尾を行く300+760
2007年8月12日 真夏の田園地帯で小田急ロマンスカーを満喫
最前部まで客室があり、展望のきく小田急ロマンスカーは、関西の人間にとっても憧れの列車でした。ただ、なかなか撮影の機会に恵まれません。この年、仕事でもお世話になった高名な鉄道ファンが亡くなられて葬儀に行くことになり、不謹慎ではありますが、その前に、小田原で途中下車して、葬儀までの2時間ほどを撮影に充てました。急なことで、撮影地も分からず、田園地帯が広がっていると言う情報だけを頼りに、「開成」で下車しました。全く日陰のない、カンカン照りの田圃のなかに2時間、喪服を着た暑さはハンパないものでした。
▲この時期の小田急ロマンスカーは、3000形、3100形はもう無く、7000形、10000形、20000形。30000形が主力で、2年前に50000形がデビューしたところだった。一眼デジを買ってから2年ほどの頃で、何枚撮っても値段は変わらないことを最大限に利用し、連写流し撮りに挑戦してみた。と言っても、歩留まりを良くするために、確実な1/125Sに設定、10000形HiSeを連写してみた。
1991年8月11日 小浜線へ海水浴列車を撮影に
盆に掛かろうとするこの時期は、そろそろ海水浴の臨時列車も終わりを迎えます。この日は、小浜線の臨時列車を写しに行っていました。京都から見れば、その径路は綾部、西舞鶴ルートしか考えられませんが、1990年に、JR西日本は行楽列車全般の改定に乗り出します。愛称を従来の「◎◎ビーチ」から「マリン◎◎」に変更、小浜線への径路も、大阪発の場合は、東海道・湖西・北陸線経由で敦賀から入る列車も新設、車種も、65系、181系DC、12系、14系客車など多様でした。ちょうど大阪湾の海水浴場が汚染が社会問題化した頃で、“水のきれいにな日本海へ”のキャッチで、若狭、但馬方面に向けて、毎年、需要に応じて変更・増発が続きました。
▲快速「マリンたかはま」、大阪発小浜行きの列車で、これは綾部、西舞鶴経由の列車だった。リゾート塗装の14系客車をDE10が牽いた。加斗~勢浜
2016年8月9日 表紙撮影で ようやく思い通りの「しまかぜ」撮影
この年は、出版社から委託された『近鉄電車』の企画・編集・撮影に、春ごろから打ち込んでいて、撮影のラストとして、表紙の企画を立てました。対象は、いちばん新しい特急車両「しまかぜ」50000系で決まりですが、撮影地、構図は考えあぐねていま
した。候補としては、本数の稼げる山田線が通過時刻の頃の光線状態もよく、車上から観察、また候補地に何回か下車してテスト撮影もして、表紙に適した、タテ位置、アウトカーブ、順光で撮れる撮影地として、漕代~斎宮の漕代3号踏切を選びました。
▲この本のシリーズの表紙は、今まで正方形にデザインされていたが、少し前から体裁が変わり、全面タチキリになった。写真上部には題字が入るので、空を大きく入れたい、順光であるのは、もちろんだが、アウトカーブのやや低い位置から、「しまかぜ」のボリューム感を出したいのが、その理由だった。あとは、天気だ。幸い、「しまかぜ」3列車は、当地を11時30分過ぎから15分おきに雁行するから、どれかは“当たり”になるだろう。結果2列車目が最も満足のいく結果となり、何とか表紙を飾ることができた。
1999年8月8日 敦賀港へC56のイベント列車を撮りに
敦賀港が開港して百年を迎えたこの年、「つるが・きらめき・みなと博21」が敦賀市内で開かれ、その一環のイベントとして、梅小路蒸気機関車館で動態保存中のC56160を使用した、イベント列車「SLきらめき号」が、8月8日、9日に敦賀~敦賀港2.7kmで各2往復が運転されました。敦賀港の歴史は古く、大阪・京都からのロシア航路連絡も目論んで、現在の北陸本線の最初の区間として明治15年に開業しました。当初は金ヶ崎の駅名で、賑わいを見せますが、現在の北陸本線のルートが開通すると、敦賀~敦賀港は貨物支線となりました。
▲敦賀を発車、北陸本線と分かれて、左へカーブする、C56160+12系客車の「SLきらめき号」
GoToトラベルで「行け!」「行くな!」と騒がしい昨今ですが、客足の途絶えた瀬戸内にも何とか観光客を呼び戻そうとJR西が画策しているようです。今まで呉線には「瀬戸内マリンビュー」号という観光列車が休日運転されていましたが、この度車両を再改造して、10月から「エトセトラ」として再デビューさせるそうです。まずは改造前の姿からご紹介します。