
昭和の電車・100回記念の企画でしょうが、阪和線は京都人には異国の鉄道。
一度鳳区へ行ったことがあるが目的はED16・ED60・EF52で、モヨなどの阪和電鉄の電車は撮っていません。まったく馬鹿なことをしました。同行のパンツ松村君が撮っていたかも知れませんが彼は鬼籍の人。今度会ったときに聞いてみましょう。
やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉘
続いて日豊本線にあった南延岡機関区です。大分~宮崎のほぼ中間にあり、運輸上の要衝でした。おもに配属されていたのはD51で、昭和43年当時は15両が在籍し、大分~宮崎の貨物列車を牽引していました。ほかに、当時はまだ走っていた細島線(日向市~細島)の貨物用、南延岡などの入換用に8620、日ノ影線(延岡~日ノ影)の貨物用にC12が配属されていました。当時から南延岡では、延岡の代表企業である旭化成からの貨物の発着がありました。現在でも、鉄道の現業部門は無くなりましたが、旭化成の専用線は残って、日豊本線のコンテナ貨物も南延岡を始終発としています(以下、特記以外昭和43年3月)。
▲立派なコンクリート製の扇形庫があった南延岡機関区。その前の側線で休む宮崎区のC5747 南延岡は、旅客列車の行き先として多く、当時は運輸上の要衝だった。ラウントハウスに名称を大きく標示しているのは全国的に見られた。
やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ㉗
九州に戻って蒸機巡りを再開します。まず宮崎、大分以外で、日豊本線にあった、そのほかの機関区へ行きます。昭和42年10月まで、D50、D60の配置区として賑わいを見せていた柳ヶ浦機関区です。区は明治45年に設置され、煉瓦造りの矩形庫、給炭塔、給水塔がコンパクトに配置されていました。門司港~大分の中継地に当たり、給炭・給水、蒸機の付け替え、乗務員の交代などが行われていました。別府、大分方面、急勾配の立石峠を控え、柳ケ浦から後部補機が連結されました。区は昭和42年10月改正で日豊本線の新田原~幸崎の電化が完成、蒸機の運用を廃止。支区に格下げされたあと廃止されました(以下すべて昭和42年3月)。
▲煉瓦造りの矩形庫で休む、柳ヶ浦区のD50310 D50341 訪れた昭和42年3月当時、柳ヶ浦にはD50が12両、D60が2両在籍し、日豊本線の貨物、補機を担当していた。
Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道⑪
2004年8月11日 琴電の旧型電車を初めて撮影に行く
高松琴平電鉄を走っている旧型電車も次第に数を減らしてきました。いま残っているのは、23、500、120、300の4両で、2021年5月に旧型電車の運転を終了する旨の告知が会社からありました。旧型電車を使った定期的なイベントも、この春からは中止されていましたが、今月30日には再開され。展示会、撮影会が行われるようです。私が初めて琴電を訪れたこの年には、冷房のない旧型電車は、窓を開け放して、ごく当たり前に定期列車の中で活躍をしていました。
▲讃岐の国には、七つの富士があると言われるほど、円錐形の山が多い。白山もその一つ、長尾線の車窓からよく見える。公文明~長尾を行く300+760
Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道⑩
2007年8月12日 真夏の田園地帯で小田急ロマンスカーを満喫
最前部まで客室があり、展望のきく小田急ロマンスカーは、関西の人間にとっても憧れの列車でした。ただ、なかなか撮影の機会に恵まれません。この年、仕事でもお世話になった高名な鉄道ファンが亡くなられて葬儀に行くことになり、不謹慎ではありますが、その前に、小田原で途中下車して、葬儀までの2時間ほどを撮影に充てました。急なことで、撮影地も分からず、田園地帯が広がっていると言う情報だけを頼りに、「開成」で下車しました。全く日陰のない、カンカン照りの田圃のなかに2時間、喪服を着た暑さはハンパないものでした。
▲この時期の小田急ロマンスカーは、3000形、3100形はもう無く、7000形、10000形、20000形。30000形が主力で、2年前に50000形がデビューしたところだった。一眼デジを買ってから2年ほどの頃で、何枚撮っても値段は変わらないことを最大限に利用し、連写流し撮りに挑戦してみた。と言っても、歩留まりを良くするために、確実な1/125Sに設定、10000形HiSeを連写してみた。
昭和の電車 改訂版(99)ー東急玉川線デハ200型ー
Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道⑨
1991年8月11日 小浜線へ海水浴列車を撮影に
盆に掛かろうとするこの時期は、そろそろ海水浴の臨時列車も終わりを迎えます。この日は、小浜線の臨時列車を写しに行っていました。京都から見れば、その径路は綾部、西舞鶴ルートしか考えられませんが、1990年に、JR西日本は行楽列車全般の改定に乗り出します。愛称を従来の「◎◎ビーチ」から「マリン◎◎」に変更、小浜線への径路も、大阪発の場合は、東海道・湖西・北陸線経由で敦賀から入る列車も新設、車種も、65系、181系DC、12系、14系客車など多様でした。ちょうど大阪湾の海水浴場が汚染が社会問題化した頃で、“水のきれいにな日本海へ”のキャッチで、若狭、但馬方面に向けて、毎年、需要に応じて変更・増発が続きました。
▲快速「マリンたかはま」、大阪発小浜行きの列車で、これは綾部、西舞鶴経由の列車だった。リゾート塗装の14系客車をDE10が牽いた。加斗~勢浜
Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道⑧
2016年8月9日 表紙撮影で ようやく思い通りの「しまかぜ」撮影
この年は、出版社から委託された『近鉄電車』の企画・編集・撮影に、春ごろから打ち込んでいて、撮影のラストとして、表紙の企画を立てました。対象は、いちばん新しい特急車両「しまかぜ」50000系で決まりですが、撮影地、構図は考えあぐねていま
した。候補としては、本数の稼げる山田線が通過時刻の頃の光線状態もよく、車上から観察、また候補地に何回か下車してテスト撮影もして、表紙に適した、タテ位置、アウトカーブ、順光で撮れる撮影地として、漕代~斎宮の漕代3号踏切を選びました。
▲この本のシリーズの表紙は、今まで正方形にデザインされていたが、少し前から体裁が変わり、全面タチキリになった。写真上部には題字が入るので、空を大きく入れたい、順光であるのは、もちろんだが、アウトカーブのやや低い位置から、「しまかぜ」のボリューム感を出したいのが、その理由だった。あとは、天気だ。幸い、「しまかぜ」3列車は、当地を11時30分過ぎから15分おきに雁行するから、どれかは“当たり”になるだろう。結果2列車目が最も満足のいく結果となり、何とか表紙を飾ることができた。
Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道⑦
Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道⑥
1999年8月8日 敦賀港へC56のイベント列車を撮りに
敦賀港が開港して百年を迎えたこの年、「つるが・きらめき・みなと博21」が敦賀市内で開かれ、その一環のイベントとして、梅小路蒸気機関車館で動態保存中のC56160を使用した、イベント列車「SLきらめき号」が、8月8日、9日に敦賀~敦賀港2.7kmで各2往復が運転されました。敦賀港の歴史は古く、大阪・京都からのロシア航路連絡も目論んで、現在の北陸本線の最初の区間として明治15年に開業しました。当初は金ヶ崎の駅名で、賑わいを見せますが、現在の北陸本線のルートが開通すると、敦賀~敦賀港は貨物支線となりました。
▲敦賀を発車、北陸本線と分かれて、左へカーブする、C56160+12系客車の「SLきらめき号」
昭和の電車 改訂版(98)ー大阪市電3001型ー
日本一の軽便展*駿遠線廃止50年*
「瀬戸内マリンビュー」と「エトセトラ」、「シースピカ」
GoToトラベルで「行け!」「行くな!」と騒がしい昨今ですが、客足の途絶えた瀬戸内にも何とか観光客を呼び戻そうとJR西が画策しているようです。今まで呉線には「瀬戸内マリンビュー」号という観光列車が休日運転されていましたが、この度車両を再改造して、10月から「エトセトラ」として再デビューさせるそうです。まずは改造前の姿からご紹介します。
Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道⑤
2013年8月7日 いちばん海に近い廃止駅、池の浦シーサイドへ
参宮線に夏の海水浴シーズン限定の臨時駅「池の浦シーサイド」がありました。たしかにホームの横は海ですが、海水浴場までは徒歩で15分ほど掛かります。列車に乗って、炎天下を歩いて行くような真面目な(?)海水浴客など微々たる人数で、次第に、営業日・停車列車も限定され、訪れた頃には、営業日は真夏の土日の数日のみ、停車する列車も朝夕の数本だけになっていました。年間の乗降数は数十人、しかし、ほぼ全員が鉄道趣味者の記念乗降で、実際の海水浴客は、ほぼゼロという状態でした。結局、2016年から営業日ゼロの休止状態になり、ことし2020年の3月のダイヤ改正で正式に廃止となりました。
▲すぐ横は鳥羽湾、いちばん海に近い駅だった。暑中見舞いの絵柄にピッタリの写真が撮れたが、肝心の海水浴客の下車はゼロに近く、ついにことし3月のダイヤ改正で廃止されてしまった。
Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道④
2007年8月4日 阪急十三駅のホームから淀川花火を撮ってみた。
夏の風物詩“花火”も、今年はほぼ中止のようです。私は暑いのと人出が苦手で、花火見物に行ったことがありませんでした。ただ一度だけ、阪急電車との組み合わせを求めて、淀川花火大会へ行ったことがありました。最初は川沿いへ行こうと思っていましたが、すごい人出に恐れをなして、十三の駅で撮ることにしました。淀川から見るよりは、距離もあって、邪魔も入りますが、ある時代の阪急電車としては、これはこれで記録になりました。この淀川花火大開も、今年は中止です。
▲十三のホームを歩き回って、神戸線の梅田行きホームの神戸方がいちばん撮りやすいことが分かった。珍しく三脚をセットして、停車中の電車と絡めて、バルブ撮影を始めた。 続きを読む
姫神山
C6120牽引の臨時急行「ひめかみ」号に乗ったことがあるとコメントしたところ、総本家さんから懐かしい響きだと言われた。そこで2002年11月3日に撮影した姫神山をバックにした485系の盛岡発函館行き特急「はつかり13号」の写真を掲載させていただく。調べてみると姫神山は1000mちょっとなので六甲山より少し高い程度であるが、山容が綺麗である。付近の岩手富士や青森の岩木山、八甲田山ほど有名ではないが二百名山の一つだそうである。東北と言えば今の時期は盆休みで大勢の人が帰省したことを思いだすが、私のような高齢者には帰省できない人や故郷で待っている人に同情したくなる。余命いくばくもなくなると特にそう思う。▼
Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道③
2018年8月3日 空気の澄んだ日、京都タワーから撮ってみた
京都の夏は、最高に暑くて、地上が熱せられると上昇気流が起こり、“かげろう”ができて、どうしても見通しが利きません。ただ、時には、空気が澄んで、遠くまで見通しが利く時があります。こんな日を狙って、京都タワーの展望台に上りました。目的は、その時に進めていた鉄道誌の扉写真として、京都の街並みのなかに奈良線の103系を入れて写すことでした。まだ103系は何編成かが残っていて、難なく撮ることができました。せっかくの恵まれた条件で、所期の目的だけでは勿体ないと、夕方までネバって写しました。
▲陽が傾き始めた頃、西を見ると、新幹線の高架がずっと伸びている。さすがに、夏なので、金色に輝くことはないが、それでも、交換する上下の編成が、輝き始めた。
Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道②
1996年8月2日 本山支線で現役最古のクモハ42を撮る
クモハ42は、昭和9年、東海道本線の京阪神電化に際して投入された42系のなかの両運車で、20m、2扉、クロスシート車でした。宇部線に残っていましたが、クモハ123が投入されて旧型車は消えたましたが、クモハ42だけは両運が幸いし、雀田~長門本山の”本山支線”専用として生き残りました。最後のクモハ42001は、当時、JRで1両だけ残った営業用の旧型国電でした。
▲終点、長門本山のクモハ42001 「ムーンライト」に乗って、朝の本数の多い時間帯から写し始めたが、朝から青空が広がっていた。 続きを読む
Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道 ①
長かった梅雨が明けて、久しぶりの青空tが広がっています。8月は、ほかの月に比べて格別の思いがありますね。ただ今年は、その高揚感がありません。“外へ出ない”が、新しい生活様式として定着し、計画のない真っ白な予定表があるだけです。こうなると、毎日の楽しみ、生きる支え(?)の“デジ青”は、どうあるべきか、最近のテーマとなりました。
▲冷房が入っているのも構わず、列車の窓を思い切り上げてみた。身体は冷えているのに、顔だけは生暖かい潮風が当たった。これぞ8月だった(五能線 2019年)。
新規ものもありません。モノクロも、大量の押しつけは嫌われます。そこで近年のカラーに眼が行きました。以前からカラ-も試行錯誤で投稿していますが、ネガ、ポジ、デジと年代によっては違い、とくにポジ・ネガは、モノクロの補助として散発的に撮っていたただけに、繋がりが少なく、体系的な発表を難しくしています。
▲一直線に続く線路を驀進する。湾の向こうを沈みゆく太陽が追いかけてきた(大湊線 2019年)











