Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道②

1996年8月2日 本山支線で現役最古のクモハ42を撮る

クモハ42は、昭和9年、東海道本線の京阪神電化に際して投入された42系のなかの両運車で、20m、2扉、クロスシート車でした。宇部線に残っていましたが、クモハ123が投入されて旧型車は消えたましたが、クモハ42だけは両運が幸いし、雀田~長門本山の”本山支線”専用として生き残りました。最後のクモハ42001は、当時、JRで1両だけ残った営業用の旧型国電でした。終点、長門本山のクモハ42001 「ムーンライト」に乗って、朝の本数の多い時間帯から写し始めたが、朝から青空が広がっていた。

本山支線は、雀田~長門本山2.3kmの盲腸線、小野田線の一部だが、通称“本山支線”と呼ばれている。最後に残ったクモハ42001が単行で行ったり来たりしていた。

 

終点の長門本山は、かつて海底炭田があって、石炭の積出し駅だったが、訪問時は全く痕跡はなく、棒線一本の駅になっていた。始発の雀田は、小野田線との分岐で、ホームは三角形になっている。クモハ42001は本山方は幌枠があるが、順光となる雀田方はこのように枠がなく、ちょっと締まりが無い。現在も下関総合車両所で保管されている(以上、1996年8月2日、ポジで撮影)。

 Summer Memories 2020 《8月同日》 あの頃あの鉄道②」への4件のフィードバック

  1. 河昭一郎さま
     客車廃車体はあちこちに保存されてるが「国電君」はほとんど保存されてないと、つい最近もお嘆きでしたね。しかしクモハ42001が現在も下関総合車両所に保管されているとのこと。初めて走ったふるさと京阪神へ戻ってくると嬉しいですね。京都鉄道博物館なんて最適な保存場所があるんですから、なんとか保存して欲しいものです。。小生も喜寿越えの身で、こげ茶の客車と国電は懐かしいものです。小さいときに省線電車という言葉を聞いて育ちましたので。.
     

    • 大阪通信員さま
      はい、京都鉄道博物館には、湘南電車は保存されていますが、“省線電車”の保存はありませんね。湘南電車は東京生まれの電車ですから、むしろクモハ42のような、関西ゆかりの電車の保存がぜひ欲しいところです。ちょうど新快速50年に当たり、私もイベントの一端を担ぐことになりましたが、この新快速のルーツとなったのも、戦前の“急電”でした。

  2. こんばんは。デジカメで無いこういう発色の写真が、最近急速に懐かしい存在に変わりつつあります。
    1996年というと阪神大震災の翌年で、小生は幼児複数を抱えて、家族中心の日々で、こんな時期までクモハ42が残っていたことを今知りました。
    1960−70年代の鉄道知識、年代記憶はカミソリのように覚えていて、直近20年は雑誌も取らず、実になまくらです。
    でも同じ96年に家族と宮崎行きフェリーに乗り、上陸後高千穂回りで、九州(家族)旅行をして、途中で立ち寄った高千穂鉄道のTR-300型観光特別車両が、日之影駅に滑り込んできて、興奮して写しています。
    ところが10年持たずして、高千穂鉄道は水害で廃止になり、豪華編成は、あの時代、バブルの後始末のように二度と走ることはありませんでした。最近佐伯に来て、高千穂鉄道の跡に平行して高速が作られていて、観光客は途絶えることはありません。
    昨年9月に40年ぶりに行った能登半島でも、鉄道の跡を見ながら、空しい思いを抱きました。最近この齢になり、自分が都会でばりばり働いていた1990年代の意味を、都会と全く異なる実感を持つようになりました。
    あの時代にはもう戻れないのです。

    • 20世紀の思い出、ありがとうございます。はい、デジカメの無い時代、ポジをスキャンして、退色も加わって、独特の色調になるのも、いかにも20世紀の記録でしょ。
      でも、思い出って、退色した写真のほうが、よりリアル感があります。退色の無いデジタルでは、こうも行きませんね。

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