昭和の電車 改訂版(92)ー国鉄クロ151型ー

これなら誰でも知っているはず。思い出を書いてください。

クロ151-5 向日町運転所

JR日田彦山線 代替BRT区間正式決定

今朝の西日本新聞で日田彦山線のBRT化、その区間が正式決定された旨報じられています。筑前岩屋駅から宝珠山駅までの区間がBRT専用道路、他区間は一般道走行となり2023年中に復旧される、とのことです。

4月、日田~添田を訪問、皆様からたくさんの投稿をいただきました。改めて御礼申し上げるとともに2023年、どんな風景になるのか、期待と心配・・・です。

車内

先日まほろばの鉄趣味住人さんから子供の頃によく宝塚ファミリーランドに行かれた話が出ました。当時阪急電車の広告は阪急グループのみと聞いたことがあります。写真は雪の日(1969年3月4日)に夙川から次の西宮北口に向かう934号の車内を撮ったものです。いつも厳しい米手作市さんが最近は寛大で優しく、多少きずがあったりボケていても投稿することが大事だとかいわれたことにつられてほん僅かの投稿をします。多分車内でフイルムを入れ替えて1枚目がご覧のとおりとなった傷物です。宝塚ファミリーランドを始め西宮球場のオープン戦や宝塚大劇場、阪急交通社など確かに阪急グループだけです。車内ではお客さんは新聞を広げています。今ならマスクにスマホでしょう。高校生の帽子は私のもそうですが白い2本線が入っていました。私の高校は男子は全員坊主頭でした。私鉄経営の遊園地もほとんど消えていきましたが、西武の豊島園も今夏で終了です。▼

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昭和の電車 改訂版(91)ー尾道鉄道デキ1ー

前回の時に、西村さんから「脱線転覆事故」に関しての詳細報告がありましたので付記しておきます。
《デキ1の転覆大破について若干の補足を。終戦から1年後の昭和21年8月13日13:00頃 木造単車のデキ1に定員を大幅にオーバーした約150名を乗せた尾道発市行き電車は石畦駅を出て急勾配を登り 峠の上の畑駅にたどり着く手前のトンネル内でポールが外れ 後退を始める。お盆で人の行き来が急増したのか 尾道発10:30の電車が9km先の石畦駅を出たのが13:00ということは各駅での乗り降りが尋常ではなく 少ない便に何が何でも乗ろうとして寿司詰め状態だったのだろう。超満員の電車はどんどん加速し約1km下った石畦駅手前のカーブで脱線転覆したのであった。死者37名負傷者100名余の大惨事となった。戦後まもなくのこと 運転手が経験の浅い見習いで 突然トンネル内で停電し応急の対処ができなかったことと ブレーキにも不具合があったようです。国道184号線を走るたびに ここを逆走したのかと思うと鳥肌が立つ思いがします。この事故をきっかけにポールがビューゲルに変更されることになりました。電車の馬力やブレーキについての解説は長老方のご出馬をお願い致します。》

忘れられた下津井電鉄のモノクロネガ

 古いネガを調べていたら、見覚えのない下津井電鉄を写したモノクロネガがでてきた。どうもなぜか自分が撮った感じがしない。見つけてからそのままにしていたのであるが米手さんの「昭和の電車」で下津井電鉄モハ50型を見て、もう一度よく見てみた。最初に見た時はオヤジが撮ったと思ったのであるがどうもよくわからなかった。自分が撮ったのか、オヤジが撮ったのか、ようわからん。しかし、自分の写真とは作風が違うような気がするのであるが・・・

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昭和の電車 改訂版(90)ー下津井電鉄モハ50型ー

下津井電鉄に関しては多くの方が思い出を語って下さいました。

下津井電鉄モハ50

下津井電鉄の思い出

下津井電鉄の情景

下津井モハとクハ

下津井電鉄モハ50

 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ⑬

 “散歩鉄”で 電機を撮る(2)

青空に似合う電機は?となると迷わずEF510を上げたい。19.5mの長い大きな車体、胸の張った前面、ドイツで見た赤い電機101形、111形を思わせる電機で、東海道線で赤い交直機が見られるのも、この区間ならでは。正面勝ちに青空を大きく入れて、その魅力に迫ってみた。長岡京~山崎

雨がもう一週間以上降り続いています。九州の鉄道も大きな被害を受けましたが、地元、叡電鞍馬線の貴船口付近でも土砂崩れが発生し、復旧までには相当日数掛かる見込みです。叡電は2年前の台風でも大規模な倒木、土砂流入で長期間不通になりました。やっと復旧したと思ったら、その傷跡がまだ癒えないうちの災害で、鉄道事業者の落胆はいかばかりかと思います。ここしばらく“散歩鉄”も出かけられず、自粛期間以上に家で籠ることが多くなりました。青空のもとで、気ままに貨物列車を撮っていた、つい先週までの行動様式に早く戻りたいものと、今回は、良い天気の下で各種の電機が牽く貨物列車見てもらいます。

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西鉄福岡市内線の痕跡

また小ネタで失礼します。昨日九大医学部(九大病院)から箱崎(筥崎宮)界隈を歩いていたら懐かしい風景に出会いました。福岡市内線の貫通線(貫線)の面影が今に残るポイントです。街の中心、天神町を出発、東中州、博多部の中心呉服町を通過した後、千代町を過ぎると専用軌道に入り大学病院前、東車庫前、馬出、箱崎まで専用軌道が続きました。その馬出(まいだし)電停が今もバス停に使われています。線路跡はバス専用道路になっています。

箱崎本通りと電車が交差する場所がここです。箱崎、馬出は九大の街、子供のころは本当ににぎやかな街でした。残念ながら医学部(病院)を除く全学部がJR筑肥線の沿線に移動、寂しい街になってしまいました。以下は昨日フェイスブックに投稿した文章です。皆様の想い出、ありましたらお寄せいただけますか。お待ちしてます!!

『箱崎本通りをまたまた歩いていたらここ! 昔の市内電車の馬出電停。40年以上前の面影、今に残っています。バスじゃなくて電車が来んかねぇ、さっきからずうっと待っとうばい・・はよ来んね』

昭和の電車 改訂版(89)ー備南電鉄(玉野市営)モハ100型ー

前回、備南電鉄に関して次の方からのレポートを頂いております。

玉野市営電鉄制御車201号

Re.備南電鉄→玉野市営電鉄について

玉野市営をなつかしむ

備南電気鉄道→玉野市交通局

 やっぱり蒸機が好き! 《区名版》で巡る九州の蒸機 ⑳

人吉機関区(3) 8620 & 肥薩線川線をカラーで偲ぶ

人吉機関区の蒸機としてD51、C57を紹介しましたが、地味ながらも、もう一形式がありました。それは8620で、つねに2両が区に配置されていました。おもな運用は、湯前線の貨物牽引で、人吉~湯前を一日3往復していました。ほかには人吉駅での入換が仕事で、2両はデフ付き、パイプ煙突と、地味で目立たない8620でしたが、なんと、そのうちの一両が、現役復帰して「あそBOY」「SL人吉」などを牽くことになる58654なのです。そして、もう一両も来歴を調べていくと、今回と同じように球磨川の増水、土砂流入で土砂に埋まるという、今回と同じような災害に見舞われていたことも分かりました。夜の人吉機関区で憩うハチロク ちょっと不似合いな大型の切取り式デフ、パイプ煙突と、どちらかと言えば冴えないスタイルだが、なんとこのカマがJR九州の復活蒸機であり、「あそBOY」「SL人吉」を牽く58654の50年前の姿 昭和46年12月(以下同じ)

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鉄道とともに

中国新聞の読者投稿欄に載った一文が心に残りましたので、ご紹介します。

令和2年7月4日 中国新聞朝刊

鉄道を見る目も人それぞれであることを改めて感じました。我々は出征兵士も引き揚げ列車も進駐軍も知らない 幸せな時代を生きてきたことも。それにしても 特派員殿の肥薩線紀行が皮肉にも豪雨災害と重なることになろうとは・・・。

私が撮った阪急今津線の車両(6)

井原 実さんから思わぬ2300系のコメント投稿を頂き感謝感激しております。

6000系は2200系の車体に5100系の機器を装備して130両製造され、2200系から編入の10両を加えると140両となる。1976(昭和51)年から製造され出力は140kw×4で2200系からのT形ワンハンドルマスコンを採用している。アルミ試作車が2両ある。

今津線での6000系の当初の姿は白黒のこの写真しかない。1992年4月1日 仁川-小林間の宝塚行き6114で右側の樹木の方向に熊野神社がある。▼

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昭和の電車 改訂版(88)ー相模鉄道クハ1110型ー

JRとの相互乗り入れで、いまや押しも押されぬ「関東の大私鉄」となった相模鉄道。

 こんな時こそ 元気に活動したい ‥‥‥‥ ⑫

 “散歩鉄”で  電機を撮る (1)

5087レが近所を通過するのは14時前後、ちょうど昼食後の腹ごなしに格好の列車だ。しかも貴重なEF65が牽くとあって、昼前の天気予報と“貨物ちゃんねる”の牽引機チェックが日課となった。山崎~長岡京

少し前までの外出自粛の期間、日課となったひとつが“散歩”でした。最初は家の周囲を黙々と歩くだけでしたが、同じ歩くなら、趣味活動も兼ねた散歩にしたいと、近所の東海道本線まで行って、撮影もすることにしました。ターゲットは電気機関車です。この時期ですからイベント列車こそ走りませんが、通常の混載コンテナを牽く貨物は運休もなく走っており、専用コンテナ列車や、レール運搬、新車の輸送など、電機の牽く列車は多彩です。
さすがは天下の東海道本線、時間帯によっては、1時間もいれば、お腹いっぱいになるほど多くの電機を撮ることができて、散歩途中の撮影としては最適な対象です。基本的に歩いて写すか、入場券を買ってホームで撮るか、乗車しても最低運賃の範囲内で撮影するかのいずれかで、この一ヵ月前後の東海道線の電機の現況を綴っていきます。

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑳

人吉機関区 (2)  C57

人吉には、もうひとつ注目すべきC57がいました。前記のように、肥薩線の人吉~八代、球磨川に沿った“川線”と通称される線区で、旅客、一部の貨物も牽いていました。“美しき南九州のパシフィック”などと賞賛されるC57です。その両数においても宮崎区のC57を指す言葉でしょうが、その影に隠れて、黙々と客貨を牽いていた人吉区のC57のほうに、愛着を感じていました。昭和45年時点で、7両いたC57ですが、砲金製の区名板、手入れの行き届いた機体、そして、番号ごとに個体差があって、“何番”と言うとすぐに姿が思い浮かぶのもC57の良さでした。八代~人吉は昭和48年3月改正でDL化が完了し、C57は撤退しています。

夜行鈍行1121レをC57 9が牽いて一勝地で交換列車を待つ。ひと桁ナンバーのC57は貴重で、特に憧れを持った。門司港区の時代は「かもめ」も牽いた。昭和44年3月

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私が撮った阪急今津線の車両(5)

オートカー(人工頭脳電車)と言われた当時の神戸線2000、宝塚線2100、京都線2300(2800)系は当時のエース的車両であったが、今津線ではいずれの車両も撮ったことがない。また、これらの車両は今日に至る新鋭車両まで基本的に同じようなスタイルが継承されおりそれだけ完成された車両であると思うが、画一的で面白みに欠ける。ファンというのは勝手なもので変化を好み多種多様な車両を好む傾向がある。そういう意味で2000系あたりからの車両は興味が薄れる。

さて、2000、2100を撮っていないとなると次は3000系である。最近まで現役であったことはかなり長生きした車両と思う。昇圧即応車として1964年から114両製造された。電動車の出力は170Kw×4。

 

2010.03.27 仁川駅は駅の横が川である。表示幕と尾灯、標識灯改造前で当時、行先板を付けた車両が残っていて話題になった頃である。仁川始発の西宮北口行き3058▼

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 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑲

人吉機関区 (1)

《区名板》シリーズの象徴のような機関区です。「人」の文字から、「蒸機は、もっとも人間に近い機械」の常套句を思い出し、何とも暗示的です。しかも実際に区名板を見ると、通常は鉄板にペンキ書きに対して、人吉区のものは、大部分が砲金製の特注で、しかも、書体は、隅丸ゴシックの国鉄書体ではなく、楷書体であり、その品格が、より強く感じられます。この砲金製は、鹿児島工場へ入場の際に取付けられたもので、近隣の鹿児島、吉松、宮崎でも見られますが、「人」だけに、そのインパクトは他区の比ではありません。金文字の「人」を付けた蒸機の顔ぶれも、肥薩線という特徴ある線形に適した、手入れの行き届いた、独自の蒸機ばかりでした。

人吉駅で発車を待つ589レ 牽くのは「人」のD51 545 人吉のD51は、重装備の蒸機の代表でもあった。昭和45年9月 

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昭和の電車 改訂版(87)ー淡路交通モハニ2007ー

参考資料

昭和の電車 改訂版(61)ー土佐電鉄クハニ2000型ー

土佐電鉄クハ2000、モハ1000

乙訓の長老様が撮られた写真の中に、モハニ2007と2008がありましたので掲載致します。ただし、関先生の記事にもあるように、三扉→二扉、2008は貫通扉を付けた最後の形に改造後です。撮影は昭和35年11月4日となっています。

それにしてもこんな地方の小私鉄が“気動車→電車”にしたり“貫通扉を付けたり、三扉→二扉”にしたりする大工事を自力でしていた事の方が驚きです。

モハニ2007

モハニ2008

私が撮った阪急今津線の車両(4)

前回の1000形の発展型量産タイプで1956(昭和31)年より神戸線1010系35両、宝塚線1100系51両が製造された。両型式とも今津線での撮影が少なく1984.04.01小林駅の1112くらいしか記録がない。2扉車や3扉車が混在したが最終的には前照灯が2灯化され、全車3扉に統一され、1010系と1100系の違いはほとんど同じで見分けがつかなかった。▼

 

 

京都線の1600系と同じ考え方で神宝線の1010・1100形式と同じ車体に旧型車の台車、部品を流用。最終的には台車は900・920形、電気品は600形を流用したとあるが、この時代の阪急のタライまわしは難しくて理解しがたい。1200系は1956(昭和31年)から20両製造されたがその一生はほとんど宝塚線で過ごしたと言っても過言ではない。1978年3月18日門戸厄神-西宮北口間の撮影で行先板には仁川-西宮北口とあり、これも競馬開催時の臨時電車と思われる。▼

 

アロハ特急385へのご質問にお答えする・関三平先生より

先日の「アロハ特急」に関して、皆様からご質問が来ておりましたので、関先生へ回答をお願いしていましたところ、お手紙にてご連絡頂きました。

前回投稿文

昭和の電車 改訂版(80)ー阪急電鉄802号+852号ー

全文書き写してご覧頂きます。

『阪急のアロハ塗装につきまして。
阪急は、昭和23年に京都線用(実質支線専用)の700型+750型MTc編成5本、701+751~705+755を新造。続く24年に神戸線用として同じく700型+750型MTc編成5本700+750~704+754を製造。当時はまだ(現・京阪電鉄を含む)阪急の時代でしたが、近鉄などと違って車番のダブりなどは気にしていなかったようです。(京阪本線にも700型が存在したわけだし・・)

さて、阪急が京阪電鉄との合併を解消する際、新京阪線は阪急に残留(乗っ取られたとの説も・・)、新京阪線と京阪線はライバルの関係になります。「元新京阪線は(今や)阪急の物である」とアピールするために、解消直前に京都・神戸直通の特急運転が始まり、これに当てられたのが神戸線の702+752、703+753の二編成でした。
完全複電圧、二個モーターのMM編成に改造され、1500Vの京都線では神戸線の750/600倍のパワーに上がるわけで、120㎞/hを越える高速運転となり、時間が余りすぎて困った、とも言われています。

そして昭和25年に西宮北口で「アメリカ博覧会」が催され、その宣伝のためにアロハ塗装をされたもので、京都線の700系と紛らわしいと言うわけで、この機に800+850~804+854と改番されました。(この時期、京都線系の500→1500、550→1550、300→1300等の改番も実施されています。それでも、まだダブり番号は残りました)
かくて、802+852、803+853の二編成は「アロハ特急」として語り伝えられる存在となりましたが、実は他にも「アメリカ博」塗装をされた車が四両ありました。その一両が今回写真を載せられた宝塚線の385号です。そして京都線用には、戦後阪急唯一のクロスシート車となっていた、元フキ(貴賓車)の1500号が選ばれ、この二両は全く同じ黄色と茶色塗り分けで、端部塗り分けデザインも同じでした。
そして、あと二両が神戸線用の801+851の編成。使う色は802号などと同じですが、全くの逆配色になっていました。即ち、薄いブルー基調で、帯などが黄色というもので、802等に比べるとおとなしいというか、淋しい感じを与えるものでした。
この二両は「アメリカ博」の会場横を通り抜ける今津線に専ら使われたようで、梅田や神戸にはあまり顔を見せなかったようです。こちらは従来通りの600V専用車のままでした。梅田などに姿を見せなかったせいか、あまり存在を知られておらず、現在阪急の語り部の第一人者とも言うべき篠原丞さんも存在を半信半疑で、私に証言を求められたぐらいです。

以上の八両が「アメリカ博」がらみの特装車ですが、その室内について一寸書き加えますと・・・。
マスコミ等へのアピールのためか、852号(?)がベッドみたいに寝そべることの出来るデラックスなリクライニングシートや、ソファ、テーブル等を置いた豪華なインテリアとされた残されています。ただし本営業には使われなかったようで、私もみたことはありません。ただ内装壁面などにいかにも戦後派らしく、迷彩模様のようなベニヤ板張りで、阪急としては最低クラスのものでした。その点385号は戦前の阪急+川崎デザインの重厚な全鋼車内でしたし、1500号は私鉄界貴賓車の最高峰とも言われた造作の車内にクロスシートをつけたものでしたから、乗る側にとっては最高の車でした。

以上、ラフですが、取りあえずお返事まで。草々
関三平拝』