明治鉱業平山鉱業所のBタンク機
筑豊本線飯塚から上山田線が分岐していて、途中の臼井から南西の方に、専用線が延びていました。それが、明治鉱業平山鉱業所へ向かう約2キロの専用線でした。ここでの輸送は、直方区の9600が担当していて、国鉄の石炭車が、平山鉱から産出される石炭を牽いて、若松などの積出拠点へと向かっていました。
昭和43年3月、私は臼井で下車して、専用線の上を黙々と歩いて、終点の明治鉱業平山鉱業所に着きました。ここには、2両の蒸機、236、237が、構内の入換として、使われていました。プレートの独特の書体からも分かるように、もとは、八幡製鉄所の構内蒸機で、無骨な産業機でした。▲B型のタンク機 236、石炭ホッパーに石炭車を押し込み、積み込みが終わると、引き出して、待ち受ける9600に引き渡すのが仕事だった。全体が粉塵のせいなのか、グレーになっていて、前梁はオレンジの警戒色が塗られ、いかにも専用線の蒸機という感じだった。
▲鉱業所ホッパーの全景。鉱山は、昭和47年まで採掘を行ったそうで、筑豊では、最後まで生き残った石炭坑となった。▲自分より大きなセム、セラを牽いて懸命に入換に励む。中央のセフ1は300両ほどあったが、無数にいた石炭車の中では、珍しい存在だった。▲236、237ともに、1937(昭和12)年、八幡製鉄所工作課が出自、大量の蒸機を擁した八幡製鉄所は戦後、中小炭鉱や私鉄に数多くの車両を提供した。ナンバープレートの書体は、独特のものに統一されていた。
▲後部の炭庫を見る。構内の僅かな入換だから、使用する石炭の量もわずかなものだろうが、上辺が折れ、少しでも多く積めるようになっていた。▲もう一両の237は庫のなかで休んでいた。製造は、ドイツ・アーノルドユンク製といわれる。▲付近でバッテリーロコを発見、この時は情報も無く、全く気づかなかったが、周辺の坑道には、無数の積出し線が張り巡らされていて、引火防止のため、すべてバッテリ車が行っていた。そのあと、「鉄道ファン」で大々的に紹介されて、特徴ある細長い電機が一躍有名になった。軌間は546mmとのこと。▲鉱業所から臼井まで戻る途中、線路を歩いていると、後から9600の牽く石炭列車が追い付いて来て、あわてて外へ出て写した。別の趣味団体で、親戚が臼井におられる方がいて、いまの臼井の様子を聞かせてもらった。石炭時代の面影は全くなく、この専用線は道路と化しているそうだ。
私は昭和46年の「鉄道ファン」、昭和47年のキネマ旬報社「蒸気機関車」でこの鉄道を知りましたが、蒸気機関車がいたとは知りませんでした。例の凸型電気機関車に魅力を感じ、直方の石炭記念館で鯰田の機関車を見て喜んでおりました。
私は本数を稼ぐことに夢中で、上山田線は眼中に無く、ましてや明治鉱業平山へ行こうなどという気は全く起こりませんでした。
梅小路のB20よりも少し大きい程度の小型機関車が、石炭車を入れ替える様子が目に浮かんでくるようです。巨大なホッパーやチラッと見えるトロッコも魅力にあふれています。炭庫の低いセム6000、独特のスタイルをしたセム1もいい雰囲気ですねえ。
筑豊本線で見た石炭列車の元を辿ると、平山のような風景があったことを、今頃になって気づきました。良い写真を見せていただきました。ありがとうございます。
紫の1863さま
いつもコメント、ありがとうございます。国鉄蒸機がたくさんいて撮影に忙しかったはずなのに、私もよく、歩いて訪問したものと思います。当時のメモを見ますと、午前中は貝島、午後は平山坑と、一日、専用線巡りをしたようです。終点にいた凸電は、そのあとに「鉄道ファン」で紹介されて初めて知りました。行った時は、平山坑の蒸機のみしか情報は無く、「津島軽便堂」さんのHPを見ると、臼井の北側には、吉隈坑があり別の凸電もあったのですね。
明治鉱業平山の現場写真は初めて見ました。すごく貴重な写真だと思います。
財閥系ではないですが一部上場企業だったことと、今の安川電機のルーツ企業です。
ついでに言うと、国立九州工業大学の前身が明治高専で、ここにも明治の名前が使われています。安川敬一郎が私財で作った理工系の学校で、私立から官立になった経緯もユニークで、鹿児島本線新中原にあります。
しかしアーノルト・ユンクは臼井さんの本で知っていましたが、貴重ですね。八幡製鉄が最初はドイツ式の製鉄法で創業したり、九州鉄道も当初はクラウスとホーヘンツェルレンのロコからスタートと、九州は明治の途中まで、ドイツ一辺倒。九州帝国大学の医学部に、高橋義孝がいた文学部ドイツ語学科も有名でした。
戦前の九大に通った親父が生きていたら、製鉄所で働いたこともあり、聞いてみたかった話題ですが、25年前に歿しています。興味が湧きました。
K.H.生さま
明治鉱業が、こんなエリート企業だったとは知りませんでした。平山坑の終端部分には、もっと面白い凸電がいたのに、全く知りませんでした。終端部を撮っているとは言え、私にとっては少し悔いの残る平山坑でした。九州とドイツの関係、鉄道だけで無く、学術分野にも及んでいたのですね。