京都市電と市バスの共存 ④ ~ ここらでバスでもシリーズ

市電と市バスが共存するシーンも、昭和53年の市電全廃で見られなくなります。最終回は、そんな昭和53年まで、市電が毎年のように廃止されていった時代の共存シーンを見ていただきます。市電が廃止されると、市電の系統とほぼ同じルートの代替バスが運転されました。系統番号は、原則として市電系統番号に200を足した番号となり、新しいバス、新しい系統が、市電廃止の翌日から走って、街の風景が一変したことを今でも覚えています。

なかでもインパクトがあったのは、昭和47年1月に廃止になった四条・千本・大宮線の廃止時に、代替バスとして導入された都市型低床の大型バスで、定員86人は市バスで最大。写真は「京22か・387」、昭和47年製のいすゞBU06D、京都市バス用に特注され、首都圏以外では見られない、KH生さんが「みぶ型」と呼んだ独特のスタイルで、三線の廃止時、60両が一挙に製造された。今まで均一区間の「前のり後おり」を改め、このバスから「後のり前おり」に変更した。それを識別できるよう、車体に黄帯、バンパーに赤帯を入れたのも新鮮だった。東山二条(昭和53年9月)

熊野神社前で並ぶ、市電22系統1930号と、市バス201系統「京22か・387」、上掲と同じ年式、型式。市電の代替バスも50年近く経つと、径路に変化があるが、市電1系統の代替201系統バスだけは、50年間、全く径路に変更はなく、市内中心部を走っている。東山七条で、市電6系統1862号と、市バス16系統「京2い・205」、昭和46年製いすゞBA30、16系統は昭和47年まで、上賀茂神社~祇園~稲荷と、とてつも無く長い市街地を走っていた。狭隘地も走るため、単区間にもかかわらず長くツーマンとして残っていた。昭和47年に北半分が廃止されて、方向幕のように、みぶ~稲荷となった。清水道付近を行く市電6系統1822号と、市バス16系統「京22か13-73」、昭和51年製いすゞBU04、単・多区間兼用のワンマンカーで、車内には、発券機、運賃表示器も備えていた。16系統は、そのあと昭和63年に廃止される。平成13年に系統が復活するが、径路は全く違い、京都駅前~九条通を周回する径路となった。北大路通を行く3台の市電・市バス。市電22系統1838号と、前の市バスは、61系統「京2い・3-28」で、昭和44年製のいすゞBA30、撮影当時としては最古参だった。61系統は。外大前(梅津車庫)~(堀川通)~玄琢・千本北大路の径路だったが。平成9年の地下鉄東西線の開業に伴い廃止されている。左大文字をバックに西大路通を行く、市電22系統1931号と、市バス214甲系統の「京22か17-32」、昭和52年製のいすゞBU04、こちらも定員85人乗りの大型車だった。214系統は、市電4系統と5系統を合わせた径路を走る代替バスだったが、昭和56年に205系統が廃止され番号が空いたため、繰り上げて現在の205系統となった。本シリーズの最後は、ボンネットバスとの組み合わせを。東山七条で、市電6系統1870号と、京阪バスの定期観光バス50系統「おいでやす京都号」が顔を合わす。ボンネットバスは、もともと大津営業所所属の滋賀ナンバーで、浜大津~朝日が丘住宅前を結んでいた(大津の86さんの父上が最後まで定期券利用されていたと言う)。昭和51年に京都営業所へ転属、昭和53年には京都定期観光バス50周年を記念して、塗装変更して「おいでやす京都号」となって、京都市内の主要観光地を巡った。

 京都市電と市バスの共存 ④ ~ ここらでバスでもシリーズ」への4件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員殿
    京都市電や市バスの日常風景をなつかしく拝見しています。熊野神社での㉒系統1930のカットがありますが、この1930は広電に移って1914となり、「平安」号としていまだに現役でがんばっています。1914に限らず、広島市内で1900を見かけると思わず「ガンバレ」と声をかけたくなります。低床・3連接の1000型の増備で 高床単車の出番が減ってきていますが、まだ1両も廃車されていない1900の活躍を祈っています。

    • 西村様
      広島での1900形の活躍、頼もしい限りですね。実は、先般、伝言板にも書きましたが、ロータリークラブで京都市電の講演した時に、次の写真も紹介しました。「2両とも京都から来た市電です」と言うと、会場から“ホォ~”と言う声が上がりました。一般の方でも京都市電の活躍に関心があるようです。みんなで広電に乗った時に写しました。

      • 総本家青信号特派員さま 
        西村雅幸さま
        元京都市電、懐かしいですね。そういえば最近はご無沙汰していますね。以前は瀬野八越えの原色ELや湘南色113系を撮りに行った際に、時間があればよく1900を乗りに出向いたものです。最後部の席に座り、目を閉じて走行音を聞いていると、停留所名は京都時代とは異なるものの走行音はほぼ同じなので、懐かしさのあまり目頭が熱くなったものでした。
        またそろそろ行きたいと思うものの、このコロナ禍ではそれもままならず、今はもう暫くの活躍を祈るのみです。

  2. 61系統の市バス、なつかしいですねえ。この系統は船岡公園前-紫野高校前-今宮神社前-大宮上野-紫野泉堂町-旭ケ丘-南木ノ畑町-北木ノ畑町-上ノ町-土天井町-源光庵前-釈迦谷口-玄琢-玄琢下-紫野泉堂町を辿る循環コースで、母校の紫野高校正門横にバス停がありました。もっとも、利用したことは一度もなく、本数も少なかったように思います。北大路通りから今宮神社までの道路はそれほど広くもなく、鳥居の下は特に狭くなっていてバスの離合は困難を極めたことでしょう。もっとも、当時の交通量は少なかったので、問題はなかったのかもしれません。
    さて、市電と市バスが並ぶ場所は、大宮通を少し東へ行った辺りでしょうか。総本家様は北大路堀川東行き安全地帯から、長めの望遠レンズで撮影されたと推測します。電車の右に見える安全地帯は、大徳寺前ですね。上に目を転じると、木立の中に白っぽい建物がありますが、さて、これはいったい何でしょう? 船岡山に高い建物はなく、千本北大路の市営住宅でしょうか? 北大路通り北側に今もある、5階建ての市営住宅15棟に似てますが、手前にも市営住宅がありますので、果たして堀川から見えたのか疑問です。42年余りの長い時間が過ぎ、この辺りにも背の高いビルが増えました。今では現地へ行って確認するのも、難しくなりました。

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