京阪、阪急規格型電車の写真

先日はコロナ禍にもかかわらず総本家青信号特派員さんが池袋の「路草」で開催された鉄道アートサロン写真展のために日帰りで上京された。関西の大物の方も絵画も含めて多数参加されていた。総本家さんとは新宿でお会いしたが、DRFC-OB会の運営に努力され、特にデジ青では自らオリジナルの投稿を続けておられ、頭が下がる思いだ。私も少しはお役に立つように考えているが、徐々に老朽化が進行しているので少しばかりの冷やかしコメントでお許し願いたい。

関先生お膝元の阪急(大阪急)、京阪の戦後の規格型電車三題であるが、私の撮影は学生時代の何れも晩年に近い姿だ。

 

京阪電鉄の1300形は幕板が広く鈍重なスタイルであるが、やはり懐かしいものを感じる。カラーが退色劣化して見苦しい写真であるが、お馴染み七条駅の宇治行き。撮影日は不明。▼

1968.4.3 千林を通過する淀屋橋行き急行1306(3扉化後)▼

 

1967.3.28 新千里山(現南千里)付近 梅田行き704。この電車はほとんど撮っていないが、2両目も曰くつきの車両。請うマルーンさん登場。▼

 

1968.9.20 箕面駅を出発する562。この車両は甲陽園線にも来たが、私は一般の阪急タイプの1段下降式窓が好みではなく、肘を出せたり風通しの良い2段上昇式窓の方が好きだった。規格型ではあるが、550形は何となく500形に近いスタイルと個人的には思っていた。▼

 

 

京阪、阪急規格型電車の写真」への17件のフィードバック

  1. たしか、無印不良品さんが1300を運転して天満橋だったか淀屋橋だったに早着して怒られたとか・・

    • 準特急さん、懐かしい写真をありがとうございます。

      京阪の1300はよく走る車でした。
      イコライザー式の台車は決して乗り心地のいいものではありませんでしたが、吊りかけ式特有のモーター音を高らかに響かせながら走る姿はまさに「昭和の電車」という感じでした。

      (以前に投稿したと思いますが)1967年の初夏ごろ、七条~三条間がまだ地上線であった時代の話。
      1300系の下り(淀屋橋行)急行を担当していた私は、たまたま昭和天皇の車が七条通りを通ることになり、七条駅で5分ほど停められました。
      出発後は、前が空いている(退避列車は定刻に退避済)ので憚ることなく、遅れを取り戻すべくぶっ飛ばしたら淀屋橋到着時にはほぼ定時でありました。
      「やればできるんや~!」と意気揚々と乗務員控室に引き上げたとき、運転指令室から電話があり、てっきり褒められるものと思っていたのに、「どんな走り方をしとったんじゃ! 始末書を書け!」と。
      その時の車掌いわく「あまりの激しい揺れで車内巡回もできなかった。カーブも怖くて車掌室でへばりついていた」とのことでした。

      ATSも何もないころ、五感を頼りに運転していたのが「人間」であった頃のハナシであり、今では地上から車上からあらゆる電子機器に囲まれて、絶対にできないことでしょう。
      もう時効のおはなしでした。

      • 無印不良品様
        私の新入生の頃の無印さんはReader of the team 、いわゆる会長はんであられ、いろいろとお世話になりました。総本家さんからも無印さんがお元気な様子を伺っております。鉄道が平面交差する所は鉄道が優先とばかり思っていましたが、そういうことがあったのですね。大きなマラソン大会などとぶつかる時はどうしているのでしょうか。ところで失礼ながら我々の頃は1300形は粗悪車の一つと言っていましたが、今から思えばイコライザー台車に吊り掛け音、半鋼製の電車らしい感じがしました。もう一度乗ってみたいと思います。

        • 無印不良品さん
          間違っていました。
          早着ではなく定時だったのですね!
          たしか、1300には速度計がなかったとか聞きましたが・・

  2. 確か550形の写真があったと探してみると、ありました。どちらにコメントさせていただこうかと思っていましたが、準特急さんが箕面線の写真を載せられたので、私もこちらに出させていただきました。私の撮った写真は同じ1968年の12月、場所も箕面-牧落間で、牧落駅から箕面側の最初の踏切のところです。実は母方の親元がこの踏切のすぐ近くにあって、行くときはこの電車に乗りました。当時は高校生でご多分に漏れず、SLを追いかけていて、電車の写真はあまり撮ったことがありませんでしたが、この時は正月の記念撮影用のためか、カラーリバーサルを入れていて、踏切で1枚撮ったものでした。親元の祖父母が亡くなって40年余りたちその家もなくなってしまっています。昨年何十年ぶりかにこの場所を訪れましたがすっかり風景が変わっていて、この写真を見て当時のことを懐かしく思い出しました。

    • 大津の86様
      550形の珍しいカラー写真有難うございます。550形は宝塚線専用の小型車でナニワ工機の処女作と聞いたことがあります。箕面線はいろいろな種類の電車が走りましたが、3000系最後の頃にはよく出かけその背景の変貌ぶりには驚いたものです。箕面の滝に遠足で行ったことがありますが、今も昔ももみじ饅頭が名物だったと思います。

  3. みなさん、お元気そうで何よりです。京阪1300といえば香里園にある高校に通学していたころ、急行や準急や区間急行に乗っていたのですが、1300が来たときは「なんや1300か~」と言う感じでした。重厚感のある1700+1800と違ってなんと言っていいのかわからないような乗り心地でした。しかし、複々線区間を怖いような走りをしていたのを覚えています。ひょっとしたら無印不良品さんが運転している電車に乗っていたのかもしれません。そういえば、ATSがついたときにスピードオーバーでよく電車(1300だけじゃないいろいろな電車が・・)が急停止していたのを思い出しました。地下線で駅を出発したときによく急停止していました。なにかあるのですかね。

  4. DRFCの皆々様
    皆様のレポートを読ませていただいていると、本当にオモシロイですネ。
    ATSが無かった頃だの、吊りかけ式特有のモーター音だの、ここではマダマダ「昭和の電車」が健在で心強い限りです。
    此の頃を経てきた小生にとっては「そやった、そやった」とガッテンの連続です。

    その上、電車運転の経験者もいらっしゃって、さすがの「デジ青」の説得力抜群のレポートに、小生は心ウキウキ。
    遅れ回復をし過ぎて、結果「始末書」の話などは、聞けて得した!感でいっぱいです。

    • 河 昭一郎さん、
      いつもご覧頂きましてありがとうございます。
      私は第一回のワクチン接種を打ち終わり、ますます元気になっております。そんな私と同じように元気なのが「無印不良品」さんです。現役時代に行った武勇伝は直接面会して聞いて下さい。昭和の鉄道員は電車と同じ吊り掛けでした。

      • 米手さん
        お言葉ですが、特に「武勇伝」なんてあるわけありません。
        1年弱という短い期間でしたが「新米運転士」として真面目にシゴトをしていただけです。
        ただ(前述しましたように)アシストしてくれる機器類はATSも含めて何もなかった時代に、五感だけを研ぎ澄ましながら運転をしていたのは事実です。
        確かに速度計のない車両もまだありましたが、運転士の実車の国家試験に「速度観測」という科目があり、見習い中にかなり鍛えられましたので、ほぼ正確に言い当てることはできていました。
        また、制動に必要な距離を瞬時に算出するために必要な「距離目測」という試験科目もありました。
        勿論、「闇夜に霜の降るごとく」ショックなく停めるというのが最大の試験科目でしたが・・・。
        そんなこんなで、現役の運転士諸氏には誠に失礼ながら、がんじりがらめに縛られている今の車両を運転したいとは全く思わなくなっています。
        歴史的には「事故」が安全性を高めるための「装置」を創り出し高めてきたのは事実ですから、それを否定するつもりは毛頭ありませんが。

        • 懸案の「山科マスク会食会」を珉珉でいたしましょう!声をおかけしますので万障繰り合わせてご来駕下さい。その付近に住まいする輩を誘ってもよろしいか?

  5.  準特急様
     お久しぶりです。東京での写真展さぞかしだったことと思います。
     阪急700型は正直好きになれませんでした。関先生の解説の中にその要因の一つを見付けました。それは新京阪規格の車体幅2.8メートルにあるのでは?そうです!肥満体になっているから不細工に見えるのではということです。二段上昇窓や色合いやいろいろ要素はあると思いますが・・・
     新千里山!懐かしいですね! 704編成の2両目、窓枠の大きさが違うと思われますが・・正解をお教えください。

     無印様
     ご無沙汰しております。
     「速度観測」「距離目測」 いやぁ懐かしい響きですね。
     電車の運転の肝は制動にあり。P-6の癖のあるA弁には苦労しました。

    • マルーン様
      700形の鈍足小太りメタボ電車はおっしゃられるとおり不細工ですが、問題は2両目の750形です。鉄道ピクトリアル2010年8月[特集]阪急電鉄の147頁に旧型国電の大御所であられますDRFC-OB会友の河 昭一郎さんが次のように書かれています。千里山線の項ですが「昭和30年代には、750形はMc化されて700形に編入され、やはり異端車となっていたTc車である5両の旧1300形(旧新京阪線300形)をT車化し、新たに750形と改称して真ん中に挟み、3両編成を組成して活躍したが、一回り小さい750形が前後を異系列の700形に挟まれた様はチグハグな感じが否めなかった。」とあります。参考にしてください。なお、写真が暗くて見づらいですが、この750形のTc時代を見ますと京阪本線の1200形と少し似た感じがします。

  6. 準特急様
     ご教示有り難うございます。
     千里山線用として作られた新京阪300型が、1950年に1300型に改番(神宝線との車番重複を避けるため)、1957年に中間T車に改造され700型に組み込まれたのですね。
     山口益生著「阪急電車」84ページを見て、まずい頭を整理しております。
     山口氏も同車両が張り上げ屋根の半流線形車体で京阪の1200型に類似しているとお書きですね。
     写真を見ますとこの1300型の面構えは曲線をうまく使い中々の男前と思いました。
     

  7. 米手作市様
    ワクチンねェ。困ったもんです。当地横浜では先ず予約が取れない!!
    何より予約サイトが複雑怪奇で、何と先ず「ログイン」までに4行程有って次いで「予約フォーム」に辿り着くまでに更に3行程、結局全行程(予約)終了までに、全17工程の作業が必要です。
    従って、始めての予約作業にオタオタしてる間に予約開始から20分で受付終了!
    1週間毎・月曜日の予約はいつもアウト! 最近になって町医者でも接種出来る事となって、結局電話で「仮予約」したまでは良かったが、実施は何時になる事やら。7月の末まで待て、と言われております。

    無印不良品様
    昔はそうでしたネ。「五感」だけが頼りだったような。
    でも、当時の運転手さんは、その五感が鋭かった!
    話しは省線電車になりますが、当時小生が乗っていたクモハ51には半室運転台車が有り、本当にセセコマシイ所に閉じ込められての営業運転が有りました。
    しかし、これは幼少の小生に取っては最高の電車でして、良く運転士さんが夏場を中心に客室との境の引き戸を解放して「仕事」をしていました。
    当時はその直ぐ横までが客室だったため、小生などはカブリ付く様に、覗き込む様にぺったり張り付いて見る運転士さんの一挙一投足が羨望の的でした。
    中でも停止位置にピッタリ止めるブレーキさばきの神業に毎回目を丸くしたものです。
    一方、最近の新幹線ですが、スピードは別としてまるで遊園地のおサルの電車・・・それが走行中にトイレに行く運転士を産むんですネ。
    もっと言えば、オートマの自動車でもあるまいし若い女性が気楽に? 200キロオーバーの新幹線を運転するんですからネェ。
    昔は運転士が多大な運行責任を負っていた運転中の故障などは、この御姉ちゃん達には「多分」他人=「駅詰め技術員」にお任せなんでしょうか。

    マルーン様
    千里山線の700、750型のお話。
    専門外?の小生がオドオドしながら書いた「大昔」のピク記事を、よくも思い出して下さいましたネ。ありがとうございます。
    当時、この「寄せ集め変則現象」に興味津々でした。
    実は小生、国電専攻だったことから、この現象を「千里山線延長」の取材時に気付き、急遽パチパチと撮影したものでした。
    帰宅後、「泥縄」を地で行くレポートにまとめたに過ぎないため、「阪急の御大」であらせられる山口益生様の目は誤魔化せないと、間違ってないかオドオドしていたものです。
    お礼に、と言っては何ですが、1枚未公開写真(大袈裟!)を貼っておきます。

    • 河 昭一郎様
       貴重な写真を有り難うございます。
      千里山が終端駅の時代ですね。三両編成、若干長閑さを感じます。
       

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