昭和の電車 改訂版(225)ー近鉄あおぞら号ー 投稿日時: 2021年11月3日 投稿者: 米手作市 これに乗って修学旅行へ行った方はいませんか? この記事を共有:Tweet印刷 関連 関連記事: 昭和の電車 改訂版(147)ー京阪1700系ー 昭和の電車 改訂版(130)ー札幌市電A830型ー 昭和の電車 改訂版(105)ー富士身延鉄道モハ100型ー 昭和の電車 改訂版(77)ー江ノ電500系ー 昭和の電車 改訂版(50)ー山陽電鉄2012号ー 昭和の電車 改訂版(35)ー広電市内線152号ー 昭和の電車 改訂版(30)ー東急電鉄5000系ー 昭和の電車 改訂版(5)南海電鉄11001系
修学旅行であおぞら号に乗って伊勢に行きました。乗車位置は中間車の車端の座席で妻面側かドア側か覚えていませんが3人掛けでした。クロスシートは二人掛けだと思っていたので、無理矢理3人に押し込まれたかと思っていたのですが3人掛けになっていたのですね。帰りはロングシートの電車でした。これがまたよく走りました。みんな赤福を買って帰るのですが、商売でもするのかと思うほどたくさん買っている子もいました。行きも帰りも上本町からでしたが学校からは観光バスで駅への移動でした。なにぶん人数が多いので仕方ありません。 返信 ↓
写真だけですが、1981年5月三本松付近にて 乗ってみたかったです。非冷房なのは設計時代の社会なら学生は当然だったでしょうが、1980年代になると流石に露骨だと敬遠されたことでしょう。時代に取り残された編成でした。 返信 ↓
やっぱり利用した方がいたのですね。 伊勢と言えば「赤福餅」です。私の時代は鳥羽快速と「生姜糖」でした。 . あおぞら号が非冷房とは知りませんでした。なるほど時代からするとそうでしょうが、形を見たら冷房車と思ってしまいます。 返信 ↓
小学校の修学旅行は近鉄特急での伊勢志摩でしたが、残念ながら「あおぞら」号ではなく、所定の特急の混乗でした。往路では、先行の特急が踏切事故に遭い新田辺で打ち切り、上り線による単線運転で再開した新田辺~大和西大寺間と大和西大寺~大和八木間は普通列車に混乗、大和八木より専用特急を特発してもらえました。復路では、松阪付近でC57と並走し、個人的にはよい想い出の一つです。 添付写真は、二上~関屋間、1980年7月27日です。 返信 ↓
我々世代、京都市内の小学校の修学旅行は、ほぼ鳥羽快速と生姜板であったと思います。土産は事前注文で、生姜板の他、赤福餅とお福餅がありました。小遣いは上限300円でした。 山田(後の伊勢市)に到着すると、徒歩で外宮に行き、参拝後、神都線の電車で内宮に行きました。参拝後、再び電車で旅館がある二見に向かいました。電車は2両編成で、先頭車がトレーラー扱いの電動車を牽引するタイプがほとんどでしたが、片運のM+Mもありました。外宮や内宮に行ったことは全然記憶にありませんが、神都線の連結電車は、はっきり覚えています。 翌日は、二見浦から1駅列車に乗って鳥羽に行き、水族館と御木本真珠島を見学して、鳥羽から快速に乗ったのですが、客車は背刷りが板張りのオハ61でした。貴生川では、C11+オハ31+オハフ30の信楽行が停まっていました。 画像は、昭和40年2月28日、鈴鹿川橋梁の通過する最終日の鳥羽快速です。翌日から京都~鳥羽間の気動車準急「志摩」になりました。 返信 ↓
近鉄版修学旅行電車は、既に「2階建て電車で名を売った」同社が人生で記念の修学旅行を、その2階建て電車で印象付ける「粋な計らい?」だったのだろうか。 と、言うのは「修学旅行電車」は既に1959(昭和34)年に国鉄に話題をさらわれており、あえて言えば「二番煎じ」を隠す?ための「2階建て」だったのかも? ってな訳で、路線的にも縁の無かった小生は1枚の写真も撮っておらず、あえて修学旅行をコジツケれば、155系「ひので」「きぼう」と成ってしまう。 因みに小生の修学旅行は、神戸の国立小学校だったのに、伊勢神宮ではなく 関西汽船で四国・屋島/金比羅さん&小豆島でした。 返信 ↓
河さんが「きぼう」を投稿されましたが、こちらは昭和40年11月6日、京都駅5番線に到着する「ひので」です。 当時の時刻表を確認すると、品川発8時20分で京都着は15時55分でした。新幹線は開業していましたが、修学旅行では贅沢だと考えられていたのでしょう。 返信 ↓
藤本哲男様のコメント+写真によせて。 貴殿の「ひので」は前幌をぶら下げていますが「何故だろう?」と、この歳になってもついつい深読みのクセが・・・。 小生の「きぼう」は営業前のお披露目が大阪駅で有って、見学に駆け付けた時のものです。 この時大興奮で、配布された説明PRパンフレット(貴重)も同封してピク社に「押しかけ記事」を投稿したのですが、無視に近く、大切なパンフも戻って来なかった「ガックリ感」は未だに心の傷となっています。(笑) 修旅電車と言えば、あの鮮やか(派手?)な衣装が特徴でしたネ。 今一度「派手」を見たくてネガをひっくり返したら、「こまどり」しか出て来ませんでした。 そう言えば、167系の「わこうど」(だったかな?)も、この色で下関まで派手、派手を通したような。 古~い昔のお話しでした。 河 昭一郎 返信 ↓
修学旅行ではありませんが、上本町駅が企画した「あおぞら号で行く伊勢神宮初詣」というツアーで、晩年のあおぞら号に乗ったことがあります。寄る年波で窓の隙間風がひどかった記憶があります。一般成人の団体ツアーなので三人席も二人だったと思いますが、二人席は袖すり合って狭かったことでしょう。 修学旅行でお伊勢さんに参られた皆さんは、悪いことをしたらバチが当たるの世代の方々で、おかげで今も品行方正であられることでしょう。名古屋など東海地方の小学校もあおぞら号でお伊勢さんだったのでしょうか。 藤本哲男様 鳥羽快速の画像、懐かしく拝見しました。短い編成ながら青帯の二等車が連結されて格の上がった列車でした。足しげく加太の村田屋に通っていたときは、急行大和とともに鳥羽快速は良き題材でした。 返信 ↓
代、大阪の小学校は近鉄に乗って伊勢1泊2日の修学旅行でした。確か往路は上本町から一般車の貸し切りで復路があおぞら号でした。写真を撮っているはずなのですがネガが見当たりませんでした。多分昭和49年だと思います。アホだったので野球帽をかぶったまま窓から顔を出してしまい帽子を飛ばしてしまったことを覚えています。お土産は赤福かお福でしたね。圧倒的に赤福が多かったと思います。 修学旅行列車は2回ほどカメラに収めてますがなにせ小学校の頃にコンパクトカメラで撮影したので大したものではありません。 とりあえず、昭和49年にSL白鷺号が走ったときに姫路駅で撮った「友情」号の画像を載せておきます。粗い画像で申し訳ありません。 返信 ↓
修学旅行であおぞら号に乗って伊勢に行きました。乗車位置は中間車の車端の座席で妻面側かドア側か覚えていませんが3人掛けでした。クロスシートは二人掛けだと思っていたので、無理矢理3人に押し込まれたかと思っていたのですが3人掛けになっていたのですね。帰りはロングシートの電車でした。これがまたよく走りました。みんな赤福を買って帰るのですが、商売でもするのかと思うほどたくさん買っている子もいました。行きも帰りも上本町からでしたが学校からは観光バスで駅への移動でした。なにぶん人数が多いので仕方ありません。
写真だけですが、1981年5月三本松付近にて
乗ってみたかったです。非冷房なのは設計時代の社会なら学生は当然だったでしょうが、1980年代になると流石に露骨だと敬遠されたことでしょう。時代に取り残された編成でした。
やっぱり利用した方がいたのですね。
伊勢と言えば「赤福餅」です。私の時代は鳥羽快速と「生姜糖」でした。
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あおぞら号が非冷房とは知りませんでした。なるほど時代からするとそうでしょうが、形を見たら冷房車と思ってしまいます。
小学校の修学旅行は近鉄特急での伊勢志摩でしたが、残念ながら「あおぞら」号ではなく、所定の特急の混乗でした。往路では、先行の特急が踏切事故に遭い新田辺で打ち切り、上り線による単線運転で再開した新田辺~大和西大寺間と大和西大寺~大和八木間は普通列車に混乗、大和八木より専用特急を特発してもらえました。復路では、松阪付近でC57と並走し、個人的にはよい想い出の一つです。
添付写真は、二上~関屋間、1980年7月27日です。
私は関先生と同じ2200系(車内での記念撮影があります)で、
お土産は皆さんと同じ「赤福」と「生姜糖」でした。
我々世代、京都市内の小学校の修学旅行は、ほぼ鳥羽快速と生姜板であったと思います。土産は事前注文で、生姜板の他、赤福餅とお福餅がありました。小遣いは上限300円でした。
山田(後の伊勢市)に到着すると、徒歩で外宮に行き、参拝後、神都線の電車で内宮に行きました。参拝後、再び電車で旅館がある二見に向かいました。電車は2両編成で、先頭車がトレーラー扱いの電動車を牽引するタイプがほとんどでしたが、片運のM+Mもありました。外宮や内宮に行ったことは全然記憶にありませんが、神都線の連結電車は、はっきり覚えています。
翌日は、二見浦から1駅列車に乗って鳥羽に行き、水族館と御木本真珠島を見学して、鳥羽から快速に乗ったのですが、客車は背刷りが板張りのオハ61でした。貴生川では、C11+オハ31+オハフ30の信楽行が停まっていました。
画像は、昭和40年2月28日、鈴鹿川橋梁の通過する最終日の鳥羽快速です。翌日から京都~鳥羽間の気動車準急「志摩」になりました。
近鉄版修学旅行電車は、既に「2階建て電車で名を売った」同社が人生で記念の修学旅行を、その2階建て電車で印象付ける「粋な計らい?」だったのだろうか。
と、言うのは「修学旅行電車」は既に1959(昭和34)年に国鉄に話題をさらわれており、あえて言えば「二番煎じ」を隠す?ための「2階建て」だったのかも?
ってな訳で、路線的にも縁の無かった小生は1枚の写真も撮っておらず、あえて修学旅行をコジツケれば、155系「ひので」「きぼう」と成ってしまう。
因みに小生の修学旅行は、神戸の国立小学校だったのに、伊勢神宮ではなく
関西汽船で四国・屋島/金比羅さん&小豆島でした。
河さんが「きぼう」を投稿されましたが、こちらは昭和40年11月6日、京都駅5番線に到着する「ひので」です。
当時の時刻表を確認すると、品川発8時20分で京都着は15時55分でした。新幹線は開業していましたが、修学旅行では贅沢だと考えられていたのでしょう。
藤本哲男様のコメント+写真によせて。
貴殿の「ひので」は前幌をぶら下げていますが「何故だろう?」と、この歳になってもついつい深読みのクセが・・・。
小生の「きぼう」は営業前のお披露目が大阪駅で有って、見学に駆け付けた時のものです。
この時大興奮で、配布された説明PRパンフレット(貴重)も同封してピク社に「押しかけ記事」を投稿したのですが、無視に近く、大切なパンフも戻って来なかった「ガックリ感」は未だに心の傷となっています。(笑)
修旅電車と言えば、あの鮮やか(派手?)な衣装が特徴でしたネ。
今一度「派手」を見たくてネガをひっくり返したら、「こまどり」しか出て来ませんでした。
そう言えば、167系の「わこうど」(だったかな?)も、この色で下関まで派手、派手を通したような。
古~い昔のお話しでした。
河 昭一郎
修学旅行ではありませんが、上本町駅が企画した「あおぞら号で行く伊勢神宮初詣」というツアーで、晩年のあおぞら号に乗ったことがあります。寄る年波で窓の隙間風がひどかった記憶があります。一般成人の団体ツアーなので三人席も二人だったと思いますが、二人席は袖すり合って狭かったことでしょう。
修学旅行でお伊勢さんに参られた皆さんは、悪いことをしたらバチが当たるの世代の方々で、おかげで今も品行方正であられることでしょう。名古屋など東海地方の小学校もあおぞら号でお伊勢さんだったのでしょうか。
藤本哲男様
鳥羽快速の画像、懐かしく拝見しました。短い編成ながら青帯の二等車が連結されて格の上がった列車でした。足しげく加太の村田屋に通っていたときは、急行大和とともに鳥羽快速は良き題材でした。
代、大阪の小学校は近鉄に乗って伊勢1泊2日の修学旅行でした。確か往路は上本町から一般車の貸し切りで復路があおぞら号でした。写真を撮っているはずなのですがネガが見当たりませんでした。多分昭和49年だと思います。アホだったので野球帽をかぶったまま窓から顔を出してしまい帽子を飛ばしてしまったことを覚えています。お土産は赤福かお福でしたね。圧倒的に赤福が多かったと思います。
修学旅行列車は2回ほどカメラに収めてますがなにせ小学校の頃にコンパクトカメラで撮影したので大したものではありません。
とりあえず、昭和49年にSL白鷺号が走ったときに姫路駅で撮った「友情」号の画像を載せておきます。粗い画像で申し訳ありません。