昭和の電車 改訂版(147)ー京阪1700系ー

この電車に関しては、1900生さんと無印不良品さんに一言言って欲しいものです。
また、登場時の車番に関して湯口先輩からの解説がありますのでご覧下さい。
京阪1708+1758/1709+1759

なお、当時の京阪CMソングは『♪じりりんピリピリポーポ』でした。

昭和の電車 改訂版(147)ー京阪1700系ー」への18件のフィードバック

  1. 待ってました、ついに1700の登場ですね。しかしながら、ご指名ではございますが、小生、実は1700の特急時代は殆ど記憶が無く、したがって乙訓の長老さまや湯口さまほかの大先輩の解説や写真によってしか知り得なかったのが正直なところです。よって残念ながら通勤車への格下げ以降くらいからしか記憶になく、1700については1800・1810を経て1900系に至る、京阪特急の基礎を築いた名車であった、という知識しかありません。その意味では関先生のご解説は要を得て充分だと思っています。
    とはいえ知らぬ存ぜぬでは米手作市さまからお叱りを受けますから、例によって想い出話でご勘弁頂くことにしたいと思います。
    1700には車掌としても乗務したことはありますが、当時は既に3扉通勤車に改造後で、さらに1800と7連を組んでいたため、これといって記憶に残るような車ではありませんでした。それより同車の京阪としては容量の大きかった吊り掛け駆動(走行)音に魅せられていました。昭和57年頃かと記憶しますが、社内の鉄チャンと録音して残しておこうということになり、私市→1300→枚方市、萱島→1700→淀屋橋という行程で往復したことがありました。たまたまドア近くに座って録音していたところ、途中駅から乗ってきた社員に見つかり、慌てて人差し指を口に当てて十字を作り「しー!」と合図を送り、次いで膝上のテレコを指差しして事なきを得たことがありました。「何してはりますねん!」などと叫ばれたら、それまでの苦労が水の泡になりかねませんからね。国鉄時代の旧客や旧国と異なり、ロングシート車での録音は駅弁を食べるのと同様、やりにくかったですね。つまらぬ想い出話でお茶を濁しました。

  2. 京阪1700といえば私にとっては思い出の天津閣スープ付き焼き飯を先輩のTさんにおごってもらうことになった1700+1800の7連の模型です。すでに解体されましたが、貴重な台車が残っていました。1モーターでKさんの82が登らなかったレイアウト(伝説のDRFCレイアウトで行方不明になった)の勾配を登ったのでおごってもらいました。ただし、ウォームギアを使わずにベルト駆動が条件です。徹底した軽量化と動力車は4軸とも動力を伝えることで可能となりました。もちろん床下機器も取り付けます。これについてはO君から技術導入した石膏製で軽量化とコスト削減、床板と屋根はもちろんペーパー製です。車軸に動力を伝えるベルトは小さい輪ゴムでした。そして塗装は一乗寺にあったO君の車両工場でフマキラーの殺虫噴霧機のようなものでシュシュと吹付です。色はO君が混ぜ混ぜして調合。なかなかいい色でした。静かな走行音で何とも言えない継ぎ目のカタン、カタンが印象的でした。京阪1700といえばいつも思い出す50年ほど前の話です。写真はその台車で、車軸には筆の軸を使ったベルトドラムが付けています。竹製ドラムには「面相」という文字が読み取れます。

  3. どですかでんさま、「焼き飯付きスープ」ですよ。あのスープの量はただ事ではありませんから、私とプルプルさんはそう呼んでおりました。それを食べながら烏丸今出川を行き交う市電を見るのは至福のひと時でした。
    噴霧器はフマキラーでしたか。小生は金鳥のを使っておりました。
    1~2両なら鼻歌交じりでしたが、数両以上位になると腕が疲れて段々能率が下がりました。最近のJR西の地域単色の動機が理解できますね。
    ベルト駆動は小生も考えましたがモノになりませんでした。実現されたとは素晴らしいですね。面相筆の軸とは思いも付かなかったアイデアです。
    Kさんの82は平坦線ではよく走ったのに登り切れませんでしたか。そういう場合は誰かさんのEH10を切り離し、「EH(D?)5」として82の補機にするのですよ。我々の時代は実際そうして遊んでいましたから。82ではありませんが、奥羽線の181は補機付きでした。

    • そうか、そうだったのか!
      JR西日本の113系抹茶坊主がフマキラー手押しポンプで塗装されていたとは!!

    • 1900生さん、そうでしたね。あれはたしかに焼き飯はおまけみたいでしたね。スープでおなかがいっぱいになったような気がします。噴霧器(これは機ではなく器ですね。文字の使い方が間違っていました。)はフマキラーも金鳥もありましたが、私はそんな高級なものは持っていなかったので一乗寺の車両工場に発注しました。EVEに間に合うようということで泊まり込んだように思います。それはそうと本物の1700は乗り心地が良かったので選んで乗っていた記憶があります。外観も3扉になっても風格がありました。京阪でも好きな電車のひとつでした。

  4. 1700系の登場はまさに衝撃的でありました。
    まずはその色合い、近年まで続いたあの特急色、初めて見たときは鳩マークとともにパーっと花が咲いたような強烈な印象を受けました。
    しかしながら私も沿線には住んでいなかったので、1900生さん同様 特急時代の思い出は残念ながらあまり持ち合わせていません。
    (3000系の収納式の補助いすが装備されるより前は)折り畳みのパイプ椅子が扉付近に数台ずつ配置されていたのと、ラッシュ時はそれでも足りないのでお客が勝手に持ち込んだハンディな折り畳み式の椅子が使われていた記憶があります。(いずれも七条~京橋間で使用)

    私が運転士をしていた1966年(昭和41年)12月~翌67年11月の間のハナシ。
    1700系は通勤車に格下げ後も時には急行で運用されることもありましたが、さすがに元特急!と思わせる軽快な走りでした。空気バネ特有のちょっとフアフアした乗り心地で、ブレーキはよく効いたと思っています。(新米の頃、効きすぎて手前で停めてしまったこともありました)
    今は高架となっている門真~大和田間などは府道と並行するため踏切も沢山ありましたが、そのほとんどは踏切保安員が遮断棒をおろす「第2種踏切」ですがこれには警報器がなく(保安員の居る小屋の中には保安員用に小さいものはある)、踏切保安員が小屋を閉めて帰ってしまうと遮断機も警報器もない無人の踏切になってしまいます(今はこの「第2種踏切」は全国的に全廃されたようです)。その頃の踏切保安員の配置時間は20時かせいぜい21時まででしたから、それ以降は住宅街の中を警報器も何もない連続の踏切を突っ走ることになり、その頃の1700系は昇圧前の600Vでしたからノッチを力行位置に入れると前照灯がほの暗くなり、雨や雪の時はただでさえワイパーの性能もあまりよくなかったので急行の時などはほとんど前が見えないまま警笛だけを踏み続けてやけくそで走ったこともありました。
    また(三条~七条間の地平時代)1700系の下り淀屋橋行き急行を担当したある日のこと。七条で昭和天皇が通るため5分ほど停められたことがありました。発車後は前も空いている(退避列車は先行している)ので、カーブの制限速度もやや上回り気味で複々線区間ではノッチを入れっぱなしでかなりすっ飛ばしたら、淀屋橋ではかなり遅れを取り戻していました。てっきり褒めてくれるかと思っていたら、運転指令室からの電話で「どんな走り方をしとんねん!」とお叱りをうけました。
    今回もあまり本質と関係ないことばかりでゴメンナサイです。

    • 無印不良品さん
      私は1700の記憶はありませんが、パイプ椅子が戸袋前に置いてあったことは覚えています。あれが1700系だったのですか?それとシューシューうるさい空気バネ台車もありましたね。

    • 無印不良品さま 米手作市さま
      運転関係のエピソードをご披露戴き有難うございました。補助イスは1900までありましたね。出入口傍の戸袋前に立てかけてあったのですが、これが実によく倒れるのです。当時特急の車内巡回は2回でしたが、毎回数脚は引き起こして立て直したものでした。巡回時に何故倒れるのか観察したところ、京阪特有のカーブで倒れるのではなく、カーブ前の減速ブレーキによって倒れることを発見したものでした。ですから荒っぽい運転士の場合ほど倒れる脚数が多かったように見受けました。
      踏切警視の早じまいは初めて聞く話ですが、恐ろしい話ですね。徐行のための余裕時分がみてあるわけでもないため、まさにヤケクソ運転にならざるを得なかったのでしょうね。よくぞご無事でした。

  5. 皆様
    私は特急色の1700を知らない世代で、3扉各停でお世話になりました。500や1000,1300ではなく1700が来るとうれしかったことを思い出します。昭和44年11月9日、競馬のある日に淀方面に行った際の、臨時列車です。ヤケクソ運転ではなかったと思います。

    • 西村さまの写真を見て、今更ながらなのですが、増設の中間扉だけ両開きだったのに気づきました。一昨年だったか、和歌山電鐡に行ったら、旧南海車で同じく1輌で片開き、両開きの両方を備えた電車が走っていて、へぇ~と思いました。この組合せ、関東では見ない気がします、

  6. 手元に、撮り人知らずで、なぁ~んにもデータなしの困った写真があります。お見せする程のものではないような気もしたが、ちょうど関先生の絵と同じ1703号ですので、貼っておきます。この写真では、鳩マークの特急標識になっています。小生が注目したのは、側引戸の直ぐ脇に掲出されている「特急」サボ、これは中々の親切ではないでしょうか。慌てていると、各停のつもりで、急行や特急に乗ってしまう失敗は、誰でもあるのでは? この場所なら、目の高さにあり、注意を惹きますね。サスガ京阪!、と申し上げておきましょう。

    • 宮崎繁幹さま
      お久しぶりでございます。貴重な写真を有難うございます。四条の踏切も懐かしい光景です。「特急」標識に目を付けられるとは、中々鋭い観察眼をお持ちですね。この標識は1900系まで付いていました。1700・1800の時代は結構特急以外にも運用されていましたから、仰るように誤乗を防ぐ意味もあったと思います。中々親切とお褒めの言葉を戴きましたが、実はこれが中々の厄介ものでした。夜更けの淀屋橋駅に着いた特急が寝屋川車庫へ帰区する際、回送・普通萱島行・同守口市行と数パターンがありましたが、回送以外はこれを裏返しにして車体色と同じ色になるように、キメ細かな?サービスをやっていました。ところが折返しのたかだか4~5分の間に1両4枚×6両、都合24枚を裏返さなければならなかったのですが、担当乗務員だけではとても出来るものではありませんでした。折返し普通の担当はもちろん、到着特急から降りた乗務員、更にはホーム監視の助役等が加わって大急ぎでひっくり返しますが、標識の寸法が凹形の外枠に対しキッチリ作ってあるため、真っすぐ上に押し上げないと途中でつっかえて動かなくなってしまうのです。さあこうなったら押してもダメなら引いてもダメで、四苦八苦のうちに発車時間になって慌ててドアを閉める仕儀と相成ります。乗務初期の頃は随分これに泣かされましたが、実はちょっとしたコツがあり、先輩車掌から教わってようやく馴れることができました。ガッと噛み込んで二進も三進もいかなくなると掌で標識板を思い切りバーンと叩くのです。そうすると大抵の場合ストーンと落ちて振り出しに戻りました。もう一つのコツはなるべく最後尾以外の前方車両から始め、時間切れになった場合には北浜・天満橋・京橋と停車の度にホームを走って後部車の標識をひっくり返すのでした。
      古き良き時代の作業でした。

      • 1900生さま 貴重な経験談をお聞かせ頂き、有難う存じました。思いがけないところに、御苦労がありましたね!

  7. 子供の頃大阪市の端くれの京阪複々線のそばで育った者にとって、特急は眺めはしても乗るのは無縁の存在でした。ただたまに京都へ遊びに連れてもらった際、天満橋まで出て特急に乗ることがあり、私にとって貴重な機会でした。

    淀屋橋延長の前年頃だったでしょうか。当時の1700系は1701Fと1702Fのみがクロスシートで、他の7本はロング(うち1706F以降は緑濃淡の一般色)でした。その頃一度天満橋~三条間を特急で往復したことがあります。往きは1810系で唯一の三条向き片運転台の偶数番号車1820(のち1900系に編入され1911と改番)に乗りましたが、帰りに三条駅に着くと、停まっていた特急は1804+1881+1803+1754+1704の5連。特急色ながらすべてロングシート車で、何でこんな真昼間の定期特急がオールロングか、と泣きたくなる気分。両親にゴネて20分後の特急を待って乗ったのが、確か1751でした。20分待っても最古参の車か、とツキのなさを感じましたが、翌年1900系が入ると当然のごとくロング化されたので、まさに「一期一会」の貴重な体験ではありました。ただ実際は待ちくたびれたせいか車中で寝てしまい、気づいたら守口を過ぎ複々線に入ったところでした。

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