昭和の電車 改訂版(244)ー国鉄モハ52型ー

子供の頃に、“流線型”といえば、このモハ52とC55でした。ところがどちらも見たことがありません。飯田線にいたことがあるようですが、これも知りません。

⇧ 菱屋の藤田さんのコレクションからお借りしました。晩年のモハ52です。

⇧ 先日惜しくも逝去された中村進一氏のコレクションからお借りしました。阪和線時代のモハ52。

昭和の電車 改訂版(244)ー国鉄モハ52型ー」への28件のフィードバック

  1. 流電とは、新春に相応しい御題のように感ぜられます。宮松コレクションに新旧の並びがあったので、ご覧に供します。撮影者不明ですが、データは付いておりました。昭和12年4月10日、場所は吹田工場です。車番が読めませんが、輌数が少ないから、見る人が見れば、何番かは直ぐにお判りになるのでは?!中間車が抜いてあるようです。撮影用に敢て、そうしたものでしょうか。

    • 宮崎繁幹さん、
      新旧の比較写真、ありがとうございます。
      どちらが新で、どちらが旧か分かりませんが、私は「パンダカラー」の右側がスキです。

  2. 中部天竜に到着するクモハ52004先頭1225M辰野行です。
    豊橋発12時37分、辰野着21時34分、辰野21時59分発、256M最終飯田行で折り返し飯田着0時02分、翌朝5時36分発、642M豊橋行で発車して豊橋着10時17分でした。

  3. 昭和50年1月2日、下地~小坂井間、クモハ52004先頭の4両編成です。

  4. 昭和48年7月28日、豊橋駅、狭窓のクモハ52002先頭の4両編成です。
    昭和25年8月から9月にかけて80系が配置されたことにより阪和線に転属しましたが、ここも昭和32年に70系が配置されたことにより、飯田線に転属して昭和53年まで使用されました。

  5. 昭和50年1月2日、クモハ52004とクモハ53008、名優の並びです。

    • まさに名優並びの素晴らしい光景ですが、脇役の北アルプス間合いのキハも渋いですね。
      52004の前面センターの縦の青塗装がありませんが、工場で塗り忘れたのでしょうか?何となく縦のラインがある方がひきしまる感がします。 

  6. 皆様ご存じのように、吹田工場にモハ52001が保存されています。宮崎様の画像同様架線はありません。1981年6月27日に撮影しました。据え付けられて間もない頃だと思います。それまで、吹田駅から歩いて、東海道本線沿いの職員通路を入ったすぐの所にシートで包まれて留置してありました。そこを通った時に、床下を覗いてみたらモーターが見えましたので、電車であることはわかりましたが、まさか流電とは思いもよりませんでした。
    その後、上屋が設けられ、保存環境は良くなりましたが撮影には邪魔です。

    • 乗務員扉は埋め戻し、復元されたのですね。これで側引戸をプレスドアから、オリジナルの木製に取り換えれば、完璧では!!

  7. 飯田線温田での合宿の時に、「鉄道ファン」で金野駅の写真が気になっていたので訪れました。行ったのは私だけだと思います。無人駅なので一人では寂しい限りです。ED18の貨物列車とかいろいろ撮りましたが、一番気に入っているのが山からひょっこり出てきたクモハ52です。ネズミが山にある巣穴からひょこっと出てきたようでなかなか、可愛らしい感じです。突然出てきたので焦ってシャッターを押したのでぶれてしまいました。そこは必殺画像処理でそれらしく見られるようにできたではないかと自己満足しております。

    •  「ネズミが山にある巣穴からひょこっと」とは言い得て妙ですね!さすが・・・
       しかし、こんな山の中に一人で行かれたものですね!
       良い写真を撮ろうという思いが、寂しい気持ちを打ちのめしたことと推察しますが・・正直一人での山は不気味でしょうから!どですかでんさんの強いプロ意識ですね!
       力強い光と濃き緑、夏の息吹?を感じます。

      • いつかは訪れたいと思っていた駅です。JR東海のHPによると「金野駅」の読み方は「きんのえき」ですが、地理院地図で見ると駅から登っていく道の先にある集落名が「こんの」とふりがながありました。地名からは「こんの」ではないかと思います。写真はその金野集落へ登っていく道の途中から撮りました。シャッターを押す位置が狭いので緊張してシャッターを押すのでつい力が入ってぶれてしまいました。写真を撮り始めて間もない頃なのでとにかく大胆な写真が多く、BOXで写真を披露するとまた変な写真を撮ってくると言われたものです。ブレをごまかすためにコントラストを強く画像処理したので、それが光線が強く、夏の深緑が表現できたのではと思います。お蔵入りしていた写真がデジタル技術でよみがえったのは良かったです。

        • どですかでん さま
          金野へ行かれたのはお一人ではなかったですよ。私も連れてってもらいましたよ。記憶が定かではないのですが、他にも一人二人居られたように思います。
          この温田の合宿にはOBとして参加させて貰いました。金野へ行かれるというのでご一緒しましたが、何故か温田駅を通過するED18の貨物を8㎜で撮っているのに電車は撮っていません。この時に52を見た記憶も現在では飛んでいます。後々まで残ったED18より52を優先すべきではなかったかと後悔しています。
          合宿後はS方さんと小海線へC56を撮りに寄り道しています。

          • 1900生様 ご無沙汰しております。金野へは私1人ではなかったのですね。これは失礼いたしました。青信号27号に書かれてある合宿参加報告を読んでみると1泊2食700円のYHにするか、800円の旅館にするかで相談し、結果、800円の旅館にしたようです。翌日は朝食後、全員同じ電車で天竜峡方面に行ったようです。金野駅で下車した人があることが書かれています。1900生さんの言われるようにご一緒したことがわかりました。時がたつとメモリ素子が劣化してデーターが消えていくようで困ったものです。これだと石版に文字を刻んで残すしかありませんね。

  8. 先に井原様がアップされていました。大変失礼しました。削除が出来ないので、近況ということでご勘弁を。その代わりとは言ってなんですが、名古屋にいる4番の佐久間レイルパーク時代のものを貼っておきます。1990年の7月でした。

  9. 平成9年7月27日に吹田工場が一般公開された時、車内を写していました。戦前の国電を全く知らず、客車を思わせる照明や座席が印象的でした。

  10. モハ52001の運転室付近のアップです。右側最前列の座席に座れば、スピード感あふれる展望を楽しめたことでしょう。

    • 紫の1863様
       車内がどうなっているのかなと思っていましたところグッドタイミング!!
       有り難うございます。
       色合いといい、窓の具合といい良い雰囲気ですね。
      仰る通り、運転室の横は特等席ですね!!!
       今年もよろしくお願いいたします。

       

  11. 1978年9月15日、クモハ73106東ウラさんと1泊旅行で飯田線に行った時に撮影したものです。場所は三河槇原で臨時電車中部天竜発豊橋行き奥三河号9622M列車で前からクモハ52001・サハ48021・サハ48024・クモハ42011です。サハ48は宇都宮運転所からの転属車です。

    • 準特急 さま
      小生もその頃にこの奥三河号を撮りに三河槇原へ出かけたことがありました。京都から豊橋まで新幹線こだま号で行き、奥三河号の1本前の電車に乗り換えて迎え撃つ予定でした。しかし何故かこんな時に限ってこだまが遅れ、乗換時間がギリギリだったため前の電車に乗り遅れ、仕方なく撮るつもりだった52の最前方席でロケハンしながら向かいました。
      ところが普通なら撮れないハズの奥三河号が撮れてしまったのです。その顛末ですが、途中三河大野で交換のため8分停車することになり、突然バスかタクシーで先回りできないかと思いつき、ダメ元で飛び降りてしまいました。バスやタクシーの情報は全くなく、駅を出て国道へ向かって走っていた(なぜ走ったのかよくわかりませんが、先述の金野で撮れなかったので、撮りたい一心から槇原に先回りできるかのような衝動に駆られたのかもしれません)時に偶然にも個人タクシーを見つけたのです。清掃中の人に聞くと直ぐ出られるというので、無事槇原へ先回りして下り奥三河号を撮ることが出来たという訳です。この時ばかりは本来の撮影に加え、大野まで52に乗るという幸運に感謝するとともに、日頃の行いの良さの結果だとしみじみ思ったものでした。
      ところでこの上りは何処から撮られたのでしょうか。槇原から湯谷へのカーブから直線に入った辺りかと推測しますが、やや俯瞰気味に撮られてますので、対岸辺りからでしょうか。記憶では竹藪で撮れそうなポイントは無いように見受けましたが。
      因みに小生は槇原のすぐ西方、短いトンネルを抜けて湯谷へカーブする対岸の、テラス状に整備された親水公園辺りからやや仰ぎ見るアングルで撮りました。

      • 1900生様
        慌ただしい撮影記ですね。若き日の1900生さんを思い出しました。メモには三河槇原とありますが、川が右にあり、クモハ52がやや左にカーブしているので駅を出てすぐ柿平側に歩いてすぐのあたりで撮ったと思います。ここも有名な撮影地のような気がします。湯谷で17時25分のクモハ54112を撮っていますので湯谷で泊まったのではないかと思いますが、何れにしても一緒に行動した記憶力の良いクモハ73106さんがデジ青を見ていれば答えてくれると思います。なお、この日と翌日はクモハ52の広窓も含めてかなり収穫がありました。

        • 呼ばれたようですので、コメントさせていただきます。
          準特急先輩の写真は確かに三河槇原~柿平間で撮影されたものです。
          その日は湯谷温泉に宿泊しました。
          翌朝、朝食前に宿至近の線路脇でクモハ52を撮影しております。雨が降りしきる中、傘をさして、特に準特急先輩におかれましては宿の浴衣姿のまま撮影されましたので、当該列車の運転士から飛び込みではないかと疑われ??、警笛を鳴らされたのを良く覚えております。
          湯谷のあとは、豊橋鉄道で電車や貨物列車~軌道線を撮り帰宅しました。
          写真は、警笛を吹鳴された列車です(笑)。

          • クモハ73106東ウラ様 準特急さま
            撮影場所の情報を有難うございました。槇原の直ぐ東に確か赤い色の橋が架かっていましたが、橋からだとやや俯瞰気味のアングルも納得できました。
            槇原の東側へも行ったことがありますが、線路沿いで、対岸へ渡ったことはありません。橋から撮ることも考えましたが、もし撮っておればこういうのが撮れたのですね。
            小生が徘徊した頃は、52は日中小坂井の側線でお昼寝していることが多く、もう滅多に撮れなかったですね。

  12. 由緒ある流電の(ク)モハ52とは殆ど縁が無く、立花駅最寄りに有った住居の目前を左右に横切る東海道線を毎日見ながらも、その記憶は殆どありません。それは「電車」に目覚めていない幼少期だったからの様ですが、唯一の記憶は或る時父親に同行して乗った「省線電車」が一瞬すれ違った「アイスキャンデー色」の電車で、窓下の赤い線が印象に残りました。
    それから程ない1950(昭和25)年8月29日には関西色の湘南型が「急電」として導入されたため、ストリームライナーとも言われた流線形の急行専用車は押し出されて、阪和線に転じました。
    幼少時の小生にとって阪和線は遠方で、訪問する機会も無く過ぎ、気付けば阪和線へのスカ形導入により、今度は遠く飯田線に「都落ち」。
    結局、小生がクモハ52と対面できたのは1965(昭和40)年10月16日に静トヨを訪問した時で、前方に大きく突き出した半円形のキャブには圧倒されたものでした。
    同線では、当初急行色としてスカ色(腰板部)と湘南色(窓回り)の折衷塗装で活躍し、後に添付写真の通り湘南色に改められました。

  13. 流電は中学生の時に友人と日帰りで豊橋まで見に行きました。当時はいつ来るのか情報もないので豊橋駅撮りしかできませんでした。こだまで日帰りでした。皆様の写真に比べると見劣りしますがとりあえず。

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