尾道鉄道キ61 ←近江鉄道←八日市鉄道カハ100←国鉄キハ40309←芸備鉄道キハ2 元来フォードA×2基装着だが 八日市入りの際コンチネンタル21R1基に改造代燃化 尾道では2枚折戸の乗務員扉が埋められ窓になっている 客扉は2枚折戸のまま 踏板を大きく張り出しているのは車体幅が2,200mmしかないため 妻窓中央が広いのもオリジナル通りだが ガラス節約で2つに割ってある この時点木部=窓枠や扉のニス仕上げは尾道独特
米手作市氏の誘い水に手もなく乗って、禿筆を以って、拙老には場違いも甚だしい尾道鉄道の拙い写真をご披露する。旧芸備鉄道ガソリンカー・キハ2の最終の姿、キ61だけをバッチリ撮って満足したのだが、まあ事のついでに、大して関心もなく電車も撮ったという程度の、いい加減も極まったものである。車両紹介も同様だから、乙訓ご老人のお出ましを頂き、修正加筆賜るのが当然である。遅滞なく義務を果されよ。
デキ11 元来デワ101~103なる電動貨車の103を第二次大戦直前に改造 台車はブリル79E 番号数字の間隔が広いのも尾道独特 エアタンクがひときわ目を引く
デキ12 やはりデワ102が電装解除しワ201となっていたものを再度電動客車化
デキ15 近江鉄道が1500V昇圧した際クハ化された加藤車輛製作所製電車 車体は三成庫で新製とされるがその実鋼体化で木骨鉄皮の可能性もあり 台車はオリジナルのリンケホフマン
尾道でのデキ16 田舎電車庫の手作りにしてはやたら手際がいいのは どこかの出張工事だからではあるまいか
デキ16 三成付近
デキ15+35 パンタとビューゲルを併用
デキ16 右バックの白壁は造り酒屋か
撮影は1958年3月12日と、同年7月23日。3月は九州への往路、7月は高橋弘氏と同行だったが、こっちは大阪21時28分発出水行夜行各停223レに乗車し、尾道着3時40分、高橋氏は京都22時40分発広島行準急307レで尾道着4時10分だったかと記憶する。2人合流して夜明けを待ち、下りあさかぜ、はやぶさを狙う。天気はよかったが何分狭いのがウリの尾道だから、撮影場所に恵まれず、ロクな写真は撮れなかった。
それから尾道鉄道の三成車庫に行き、その後井笠鉄道、西大寺鉄道にご一緒し、タカハシ写真館当主氏は仕事があり帰宅。気楽トンボの当方はそのまま三石でステーション・ホテリングし、三石-上郡間で列車を撮り、片上鉄道に寄って帰宅した。
デキ21 開業当時のデキ1が事故大破し水野造船で車体を新調 のち車体延長しボギー化した姿
デキ25 ←水間鉄道モハ55 広瀬車両1948年製 電装解除でサハ化されている
デキ35+15 三成
デキ35 宇部電気鉄道(600V)201が宇部鉄道合併、買収後1500V昇圧時廃棄され尾道へ 1930年日車製
デキ45 窓配置からは云わずと知れ各務原鉄道8→名古屋鉄道モ458が前身 半鋼改造されているが木骨鉄皮のニセ・スチールではあるまいか
開業時梅鉢鉄工場で新製されたデキ1~4のうち4が前身 台車はブリル79EX
自社で新製中のデキ71 台車はブリル27GE-1 これも実態はどこかの出張工事ではないか
そういえばほぼ半世紀前=1960年に京都鉄道趣味同好会会誌「急電」101号(私鉄レポート集=夏期別冊、表紙とも60頁)が出た。現役時代の我等DRFCメンバーが全部を執筆し、これでもかとばかり中国、近畿、東海、東北、北海道地区の私鉄車両レポート(夫々の内容は簡略だが)を書きまくった。謄写版(穴版)印刷だから、筆耕も若かりし乙訓老人と拙老との2人でほぼ全部やり遂げた。その中で、田口のキューさんが尾道をリポートしている。彼氏はその後消息を聞かないが、今どうしているんだろうか。ありとあらゆる印刷物をコレクションしていたが。
やっぱり出た!
昨日、特派員氏がきてこの話をしましたが氏曰く「この時代の話を詳しく知っているのは須磨の大老か乙訓の長老ぐらいちゃうか?尾道の奥の方は昭和32年頃に廃止になったいうから写真はないやろな」とのご託宣でした。しかしひょっとしてと思っていたらK.H.生の方からHPのご紹介をいただき拝見しました。
でも今日はそれ以上の詳細が大老の底なし沼から出てきて改めて当会の実力を見せつけられた様な気がします。じっくり見ると最近廃止された鉄道と違い車両に品格を感じます。粗末な作りですがよく手入れされていて、廃品同様に汚れ果てて廃止される今時の車両と比べてずいぶん幸せな生涯だったろうなと思えました。
望めるなら先に廃止された奥の半分の走行写真が見たい!
田口君との年賀状のやりとりは3.4年前に途絶えた。最終便には「中部空港に出入りするセントレアを病院の窓から見ている。」とあった。「会いたい!」とあったが、住所、病院名の記入なく見舞いは果たせなかった。7、8年前に鈴木君とひょんなところで逢った時、田口君が日本車両退職の経緯を聞いたが、趣味をそのまま継続することの難しさを知った。退職後は年賀状でその後の生き住まいの一端を知ったが、決して「てっちゃんを全うしていない生活環境」であった。勇気をもってがんばれ!と年1回、励ましの返事を出したが、その後は便りがない。
急電101号は懐かしい。1958年9月訪問時のメモを田口君に渡し、彼が帰郷した時に最新ニュースをキャッチしてもらった。半世紀前のDRFCの姿を思い出す素となったことがうれしい。山陽新幹線・新尾道駅下りホーム西端から下を見下ろすと、
谷底の川筋が認められる。このルートこそ尾道鉄道の旧線跡である。
三原の西村さん、老人も貴兄が大切にしている「尾道鉄道」の御本を見せてほしい。許可が得られるようなら、コロナの親父に当方から申し入れる。
介護師1号さん、復貸しに応じてください。ただし、許可が得られてからでOK。
京阪京都交通・東側町停留所からおんぼろバスでお伺いするからよろしく。
デキ21(デキ1復旧改造車)と最後のデキ71は初めて写真を見ました。
いつものことながら感服します。
路線延長の割に、保有車両数の多いのは(撮影時点でM13、T4(実質Tの25含む))は結構な趨勢です。
また三成(みなり)工場の建造能力の謎についても推理が進みました。
出張工事(ナニワ工機あたりか?)+瀬戸内は造船工場が昔から多く、当地方でも戦後の遅くまで木造船を造る能力に長けていました。大崎上島の木ノ江が有名ですね。
船大工系の技術者が戦後の車両不足時に電車も作ってしまったと推理するのは大胆すぎるでしょうか。
普通は電車の整備、保守で精一杯が普通の地方私鉄車庫ですから、面白い存在です。
あと写真のトップバッターにさりげなく元芸備のキハ2の流れを引くキ61を持って来るのが湯口さんらしい。本邦私鉄気動車ボギー車両のはしり、歴史的意義のある車です。
和歌山鉄道にも同系の片ボギーの方が行っていました。この路面電車用のような台車はオリジナルだったと思います。
塗色は大分交通に似た緑と薄いクリームのツートンカラー。
車両番号の表記に特色があり、サイドは小振りなゴチック体で普通ですが、正面には名鉄とも異なる化粧文字がやや大きく書かれており、これがいいアクセントになっています。
(デキ21は私鉄車両めぐりのグラフページに出ていました、訂正)
乙訓の先輩へ
「尾道鉄道」の本は田野城氏にお送りしましたので、どうぞ田野城氏から入手してください。又貸し自由です。いつか戻ってくればと思っています。本とともに私のわずかな資料(ときどき通りがかりに写した廃線跡写真など)もありますので ご笑覧を。
西村さん
快諾ありがとうございます。介護士1号さん、そのうちオンボロバスで伺います。
20年ばかり前、京都宝塚会館1階(元京宝映画劇場)が著名な書店をテナントにした頃、地方刊行物コーナーがあり月1回は必ず覗いていた。地方鉄道に関する書籍が時おり陳列され、購入したことがある。地方新聞社のコラムや記者執筆の連載物のまとめががほとんどであったが、新聞掲載のものだけに読み易かった。なかには趣味者からみると?となるものがあったが、それは車両に関するものが多かった。
さて、尾道の車体新造について、老人は三成車庫で質問したことがなく、どうだったかわからないが、土佐電と同様、地元の造船所系統のお世話になったものだろうと思う。しっかりした台枠さえあればなんとかなるとの話だ。いずれこんな話に言及することもあろうかと思う。
ところで哲男君、今阪急桂駅東口に集まる京阪京都交通の路線バスが面白いぞ。朝7~9時間に集まる登録番号だが、市バスはノンステップの番号台なのに京阪は何処の中古か分からないが、百花繚乱の光景を呈している。一頃、神戸市バスがよく見受けられたが、このところ見られなくなった。京都へ来たら一度お立ち寄りあれ。
米手作市さんから昨日預かりましたが、西村さんからの丁寧にパックされた本と自ら足を運んで集めた資料集でした。気まぐれで書いた投稿なのにこんなにしていただき汗顔のいたり、とは米手作市氏の弁です。
私も思っていた以上に立派な鉄道で、車両もなかなかのものでした。
湯口さんや沖中さんにもぜひ見てもらいたいと思っていたらチャッカリと手を回しておられたようでこちらもさすがと感心しております。
いつでもお渡しいたしますのでお出でをお待ちしております。